廻る世界、渡る魂   作:月影うみ

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変貌

「たぁぁぁっ!!」

 

裂帛の気合と共に、青みがかった白髪が宙を舞う。

シアが大地を蹴り飛び、虚空から急降下しながら手にした獲物を振り下ろした。

 

うみから借り受けた一級呪具――『千鈞』。

普段は短刀ほどのサイズに収まった小槌の形状をしているが、持ち主の意思に呼応して、瞬時に『超重量級の大槌』へとその質量とサイズを爆発的に膨張させる特能を持つ。

単純極まりないが故に、取り回しの良さとその質量による絶大な破壊力を両立させた強力な呪具である。

兎人族本来の身体能力をさらに限界まで引き出し、最大サイズまで肥大化した大槌を叩きつけるその一撃は、まさに物理法則を無視した暴力そのもの。

風を切り裂き、轟音を従えて目標へと迫る。

 

「……『緋槍』」

 

それを正面から迎え撃つのは、ユエが放つ深紅の火炎槍。

超質量の物理打撃と、全てを灰塵に帰す魔法が激突し、凄まじい衝撃波がハルツィナ樹海の霧を吹き飛ばした。

 

「まだですぅ!」

 

相殺された衝撃を利用し、シアは空中の足場すらない場所で無理やり軌道を変える。

着地した瞬間に気配をゼロへと落とし、霧の中へと姿を消した。

同時に、手にした『千鈞』を瞬時に元の小槌サイズへと戻し、重量や体積による隠密の阻害要因を完全に消し去っている。

兎人族の生来の隠密能力と、ユエとの特訓で培った魔力操作が見事に噛み合った暗殺戦法だ。

 

「……そこ」

 

だが、ユエは動じない。全方位へ展開した魔力探知が、背後から迫る僅かな空気の揺らぎを捉えた。

死角から音もなく忍び寄ったシアが、再び『千鈞』を最大サイズへ膨張させ、必殺のフルスイングを放つ。

 

「『風壁』」

「あぐっ!?」

 

大槌が直撃する寸前、ユエの周囲に展開された分厚い風の障壁が、シアの身体ごと激しく弾き飛ばした。

さらに、空中で体勢を崩したシアへ向けて、ユエは容赦なく追撃の魔法を放つ。

 

「『凍柩』」

「ふぇ!? ちょっ、まっ――」

 

着地した瞬間、足元から一気に氷結魔法が這い上がり、シアは首から下を完全に氷漬けにされてしまった。

 

「づ、づめたいぃ〜! 早く解いてくださいよぉ〜、ユエさ〜ん!」

「……私の勝ち」

 

鼻水を垂らしながら涙目で訴えるシアを見下ろし、ユエは淡々と勝利を宣言した。

ハルツィナ樹海での特訓開始から十日目。

ここまでの特訓の総仕上げ。『最終試験』と称した模擬戦であった。

 

「うぅ〜、そんな〜! ……って、それ! ユエさんの頬っぺ! キズです! 傷付いてますよ!」

「……」

「あはは〜! やりましたぁ! 私の攻撃、当たってますぅ! 私の勝ちです!」

 

顔から上だけの状態で、ウサミミをピコピコと揺らして大喜びするシア。

言われてみれば、ユエの白い頬には、先ほどの攻防で飛んできた石の破片が掠ったような、本当にミリ単位の小さな傷がついていた。 事前の条件は、『シアがほんの僅かでもユエを傷つけられたら勝利』。 つまり、一本は一本。シアの勝利である。

 

だが、この結果はユエにとって非常に面白くないものであった。

彼女は無表情のままスッと頬の傷が『自動再生』で消えたのをいいことに、プイッとそっぽを向いて平然としらばっくれた。

 

「……傷なんてない」

「んなっ!? 今、ズルしましたね!? 治したのをいいことに誤魔化すなんて卑怯ですよぉ!」

 

猛抗議するシアだが、ユエは頑なに目を合わせようとしない。

 

「ていうか、いい加減魔法解いてくださいよぉ……さっきから寒くて寒くて……あれっ、なんだか眠くなってきたような……」

 

うつらうつらし始めたシアを見て、ユエは心底気が進まないといった様子で深い溜息を吐き、魔法を解除した。

 

「ぴくちっ! ……あうぅ、危うく帰らぬウサギになるところでした……」

 

近くの葉っぱでチーンと鼻をかんだ後、シアは真剣な瞳でユエを見つめた。

 

「ユエさん。私、勝ちましたよ」

「…………ん」

「約束、守ってくれますよね? もし十日以内に一度でも勝てたら……うみくんの旅に同行するのを認めてくれて、説得の援護をしてくれるって」

「………………今日のごはん、何だっけ?」

「誤魔化さないでくださいっ! ユエさんが味方してくれたら、九割方OKもらえるんですからぁ!」

 

ぎゃーぎゃーと騒ぐシアを、ユエは非常に鬱陶しそうに、そして複雑な思いで睨んだ。

 

現状、シアのうみへの感情は「可愛い弟」に対する家族愛や親愛に近い。

彼女が同行すれば間違いなくうみに構ってほしくてちょっかいをかけまくるだろう。

それは即ち、ユエがうみに相手をしてもらえる時間が減るということを意味する。

さらに言えば、今は大丈夫だとしても、この先過酷な旅を共にし、うみの圧倒的な強さや規格外の優しさに触れ続ければ、シアがうみに惚れないという保証はない。

否、惚れるに決まっているのだ。

ユエ自身がうみの底知れぬ魅力を誰よりも理解しており、彼を一人の異性として強く意識しているからこそ、「これほど完璧な人に、この残念ウサギが惚れないわけがない」と確信していた。

 

だからこそ、ユエはシアの同行を快く思っていなかった。

しかし、もしここで同行を拒否して逃げれば、「兄をシアに取られるかもしれない」という危機感を抱いていると認めることになる。

それはつまり、自分がこの騒がしいだけのウサギに対して、『女として劣っている』と認めることに他ならない。

ユエの異常なまでに高いプライドと『女の意地』が、そんなことを許すはずがなかった。

それ故に、実力で排除すべく、ユエはこの勝負を受けて立ったのだ。

 

そして結果は、この十日間、ユエの課した地獄の魔法特訓を死に物狂いで生き延びたシアの勝利に終わった。

 

「……はぁ。わかった。約束は守る」

「ホントですか!? やっぱりやーめた、とか無しですよ!」

「……………………ん」

 

渋々、本当に渋々といった様子で頷くユエ。

 

「何だかその異様に長い間が気になりますが……ホント、お願いしますよ?」

「……しつこい」

 

不機嫌の極みといった顔のユエと、不安ながらも希望に満ちた上機嫌なシア。

正反対の空気を纏う二人は、ハウリア族の教官として指導をしているうみのもとへ、連れ立って歩き出した。

 

***

 

ユエとシアがうみのもとへ到着したとき、うみは拠点の切り株に腰掛け、頬杖をつきながらのんびりと待機しているところだった。

二人の気配に気が付いたのか、うみはゆっくりと視線を向ける。

全く正反対の雰囲気を纏わせているユエとシアに訝しそうにしつつ、軽く片手を上げて声をかけた。

 

「無事終わったっぽいね」

「うみくん! うみくん! 聞いて下さい! 私、遂にユエさんに勝ちましたよ!」

 

うみの声を聞くや否や、シアがウサミミをばっさばっさと揺らしながら猛烈な勢いで駆け寄ってきた。

 

「大勝利ですよ! いや〜、うみくんにもお見せしたかったですぅ!

私の華麗なる戦いぶりを! 負けたと知った時のユエさんたら、もう、もへぶっ!?」

 

身振り手振りで大はしゃぎしながら戦いの顛末を語るシアだったが、調子に乗りすぎた。

背後から歩いてきたユエの無慈悲な飛び蹴りが炸裂し、シアは錐揉み回転しながら吹き飛んでドシャッ! と地面に倒れ込んだ。

よほど強烈だったのか、ピクピクと痙攣したまま起き上がる気配がない。

 

フンッ、と鼻を鳴らし、さらに不機嫌そうにそっぽを向くユエ。

うみはその様子に苦笑しながら、本題を尋ねた。

 

「……それで? どうだったの?」

 

勝負の結果というよりは、シアのポテンシャルについての質問だ。

ユエは話したくないという雰囲気を隠しもせず醸し出しながら、渋々といった感じでうみの質問に答えた。

 

「……魔法の適性は皆無。でも、身体強化に全振りしてる。正直、化け物レベル」

「へぇ。どれくらい?」

 

ユエの口から出た『化け物』という高評価に、うみは少し興味深そうに目を細める。

ユエは少し考える素振りを見せると、うみと視線を合わせて答えた。

 

「……なんにも強化してないうみと同じくらい」

「それはそれは……」

 

うみは顎に手を当てて思考する。

驚愕というよりは、純粋な感心だった。

 

「俺とトントン……だいたい数値にして6000と8000の間くらいか。

ステータスプレートがないから元の数値は分からないけど、平時の様子を見るに強化倍率がとんでもないんだろうね」

 

うみの素の身体能力は、奈落での魔物食生活によって異常な数値に到達している。

それに匹敵する出力を、この平和ボケしていたウサギが叩き出したというのだ。

しかも、特訓期間はたったの十日。

 

「しかもまだ伸びしろがあるんでしょ? ……素直に感心するよ。立派な脳筋ウサギだね」

「誰が脳筋ですかっ!」

 

うみの呆れ混じりの称賛(?)を聞きつけたのか、地面に倒れ伏していたシアがバッと跳ね起きた。

そして、急く気持ちを必死に抑えるように服の埃を払い、真剣な表情でうみの正面へと歩み寄った。

背筋を伸ばし、青みがかった白髪をなびかせ、ウサミミをピンッと立てる。

 

これから一世一代の頼み事をするのだ。

緊張に体が震え、表情が強ばるが、不退転の意志を瞳に宿し、真っ直ぐにうみを見つめる。

 

(絶対に、最初は断られる……! でも、諦めずに食い下がれば、そこでユエさんの援護射撃が……!)

 

脳内で完璧なシミュレーションと、悲壮なまでの覚悟を固めるシア。

やがて、うみの眼前に立つと、きゅっと唇を結び、思いの丈を声に乗せた。

 

「うみくん。私を、あなたの旅に連れて行ってください。お願いします!」

「ん。いいよ」

「「…………え?」」

 

うみのあまりにも軽い即答に、シアとユエの声が見事にハモった。

まさか悩む素振りすら見せず、秒で許可が出るとは思っていなかった二人は、完全に鳩が豆鉄砲を食ったような顔で固まっている。

 

「ど、どういう……ことですか……?」

「どうもこうも。言葉通りの意味だけど」

 

困惑するシアに、うみは淡々と、至極真っ当(?)な理由を並べ始めた。

 

「十日前に言われたら、ただの足手まといだし断るつもりだったけど、ユエに一撃入れられるなら自分の身くらい自分で守れるでしょ。

おまけに兎人特有の優秀な索敵能力もあるし。戦力として条件を満たしてるなら、別に断る理由はないよ」

「えっ、あ、あの……私の、命懸けの決死の覚悟は……?」 「……」

 

シアがワナワナと震えながらうみとユエを交互に見る。

一方のユエはといえば、完全に虚無の表情で虚空を見つめていた。

 

(……私が『意地』まで懸けて、この残念ウサギの相手をした十日間は……一体……?)

 

外堀を埋めるために文字通り死に物狂いで頑張ったシアの苦労。

未来の恋敵(仮)に対する女のプライドを発揮し、葛藤の末に援護を決めたユエの決心。

それらの重すぎる感情とドラマが、うみの『合理的だからOK』というたった一言で、見事に粉砕された瞬間だった。

 

「? なに、二人とも変な顔して。やっぱ行くのやめとく?」

「い、行きます! 行きますともーっ!」

 

事態の重さを微塵も理解していないうみの言葉に、シアは慌てて首を縦に振った。

拍子抜けしたとはいえ、念願の同行許可が得られたことに変わりはない。

シアは嬉しさのあまり、再び「うみくぅぅん!」とうみに抱きつこうとして、うみの無下限に阻まれて虚空に顔を押し付けていた。

 

「……うみのバカ」

「えっ、理不尽」

 

何故か心底恨めしそうな目を向けてくるユエに、うみは全く身に覚えのない理不尽さを感じて肩をすくめる。

ともあれ、こうしてうみたちの旅に、新たな同行者が加わることになった。

 

「えへへ〜! これからは頼れるお姉ちゃんとして、ビシバシ頑張りますよぉ!」

 

うみの旅への同行を許されたシアは、先ほどまでの悲壮な覚悟はどこへやら、ウサミミをピンと立てて鼻息荒く張り切っていた。

年上(?)としての威厳を見せようと腕組みをしてふんぞり返る姿は、残念ながらただの調子に乗ったウサギにしか見えない。

 

「……ウザウサギ」

「ちょっと! ウザウサギって何ですか! 仲間になったんですから、ちゃんと名前で呼んでください!

ほら、シ・ア! リピートアフターミー!」

 

見かねたユエの冷たいツッコミにも全くめげず、シアはずいっと顔を近づけて猛抗議する。

ユエは心底鬱陶しそうに目を逸らした。

シアはそのままの勢いで、今度はうみの方へとクルッと振り返った。

 

「うみくんもですよ! 今日から私のことは、ちゃーんと『お姉ちゃん』って呼んでくださいね!」

「……まあ、たまにならね」

「たまに!? ――ふふっ、言質とりましたよぉ! やったぁ!」

 

きっぱり断られると思っていたのか、うみのあっさりとした返答に、シアは頬を緩ませてクネクネと身を捩らせた。

旅の仲間として認められ、少しだけ歩み寄ってくれたことが嬉しくて仕方ないのだろう。

 

「ウザウサギ……キモい」

「キモいって言わないでくださいぃ!」

 

キャーキャーと騒がしいシアと、露骨に嫌そうな顔をするユエ。

そんな二人のやり取りを、うみはどこか平和なものを見るような目で眺めていた。

ふと、ひとしきり騒いで満足したシアが、周囲を見渡して首を傾げた。

 

「そういえば、父様たちはどうしたんですか?」

「最後の課題中だよ。そろそろ戻ってくると思うけど――」

 

うみが言葉を切った、その瞬間だった。

 

シュンッ!!

 

霧の立ち込める樹海の奥、うみたちの周囲を取り囲む木々の枝や死角から、一切の予備動作も足音もなく、複数の影が『降って』きた。

まるで空間に溶け込んでいたかのような完璧な気配断ち。

彼らは着地の音すら立てず、一糸乱れぬ動きでうみの前に片膝をつき、深く頭を垂れた。

 

「――只今帰還いたしました」

 

静かに、そして事務的に報告を上げたのは、他でもない族長のカムだった。

しかし、その声色には以前のような温厚さや、オロオロとした頼りなさは微塵もない。

感情の起伏を完全にフラットに保ち、冷徹なまでに研ぎ澄まされた『任務を遂行する者』の鋭い眼差し。

それはまさに、裏の世界で生きるプロの隠密や暗殺者のそれだった。

 

「……えっ? と、父様……?」

 

あまりの変貌ぶりに、シアが呆然と声を漏らす。

だが、カムは娘の戸惑いには一切反応せず、視線を真っ直ぐにうみへと向けた。

任務中に私情を挟むなど、今の彼らにとってあり得ないことなのだ。

 

「うみ様。ご指定の標的、確実に処理してまいりました。こちらがその証拠に」

 

カムが懐から取り出し、うみの足元へと差し出したのは、ハルツィナ樹海でも上位に位置する凶悪な魔物の牙や爪だった。

しかし、その数は明らかに一つや二つではない。優に十数体分はあろうかという部位が、無造作に転がされた。

 

「お疲れさま。……って、俺は『一体でいい』って言ったよね?」

 

うみが呆れたように尋ねると、カムは一切の動揺を見せず、淡々と事実だけを述べる。

 

「ハッ。帰還ルートにて、我々に明確な敵意を向ける群れと遭遇。

今後の任務の障壁になり得ると判断し、速やかに『排除』いたしました」

「……」

「無論、気配を悟られる前に急所を穿ちました。一撃です」

 

カムの言葉に、背後に控える他のハウリア族たちも、歴戦の忍びのように無言で力強く頷く。

彼らは感情を失ったわけではない。

ただ、うみから叩き込まれた絶対的な恐怖と合理性の果てに、「生ぬるい感情は生存と任務の邪魔になる」という真理に辿り着き、それを完璧に制御する術を身につけたのだ。

不要な戦いを避けつつも、降りかかる火の粉は最も効率的かつ冷酷に払い落とす。まさに特化型の暗殺部隊である。

 

「……まあ、君らがそれでいいなら別にいいけど」

「はっ。ありがたき幸せ」

 

全く問題視していないうみと、絶対の忠誠を誓うように傅くカムたち。

そのあまりにもシュールで、かつてのお花畑な兎人族からは想像もつかない光景を前に、シアはただ一言、震える声で呟くことしかできなかった。

 

「………誰?」

 

***

 

「ど、どういうことですか!? うみくん! 父様たちに一体何をしたんですか!?」

 

周囲の異様な空気に耐えかねたシアが、悲痛な叫び声を上げてうみに詰め寄った。

うみは迫り来るシアから少し距離を取りつつ、どこか気まずそうに、けれどどこか居直ったように肩を竦める。

 

「……何をしたって言われてもね。彼らの生来の特性である索敵と隠密能力に、一番適した方向性へ成長させただけだけど」

「成長!? これが成長ですかっ!? 完全な別人じゃないですかっ!

父様なんて、目が一切笑ってないですよ! 完全に冷酷な殺し屋の目ですぅ!」

 

ギャーギャーと泣き叫びながら抗議するシアに、うみは「はぁ」と面倒くさそうに溜息を吐いた。

 

「いや、俺もここまで性格をこじらせるとは思わなかったけどさ……。

でも、戦場で生き残るための合理性を突き詰めたら、割と自然な変化じゃない?」

「全然合理的じゃないですぅ~!」

 

地平線まで届きそうなシアの悲鳴を聞き流しつつ、カムは静かな、しかし寸分の揺らぎもない声で娘へと視線を向けた。

 

「何を動揺しているんだ、シア。我々は真理に目覚めたのだ。

生ぬるい感情や無駄な甘えは、生存と任務遂行においてノイズにしかならない。

……立ち塞がる理不尽や障害は、ただ機械的に、最も効率よく『排除』すればいい。

うみ様は我々に、その当たり前の術を授けてくださったのだ」

「やっぱり父様じゃないですぅ~! 優しかった父様は死んじゃったですぅ~!」

 

あまりにもビジネスライクかつ冷徹な言葉に、シアはその場に膝から崩れ落ち、しくしくと涙を流し始めた。

それを見たうみは、どこか頭を痛めるようにこめかみを軽く揉むと、泣きじゃくるシアに向けて現実的なフォローを入れた。

 

「……あのね。誤解してるみたいだけど、別に感情を消された殺し屋になったわけじゃないよ?

任務や戦闘が絡まない普段の生活なら、今までと中身はそこまで変わってないから」

「えっ……? ほ、本当ですか……?」

「本当だよ。カム、シアに言ってあげなよ」

 

うみに振られたカムは、一瞬だけ鋭い暗殺者の雰囲気を和らげ、かつてのような温厚で少し情けない父親の破顔を見せた。

 

「その通りだ、シア。私がお前を愛する父親であることに変わりはないよ。

……ただ、任務の最中はスイッチを切り替えているだけだ。

私情を持ち込めば、自分だけでなく仲間や一族を死なせることになる」

「と、父様……!」

 

いつもの優しい笑顔に戻ったカムを見て、シアはホッと胸を撫でおろし、目元を拭った。

確かに彼らは狂ったわけでも、感情を失ったわけでもない。

うみの地獄の特訓を経て、「仕事」と「プライベート」を完璧に切り分けるプロ意識を身につけたのだ。

……その変化というのが極端すぎるきらいはあるが。

 

その時だった。

 

シュンッ……!

 

気配もなく霧の中から現れた小さな影が、一切の無駄のない流れるような動作で、うみの前に片膝をついた。

その背には小型のクロスボウが担がれ、腰には数本の苦無とスリングショットが整然と収められている。

 

「――報告いたします。うみ様」

 

低く落ち着いた声で口を開いたのは、まだ十一歳程度のハウリア族の少年だった。

かつて「お花さんを踏んじゃうと可哀想だから」と無邪気にピョンピョン跳ねていた、あの少年である。

今の彼には、そのお花畑な面影は微塵もない。

 

「お疲れ。何かあったの?」

「はっ。我らの課題中、ハルツィナ大樹へと続く最短ルート上にて、完全武装した熊人族の集団を確認いたしました。

地形と配置から推測するに、我らに対する『待ち伏せ』かと」

 

少年の淡々とした報告に、うみは「ああ、やっぱりね」と得心がいったように顎を撫でた。

 

「あの熊の長老……ジンの息がかかった連中か。

フェアベルゲンで恥をかかされた復讐に、大樹の手前で討ち取ろうってところだろうね」

 

ハルツィナ大樹への道中で絶対に待ち伏せがあるだろうということは、うみも想定内だった。

うみが「まあ、俺が適当に片付ければいいか」と立ち上がろうとした、その時。

 

「――うみ様」

 

静かに声を発したのは、族長であるカムだった。

カムをはじめ、背後に控えるハウリア族の面々が一斉に頭を垂れ、直訴するように言葉を紡ぐ。

 

「我らの訓練の成果をお見せするためにも……奴らの『対処』、我々にお任せ願えないでしょうか」

 

そこには憎悪や憤怒といった無駄な感情は一切ない。

ただ、自分たちに課された任務を完璧に遂行しようとする、冷徹なプロとしての静かな意志だけが宿ってる。

 

(……対魔物の戦闘訓練は、もう十分)

 

自分に向けられるハウリア族の静かな殺意と闘志を感じながら、うみは内心で彼らの仕上がりを評価していた。

感情を殺し、生来の隠密能力と合わせることで、

迷宮の深層クラスの魔物でも相手にしない限り、彼らは十分にこの世界で生き残っていけるだろう力を身につけた。

 

(ただ……この先、彼らが自分たちの力で生きていくなら、避けては通れない壁がある)

 

それは『対人』の戦闘経験だ。

魔物を相手にするのと、言葉を介し、知恵を持つ生き物と事を構えるのとでは、精神的な負荷が全く違う。

ここでその一線を越え、現実を叩き込んでおくことは、彼らの今後の生存において間違いなくプラスになる。

 

「……まあ、実戦訓練の総仕上げには丁度いいか」

「ではっ……!」

「ただし」

 

うみは立ち上がり、喜びに殺気を滲ませようとしたカムたちを冷たい声で制止した。

そして、今までの人生で自身が学んだこと、そして裏の世界で生きる者としての矜持を、最後の教えとして彼らに説く。

 

「最後にもう一度だけ忠告しておく。俺が教えた戦いの基本は『最小限の力で、最大限の成果を』だ。

派手さはいらない、必要な時だけ確実に。……そこは分かってるね?」

「はっ」

「それと……何よりも重要なのは『線引き』だよ。

君らの中には、彼らに対する私怨や復讐心もあるだろうけど、

それに駆られて無闇に命を奪いに行けば、君らは彼ら以下のただのケダモノに成り下がる」

 

うみの青い瞳が、彼らを静かに、しかし絶対的な重圧を伴って射抜く。

 

「力ある者の行動には、相応の責任が伴う。それをよく考えて実行しなよ。……いいね?」

 

理不尽な暴力を振るうのではなく、冷徹な理性を以て自らの生存権を勝ち取れという、うみ流の厳しくも確かな導き。

カムたちハウリア族は、その深い教えに感銘を受けたように深く頭を垂れ、今度こそ一切の淀みなく、確かな意志を込めて応えた。

 

「「「「「「――御意」」」」」」

「よし。じゃあ、行ってよし」

 

うみの号令と共に、バサッ! と一陣の風が吹き抜ける。

カムたちハウリア族は、まるで最初からそこに存在しなかったかのように、一糸乱れぬ動きで音もなく霧の中へ消えていった。

 

「ああっ、うわぁぁぁん! やっぱり私の家族はみんな死んでしまったですぅぅぅ!」

 

平和的だった家族が、完全にプロの暗殺部隊として戦場へ赴く姿を見て、シアはついにその場に泣き崩れた。

と、そこへ、一足遅れて出撃しようとした少年の足首に、シアは縋り付いた。

 

「パ、パルくん! 待って下さい! ほ、ほら、ここに綺麗なお花さんがありますよ?

一緒にここで待っていませんか? ね? そうしましょ?」

 

幼い少年だけでも引き止めようと、かつての彼が好きだった「お花」で必死に釣ろうとするシア。

しかし、パル少年は足を止めると、「ふぅ」とやれやれといった様子で肩を竦めた。

 

「シアさん。あまり過去の未熟な私を引き合いに出さないでいただきたい。

……花を愛でるような軟弱な心は、うみ様の御前に置いてきました」

 

ちなみに、パル少年は今年十一歳である。

 

「そ、そんなぁ……あんなに大好きだったのに……!」

「ふっ。若さゆえの過ちというやつです」

「パルくん……」

「それと。私は過去と共に軟弱な名も捨てました。

今はバルトフェルド。……『必滅のバルトフェルド』。これからはそう呼んでください」

「誰!? バルトフェルドってどっから出てきたの!? ていうか必滅ってなに!?」

「おっと、失礼。仲間が待っているので。……では」

 

シュンッ!! と、パル――改めバルトフェルドもまた、見事な瞬動術で霧の向こうへと消え去ってしまった。

 

「あ、こらっ! 待って! 待ってくださいぃ〜!」

 

霧の向こうへ手を伸ばすも、答える者は誰もいない。

ガックリと項垂れ、再びシクシクと泣き始めたシア。もはや彼女の知る家族は、ただの一人も残っていなかった。

実に哀れを誘う姿である。

 

そんなシアの姿を、ユエは何とも言えない微妙な表情で見下ろしていた。

やがて、ユエはそっとシアの頭をポンポンと撫でて慰めながら、隣のうみへとジト目を向けた。

 

「……流石うみ。人には出来ないことを平然とやってのける」

「……」

「洗脳の魔法……? すごい」

「……いや、洗脳なんかしてないから。俺にそんな魔法の適性はないよ」

 

心底呆れた顔を向けてくるユエに、うみは大きな溜息を吐きながら弁明する。

とはいえ、たった十日間で平和主義のウサギたちを狂信的な暗殺部隊に仕立て上げてしまったのは事実だ。

 

「……もしかしたら、俺には教祖の才能があるのかもしれないね。……最悪だよ」

 

しばらくの間、ハウリア族が去ったその場には、シアのすすり泣く声と、うみの重い溜息だけが虚しく響いていた。

 

***

 

ハルツィナ大樹へと続く獣道。

深い霧に覆われたその一角に、五十人を超える熊人族が息を潜めていた。

次期族長との呼び声も高い実力者、レギン・バントンを中心とした、長老ジンを慕う若者衆である。

 

「……必ず来るはずだ。目的を眼前にして果てるがいい、憎き人間め」

 

レギンの瞳には、冷たい怒りが宿っていた。

心酔していたジンを為す術もなく再起不能にされたという屈辱。相手は所詮、人間と脆弱な兎人族だ。

ジンは不意を打たれるなど卑怯な手段で敗れたに違いないと、彼らは勝手に解釈し、報復のためにこの場で待ち伏せを行っていた。

 

しかし。

彼らの耳に届いたのは、人間の足音ではなく、同胞のくぐもった短い呻き声だった。

 

「……っ!?」

「ア、アガッ……!」

 

レギンが弾かれたように振り返ると、後方に控えていたはずの熊人族の若者が、何の前触れもなく膝から崩れ落ちた。

見れば、その足首には鋭利な苦無が深々と突き刺さっており、腱を正確に断ち切られている。

悲鳴を上げる間もなく、霧の中から音もなく現れた小さな影が、倒れ込んだ熊人族の手首を容赦なく踏み砕いた。

 

「なっ……!?」

 

レギンが信じられないものを見るように目を見開いた。

そこにいたのは、彼らが亜人族の中でも底辺と見下していた『兎人族』だったからだ。

だが、温和で平和的だった彼らの面影は、そこには微塵もない。

手にした武器の血糊を無言で振り払い、虚無のような冷徹な瞳で次の標的へと視線を向けるその姿は、まるで感情を持たない処刑人形のようだった。

 

「ひっ……! 誰だお前らっ!」

「どこから撃ってきやがる!?」

 

パニックに陥る熊人族の陣形を嘲笑うかのように、霧の向こうから的確なスナイプが飛来する。

ヒュッ、という風切り音と共に放たれた小型のクロスボウの矢が、次々と熊人族の膝関節や武器を持つ手首を射抜いていく。

 

「一撃必倒。『必滅』の名にかけて。……一応急所は外してやりますよ。」

 

霧の奥で、バルトフェルドが冷たく呟く。

彼の射撃を皮切りに、ハウリア族は一斉に動き出した。

 

教官であるうみに叩き込まれた『最小限の力で、最大限の成果を』という教え。

彼らはそれに忠実に従い、致命傷を避けるように、しかし確実に相手の戦闘能力を奪う『無力化』に重きを置いて対処を進めていた。

気配の強弱を巧みに操作し、死角から忍び寄って足の腱を斬り、振り向いた瞬間に別の者が手首を砕く。

一切の私語もなく、無表情のまま、作業のように確実に敵を無力化していく。

圧倒的なフィジカルを誇る熊人族が、彼らが放つ高度な連携と隠密機動の前に、成す術もなく地面に転がされていく。

 

だが――。

 

(……あれ? 最強種って……こんなものなのか?)

 

一方的な蹂躙が進むにつれ、ハウリア族の若者たちの心に、本来あるべきでない感情が芽生え始めていた。

十日間の地獄の特訓で無理やり引き出された闘争本能。そして何より、長年「最弱」と虐げられ、見下されてきたという無意識下の鬱憤。

それらが、強者であるはずの熊人族が無様に地を這う姿を見ることで、ドス黒い優越感へと反転し始めたのだ。

 

「……ククッ」

 

静寂の中、誰かの喉が鳴る音が響いた。

それを皮切りに、無表情だったハウリア族の顔に、徐々に残酷な笑みが張り付き始める。

 

「どうした、最強種殿? その程度か?」

「足腰の弱った子熊の間違いではないのか?」

 

ポツリ、ポツリと、無機質だったはずの隠密部隊から、嘲りを含んだ言葉が漏れ出し始めた。

うみの教えである『線引き』。私怨を交えず、ただ機械的に対処しろという命題が、未熟さゆえに綻びを見せ始めていた。

彼らは、敵を無力化するという『任務』の範囲内で、ギリギリのところで闘争の愉悦に酔いかけていたのだ。

 

「ちくしょう! こんな、こんな兎共なんかに……ッ!」

 

レギンが大斧を振り回すが、その動きは空を切るばかり。

気がつけば、五十人以上いた熊人族は、そのほとんどが手足を潰され、満身創痍の状態で一箇所に追い詰められていた。

対するハウリア族は、無傷のまま、彼らをぐるりと取り囲んでいる。

その瞳には、完全な無機質さは薄れ、力の行使を楽しむような歪な優越感が滲んでいた。

 

「……もう、どうなってもいい」

 

これ以上の惨劇を防ぐため、レギンはついに武器を投げ捨て、地面に両膝をついた。

誇り高きバントン族の次期族長が、最も見下していた兎人族に対して頭を下げる。

その屈辱に耐えながら、彼は血を吐くような声で懇願した。

 

「私怨で動いた俺の責任だ……! 煮るなり焼くなり好きにしろ。だが……どうか、部下の命だけは見逃してほしい……!」

 

レギンの悲痛な叫びが、濃霧の樹海に響く。

だが、それを見下ろす族長・カムの瞳には、何の感慨も浮かんでいなかった。

彼は、力に酔いかけながらも、うみから与えられた『敵の排除』という絶対の任務と、目の前の哀れな命乞いを天秤にかけ――。

 

「……だが断る」

 

氷のように冷たい声で、そう言い放った。

そして、トドメの号令をかけるべく、無慈悲にその右腕を高く振り上げた。

 

――しかし、その手が振り下ろされることはなかった。

 

ズッ……!!

 

「……っ!?」

 

濃霧と木々に遮られ、ただでさえ薄暗い樹海の地面を覆っていた『黒』が、突如としてまるで意志を持った泥のように隆起した。

それはトドメを刺そうとしたカムの腕を、そしてレギンたちを取り囲んでいた五十人以上のハウリア族全員の四肢を、一瞬にして絡めとり、虚空へと縫い留めたのだ。

 

「なっ……!?」

「これは……一体……!?」

 

逃れることも、身をよじることすらできない。

熊人族への蹂躙を楽しんでいたハウリア族の顔から、一瞬にして愉悦が消し飛んだ。

彼らは皆、宙吊りにされたまま、信じられないものを見るように己を縛る真っ黒な何かを見上げた。

 

何が起きたか分からず、熊人族もハウリア族も完全に硬直する中。

 

「……ねえ」

 

濃い霧の奥から、静かな声が響いた。

足音すらない。だが、そこに現れた細身の人影を見た瞬間、その場にいた全員の心臓が、まるで冷たい手で直接鷲掴みにされたかのように跳ね上がった。

そして、彼らは悟った。

自分たちの身を虚空へ縫い留め、この薄暗い樹海を黒く塗り潰している『理解不能の事態』を引き起こしている張本人が、他ならぬ目の前の少年なのだと。

 

「ここに、うちのウサギたちが来てると思うんだけど……知らない?」

 

(いや、貴様が今、目の前で縛り上げてるだろうが……ッ!!)

(う、うみ様……!? 私達は、すぐそこに……ッ!)

 

熊人族もハウリア族も、心の中で同時に全力のツッコミと悲鳴を上げたが、口から音を出すことはできなかった。

今のうみから放たれる、あまりにも静かで、底冷えするような気配と底知れぬプレッシャー故に。

 

やがて、その重圧に耐えかねたレギンが、ガチガチと歯の根を鳴らしながら、振り絞るように掠れた声を漏らした。

 

「……な、何を言っている……! その、お前が縛りあげているのが……その兎共だろうが……ッ!」

「それはおかしい」

 

レギンの至極真っ当な指摘を、うみは極低温の声で遮った。

 

「この場には……君ら以外、力に溺れて本能のままに殺しを愉しもうとしてる、ただのケダモノしかいないよ?」

 

静かに言葉を紡がれたうみのその言葉が、影に縛られたカムたちの胸に、鋭い氷の刃のように突き刺さった。

 

うみは、宙吊りになっている彼らへ冷たい視線を向けた。

 

「俺の教え子たちは、『ちゃんとした線引きのできる』、賢い連中のはずなんだからね」

 

静かな、しかし確かな『失望』。

うみのその一言で、カムたちハウリア族は冷水を浴びせられたようにハッと正気に戻った。

そうだ。自分たちは直前まで何をしていた?

抵抗する力を持たない相手を嬲り、自分たちが最も憎んでいた略奪者と同じような歪な笑みを浮かべて、命乞いを嘲笑っていたのではないか。

 

うみから最も厳しく警告されていた、『ただのケダモノ』に成り下がっていたことに。

 

「あ……」

「我々は……なんということを……」

 

愉悦は消え去り、代わりに押し寄せたのは、激しい後悔と、自らの愚かさに対する底知れぬ恐怖だった。

怒られるよりもキツい、『見限られるかもしれない』という絶望感。

カムたちの顔色は一瞬にして蒼白になり、ガタガタと震え始めた。

 

そんな顔面蒼白のウサギたちへ、うみは初めて視線を向け、感情の読めない冷たい目を向けた。

 

「……さて。言い訳を聞こうか?」

「ヒッ……!」

 

その隙に、恐怖に耐えきれなくなったレギンが、一歩、後ずさろうとした。

だが、うみは視線をカムたちに向けたまま、ほんの僅かに、息を吐くように呪力を解放した。

 

「そこを動いたら、足を切り落とす。……話が終わるまで、大人しく待っててくれる?」

「ッ……!」

 

レギンの巨体が、まるで石にされたように完全に硬直した。

文字通り、指先一つ動かすことすらできない。本能が「逆らえば次の瞬間に死ぬ」と警鐘を鳴らしていた。

 

静寂。あまりにも重苦しい沈黙が、絶望するハウリア族を押し潰そうとした、その時だった。

 

「う、うみくん! 待ってください!」

 

たまらず間に割って入ったのは、シアだった。彼女は涙目でうみに縋り付き、必死に家族を庇うように声を上げた。

 

「父様たちも、初めての対人戦で少し気が昂ってただけなんです!

今のはちょっとやり過ぎようとしてましたけど……でも、根はみんないいウサギなんですからっ!

どうか、どうか許してあげてください……!」

「……」

 

必死に宥めるシア。すると、うみの背後に立っていたユエも、無言でうみの袖を軽くちょいちょいと引いた。

 

「……うみ。最初から完璧は無理。大目に見てあげて」

「……」

 

シアの必死の弁明と、ユエからの申し訳程度のフォロー。

うみは二人の顔を交互に見ると、やがて、その冷たい表情を少しだけ崩し、「ふぅ」と深い溜息を吐いた。

 

「……まあ、そうだね。俺もちょっと期待しすぎたか」

 

うみが小さく指を鳴らすと、ハウリア族を拘束していた影がスッと地面に溶け落ちた。

ドサッ、ドサッ! と地面に落ちたカムたちは、誰一人として文句を言うこともなく、ただ深く反省したように項垂れ、その場で小さく縮こまっていた。

 

うみは、そんな小さくなっているハウリア族から視線を外し、未だ恐怖で完全に硬直しているレギンへと向き直った。

 

「さて。一応聞いておくけど……まだやるの? 正直、これ以上は無駄だと思うんだけど」

「ッ……」

 

一切の気負いもない、文字通り『路傍の石を退ける』かのような軽いトーン。

しかし、その目に宿る深淵のようなプレッシャーを前に、レギンはガチガチと歯の根を鳴らしながら、必死に首を横に振った。

 

「わ、我らの……完全な敗北だ。部下の命だけは……」

「そう。じゃあ、帰っていいよ」

「……え?」

 

あっさりとしたうみの許可に、レギンだけでなく、満身創痍で震えていた背後の熊人族たちも呆然と顔を上げた。

 

「その代わり、フェアベルゲンの長老衆に伝言お願いしていい? 『貸し一つ』ってことで」

「……ッ!」

 

言伝の意味を察し、レギンは屈辱に顔を歪めた。

自分たちの命を見逃す対価として、フェアベルゲン全体にこの少年への負債を背負わせるということだ。

しかし、この絶望的な状況でそれを拒否する選択肢など、彼らに残されているはずがなかった。

 

「あ、あとさ。今回の襲撃で君らがボロ負けしたのは、長老会議の決定を無視した君の独断ってことで、ちゃんと周知しておいてね」

「ぐっ……」

「いい? 嘘ついて適当に誤魔化したりしたら……俺、直接フェアベルゲンまで取り立てに行かなきゃならなくなるからさ。

お互い、そういう面倒なことはナシにしようね?」

 

ニッコリと、最高に爽やかで、最高に底冷えする笑顔を向けるうみ。

それは怒鳴り声や殺気よりも遥かに恐ろしく、レギンたちの本能に「逆らえば、本当に国ごと地図から消される」と確信させるには十分すぎる威圧だった。

 

「……し、承知した。我らは、これより帰還する……」

 

完全に心を折られたレギンは、血の滲むような声でそれだけ絞り出すと、部下たちに支えられながら這うようにして霧の奥へと撤退していった。

 

 

レギンたちが去り、辺りに静寂が戻ると、うみはいつもの調子に戻って小さく息を吐いた。

 

「……まあ、多少の問題はあったにせよ、目的自体は達成できてたわけだし、これ以上とやかく言うつもりはないよ」

 

影の拘束から解放され、その場に平伏していたカムたちハウリア族は、冷や汗を拭いながら深々と頭を垂れる。

 

「はっ……我ら、未熟故にうみ様の教えを忘れかけ……一時の愉悦に目が眩みました。誠に申し訳ありません」

 

うみは、項垂れるカムたちへ淡々と、しかし確かな教訓として言葉を続ける。

 

「ただ、今回みたいに不必要に相手を嬲るのは気を付けなね。

そういうやり方は、相手に『敗北』じゃなく『理不尽な憎悪』を植え付ける。

……無駄にヘイトを買うのは、生き残る上で一番の悪手だからね。分かった?」

「はっ……! 肝に銘じます」

「ん。ならいいよ。……で、いつまでそうやって縮こまってるの? さっさと行くよ」

 

うみの呆れ混じりの言葉に、カムたちはハッと顔を上げ、かつてのような機敏な動きで立ち上がった。

そして、先ほどまでの血に飢えた狂気は綺麗さっぱり消え去り、真面目な護衛任務の陣形へと整然と戻っていく。

 

その変わり身の早さと、直前までの物騒なギャップに、シアは頭を抱えて遠い目をしながら呟いた。

 

「やっぱり父様たち、絶対どこかおかしくなってますよぉ……」

「……気のせい。気の毒だけど諦めて」

 

ユエがぽつりと容赦ない現実を告げ、シアはガックリと項垂れた。

 

ともあれ、命を狙ってきた熊人族の襲撃を退け、ハウリア族は『戦う力』と『教えの重み』をその身に刻み込んだ。

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