梔子ユメという少女は、アビドス高等学校において太陽のような存在だった。
いつもふにゃりと柔和な笑みを浮かべ、少し抜けたところがあり、後輩のホシノにすら危なっかしいと思わせるほどのお人好し。それが彼女のパブリックイメージであり、真実でもあった。
しかし、その内側には、一度火がつくと誰にも止められない、底なしの執念と異常なまでの集中力が眠っている。彼女は「楽しいこと」を愛するあまり、その楽しみを邪魔する不条理や困難に対して、無意識のうちに牙を剥く性質を持っていた。
それはアビドスの厳しい環境で生徒会長を務める彼女が持つ、生存本能に近い「静かなる狂気」だった。
午前6時。窓の外では砂漠の地平線が白み始め、不気味なほど静かな夜明けが訪れていた。ゲーム開始から実に10時間が経過している。
その間、2人は一睡もせず、食事も取らず、ただブラウン管から放たれる毒々しい光に身を焼き続けていた。
ホシノは椅子の上で正座したまま、彫像のように固まってコントローラーを握っていた。指先は連打のしすぎで感覚が消失し、目の隈は深い溝となって刻まれている。
対するユメは、ソファーに深く腰掛け、瞬き一つせずに画面を凝視していた。その横顔からは一切の感情が削ぎ落とされ、ただひたすらにキャラクターを操作する精密機械と化している。
沈黙を破ったのは、ホシノの喉から漏れた掠れた声だった。
「……あ、あの、先輩。そろそろ……用事があるのを思い出しました。柴関ラーメンの大将に、預かっていた備品の返却に行かなきゃいけないんです。ちょっと、失礼しても……」
ホシノがそう言って、腰を浮かせようとした瞬間だった。
ピタッ。
それまで滑らかに動いていたユメの指が、完全に停止した。彼女はホシノの方を見ない。口も開かない。
ただ、操作を止めた。その無言の圧力が、室内の空気を急速に凍りつかせる。
「(マズイ、マズイマズイマズイ! 今ここで離れたら、先輩の均衡が崩れる……!)」
本能的な恐怖を感じたホシノは、弾かれたようにスマートフォンを取り出し、震える指でダイヤルを回した。
「あ、大将!? すみません、今ちょっと……どうしても抜けられないアビドスの存亡に関わる重大な任務に就いてまして! はい、備品は後日! 本当にすみません!」
通話を切ると同時に、ユメの指が再び動き始めた。ホシノは冷や汗を拭いながら、再びコントローラーを握りしめた。彼女に逃げ場はなかった。
現在、画面の中に広がっているのは、お粗末な作りを絵に描いたような集落だった。
木材を適当に組み合わせただけの掘っ立て小屋が数軒。道とは名ばかりの、ただ踏み固められただけの土。
この『メトロポリス・ユートピア』は、あまりにも「リアル志向」という名の嫌がらせが過ぎた。
街を作るための業者への発注には、膨大な資金だけでなく、開発会社『フリーダム・フロンティア・スタジオ』のゲーム内実績に基づく「社会的信頼(コネ)」が必要だった。当然、初期状態の2人にそんなものはない。
資金を稼ぐ手段は、地道な日雇い労働のみ。画面内のアーサー市長とエレーナ秘書は、ひたすら「他人の家の壁塗り」や「排水溝の詰まり取り(手掴み)」といった過酷なミニゲームをこなし、1ドル単位の小銭を稼ぎ続けた。
さらに建築資材すら自力調達だ。広大なフィールドには資源が眠っているが、不用意に掘れば警察が飛んでくる。
私有地を避ける必要があるが、地図には境界線など一切記載されていない。
「……ユメ先輩。これ、どこを掘ればいいのか聞きに行かないとダメですね」
2人はゲーム内で数十キロメートル離れた隣町まで、徒歩で移動した。移動だけでリアルな時間が30分溶けた。
ようやく辿り着いた役所の窓口では、肥満体の職員がドーナツを食いながら「あー、担当が今昼休みだから2時間待て」というテキストを表示したまま動かなくなった。
本当に2時間待たされた後、出てきたのは「書類の形式が古い」という不備の指摘。さらに1時間の待機を経て、ようやく土地の権利関係が明らかになる。
しかし、私有地でなくとも勝手に掘ることは許されない。まずは土地を買えという話になったが、提示された金額は、日雇い労働数万回分に相当する「1,000,000,000ドル」というふざけた数字だった。
「……買うしか、ないんだよね、ホシノちゃん」
ユメの声は、地獄の底から響くような低温だった。彼女は迷わず、ゲーム内のサラ金からとんでもない利息の借金を背負い、土地を購入した。
借金返済の猶予を与える代わりに、役所から「住民の受け入れ」を強要される。
やって来た住民たちは、街づくりを夢見る善良な市民ではなかった。全身にどぎついタトゥーを入れ、タンクトップから筋肉をはみ出させた、どう見てもギャングの構成員にしか見えないならず者たちである。
彼らは家を与えられても感謝の言葉一つ吐かない。話しかければ、アメリカのB級映画のような煽り文句が、不快なSEと共に流れる。
「ヘイ、マヌケな市長さんよ! 俺様のケツを舐める準備はできたか? さっさとこの汚ねぇ街をマシにしやがれ!」
キャラクターは中指を立てるようなイラつく動きを繰り返し、煽り散らす。そして彼らが要求するのは、決まって「パシリ」だ。
「喉が渇いたな、10キロ先の山頂にある湧き水を汲んでこい。5分以内だ。遅れたらお前の秘書を土に埋めるぜ、ヘナ○ン野郎!」
さらに、探索中にも住民たちは奇行を繰り返す。
「Yeeeeee!!!! Haaaaaaaa!!!!」
突然叫びながら、ギャングの1人がユメの操作するアーサー市長に向かって全力疾走し、プロレス技のようなタックルをかましてくる。
そのまま市長の体にぐりぐりと自分の体を擦り付け、移動を妨害する。
ユメの手が、ピクッと止まった。
「(マズイ……! 先輩の逆鱗に触れる!)」
ホシノは即座にエレーナ秘書を操作し、市長に粘着する市民を剥がそうと割り込んだ。その瞬間、画面が激しくフラッシュし、専用のバトルBGMへと切り替わる。
突入したのは、コマンド入力すら存在しない「泥試合・乱闘モード」だった。武器の使用は禁じられ、エレーナ秘書が素手でギャングの顔面を殴打し、マウントをとって泥の中に顔を沈めるという、およそ街づくりゲームとは思えない醜悪な光景が繰り広げられる。
泥まみれの死闘を制し、ようやく勝利すると、ギャングは突如として態度を豹変させた。
「ハッハァ! 骨のある女だぜ。気に入った、今日からお前は俺のブラザーだ!」
馴れ馴れしく肩を組んでくるが、その目にはまだ狂気が宿っている。それでもユメは無言で操作を続け、ホシノもまた、壊れかけた精神を繋ぎ止めて彼女に追従した。
――ゲーム開始から24時間後。
画面の中には、ようやく「小規模な街」と呼べる空間が出来上がっていた。
ボロいガソリンスタンド、24時間営業の不潔なダイナー、そしてギャングたちがたむろする薄暗いアパートメント。総勢50名のならず者たちが住まう、荒野の無法地帯。
彼らは中盤からは「俺たちの縄張りを作るぜ」と妙な連帯感を見せ、ハンマーを振り回して街づくりを手伝ってくれた。
パッケージの美しい都市には程遠いスラム街のような光景。治安は最悪、借金は天文学的。
けれど、この24時間の地獄を駆け抜けた達成感に、ホシノの視界は潤んだ。
「……やった。やりましたね、先輩。私たち、本当に街を……」
だが、奇跡は残酷な悲鳴によって断ち切られた。
ギャオオーーーン!!!!
地響きが、スピーカーを、そして生徒会室の空気を震わせた。地平線の彼方から、砂塵を巻き上げて巨大な影が接近してくる。
それは、街にあるどのアパートよりも巨大な、恐竜型の怪獣だった。
画面が静止し、派手な演出と共にカットインが表示される。
【絶望を喚ぶ破壊神:デストロイ・オメガ・レックス】
身長:120メートル / 体重:8万トン
プロフィール:かつて銀河を滅ぼしたとされる伝説の恐竜型怪獣。特定の建築条件を満たした瞬間に飛来し、全てを無に帰す「ダイナミック・ディザスター」システムの執行者。好物は核廃棄物と市長の絶望した顔。
「……あ、あぁ……。パッケージに書いてあった……。ランダムイベント……」
ホシノが絶望に打ちひしがれる中、画面内のギャング市民たちが一斉に画面に向かって叫び出した。
「ヘイブラザー、そんな辛気臭い顔すんなよ! こういう時は、ヤツを呼ぶに限るぜ!」
彼らは空を見上げ、声を揃えて叫ぶ。
「「「「「助けて、プロポリマーーーン!!!!」」」」
その声に応えるように、空の彼方から青い閃光が飛来した。某ウ○トラのマンをさらに下品に、かつ筋骨隆々にしたようなデザインの巨大ヒーローが、着地の衝撃でダイナーを半壊させながら現れる。
【鋼鉄の独善ヒーロー:プロポリマン】
身長:無限(設定上) / 体重:測定不能
プロフィール:宇宙の秩序を守るためなら、守るべき街の破壊も厭わない銀河の治安維持局員。必殺技は、街のインフラごと敵を焼き払う『プロポリ・デストラクション光線』。戦った後の修繕費は全て市長の請求書に回される。
「プロッポオオオオオ!!!!(殺してやるぜ!!)」
プロポリマンは怪獣に突進した。だが、その戦い方は凄惨を極めた。怪獣を背負い投げすればアパートが粉砕され、必殺の光線を放てば街の半分が火の海と化した。
住民たちは逃げるどころか、燃え盛る街の中でBBQを開始し、ハッピーになれる草をふかしながら「ヒャッハー! 最高のエンターテインメントだぜ!」と、どんちゃん騒ぎを繰り広げている。
やがて、プロポリマンが怪獣の首を引きちぎって勝利を収めると、彼は街を一瞥することもなく、サムズアップを1つして空の彼方へ消えていった。
ブラウン管の中に残されたのは、ただの黒い焦土。街の成れの果て。
「……あ……あぁ…………」
ホシノは燃え尽きた。真っ白な灰になり、コントローラーを指からこぼした。
その刹那。
「ア゙ァ゙ァ゙ァ゙ァ゙ァ゙ァ゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ッ!!!!!」
人間の出すものとは思えない、飢えた獣のような咆哮が、隣から轟いた。
振り向いたホシノが見たのは、立ち上がったユメの姿だった。彼女の瞳からは光が消え、髪は逆立ち、全身からどす黒いオーラが噴き出している。
「ユ、ユメ先輩……!?」
ユメは返答しなかった。彼女は超人的な跳躍を見せると、閉まっていた生徒会室の窓ガラスを、サッシごと豪快に突き破った。
「シ、ネェェェェェェェエエエエ!!!!!」
そのまま校舎の外へと飛び出し、砂漠の向こう、地平線の彼方へと時速300キロ近いスピードで爆走していく。その後ろ姿は、もはや怒れる神そのものだった。
翌日。
ユメは、何事もなかったかのような、いつものふにゃふにゃとした笑顔で生徒会室に帰ってきた。
「ただいまー、ホシノちゃん。ちょっとお散歩に出かけちゃってごめんね?」
その手には、なぜかカイザー・コーポレーションの最高幹部の印章が押された、一枚の誓約書が握られていた。
「これね、途中で会った親切なスーツの人からもらったんだ。アビドスの借金を、今の1000分の1にしてくれるんだって。利子もいらないし、返すのは気が向いたらでいいって。不思議だねぇ」
ホシノは、ユメの拳にこびりついた、正体不明の「黒い油のような汚れ」と、遠くでカイザーの軍事基地が謎の大爆発を起こして煙を上げているのを見た。
「……先輩、何があったか、聞いてもいいですか?」
「うふふ、秘密だよ」
その笑顔の奥にある「何か」に触れてはいけない。ホシノは直感的にそう悟り、2度とその話題を口に出すことはなかった。
後に、ユメが卒業し、アビドスの歴史が積み重なっていっても、1つの掟だけは絶対的な「鉄の掟」として受け継がれることになった。
『アビドスOG、梔子ユメだけは、絶対に怒らせるな。彼女を怒らせないことに全神経を集中させろ』
砂漠の太陽が、今日もアビドスを照らす。
ホシノは、ゴミ捨て場に捨てられていた『メトロポリス・ユートピア』を、今度こそ、深く深く、2度と掘り返されない砂の底へ埋めたのであった。
ここまで見ていただきありがとうございます!
次回からはアンケートでお答えいただいた生徒のゲームプレイ話になります。
こちらは出来次第、投稿します。