「ホイミ……」
レックスの
応急処置としても心許ないが、それでも顔から溢れていた血はどうにか止まったようだ。
レックスは小さく息を吐き、そっと胸を撫で下ろす。
これで正真正銘、本当に空っぽだ。
もう自分には、欠片ほどの魔力も残っていない。
レックスはかすかに笑みをこぼすと、タバサの髪を一度だけ、そっと撫でた。
「さよなら……」
最後にそれだけを呟いて、レックスはゆっくりと振り返る。
その先ではエスタークが両腕に大双剣を構え、最初とまったく変わらぬ姿勢のまま、こちらを見下ろしていた。
――すべて振り出しに戻った。
ほぼ壊滅状態の自分たちに対し、あの怪物には消耗らしい消耗がまるで見えない。
額の『第三の目』は相変わらず虚ろな深淵だけを映し出し、そこに感情の揺らぎは存在しないようだ。
その三つ目を見返しながら、レックスはぽつりと呟く。
「さて……どうしたものかな」
もはやレックスは、自分が生き延びることなど考えていなかった。
もともとこの旅路は、周囲が止めるのも聞かず、自らの渇望に急き立てられて始めたものだ。
ここで野垂れ死んだとしても、まあ、自業自得と言えるだろう。
だけど、タバサは違う。
彼女はただ、自分につき合わされただけだ。
絶対に守りぬき、家に帰さなければならない。
たとえ、この命と引き換えにしようともだ。
最後の抵抗を前に、レックスの心を占めるのは、そんな悲愴な決意だけだった。
「……ん?」
そんな彼の視界の隅で、ふと何かが光を放つ。
近づいてみると、それは先ほど取り落とした『パパスのつるぎ』だった。
落とした拍子に、こんな所まで転がっていたらしい。
「…………」
レックスは剣を拾い上げ、その刀身に顔を寄せる。
よく手入れされ、鏡面のように磨き上げられた刃には、自分の顔がくっきりと映りこんでいた。
それを目の当たりにして、レックスは思わず苦笑を漏らしてしまう。
「……我ながら、酷い顔だね。
まるで
そんな言葉を口にしながら、彼の胸には妙な気まずさが広がりはじめていた。
まるで剣に、自分の
『勇者とは、最後まで決して諦めない者のことだよ』
そのとき、ひとつの言葉が彼の脳裏をよぎる。
それはかつて、父が――リュカが、レックスたちに語ってくれた言葉だった。
『だから僕も、そして
勇者を探すことを、決して諦めなかった。
だって、そうだろう?
決して諦めない勇者を求める僕たちが、絶望するわけにはいかないじゃないか』
「…………」
『その渇望が、僕の旅路を支えてくれた。
その夢想が、僕と
レックス、タバサ。
僕が君たちに出会うことができたのは、その心に――希望を宿していたからなんだよ』
レックスが勇者として使命を果たした後も、なお冒険を続けるにあたって。
『パパスのつるぎ』を相棒に選んだのには理由があった。
伝説の勇者を求めて、決して諦めることなく旅を続けた祖父――パパス。
過酷な宿命を背負いながら、なお運命に抗い続けた父――リュカ。
彼らのことを想えば、レックスの胸にはいつだって勇気が湧いてくる。
決して希望を手放すまいと、揺るがぬ決意が
魔王が倒され、『勇者』という存在が必要なくなった世界において。
『パパスのつるぎ』は、レックスが勇者の心を守り抜くための
「……絶対に、諦めたりするもんか」
エスタークを前に、レックスは剣を強く握りしめる。
その双眸にはもう、先ほどまでの諦念など一欠片も残っていなかった。
勇者とは、
そして、グランバニア王家とは、
その二つを背負う自分は、
そう在りたいと、レックスは夢見続けていた。
その焦燥こそが、彼をこの奈落の底まで導いた。
そして、その渇望がある限り、彼は決して諦めない。
焦燥や渇望を、希望へ転じる者こそが勇者。
そして、レックスは『天空の勇者』なのだ。
「……ぅ」
混濁する意識の中で、タバサはそっと目を開く。
その眼差しの先には、エスタークに対して『パパスのつるぎ』構える兄の背中があった。
異形の巨人を前に、傷だらけの身体で立つその姿は、あまりに儚く、あまりに危うい。
だけど、その
お兄ちゃんが立った。
それなら、もう大丈夫だ。
きっと何もかも、すべてを嬉しいものへと導いてくれる。
だって、そう。
彼は世界が誇る――希望の勇者。
そして、自分が世界に向かって胸を張る、自慢のお兄ちゃんなのだから。
「……バイキルト」
かすかな呟きとともに、レックスの背が淡い光に包まれていく。
それがいまのタバサにできる精一杯。
彼女が『お兄ちゃん』と『おにいちゃん』の二人へ送る、最後のエールであったのだ。
「…………」
エスタークは、眼下の勇者へ奇妙な感情を抱いていた。
これは何なのかとしばし考え、やがて怪物は、それが酷く懐かしい感傷であることに思い至る。
――恐れだ。
自分はいま、この死にかけの若者に対して、恐怖を抱いているのだ。
だって、この矮小が抱く渇望は。
この胸を焦がすそれより、ずっと気高く、遥かに雄々しい。
「――っ!」
それに対して、エスタークの取る選択はひとつだけだった。
今すぐ、これを破壊しなければならない。
この感傷はあまりにも懐かしく、新鮮で、そしてなにより不快に過ぎる。
エスタークは大きく腕を振り上げると、渾身の力を込めて、両手の大双剣を振り下ろす。
「…………」
迫り来る双刃を、レックスは静かに見つめる。
これを受け止めることなど、人間には不可能。
かわすことも、いまの自分には出来そうにない。
だから、レックスは祈った。
自らの血に流れる系譜に。
自分の内に眠る、偉大なる者たちに。
誇り高きグランバニア王家の血筋に。
祈りを込めて、『パパスのつるぎ』を高く掲げる。
「お祖父様……父さん……!!
どうか、僕に力を!!」
その希求に応えるように、『パパスのつるぎ』の刀身が黄金の輝きを帯びていく。
それはまるで、パパスやリュカ――歴代の王たちが、レックスの渇望を祝福し、加護を授けているかのようだった。
その手に掴むは、父祖の
心に宿すは、王の誇り。
グランバニア王家に代々引き継がれし
その真銘は――『
「どりゃああぁぁぁ!!」
エスタークの双刃が交差した、その中心を狙って、レックスは王者の剣を振り下ろす。
異形の怪腕によって振るわれた暴威と真正面から激突してなお、その刀身が折れることはなかった。
それどころか、黄金の輝きをまとった刃は、その邪悪を打ち祓うように怪物の巨剣を断ち砕いてみせたのだ。
「――!?」
砕けた刃先が宙を舞い、エスタークの三つ眼を大きく見開かれる。
レックスはその邪眼をまっすぐに見据え、剣の切っ先を呪われた
「終わりだ、怪物!!
その悪夢から、いま解き放ってやる!!」
金色の光が、剣からレックスの全身へと奔っていく。
輝きと一体になった天空の勇者は、その足で強く地を蹴り、黄金の
第三の目――禁忌の根源へと飛翔した。
「ぬおおおおおおーーーっっ!!」
一閃の光となった王者の剣は、エスタークの第三の目をまっすぐに貫き。
レックスはそのまま、自分が持ち得る全身全霊すべてをかけて、それを振り下ろした。
黄金の軌跡がエスタークの額から股下にかけて、その巨躯を両断していく。
あとに残るのは、剣閃の後を従うようにきらめく燐光のみだ。
グランバニア王家に脈々と受け継がれし王者の技。
祖父パパスが練り上げ。
父リュカが結実させて。
そしていま、勇者レックスが昇華させし継承の剣閃。
絶技――グランホーリーブレード。
勇者の不撓と王者の不屈を結晶させた、不撓不屈の必殺剣。
黄金の心に聖なる意志を宿したその一撃は、エスタークの異形を真っ二つに斬断していた。
「ゴゴゴッ……!」
怪物の左右に分かたれた断面から、無数の触手がどっと溢れ出す。
進化の秘法による再生の
たとえその身を粉微塵に砕かれようと、無数の触手が蠢き、絡み合い、その肉体は何度でも元の形へと修復されていく。
だが、触手がいままさに互いを繋ぎ合わせようとした、その刹那。
エスタークの体内が金色に発光し、冒涜の触手をその継ぎ目から焼き祓っていった。
王者の剣が纏いし聖光が、エスタークの体内深くへ入り込み、神経や血管を伝って、全身へと伝播していったのである。
「グゴゴゴゴ……ッッ!?」
エスタークの腕で、膝で、胴体で。
全身のあちこちで金色の光が瞬き、その肉体を内側から飛散させていく。
聖なる光は、進化の異形を祓い清め、それ以上の冒涜を決して許さない。
それどころか、秘法によって継ぎ接ぎされた細胞が分解され、作り変えられた肉体そのものを崩し、溶かしていった。
やがてエスタークの全身が溶解し、瘴気を帯びた液へと変容していく。
進化を積み重ねた異形の肉体は、まるで氷が溶けるように、ぼろぼろと零れ落ちていったのだ。
その崩壊を、レックスは剣に身を預けながら、どこか呆然とした面持ちで見守っていた。
「……お兄ちゃん」
よろめく足取りのまま、タバサがレックスのもとへ歩み寄ってくる。
「タバサ、まだ動いちゃ駄目だ!」
「大丈夫……」
慌ててレックスが肩を貸そうとするが、タバサは小さくを首をふって呟く。
「終わったね……」
「……うん」
そうして双子は並んで立ち、崩れゆくエスタークの終焉を見つめる。
怪物の足下では異形の残骸が水たまりとなって零れ落ち、マグマの河に呑まれて、無へと還っていった。
そして、ついにエスタークの巨体が完全に瓦解し、冒涜も禁忌も、そのすべてが剥離したとき。
地獄の帝王は白昼夢のように消え失せて。
最後に残ったのは、まるで
「…………」
漆黒の影は人の形をしていた。
だが、歩くことも、立つこともできないようだ。
ただ無様に地面へ這いつくばり、それでもずるずると、たしかにレックスたちのほうへ近づこうとしているように見える。
「くっ!」
影に向かって、レックスは剣を構える。
この影がなんなのかはわからない。
だが、この邪悪なものをタバサへ近寄らせるわけにはいかない――!
「待って……お兄ちゃん」
しかし、そんなレックスの前へ、タバサはそっと歩み出た。
そして、影をその背中でかばうように、ふたりのあいだへ静かに立つ。
「タバサ?」
「大丈夫だから……」
戸惑うレックスへ、タバサは小さく微笑む。
それから前へ向き直り、ふらつく足取りのまま、影のほうへ歩いていった。
その顔に浮かぶのは、この場所へ初めて辿り着いた時と同じもの。
深く悲しい
「待っていたよ……おにいちゃん」
第16話は5月14日(木)17:30に投稿予定です。