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――静かな海辺に響く、波の音。
夕方になると、生温かい空気に満ちたそこは涼しさに支配されてしまう。こんなときになると、地政学で学んだ「表層海流」を思い出す。温かい空気と冷たい空気が入れ替わって地表の温度も下がるこの現象は、春先になると油断ができない。日によっては寒暖差が激しい春になると、低体温症に加えて風邪をひく可能性もあるからだ。空を茜色に染める太陽が見えると自分を忘れて見惚れそうになるけれども、体調を崩してしまっては元も子もない。自分の身を守らなくては。先生が設けてくれた貴重な休日を台無しにするのは先生の慮りを無下にしてしまう。
それにしても、打ち寄せる度に足元に当たる波は心地いい。砂浜を踏みしめると、波の染みた砂に吸い込まれそうになる。普段は緊急車両に乗ること、靴で堅いアスファルトを踏みしめることの多い私にとって珍しい感覚だ。潮の香りや涼しい風が全身にかかる。仕事でもあるした、いや、負傷者のいる現場とは雰囲気が異なる。何だか、今いるこの場所が絵物語の世界のようにも見える……。
……私としたことが。穏やかな雰囲気に包まれて気が緩んでしまった。こういうときにこそ、一大事が起きるかもしれない。医療支援をする者として、常に気を引き締めなくては。
遠くの景色を見ながら歩くと、小さな人影が見えた。
夕方という時間だというのに、何を……、……まさか。背筋と首筋に悪寒が走る。いくら何でもこの時間帯にあの行為をするなんて、ドラマや小説の世界だと思っていた。ただ、現実にそれが起きてしまうと納得せざるを得ない。
一歩。
また一歩。
さらに一歩。
足の指や踵に砂や潮水が絡みつく。歩けば歩く程、嫌な感触が伝わる。身体も火が点いたように熱い。そんなことなんて気にする余裕なんてなかった。
やっと人影の近くに着いた。
「止まりなさい!」
沈む太陽へと向かおうとしたその子を両腕で抑える。
「ここで何をしようとしていましたか?」
「……何でもない」
「そうですか。……ここでは身体が冷えるので、あちらの浜辺に移りましょう。理由はそこで」
「何だよ?別にいいだろ!放せよ!」
「いえ。放しません。ついてきてもらいます」
嫌がるその子を、私は浜辺へと連れて行った。
小さいながらも目立つ喉仏、波に濡れて服が張り付く程に細い身体、……男の子のようだ。擦ったと思われる目の周りの痕、球体関節人形のように半開きになった口、力が抜けたように前に傾く首。頭には小さな角、臀部からはトカゲのような青い尻尾が生えている。冷たくなった海辺で薄着のまま入ろうとしたのだ。このまま見過ごしてしまったら危ういところだった。
そうして、「いつもの」気分に戻った私は乾いた砂浜を踏みしめた。歩く度に砂の感触が足の隅々に伝わってくる。ただ、昼間には感じられた温かさはそこにはなかった。
「お前また魚の絵、描いてんの?それなら海にでも沈んだらどうだよ」
まただ。
僕はいつもアイツに絡まれる。クラスの中でいつも威張っては歯向かわない奴のことをやたらと小馬鹿にしては揶揄う。質の悪いことに、アイツはそれを悪いどころか「そう言われるようなことをしてるお前が悪いんじゃあねぇの?」と言ってくる。僕は呆れて無視をすると自分が勝ったと思い込んで「論破~、論破~~」とサイレンのように喚く。そういうことを飽きずにやってくるアイツが、大嫌いだった。
僕は魚が好きだ。普段目にする地上の動物とは異なる、あの独自の姿に心が惹かれる。丸っこい身体。鱗という僕の身体にはない特別そうなものを纏った表皮。身体から突き出るヒレやトゲ。見れば見る程、どうしてこんな姿になったのか、そう、何度も妄想が働いてしまう。父さんと母さんはそんな僕のことを認めようとしなかった。
「お前がそんな趣味を持ってたら、父さんは心配だ」
「そんなのに夢中にならないでお勉強をしなさい。アンタはいい学校に行って「コームイン」になりなさいよ」
父さんと母さんは僕に「コームイン」とかいう仕事を勧めてくる。クラスの子たちの中には「将来の夢」でそれを目指す人がいた気がする。でも、僕にはそんな仕事は似合わない気がする。僕は魚以外にそれ程興味はない。むしろ、幅広く興味関心を持つ皆が不思議な位だ。どうして皆はこうも気が散ってしまうのだろう?不思議で仕方がない。
そうして、アイツに絡まれ続けた末に、僕は決意をした。
――海に入れば僕も魚になれるんじゃないか。
――そうすれば、嫌な両親ともおさらばできるはず、と。
決意したからにはもう、迷うことなんてなかった。どうせ海に入るなら、とびきり綺麗な夕日を見ながら入りたい。そのまま魚になってしまえば、僕は新しい生活を始められるかもしれない。……そんな淡い期待は、呆気なく崩れた。
夕日を見ながら歩いて、腰辺りまで浸かっていたときだ。
「止まりなさい!」
声がした。
その方向を見る。
白いドレスを着た、知らない人。
「ここで何をしようとしていましたか?」
僕はその場から離れようとしたが、その人は両腕で僕のことを抱きしめた。強い。とても放してくれそうにない。
「ここで何をしようとしていましたか?」
この声色……。女の人か?折角の僕の悲願を台無しにされた……。すごく、嫌な気分だ。
「……何でもない」
このまま僕から離れてしまえ。
「そうですか。……ここでは身体が冷えるので、あちらの浜辺に移りましょう。理由はそこで」
あぁもう!どうして僕から離れないどころか、連れてこうとするんだ!ふざけるな!
「何だよ?別にいいだろ!放せよ!」
「いえ。放しません。ついてきてもらいます」
女の人は僕の右腕を逃がさないように掴み、そのまま浜辺へと連れていく。
……最悪だ。
僕の悲願はこうして、見ず知らずのお姉さんの手で台無しにされてしまった。
「あそこで何をしようとしていたのですか?」
お姉さんは僕に尋ねてきた。
「……あのまま海に入れば僕も好きな魚になれるかも、って思って……」
邪魔されてしまった怒りで僕は本心をぶちまけてしまった。我ながらふざけた理由だ。こんな理由を聞かれたら、父さんたちは呆れるだろうな。
「……そうですか。確かに、あのまま海に入れば、人間の君でも、本物の魚になれるかもしれませんね」
……は?ふ、ふざけてるのか?僕の馬鹿馬鹿しい理由を真に受けてしまったのか?
自分の右耳を疑った。どうしてこんな人が僕のことを助けてくれたんだろう?
「ですが、魚になってしまえば、あの海水や海流に左右されてしまう毎日が待っていますよ?北へ流れる海流に巻き込まれてしまって命を失う南方の熱帯魚のように、魚も楽ではありません」
そんなの知ってるさ。僕だって馬鹿じゃない。図鑑に載ってる知識が何だってんだ。
「何が言いたいの?僕のことを邪魔して」
「邪魔ではありません。医療に携わる者として、君を助けたまでです」
「何を言ってるんだよ?魚にしか興味のない僕を助けても誰も喜ばないじゃんか」
「そうかもしれませんね。ただ、君の好きな魚についてきっと興味を持ってくれる人もいれば、その知識で助けられる人がいるかもしれませんよ。今は理解されなくても、いつか君の良さに気づく人が現れると私は信じています」
……僕の良さ?魚にしか興味のない僕の良さに気づく人がいる、だって?信じようにも無理がある。
「私も医療に携わったばかりの頃は非難ばかりでした。「医療しかできないヤツがしゃしゃり出るな」とか、毎回のように浴びせられてばかりで……。それでも、先代の委員長が私たちの良さに気づいて協調してくれたことで、医療ばかりをしていた私たちも少しずつながら役立てるようになりました。医療しかできない私でもこうして、他人の力になれたんです。魚が好きだという君の強みも、きっとどこかで役立ちますよ」
――だから、人間であることを諦めないでください。
突然、前から強い風が吹いてきた。思わず、目を瞑ろうとしたとき。
隣にいるお姉さんの帽子が、遠くへ行きそうになっていた。
「あ、危ない!」
咄嗟に僕は腕を伸ばしてお姉さんの帽子をつかんだ。その直後、その掌の上にお姉さんの手が重なった。……温かい。人の掌って、こんなにも温かいのか……。
「あ、ありがとう、ございます……」
思えば、お姉さんの顔をしっかりと見るのはこれが初めてだった。
柔らかそうな白い髪。
サンゴのような黄色の瞳。
巻貝の角のように小さく生えた角。
そして、真っ白な服が浮きそうな位に赤らんだ顔。
「わ、え、えと、ごめん、なさい……」
「あ、いえ……。感謝するべきは、私の方で……。そ、それより、近くの宿を探しましょうか。このままここにいては風で身体が低体温症、あ、いえ、その……、身体に悪い、です……」
「「テータイオンショー」?何だか分からないけど、何か危ないの?」
「え、えぇ、その……。とにかく!ここから離れましょう」
お姉さんは僕の手を引っ張って、伸びる影を踏みつけるように歩いた。暗くなっていく周りの景色の中で、お姉さんのドレスはとても目立っていた。
まぁ、魚になってしまうのは、もう少し後になってからにしようか。
休息を終えたある日、チナツから連絡がきた。彼女から連絡が来るのは珍しい。通知を押して開くと、先日、休息で滞在した場所でのニュースだった。見慣れた建物もあれば、見慣れたあの浜辺。休息はもう終わったというのに昨日のように思い出せる。あのとき助けた彼は今、どうしているのだろうか。
「△△村在住の○○○○君(11) ゲヘナ自治区自然科学教育委員会主催 小学生のための海洋生物研究サミット最優秀賞に入賞 最低年齢の更新は17年ぶり。現在はオデュッセイア海洋高等学校附属中学校からの推薦も」
そう書かれたニュースのトップの画像には、あのとき帽子を掴んでくれた彼が満面の笑みで写真に映っていた。あの日、私が見たような赤らんだ目の周りなどのやつれた様子は消え失せ、活気にあふれている。きっと、今の彼ならあのときの私の言葉をしっかりと理解しているだろう。
彼に誇れるような人間になろう。
そう思い、私は今日も現場に向かって緊急車両のアクセルを踏んだ。