鋼の錬金術師遺伝〜若き憤怒の肖像、星堕ちる夢〜 作:だいたい大丈夫
国家の頂点に立つその男にも、かつて唯一「友」と呼べる存在がいた。
これは、あまりにも愚かで、不可解で、それでも確かに残り続けた友情の始まりの話。
【アメストリス中央司令部・大総統執務室】
執務机が、窓から射し込む陽光を鋭く弾いている。
室内に漂うのは、壁掛け時計の秒針が刻む硬質な響きと、淹れたての紅茶が放つ芳醇な香りだけだ。
視界を占めるキング・ブラッドレイの圧倒的な威圧感。
その絶対的支配の前にあっては、時の刻みすらも遠い異国の出来事のように霞んでしまう。
リザ・ホークアイ中尉は、背筋を凍らせながらも直立不動を維持していた。
制服の下で産毛が逆立ち、鼓動は耳の奥で警鐘のように鳴り響いている。
卓上に整頓された書類。
隙のない調度品。
完璧に制御されたこの空間において、唯一の不確定要素は己の命の所在のみ。
視界の先で、大総統が静かにティーカップを持ち上げた。
「セリムのこと……知ったそうだな」
「……はい」
「私の正体も」
「…………はい」
喉から血を吐くような肯定。
僅かな沈黙。
そのコンマ数秒の間で、ホークアイの思考は無数の生存ルートを検索し、そのすべてを破棄していた。
目の前に座すのは、国家を統べる頂点。
同時に、人間の脆弱な嘘を瞬時に噛み砕く怪物。
浅知恵は死を招く。
カチャリ。
ソーサーとカップの触れ合う磁器の音が、張り詰めた鼓膜を容赦なく打つ。
「国のトップと息子がホムンクルスというのは、一国民としてどういう気分かね?」
踏み絵。
それも、足裏から骨まで焼き尽くすような問い。
ホークアイは奥歯を噛み締める。
軍人としての建前か。
それとも、無力な人間の本音か。
口内の渇きを唾液で誤魔化し、腹の底に沈む言葉を引きずり出す。
「信ずるべき家族までもが虚構の存在というのは……悲しいことだと思います」
「ほう」
「家族ごっこです。愚か者と嘲る人間の真似をした……そう見えます」
室温が急激に奪われた錯覚。
肌を針で刺されるような物理的な重圧が圧い掛かる。
だが、怪物の口元には微かな弧が描かれていた。
「家族ごっこ、か。手厳しいな」
「事実を申し上げました」
「結構。実に君らしい」
革張りの椅子が低く鳴る。
ブラッドレイの眼球はホークアイの姿を映しながらも、その焦点は遥か彼方の記憶へと向けられていた。
「あれは上から与えられた息子だ。大総統の地位も、名誉も、すべて与えられた。いわば権力者ごっこだ」
呼吸が止まる。
国家元首が自身の存在意義を否定する瞬間に立ち会う。
それは軍の機密事項よりも重く、呪いのような告白だった。
極限の緊張感に苛まれる彼女へ、予想だにしない言葉が降り注ぐ。
「だが、妻は自分で選んだ」
鉄の仮面を被り続けてきたホークアイの顔筋が、微かに緩む。
「友も……な」
「え……?」
支配者。
怪物。
恐怖を象徴する語彙はいくらでも思いつく。
しかし。
友。
その単語は、眼前の存在から最も遠く離れた異物だった。
ホークアイの瞳に浮かんだ動揺を読み取り、ブラッドレイは楽しげに片目を細める。
「驚いたかね」
「……ええ」
「それは結構。私も当時は少々驚いた」
空のカップを、分厚い指が弄ぶ。
「お茶は……まだかね?」
「あ、はい」
死の淵を歩く緊張と、給仕としての日常的動作が脳内で衝突する。
急ぎ、銀のポットを握る。
注ぎ口の角度、液体の軌道。
一滴でもこぼせば、それが引き金になるかもしれないという恐怖。
琥珀色の水面が揺れ、熱を帯びた香りが立ち上る。
「うむ……美味い」
ありふれた賛辞。
だが、絶対者からの評価は、安堵よりも魂の摩耗を強いる。
「その……ご友人というのは……」
「気になるかね?化け物にも友ができるのかと」
「……はい」
「正直だな」
「取り繕っても意味がありませんので」
「実に結構だ」
王の風格を漂わせ、カップが再び置かれる。
次に発せられたのは、酷く血生臭い事実だった。
「そうさな。誰かに話して聞かせるのも一興だ。我が唯一の友、サイファー・グランツは……私が殺した」
ホークアイの喉が強張る。
「……殺したのだ」
抑揚のない声。
後悔も歓喜も存在しない。
ただ天候を告げるような、無機質な響き。
だからこそ、背筋が凍りつくほどに恐ろしい。
ブラッドレイの視線が窓の外へ流れる。
上空には、澄み切った青が広がっている。
過去の血痕を呼び起こすには、今日の陽射しはあまりにも明るすぎた。
◇◇
【アメストリス士官学校・教室】
私は賢者の石に適合してから、すぐに士官学校に入学した。
感傷的な偶然などは介在しない。
創造主たる存在が、私の肉体に合致する最適な環境へと配置しただけのこと。
当時の私は、与えられた配役を狂いなくこなす機械に過ぎなかった。
起床、整容、食事、授業、訓練、記録、睡眠。
定められた規律に従い、要求に応じて微笑み、不要な場面では口を閉ざす。
軍部が渇望する、完璧な青年将校の雛形。
感情という揺らぎを持たない、冷たく硬質な模範生。
それが当時の私だ。
「ブラッドレイ!この問題を答えよ!」
「はい。この図面は典型的な後方攪乱作戦であります。まずこの拠点を制圧し、補給線を分断。その後、敵をこちらへ誘導し――」
黒板に描かれた図解を網膜に焼き付け、瞬時に最適解を構築する。
盤面のどの要素を削ぎ落とし、どこに罠を配置すれば、敵の命を最も効率よく奪えるか。
余計な思考を持たない私の演算能力は、人間たちのそれを容易く凌駕していた。
教官の顔に、深い満足の皺が寄る。
「よし!その通りだ!」
教室に張り詰めていた空気が緩む。
正解が出たことで、自分への矛先が逸れたと安堵する気配。
怠惰であり、酷く人間的な反応だ。
「では次はグランツ!おい、グランツ!サイファー・グランツ!」
沈黙。
教官の額に怒りの血管が浮かぶ。
「サイファー・グランツ!」
「んん……?」
最後列の窓際。
机に突っ伏していた男が、気怠げに身をよじる。
深い泥の底から這い上がってきたような、ひどく緩慢な動き。
「ふわああ……おはようございます、教官殿」
「絶対に時間が違うぞ!何をやっとるか貴様!」
白昼の教室。
国家の柱となるべき士官学校において、悪びれもせず眠り惚ける。
規律の破壊者。
組織において最も不要であり、即座に排除されるべき劣等種。
それが彼に対する最初の評価だった。
口元を手で覆いながら立ち上がった男は、私と同等の身長を持ちながらも、骨格はひどく華奢だった。
着崩された制服。
手入れのされていない髪。
そして、焦点の定まらない淀んだ瞳。
軍人としての根源的な資質が、完全に欠落している。
「大丈夫ですよ。わかってますって」
「何が大丈夫だ!では今、何の話をしていたか答えてみろ!」
「今、ブラッドレイ君が後方攪乱についての教科書的な回答をしていました。それを教官殿が褒めていましたな」
周囲の生徒たちがざわめく。
教官の眉間が、侮蔑的な単語に反応して大きく歪む。
「しかし、あの図面だと穴があります」
空気が一変した。
眠気を帯びていた瞳の奥で、鋭利な知性がギラリと光を放つ。
サイファーは教壇へと歩を進め、無造作にチョークを握り、図面を修正していく。
「ここに罠を置く。ここは補給部隊が必ず使う。ここは一見安全ですが、逃げ道に見せかけておいて追い込み用に使える。敵に絶望だけ与えるのは半端です。逃げられるかもしれないと思わせて、その希望を少しずつ削るんです。そうすると兵站線への圧力は継続するし、士気はきれいに腐っていく」
胃の腑が粟立つ感覚。
戦術の非情さに対してではない。
それを語る彼の横顔が、ひどく歪んだ歓喜に満ちていたからだ。
だが、その理論には寸分の隙もなかった。
私の導き出した最適解を、さらに無慈悲な効率で塗り替えている。
教官は反論の言葉を見失い、ただ唇を震わせる。
サイファーは、先ほどの鋭さを微塵も感じさせない笑顔を向けた。
「教官殿はお優しいですから。入学したての我々に、あえて基本形を学ばせようとしてくださったのでしょう?」
あからさまな挑発。
教官の面目を保つふりをしながら、精神的優位性を確実なものにしている。
「……貴様は寝ていても話を聞いているのか」
「聞いてますよ。寝ながらでも」
「威張るな!」
「威張ってはいません。才能の無駄遣いと言われることは多いですが」
周囲から、堪えきれない笑いが漏れる。
理解の範疇を超えていた。
秩序を壊し、上位者を愚弄し、正論でねじ伏せる。
本来であれば集団から孤立するはずの行為。
しかし、彼の振り撒く毒は、周囲の警戒心を溶かしてしまう奇妙な性質を帯びていた。
「僕としては、別に軍人にならなくてもいいかなーとは思ってるんですけどね」
「ならばなぜここに来た!」
「家がうるさいんですよ。士官学校行け、軍人になれ、立派になれ、あわよくば出世しろ、と。いやあ、立派って面倒ですね」
「面倒で済むか!」
「済ませたいんですが」
再び教室が笑いに包まれる。
私の内側で、得体の知れない黒い炎がくすぶり始めた。
国家への忠誠も覚悟もなく、ただ流されるままに生きている。
そのくせ、誰よりも優れた知能を隠し持っている。
完全なる異物。
私は彼を視界から完全に消去することを決めた。
その異物が、自身の領域へ無遠慮に踏み込んでくることなど、予測すらできずに。
◇◇
【アメストリス士官学校・学生寮】
卓上のランプが、白紙のレポートを静かに照らしている。
紙面を滑るペン先の音だけが、部屋の静寂を保っていた。
論証の構成、文字の均等さ。
すべてが規定通りに作成された、感情の一切伴わない完璧な提出物。
そこに、背後の扉が乱暴に開かれる音が響く。
「おお、ブラッドレイ君!」
確認するまでもない。
昼間の不快なノイズが、私の空間へ侵入してきたのだ。
「今日から俺たちルームメイトらしい。よろしく」
「……そうか」
「嫌そうだなあ。まあ気持ちはわかる。君の生活空間、無菌室みたいに息苦しいし」
原稿から視線を外さない。
無価値な会話に思考を割く余裕はない。
だが、男は私の明確な拒絶を、都合よく変換して受け取っていた。
「ところで君、明日までの戦術レポートなんだけど、僕の分もやってくれない?」
ペンの動きが止まる。
紙の表面に、小さなインクの染みが滲んだ。
私はゆっくりと首を回し、背後に立つ異物を直視する。
「なぜ私が、貴様のをやらねばならん」
「ええー。貸しでいいからさあ」
「自分でやれ」
「面倒なんだよ」
「それは貴様の事情だ」
「友達の頼みだよ?」
眉間が自然と寄る。
「いつからだ」
「さっきから」
「意味がわからん」
「友達ってのはね、気づいたら増えているものなんだよ」
悪びれる様子のない笑顔。
論理が完全に破綻しているにもかかわらず、一切の疑いを持たずに自説を展開してくる。
友。
概念としての知識は入れている。
利害関係を持たず、血縁などの枠組みにも囚われない、人間特有の繋がり。
だが、兵器として調整された私に、そのような機能は存在しない。
「……そういうもの、なのか?」
「そういうものだよ」
「勝手だな」
「友達なんて勝手なものさ。契約書も認可もいらない。便利だろ?」
枠組みが存在しないからこそ、制御不能で厄介な概念。
「私は別に頼んでいない」
「うん。だから僕が勝手にやる」
サイファーは私の寝台へと向かい、シーツの乱れを気にする素振りもなく腰を下ろした。
「よし、記念すべき友達第一号だ。めでたい。では最初の頼みだが、このレポートをよろしく」
「最悪の記念だな」
「褒め言葉として受け取っておく」
「断る」
「じゃあ二つ目の頼み。僕が帰るまでに気が変わっていることを祈っておいてくれ」
「帰る?」
「これからちょっと夜の街へ」
「は?」
「歓楽街。お姉さん方が僕を待っている」
「待っていない」
「待っていてほしい」
「無断外出は規律違反だぞ」
「若者には過ちが必要なんだ」
「士官候補生に必要なのは規律だ」
「君、教官より教官っぽいな」
ひらひらと手を振りながら、男は上着を肩に担いで扉へと向かう。
「ではまた。ああ、門限までには――たぶん――」
「おい」
私の声を遮断するように、扉が閉められた。
木目の扉を無言で睨みつける。
初対面の同室者に課題を押し付け、規律を無視して歓楽街へ消える。
身勝手にも程がある。
私は再び机へと向き直る。
自身の課題はすでに完了している。
視界の端には、彼が置いていった白紙の束。
無視すればいい。
成績不良で追放されれば、この不快なノイズは私の視界から永遠に消滅する。
それが最も理にかなった選択だ。
しかし。
気づけば私の手は、その白紙を自分の正面へと引き寄せていた。
なぜだ。
同室者が退学になれば、新たな人間が配属され、再び環境適応の再計算が必要になるからか。
劣等生を管理下に置く方が、総合的な効率が良いと判断したのか。
論理的な正当性を必死に構築しようとする。
だが、そのどれもが単なる言い訳に過ぎないことを、私自身が痛いほど理解していた。
ペンの軸が軋むほど強く握りしめ、私は彼のレポートを完璧に書き進めていく。
怒り。
そうだ。私は今、明確に怒っている。
誰の命令でもない行動に身を投じ、自身の時間を浪費させられているという事実に。
◇◇
これは、もはや過ぎ去った過去の物語。 どう足掻こうとも悲劇にしか接続されない物語。 それでも……キング・ブラッドレイと、その妻マリア・ブラッドレイ……いや、マリア・フリードの胸に永遠に残る、愚かで、不可解で、愛おしい友情の物語である。
お読みいただきありがとうございました。
この先の悲劇を知ったうえでの友情の始まりとして、少しでも心に残れば嬉しいです。よろしければ感想をお聞かせください。