少年が放った、全霊の絶叫。
軍師として『時間を稼ぐ』という観点だけで見れば、その行動は決して賢明ではなかった。
幼子のように怯えて泣き喚き、伯爵には悪趣味な余興の説明を長引かせ、仲間たちには同士討ちを渋らせる。そうして無為な時間を浪費させ続ければ、やがて北から学園の救援が到着し、盤面は劇的に
しかし、その算段には、あまりにも不確定な要素が多すぎた。
第一に、伯爵の悪辣な気まぐれ。
余興の説明を終え、仲間たちが同士討ちを渋っている姿へ興を削がれれば、伯爵は即座に部下たちへ一斉殺戮を命じ直すかもしれない。
第二に、北から来るはずの救援。
学園の兵が必ず駆けつけてくれるという保証は、どこにもない。仮にこちらへ向かっていたとしても、到着までの長い時間を、言葉による誘導だけで引き延ばすのは絶望的に難しい。伯爵が僅かでも退屈し、足元の台を蹴り飛ばせと命じた瞬間、すべての策は破綻する。
そして、何よりも。
少年の首へ縄がかけられた今、処刑台を取り囲む伯爵軍の兵士たちは、重装兵ローダンを除いて、完全に油断しきっていた。あまつさえ、帯剣している者さえ武器を鞘へ収め、余興を見物しようと下劣な笑みを浮かべている。
少年という最高の人質さえ確保していれば、残された者たちが反逆するはずはない。敵は、自らが誇る数の暴力を過信し、そう高を括っているのだ。
今を逃せば、これほどの隙は二度と訪れない。
さらに、仲間たちを『もはや後には引けない状態』へ追い込む必要もあった。処刑台から悲痛な顔を見回せば、彼らが少年の命を惜しむあまり、敵の理不尽な要求へ最後まで従いかねないことは明白だった。
自分の命を重く
(……全員生存を掲げておいて、この体たらく。やはり、僕に軍師なんて向いていなかったんだ)
それでも、全員生存という理想から弾き出されるのが、『自分一人』だけで済むのであれば、仲間や民を犠牲にして自分が生き長らえるより、その方が遥かに心は軽かった。
己の命を盤面から切り捨て、イルシオンの未来を支える
だが、彼女はイルシオンの王女なのだ。いつまでも一介の侍従への私情に囚われ続けるほど、弱く脆い女の子ではないはずだ。
かつて父ハイアシンス王の命へ従い、グランスール大橋へ向かった時、彼女の背中には、父への盲目的な愛情だけでなく、王女として責務を果たそうとする気高い意志が、確かに宿っていた。
彼女ならば、自分の死という悲しみさえ乗り越え、再び前を向いて進んでくれる。そう、信じたかった。
(僕のことなんか忘れて、どうか他の人と……お幸せに……)
そこまで考えた時。
いつか彼女の隣で微笑む男が、
しかし、もはや盤面は動いてしまった。自ら選んだ、この残酷な現実を受け入れるしかない。
少年の狂気的な意図と、それ以外に窮地を覆す術がないという絶望的な真実を察し、戦える仲間たちは雪原へ捨てた武器を拾い上げた。
血を吐くような雄叫びとともに、一斉に伯爵へ矛先を向ける。騎兵も天馬兵も、馬へ乗り直している暇などない。誰もが怒りに駆られ、徒歩のまま死地へ突っ込んでいく。後衛の者たちは、弓の狙いを一直線に伯爵の首へ定めた。
「くっ……美少年……ボクは絶対に、絶対に許さないぞッ!」
吟遊詩人もまた、大粒の涙をこぼしながら、攻撃態勢へ移るしかなかった。
友の命を天秤へかけた敵を、確実に消し飛ばすために、両手へ極大の魔力を生成していく。
完全に虚を突かれた伯爵軍は、圧倒的な戦力差を有していながら、迎撃態勢へ移るのが致命的に遅れた。
「馬鹿な! クソッ、こいつら狂っているのか……!」
ローダンが苦虫を噛み潰したように、激昂の表情を浮かべる。
子爵令嬢を人質に取った時もそうだった。この常軌を逸した者たちには、人質という盤面の絶対的な優位が、まるで通用しない。
愚かな伯爵へ、もっと強く警告しておくべきだった。そう猛省しながら、ローダンは分厚い長槍を構え、迎撃態勢を取った。
「な……何をやっている! ワシを守らんか、馬鹿ども!」
慌てふためく伯爵が、少年の仲間たちを後方から取り囲んでいた兵士へ怒鳴り散らす。
我に返った兵たちは、突撃していく者たちの無防備な背中へ、追撃をかけようとした。
「良心を持つ者よ、彼らを援護せよッ! 我が領の民達のためにもなッ!」
実の父へ死を宣告するかのように、薄青髪の従騎士が気高く吼えた。
彼女に従って寝返った部下たちも、悪辣な伯爵の非道へ、これ以上ついていけないと感じていた。つい先ほど、領民が姿を消している元凶が他ならぬ伯爵であると聞かされたのだから、
もはや、迷いはない。従騎士の号令へ呼応した兵たちは、少年の仲間たちの背を守るべく、一斉に反旗を
背後から襲いかかろうとした伯爵軍は、その決死の壁に阻まれる。
一方、伯爵を守ろうと正面へ立ち塞がった兵たちは、決死の覚悟を固めた子爵令嬢、老騎士、薄赤髪の剣士によって、次々と切り伏せられていった。
後方から放たれた二本の矢が、的確に伯爵の命を捉えかける。だが、その射線へ咄嗟に飛び込んだ二人の兵士。その脳天へ矢が突き刺さり、鮮血を噴き上げながら雪上へ
「そうかそうか! 人質を見捨ててまでワシの首を取ろうという気概、見事! おい、そこの兵! その台を蹴り飛ばせ!!」
予想外の苛烈な反撃を受け、伯爵は、もはや少年に人質としての価値はないと冷酷に判断した。
──だが、この
そう確信し、処刑台の
「だめッ!」
子爵令嬢が絶叫し、槍を投擲しようと構えた。
緑髪の兵士と天馬兵も、渾身の力で手槍を投げ放とうとする。だが、処刑人が行うのは、少年の足元にある木の台へ体重をかけ、前へ蹴り出すだけ。どれほど神速の一撃であろうとも、間に合わない。
(……っ、ずっと大好きです、オルテンシア様……!)
死の影が全身を覆い尽くした、絶対の瞬間。少年が最期に抱いたのは、やはり最愛のオルテンシアへの、狂おしいほどの恋慕だった。
そして。
少年の第二の人生における転換点。
復讐のため、イルシオン王城へ潜り込んだ頃からの記憶が、走馬灯となって脳裏へ溢れ出していく──。
*****
僕がイルシオン王城へ侍従として足を踏み入れたのは、三年前の1の月だった。
雪が激しく降りしきっていた、あの日。僕は何の策もないまま、城のアーチ門で怒号を上げる衛兵たちを前に、土を舐めるように頭を下げ続けていた。
兵たちが強い警戒を向けたのは当然であり、何より正しかった。何しろ当時の僕は、故郷を焼いたハイアシンス王への復讐心で胸を膨れ上がらせ、奴の家族を全員殺してやろうと、無謀で邪悪な殺意を抱き続けていたのだから。
今思えば、何もかもが無茶にも程があった。本来ならば、
アイビー殿下が、脅しを交えた不器用な温情をかけてくれたからこそ、城へ入ることを許された。もし彼女が、行き場のない子どもを放っておけないほど慈悲深い人でなければ、あの場であっさりと首を飛ばされていたかもしれない。
そうして出会った、当時は十になったばかりのオルテンシア様は、小柄で
彼女の完璧な笑顔が『生き残るための作り物』であることを、僕はすぐに見抜いた。そうした機微を察する力は、それまで数年にわたって続いた過酷な放浪生活で、嫌というほど身につけていたものだ。他人の裏を読み取る力は生きるための糧となっており、城での暗殺計画にも利用できるという自負があった。
当時の僕は、彼女の笑顔が心底嫌いだった。故郷のお父さんも、お母さんも、大切な友人も、僕に文字を教えてくれた優しい姉代わりのあの人も、同じように笑うことなど、二度とできないというのに。こちらを煽っているのかと、今すぐにでも細い首へ掴みかかり、殺してやりたいと何度思ったことか。
しかし、オルテンシア様とアイビー殿下の両方を殺そうと考えるなら、何はともあれ城内の情報が必要だった。その上で、あわよくばハイアシンス王の寝首すら掻きたいと思っていた。
与えられた侍従の仕事を完璧にこなし、周囲からの信頼を得て、暗殺のための土壌を築き上げていく。
侍従の仲間たちは僕を弟のように可愛がってくれた。だが当時の僕は、それを決意を鈍らせる不要な感情として切り捨てていた。王女たちを殺せば、彼らが僕へ抱いてくれている好意も、すべて憎悪へ裏返り、失われると分かっていたからだ。
そうして復讐の牙を研ぎ澄ませながら、二人の事情を深く知っていくうちに僕は、彼女たちが想像していたような悪辣な王族とは程遠い、孤独な被害者にすぎないという事実を知ってしまった。
オルテンシア様も、アイビー殿下も、血みどろの権力争いの中で母を亡くしている。きょうだい達も次々と王城を去り、寄る辺を失いながら、それでも父の愛を信じ、前を向き続ける健気な女の子たちだった。
知らなければ良かった。本心から、そう思った。自分の中で、復讐の牙が腐り落ちていくのを、はっきりと感じたからだ。
特に、僕が侍従として身の回りの世話をしていたオルテンシア様の幼少期は、凄惨なものだった。権力の亡霊へ取り憑かれた正室──『アイビー殿下の母』から、母娘ともども陰湿ないじめを受け、それでも母とともに必死に食らいついたオルテンシア様。
彼女の母は、その果てに正室からの信頼を勝ち得たものの、長年の心労が祟って亡くなってしまった。たった一人で城へ取り残されてもなお、オルテンシア様は王族の仮面を被り、立ち上がり続けたのだ。
その時、後ろ盾となるべきアイビー殿下は、間の悪いことに王城を離れ、北にある学園で、国民の義務である教育を受けていたそうだ。馬車で二日ほどの距離とはいえ、常に妹の傍へいてやることなどできなかっただろう。
そうしてオルテンシア様は、姉が学園から帰還するまでの三年ほど、たった一人で孤独な防衛戦を続けていた。その心労は、計り知れない。
──顔を合わせるから、いちいち余計なことを考えてしまうんだ。
城勤めを始めて一年。そう言い訳して、僕は意図的に二人の王女を避けるようになった。
もとより僕へ強い警戒心を向けていたアイビー殿下は、こちらが距離を置いても、特に態度を変えなかった。
しかし、オルテンシア様の変化は顕著だった。
『ねえー、あの子、どこなの? 最近、全然顔を合わせてくれないんだけど!』
少しでも僕が姿を見せないと、彼女は血相を変え、毎日のように同僚たちへ聞き回った。皆を苦笑させるほどの執着へ、仕事ぶりを完璧にしすぎたのだと後悔したものだ。
しかし、仕事で手を抜けば、アイビー殿下から不要と断じられ、即座に首を
オルテンシア様は、城内で僕を見つけるたび、いつも表情を、ぱあっと明るくして喜んだ。
『あたしとかくれんぼしてくれてるのね! とっても面白いわ! いつだってあなたのこと、絶対に見つけてあげるからね!』
などと、妙な勘違いを口にしていた。
いや、
──結局、あんな健気な子を殺せるはずもなかった。
城勤めを始めて、ちょうど二年。彼女が学園へ呼び出される二ヵ月前のことだった。早く殺さなければという焦燥に駆られ、限界を迎えていた僕を、彼女自身が自室へ呼び出した。
オルテンシア様は僕に、『彼氏くん』という特別な名を与えた。
今まで名前がなく、呼びづらかったこと。
そして、その名を与えるということはつまり、自分の恋人になって欲しいということ。
……とても、嬉しかった。二年にわたる侍従の仕事を通じて、僕もいつの間にか、彼女のことが大好きになっていたから。
身の回りの世話をするたび、以前のように、ただの子どもとして向き合うことができなくなっていた。むしろ、
だが、その想いを受け入れるわけにはいかなかった。身分の差という以上に、僕は彼女へ邪悪な殺意を抱いていた刺客なのだ。
しかし彼女は、『それを一年前にはすでに知っていた』と微笑んだ。
そして、その罪に対する罰を受けたいのなら、自分の初めてを奪えと命じた。
僕は彼女の誘いへ応じた。未成熟な彼女を抱くことには、あらゆる意味で罪悪感を覚えたが、彼女は心の底から喜んでくれた。
……後になって聞いた話だが、僕の殺意を彼女へ伝えたのは、アイビー殿下の近衛であるゼルコバ様だったらしい。かつて暗殺者だった彼は、僕の不自然な挙動と、胸の奥へ隠し持った牙を見抜いていたのだ。
だが、オルテンシア様はすべてを知ってなお、僕を処断しようとは考えなかった。もし僕に殺されるのなら、それさえ受け入れるつもりだったのだと。
ゼルコバ様の忠告を受けた彼女は、僕の
そして、すべては彼女の思い通りになったというわけだ。
『感謝しなさいよねー。あたしは、彼氏くんをただの可愛い男の子に戻した、ヒーローなんだから』
僕の胸へ身を預けるように横たわり、得意げに鼻を鳴らす可愛い少女。
僕にとってオルテンシア様は、暗闇へ沈んでいた人生を救い上げてくれた、世界で一番大切で、愛おしい存在だった。
もしあの時、彼女が真っ直ぐに愛を告げてくれていなければ、僕の人生はどうなっていたのか。
考えるまでもなかった。とうに復讐の牙が腐り落ちていた僕は、オルテンシア様が学園へ出発するのを見届けた後、彼女の危惧していた通りに侍従の職を辞し、城を去っていただろう。生きる目的を完全に失った、空虚な抜け殻としてイルシオンの過酷な凍土のどこかで、誰の記憶にも残らぬまま、野垂れ死んでいたに違いない。
真の意味で、オルテンシア様は、死の運命へ向かっていた、名もなき平民の命と魂を、強引に繋ぎ止めてくれた僕だけの英雄だったのだ。
『わかってるわね? あなたを救えるのは、あたししかいないのよ。あたしを救えるのも……あなたしかいないんだからね、彼氏くん』
そう言って顔を近づけ、深く濃厚な
彼女と愛を育んでいる間だけは、このまま時が止まってしまえばいいのにと、何度も願った。
『大好きよ。ずっと大好き。あなたが困ったときは、いつだってあたしが救ってあげる。だからね、絶対に──』
はにかんだ笑みを浮かべる彼女の瞳には、決して揺るがない、真剣な光が宿っていた。
*****
(……ああ。オルテンシア様は、きっとアイビー殿下にも負けないほど、立派で気高い大人になるのだろう)
死の淵へ沈みゆく意識の中で、少年は最愛の少女の未来を想った。
それを一番近くで見届けられないことが、本当に、本当に悔しい。
伯爵軍の兵士が、少年の足元にある木の台へ、無情にも足をかけた。そこへ全体重を乗せ、前へ蹴り出そうと力を込める。
もう、終わりだ。
少年は静かに目を閉じ、自らの死を完全に受け入れた。
その、絶体絶命の
空気を引き裂く、甲高い風切り音。一筋の閃光が、夕闇の中から飛来した。どこからともなく放たれたそれは、少年の細い首を締め上げようとしていた麻縄の結び目を、寸分違わず射抜いた。
ほぼ同時に、木の台が蹴り飛ばされる。だが、切断された縄が首を締めることはない。
足場を失った少年の身体は、処刑台の後方へ投げ出された。
死の淵にあった少年の感覚は、異様なまでに研ぎ澄まされていた。宙を落ちていく僅かな時間が、まるで無限に引き延ばされたかのような、奇妙な錯覚へ囚われる。
──な、なんだ?
信じられない思いで、少年はゆっくりと目を開いた。
優秀な二人の射手が、この絶望的な窮地から救ってくれたのか。
いや、違う。
薄緑髪の弓使いも、男装の麗人も、正面を阻む敵兵への対処に追われている。こちらへ弓を向ける余裕など、一切ない。
ならば、今の正確無比な一矢は、一体誰が──。
答えへ辿り着けないまま、少年の背が雪原へ叩きつけられようとした、その直後、虚空から一頭のペガサスが一直線に舞い降りてきた。
青髪の天馬兵だろうか。彼女の賢い愛馬が、
それも、違う。彼女の天馬は今、地上へ降り立ち、
何より、少年へ迫るペガサスには、華やかな薔薇をあしらった、豪奢な装飾がふんだんに施されていた。あれほど目立つ飾りは、ディートバなる質実剛健な天馬にはなかったはずだ。
冷たい雪へ背中を打ちつける、ほんの僅か手前。
少年は、ふわりと柔らかな温もりに包まれ、ペガサスの背へ優しく抱き留められた。
騎獣はそのまま風を巻き起こし、勢いを殺すことなく、夕闇の空へ高く、高く舞い上がっていく。
片手で手綱を握りながら、もう片方の腕で、少年を強く抱き締める人物。
決して落とさないと誓うように。狂おしいほど、大切なものを取り戻したと訴えるように。
凍えきった少年の心と身体を溶かす、懐かしく甘い香りが
「
淡い桃色へ、白を織り交ぜた綿菓子のような髪。高い位置で結ばれた、非常に量のある二つの束。そこへ戴かれた、赤い宝石をあしらった王冠。
薔薇を至るところへ散りばめた、黒に近い青と水色が混じり合う、戦場には似つかわしくないほど派手で可愛らしいドレス。
それは、この一ヶ月以上、少年が狂おしいほどに会いたくて、会いたくて仕方のなかった人物。
「オルテンシア……様……ッ!」
世界で一番、愛しくてたまらない。イルシオン王国第二王女殿下、その人であった。