夕暮れに染まる廊下にて、鞄を下げたその背中に声をかける。
「彩葉」
すると、彼女は振り向いて「お疲れ、芦花」と優しく笑ってくれた。そんな、なんてことはない、いつもの放課後。そんな〝いつも〟を私は壊そうとしていた。じりじりと心の片隅が焼き焦げるように痛む。
「ちょっと話したいんだけど……時間、大丈夫?」
「あー……ちょっと待って」
スマホを取り出して予定を確認する彩葉。学費も生活費も稼ぐ、働き者彩葉の放課後はいつだって忙しい。一時はそれにかぐやの無茶にも付き合っていたみたいだし、いったい彼女のどこにそこまで抱えられる余裕があったんだろう、と今でもすごく不思議だった。そんなかぐやが月に帰ってしまってからは、昔のように、勉強もバイトもしているみたいだけど。ただ、あの頃と違うのは――。
「うん、大丈夫。今日はバイトもないし付き合うよ」
目を細めて笑う彩葉。その笑顔に翳りは一つもない。それを見て思う。きっともう、私のつけ入る隙は無いんだろうな、と。
昔――彩葉がかぐやと出会う前は、いつかどこかに消えてしまいそうなぐらい、その笑顔は儚かった。
だけど、ツクヨミでかぐやと一緒にいるようになってから、あの明るさに引っ張られていくかのようにどんどんと晴れ晴れとしていって、私や真実にも色んな表情を見せてくれるようになった。少しでも彼女の助けになれば、と日々考えては何も為せなかったことを、あのかぐやは突然現れて一気にそれを搔っ攫ってしまったのだ。
一体どうあの彩葉を動かしたんだろう。そう思って何度もかぐやに尋ねてみたけど、結局最後の最後まで腑に落ちるような答えはもらえなかった。これで隠してる風だったらまだ恨めたかもしれない。けれど、そんなかぐやはいつだって楽しそうに、「ん~、分かんないっ!」と笑っていた。そんな笑顔を、私は嫌えるわけがなかった。
「芦花?」
そんな声にハッとする。「大丈夫?」と少し心配そうに首をかしげる彩葉に、「ごめん、大丈夫」と取り繕う。
「昨日も遅くまで起きちゃったから疲れてるのかも」
あはは、と笑えば、「さすが大手美容系配信者」と笑い返してくれた。「いろPほどじゃないけどね」と付け加える。
「ちょっと、その名前学校では言わないでってば!!」
「あれ、そうだっけ。ごめんごめん」
「も~~~」
まったく、と頬を膨らませて眉をひそめる横顔を見つめる。
――あぁ、可愛いなあ……。
心の底から思う。どんな表情でも絵になって、私や真実以外にも笑顔を振り舞うがんばり屋優等生、彩葉。きっとクラスの中でも嫌う人なんて一人もいないだろう。現に、アタックして砕け散った話だって何度も耳にしてきた。そんな彩葉のことがどこまでも誇らしくて――。
――どこまでも、大好きだった。
+ + +
誰か知り合いに聞かれるのが嫌で、それは正直に彩葉にも伝えて、学校から少し離れた公園にやってきた。まだ時間が早いからか、近所に住んでいそうな子どもたちが元気に走り回っていた。
そんな公園の端にぽつんと置かれたブランコに座る。少し揺らすたびに、年季の入ったブランコがキコキコ音を鳴らす。
「それで、話ってどうしたの?」
先に彩葉から聞いてきた。陽も傾いてきて、段々空の色も濃くなってきた。早く言わなきゃ、言えなくなってしまう――そんな焦りはあれど、言い出す勇気はなかなか湧いてこなかった。無言なのも怖くって、「ちょっと進路迷っててさ」と適当な話題を切り出して愛想笑う。
それを聞いた彩葉は「えっ」と目をまん丸く見開いた。
「だって芦花、美容系の専門学校に行くって言ってたじゃん」
「まあ……それはそうなんだけどさー」
優しくブランコを揺らすたび、私の心を代弁してくれるかのように遠慮がちに軋む。
そう。高校に入るまでは、ここを卒業したら美容系の専門学校で勉強をして、そっちの道に進むんだと疑いもしなかった。それだけ化粧品とかを調べたり突き詰めたりするのが好きだったし、ツクヨミでいろんな人たち悩みを聞いて、商品を紹介していくうちに、それが私の「やりたいこと」になっていった。……それなのに。
――……っ。
入学して初めてのホームルーム。そこから少しずつ分からなくなっていった。
青空に映える桜を背景に、堂々と「酒寄彩葉です」と自己紹介するその姿に見惚れてしまったから。ほんの少しの下心を携えて話しかければ、そんな私にも優しく「綾紬さん、初めまして」と笑ってくれた。あの笑顔は今でもはっきりと目に焼き付いている。
そんな彼女を知れば知っていく度、その多彩さに私はどんどん虜になっていった。本人は「器用貧乏だよ」と笑うけど、日頃の授業もテストもバイトもKASSENも、何もかも完璧にこなしていく姿は、決して「器用貧乏」って言葉で片付けられて良い訳がなかった。その裏に、「自分なんかまだまだだなあ」って言葉じゃ収まりきれないぐらい頑張っている姿を知ってからは、どうにか彩葉を救えないか頭を悩ませることも増えた。けど、そのどれも自分のエゴが見え隠れしている気がして、結局何も出来ず、ただ〝友達〟として傍にいることしかできなかった。
「芦花? 大丈夫?」
「え?」
気が付けば、すっかり空は藍色に蝕み始めていた。心配そうに覗く彩葉に「ごめん。ぼーっとしちゃってた」と頬を掻くふりをする。
「そう、それでね。最近までは思ってたんだー。でも、果たしてそれが私の〝やりたいこと〟なのか、分からなくなっちゃって」
「……なんで」
心配するような、私と同じ暗いところを見ようとしてくれているのか、声のトーンを落とす彩葉。
「心変わり……っていうか……なんていうか」
そんな様子に少しだけ嬉しくなりつつはぐらかしてみるけど、同じように悩んでくれていた。どこまでも優しい彩葉につい「ふふっ」と思わず笑ってしまった。
「え、どうしたの? なんか変なこと言った?」
「いや……ごめん。なんか、そうやって考えてくれるのが嬉しくて」
「そりゃあそうでしょ、大事な『友達』の悩みだもん」
〝大事な友達〟、か。そんな響きが、ほんの少しだけ心の片隅を切り裂いた。そう、ずっとそう思っていたんだ。私だって。
だけど日に日に彩葉への想いは強くなっていってしまった。誰かが彩葉に告白をした、って話を聞けばその後を知ろうと聞き耳を立てては、「振られた」と聞けば内心でガッツポーズをしたこともあった。
その反面、だんだん彩葉の笑顔はぎこちなくなっていった。生活費に学費に、と嵩めばろくにちゃんとご飯も食べられていないのか、すごくやつれてしまっていたこともあったし、慢性的に目の下隈も出来てしまっていた。
そんな痛々しい姿はもう見たくなかった。もうやめて。私と一緒にいて――そう言おうか迷い始めていた頃。少しずつ彩葉は変わり始めた。
隈は相変わらずだったけど、少しずつやつれ具合は良くなっていって、よく――本当の意味で――笑うようになった。
どうしてだろうと思えば、その訳はすぐに分かった。かぐやと生活し始めたのだ。
底抜けに明るくて、元気で、自由そうな子だな、とあのカフェで初めて出会った時に思ったのを今でもよく覚えている。そして、そんなかぐやが短い間に次々と彩葉を塗り替えていってしまった。
そのうち、ヤチヨカップを優勝するのを目指すかぐやに振り回されるようになって、彩葉もまたツクヨミ内で有名になっていった。ようやくその才能が世に知られたことが嬉しい反面、どこか遠くに行ってしまったような気もしていた。だから、かぐやが月に帰ってしまって、しばらく学校に顔を見せなかった時、正直少しだけ嬉しかった。私の知ってる〝彩葉〟が帰ってきたんだと思った。
でも、また立ち上がった彩葉は、あの頃の彩葉じゃなかった。何かやりたいことを見つけて、その為にまた一生懸命になってる姿は全然別人だった。それに気付いた時、「もう私のつけ入る隙はなくなっちゃったんだ」って思い知らされた。
かぐやが居なくたって、彩葉の中にはずっとかぐやが生き続けているんだ。それが一番のきっかけだったのかもしれない。
この恋を、終わらそうと思ったのは。
+ + +
すっかり辺りは真っ暗になってしまって、公園内にはもう私たちしか残ってなかった。もう、現実逃避するのはやめよう。ブランコから立ち上がる。
「芦花?」
顔を上げる彩葉に、「あのね」と向き直る。
「ごめん、今までの話は全部嘘。……実は彩葉に、伝えなきゃならないことがあって」
我ながら支離滅裂としてるな、と思う。そう言い始めた私に戸惑いつつも、「なに?」と彩葉も立ち上がってくれた。梢の音が静寂を寂しく埋める。
「あのね、彩葉。私――」
いざ言おうとすると、胸が苦しく高鳴った。この想いを伝えてしまったら、もう今までの関係には戻れなくなってしまう。卒業まで一年近くあるし、もっと先でも良いんじゃないか、ってもう一人の私が引き留めてくる。
でも、三年生になれば教室替えもあるだろうし、そうなれば彩葉と話す機会も少なくなってしまうかもしれない。それなら、今、伝えたかった。
息を吸う。
「――高校卒業してもさ、また一緒に遊ぼうね」
きょとんとする彩葉。だけどすぐに「もちろん」といつも通りの笑みを浮かべる彩葉。
「芦花にはたくさんお世話になったからね。もういくらでも」
親指を立ててくれる彩葉に「ありがとう」と笑う。
「変な話してごめんね。やっぱり疲れてるみたいだし、先に帰るね」
「付き合ってくれてありがとう」と手を振ると、「ちゃんと休んでね」なんて彩葉に言われてしまった。まさか彩葉にそう言われる日が来るなんて思わなかったな。
足早に公園を出て走り出す。
――何言ってんだろう、私は。
家とは全然違う方角の路地を縫って入って、息が切れるまで走り続けた。表通りに出る一歩手前でとうとう息が尽きた。荒い息と一緒に、次々に涙がぽろぽろ落っこちてきた。情けない。本当に情けないよ、私は。
もう諦めたんじゃなかったのか。私が彩葉に抱いてる想いと同じくらい、彩葉はかぐやへ想いを寄せているのは、一番近くで見てたから知っているはずじゃないか。
それならもう私に勝ち目なんてない。そんな恋にいつまでも縋るぐらいなら、さっさと断ち切ってしまって、新しい恋を探した方が幸せになれるはず。それは痛いほど分かっているはずなのに。なの――なのに、どうして……っ!!
壁に持たれ着いて、そのまま地面に崩れ落ちて泣いた。そんな未来を選べなかった私を嗤った。でも、どれだけ嘲笑ったって嫌だった。
この先彩葉と話せなくなるのが。
彩葉の創っていく物語を蚊帳の外で見守るのが。
そして何より――
彩葉が苦しんでる時に寄り添えなくなるのが。
そんな未来を選ぶぐらいなら、私はこの恋心を飼い殺した方がマシだ。これからだって真美と三人で遊んで、話していたい。
もしいつかかぐやが帰ってきた時は、皆と一緒に笑って「ただいま」を言って、海もご飯も買い物も温泉も海も、なんだってしたい。それだけあの日々が私にとっても楽しくて、掛け替えのないものだったから。
我ながら歪んでるなあ、と思う。でも、それが本心だった。それは、本心……だけどさ。
――私の方が、先に好きになったのになぁ……。
はは、と薄暗い路地裏から真っ黒な曇り空を見上げる。救われないなあ、と独りごちる。こんな恋は小説の中だけで良かった。本当に。…………本当にね。
どれぐらいの間そうしていただろう。だいぶ人の声も近くなってきて、危ない目に合う前に大通りに出てきた。
もう今日は帰ってゆっくりお風呂に入って、好きな音楽を聴きながら保湿して早く寝よう。そして明日彩葉に「昨日は付き合ってくれてありがとう」とお礼を言うんだ。それで元通り。何もかも。……きっと、これからも。
最後にひとつ流れる涙を拭う。ふう、と息を吐けば、ほんの少しだけ心が軽くなった――気がする。
とりあえずかぐやがまた彩葉の前に現れるまでは、彩葉の傍にいよう。もうこんなバカなことはしないで、許される限り一方的に寄りかからせてもらおう。それぐらいは、許されても良いよね?
駅までの道すがら、そんなことをずっと考えていた。この心が崩れてしまわないように。いつかやってくる、本当の「さよなら」の為に。
その時に笑って「誰よりも幸せにしてあげるんだよ」って、背中を押してあげられるように。
それが、私の「幸せ」だから。