当店では美味しいお茶を必ずご堪能いただけます(他は微妙です) 作:ShilonkS
私には、世界は三つしかない。
一つ、私の家。
二つ、私の通う高校。
そして三つ、この灰色の世界で唯一、私の色彩を戻す場所。
喫茶店『お茶神様』
その店のドアを開くと、ちりん、と風鈴の音が耳を撫でる。
けたたましい電子音的なものではない。無機質なドアベルの音でもない。
薄いガラスを指先で弾いたような、心地の良い繊細な音。
一歩を踏み入れれば、空気が変わる。
香り。香り。香り。
そこは香りの洪水だ。
ダージリン、ウバ、アッサム、セイロン、ニルギリ。主張が一番激しいのは一番人気の紅茶だけれど、その中にはウーロン茶や抹茶や緑茶まで溶け込んで、なんとも混沌としたお祭り騒ぎのような香りが私の鼻をくすぐった。
ああ、いい香りがする。
それだけのことが、私にとっては奇跡に近い。
胸いっぱいにこの空気を吸い込むと、張り詰めていた心の糸が、ふわりと緩んでいくのが分かる。
「あ、いらっしゃい、奏音ちゃん」
そして、のんびりとした声が降ってくる。
その声を耳にしただけで、冷え切っていた胸の奥に、小さな灯がともる。
声をかけてくれたのは、昔ながらの雰囲気漂うこの喫茶店のマスター、志摩 真澄(しま ますみ)さん。
「こんにちは、真澄さん。カウンター、空いてますか?」
「空いてるよ。ちなみにテーブル席も空いてるけど……」
「はい、ではカウンター席で」
「ですよねー」
背後でドアが閉まり、ちりん、と余韻を残して音が消える。
私は迷わずいつもの席へ向かう。
カウンターの向こう側、真澄さんは今日も変わらない。
カラスの濡れ羽色のような黒髪は、無造作なショートカット。だぼっとしたスウェットに、漆黒のエプロンという出で立ち。
少し眠そうな目をした中性的な顔立ちには、春の陽だまりのような、ほんわかとした笑みが浮かんでいる。
そんな真澄さんは、慣れた手つきでティーカップを用意して、すでに青いティーポットを手にしていた。
「今日も紅茶かな?」
「抹茶くださいって言ったらどうします?」
「奏音ちゃんって、そこはかとなくサドっ気があるよね」
「信頼の証拠です」
「最近の女子高生って怖いなぁ。ちなみに、今日の抹茶は『さみどり』風味だよ」
「宇治抹茶じゃないですか。いつものでお願いします」
「うーん、お茶だけに茶番だな、っと」
「おやじギャグ……」
あきれたように呟く私をよそに、真澄さんは暖かな笑顔のまま、手にしたティーポットを軽く揺らしている。
蒸らしの最中に揺らしていいものなのだろうか。それにティーコジーすら使っていない剝き出しのポットは、温度管理をどうしているのだろう。
私は頬杖をつき、その手元をじっと見つめる。
ティーポットは陶磁器。澄んだ海を思わせる鮮やかな青。
率直に言えば、どこにでも売っている安物のティーポット。
けれど、真澄さんの指先が触れると、それは魔法のランプのように見えてくる。
「可愛い子に見つめられると、照れちゃうね」
「いいじゃないですか、減るものじゃないんですから」
「どうしよう、奏音ちゃんの方がおじさんだよ」
「可愛い女子高生に向かって失礼な人ですね」
「ごめんにゃちゃい」
てへ、と効果音がつきそうな顔で真澄さんが笑う。
大人のくせに可愛い。卑怯だ。
ぐぬ、と私が言葉に詰まっていることになど気づきもせず、真澄さんはポットを傾け、琥珀色の液体をゆっくりと注ぎ始める。
もしかして、ティーポットを軽く揺らしていたのは、最後のひとまぜと同じ役割だったのだろうか。
そんなことを考えつつ、再び真澄さんの手元を観察する。
ゆっくりと、カップが満たされていく。
その瞬間、芳醇な香りが、生き物のように私にすり寄ってきた。
フルーティーで、どこかスモーキー。
明るいのに、落ち着く。
胸の奥をくすぐられて、思考がほどけてしまう。
ああ、いい香り。
大好きな香り。
それだけでもう、ほわん、と気持ちが浮遊する。
やっぱり、真澄さんは卑怯だ。
技術を盗むつもりで観察していたのに、香りが届いた瞬間、私は思考を放棄させられてしまう。ただ、ポットから注がれるセピア色の涙を、うっとりと眺めることしかできない。
キーマンだろうか。けれど、祁門香とは少し違う。ブレンドなんだろう。でも混ざり方が綺麗すぎる。気になる。
私を誘う魅惑の匂いに、心がときめく。
「よし」
真澄さんが小さく呟き、ポットを戻す。花嫁衣装のように純白のティーカップには、美しい紅茶が揺らめいている。
ポットにはまだ残っていそうだったけれど、真澄さんはそれを惜しげもなく下げてしまった。
最期の一滴、ゴールデンドロップに拘る人もいるのに、この人はそれすら軽い。
「ところで真澄おじさん」
「奏音ちゃん、おじさん扱いしたのは謝るから、そういう全方位の人を無差別に傷つける言葉のナイフは心の鞘に収めてね」
「では真澄さん、ベスト・ドロップというのをご存じですか?」
「え、ベストのドロップ? 袖かな?」
「洋服から袖をドロップしたらベストになるだろうって? 寒いです。凍えます。ここの経営状況並みの気温にさせるおやじギャグはやめてください」
「そこまでボロボロに貶されるくらいに酷い回答だったかなぁ……」
これでも安定して真っ黒経営ですぅ、とちょっと拗ねたように、でも人懐っこい笑みは絶やさずに真澄さんは呟きながら、ティーカップをソーサーへとそっと乗せる。
ふーん、と私は軽く鼻を鳴らしながらも、それでも青と赤褐色がダンスをしているカップへと目が奪われてしまっている。
そうなんだ。
最後の一滴、ゴールデン・ドロップを注がなくても、この人はこのレベルの紅茶を平然と淹れられる。
なら。
それなら。
真澄さんが本気を出したら、どれほどの芸術品になってしまうのだろう。
想像するだけで、胸がときめく。
怖いくらいに。
「はい、お嬢様、本日の紅茶でございます」
そんな私の前に、すっと紅茶が差し出された。
真澄さんは芝居がかった台詞の後に、へたくそなウインクまでしてくれた。
ときめく。
ああ、もう、違う違う。私は騙されない。
人の心を惑わせ弄ぶ悪人から目を逸らすように、私は差し出された紅茶へと視線を落とす。
香りが、完成している。
ストレートなのに、ほのかに甘い魅惑が鼻をくすぐる。
リンゴか、バラか、はちみつか、もしくは蘭の花にも例えられる繊細な香り。けれど、その奥には柑橘系のような爽やかさが顔を覗かせている。
キーマンとベルガモットを足して割り損ねたようなそれは、本来ならば歪な香りになるはずなのに、奇跡的にも互いを邪魔せずに両立して、いいや、むしろ互いの長所を引き出し合うかのように豊かな香りを成立させている。
これはもう、完成された、香りだ。
どれだけ計算されつくしたブレンドをしているんだろう。
紅茶の香りなんてものは、水と温度と湿度と時間と環境と、そして受け取り手のメンタルや体調によって、刻々といくらでも変化する。
それなのに、真澄さんが淹れる紅茶は、常に完成されたクオリティで提供される。
いや、紅茶だけじゃない。
ウーロン茶だろうが、抹茶だろうが、煎茶だろうが、ほうじ茶だろうが、果てにはチャイまで、真澄さんが生み出すお茶というお茶は、その全てが芸術品の域で提供される。
この人は、神様なんだろうか。
そんな冗談みたいなことを真剣に考えてしまうくらい、真澄さんが振舞うお茶は、常に究極。
その究極を注がれたティーカップを、静かに持つ。
「いただきます」
自然とそんな言葉が口から脱走した。
どうぞ、と真澄さんがほほ笑む。
そして、ゆっくりと紅茶を一口いただいて。
泣きたくなるほどの『美味しさ』が、空白だった私の中を埋め尽くす。
美味しい。
おいしい。
ああ、死んでいた味覚が、優しくゆすり起こされる。
元気いっぱいな甘みと爽やかさ。
それをそっと支える、心地の良い苦みと渋み。
口から喉へ、そして鼻へ突き抜けるような極上の香り。
ミルクもレモンも必要がない。
完全なる調和がとれた、シンプルな紅茶。
味わう。
喉に流して、飲む。
味がゆっくりと引いていく。
早すぎず、遅すぎず。
後味は必要以上に残さないものの、存在感はしっかりと置いていく。
美味しい、以外の言葉が、出てこない。
私の貧相な、いや死に絶えたような味覚では、この紅茶の味を、真に表現することなどは一生できないだろう。
「……美味しい」
ついつい私の感想が、貧しい語彙のまま流れ出してしまった。
香りも。
味も。
なにもかも。
いつもと変わらず、私を救ってくれたあの日の紅茶、そのままだ。
シンプルに。
ただただシンプルに。
極められた、1杯の紅茶。
「どういたしまして」
私の感想を拾い上げてしまった真澄さんが、優しい声色でお礼を口にした。
ぱっと私は顔を上げる。
にこっと真澄さんがほほ笑んでくれたのを見て、私は頬が熱くなるのを感じてしまう。
ずるい。
独り言を聞かれた。恥ずかしい。というか、真澄さんも聞くんじゃないし、聞いたとしても知らない顔をするのが大人のマナーじゃないのか。本当に真澄さんは、デリカシーがない。もう。
顔と、そして胸が火照るのを自覚しながら、むぅ、と拗ねたような表情を作る。
「……相変わらず美味しくて、ちょっとムカつきます」
「落ち着いた広く寛大な心で味わっておくれ。ここのお茶は世界一美味しいんだから、カリカリしながら飲むのはもったいないでしょ?」
「大した自信です」
ただ、その尊大な自己評価に見合うだけの一品、いや逸品なのは確かである。
私の照れ隠しのような言葉の棘に、真澄さんはふふんと鼻を鳴らしながら胸を張る。子供っぽい。
「自信も何も、真実だからね。なんせ神様のお茶だよ? 全部美味しい、世界で一番ね」
そして、恥ずかしげもなく、そんな事をのたまうのだ。
自称・神。
中学生の戯言だろうか。
だけれど、これほどまでの紅茶を、鼻歌交じりに淹れられるのならば、真澄さんは確かにお茶の神様なのかもしれない、なんて思ってしまう自分がいる。
実力で裏付けされているその自信に、いつものような嫌味を返す気も起きず、私はそっとティーカップに口をつける。
優しくて、美味しくて、楽しくて、落ち着くようで、いい香りが、口の中いっぱいに広がる。
ほぅ、と一息。
落ち着いた広く寛大な心で味わっておくれ、なんて言われたけれど、この紅茶を飲んでしまっては、私は勝手に落ち着いてしまう。
いいや、心はうきうきしているし、香りにも味にも感動して湧きたっているけれど、それと同時に落ち着いてもいるのだ。
風のない湖面の如く、曇りのない鏡の如く。
不思議な気分。
ティーポットを片付けてから、ケトルに水道水を入れて火にかけている真澄さんを、私はぼんやりと眺める。
木目調のレトロな喫茶店。
店内音楽すらもない、静かな空間。
ひしめき合ってる香りたち。
ゆったりとした時間。
私が、好きな、空間。
この喫茶店に来ると、いつも色んな感情が湧いてくる。
そしてその感情たちがぶつかり合って、混ざりあって、最後は落ち着く。
静かに天井を見上げる。
ゆっくりと回っているシーリングファンが、この喫茶店に素敵な香りたちを広げてくれている。
静かな空間。音楽のない時間。木目の温度。ひしめく香り。
落ち着く。
嬉しい。
私の中にある、ずっと目を背け続けてきた、いっぱいいっぱいの汚い気持ちが、穏やかに溶けていくのを感じていく。
再び吐息を、ゆっくり、長く。
「世界唯一に、美味しいですよ」
今度はちゃんと、自分の意志ではっきりと伝えた。
お湯を沸かしているケトルを見ながら、相変わらず真澄さんは穏やかに笑っていた。
「美味しいよねぇ、お茶」
どこか他人事のように、ゆったりとしたマイペースで、真澄さんは笑顔で返してくれる。
そういうことじゃ、ないんだけどなぁ。
そんなことを頭の片隅で考えつつ、私は再び紅茶を口に運ぶのだった。
香りを吸う。
味を確かめる。
それを、胸の奥にしまい込む。
いい香りですよ。
美味しいですよ。
それが私にとって、どれだけの救いになっているのか、どうせ真澄さんは分かってないんでしょうね。
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はじめましての方は「はじめまして」。
お久しぶりの方は「お久しぶりです」。
気ままな物書き、しろんすく、と申します。
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主人公は25歳。
おじさんじゃない、と本人は断固として否定している。