当店では美味しいお茶を必ずご堪能いただけます(他は微妙です)   作:ShilonkS

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第9話 食卓の空席

 家に帰れば、世界はまた二つに戻る。

 家。

 学校。

 それだけのはずだった。

 それだけで、七年間、なんとか生きてきた。

 なのに、玄関で靴を脱いだ瞬間から、私のスマホの画面の中だけで、もう一つの世界が癌細胞のように増殖していた。

 

『投稿した! #お茶神様 #紅茶やばい #隠れ家カフェ』

 

 指先が冷える。

 画面を更新するたび、「いいね」が増える。

 コメントが増える。知らないアイコンが増える。知らない名前が増える。

 

『ここどこ? 行ってみたい!』

 

『雰囲気良すぎ。デートによさそう』

 

『紅茶の色、加工なし? 反則でしょ』

 

『マスターかわいいってほんと?』

 

 反則なのは、紅茶じゃない。

 私だ。

 店はみんなのものだ。商売だ。広まって、客が増えて、続いていく。

 その「続いていく」を、私は誰より願っているはずなのに。

 

 ――いやだ。

 

 

 ――広まらないで。

 

 そんな矛盾した祈りが、胃の奥で生煮えのまま揺れている。

 玄関の鍵を回す音が、やけに大きく響いた。

 自分がやましいことをしているみたいに聞こえて、心臓が勝手に早くなる。

 

「ただいま」

 

「おかえり、奏音」

 

 母の声はいつも通り優しい。

 それだけで、本当は安心していいはずなのに、私は落ち着けない。

 胸の中が、さっき店で飲んだ紅茶の熱と、今ここにある無味無臭の冷たさで、ぐちゃぐちゃに攪拌されている。

 

「今日、ごはん一緒に食べられそう?」

 

 その一言で、喉がきゅっと狭くなる。

 ごはん。

 その単語は、私にとってずっと地雷だ。

 そして、地雷原であることを、母はちゃんと認識している。

 分かっているから、こんなに柔らかい声で聞く。

 柔らかい声は、優しさだ。

 優しさは、ときどき刃物より刺さる。

 私は反射で顔を作る。

 何もない顔。普通の娘の顔。欠けている部分が見えないようにする顔。

 

「……うん。あとで」

 

 嘘じゃない。

 あとで、摂取はする。

 食べるというか、ガソリンを入れるみたいに流し込む。

 生きるための燃料を入れるだけ。

 

「よかった。今日は鍋にしたの。まだ寒いし」

 

 鍋。

 家族団欒の象徴みたいな料理。

 昔の私が好きだったやつ。

 

 ――昔の私。

 

 十歳より前の、ちゃんと「美味しい」で笑えた頃の私。

 それを思い出しただけで、胸の奥がひゅっと縮む。

 私は頷いて、逃げるみたいに廊下を歩いた。

 台所から湿った熱気が流れてくる。匂いは分からないのに、湯気の温度と湿度だけで「何かが煮えている」ことだけは分かる。

 分かるのに、届かない。

 それが、むなしい。

 自室のドアを閉め、服の襟元をほどいたところで、スマホがまた震えた。

 

『お茶神様、店名センスよw』

 

『マスター、ゆるくてかわいいw』

 

『彼氏と行きたい』

 

『今度行こ〜』

 

 かわいい。

 その文字が、目に刺さる。

 真澄さん。

 あの人は、たぶん何も知らない。

 私がどんな呼吸であの店に通っているのか。

 どんな恐怖で席に座っているのか。

 どんな独占欲を、歯で噛み砕いて飲み込んでいるのか。

 そして、店が広まることが、商売として正しいことだっていう、残酷な現実も。

 お店って、本来そうだ。

 広まって、客が増えて、売上が増えて、続く。

 続く。

 続いてほしい。絶対に続いてほしい。

 なのに私は、広まるのが怖い。

 矛盾してる。

 醜い。

 それでも、止められない。

 スマホを伏せて、深呼吸する。

 吸い込んでも、何も匂わない。

 苦しい。

 戻りたくないのに、無の世界に引き戻される。

 その時、ドアが軽くノックされた。

 

「奏音、そろそろ食べる?」

 

 母の声。

 私は一瞬、息を止めた。

 行きたくない。

 でも行かないと、母がまた「無理しないでね」と言って、悲しそうに笑う。

 その笑いに、私は耐えられない。

 

「うん……行く」

 

 自分の声が、遠い。

 私は部屋を出た。

 自分から、地雷原へ歩いていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 リビングの食卓に、土鍋が置かれている。

 湯気が上がる。

 父と母が座っている。

 席は三つ。

 私の席も、ちゃんとある。

 でも、そこに “食べる私” だけがいない。

 

「いただきます」

 

 両親の声が重なる。

 私はワンテンポ遅れて口を動かした。

 

「……いただきます」

 

 昔は当たり前だった言葉が、今はどこか異国の儀式みたいに重い。

 父が鍋をよそい、母が笑い、箸の音がする。

 湯気が揺れる。

 鍋って、匂いがすごいはずだ。

 昔は、湯気を吸っただけでお腹が鳴った。

 でも、今の私は、湯気が頬に当たる熱だけを感じる。

 匂いがない。

 美味しそう、という感情が立ち上がる前に、虚無がくる。

 

「奏音、食べられそう?」

 

 母が笑顔のまま聞く。

 笑顔のまま聞くのが、いちばん優しいのに、いちばん残酷だ。

 私は首を横に振って、冷蔵庫を開けた。

 取り出すのは銀色のパウチ。

 完全栄養食のゼリー飲料。

 キャップをひねる音が、鍋の湯気の前で異物みたいに響く。

 机に置いた瞬間、土鍋が急に遠い世界の出来事に見えた。

 

「……それだけでいいのか?」

 

 父が、感情を消した声で聞く。

 責めていない。

 責めていないのが分かる。

 凄く、凄く凄く、とても気を遣っているのが分かる。

 分かるから、余計に苦しい。

 

「うん。今日は、これでいい」

 

 母の目が、ほんの一瞬だけ揺れた。

 それから何もなかったみたいに笑う。

 

「そっか。無理しないでね」

 

 また、その言葉。

 無理しないで。

 私が無理をやめたら、この席には座れないのに。

 家族の輪に入れないのに。

 家族は悪くないのに、家族が “食べる幸せ” という当たり前を持っているだけで、私は勝手に窒息しそうになる。

 私は喉の奥で、それを言葉にできないまま、ゼリーを一口吸った。

 冷たい。

 甘さがあるはずなのに、分からない。

 ただ粘度のある液体が、食道を落ちていくだけ。

 父が箸を動かしながら、ぽつりと聞いた。

 

「最近、寄り道が増えたか?」

 

 心臓が跳ねた。

 バレた?

 店のこと?

 それとも、友達の投稿を見られた?

 私の視線が泳いだのを母が見た気がして、私は慌てて首を振った。

 

「……増えてない。たまたま。図書館行ってただけ」

 

「そうか」

 

 追及はない。

 追及しないのが、父の優しさだ。

 腫れ物に触らないようにする優しさ。

 その優しさが、私の首を真綿で締める。

 母が鍋の具を、私の小皿に少しだけ取り分けようとした。

 その瞬間、私は反射で言ってしまった。

 

「いらない」

 

 言い方が、思ったより硬かった。拒絶の音だった。

 母の手が止まる。

 空気が、ほんの少しだけ凍る。

 母の表情も、凍った。

 私が食卓の雰囲気を壊してしまった。

 何て言い方をするんだ、私は。

 馬鹿か。

 馬鹿だったな。

 私はすぐに言い直した。

 

「……ごめん。今は、お腹空いてないから」

 

「ううん。分かった」

 

 母は笑って、具を自分の皿に戻した。

 父は何も言わずに箸を動かす。

 私はパウチを強く握りしめた。

 握りしめても、そこには温もりはない。

 家族の鍋は、きっと美味しい。

 分かってる。

 分かってるのに、私の世界には届かない。

 

 真澄さんの紅茶だけが、例外だった。

 

 例外があるせいで、家の食卓が余計に色褪せる。

 例外がなければ、私はここまで苦しくならなかった。

 もう無に慣れていた。慣れたふりが完成していた。

 なのに壊された。

 色を知ってしまったせいで、灰色の日常が耐え難くなった。

 

 あの店のせいで。

 

 あの紅茶のせいで。

 

 真澄さんの、せいで。

 

 

 

 ――真澄さん。

 

 

 

 私はゼリーを飲み干して、空のパウチを机に置いた。

 

「ごちそうさま」

 

 味わってないのに。

 でも言わないと終われないから、言う。

 母が「おそまつさま」と返す。

 父が「片付けは俺がやる」と言う。

 平和だった。

 平和なのに、私はどこにもいない。

 食卓の空席。

 私の体はあるのに、私だけ食の輪から弾き出されている。

 私は立ち上がって、逃げるみたいに自分の部屋へ戻った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ドアを閉めた瞬間、堰を切ったように息が漏れた。

 酸素が戻った、というより、他人の視線が消えたから呼吸ができた。

 ベッドに座り、スマホを開く。

 また通知。

 またいいねが増えている。

 また知らない人が「行きたい」と言っている。

 

『予約いらない?』

 

『今日行ってみる!』

 

『カウンター席良さそう』

 

『マスターと話したい』

 

 だめだ。

 広まってる。

 私の知らないところで、あの店が普通の人気店になっていく。

 普通の人気店になったら、どうなる?

 席が埋まる。

 私の席が、誰かに取られる。

 カウンターの、あの距離。

 あの温度。

 “いつもの”が言える空気。

 それが崩れる。

 真澄さんが忙しくなる。

 あの、雑でゆるくて、たぶん善意でも悪意でもない、心地いい無関心が薄まってしまう。

 

 ――私が欲しいのは、紅茶だ。

 

 ――私は紅茶に依存しているだけ。

 

 そう言い聞かせる。

 言い聞かせないと、もっと別の名前がついてしまうから。

 胸の奥が、ひゅっと鳴った。

 私はスマホを伏せて天井を見上げる。

 静か。

 何も匂わない部屋。味のない世界。

 なのに頭の中だけ、紅茶の香りが暴力的に反復する。

 あの店の湯気。

 カップの温度。

 口の中に広がる味と香りという情報の洪水。

 そして、ちりん、という音。

 私は枕に顔を押しつけた。

 泣きたかった。

 でも、泣いても涙の味は分からない。

 泣いたって、何も解決しない。

 私は起き上がって、机に向かった。

 机の引き出しを開けて、メモ帳を取り出す。

 自分でも分からないまま、ペンを走らせる。

 書けたのは、たった一行。

 

『広めないで』

 

 書いた瞬間、文字が醜すぎて息が止まった。

 独占欲が形になってしまったみたいで、怖い。

 

 私はぐしゃっと黒く塗りつぶす。

 代わりに、別の一行を書く。

 

『続いてほしい』

 

 矛盾してる。

 どっちも本音だ。

 その間で、私が潰れそうになる。

 ペンを置く。手が震えている。

 

 ――誰かに言えたら楽になるのに。

 

 味がしないって。

 でも、あの店だけ味がするって。

 言ったら、心配される。気を遣われる。かわいそうって顔をされる。

 でも、それ以上に怖いのは――

 

 家族が、あの店を知ってしまうことだ。

 

 私を救うために、広めてしまうかもしれない。

 「すごく美味しいの」と、善意で言いふらすかもしれない。

 私はその想像だけで、胃の奥が凍りついた。

 言えない。

 誰にも言えない。

 母にも。

 父にも。

 その時、またドアがノックされた。

 

「奏音……お茶、いる?」

 

 母の声だった。

 お茶。

 その単語が、胸を刺す。

 反射で声が出た。

 

 

 

「いらない!」

 

 

 

 きつい。

 きつすぎる。

 何て、言い方を。

 違う。

 いらないんじゃない。

 欲しいのは、母のお茶じゃない。

 私は唇を噛んで、声を作り直した。

 

「……大丈夫。ありがとう」

 

「うん。無理しないでね」

 

 また、真綿の言葉。

 母の足音が遠ざかって、私は目を閉じた。

 無理しないで、って言われるたび、無理をしなきゃ生きられない自分が浮き彫りになる。

 私はベッドに沈み込む。

 胸が苦しい。

 息が浅い。

 こんな時、私が行ける場所は一つしかない。

 分かってる。分かってるのに、認めたくない。

 

 家と、学校と――喫茶店『お茶神様』。

 

 私の世界は三つになりかけていて、

 私はその三つ目に、もう、かなりの速度で依存している。

 スマホを握りしめる。

 手のひらが熱くなるくらい強く。

 

「……明日、行かないと」

 

 たぶん、持たない。

 この家で、無味の世界に窒息する前に。

 あの一杯で呼吸を整えないと。

 依存してしまう自分がいちばん怖いのに、いちばん必要だった。

 私は自分に言い聞かせる。

 

 ――依存してるのは紅茶だ。

 

 ――紅茶が、私を生かしてる。

 

 そう。

 だから、どうか。

 

 誰にも取られませんように。

 

 ちりん、という音を思い出しながら、私は目を閉じた。

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――

 

【トピックス】

・奏音の家族関係

 父と母がいる。奏音は一人娘。

 お互いに気を使ってしまうので、家族とは食卓を囲むことは少ないが、家族関係は比較的良好である。ただし、飲食関係についてはお互いにどう接していいのか分からず、ぎくしゃくしている面は少なからずある。

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