機動戦士ガンダム0092 サウス・ナポリの「キッカの家」 ホワイトベースの少女とシャングリラの孤児たちが、放課後のキッチンで幸せを盛り付ける話 作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
窓の外では、依然としてサウス・ナポリの湿った雨が降り続いていた。
「ククルス・アパート」の狭いキッチンには、ベルファスト風シチューの温かな名残が漂っている。けれど、その穏やかな空気とは裏腹に、テーブルの端に座るステファニー・ルオの背中は、精密機械のような危うい均衡を保っていた。
彼女が持ち込んだ最高級のアスパラガスは、今は保冷ケースの中で静かに眠っている。ステファニーは、自分の端末に届く無数の通知を、指先ひとつで冷酷に弾き飛ばしていた。
「……ステファニー、またルオ商会からの呼び出し?」
リィナが、眼鏡の奥の瞳を和らげて問いかけた。彼女はセイラ・マスさんの元で教育を受けただけあって、他人の心の機微を察する能力が、私たちとは比較にならないほど鋭い。
「呼び出しというよりは、督促ですわ。……父も兄も、私を地球に置いておくのが不安で仕方ないのでしょう。シャア・アズナブルがスウィート・ウォーターを占拠したという噂が、政界の裏では既成事実として流れていますから」
ステファニーの声は硬い。二十歳の彼女は、本来なら青春を謳歌する大学生であるはずなのに、その肩には「ルオ商会」という巨大な資本の重圧が、重力以上にのしかかっている。
「家業なんて、都合のいい言葉。私はただ、商会の未来を繋ぐためのスペアパーツ(予備部品)に過ぎませんのよ」
自嘲気味に笑う彼女の横顔を見て、私は胸が締め付けられるような思いがした。ベルファストの戦火の中で、生きるために文字通りパーツを奪い合っていた私と、何不自由ない生活の中でパーツとして扱われる彼女。形は違えど、私たちは同じように「宇宙世紀というシステム」の歯車の中にいた。
「ねえ、リィナさん。ステファニーさんのために、何か作りませんか」
私は、思わずリィナの方を振り返った。
「ええ。私も同じことを考えていたわ。ミリー、キッチンを借りてもいいかしら?」
リィナが立ち上がった。彼女が自ら包丁を握るのは珍しい。
リィナ・アーシタ。彼女はネオ・ジオン抗争の渦中で、兄と離れ、生き抜いてきた強さを持っている。彼女が今日選んだのは、ステファニーが差し入れてくれた高級食材ではなく、棚の奥に眠っていた、製菓用のカカオ・マスだった。
「エル、火加減を見ていてくれる?」
「了解! リィナの料理なんて、シャングリラ以来じゃない?」
エルが快活に笑い、アナログな加熱器の出力を調整する。
リィナは、ボウルに細かく刻んだチョコを入れ、湯煎にかけた。
甘い香りが立ち上がる。けれど、それはフード・コンポジターが出力する「チョコレート風」の記号的な甘さではない。カカオ本来の、土の匂いと、隠しようのない苦味を含んだ、重厚な香りだ。
「ステファニー。大人の味っていうのは、ただ甘いだけじゃないのよ」
リィナの指先が、流れるような動作でチョコとバターを練り上げていく。彼女の所作には、かつての「戦士たち」を支えたセイラさんの気品と、荒廃したコロニーで逞しく生きた少女の泥臭さが同居していた。
私は、リィナの指示に従って、卵を泡立てる。
一滴の水分も混ざらないよう、慎重に。
宇宙世紀の最新技術を使えば、全自動でフォンダンショコラの完成形を出力できるだろう。けれど、リィナはあえて、自分の手で生地の重さを確かめている。
「……なぜ、そんな面倒なことをなさるのですの?」
ステファニーが、吸い寄せられるようにキッチンへ近づいてきた。
「効率を考えれば、ルオ商会の専属シェフに焼かせた方が、成分的にも完璧なものが出来上がるはずですわ」
「そうね。でも、これは成分を食べているんじゃないの。……私たちは、今の自分たちの『迷い』を、この生地と一緒に練り込んでいるのよ」
リィナは静かに答え、生地を型に流し込んだ。
加熱器の中で、熱がゆっくりと生地を膨らませていく。
香りは次第に強まり、苦味を含んだ芳醇な匂いが、雨の湿気と混ざり合って、アパートの廊下まで溢れ出していた。
「……焼けましたわ」
リィナが取り出したのは、表面にわずかな亀裂が入った、不格好な褐色の塊。
粉糖で薄く化粧を施されたそれは、ステファニーが普段目にしている、宝石のようなスイーツとは程遠い。
「食べてみて。……中が熱いうちに」
ステファニーは、促されるままにフォークを入れた。
サクッとした表面が崩れると、中から濃厚なチョコの溶岩が溢れ出す。
「……苦い」
一口食べたステファニーが、小さく声を漏らした。
「ええ。とても苦い。……でも、後から来るこの微かな甘さが、生きてる実感をくれないかしら?」
リィナの言葉に、ステファニーは二口目、三口目を運んだ。
彼女の頬が、ゆっくりと赤らんでいく。
「……そうですわね。……甘いだけでは、この世界は生き抜いていけませんもの。……苦さを知っているから、この一口の価値がわかる。……私、ルオ商会の娘として、ずっと『完璧』であることを求められてきましたわ。でも、リィナ様のこの……少し焦げた苦味の方が、ずっと信頼できますの」
ステファニーの目から、大粒の涙が零れ落ち、チョコのソースと混ざり合った。
それは、彼女が「令嬢」という役割を脱ぎ捨て、一人の二十歳の少女に戻った瞬間だった。
「いいじゃない、苦くて。あたしたちの人生、甘いことなんて一割もなかったんだから」
エルが自分の分のショコラを豪快に頬張りながら、ステファニーの背中を叩いた。
キッカも「私も! リィナの料理、ハヤトお父さんにも食べさせたかったな」と、寂しげに、けれど幸せそうに笑う。
私は、自分の分を一口食べた。
カカオの強烈な苦味が、舌の上で暴れる。
それは、ベルファストの空き家で、ミハル姉さんと分け合った、配給の黒パンの味に似ていた。
あのパンも、ひどく苦くて、硬かった。
けれど、あの苦味があったから、私は今もこうして、自分の足で地球の重力を踏みしめていられる。
「ミリーさん。……私、もう少しだけ、ここにいてもよろしくて?」
ステファニーが、涙を拭いながら私を見た。
「もちろんです。……デザートの後は、また明日のもやしの下ごしらえが待っていますから」
私の言葉に、彼女は「ふふっ」と、今度は迷いのない笑みを返した。
外では、依然として雨が降り続いている。
一年後の宣戦布告。その後の、アクシズという絶望。
宇宙世紀の歴史は、私たちの預かり知らないところで、さらに苦い未来へと舵を切っている。
けれど、このビター・ショコラの温かさを知った私たちは、きっと、その苦味さえも糧にしていける。
大人の階段を登るということは、苦さを避けることではなく、その苦さを「美味しい」と感じられるようになることなのだと、リィナの背中が教えてくれた。
「おかわり、ないの?」
エルの声に、リィナが「自分で作りなさい」と笑いながら返す。
その笑い声は、ミノフスキー粒子の霧を晴らすように、私たちの食卓を明るく照らし出していた。
宇宙世紀0092年、六月。
雨音は、いつの間にか心地よい子守唄へと変わっていた。