一体、何が起きたのか。少年には、すぐには理解できなかった。
つい先ほどまで、砦の外に広がる雪原で、仲間たちの背後から同僚である子爵令嬢の決闘を見届けていたはずなのに。
自分だけが安全圏にいるわけにはいかないという思いもあった。加えて、敵軍が裏口から侵入してくる可能性を危惧した救護班の老人から、砦の外へ退避するよう提言されていたのだ。
その判断は正しかった。事実、伯爵自身が裏口から、手薄になった砦の内部を制圧している。外へ出たことで、最悪の挟撃だけは免れたはずだった。
しかし、視界が反転し、周囲の空間が大きく歪んだかと思った、次の瞬間。少年は薄暗い砦の内部──冷たい石床の上へ、強制的に引きずり戻されていた。
周囲を取り囲むのは、完全武装した伯爵軍の兵士たち、およそ百名。その最前列には、宿敵である重装兵ローダンと、彼を護衛する
そして何より、この軍勢を束ねる初老の男──伯爵本人が、冷酷な笑みを浮かべて少年を見下ろしていた。伯爵の右手には、赤々とした装飾を施された杖が握られている。今しがた強大な魔法が発動した証のように、
遠く離れた対象を、術者の手元へ強制的に引き寄せる空間魔法。
「お見事です、ダンデライ伯爵。
「ガッハッハ! これが才能というものよ! その辺の有象無象の騎士共と一緒にされては困るわ!」
ローダンから称賛され、伯爵は己の力を誇示するように豪胆な笑い声を上げた。
周囲の敵兵もまた、敵の『頭脳』を首根っこから引きずり出したことで、完全な勝利を確信している。武器を構えたまま、その顔には一様に
こうなってしまうと、己に魔道の知識が乏しかったことが、ひどく悔やまれる。味方を引き寄せる『レスキュー』とは正反対に、敵を自らの手元へ呼び寄せる、対敵用の杖。そんな理不尽な代物が存在することさえ、少年は知らなかったのだ。
そして、自分を救い出してくれるはずの頼みの綱──救護班の老人が持つレスキューの杖は、子爵令嬢をローダンから救い上げた時、完全に役目を終え、砕け散っている。
背を向けて逃げることなど不可能だった。百名もの兵による包囲を、剣すらまともに振れない細腕で潜り抜けられるはずがない。
「しかし、千以上もの異形兵をものともせず、我らダンデライ軍まで手玉に取った敵の軍師が、
伯爵は愉快そうに笑っている。
だが、その目は一切笑っていなかった。宿敵の軍勢を翻弄し、自らの
少年は強く歯噛みした。自らの策で築いた優位が、一瞬にして覆された。今や、仲間たちの命運まで、この細い首へ結びつけられようとしている。
こうなった以上、外にいる仲間たちには、自分を見捨ててほしい。寝返った伯爵の娘と、その部下たちとともに北へ逃げることを、何より優先してもらいたかった。
だが、彼らの仲間想いな性格を考えれば、軍師である少年を見捨てて逃げるはずがないことも、容易に想像できた。
「調子に乗っていたようだが……貴様はここで終わりだ、なッ!」
直後。ローダンの分厚い鉄拳が、少年の腹部へ深々と
少年の策に
その拳に、どちらの感情がより強く込められていたのか。異形と化したローダン自身にも、判然としていなかった。
「ぐ、がッ……!」
異形兵の異常な
視界が真っ白に染まる。今すぐ意識を失ってしまいたいほどの痛み。それでも少年は、持ち前の異常な精神力だけを頼りに、辛うじて意識の糸を繋ぎ止めた。
「おい、ローダン。そいつを殺すなよ。外にいる連中と『取引』が出来なくなるではないか」
「……はっ」
伯爵に
──取引。
恐らく伯爵は、少年を人質として利用し、外にいる仲間たちへ武器を捨てさせた上で、全員を残虐に殺し尽くすつもりなのだろう。あるいは、まとめて邪竜への供物となるよう命じるか。どちらにせよ、大人しく従ったところで、まともな末路が与えられるはずはない。
となれば、得意の弁舌を用いて相手の心理を誘導し、少しでも望む形へ盤面を捻じ曲げるしかなかった。
かつて、愛するオルテンシアを神竜の軍勢へ送り届ける際、
とはいえ、相手は悪辣で知られる伯爵である。どのような言葉を弄しても、少年を無条件で解放させたり、仲間たちを殺すという意志を捨てさせたりすることは不可能に近い。
ならば、この極限状態で狙えるものは、ただ一つ。
今すぐ仲間たちが殺される事態を避け、可能な限り時間を稼ぐことだ。
助かる希望が、完全に失われたわけではない。
3の日の夜、この砦を出発した第一陣。妖精の村長へ託した『学園への救援要請』が届き、王立イルシオン学園が兵を動かしてくれたなら、伯爵軍は北から現れる救援によって、逆に包囲されることになる。
そうなれば、伯爵軍は終わりだ。救援部隊が実際に動いているのなら、今まさに二十騎ほどの追っ手に迫られている第二陣の援護にも、必ず回ってくれるはずだ。たとえ護衛の妖精たちが苦戦していようとも、学園の騎士たちが加勢すれば、民を守り切れる可能性は高い。
少年が確信できるのは、救援が到着した場合の働きだけだった。問題は、その救援部隊が本当にロビュスト砦へ向かっているのか。そして、いつ到着するのかである。
第一陣は、すでに学園へ辿り着いているだろう。だが、事態の異常性を説明し、頑なな学園側に軍を動かさせるまで、どれほどの時間がかかったかは分からない。
そもそも、救援が出発したという確証さえなかった。仮にすべてが理想どおり進み、早馬を飛ばして全速力で駆けつけてくれていたとしても、砦への到着には、早くともあと一日ほどを要するだろう。
それまでの延命。この伯爵を相手に、丸一日もの猶予を引き出すなど、あまりに無謀な交渉だった。
ただ一つ。
自分の手札をかなぐり捨てることで、その成功率を僅かに高められるものがある。
そう。
──自分自身の、命だ。
ここまでの過酷な戦いで、少年は『全員生き延びさせる』という絶対の理想を掲げてきた。もちろん、その『全員』には、自分の命も含まれている。他でもない、愛するオルテンシアのためだ。
自分が死ねば、彼女がどれほど深い絶望へ沈み、大きな衝撃から立ち直れなくなるか。少年には、痛いほど分かっている。だからこそ、彼女の笑顔を守るため、自分自身の生存も常に盤面の勘定へ入れ続けてきた。
しかし、この状況ではもはや、自分まで生き残ることは、絶望的なのかもしれない。
無論、最後まで抗うつもりである。命を簡単に投げ捨てる気などない。だが、己の生存を絶対の条件としたままでは、この交渉は成立しない。その冷酷な答えを、軍師としての理性が弾き出していた。
(申し訳ありません……オルテンシア様。これが、僕の……軍師としての戦い方なのです)
愛する彼女の顔を、もう一度見ることさえ叶わないかもしれない。胸を引き裂くような寂しさが、涙となって少年の視界を
それでも、今の自分は彼女の『彼氏』である前に、皆の命を預かる『軍師』なのだ。
イルシオンの未来のために。
愛する者が生きる、この世界を守るために。
今、自分に出来る唯一のことを、やり遂げなければならない。
「こ……殺さないで、ください……っ、ひっく、ひっ、く……」
少年は怯える子どものように、周囲の冷酷な視線も気にせず、ぼろぼろと大粒の涙をこぼして泣きじゃくった。
一瞬、度肝を抜かされた伯爵とローダン、そして周囲の兵士たちだったが。
僅かな静寂の後、砦の内部は、彼らの下劣な笑い声に包まれた。
少なくとも、その笑いへ加わった者たちは、弱き者をなぶり、その絶望を
こんな連中へ、情けなどかける必要はない。少年は泣き顔の裏で、氷のように冷たい憎悪を静かに燃やしていた。
「僕、故郷のっ、村を……焼かれて、みんな、焼かれたん、ですっ……。だから、みんなと同じ殺され方は嫌だ……!」
「ガッハッハ! そうかそうか、
伯爵の残酷な返答を聞き、少年は確信した。この男は、相手が『最も嫌がる殺し方』を、嬉々として選ぶ人間なのだ。
この時ばかりは、筋肉のつかない脆弱な肉体と、男か女か服装以外では判然としない中性的な顔立ちへ、心の底から感謝するしかなかった。歴戦の猛者たる老騎士や、屈強な重騎士のような英雄然とした風貌であれば、この『弱き子どもの命乞い』という盤面は、決して成立しなかったはずだからだ。
「ひ、火の方が……一思いに焼かれた方が、ずっとマシです! お願いだから、
少年がその場で組み上げ、吐き出した、偽りの記憶。
伯爵は「ほう」と、感心したような声を漏らした。同時に、その下劣な顔へ、
「ま、まさか! いやですっ! あのとき広場に連れていかれたみんなは」
「ガーッハッハ! いいだろういいだろう、子どもの夢をかなえてやるのが大人の仕事だからなあ!」
残虐な笑みを浮かべる伯爵を見上げ、少年は胸の内で冷たくほくそ笑んだ。
これこそが、己の命を盤面へ投じて組み立てた、時間稼ぎのための心理誘導だった。今すぐ首を
ここからさらに、学園の救援が来るまで、どうやって丸一日を持たせるのか。改めて策を考えなければならない。それでも、即座に殺されるという最初の危機だけは、ひとまず切り抜けた。
「やめてくださいっ! なんでも! なんでもしますからっ!」
「遠慮するでない! おい、そこの兵! 砦の備品を粗方探せ! 即席の処刑台を、
悲痛に泣き喚く少年を
しかし。一連のやり取りを
「……おかしい。我々をあれほど出し抜き、何度も追い詰めた敵の軍師が、死を前にして、ここまで取り乱すはずがない。ダンデライ伯爵、これは何らかの罠なのではないか?」
「死の恐怖に直面すれば、人間など誰でもこうなるものよ! 一度炎に焼かれて死んだ貴様にも、覚えがあるのではないのか、ローダン!」
「し、しかし……」
少年の態度の急変を怪しむローダンへ、伯爵は聞く耳を持たなかった。自分が完全な優位に立ったと、疑いもなく信じ込んでいるのだ。
伯爵が、見た目どおりの傲慢で思慮の浅い男で助かった。もし指揮官がローダンほど慎重で、疑い深い人物であったならば。この命乞いが策略であると見抜かれ、即座に殺されていたかもしれない。
もっとも、少年の流している涙そのものは、決して演技ではなかった。
最愛のオルテンシアと、もう二度と会えないかもしれないという、身を引き裂くような
本物の肉体的苦痛と、心に抱えた絶望。そのすべてを利用し、仲間たちを生き延びさせる未来へ繋げるため、少年は一世一代の大博打へ打って出た。
*****
辺りは、すっかり夕方になっていた。止んでいた雪が、再び静かにちらつき始めている。
「逃亡者どもよ! 全員、武器を捨ててその場を動くな!
少年は、砦の物置へ放置されていた古い麻縄で全身をきつく縛られ、完全に自由を奪われていた。その無残な姿のまま、伯爵の手によって、正門から雪原へ引きずり出される。
寝返った薄青髪の従騎士へ反発する兵士たちと、少年の仲間たちとの間では、一触即発の小競り合いが続いていた。だが、伯爵の怒号が響いた瞬間、全員の動きが止まった。
「美少年……!? やはり、ドローの杖か……!」
かつて砦の屋上から、伯爵の背に禍々しい赤色の杖が括りつけられているのを目にしていた。吟遊詩人は、少年が消えた理由へようやく思い至り、苦々しげに唾を呑んだ。
少年の消失に気づいた後、仲間たちは砦内部の捜索を試みようとした。しかし、目の前で暴れる伯爵軍に釘づけにされ、誰一人として動けなかったのだ。
「待って、今助け──」
「いいのか! ダンデライ伯爵は動くなと仰せられているのだぞ! 小僧を死に追いやりたいのだな!?」
ローダンの怒号に、子爵令嬢は踏み出しかけた足を止めるしかなかった。
ほかの仲間たちも同じである。人質を取られた以上、大人しく武器を捨てるほかに道はない。
彼らがまともに戦えないと悟り、従騎士へ反発していた伯爵軍の兵士たちが、目の前の相手を一方的に殺そうと武器を振り上げる。
だが。
「ガッハッハ! 者共、攻撃を仕掛けるな! この
伯爵の命令に、雄叫びを上げていた兵たちも動きを止めた。
彼らは、
余興の詳細を聞かずとも、悪趣味で残虐な催しが始まると理解し、多くの兵が
「父上……」
「フン、まさか貴様が裏切るとはな!
愛しい亡き母を
領民を守るためとはいえ、伯爵軍へ
だが、すぐに思い直した。自分の選択は、間違っていない。
憧れの先輩と争いたくはない。何より、年端もいかぬ少年を痛めつけて喜ぶような男と、同じ存在へ成り下がりたくなかった。
彼女に従って寝返った部下たちも、思いは同じだった。互いに
「余興、だと……?」
「あの少年の言葉だ。こちらを救うための策と見た、信じよう」
赤髪の兵士のこめかみを、一筋の冷や汗が伝う。すかさず傍にいた緑髪の兵士が、支えるように小声で告げた。
少年の仲間たちは、固く信じていた。敵の前で涙を流し、泣き喚き、無様に死を拒む少年の姿は、計算し尽くされた策の一部であると。
「やめてください……やめてください! みんなで殺し合わせるなんて……! そんなの、そんなの!」
「うるさいぞ、小僧! 先んじて槍で貫かれたいか!」
なりふり構わず命乞いを続ける少年へ、ローダンが苛立ちを隠さず怒鳴った。
──みんなで殺し合わせる。
少年は命乞いを装い、伯爵軍が直接こちらへ襲いかかるのを防いだのだ。
伯爵の
仲間たちは、そこまで理解していた。
しかし。ここから、どうやって絶望的な窮地を脱すればいいのか。
厳重に拘束され、首根っこを押さえられている少年を救いながら、三百の軍勢を突破するなど不可能に近い。
そこまで考えた時。
「……ウソでしょ……」
誰より早く、少年の恐るべき真意へ辿り着いたのは、長く同僚として過ごしてきた子爵令嬢だった。
伯爵軍が余興の準備へ気を取られ、完全に油断している隙を突け。自分の命を無視して、伯爵の首を討て。少年は、そう訴えているのだ。
確かに、少年の命を切り捨てる覚悟さえあれば……。
人質を無視して強襲をかけることで、この盤面を打破できる可能性が生まれる。伯爵は、こちらが少年の命を惜しみ、一切の反抗ができないと信じ切っているのだから。
だが、その通りなのだ。
「そんなの、無理よ……」
子爵令嬢は、ほかの仲間たちも同じ結論へ至っているのか確かめようと、震える視線で辺りを見回した。
幾度もの死線をともに越えてきた、聡明な仲間たち。彼らが少年の意図を理解できないはずもない。全員がその狂気的な自己犠牲を察し、驚愕と悲痛に顔を歪めていた。
「ダメだ、美少年……その選択は、ボクが、絶対に許さない……」
誰かのために自らの命を捨てる行為を、心の底から嫌悪する吟遊詩人が、血を吐くような声で呟いた。
しかし、ほかに少年を救う手立てが見つからないことも事実だった。誰もが顔面を蒼白にし、立ち尽くしている。
やがて、砦から出てきた伯爵軍の兵士たちが、木材を
伯爵の指示を受け、乱暴に組み上げていく。最後に、太い縄が垂らされた。瞬く間に完成したのは、誰がどう見ても、見せしめのために造られた『縛り首の処刑台』だった。
「さあ、
少年は屈強な兵士たちによって木の台へ引き上げられ、細い首へ無骨な縄を通された。あとは、傍らの兵士が足元の台を蹴り飛ばせば、首が締まり、すべてが終わる。
仲間たちは、見ていることしかできなかった。今すぐにでも武器を拾い、助け出したい。
だが、動けば、その瞬間に台を蹴られてしまう。手を出すことは、叶わない。
「さて、逃亡者どもよ、これから貴様らには──」
伯爵が、残虐な余興の内容を嬉々として説明しようと口を開く。
しかし、それを遮るように。
少年は首へ縄をかけられたまま、肺に残されたすべての力を振り絞り、雪原へ絶叫を響かせた。
「全員武器を取れ! 僕になんかもう構うな!!」