夕陽は、窓の外でゆっくりと沈み始めていた。
教室の内側へ差し込んでいた光はすでに鋭さを失い、傾いた橙が机の角を撫でる程度にまで弱まっている。だが、その薄明かりが消え切るにはまだ少し早い。赤と黒がせめぎ合うように広がった空間の中で、赤司 征十郎は静かに相手を見据えていた。
正面の男――龍園翔は、机を挟んだ向こう側で、まるで王様気取りでふんぞり返っている。視線だけで人を殴りつけるような、荒っぽい獣の気配があった。赤司はそれを真正面から受け止める。視線を逸らす理由はない。
「――石崎。椅子を出してやれ」
「……は、はいっ!」
龍園の指示を受け、取り巻きの一人が慌てたように動く。椅子が床を擦る音が、静まり返った教室に短く響いた。赤司の背後へ置かれたそれは、丁寧とは言い難いが、少なくとも敵意を露骨にぶつけるほどではない。
赤司は一度だけ椅子を見やり、それから迷いなく腰を下ろした。
足を組む。背筋を伸ばし、視線を上げる。
正面で龍園が口の端をわずかに持ち上げる。
「それで、わざわざ人を呼びつけておいて、いったい何のようだ」
あくまでシラを切る声だった。だが、赤司にはその程度で揺らぐ気はない。
「ふっ、そう警戒するな。こちらからお前に何かするつもりはない」
穏やかな笑みを絶やさぬまま、赤司は懐から端末を取り出した。端末の画面が机上に映り込む。あえて、龍園から見える位置へ置く。
「ここでの会話を録音することもない。無意味な探り合いは不要だ」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、龍園の顎がクイと動いた。
「アルベルト。確認しろ」
「Yes,sir」
黒人の生徒――アルベルトと呼ばれた男が、重い足取りで赤司へ近づいた。眼差しは鋭く、動きには無駄がない。赤司は抵抗せず、静かに両手を見せる。胸元、袖口、腰回り、机の下まで、簡潔でありながら念入りなボディチェックが行われた。
やがてアルベルトは何も持っていないことを示すように、龍園へ向けて短く頷いた。
確認が取れたところで、龍園はどかりと机に足を上げる。品も遠慮もない。だが、その無作法さこそが彼の武器なのだろう。獰猛な笑みが、ついに表へ出た。
「ククク……赤司、お前を舐めてるつもりなんざ無かったが、これを送られてきた時はさすがに肝が冷えたぞ。いったい何処から読み切ってやがった?」
龍園の端末に表示されていたのは、一枚の写真だった。
空き教室へ入っていく南雲と龍園の姿。廊下の角から切り取られたその一瞬は、二人の関係を疑う者なら十分に意味を持つ。誰が見てもただの偶然とは思えない構図だった。
その写真は、七月一日の夕方に赤司へ送られてきたものだった。
ちょうど、その頃。龍園と南雲は、バスケ部に対する計画が思惑と違う方向へ進んでいることを把握し、急ぎ会合を持っていた。須藤の行動による計画の誤差が響いたゆえの対応であった。
赤司は端末に目を落としたまま、淡く息を吐く。
「いや、お前と南雲が関わっていることは可能性として考えていたが……その写真は俺が撮ったものでも、指示して撮らせたものでもない。この写真は俺の思惑を越えてきた一手だよ」
「なに?」
龍園の目がわずかに細まる。
「お前も分かって聞いているのだろう? Cクラスの生徒に俺や俺の周りの人間の行動を監視させていたのだから」
その瞬間、龍園の口元から笑みが消えることはなかったが、目の奥だけが鋭くなった。沈黙が、ほんの僅かだけ教室の温度を下げる。
今回の一件が公表されたタイミングから、龍園の息のかかったCクラスの生徒が、赤司と赤司に近しいAクラスの人間、それとバスケ部の人間を監視していた。
最悪の場合、妨害工作をされる可能性を考慮して、事件の捜査にはAクラスをあまり関わらせなかった。葛城に喫煙所の撮影こそ頼んだが、事件解決のそのものの材料ではないため、彼に任せていた。
逆に、事件の根幹を担う部室の検証や犯人の動線の確認には、Dクラスの二人に任せた。現に彼らには龍園の監視の目がついていなかった。
赤司の言葉から思案する龍園の指が机の上で一度だけ鳴った。
その音を合図にしたように、教室の空気が、また少しだけ張り詰める。
「……Dクラスの不良品共の中にテメェの想定を越え、俺を出し抜いたやつがいたってことか」
龍園はそう言いながら、赤司の表情を読む。目の前の男がどこまで知っているか。どこから情報を掴んでいるか。それを測っているのだ。
赤司は肩をすくめる。
「さあ? 俺はDクラスとは言ってないが」
「ぬかせ。今回の件でDクラスが動いていたことも、テメェに協力してた連中がいたことも分かってんだよ」
事実だった。
須藤のために動いた聞き込み調査は、すでに学年内で噂になっている。日数が短かったため成果こそ空振りだったが。
そして何より、堀北鈴音が審議の場に同席していたことが、龍園にとっては決定打だった。Dクラスとの協力関係を疑うには十分すぎる根拠だ。
龍園は喉の奥で低く笑った。
「クク……ゴミと侮っていたが、案外そうでも無いようだな」
龍園はDクラスの人間が、自身と南雲の関係に辿り着き写真を撮ったと当たりをつけていた、が――。
新たな獲物を見出したように、龍園の目がDクラスへと向く。
赤司は、教室の影が机の脚へ伸びていくのを見ながら、静かに言った。
「――では、そろそろ本題に入ろうか」
龍園が眉をひそめる。
「俺と手を組まないか? 龍園翔」
「…………なに?」
あまりに突拍子もない提案だったのだろう。さすがの龍園も、瞬きの間だけ表情を止めた。赤司はそれを見て、穏やかなまま続ける。
「協力と言ってもクラス間闘争のためのものじゃない。あくまで対南雲。そこに特化したものだ。特別試験などでは遠慮なくAクラスを叩いてもらって構わない」
龍園の目が、赤司を真正面から射抜く。
対南雲。そこだけに絞った協力。
その言葉は、龍園の興味を確かに引いた。
「お前も既に知っているんだろう? 俺が次の会長選に挑むことは。そもそもこの情報を持っていなければ、今回の件でお前が南雲と協力を結ぶことすらできなかったはずだ」
龍園の口角が、僅かに上がる。
否定はしない。それが答えだった。
赤司の言う通り、龍園は今回の計画を果たす為には南雲の協力が必要だと考え交渉を行なった。
南雲を交渉のテーブルに置くために切れるカードは少ない。だが、堀北学と赤司の密約について龍園が知っていたのなら話は変わる。
赤司は言葉を継ぐ。
「橋本正義。彼とお前が四月の段階から協定を結んでいたことは知っている。俺と堀北学の間に交わされた密約も、彼からの情報なんだろう?」
龍園の眼光がさらに鋭くなった。
赤司が橋本に辿り着いた理由は、単純な勘ではない。五月初頭、クラスポイントが発表された時のことだ。生徒会に身を置いていた赤司は、その推移がおおよそ予測できるだけの情報を持っていた。だが、Cクラスの数値は、赤司の想定よりわずかに残っていた。
そのわずかな誤差が、すべての違和感の始まりだった。
四月の段階で、龍園に近しい一部の生徒が、派手な行動を控えるようになっていた。粗暴な者が多いCクラスの中で、その変化は目立たないようでいて、赤司には見えていた。どこかで方針が変わっている。誰かが、龍園に何かを伝えている。
情報を持っていたのは、Aクラスの中でも一部だけだった。
その一部に入る者で、なおかつ龍園へ話を持ち込める位置にいる者。赤司の中で、その輪郭は自然と一人に収束していった。
「なるほどな。橋本はお前のスパイだったってことか」
「残念ながら違う。橋本には自由に立ち回れとは言ったが、俺には情報は流していないよ。そもそも彼は坂柳の持ち物だからね」
龍園は赤司の推察があまりにも正解であったため、橋本を赤司からの間者であると疑うが、赤司からはすぐに否定が入る。
「……どうだかな」
龍園は鼻で笑う。
「まあ、橋本としては俺の下に収まりたいところだろうが。生憎、ただの側付きは必要としてなくてね」
赤司もまた、薄く笑った。
龍園は、赤司の返答を値踏みするように見た。橋本は赤司の間者ではない。だが、赤司の推察は間違っていない。龍園にとって、その事実は十分に厄介だった。
しばらくして、赤司は話題を切る。
「話を戻すが、俺と組む気は無いか? 俺の推測が正しければ、お前は南雲に一杯食わされたと見てるんだがな」
「……チッ。どこまで読めてんだ、テメェは。そうだ、俺は南雲にお前を嵌める計画を売り付けた。そこまでは良かったが、アイツは俺との交渉を全て録音してやがった」
教室の影が、さらに濃くなる。
龍園は悔しさを噛み殺すように、片手で机を叩いた。
計画の立案は龍園。人員の手配は南雲。実行役は諸岡。しかも、南雲は自分の痕跡が残らぬよう、幾つも人を挟んで指示を回していたのだろう。だからこそ、今回の事件は表面上、南雲の影が見えにくい形に収まっていた。
だが、それでも南雲は抜け目がなかった。
「南雲も馬鹿じゃない。万が一の場合のために保険を用意しておくはずだ。だが、南雲もそう簡単にお前のことを密告できない。不自然なポイントの取引がお前達の間であるわけだからな」
赤司の言葉に、龍園は黙った。
今回の一件で、龍園は南雲に百万ポイントを要求している。計画が成功した場合、さらに上乗せで百万ポイント。あまりにも大きい。あまりにも不自然だ。この時期の一年生が受け取るには特に違和感の残る額。
だからこそ仮に、龍園が吊るされるなら、南雲も巻き添えになる可能性があった。
龍園も最悪の場合は、南雲を道連れにする程度の覚悟はしていたが――。
「一つ条件がある。テメェが会長になったところで俺にはなんらメリットがない。やるなら南雲を退学に追い込むまでやる。それが条件だ」
龍園は、吐き捨てるように言った。
赤司はその条件を一切ためらわず受け取る。
「……それだけでいいのか?」
「はあ?」
珍しく、龍園の顔に素の呆れが浮かんだ。
赤司は笑みを深める。
「いや、なに。学年を掌握している南雲が有する多量のプライベートポイント。それが退学によって霧散してしまうのは勿体無いと思ってな」
「ク、ク、クハハハハ。ツラに反してエグいこと考えてんな、お前」
龍園は腹を抱えるように笑った。
笑いながらも、その目は赤司を値踏みし続けている。結局のところ、この男もまた、赤司と同じく盤上の利を見ている。正義ではない。友情でもない。情けでもない。勝つために必要なものを見ている。
だからこそ、話は早い。
「良いだろう。ヤツを潰すという点だけなら組んでやってもいい。お前が欲しいのは選挙での票だろ?」
「ああ。選挙前に退学に追い込むことも不可能ではないが、現状で南雲が学校を去るのは堀北学の意図に反する。南雲を失墜させるのは、選挙を終えた後だ」
赤司の瞳に、少しだけ冷えた光が宿る。
堀北学は南雲を危険視している。だが、今すぐ学校を去らせるべきだとは考えていない。あくまで、赤司が抑止力として機能することを望んでいる。だからこそ、南雲を追い詰めるのは、赤司が会長となり、密約を果たした後でなければならない。
そのためには、まず票が必要だ。
学年を掌握する南雲と並ぶための、数が。
「充分だ。言っておくがお前が落選したら契約は破棄する」
「ああ、それで構わない」
赤司の返答は速かった。
龍園はしばしその顔を眺め、それから不快そうでも満足そうでもない、複雑な笑みを浮かべた。
こうして、二人の間に密約が結ばれた。
南雲を蹴落とし、奪えるものを奪い尽くすための、危うい共闘だった。
♢
男子バスケ部は、無事に決勝リーグへ進出した。そこからは、圧倒的な成績でインターハイの切符を掴み取る。赤司が前もって組み上げていた練習計画と、各選手の負荷管理が見事に噛み合った結果だった。
七月半ばの期末テストでも、Aクラスは崩れなかった。むしろ、赤司が用意した模擬テストの効果は大きく、学年でも高い平均点を残している。事件の余波で揺れる空気の中でも、クラスとしての土台は着実に固まっていた。
やがて夏休みに入り、七月末にはインターハイが行われる。
高育は勝ち上がり、決勝では五年連続で高校タイトルを総ナメしてきた京都代表、洛山高校を打ち破った。激戦の末、初優勝。赤司征十郎は大会最優秀選手にも選ばれた。
そして、八月。
青い海を切り裂くように進む豪華客船へ、赤司は足を踏み入れていた。
特別試験が待つ、その船へ。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
感想や評価も深く感謝いたします。
これでとりあえずは第二章は終わりです。
次は第3章の無人島特別試験編に入りますが、内容を練るためと、現在、膝の調子が悪く執筆が厳しいため、少し時間をいただければと思います。
具体的には5月24日から投稿を再開できればと思います。
よろしくお願いします。
今回の補足:今回の話で出た龍園周りの関係性が複雑かと思い解説と本文で説明しきれなかった分の補足。
龍園と南雲
赤司を嵌めるために組まれた今回限りの取引関係。龍園は赤司が堀北学と密約を結んでいるという情報をもとに、南雲を交渉のテーブルに座らせる。南雲に計画案と吸い殻を用意し龍園はポイントを確保するが、代償を払う結果となる。
龍園は赤司の得るポイントを阻止するため、南雲は自身に対抗しようとする赤司の影響力を削ぐため共謀した形。
ちなみに南雲は龍園から教えられて初めて、赤司と堀北学が自身に対抗しようとしていることに気がついた。
龍園と橋本
橋本から持ちかけた関係。4月途中に赤司がクラスポイントの仕組みを看破したことにより、その情報を交渉材料に橋本から龍園に近づいた。橋本は坂柳から教えられていた堀北学と赤司の密約という情報を龍園に流すことによって、今回の一件のきっかけを産んだ。