棘 作:よく
崩れた屋根から差し込む夕日は青いものとなっていた。
エレンとヒストリアを除いたリヴァイ班のメンバー全員が、同じ建物の中にいる。そのはずなのに、人の気配は薄い。馬房に入れられた馬たちの発する音が、ただ、静かに響いていた。
なんともなしに頬を擦ると、手に黒くパラパラとした粉がついた。ややあってから、それが乾いた返り血だということに気づく。どくりと鼓動が鳴った。はじかれたように何度も袖で頬をぬぐう。
袖はゴワゴワとしていた。
見ると、袖だけでなく、胸のあたりやらにも、乾いて赤茶けた血がこびりついていた。女を荷馬車から捨てたときについたのだろう。
私は歯を食いしばった。
この服はもう使えそうにない。それに、血液感染が心配だ。だが、替えの服なんてもっていない。
ため息をこらえて、朽ちた天井を見上げる。空は紫がかっていた。
私たちはストヘス区から、とうに使われなくなった馬小屋に逃げおおせた。
なにがあって手放したのだろうか。馬小屋は天井や壁が朽ちているものの、私たちの人数分の馬を置けるほど、立派なものだった。
近くに人の生活の気配もないし、ここで一晩過ごすことになるだろう。馬くさいが、屋根のあるところで休めるだけありがたい。それに、明日になれば状況は少しよくなるだろう。
無意識のうちに組んだ腕を指先でトントンと叩いていた。気づいたときに止めるが、また、いつのまにか同じことをしている。
いまの私は明らかに普通の状態ではない。リヴァイ兵士長もそれをわかっているのか、私に見張りを割り振ることはなかった。
特に誰かに頼まれているわけでもないが、私は馬の世話をした。なにか、作業に集中していれば、いやなことを考えないですむ。
すむと思いたかった。
なにかをしていても、手には骨を砕いたときのいやな感触が残っていた。ガツン、と手の先から肩まで通って行った衝撃がふわりと蘇ることがあった。そのたびに、なんともなしに手をさすった。
それでも、壊れかけた桶で馬に水をやったりしているうちに、気づけば日が落ちていた。
天井から差し込むほの青い光すら失い、いまや、ないも同然の月光だけが差し込んでいる。代わりに、赤々とした焚き火が人の輪の中心で揺れていた。
誰が火を起こしてくれていたのだろうか。まったく気づいていなかった。
食事時なのだろう。いつのまにかリヴァイ兵士長、コニー、アルミン、ミカサ、ジャンたち――サシャは見張りをしているのだろう――が、焚き火を中心に車座になって座っていた。
五人の影が放射状に伸びている。
馬小屋の隅、焚き火の光も届かぬ闇のところから、無数の虚ろな瞳が、じっと、見ている。
頭をふるって、人一人分空いた隙間に腰を下ろすと、土の湿気たにおいが鼻に突いた。
誰かがなにかを言うこともなかった。
だが、やがて、焚き火の上に吊るされた薬缶がシュンシュンと音を立て始めると、アルミンが「僕がやるよ」と、言い、適当な布を巻いて取っ手を掴んでコップへ湯を注ぐ。
それを皮切りに、馬小屋に人の生きた気配が戻ってきた。
隣に座っていたコニーは立ち上がると、積み荷の木箱から野戦糧食を取り、配った。
「ミノリ」
「……コニー」
「ほらよ、飯だぜ」
「ありがとう」
私はコニーから野戦糧食を受け取り、包みに手をかけた。ちょうど、そのときコニーが「なあ、」と、声をかけた。
「……ん?」
私は包みをはがす手を止めて、コニーを見上げた。
焚き火にゆらゆらと照らされているコニーの顔に、いつもの明るさはなかった。彼と視線があったが、すぐにそれは気まずそうに逸れた。
「あー、いや、なんでもねえ」
「……そう」
この場にいる全員に野戦糧食が行き渡ったが、誰も食べようとはしなかった。もし、この場にサシャがいたら、気まずそうな顔をしながらも誰よりも早く齧りついていただろう。
くだらないことを考えていたら、リヴァイ兵士長が、「お前ら、食わねえのか」と言い、野戦糧食を口にした。
それを合図にみんなも食事を始めた。
私も「いただきます」と、口の中で小さく囁いてから野戦糧食を齧る。
あまり、味がしない。そもそもおいしくない。だが、食べなければやっていけないことは身に沁みて分かっていた。
私は黙々と食べ進めた。
少し冷めて飲みやすくなった湯を啜ると、思いがけないほどの温かさが体の内に広がった。気づかなかったが、冷えていたようだ。
コップを地面に置き、手についた野戦糧食の欠片を払い、膝を抱く。
私が真っ先に食べ終わるのは珍しいことだった。みんなはまだ食べ終えていない。
膝に顎を乗せて、視線を落とす。焚き火が、赤々と土を照らしていた。
食事をとって緊張が解けてきたのか、だんだんと、体が小刻みに震えはじめた。指先の震えを隠すように、脛の前あたりで組んだ両手に力を込めた。
――やってしまった。
私が憲兵の女を殺したせいで、原作が変わってしまうかもしれない。
もしも、アルミンとジャンが躊躇ってしまって王政編で死んでしまったら?
すべてが狂ってしまう。
原作の流れが変わってしまったら、巨人のいない未来も――最低でも――百年の平和も訪れなくなってしまう。
どこまで変えても原作どおりの展開が狂わないのかなど分かりようもないし、狂ってしまったことへの責任の取り方なんて、皆目見当もつかない。
人を殺したことよりも、そっちのほうがよっぽど恐ろしかった。
そのことに対して、驚きよりも暗い納得があった。
気づけば指先がしびれていた。目の前の光景が遠のいて見える。呼吸が浅いことを実感する。私は抱いた膝を緩めて、息をはくことを意識して呼吸をする。
頭がじんとしていた。思考がうまく回らない。だが、これなら、かえってなにも考えないですむからいいのかもしれない。
「……ミノリ」
ただ息をすることに集中していると、ジャンが呼んだ。
ちらりと目を上げてジャンを見、それから、みんなを見ると、沈鬱な顔をしていた。アルミンと、ことにジャンはひどい顔をしている。
なに、と聞く気力もなくて、じっとわずかに視線を落としたジャンを見ていると、彼は背筋を伸ばしこちらを向いた。
「悪かった。……すまない。俺が、撃たなきゃいけなかった」
「……僕も」
ジャンが言い終えると、ほどなくしてアルミンがぽつりと言った。
「援護するべきだった。ごめん。ミノリに……やらせちゃって」
枯れ枝が火の中で爆ぜ、ぱちぱちと小さな音を立てていた。虫の声も聞こえる。
ふいに、ふっ、と笑みがこぼれた。
ジャンとアルミン――だけでなく、兵士長以外のみんなが驚いたように私を見た。
「気にしないで。……二人なら、殺せた」
無駄なことだった。私がやったことは余計なことでしかなかった。
そう確信している。すでに知っている。
だが、断言するのは怪しまれることだろう。
「……と、思うよ」
すぐさまそう続けると、アルミンとジャンの困惑した声が夜闇に吸い込まれた。
二人は困惑に顔を歪めながらも、私を見ている。それから逃げるように視線を落とした。
人を、殺した。
だが、自らの意志で直接手をかけることと、知っていて見捨てることに、なんの差があるのだろうか。
越えてはいけない一線は、とうに越えていた。
すとん、と、その事実が飲み込めた。
「それに、……いまさら、だから……」
顔を上げると自然とみんなの目が視界に入った。みんなは不安や心配を浮かべている。
私は、そう思われるような人間じゃ、ない。二人が謝る必要もなかった。
「私は……多くを、見捨ててきた。この手は……ずっと、ずうっと前から、汚れてる……から、みんなは、気にしなくて、いい」
そうだ。事実で、受け入れている。割り切るべきだ。
だというのに、「なのに……ほんと……なに、やってんだろ」と、するりと言葉がこぼれ落ちた。
いまさらだというのに、どうしようもなく、怖いのだ。
地鳴らしが必要であると判断した時点で、私は人殺しだった。越えてはいけない一線は、とうに越えていた。心底から理解しているのに、なにかとてつもない境界線を越えてしまったのではないかと、思わずにはいられない。
ほら、ちゃんと、怖がれている。
そうやって、安堵もしてしまっていて。でも、その恐怖心すらも、原作を変えてしまったことに対するものよりも、薄い。
どうしようもない、人間だった。
「こんな……半端な……」
膝を抱え込んだ。闇を見るのが怖くて、ただ、火に照らされた地面を眺める。
何度か呼吸をしても、誰もなにも言わなかった。
腹の底でうねるような自己嫌悪が引いたころ、自然と私は口を開いていた。
「二人は……みんなも、ほんとうに……、ほんとうに、おねがいだから……、殺してでも、生きて。……ね」
本心からこう思っているのか、あるいは、原作を変えないために言っているのか、なにひとつ分からない。
ふと、まともな死に方はできないな、と、そう思った。
私が口を閉ざすと、いよいよ沈黙が落ちた。
なんともなしに、自らの膝を抱いた腕に力を込める。
指先のしびれはいつの間にか薄れていた。息苦しさも、先ほどほどではない。
焚き火から落ちる光が土の上でゆらゆらと踊っている。この赤は、どこであろうと、いつであろうと、変わらない色をしていた。
ぼんやりとしていると、コップを持ち上げる音が、ひどく大きく聞こえた。
つられて視線を上げると、リヴァイ兵士長がいつもとなにひとつ変わらない雰囲気で、湯を飲んでいた。
兵士長はコップを地面の上に置くと、射抜くように私を見た。
「ミノリ。お前、後悔してねえんだろ」
「こう……かい……」
――後悔。
その言葉を口の中で転がす。
後悔は、している。だが、それは、原作を変えてしまったことへの悔いだ。
いま、リヴァイ兵士長から問われているのは、そのことではない。兵士長は私の持っている情報の大半を知らない。彼は無知である。
兵士長が問うていること、すなわち、人を殺したことについては、まったく後悔していなかった。
原作の流れを変えない範囲で、必要であるのなら、私は何度だって人を殺せるだろう。そういう、冷えた確信があった。
「はい。……少しも」
兵士長は私からすっと視線を逸らし、みんなを見た。
「ミノリは、やるべきことをやった。後悔もしてないらしい。……なら、お前らがいまさらこいつの選択をどうこうすることは、できねぇ」
それを否定する声も、肯定する声もない。
やがて、「リヴァイ兵長」と、ジャンの声が静かに沈黙を打ち破った。
「俺は……あなたのやり方は間違ってると……思っていました。イヤ、……そう思いたかった。自分が人に手を下すのが怖かったからです」
ジャンは言葉を切って、一度、大きく息を吸った。
「間違っていたのは自分でした。次は必ず撃ちます」
ジャンはわずかに震えた声で、それでも、きっぱりと言い切った。
「あぁ……お前がぬるかったせいで、俺たちは危ない目に遭っていたかもな」
「……申し訳ありません」
わずかに言葉を失ったあとにジャンは絞り出すように謝罪した。
「ただし、それは、あのときあの場所においての話。
なにが本当に正しいかなんて俺は言っていない。そんなことはわからないからな……。
お前は本当に間違っていたのか?」
見覚えのある、あるいは、聞き覚えのあるジャンとリヴァイ兵士長のやり取りを聞いて、冷え切った体に少しずつ熱が戻ってきた。
これで、ひとまずは原作どおりに進みそうだ。
強張っていた肩から力が抜ける。
私はひどく安心していた。
◇
暗闇には、無数の虚ろな瞳が見える。
それは、じっと、私を見ている。
鼻の奥には死臭がこびりついている。
――これは、夢だ。
わかっていても、恐ろしかった。
無数の虚ろな瞳はなにを言うでもなく、恨めしそうにまだ生きている私を見ている。
仕方のないことだった。耐えるしかなかった。
私はそれらの視線を受け止め続けた。
耐えて、耐えて、耐えて――。
やがて、無数の虚ろな瞳たちのうちの一対がゆらりと立ち上がった。
ぼんやりとした影は、胸からだくだくと血を流す、人影になった。
人影は虚ろな瞳でじっと見つめている。気づけば、その死体は銃を片手に構え、のろのろと近づいてきていた。
私の手にも、いつのまにか銃が握られている。引き金をひいても、カチャカチャと空撃ちする音だけがした。弾が装填されていない。ひ、と変な呼吸をする。
女は間近に迫っている。死にたくない。私は、銃床で女を殴りつけた。
骨を砕く感触が腕を貫いた。断末魔の叫びが響く。返り血が頬にかかる。
それでも、女は倒れない。
死んでくれ、死んでくれ――。
そう願いながら、何度も、何度も殴りつけた。だが女は立ち上がってこちらに向かってくる。
虚ろな瞳が、じっと、見ている。恨めしそうに見ている。死んでくれと願っている。
女の手が首に伸びた。
◇
「――ミノリ!」
心臓が、ばくばくとがなり立てている。
ひどく息苦しい。カラカラに乾いた口を開けて思い切り呼吸をする。
自分がどこにいるか分からなかった。はあはあと呼吸をして、何秒か経って、ようやく馬小屋にいることを思い出した。
「すごく、うなされてましたよ」
心配そうな、聞き馴染んだ、声。
「サ、シャ……?」
「大丈夫、ですか?」
「……ん」
サシャが肩に手を置いたまま、私の顔を覗き込んでいる。
寝ていたからか、サシャはトレードマークのポニーテールをほどいていた。重力に従って垂れる長い髪が、彼女の呼吸や身動ぎにあわせて揺れている。
サシャは、生きている。
そうしているうちに、早鐘を打っていた鼓動は少しずつ治まってくる。
「うん……ありがとう」
サシャは、ほう、と、息をつくと、私の肩からの手を離す。だが、サシャは自らの寝床に戻ることはなく、私の夜具に腰を下ろした。
眠れないだろうと思っていたが、いつのまにか寝ていたようだった。
馬小屋は耳が痛くなるほどに静かで、ときおり、馬の息づかいや、どこからともなく虫の声やらが聞こえてくる。
天井に空いた穴からは、高い位置にある月が見えていた。夜はまだ長い。
夜番の順番はまだ先だ。早く寝ないといけない。だが、眠気は遠いところにあった。
野営用の薄い寝具はごつごつとした地面を伝えてくる。私は寝返りを打ち、サシャの方を向いた。
焚火の跡を中心に、みんなやリヴァイ兵士長が体を休めている。その横たわった人影が、寝返りや身動ぎをすることはない。どうやら、私の寝言で起き上がるほど驚いた人はいないらしい。すこし体から力が抜けた。
「ごめん。起こした……よね?」
サシャの背中に声を潜めて言うと、サシャはこちらを振り向いて、「いえ、」と同じように小声で返した。それからサシャは、へにゃりとした笑みを浮かべた。
「まあ……正直なところ、ミノリの声でびっくりして目が覚めました」
サシャはつかのま、視線を落としたあとに、自らの膝を抱えたのか、顔を正面に向け、すこしうつむいた。やがて、ぽつりとサシャは口を開いた。
「小さいころに、私、ウサギを殺したことがあるんです」
「……?」
なんで、サシャはいきなりこんなことを言ったのだろうか。
よくわからなくて、私は何度も瞬いた。
「はじめて狩れた獲物で、うれしくて、食べるのが楽しみで。
でも、絞めるとき……何度もためらって。……ようやくできたときも、とても、怖かったです」
サシャの声は静かだった。
「いまでも、あのときの感覚を覚えてます」
「……そう、なんだ」
サシャは頷く。髪が揺れ、彼女の白いうなじが月明かりに晒された。
「ずっと、忘れられないんです。毛並みとか……、目とか、温かかったな、とか。あ、でも、もちろんおいしくいただきましたよ。
それで、あの、なんというか……。
……今日のこともあります。私も、他人事じゃありません。だから、きっと……」
段々と暗くなっていく声で言って、サシャは「……あ!」と小声で叫んだ。それから、勢いづけて私の方を向く。彼女は手をばたばたさせてから、気まずそうな笑みを浮かべた。
「す……すみません! 変なこと、言っちゃいました」
「うん……?」
なんで、サシャは急に昔話をしたのだろうか。
なんで、サシャは、変なことを言った、と謝ったのだろうか。
思考する。そのうちに、鼓動はいつもどおりの早さを刻んで、やがて、すっと考えが浮き彫りになった。
もしかして、サシャは励まそうとしてくれたのだろうか。
結局のところ、これは推察で、彼女の本心は分からない。だが、いずれにせよ、気がまぎれたのは事実だった。
「サシャ」
私は彼女に視線を合わせた。
「……はい?」
「ありがとう」
サシャは気まずそうに歪めていた顔に、柔らかな笑みを浮かべ、「どういたしまして」と言った。
ややあって、彼女はいたずらっぽく唇を歪めた。
「――今日は素直ですね」
「……悪い?」
「悪かぁないですよ。いつもこうなら……。いえ、それはそれで気持ち悪いですね」
サシャは肩をすくめた。
「……」
サシャは一体、私のことをどう思っているのだろうか。
黙りこくっていると、サシャはおかしそうに顔を歪めた。私も思わず、「ふ」と息が漏れた。
サシャが目を丸くする。ほのかな月明かりで彼女の目が光を放つように、きらめいていた。
私は目にかかった毛先を指で払ってから、彼女がなにか言う前に、「おやすみ」と告げた。
サシャは笑いをかみ殺したような、楽しげに歪んだ顔をした。
「おやすみなさい、ミノリ」
サシャは私の夜具から立ち上がると、自らの寝床に戻っていく。彼女の後ろ姿が夜闇に溶け込んでいくのをなんともなしに、見ていた。
一人になると、急に肌寒さを感じた。私は首元まで布団を引っ張り上げた。
目を閉じると、いつものように目蓋でできた暗闇から無数の虚ろな瞳が、じっと、見ている。私は諦めて目を開けて、ほのかな月明かりで見える馬小屋をぼんやりと見た。
正直なところ頭は、冴えてしまっていた。到底、眠れそうにない。だが、明日も明日で戦闘が待っているから、横になって少しでも体を休めないといけない。それに、一人だけ座っていたらみんなに気を遣わせるだろう。
寝返りを打って壁のほうを向き、横になったまま膝を抱えて丸まるような姿勢になった。
馬小屋の古ぼけて節くれだった壁の模様がぐにゃぐにゃと動いているように見える。ふいに、壁がその模様ごと、血が染み出たように赤くなった。あのとき、荷馬車の木板にこぼれた血のようだった。幻覚や錯覚であるとわかっていても、一瞬、息をすることをも忘れた。
薄い布団をぎゅっと握って意識的に深く呼吸する。
つかのまの微睡から覚めても、銃の引き金を引いた瞬間の女の顔も、腕にがつんと響いた骨を砕く感覚も、鮮明に刻み込まれている。そのくせ、あのとき、トロスト区で扉を閉めて見捨てた人の顔はだんだんと朧気になってきていた。
きっと、今日のこともいつしか記憶が薄れゆくのだろう。
それでも、永劫、忘れてはいけないことがあった。
私は、人殺しだ。
九年ほどまえから、――この世界に投げ出された瞬間から、そうだ。憲兵の女のことは、ついにようやく手をかけただけに過ぎない。
そして私は、ずっと先の明日、地鳴らしが起きることを知っている。いつか隣人が死ぬことを知っている。
知ったことは忘れられない。私は、それらを考えることから、逃げることは決してできない。それは、きっと、ある面では、リヴァイ兵士長が先日、言っていたように異常なのだろう。
なれば私は、異常者でもある。
人殺しで、異常者で、こんな、どうしようもない私に、サシャは寄り添ってくれた。
拒否しなければならないのに突っぱねることなんて、できなかった。受け入れてしまった。すこしでも楽になってしまったことは、否定できなかった。
ライナーがいたら、なんと言ってくれたのだろうか。あのときと同じように、背を撫でてくれたのだろうか。
あ。
「ちがう、」
目を見開く。ゆっくりと瞬きをする。
違う。間違っている。それは、だめだ。
だって、ライナー・ブラウンはマーレの戦士で、敵で。私から帰る場所を奪って、こんな地獄に突き落として。私がいまここにいるのも、憲兵を殺したのも、すべて私の選択だけど、そのきっかけであることは間違いない。
確かに、マルセル・ガリアードの真似事として、あるいは、心の底から兵士であると信じて、訓練兵や調査兵として、存在していた。確かに、いつかの未来では地鳴らしを止めるために協力するのかもしれないけれども。確かに、私に手を差し伸べたのかもしれないけれど。
それは未来における一時の関係であって、こういうときに想うような相手では、決してない。恨んで、憎んで、憎悪して、嫌悪してしかるべき相手だ。
それに最初から全部、知っていたはずだ。
だから、ずっと拒んでいた。関わりたくなんてなかった。
――なのに。いつからだろうか。自然と言葉を交わしていた。
やめろ。
ライナーの手が私の背を撫でたことを思い出せてしまう。
新兵勧誘式の夜に肩を掴んだ手も。第五十七回壁外調査で「当たり前だろ」とこともなげに言った声も。故郷に絶対に帰れると、諦めるなと、告げた声も。
全部、いまでも、思い出せてしまう。
考えるな。
どうせ、敵なのに。
なんで、ライナーはやさしくしたんだろう。
どうせ、敵であると知っていたのに。
なんで、それを受け入れてしまったんだろう。
あーあ。
認めがたいものを認めるときの、あの、苦く生温いものが、じわじわと広がっていった。
ただ、じっと、目の前に広がる虚空を睨むように見つめた。
やがて、奔流のような激情も呑み込めてしまって、私は長く息をはいてから、自らの膝をゆるく抱いた。
ずっと、拒絶していた。
だというのに、何度も、助けて。話しかけて。慰めて。
あの夜。新兵勧誘式の夜。上辺だけの言葉を取り払って、『死にたくない』と、そんな本音まで引きずり出して。
いつしか、彼の存在を当たり前のように受け入れてしまった。
それだけじゃなかった。あまつさえ、傷になりたい、と、願ってしまった。私、自らが、なにかを求めてしまったのだ。
全部、知っていたはずなのに、差し出されたものを拒めずに受け取ってしまった。よるべにしていた。
ほんとうに、なにやってんだろ。
途方もない疲労感が広がって、それがじんわりと引くと、今度は苛立ちが胸を焦がした。
愚かだ。自分自身にどうしようもなく腹が立った。
それに、私も私だが、ライナーもライナーだ。
ライナー・ブラウンはパラディ島の人々を悪魔の末裔であると思っていた。そうでないと思ったとて、どうあれ、敵であるはずだった。なのに、なんで、関わり続けたのか。
そのくせに、エレンを奪還するとき刃を向けたというのに、私のことを一瞥もしなかった。
膝のあたりの肉に、爪が布越しに食い込んでいた。
ぬるい痛みがじんわりと広がる。無意識にやっているのか、意識してやっているのか、分からない。それでも手を離す気には、なぜだかなれなかった。
ライナーはいまごろ、シガンシナ区にいるのだろう。まだ、アニを助けに行くかを決めるために、ジークと戦うほどのタイミングではないか。いずれにせよ呵責に苛まれているのだろう。
だがライナーはこの先も苦しみながら、それでも、なにかを、なしながら、ずっと生きる。それに、どうあれ帰る場所があるのだ。
ずるい。
そう思ってしまえば、それも、消すことはもはやできなかった。