【五行を統べる半妖は】冷徹に異能学園の頂点を目指す――ⅩⅢ 現代群像戦線 作:神野あさぎ
case.56「改善」
肌を刺すような熱気がアスファルトを焦がす文月半ば。
定期検査。その名目で決まって執り行われるのは、肉体の限界を測る人体実験に等しい負荷の数々だ。
その事実を理解してなお、彼の足が止まることはない。
手駒として確保されている弟の存在が、辛の選択肢を奪っていた。
しかし、白衣の群れが彼に向けた態度は、辛の演算を根底から裏切るものだった。
名目通りの、単なる定期検査。
「……?」
辛の表情筋はピクリとも動かないが、その眼差しには微かな揺らぎが乗る。
平時であれば衣服の着用すら剥奪される空間において、今回、そのような強制は一切下されなかった。
行われたのは、採血を主とする一般的な健康診断の範疇を越えないものだった。
「しばしこちらでお待ちください」
研究員の案内によって通されたのは、殺風景な一室だった。
無機質な長机と椅子が整然と並ぶ、会議室のような空間。辛は促されるままに椅子へ腰を下ろす。
どれほどの時間が経過したか。
沈黙に包まれた室内へ、硬質なノックの音が響き、ゆっくりとドアが開かれた。
「無事のようだな」
辛の視線が、開かれたドアの向こう側を捉える。
そこに立っていたのは、眼鏡をかけた長身の男だった。
「そうか、初めましてだったな」
男はドアを静かに閉め、辛の正面へと歩みを進める。
辛の記憶のデータベースに、この男の該当データは存在しない。
弟と共にⅩⅢの尋問室へ連行され、強引な交換条件を突きつけられたあの場でさえ、この顔はなかった。
巨大な制裁機関であるⅩⅢ。その上層部が常に一堂に会するわけではないという構造を、辛は冷静に分析する。
「……まあ良い。そんなことより、今日は困惑しているんじゃないかと思ってな」
男──藤原は、辛へ視線を向けることなく、窓ガラスの向こう側を眺めたまま口を開いた。
辛は沈黙を保ち、眼前の男の挙動を静かに観察し続ける。
「
藤原はゆっくりと腕を組む。
四月レン。その名に、辛の視線が僅かに鋭さを増す。
過剰な負荷による発熱と昏倒。
それを聞きつけた
藤原自身もその現場へ介入し、事態の収拾を図っていた。
だが、ベッドで意識を失っていた辛が、その顛末を知る由もない。
「六大路辛、お前の為にな。こちらとしても非道な検査内容にすぐに気づけず、研究員の勝手を許した」
藤原が辛へと向き直り、真っ直ぐに視線を交らわせる。
「すまなかった」
そして、静かに頭を下げた。
ⅩⅢという巨大な治安維持機構。上層部であっても現場での任務に忙殺される状況下において、研究機関の末端にまで監視の目を光らせることは物理的に困難を極める。
四月レンの特級過去視とて、自発的なトリガーがなければ対象を捉えられない。
爪戯と玄という外部からの情報提供がなければ、事態の発覚はさらに遅れていた。
「四月レンのこともあって、研究員の無理強いは無くなる。負荷のかかる検査はさせない」
藤原は頭を上げ、辛の瞳を深く覗き込むように告げる。
「回数は検討させてくれ。半妖の身体は特殊だからな、発熱一つとっても簡単に治せない。となると、どうしても血液検査などが必要となってくる」
短い呼気が、藤原の唇から漏れた。
半妖という特異な構造。その生体データを蓄積し、未知の事態へ対応するための研究は、組織として手放せるものではない。
過剰な負荷は排除するが、最低限の血液提供やデータ収集は継続したいという要求。
「……いえ、出自が特異なのは理解しています。それによるデメリットも……なので検査自体は別に……」
辛は視線を外さず、淡々とした声で返す。
男の論理は理解できる。
現に今日の検査は、これまでの拷問めいたものとは一線を画していた。
だが、眼前の男の言葉が未来永劫の保証となるか。
辛の脳内で、信用に足る情報の選別が続けられている。
「不安か?」
藤原が中指で眼鏡のブリッジを押し上げる。辛の思考の裏側を見透かしたような問いだった。
辛の表情は凍りついたように動かない。
「
藤原の口から、具体的な担保が提示される。
今後の検査には、専門医である父・北王が必ず立ち会う。
異常を察知した時点で、北王から四月レン、あるいは藤原へ直接通達が渡るシステム。
身内である北王の存在を組み込むことで、辛の警戒を解こうとする盤石な手配。
「定期的に四月も、過去視で確認をするようにした。これでもまだ不安なら──……」
さらなる条件を提示しようとした藤原の言葉を、辛が静かに左手を持ち上げて遮る。
僅かに首を横へ振り、それ以上の言質は不要であるという意思を示した。
「そうか」
藤原は短く応じ、引く。
その直後、藤原の衣服の奥で微かな電子音が鳴った。
ポケットから端末を取り出し、液晶に表示された情報を視線で滑るように確認する。
画面を落とし、再び懐へ収めた。
「すまん、そろそろ行く」
簡潔に告げると、藤原は踵を返して退室していく。
閉じられたドアを、辛は無言のまま見つめていた。
組織の人間の中で、四月レンと
幾度も介入し、盾となった彼らへの評価だ。
対して、突如現れたあの眼鏡の男を信用に足る人物として処理するには、情報が圧倒的に不足している。
男の言葉を信じたわけではない。
担保として提示された四月レンと、父・北王という存在の確実性を演算し、今回の案を受諾したに過ぎない。
「……名前くらい聞いておけばよかったか」
無人の会議室に、微かな呟きが落ちる。
辛は席を立ち、ポケットから自身の端末を取り出す。
画面には、玄からのメッセージが受信されていた。その内容を一瞥し、辛は静かに部屋を後にした。
同敷地内に併設された、ⅩⅢの監察医療棟。
実験棟での用事を終えた辛の足は、自然とこの場所へと向かっていた。
受付で手続きを済ませ、指定された病室の扉の前に立つ。
「辛君!」
開かれた扉の隙間から、玄が右手を軽く上げて反応を示した。
辛も無言のまま、左手を小さく上げて応える。
「六大路君も来てくれたんだ?」
ベッドのリクライニングを起こし、背を預けていた
病室にはすでに、玄と
「辛君今日検査って言ってたから、来れるならと思って」
玄が先程のメッセージの意図を補足する。
「手ぶらで申し訳ない」
辛が短く詫びを入れると、雫は「良いよ」と微笑んでそれを受け流した。
「もう心配したんだからね? 既読つかないし、
葵が安堵と疲労の混じった溜息を吐き出す。
「ごめんね、急にお腹が痛くなって……耐えきれなくなってそのまま手術になったの」
雫は両手を合わせ、申し訳なさそうに状況を口にした。
「盲腸とか?」
玄が右手を顎に添え、推測を立てる。
「うーん……位置的に違うと思うけど」
雫は視線を自身の腹部へと落とし、曖昧に首を傾げた。
「まあ一応無事なら良い!」
葵が雫の肩へ軽く手を置き、空気を明るく塗り替える。
しばらくの他愛のない会話の後、玄と辛は席を立ち、病室を後にした。
葵はもう少し雫の傍に留まるようだ。
太陽が傾き始めた帰り道。
辛と玄は並んで歩幅を合わせていた。
「検査、大丈夫だった?」
玄が横顔に向け、静かに問う。
教室で高熱を出して崩れ落ちた辛の姿が、玄の網膜には鮮明に焼き付いている。
「四月レンが暴れたらしい……おかげで改善された」
辛は歩みを止めず、前を見据えたまま事実だけを簡潔に告げた。
その言葉を聞いた瞬間、玄の脳内に、墓地でのレンの台詞が再生される。
――今回のことをキツく言っておけば、少しは……と言っても本当に少しだろうがな。一応掛け合ってみよう。
「少しって言ってたけど……めちゃくちゃキツく言ったんだ……」
玄の背筋に、冷たいものが走る。
『少しキツく言う』という表現が、ⅩⅢの実験棟を物理的に蹂躙する行為に変換されている事実。
その圧倒的な行動力と容赦のなさに、玄の頬は微かに引きつっていた。