史実馬のウマ娘化有り。
勝負服に着替えた私は地下バ道を歩いていた。今日のセレモニーが終われば、もうこの服も着ることはないだろう。柄でもない感傷に浸っているのは、このレースが最後だと、トレーナーさんと決めていたからだった。今までの、集大成。その言葉が過ぎる度、その勝負服がずしりと重くなっていくような気がした。
「先輩」
ふいに私を呼ぶ声がした。GI前の地下バ道は出走ウマ娘しかいない。静まり返っていたので、その声はよく響いた。
「えっと……君確か」
振り返って顔を確認する。人懐っこそうな鹿毛のウマ娘。見覚えはある。あるはずなのだが、その名前をどうにも思い出せない。
「忘れたっすか?一緒に走ったでしょ、凱旋門」
目の前のウマ娘が言う。頬を膨らまし、目がじとりとすわる。本来おっとりとしている顔が不満を表明していた。
凱旋門、と言われて思い出す。確かに、彼女とは去年の凱旋門を共に走ったのが最初だった。当代のダービーウマ娘として挑んだ彼女が、自らの初めての惨敗に悔しがっていた姿が脳裏に浮かぶ。三連勝の勢いに乗っていた私もまた、あの大舞台で敗れた。未だに思い出し、悔しさが込み上げてくる。得意の逃げ、母に縁のあるヨーロッパで、日本の総大将として挑み、惨敗したのだ。悔しくないわけなかった。
「あはは、ごめんね……名前覚えるの苦手なんだよね」
「ほんと、ウマにキョーミないっすよね。基本塩というか。」
私は曖昧に笑みを返す。ヒトミミの時は覚えられるのだが。ウマミミとなると、記憶力がとんと仕事をしない。姉にも言われたことを思い出して、もう一度小さく謝罪した。
「話しかけてくるなんて珍しいよね。何か、あったの?」
居心地が悪くなって、会話の続きを促した。すると、彼女はへにょりと眉を下げて呻く。あーとかうーとか、吃るような声を出した後、か細い声で切り出した。
「私は期待されていいのかなって」
「秋の天皇賞も、ジャパンカップも。さんざ期待されたけど、勝てなかった」
「もしまた負けたら。もう私は期待されなくなっちゃうのかなって。失敗するのが怖いんです」
不安げな瞳が私を射抜く。かつての自分を見ているようだった。凱旋門の時は期待されていたのに応えられなかった。期待されることの重さに、脚が竦んだ。有馬記念で負けて、春の天皇賞を完走できなくて、あのレースから狂ってしまった歯車が、日に日に衰えていく自分の脚が、何より恐ろしかった。復帰してからだってそうだ。一発目に選んだ重賞では勝ちきれず、ジャパンカップだって掲示板に入るので精一杯だった。失望した人だっていたかもしれない。
だが、今はどうだろう。
きっと、あの春ほど強くはない。凱旋門に挑んだときほど期待されていない。復帰してからは振るわない。それでも、歓声轟く中山で、私の名前を呼ぶ声が聞こえる。応援してくれるひとがいるだけで、こんなにも脚が軽い。
私は言い聞かせるつもりで口を開いた。
「君はさ。君の同期ほど抜けて強いわけじゃない」
ホープフルステークス、皐月賞、日本ダービー。何度も負けた。シニア級に混じって、あっさり勝ち切る同期に嫉妬した。
「きっとこの先何度も負けて、悔しい思いをするんだと思う。勝てなくなる日だって来るかもしれない」
春の天皇賞で人気を背負ったのは1年先輩のウマ娘だった。1度もGIを取ったことはなかったけれど、菊花賞を取った私よりもずっと「応援」されていた。
「でも君が背負ってるのは、期待じゃあない。」
勝つか負けるかじゃない。勝ってほしいんだ。
「聞こえるでしょ?君を待ってる」
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掲示板が着順を示す。1番上には後輩のゲート番が踊っていた。
私の結果は____3着。引き離した逃げ。やりきったという感触を覚えた。勝てなかったけれど、それは+αだ。
ふと、後輩の姿を見とめる。ファンサを終えた彼女に近づくと、柔らかな笑顔で迎えてくれた。
「あはは、敵に塩を送っちゃったかな?」
気取った言葉を吐く。飲み込んだ悔しさは涙の味がした。
「人参にしてください。塩は嫌いなので。」