とある妹達の朔時救済(オリジンセイヴ)   作:でてこ@子(dc1394)

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第一話 目覚めたのは、私ではない

蝋燭の火は、もう祈りのための明かりではなかった。

 

 学園都市の外縁。使われなくなって久しい小さな礼拝堂は、夜の底で息を潜めていた。ひび割れた祭壇、煤けた壁、砕けた色硝子。祭具の代わりに並ぶのは、銀針と聖水と、血の滲んだ紙片ばかりだ。

 その中心に、ルクレツィア・サヴェッリは膝をついていた。

 

 十九歳の身体は、もう限界に近い。日本へ戻ってからここまで、まともに眠っていない。追跡を避け、学園都市には戻らず、外縁の偽装セーフハウスを転々としながら、彼女はたった一冊の禁書を読み切った。

 還時典書。

 バチカン中央典書庫地下封鎖区画《封墓庫》。第三次世界大戦の混乱で一時的に管理が緩んだその場所で、彼女は偶然ではなく、執念であの書へ辿り着いた。

 

 世界をやり直すためではない。

 たったひとつの夜を、少しでも前へずらすために。

 自分がまだ、間に合う位置に立てるように。

 そのためだけに。

 

 祭壇に開かれた還時典書の頁には、血でなぞった術式名があった。

 遡時自己還帰。

 本来なら、術者自身の精神と記憶を、過去の自分へ送り返す禁術。

 肉体は持っていけない。霊装も、名前も、罪も持っていけない。

 それでも、記憶だけは戻る。

 戻れば変えられる。

 変えなければならない。

 

 ルクレツィアは目を閉じた。

 瞼の裏に浮かぶのは、戦火ではない。

 研究区画の冷たい路地。照明に白く照らされたアスファルト。血の匂い。

 その中で、同じ顔の少女たちが何度も死んだ。

 

 御坂妹。

 番号で呼ばれ、実験動物として消費されていった少女たち。

 彼女は何度も見た。死体だけではない。殺される直前の顔を、殺される瞬間の目を、何度もだ。

 痛みに歪むより先に、受け入れてしまっている顔。

 自分が部品でしかないことに、慣らされてしまった顔。

 

 その表情が、エレナの最期とよく似ていた。

 番号で呼ばれ、最後まで人間として扱われなかった少女。ルクレツィアだけが密かに名前を与えた少女。

 

 どうして、そんな顔をする。

 どうして、誰も怒らない。

 どうして、自分は助けに踏み込まなかった。

 

 一方通行に単独で勝てないことは分かっていた。工作員として露見すれば、その場で自分が潰れて終わることも。合理的だった。正しかった。少なくとも、現場の人間としては。

 それでも。

 それでも結局、上条当麻が止めたのだ。

 

 止めてくれてよかった、とルクレツィアは思った。

 同時に、吐き気がするほど惨めだった。

 止めたのが自分ではなかったことが。

 止まった時には、もう一万三十一人が死んでいたことが。

 

「……戻る」

 

 掠れた声が、礼拝堂の壁へ吸い込まれた。

 術式は、すでに限界まで組み上がっている。学園都市の中ではできなかった。あの街でこれを起動すれば、アレイスターに妨害されると分かっていた。だから外でやるしかなかった。

 それでも座標は日本に近い方がいい。戻る先は、あの夜より前の、自分自身。

 御坂妹事件の直前。

 まだミサカ一号が殺されていない夜。

 そこへ帰る。

 帰って、止める。

 

 ルクレツィアは還時典書へ掌を置いた。紙は古びているのに、奇妙な熱を持っていた。まるで墓の底で腐り切らなかった何かが、まだ脈打っているみたいに。

 

「神よ、なんて呼ばない」

 

 彼女は、唇を乾かしたまま笑った。

 

「祈りじゃない。これは、ただの犯罪よ」

 

 頁の上へ血が落ちる。

 銀針が、ち、と鳴った。

 その小さな音は次の瞬間、耳の奥へ直接差し込まれる高音になった。三半規管を爪で引っかかれるような不快な震えが、頭蓋の内側を走る。聖水が沸き、小瓶の中で白く泡立つ。鉄と塩と血の匂いが、一度に鼻へ押し寄せた。

 

 床が沈む。

 いや、沈んだのは床ではない。自分の内臓だ。胃が、肺が、喉が、身体の内側だけを下へ引かれ、皮膚だけが遅れてついていく。指先は冷たいのに、眼球の裏だけが焼けるように熱い。

 

 術が動いた。

 そう理解した瞬間、世界の輪郭が反転した。

 礼拝堂のひびが逆向きに走る。蝋燭の蝋が上へ戻る。落ちた血が紙面の上を這い、傷口へ帰ろうとする。時間は確かに遡っていた。

 

 成功した、とルクレツィアは思った。

 次の瞬間、それが勘違いだったと知った。

 戻っているのに、自分が定まらない。

 過去の自分へ刺さるはずの針が、どこにも留まらない。

 

 その時、記憶が逆流した。

 順番もなく、意味もなく、引き裂かれた頁のように。

 白い研究室で、エレナが初めて自分の名前を書いた時の、震える指。

 路地裏で、ミサカ九九八二号が淡々と告げた「それでも、とミサカは言います」。

 血に濡れた路面の向こうで、上条当麻の背中だけがやけに真っ直ぐ立っていた夜。

 エレナの目。御坂妹の目。上条の背中。番号。声。祈り。怒り。間に合わなかったという感情だけが、術式の中心に一斉に流れ込む。

 

 戻る先は一つのはずなのに、掴んだ糸が多すぎた。

 自分の過去へ結び付くべき線に、救えなかった少女たちの顔が絡みついて離れない。

 

「違う――っ」

 

 肺が潰れたみたいに、声がひしゃげた。

 戻るのは、私だ。

 私の身体だ。

 私の、

 

 そこで視界が白く裂けた。

 礼拝堂も、祭壇も、還時典書も、銀針も、世界ごと砕ける。凍えるような冷たさと、焼けるような熱さが同時に襲ってきた。自分の輪郭が剥がれ、骨の隙間から零れていく感覚だけが異様に鮮明だった。

 最後に残ったのは、ひどく高い、子供の悲鳴みたいな自分の声だった。

 

 

   *

 

 

 薬品の匂いがした。

 まず、それが嫌だった。

 消毒液。乾いたシーツ。機械の規則正しい電子音。鼻の奥へ入り込んでくる、病院の匂い。

 死後の世界にしては、あまりにも現実的すぎる。

 

 次に嫌だったのは、自分の身体が軽すぎることだった。

 息を吸うだけで胸郭の薄さが分かる。指を動かすだけで、骨の細さが分かる。首を起こしかけて、視界がぐらりと傾いた。

 何だ、これは。

 喉がひどく痛い。口の中が乾いている。腕が短い。髪が頬に触れる位置が、記憶しているよりずっと近い。

 

 理解が追いつかない。

 だが、ひとつだけ分かる。

 これは自分の身体ではない。

 自分ではない、誰か別の子供の身体に、自分の意識だけが押し込まれている。

 

 理解が追いつく前に、声が降ってきた。

 

「――目が覚めたんだね? 良かったんだね。君は交通事故に遭ってから、ずっと眠っていたんだからね?」

 

 ルクレツィアは反射的にそちらを見た。

 白い天井。

 白いカーテン。

 白衣の男。

 小柄で、妙に丸い影を持つその男は、こちらと目が合うと少しだけ眉を上げた。飄々としている。だが、目だけは患者を見失わない種類の目だった。

 

 答えようとして、喉が焼けるように痛んだ。

 音にならない。

 男はすぐにコップへ手を伸ばし、ストローを口元へ寄せてきた。

 

「無理に喋らなくていいんだね? いまは水を飲むんだね?」

 

 ルクレツィアは一口だけ水を含んだ。冷たさが喉を滑り落ちる。たったそれだけのことで、世界が少しだけ現実になる。

 

「……ここ、は」

 

 高い。

 自分の声が、驚くほど高い。

 男は落ち着いたまま頷いた。

 

「病院だね? 学園都市の病院なんだね?」

 

 学園都市。

 その単語だけで、心臓がひどく鳴った。

 外でやった。学園都市の外で。アレイスターを避けるために。

 なのに目を覚ました場所は、結局その内側だ。

 失敗したのか。

 それとも、失敗させられたのか。

 そこまで考えて、すぐに打ち消す。いま確かめようのない疑念を広げても意味はない。だが胸の底に、冷たい針のような感触だけは残った。

 

「君、自分の名前は言えるかい?」

 

 言えない。

 口の中で反射的に浮かぶのは、ルクレツィア・サヴェッリだ。だが、そんな名をここで名乗るわけにはいかない。では、この身体の名前は何だ。知らない。何もない。

 記憶は空白だった。

 自分のものではない子供の思い出が、どこかに混ざっていることもない。ただ、知らない身体だけがここにある。

 

「……分からないんだね?」

 

 男の声は責めなかった。

 ルクレツィアは、かすかに頷いた。

 

「いいんだね。焦らなくていいんだね? 頭の中が混乱しているなら、順番に戻していけばいいんだからね?」

 

 順番に。

 そうだ。順番だ。

 呼吸を数える。一、二、三。胸の浅さが気持ち悪い。四、五。視界の揺れは少し収まった。

 

「……年、は」

 

「年号を知りたいんだね?」

 

 頷く。

 男は少しだけこちらを見て、それからカルテへ目を落とした。記憶混乱の確認だと思ったのだろう。

 彼が口にした年は、自分が学園都市へ潜入した年より三年前のものだった。

 

 その場で息が止まりそうになった。

 三年前。

 御坂妹事件より、さらに前。

 上条当麻が止めるより前どころではない。ミサカ一号が殺される前ですらない。自分が学園都市へ潜入するより前の時点に、飛ばされている。

 安堵が、遅れてきた。

 同時に、吐き気がした。

 

 そんなに前へ戻れたのか。

 いや、待て。では私はいま何だ。自分はどこにいる。自分の身体はどこだ。ここにあるこの細い腕は、誰のものだ。

 ルクレツィアは勢いよくシーツを握り、起き上がろうとして、そのまま激しく咳き込んだ。

 

「無茶しないんだね?」

 

 男がすぐに肩へ手を添える。

 

「いま倒れ直したら、僕が困るんだからね?」

 

「……鏡」

 

 掠れた声で、ルクレツィアは言った。

 

「鏡を、ください」

 

 男は一瞬だけ考え、それから看護台の小さな手鏡を取って渡してきた。

 

「刺激が強いなら、すぐ戻すんだね?」

 

 ルクレツィアは震える指で鏡を受け取った。

 映った顔は、知らなかった。

 子供だった。

 目が大きい。頬がまだ丸い。髪は肩より上で、骨格は細く、いかにも長く寝ていた身体の弱さが残っている。整ってはいる。だが、十九歳の自分ではない。

 喉の奥から、ひゅ、と空気の抜ける音がした。

 知っている誰にも似ていない。

 少なくとも、ルクレツィアには似ていない。

 鏡の中の少女は、蒼白になった顔でこちらを見返していた。

 

 十九歳の自分の顔を思い出そうとして、ルクレツィアはそこで初めて怯えた。

 額。目元。口元。輪郭。

 あるはずの記憶が、思い出そうとするほど曖昧に溶ける。

 否定するための元の顔まで、もう指先でなぞれない。

 

「……嘘でしょう」

 

 さっきまでの冷静さは、そこで完全に切れた。

 肩が震える。指が滑る。鏡を落としかけて、男が受け止める。

 

「一つずつにしてほしいんだね? 僕も万能じゃないんだからね?」

 

 ふざけたような言い方だった。

 けれど、その声が少しだけ現実に引き戻す。

 ルクレツィアは荒い息のまま、唇を噛んだ。

 

 失敗した。

 それだけは分かる。

 自分の過去へ戻るはずだった術は失敗し、自分のものではない子供の身体に叩き込まれた。

 どういう理屈でこうなったのかは分からない。元のこの子がどうなったのかも分からない。だが、少なくとも――。

 まだ、間に合う。

 その事実だけが、辛うじて彼女を座らせていた。

 

 男がこちらを観察する目つきになった。

 

「年を聞いて、さっき少し安心したんだね? いまは鏡を見て怯えたんだね? その反応は、なかなか忙しいんだね?」

 

 ルクレツィアは答えなかった。

 答えられない。

 いま口を開けば、何を喋るか分からない。

 

「……先生」

 

「うん?」

 

「名前、は」

 

「僕かい? みんな冥土返しって呼ぶんだね?」

 

 ふざけた呼び名だ、と思った。

 だが、その目は一瞬たりともふざけていない。

 

「君の方は、朔夜紫苑くんだね? カルテの上では、そういうことになっているんだね?」

 

 朔夜紫苑。

 名前を聞いても、何も浮かばない。

 自分の名前ではない、ということだけが分かる。

 そして何も浮かばないという事実そのものが、かえってぞっとした。

 

「質問はたくさんある顔なんだね?」

 

 冥土返しは椅子を引いて腰掛けた。

 

「でも、いま全部は答えられないんだね? 僕が知っているのは、君が四年前に交通事故に遭って、そこからずっと眠っていたこと。今日ようやく目が覚めたこと。それだけなんだね?」

 

「……両親、は」

 

「連絡はしてあるんだね? ただ、学園都市は外の人が入るのに通行許可がいるんだね?」

 

 冥土返しは、カルテの角を指で軽く叩いた。

 

「緊急の家族面会で手続きは回してあるんだけどね? 今夜は間に合わないはずなんだね。早くて明日だね?」

 

 胃の底が冷えた。

 戦争より先に来る最初の難関は、今すぐではない。

 けれど、逃げ切れるほど遠くもない。

 この身体の両親。

 本物の朔夜紫苑を知っている人たち。

 明日、その人たちが来る。

 猶予が一晩ある、と思った瞬間、逆に息が苦しくなった。

 準備できることなど何一つない。ただ、怯える時間だけが増えた。

 

「顔色が悪いんだね?」

 

「……怖い」

 

 嘘ではなかった。

 冥土返しは少しだけ目を細めた。

 

「そうだろうね? 目が覚めたら四年も経っていたんだからね?」

 

「……先生」

 

「うん?」

 

「……私、変かもしれません。それでも、診てくれますか」

 

 子供らしくない言い方だ、と口に出した瞬間に分かった。

 だが、言い直す余裕はなかった。

 

 冥土返しはそこで、初めて少しだけ真面目な顔をした。

 

「僕は医者なんだね? 変だから診ない、なんてことはしないんだね?」

 

 その一言に、ルクレツィアはわずかな救いを感じてしまった。

 この男はまだ何も知らない。

 けれど少なくとも、目の前の患者を人間として扱う。

 それだけで十分だった。

 

 

   *

 

 

 その夜は、少しも眠れなかった。

 

 消灯後も病室は完全には暗くならず、モニターの緑の光が壁の端で脈を打っていた。看護師が何度か様子を見に来て、点滴を替え、温度を測り、静かに出て行った。そのたびにルクレツィアは目を閉じたふりをしたが、まぶたの裏では礼拝堂の白い破裂と、路地に広がる血と、エレナの目が順番を失ったまま浮かんでは消えた。

 

 眠るのが怖かった。

 次に目を開けた時、また別の身体に入っていたらどうする。

 あるいは今度こそ、本当に何もなくなっていたら。

 

 ベッドの柵に触れる。

 細い指。小さい手。

 手首の入院用バンドには、朔夜紫苑と印字されていた。

 

 知らない名前だ。

 けれど、明日にはその名前で呼ぶ人たちが来る。

 自分は娘のふりをしなければならないのか。

 それとも、何も覚えていない子供でいればいいのか。

 どちらにしても、真実だけは言えない。

 

 夜が長かった。

 朝は、それ以上に早かった。

 

 

   *

 

 

 翌日の昼前、病室の空気が変わった。

 

 廊下の足音が一度止まり、看護師の低い声が聞こえ、扉が開く。最初に見えたのは、来訪者用の許可証を首から下げた、眼鏡の男だった。四十代半ばと見える。眼鏡の奥の目は赤い。きっと一晩ろくに眠らなかったのだろう。けれど姿勢だけは崩していない。感情に押し流される前に、形だけでも立っていようとする人間の顔だった。

 

「紫苑……」

 

 たった二文字の呼びかけが、ひどく重い。

 

 その後ろの女は、呼吸ひとつ乱していなかった。白衣こそ着ていないが、病人を前にした時の目の動きが妙に速い。視線が最初に向かったのは涙ではなく、ルクレツィアの顔色と瞳孔と、点滴の流量だった。

 そして最後に、幼い男の子が女の脚の後ろから覗いた。

 年齢は四つか五つくらいだろう。ルクレツィアの記憶には当然いない。だが彼は、病室のベッドの上の少女を疑いようもなく姉だと思っている目をしていた。

 

「……紫苑」

 

 男がもう一度、今度は少しだけ震えた声で言った。

 

「戻ってきてくれて、よかった」

 

 その一言に、ルクレツィアはほとんど呼吸を忘れた。

 戻ってきて、いない。

 あなたたちの娘はここにはいない。

 そう言いたくなる衝動を、彼女は奥歯で噛み潰した。

 

「……ごめん、なさい」

 

 出てきたのは謝罪だった。

 男はすぐに首を振る。

 

「謝ることじゃない」

 

「そうよ」

 

 女が静かに続けた。

 

「あなたは眠っていただけ。悪いことは何もしていないわ」

 

 その言い方は、慰めるより先に相手の状態を確かめる人のものにも聞こえた。母親の声としては少し整いすぎている。けれど、その整い方にかえって本物の優しさがあった。

 ルクレツィアには、それがつらい。

 敵の優しさなら、切り捨てられる。

 こんなふうに、何も知らずに差し出される信頼は、どうやって受け止めればいい。

 

「紫苑」

 

 女がベッドのそばへ一歩近づく。

 

「分かることだけでいいの。頭痛は? 吐き気は? ここがどこか、分かる?」

 

「……病院」

 

「お父さんとお母さんは?」

 

 試すような問いだった。

 ルクレツィアは一瞬だけ迷い、それから小さく頷く。

 

「……お父さんと、お母さん……だと、思います」

 

 女はほんのわずかに目を細め、それから柔らかく頷いた。

 

「ええ。それで十分よ」

 

 やはり観察されている。

 真相ではない。だが、何かが以前と違うことは確実に気づかれている。

 

 幼い男の子が、ようやく女の後ろから出てきた。

 小さな手に、折り紙が握られている。色も形も崩れた、不格好な鶴だった。

 

「おねえちゃん」

 

 舌足らずな声。

 

「これ、あげる」

 

 それだけで、ルクレツィアはひどく困った。

 本物の姉ではない。

 なのに、この子にとっては、疑いようもなく姉だ。

 彼は昔の朔夜紫苑を知らないのだろう。眠っていた姉しか記憶していないのかもしれない。だからこそ、いまベッドの上にいる誰かを、そのまま受け入れられてしまう。

 それが、いちばん残酷だった。

 

「……ありがとう」

 

 受け取った折り紙は、驚くほど軽かった。

 男の子は照れたように笑い、次の瞬間にはもう安心している。子供の信頼は早い。

 

 女はその横顔を見て、少しだけ息をついた。

 

「景理、少しだけ外で待てる?」

 

「えー」

 

「あとでまた入っていいから」

 

 不満そうにしながらも、景理は素直に頷いた。男がその小さな手を取る。

 

「行こう」

 

 扉際で女が言う。

 

「統理さん、お願い」

 

 統理。秩序と理を重ねたみたいな、硬い名前だと場違いに思った。

 男は頷き、扉のところで一度だけ振り返った。

 

「澄璃、あまり無理をするな」

 

 澄璃。音だけなら、花の名にも聞こえる。

 

 扉が閉まり、病室に二人だけが残る。

 空気が少しだけ変わる。

 

「紫苑」

 

「……はい」

 

「いま、何が一番つらい?」

 

 診る側の問いだった。

 同時に、母親の問いでもあった。

 頭痛か、視界か、記憶か、混乱か。そういう答えを期待している。

 ルクレツィアは、ほんの少しだけ唇を噛んだ。

 本当のことは言えない。

 けれど全部が嘘でもいられない。

 

「……みんなが、私を知ってること」

 

 澄璃の目が、微かに揺れた。

 

「私は、みんなのことをちゃんと覚えていないのに」

 

 それは事実だった。少なくとも、この身体の人生については。

 澄璃は数秒黙り、ゆっくり頷いた。

 

「そう」

 

 彼女はベッド脇の椅子へ腰掛けた。

 

「じゃあ、急がなくていいわ。覚えていないなら、覚えていないままで。私たちの方が、何度でも教えるから」

 

 優しすぎる。

 ルクレツィアは視線を下げた。

 その言葉を受け取ってしまったら、ますます引き返せなくなる。

 自分は、この家の娘ではないのに。

 この身体を返す日が、いつか来るかもしれないのに。

 

「……お母さん」

 

 試すように呼ぶと、澄璃は目を細めた。嬉しさと安堵が一瞬だけ出て、それからすぐ観察する人の表情へ戻る。

 

「なに?」

 

「しばらく……変でも、怒らないで」

 

 澄璃は微笑んだ。

 

「怒るわけないでしょう」

 

 それは母の答えだった。

 ルクレツィアは、その人から目を逸らした。

 戦場で血を見るより、ずっと苦しい。

 

 けれど。

 それでも。

 この痛みごと背負わなければ、一人も救えない。

 なら、背負うしかない。

 

 冥土返しが病室を出る前、扉のところで一度だけ振り返った。

 カルテを閉じるより長い時間、彼はベッドの上の少女を見ていた。

 何かを断定する目ではない。

 だが、ただの病み上がりの子供として片づけてもいない目だった。

 

 ルクレツィアは、いや、朔夜紫苑は、初めて自分の中でその名を飲み込んだ。

 借り物の人生だ。

 それでも、いまはこの名前で進むしかない。

 今度こそ、間に合わせるために。

 

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