棘 作:よく
身を絞るような呻き声が地階から響いた。
「ついに始まったか……」
ジャンは長机の上に肘をついた手を額に当てると、重いため息をついた。
長机の上に置かれたランプが仄明るく周囲を照らしている。その、ゆらゆらと踊る光で浮かび上がるみんなの顔は、固く張り詰めていた。
私たちは
ここは、
人通りが少ないうえに、捕虜を収容するのに適した牢も、叫ぶ声を外部に漏らさないように作業ができる地下室も存在している。
憲兵は、いままさに、拷問を受けている。リヴァイ兵士長とハンジさんによって、ニック司祭と同じように、爪を剥がれ、鼻を折られ、歯を抜かれているのだ。
だが、情報を得るためには、ひいては、原作どおりに物事を進めるためには、仕方がない。
そもそも、ニック司祭は、同じような責め苦を受けた上で彼らに殺された。なればあの二人の憲兵は殺されないだけマシだろう。
――いや。あるいは、仲間を裏切ったという罪を負って生きることは、ある種、死よりも苦しいのかもしれない。
永劫、贖いが続く生を、生きることになるのだ。果たして、その生涯に救いはあるのだろうか。
窓のない地下室の空気は、どこか澱み、肌にまとわりつくように、ひんやりとしている。なんともなしに腕をさすった。
階下から渡ってくる叫喚が、脳みそを揺らすように、頭の中で鳴り響いている。耳を塞ぎたかった。実際に、コニーは両手で覆うように耳を塞いでいる。
でも、私がそうすることは、絶対に許されない。
「まったくよぉ……」
ジャンは力のない声でこぼした。
「俺は巨人と殺し合ってるつもりだったんだが、いつの間にか敵がなんなのかわかんなくなっちまってる、なぜ俺たちはこんなことに手を染めてんだ?」
「しょうがねぇだろ……。ここで、しくじりゃ、人類みんな巨人に食われて終わりだ」
そう。
エレンの言うとおり、きっと、仕方なくて。
苦悶に満ちた叫びが、絶え間なく鳴っている。それだって、必要だと。
私は、ずっと、信じてる。
「オレたちはクーデターやってんだよ……。あのときの、団長の計画どおりにな……。まだ、こんなもんじゃすまねぇよ……多分」
エレンの重い声に、サシャが、「私たちって……もう、反逆者なんですね。失敗したらどうなりますか?」と、不安そうに尋ねた。
「そりゃ、吊るされんだろ……広場とかで」
ジャンがそう答えると、アルミンが自らの考察を口にした。
「百年以上続いている体制を変えようっていうんだからね……」
アルミンの、憲兵や王政を囮にして民衆を味方につけるという、やや腹黒い作戦に、エレンたちが引いた様子を見せる。アルミンは非常に強張った苦笑を浮かべて、「なんちゃってね……」と、誤魔化した。
「お前……あの変態に嬲られて汚れちまったな……」
「いや、アルミンが陰湿で姑息なこと考えるのが得意なのは、昔からだ」
「私はそんな子に育てた覚えはない」
ジャンの、ある種の擁護とも取れる言葉を、アルミンの幼馴染二人が淡々と否定した。
脈絡もなく、ぷつりと会話が途切れる。階下から響く声は鮮明に、ふっ、と意識に浮上した。自らの太ももの上に置かれた両の手を、気づかぬうちに握りしめていたようで、脚衣にしわが寄っていた。
やがてアルミンが静かに沈黙を破った。
「……でも」
顔を上げると、彼は暗さを孕んだ視線をぼんやりと長机の上に落としていた。
「僕らは、もう犯罪者だよ。いま、相手にしている敵は僕らを食べようとしてくるから殺すわけじゃない。考え方が違うから敵なんだ……。もしくは、所属が違うってだけかもしれない……。
この先、そんな理由で……人の命を奪うことになるかもしれない……」
アルミンは机の上で組んだ両手の上に顎を乗せる。
「――僕らは、もう良い人じゃないよ」
――
「……」
なら。私はきっと、はじめから。
小さな関所に置かれた寝台は、私たちリヴァイ班やハンジ班の人数分はなかった。それでも、倉庫の奥に保管されていた布団やらシーツやらを使って、私たちは体を休めることができた。
浅い微睡みから目が覚めたのは、夜とも朝ともつかない時間帯のことだった。階下からかすかに物音のようなものが聞こえた気がしたのだ。
ぼんやりとした頭で記憶をさらう。ハンジさんが机を蹴り飛ばしたのだろう、ということに気づいたのは、だいぶ、時間をかけてからだった。
いまごろハンジさんはエレンと話をしているのだろうか。
くだらないことを考えているうちに、眠気がひいていた。
埃っぽくどこかカビ臭い布団を肩口まで引き上げる。布団を掛けないと寒いが、掛けると暑い。何度も寝返りをうった。
見張りをするでもなく朝を待つのは、うつらうつらしながらでも、長いことだった。
もう、朝であると明言してもいいぐらいに日が昇ったころ、私は床に敷かれた夜具の上から起き上がった。
若いとはいえ硬い床の上で横になっていたから身体が強張っている。
軽くストレッチをしていると、サシャとミカサも起きてくる。ヒストリアはいまの時間帯の見張りを任されている。階下で合流することになるだろう。
服のシワを伸ばして、ボサボサの髪を適当に撫でつけて、身だしなみを整えた、ということにする。
私たちは言葉少なに、階下へと向かった。
夜通し作業をしていたのだろうか。私たちリヴァイ班のメンバーが簡素な居間に集まったころには、ハンジ班の班員らは、すでに待機していた。
ディモ・リーブスとその息子が来訪し、ほどなくしてリヴァイ兵士長が居間へと降りてきた。同じようなタイミングで伝令をしていたニファさんが帰還する。
話し合いに必要な人員はそろった。まもなく、ヒストリアを女王とするための作戦が話し合われるのだろう。
しかし、その作戦は失敗する。
ケニー・アッカーマン率いる憲兵たちによって、ハンジさんとモブリットさんを除くニファさんたちは、死ぬ。ディモ・リーブスも数日以内に死ぬ。
それだけじゃない。モブリットさんも、ハンジさんも、サシャも死ぬ。多くの人間が死ぬ。
一方で、アルミン、ミカサ、ジャン、コニー、ヒストリア、リヴァイが明日も、その先も、生きると知っている。
私がなにかを介在する余地も必要もない。目の前の光景が、どこか遠く見えた。
石造りの壁に背を預けると、冷たく、ゴツゴツとした感覚が鮮明に伝わってくる。私はなんともなしに壁の凹凸を指でなぞった。
リヴァイ兵士長が、ディモ・リーブスたちがいる前で機密事項を話すことを許可すると、ニファさんは壁際に立つ私たちに視線を向け、作戦についての説明を始めた。
「……では、ヒストリアをどうやって女王に即位させるかの件に関してですが――」
「――え?」
アルミンが、「女王?」と呟いた声が吸い込まれるように消えると、いよいよ、困惑した沈黙が落ちた。
みんなはなにも言えないようだった。その末にニファさんが、「リヴァイ兵長?」と、問いかけると、兵士長はしばらくしてから淡々と口を開いた。
「俺の班には……言い忘れてたが。
現在のフリッツ王家は本物の王家の代理みたいなもんで、その本物の王家はレイス家だ」
どこからともなく、息をのむ音が聞こえる。そして、数秒の硬直ののちに、みんながヒストリアを見ていた。みんなの視線が集う先のヒストリアは青ざめ、そのか細い首筋に冷や汗が伝っていた。
やがてアルミンがゆるゆると片手を上げた。
「ヒストリアを女王に即位させると聞こえましたが……それが、この革命の主目的ということでしょうか?」
アルミンの動揺で震えた声に、リヴァイ兵士長は「その通りだ」と答えた。
「ヒストリア、感想を言え」
ヒストリアは顔を歪め、長く口を閉ざす。その末にヒストリアは、「あ」と、か細い声を上げた。
「私には……。無理です。……」
ヒストリアはリヴァイ兵士長から視線を逸らすように、うつむいた。
「……できません」
「だろうな」
リヴァイ兵士長は言って、一歩、ヒストリアに迫る。ヒストリアは肩を跳ねさせてから、顔をびくりと上げた。
「……!」
ヒストリアは息を吞み、半歩、後ずさる。
「突然この世の人類の中の最高権力者になれと言われ、『はい、いいですよ』と即答できるような神経してる奴は……そんなに多くはないだろうな」
リヴァイ兵士長は険しい顔でヒストリアを見つめた。
「だが……、そんなことはどうでもいい。
――やれ」
「……。私には……とても務まりません……」
「嫌か?」
リヴァイ兵士長の問いにヒストリアは「私には……とても……」と、言葉を濁す。
「わかった」
リヴァイ兵士長はヒストリアの襟元を掴み、ぐいっと引き上げた。
「じゃあ、逃げろ」
ヒストリアは、「う……!?」と、苦しそうな声を上げ、自らの襟元を掴むリヴァイ兵士長の手首を強く握った。だが、兵士長はぴくりとも表情を変えない。
「俺たちから、全力で逃げろ。俺たちも全力でお前を捕まえて、あらゆる手段を使ってお前を従わせる。どうもこれがお前の運命らしい。
――それが嫌なら戦え。俺を倒してみろ」
リヴァイ兵士長はヒストリアの襟首から手を離した。
どさりと床に崩れ落ちたヒストリアは、自らの喉を摩りながら、何度も咽せる。
そうして、苦しげに呼吸するヒストリアに、すぐさまサシャとアルミンが駆け寄った。
サシャは、ヒストリアの背を気遣うように撫でながら、リヴァイ兵士長の方を見上げた。
臆病なところのあるサシャが、そのような行為をしたということから、彼女の憤りが伝わってきた。
「……こんなこと、しなくても!」
ジャンも憤りの隠せていない鋭い声をしている。
私は、なにも、しなかった。壁に背を預けたまま、一歩も動きもしなかった。そのくせ、思わず、その光景から目を逸らし、自分の足元を見つめてしまった。
「お前らは明日、なにをしてると思う? 明日も飯を食ってると思うか? 明日もベッドで十分な睡眠を取れると……思っているか?」
リヴァイ兵士長はジャンに取り合うことなく言った。
「隣にいる奴が……明日も隣にいると思うか?」
私は視線を上げ、ちらりとサシャを見た。彼女はいまだにヒストリアのそばでしゃがみこんでいた。
「俺はそうは思わない。そして普通の奴は毎日そんなことを考えないだろうな……。つまり、俺は普通じゃない。異常な奴だ……。
異常なものをあまりに多く見すぎちまったせいだと思ってる。
だが明日……ウォール・ローゼが突破され、異常事態に陥った場合、俺は誰よりも迅速に対応し、戦える。明日から、また、あの地獄が始まってもだ。
お前らも数々見てきた、あれが……明日からじゃない根拠はどこにもねぇんだからな」
リヴァイ兵士長は「しかし、だ」と続ける。
「こんな毎日を早いとこ、なんとかしてぇのに……、それを邪魔してくる奴がいる。俺はそんな奴らを皆殺しにする異常者の役を買って出ていい。
そりゃ、顔面の形を変えてやるくらいのことはしなくちゃな。俺なら巨人に食われる地獄より人が殺し合う地獄を選ぶ。
少なくとも……人類全員が参加する必要はないからな」
人が、殺し合えば。人と人とが、集団と集団とが、国家と国家とが、殺し合えば、生きとし生けるものは嫌でも巻き込まれることになるだろう。
私は巨人に食われる地獄も、人が殺し合う地獄も、それよりも惨い未来をも知っていた。
「だが、それさえも……俺たちがこの世界の実権を握ることがもしできたのなら、死ぬ予定だった奴が、だいぶ……死ななくて済むらしい……。結構なことじゃねぇか。
すべて、お前次第だ。ヒストリア。従うか。戦うか。どっちでもいいから選べ……。
……ただし――」
リヴァイ兵士長は腰を落とし、しゃがみ込んだままのヒストリアに顔を近づけた。
「――時間がねぇから今すぐ決めろ!」
「やります!」
ヒストリアは喉が裂けんばかりに叫んだ。
「私の……次の役は、女王、ですね……?」
ヒストリアはひどく震えた声で言ったあと、「やります、任せてください」と続けた。その声は痛々しいほどに色のないものだった。
「……よし」
リヴァイ兵士長の声は対比して静かな声だった。ヒストリアの手を掴み、引き上げながら「立て」と言った。
「頼んだぞ、ヒストリア」
「――はい」
ヒストリアは頷き、淡々とし過ぎた声で言った。声音とは裏腹に、その顔はひどく青ざめていた。
一人の人間には、どうすることもできない流れが、きっとある。
それは、神が定めるものなのかもしれない。あらかじめ存在している理法なのかもしれない。人と人とが糸のように交差しあって連綿と紡がれていくものなのかもしれない。
いずれにせよ、それは、リヴァイ兵士長が評したように、多くの場面で運命と呼ばれている。
恐らく、エレンのそれは自由を求めることであり、ヒストリアは血筋なのだろう。
私は、きっと、知ってしまったことだ。
この世界に望まずとも来た瞬間から、原作知識という運命に縛られている。
人は、運命に逆らうことができず、隷することしかできないのだろう。
なら、きっと、仕方がないのだ。
エレンは地鳴らしを行い、ヒストリアは女王になり、私は雁字搦めのまま、なにもなしえずに生き長らえる。
どうせ、そのように生きるしかない。
――でも、ユミルを失い、女王として玉座に縛られる人生は、幸福なのだろうか。
気づけば伏していた顔を上げる。横目で見ると、サシャとコニーとジャンは挑むように、リヴァイ兵士長を見ていた。
抗おうとするのは、無知だからか。あるいは、根底から私とは違うのか。
「ニファ、話を進めてくれ」
リヴァイ兵士長が言うと、ニファさんは淀みなく作戦の説明をした。
リーブス商会が憲兵にエレンとヒストリアを引き渡す。その際、私たち調査兵は憲兵を尾行し、終着点と目されるロッド・レイスのもとまで辿り着く。
そして、ロッド・レイスの身柄を拘束し、対話――或いは、それ以外の手段を講じて――偽の王から
こうして横槍の入れられない状況を作り、ウォール・マリアの穴を塞ぐ。
――そういう、作戦だった。
初めから失敗すると知っている、流れだった。
◇
作戦の決行は、すぐだった。
エレンとヒストリア、そしてリーブス商会が出立。私たちは事前に決めたルートで待機していた。
だが、定刻を迎えても、エレンとヒストリアを乗せた憲兵の馬車はやってこない。
リヴァイ兵士長は早急に作戦の失敗と判断を下す。私たちは敗走した。
◇
エレンとヒストリアを囮に、ロッド・レイスの元まで尾行する作戦の失敗から、二日が経った。
いま、私たちは攫われたエレンとヒストリアを見つけるべく、リヴァイ兵士長の作戦の下、ストヘス区の街外れの馬房で待機していた。
ストヘス区は内地らしく、街並みもすれ違う人の服装も綺麗で整然としたものだった。
しかしながら、つい一か月ほど前に
故にこそ、リヴァイ兵士長やケニー・アッカーマンはストヘス区を選んだのかもしれない。
事実としてウォール・マリア南端のトロスト区からウォール・シーナ東方のストヘス区までの移動と潜入は怪しまれることなくできた。
馬房のすぐそばに待機するような物好きな人間は少ない。人混みは通りの先にぽつぽつ見えるだけだ。私はフードを外した。
コニーは繋いだ馬の手入れをしている。サシャは手持ち無沙汰に立っている。アルミンは腰を落ち着けている。いつもどおりのようだった。
だが、ひどく張り詰めた雰囲気が流れている。
特に、サシャは分かりやすい。人の足音が近づくたびに視線をさまよわせていた。
一方で馬のブラッシングをしているミカサは落ち着いているように見える。だが、二日前、エレンが攫われたと分かったときの動揺っぷりを見ているから、彼女が内心穏やかではないことは知っていた。
馬が飼い葉を食んでいるのをぼんやりと眺めていると、視界の端でサシャが通りの先のほうを見たのに気づいた。私もそちらのほうに目を凝らすと、人影がこちらへ近づいてきているのがぼんやりと見えた。
誰なのだろうか。だが、サシャもミカサも反応をしていない。敵ではないのだろう。
人影が、周囲の状況を見てくると言って出て行ったジャンであることに気づくと、体から力が抜けた。もう、まじまじと観察する必要もない。私は視線を落とした。
「あっちの道は使えそうだ」
ジャンはチラシを片手に帰ってきた。
ジャンはそれをアルミンに、「こんなのが配られてたぞ」と、言いながら手渡す。
アルミンはそれに一通り目を通すと、口を開いた。
「……これで調査兵団は解散状態だな」
「ああ……もうダメな気がするぜ、なにもかも……」
ジャンは馬房の柱に背を預け腕を組んだ。
「てっきり巨人に食われる最期を覚悟してたんだが、まさか人から恨まれて晒し首だとはな……」
「そんな……まだ、そうとは決まってないよ」
アルミンはそれから、希望のある展望を語った。
エレンとヒストリアを取り返し、レイス卿を押さえ、隠された秘密を見つける。そして、エレンが硬化する方法を見つける――。
アルミンが一通り言い終えると、ジャンが重く口を開いた。
「それがうまく行ったとしても、俺は……やっぱごめんだぞ、人殺しなんて……。
もし兵長に殺せって命令されても、できると思えねぇ」
規則正しく聞こえていた、ミカサが馬をブラッシングする音がつかのま途切れた。
「俺もだ」
馬の世話をしていたコニーが顔を上げた。
「従わねぇやつは暴力で従わせればいいと思ってんだ、リヴァイ兵長は。ヒストリアにやったみてぇに!」
「それも商会にはあんなにへりくだったのにですよ! 抜け殻みたいになってヒストリアにはあんな脅し方をして……。きっと女王になったあとも、手駒として扱いやすいようにしたいんですよ!」
サシャが言うと、ジャンがぐっと拳を握った。
「……とにかく俺は……こんな暴力組織に入ったつもりはねぇ。あんとき、俺は……人類を救うためにこの身を捧げたんだ」
ジャン・キルシュタインは、誰の物とも知らない燃えカスを握りしめたときにした決意を、いまだ保てている。
数年後、地鳴らしを止めると決意するときも、そうだ。
フロック・フォルスターの甘言で一度は人類のために戦うことを諦めかけるが、再度、立ち上がれる。
屈しかけてから、もう一度立ち上がれることは、ある意味では、誘惑に靡かない人物の覚悟よりも、ずっと尊いものだった。
私なんかとは、違う。
ジャン・キルシュタインは、強い人だった。
「だ……だめだよ、これからってときに気の迷いがあったら」
アルミンはミカサの方を見ながら「ねえ? ミカサ」と言った。
「あのチビの異常性には最初から気づいていたけど、この現状を乗り越えるためには……リヴァイ兵士長に従うのが最善だと思ってる」
ミカサは淡々と言葉を重ねてから、一度言葉を切り、私たちに視線を合わせた。
「できれば、みんなも腹を決めてほしい」
それに、誰かがなにか返すことはない。
通りで人が行き来する音や、馬の息づかいが聞こえるほど、静かになった。
多分、みんな少し先の未来を予想している。それが、血生臭いものでなければいいと願っているのだろう。
だが、私は、知っていた。
また、大勢、死ぬ。アルミンは手を汚す。数日後には、ジャンもコニーもサシャも。
そして私は原作どおりに物事を進めるために、また、大勢を見捨てる。
――これなら。
なにひとつ、変わらないのなら。なにひとつ、なしえないのなら。私は、いてもいなくても変わらない人物だ。
なら、私は、新リヴァイ班に加入なんてせずに、数か月後のウォール・マリア最終奪還作戦で死ぬほうがよかったのではないだろうか?
途端、胸の底に、じわりと冷たいものが広がった。
ぐっと拳を握る。爪が掌の肉に突き刺さる。その痛みだけが、冷えたものを忘れさせてくれた。
「……ミノリ」
ふいに、ジャンの声が耳に届いた。私はいつのまにか伏していた顔をゆるゆると上げる。
馬房を背にした彼は強張った顔をしていた。
「お前は、どう思ってんだよ。……やれんのか?」
「……」
コニーとサシャはヒストリアのことを慮っている。ジャンは真っ当な志を未だに保てている。アルミンは希望を捨てていない。ミカサはずっと昔に信じるに足るものを見つけている。
「わた、し、は……」
私には、きっと、なにもない。
人類のためとか、誰かを守りたいとか、なにをなしたいとか、そんなものは、ひとかけらも存在していない。
見て見ぬふりはできなかった。犠牲を忘れて、のうのうと生きられなかった。目を逸らせなかった。たったそれだけが始まりだった。だが、その自己満足は人を殺す理由足りえない。
原作どおりに進めたいのであれば、なおのこと、手を汚す必要はない。
――それでも、一つだけあった。
死にたく、なかった。
私は死んだほうがいい人間なのかもしれない。だが、ただそれだけが、私のなかにあった。心の内側に留まっていた。外へ飛び去ることはなかった。
目を閉じる。無数の虚ろな瞳が、じっと、見ている。
「……正しいとか、正しくないとかは、なくて。
だから、必要なら、死にたく……ないなら……」
人なんて、殺したくない。
本当のことを言うと、無垢の巨人が人だと思うと斬るのは怖いし、訓練であろうと人を殴るのだって、嫌だった。
でも、そうしなければ、死ぬ。それが、ずっと、私の背を押していた。
虚ろな双眸たちから逃げるように、目を開く。一瞬、日差しで目が眩み、それから、ジャンと視線が合う。
彼の陽光が差し込む瞳からは、怖気や逡巡や嫌悪が伝わってきて――。ああ、やはりジャンは尊い人だと、そう、思うのだ。
「……殺すしか、ない、と思っている」
ジャンの表情が一層、強張った。そのあとに彼は短く息を吐いた。
「……そうかよ」
ジャンは言ったあとに、苦い表情を浮かべ視線を落とす。サシャやコニーがなにか言うこともない。
重い、沈黙が落ちた。
「――銃声です! ほら、何発もなってますよ!」
しばらくが経ち、唐突にサシャがウォール・シーナを指さし、大声をだした。
耳を凝らしてみるが、なにも聞こえない。だが、サシャのことだ、きっと本当に聞こえている。
アルミンも同じように判断したのだろう。
「兵長たちが見つかったんだ。言われた通りの作戦に変えよう」
彼は言い、馬の手綱を取った。
リヴァイ兵士長が事前に告げていた作戦は、原作どおりのものだった。
アルミンが荷馬車を御して、エレンとヒストリアが囚われていると思しき霊柩馬車を尾行し、それ以外の全員は馬を用意して待機する。そして、リヴァイ兵士長が立体機動装置で、私たちのいるウォール・シーナの内側に来るのを待つ――。
その作戦に従い、アルミン以外の全員は、騎乗しウォール・シーナの近くで待機していた。
馬上で待機してしばらく経ったころに、サシャが「銃声が近づいて来ています!」と言った。
「銃声が近づく?」
ジャンが訝しげにサシャを見た。
「銃を撃ちながら立体機動で追えるわけはねぇだろ」
「でも……」
「ましてや憲兵が兵長らの動きについていけるわけが……」
ジャンが言うのと同時にウォール・シーナの門から霊柩馬車が現れた。次いで凄まじい速度でリヴァイ兵士長と、兵士長の後を追うように憲兵が立体機動で飛び出してくる。
私は彼らを追うべく、手綱を引き、馬の腹を軽く蹴る。馬はそれに応じて駆け出した。一瞬遅れて、後ろからも蹄の音が響いた。
建物と建物の間を縫うように、幾人もの兵士が立体機動で飛んでいる。
兵士長を追う三人の憲兵の手には、銃のようなものが握られていた。対人立体機動装置だろう。
憲兵の一人がそれの銃口を兵士長に向け、引き金を引いた。銃声が鳴り響く。兵士長は当然のように弾を避け、アンカーを憲兵に放った。憲兵の胸に深々とアンカーが突き刺さる。
兵士長がトリガーを引いたのだろう。アンカーで穿たれた憲兵と兵士長の距離が縮まる。憲兵の苦し気な呻き声が嫌に耳についた。
兵士長がブレードを構える。
次の瞬間、刃が振り下ろされ、鮮血が散り、上半身と下半身が断たれた憲兵が地に落ちた。
「殺した……」
ジャンが呆然と呟いたのが、蹄音にまぎれて後方から聞こえた。
脈絡もなく兵士長がブレードを立てるように構える。事前に取り決めていた合図だ。血で濡れたブレードが陽光を受けて、ぬらりと輝いていた。
「左へ行こう」
ミカサが言うのを合図に、私たちはアルミンが御する荷馬車のほうに移動した。
「霊柩馬車はもう追うな、俺たちの行動は筒抜けだ」
荷台に降り立った兵士長は淡々と言った。
「いったんエレンとヒストリアを諦める」
ミカサが息を呑んだ。
「奴らは二人をエサに残存する調査兵を全員この場で殺すのが目的だ。きっとこの先も敵が待ち伏せしている。同じようにして他の三人は殺された」
知っていたことだった。私は、また、見捨てたのだ。
「アルミン、左側から最短で平地を目指せ。
サシャとコニーは馬を牽引しろ。」
アルミンとサシャ、コニーは兵士長の言葉に「はい」と答えた。
「ジャン、ミノリ。荷台から銃で応戦しろ」
なるほど、そういう立ち位置になるのか。場違いにも奇妙な納得が落ちた。
だが、どこに配置されようが、私はなにもしない。私にできることなんて、ない。
「了解、しました」
「……了解!」
ジャンが一拍遅れて言った。
「ミカサは俺と立体機動で逃走の支援だ」
「……」
ミカサは了承の意を示さず、「……エレンとヒストリアはどうするつもりですか?」と不満を押し殺した声で問いかけた。
「他の手を探すしかねぇだろ」
リヴァイ兵士長は淡々と言う。
「それも、俺たちがこの場を生き延びることができたらの話だ。敵は殺せるときは殺せ。わかったか?」
できれば、人を殺したくない。傷つけたくない。本心だ。
だが、リヴァイ兵士長が憲兵を殺したとき、ああ、殺したな、と、納得だけがあった。嫌悪とかは感じられなかった。
私は人を殺せるのだろうか?
ミカサが固い声で「了解」と答えるのがぼんやりと聞こえた。
「兵長、来ました! 右前方より複数! 曲がります!」
アルミンが声を張り上げた直後、私とジャンはアルミンの御する荷馬車に飛び乗り、荷台に用意してあった銃を手に取った。
石畳の上を跳ねるように馬車は進む。平時では出すことのない速度で進む馬車の上では、体の芯に力を入れなければバランスを取れなかった。
立体機動装置の独特の動作音と銃声が鳴りやむことはない。建物の隙間を縫うように、あるいは、大通りの上空を堂々と立体機動装置を身に着けた兵が飛び交う。閑静な街はいまや戦場になっていた。
いつ、その銃口が向けられてもおかしくないのだ。ぞくりと怖気が走った。
やがて、一人が兵士長の手によって切り刻まれた。一瞬の、鮮やかすぎる手際だった。
命を絶たれた憲兵が、力を失い地面にどちゃりと墜落する。
「クソッ……また、人が死んだ! なんでこんなことに……!」
ジャンが動揺しながら呟いていた。
ミカサとリヴァイ兵士長は立体機動装置を駆使して、憲兵の動きを阻む。だが憲兵の数は多い。
ついに一人の憲兵が、左側の屋根から憲兵が立体機動で向かってくる。
その女兵士がアルミンに銃口を向けた。アルミンが「あ!?」とこぼす。私が銃口を向けるよりも早く、ミカサが凄まじい速度で飛翔し、女兵士を足蹴にした。
硬質な音が響いた。次の瞬間、女兵士が私のそばに落ちて来た。荷台が衝撃で揺れた。私は一歩下がり、ジャンの横に並ぶ。
「動くな!」
ジャンが女兵士に銃を突きつけながら言った。ああ、なるほど。この女がアルミンに撃たれるのか。私も、一応、銃を構える。
女兵士と視線が合ったが、それはすぐに逸らされた。女は頭をぶつけた衝撃で、どこかぼんやりとした瞳をしていた。
女はその焦点の定まっていない視線をジャンに向けると、ぐっと腕に力を入れ、上体を起こした。
「動くなっつってんだろ!!」
女兵士は銃口を突き付けられているというのに、構うことなく荷台に置かれた木箱に肘をついて、起き上がろうともがいている。女の手に握られた対人立体機動装置の、銃口が、ふいに目についた。
数秒後、この銃口がジャンに突き付けられる。だが、原作どおりにいけばジャンは間違いなく助かる。アルミンが女に手を下すのだ。
でも、もしも。
ほんの少しでもなにかが狂ってしまえば――。
死ぬのだ。ジャンは。
ぱっ、と、目の前が開けたかのような、感覚がした。
いままで何人、犠牲にし、見捨て、見殺しにしてきただろうか。
トーマス、ミーナ、マルコ。ニック司祭。名前も知らない人々――。
これから先の、人類の八割。
いまさらだった。そこにもう一人加わるくらい、どうということもなかった。
中腰になった女に照準を合わせる。鼓動の音だけが聞こえる。静かに呼吸をする。そして、引き金を引く。
それは、ひどく軽かった。
銃声が響く。次の瞬間、女が悲鳴を上げた。どうやら即死ではなかったらしい。
銃を肩から外ししっかりと両手で握る。私は銃を振りかざした。
女は跳ね上がるような動作で銃を構えながら、よろよろと私の方を向いた。だが、遅かった。
たぶん私は「死ね」とか、そんな声を上げていた。
銃床で女の頭に思い切り殴りつける。ガツン、と骨を砕く感覚が腕を通り抜けた。「ぎゃ」と断末魔が上がる。女兵士の強い意志の宿った瞳から、光が失せる。虚ろな瞳が私を見る。じっと、見ていた。そして、その体がぐにゃりと崩れ落ちた。
私はしばらく血に濡れた銃を手に、ただ、立ち竦んでいた。
まず、どうしよう、と思った。
ここでアルミンが手を汚さないことでどのような影響があるだろうか。ジャンが手を下す覚悟ができなくなったらどうしようか。この窮地は彼らにとって必要なものだったのかもしれない。
同時に、安心もしていた。
ジャンもアルミンも、何事もなくてよかった。
――原作うんぬんとか関係なく、純粋に、仲間の無事を喜べていた。
だから、私は。
私は、殺した女のことなんて、ひとかけらも考えていなかった。
いつのまにか耳の底からしていた、じーっという耳鳴りが段々と遠くなり、じわじわと周囲の喧騒が聞こえてくるようになった。
馬車を引く音や、周囲の喧騒がうるさい。それよりも、荒々しい自分の呼吸音が耳についた。
荷台には女がぐたりと四肢を投げ出し、倒れている。その胸と頭からは滂沱のように血が流れていた。
生きているのか、死んでいるのか――。傍目には判断がつかない。だが、いずれにせよ女は邪魔だった。
どかさ、なければ。
戦闘中だが、仕方がない。
私は銃を足元に置いて、女の体を持ち上げようとした。だが意識のない肉体はぐんにゃりと、しなだれかかってきて重い。揺れる荷台の上では、持ち上げることすら難しかった。
私はジャンに「手伝って」と、声をかけた。
反応はない。
「……ジャン?」
ジャンは倒れた女を茫然と見ていた。だが、「ジャン」と、もう一度呼び掛けると、弾かれるように私を見た。視線が合う。彼の瞳が一度、揺れた。
「これを、どかさないと……。手伝って、ね……?」
「おッ、おう」
ジャンは裏返った声で言うと、銃口を上に逃がして小脇に抱え、女の体に手を伸ばした。彼はその力ない体を持ち上げるときに、わずかに顔を歪めていた。
私も女の脇から腕を入れて、力を込めて持ち上げる。女の上半身がもたれかかってくる。まだ、生温かい。
私とジャンに持ち上げられた女の上を向いた
二人がかりで女を荷台の上から投げ落とす。女の体が石畳の上を何度か弾みながらごろごろと転がり、あっという間に後ろに流れていった。
女の姿が見えなくなった。私は銃を拾い、装填する。銃につく鮮血を袖で拭い、銃床に僅かに残った歪みを撫でる。
無性に手を動かしたい気分だった。
「ミノリ、」
私は手元から顔を上げる。ジャンは躊躇いの混じった顔で私を見ていた。
「……悪い、助かった」
「そう」
ジャンがなにかを言いかけて、止める。
数秒の間をおいてアルミンが「……ミノリもジャンも、無事でよかった」と、言った。その声は硬い。
「もう、そろそろ街を抜ける」
アルミンは誰に言うでもなく呟いた。
荷馬車の床には血が水たまりのように広がっている。反対に空は濃い青を果てなく広げていた。
そこに、ぽつぽつと人の影があった。上空ではまだ、兵士長とミカサが憲兵たちと戦っている。その黒い点のような影を追い抜かすように、にわかに荷馬車が速度を上げた。