僕のヒーローアカデミア 徹子の部屋(※違います) 作:まだら模様
攻略ノートの一ページ目には、震える字でこう書いてある。
「死柄木弔:最初の五分が命綱、ゲームの話だけしろ、指五本は絶対に触らせるな」
これだけだ。
他には何も書いていない。
書けなかった、というのが正確だ。
初めて来た夜——死柄木弔が来た夜——徹郎はあまりにもぎりぎりで生き延びたせいで、ノートに書くべき情報を整理する精神的余裕が一切なかった。
あの夜から三週間。
死柄木は再登場していない。
(来ないでくれ。頼むから来ないでくれ)
毎晩祈りながら眠っていた。
神様は聞いてくれなかった。
眠りに落ちた瞬間——鳴った。
♪ ルールル ルルル ルールル ルルル ルールールールー ルールルー
ルールル ルルル ルールル ルルル ルールールールー ルルッルー
ラーララ ラララ ラーララ ラララ ラーラー ラーラーラー
ラララ ラーラーラーラー ラララー ラーラーラーラー ♪
スタジオに引き込まれた瞬間——
におい、がした。
正確には「におい」ではない。でも徹郎の感覚は確かにそれを受け取った。空気が、変わっていた。じっとりと重く、どこか腐臭に似た何かを孕んだ空気。
(ああ)
徹郎は舞台袖から、ゆっくりとスタジオを覗いた。
ソファに座っているのは——全身に手をまとった、病的に痩せた男だった。
顔を覆う手の指が、ぱきぱきと音を立てている。
目だけが、ぎらぎらと光っている。
死柄木弔が、ソファを指でなぞっていた。
四本指で。
(指!! 指浮かせて!! そのソファ、触らないで!! 崩壊したら俺の脳がシャットダウンするんだよ!!)
徹郎は舞台袖から飛び出した。
「こんばんは!!」
死柄木の視線が、ゆっくりと徹郎に向いた。
「……」
「本日はご来場いただき、ありがとうございます! まず最初に、あのソファは特注品でして、触れると崩壊してしまうので、できれば指を——」
「お前が司会か」
低い声だった。
「は、はい」
「……前に来た」
「そう、です。三週間前に」
死柄木が、首をゆっくりと傾けた。爬虫類のような動き方だった。
「覚えてないな。夢の話は朝になると消える」
「そうなんです。私は覚えています。私だけが」
「ふうん」
どうでもよさそうな声だった。
死柄木の指が、ソファの肘掛けをなぞった。四本。あと一本が添えられたら——
「えっと! 本日は——」
「うるさい」
徹郎が固まった。
「お前がいろいろ言いたいのはわかった。でも俺は今、このソファの感触を確認してる。邪魔すんな」
(邪魔するな、じゃなくて邪魔させてくれ!!)
徹郎は一秒で判断した。
真正面からソファの話をするな。迂回しろ。
「……実はですね」
「あ?」
「今日、特別なものをご用意したんです」
死柄木の目が、わずかに動いた。
「特別」
「はい」
「何が」
「これです」
徹郎は素早くスタッフテーブルから持ってきたものを、ガラステーブルの上に置いた。
レトロなゲームカートリッジが、三本。
死柄木の手が——ソファから離れた。
「……なんだこれ」
「レトロゲームです。そこにモニターとゲーム機があります。今日の企画として、一緒に——」
「一緒にじゃない」
「え」
「俺がやる。お前は黙って見てろ」
「……わかりました」
死柄木がカートリッジを一本取り上げた。四本の指で。慎重に。
(今、四本だ。五本じゃない。四本なら崩壊しない。四本のまま、四本のまま——)
死柄木がゲーム機にカートリッジを差した。
モニターが点いた。
「……」
画面を見る死柄木の目が、少しだけ変わった。
「これ、古いやつだな」
「はい。かなり難易度の高い、理不尽仕様で有名なタイトルです」
「理不尽」
「はい。攻略サイトなしではまず詰まる、と言われている——」
「面白そうじゃないか」
死柄木の口元が、わずかに歪んだ。笑みというより、捕食者の顔だった。
コントローラーを四本指で握って、ゲームを始めた。
最初の十分は、奇跡だった。
死柄木がゲームに集中している。
徹郎は斜め後ろで、心臓を押さえながら見守っている。
画面の中でキャラクターが動く。死柄木の操作は荒っぽいが、反射神経は鋭い。ゲームのルールを数秒で把握して、最短ルートを探している。
(頭がいい。本当に頭がいい。だから余計に怖い)
「……なんだこの仕様」
死柄木が呟いた。
「どうしました」
「ここ、どうやっても回避できない当たり判定がある。バグか」
「仕様です。そのゲームは理不尽仕様が売りなので」
「仕様で殺すのか」
「そういうゲームです」
「……」
死柄木が、画面を睨んだ。
「ゲームオーバーにしてやる」
「ゲームオーバーになるのはプレイヤー側では」
「このゲームをゲームオーバーにする、って言ってんだ。詰めてやる」
(ああ、この人はこういう人だ)
徹郎は少しだけ、息を吐いた。
死柄木は今、完全にゲームの中にいる。
徹郎のことなど、見ていない。
これが、一番安全な状態だ。
十七分が過ぎた頃。
「……」
死柄木の手が、止まった。
画面を見ると、さっきの理不尽ポイントでまた詰まっていた。何度目かのゲームオーバー。
「このゲーム」
「はい」
「クソだな」
「そうですね」
「でも」
少し間があった。
「続きが気になる」
(そうか。この人はそういう人だ。詰んでも、続けたい。壊したいのに、もっとやりたい。矛盾してるようで、してない)
「……攻略のヒント、聞きますか」
死柄木が徹郎を見た。
「お前が知ってるのか」
「少しだけ」
「言え」
「この面、実は正面突破じゃなくて——手前の壁を使って上に回り込むと、判定を完全に回避できます」
死柄木が目を細めた。
試した。
「……抜けた」
「よかったです」
死柄木がまた画面に視線を戻した。そして、少し間を置いて言った。
「お前、さっきから俺を操作しようとしてる」
徹郎の背中が凍った。
「……そんなことは」
「してる。わかってる。ゲームを出したのも、ヒントを言ったのも、俺の機嫌を保つためだろ」
(バレてる)
(全部バレてる)
「……否定しません」
「そうだろ」
「でも——それが間違いだとも思っていません」
死柄木が、コントローラーを持ったまま徹郎を見た。
「お前は俺に壊されたくない。だから俺が退屈しないように動いてる。それはわかった」
「はい」
「でも、なんで俺が来るとわかってた。ゲームを用意してた」
徹郎は一瞬、迷った。
正直に言うべきか。
(……この人は嘘を嫌う。嘘をついたら終わる)
「……あなたが前回来たとき、私はあなたのことを調べました。ゲームが好きだと知っていたので、用意しました」
「俺を調べた」
「はい」
「何を知ってる」
「……ヴィラン連合のリーダーだということ。個性が崩壊だということ。ゲーム用語で話すことが多いということ」
「それだけか」
「……あと、昔はヒーローに憧れていたということ」
スタジオが、静かになった。
死柄木がコントローラーを膝の上に置いた。
「……どこで知った」
「調べました。公開されている情報の範囲で」
「……」
「怒りますか」
「怒る」
「すみません」
「でも」
死柄木が、画面を見た。ゲームは一時停止されている。
「消さない。今夜は」
「……ありがとうございます」
「礼を言うな。気持ち悪い」
(爆豪と同じことを言う)
徹郎はそれを口にしなかった。
残り八分。
「……聞いていいか」
死柄木が言った。
徹郎は驚いた。この人が、質問してくるとは思っていなかった。
「はい」
「この番組、俺が来るのは嫌か」
徹郎は正直に答えた。
「……最初は、一番嫌でした」
「今は」
「今も、怖いです。でも——」
「でも」
「でも、あなたが来た夜だけは、絶対に雑にできない、とも思っています」
「なんでだ」
「一番、集中しないといけないから。一瞬でも気を抜いたら終わる。だから逆に——一番、ちゃんとやれる夜でもある」
死柄木が、少し黙った。
「変な奴だな、お前」
「よく言われます」
「俺に怯えながら、俺のことを調べて、俺が楽しめるものを用意する。なんで」
「……生き延びるためです」
「それだけか」
「……あとは」
徹郎は少し考えてから、言った。
「この番組が、誰かの『本当のこと』を話せる場所になれると、いいと思っているので」
「俺には関係ない話だ」
「そうですね」
「俺は本当のことしか言わない。嘘をつく必要がない」
「それは——すごいことだと思います」
死柄木がまた徹郎を見た。今度は、少し違う目だった。
「お世辞か」
「違います。本当にそう思っています。嘘をつかない、というのは、一つの強さです」
「……」
「あなたは壊したい。それが本音で、それを隠さない。ほとんどの人間は、本音を隠して生きています」
「隠さなくていいから隠さないだけだ。俺には——」
死柄木が、少し止まった。
「俺には、隠す必要がない場所しかなかった。最初から」
その一言の重さに、徹郎は何も言えなかった。
「俺みたいな場所しかなかった」というのではない。
「隠さなくていい場所しか与えられなかった」ということ。
選択肢がなかった。ずっと。
(……そうか)
(この人は、普通の場所で普通に生きる選択肢を、最初から持っていなかったんだ)
「——それは」
言いかけて、止めた。
同情するな。この人はそれを最も嫌う。
「……それは、あなたにとって、不公平なことだったと思います」
死柄木が、わずかに目を細めた。
「……俺に同情してるのか」
「していません。ただ、事実としてそう思っています」
「同じだろ」
「違います。同情は上から見ることです。私はあなたより立場が低い。あなたが来た夜、私は常に追い詰められています。上から見る余裕なんてありません」
しばらくの沈黙。
死柄木が、ふっと息を吐いた。
「……面白い奴だな、お前は」
「……そうですか」
「次に来たとき、そのゲームの続編を用意しとけ」
「……次も来るんですか」
「来るかもな。来ないかもな」
(それは困る。心の準備ができない)
「できれば事前に教えていただけると——」
「できない。俺にも選べないんだろ、この番組のシステム上」
「……そうです」
「だったら、いつ来てもいいように準備しとけ。NPCがすることだ」
(NPCって言った。私、NPCって言われた)
(まあ、生きてればいいか)
そのとき。
♪ ルールル ルルル ルールル ルルル ルールールールー ルールルー ♪
エンディングのテーマが、流れ始めた。
徹郎の全神経が、一瞬で切り替わった。
魔の三十秒。
ここが一番、死柄木相手には危ない。
「——では、お時間となりました」
「早いな」
「そうですね。死柄木さん、本日は来ていただいてありがとうございました」
「礼を言うな」
「最後に一言、いただけますか」
死柄木が立ち上がった。
コートが揺れる。全身にまとった手が、ぶつかって鈍い音を立てる。
徹郎は、その手を見た。
家族の手だ、と知っている。
その重さを、この男はずっと身につけて生きてきた。
「一言」
死柄木が、静かに言った。
「お前は、俺に殺されたくなければ——面白い奴でいろ」
「……頑張ります」
「頑張るな。面白くない奴が頑張っても面白くはならない。お前はすでにそれなりに面白い。それを忘れるな」
「……それは、褒めていただいたということで」
「好きに解釈しろ」
その声が、テーマ曲と重なった。
♪ ラーララ ラララ ラーララ ラララ ラーラー ラーラーラー
ラララ ラーラーラーラー ラララー ラーラーラーラー ♪
旋律が最後の一音まで鳴り切ったとき——死柄木の姿が、砂のように崩れて消えていった。
崩壊したわけではない。ただ、消えた。
ソファは、無事だった。
目が覚めたのは、朝の四時だった。
徹郎は布団の中で、しばらく動けなかった。
(……生きた)
(今回も、生きた)
手が、微かに震えていた。
毎回、死柄木が来た夜は手が震える。今夜もそうだ。
それでも、攻略ノートを開いた。
一ページ目の、あの三行の下。
「死柄木弔:ゲームを用意しろ。理不尽仕様の高難度タイトルが有効。攻略ヒントを小出しにすることで依存関係を作れる。嘘は見破られる——必ず正直に答えること。同情は絶対にするな。『面白い』と思わせることが最大の防衛。NPCとして認識されると安全度が上がる(気がする)。指四本以内なら崩壊しない——五本目に気をつけろ。ソファは毎回祈れ」
書き終えて、一行付け加えた。
「※次回に備えてゲームの続編を用意すること。あと、なんか少しだけ——この人のことが、わかった気がした。内緒」
その日の朝、徹郎はゲームショップに寄った。
昨夜出したゲームの、続編を探した。
あった。棚の隅に、ひっそりと。
レジに持っていきながら、徹郎は少し考えた。
これは何のための買い物だろう。
生き延びるための投資だ。攻略ノートと同じだ。
自分の意識が永久幽閉されないための、合理的な準備だ。
そうだ。それだけだ。
(——そうだよな)
レジの店員が「袋、ご利用ですか」と言った。
徹郎はうなずいた。
袋を受け取りながら、思った。
この人に、もし誰かが手を差し伸べていたら。
最初の夜、あの子が個性を発現したとき、誰かが「大丈夫だ」と言っていたら。
——まあ、今更考えても仕方がない。
でも。
この番組が、せめて三十分だけは。
誰かの「本当のこと」が話せる場所であれるなら——それは、この個性の、唯一の価値かもしれない。
(ヴィランが来た翌日にそんなこと思うな黒柳徹郎、お前は甘すぎる)
脳内で自分にツッコミを入れながら、徹郎は帰路についた。
夜になれば、また鳴る。
♪ ルールル ルルル ルールル ルルル……♪
明日のゲストは誰だろう。
死柄木じゃないといい。
死柄木だったら——続編のゲームと、あとハンドクリームでも用意しておこう。
痒み止め成分入りの、いいやつを。
それだけが、黒柳徹郎の仕事だ。