「条件、というより、むしろお願いですが」
「お願い?」
指を立てたわたしに、百夜さんは面白がるように身を乗り出しました。千空くんはスプーンを咥えたまま、ちらりとこちらを見ます。
この先を言ってしまえば、もうあとには引き返せません。そしてこのお願いは、真っ当な大人ならまず間違いなく拒否する類のものだとわたしは理解しています。が、今のところわたしには他の選択肢がないのです。
吸って、吐いて。一つ深呼吸をして、百夜さんの――目は見れなかったので、鼻のあたりを見ました。悲しいけどわたしってコミュ障なのよね、と脳内で大人のわたしが茶々を入れています。うるさい。
「何かあったとき、名前を貸してほしいんです。『あの子の周りには大人がいる』と周りの人に思ってもらうために」
「……名前を貸す?」
百夜さんは首を傾げました。何を言っているのか分からない、という顔。それはそうでしょう。
「一昨日に言ったこと、覚えてますか。わたしのお父さんの……」
「仕事が忙しくて朝早くて夜遅いって話か」
「そうです」
わたしは頷きながらプリンにスプーンを立てました。また一つ、深呼吸。
「信じてますか?」
端的に尋ねると、百夜さんが息を吞むのがわかりました。それから数拍置いて、「信じてねえ」と返ってきました。意外な返答だったのでしょう、千空くんが目を丸くします。察する力、というのは要するに蓄積された過去からの類推ですから。いくら頭が回ると言っても、幼さゆえにそのあたりの機微の察知はまだ難しいのでしょうね。
千空くんの視線に気づいて、百夜さんはぽん、と千空くんの頭を押さえるように撫でました。
「今日の『お料理教室』な。いくらお隣さんで、同じ子持ちの親同士でも、話したこともねえやつに普通ガキは預けらんねーよ。それができんのは……」
苦いものを口にしたような顔をして、百夜さんはそこで言葉を切りました。おそらくは、子どもには聞かせたくない類の言葉が続くからでしょう。「まー、俺もあんま人のことは言えねえけどよ」と咳払いを一つ。
沈黙が気まずいものになる前に、わたしは会話を再開させました。
「わたしは、自分のことは自分でできます。お掃除も料理もお洗濯も。お父さんはいないけど、平気です」
「でもな。いくら一色ちゃんが平気っつっても」
「分かって、います。『わたしがどう思っているか』と、『外から平気に見えるか』や『本当に平気か』は、別ってことも」
わななく声をごまかすように、わたしは唇を舐めました。
「それでもわたしは、この暮らしを続けていきたいんです」
「なんでだ?」
百夜さんが何かを言う前に、千空くんが鋭く、今日何度目かの――もとい何十度目かの「なんでだ?」を口にしました。口元がカラメルでべたべたです。
見た目も仕草も声も思考も、全部子どもだというのになかなかどうして。わたしは肩を落として苦笑すると、千空くんの口元をハンドタオルで拭います。
「なんでかな」
ぽつりと呟きを落とします。わたしは今日初めて、千空くんの問いにきちんとした答えを用意できませんでした。
答えがないわけではありません。お母さんと離れることができたから、一人が楽だから、当分はお金の心配もないし、生活も安定しているから。『Dr.STONE』が――「石神千空」と「石神百夜」が好きだから、あるいはお隣さんとしてのお二人との時間を、楽しく思っているから。挙げようと思えばいくらでも。その全部が本当ですが、選んだのはそのどれでもありませんでした。
「……いま食べるごはんが一番おいしいから、ですかね」
「んだそりゃ」
わけが分からないよ、という顔をしている千空くんの横で、百夜さんは腕を組んで、天井を見上げました。
「なーるほどなあ」
軽い調子の声とは反対に、それきり中々視線が戻ってきませんでした。暫くして、ゆっくり口を開きました。
「一色ちゃん」
「は、はい」
「今日千空と――俺たちと食べたメシ、美味かったか?」
予想外の問いに、わたしはしぱしぱ瞬きをしました。
今日お二人と食べたもの、料理したこと。ピザ、サラダ、ミネストローネ。過程を含めて楽しむことのできた久々の食事。思い返して、自然と口の端っこが持ち上がっていました。
「はい、とっても!」
自分で思っていたよりも勢い込んだ声が出て、恥ずかしさで俯きます。俯いても、百夜さんがため息交じりの笑いを洩らしたのがよく分かりました。
「『名前を貸す』ってのは……何かあったときは俺が出てけばいーのか?」
わたしは顔を上げて、ぶんぶん首を振りました。「そこまでは!」
重要なのは、あくまで身近な大人の名前がさっと出せるということ。流石に無断で借りるのは良心が痛むので、それに関してだけ許可がほしいのです。ただ隣に住んでいるだけの他所の子の、何か責任を負う立場になってほしいとはちっとも思っていません。
「勝手にお名前を出すかもしれない、というだけで。もし、百夜さんが何か聞かれるようなことがあれば『何も知りません』で通していただければ――「そりゃ、できねー相談だな」
わたしが最後まで言い切る前に、百夜さんは苦笑しながら遮りました。
「大人っつーのは子どもを守るもんだ」
「ですが、流石にそこまでのご迷惑はおかけできません!」
「迷惑つったら、俺よりちょい上の子どもにメシ作ってくれるように頼んでる俺と百夜も大概だろ」
千空くん、正論パンチ。援護射撃のようでいて、百夜さんも「自分が情けねえ……」と軽く煤けています。
「でもっ」
「そもそもテメーに何かあったとして、だ。今後一緒にメシ食うんだろ? 『知りませんでした』は無理があんだろ、状況証拠的に」
「うぐ……」
二度目の冷静かつ的確なツッコミでした。そして相変わらず語彙が保育園児のそれではありません。
「カタブツすぎんだよ、テメーは。できねえことは助け合えばいい。遠慮とか非合理的だろ」
「おかしい。賢すぎます。本当にさっきまでカラメルでお口をべたつかせていたおこちゃまと同じ子ですか?」
「誰がおこちゃまだ!」
「……俺からすりゃ一色ちゃんも大概なんだが」
百夜さんは呆れた様子でプリンの残りをかきこんでいます。が、わたしのこれはつよくてニューゲーム的なアレですからね。ずるっこをしているわたしと、ナチュラルボーンジーニアス白菜の千空くんと一緒にしたら何らかのばちが当たりますよ、何らかの。
「決まりだろ」
眉を上げながら、千空くんはびしりとスプーンで百夜さんを指しました。
「千空くん、お行儀が悪いのでそれはやめましょうね」
わたしはその手をそっと抑えて下げさせました。え、空気を読め? 話の流れを澱ませないことより、食事のマナーを教える方が大事に決まっているでしょう、常識的に考えて。こらそこ百夜さん、笑わないでください。
千空くんはスプーンを置いて「……決まりだろ」と繰り返しました。
「取引成立だ。こっちは作りたてのメシが安定供給される。一色は保護者を手に入れる。ウィンウィンじゃねえか。だろ、百夜」
「ちょ、ッちょっと待ってください。ウィンウィンなんかじゃありませんよ! リスクが大きすぎます。お隣の子の保護者なんて、ご飯に対して――「釣り合わねえってんなら百夜が蹴ればいい。だろ」
ばっさり切り捨てて、千空くんは百夜さんを見ました。百夜さんはふーっと鼻から息を吐くと、くしゃりと笑います。
「――ああ。取引成立だ」
「いやいやいや、」
「一色ちゃん。ただし、だ」
わたしの行動をなぞるように百夜さんも指を一本立てました。「しずかに」のジェスチャーをするように、わたしの唇に当てて二の句を閉じ込めます。
「毎日、作り立ての、うまいメシ――食わせてくれ。すげー大変だと思うけどよ。……これなら釣り合わねえか?」
「そんなの釣り合うわけ……」
ないじゃないですか、と言おうとして、わたしは続けられませんでした。わたしを見つめる百夜さんの瞳が、お母さんより、お父さんより――記憶の中にある誰よりも、優しかったから。
「毎日、ですね。朝昼晩、お弁当も」
「べんと……流石にそれは一色ちゃんの負担がデカくねーか?!」
百夜さんがぎょっとしましたが、そこはわたしとしても譲れません。百夜さんは困ったように頭を掻いて、頷きました。
それからにっと、千空くんによく似た不遜な笑みを浮かべます。
「じゃ、決まりだな」