当店では美味しいお茶を必ずご堪能いただけます(他は微妙です) 作:ShilonkS
その日は、朝から嫌な予感がしていた。
別に霊感があるわけじゃない。守護霊が肩に乗って「今日はヤバい」って囁くわけでもない。
ただ、長年ダークネス現場で擦り減らしてきた社畜の直感って、こういうのだけ無駄に当たる。
――今日は、店がうるさくなる。
そんな予感。
根拠?
あるよ。めちゃくちゃある。
開店から一時間も経ってないのに、ドアの風鈴がもう十回は鳴ってるんだもん。
ちりん。
ちりん。
ちりりん。
あの音、好きなんだよ。ガラスを指で弾いたみたいな、涼しくて繊細な音。
普段なら「今日も平和だなぁ」って気分になる、僕の店の“日常の合図”。
でも今日のそれは、なんか違う。
鳴りすぎる風鈴は、もはや非常ベルだ。
「いらっしゃいませー! えっと、二名様? テーブル空いて――あ、いらっしゃいませー! すみませーん、こちら先に会計してからご案内しますねー! あ、いらっしゃいませー!」
僕、志摩 真澄。
本日は喫茶『お茶神様』のマスター兼、いらっしゃいませ自動販売機。
カウンターの内側を、右へ左へ、左へ右へ。
カップを拭いて、ポットを洗って、ケトルを沸かして、注文を聞いて、会計をして、また「いらっしゃいませー」。
いや、これ、喫茶店っていうか、もはや野戦病院だよね?
感染症大発生中の介護施設じゃん。じーちゃんばーちゃんがばたばた倒れて、感染症対応と感染症対策のダブルパンチを食らいつつ通常業務の三輪車っていう。
いや、やめて思い出させないで。心が古傷を掻きむしられる。
僕の店は、本来、静かな店だ。
音楽も流さない。
店内にはお茶の香りが常駐してるから、BGMがなくても満たされる、というコンセプト(っぽいもの)でやってる。
なのに今日は、店内がざわざわしている。笑い声、椅子の音、スマホのシャッター音。
僕の店の静けさが、フードコートに殴られて負けている。
原因もわかってる。
文明の利器だ。SNSだ。
奏音ちゃんたち女子高生軍団が来た時に、是非とも宣伝してね、なんて軽く考えていたけれど、なるほど宣伝効果抜群すぎて乾いた笑いが出ちゃうね。ぴえん。
宣伝される = 平和が死ぬ。
この等式、教科書に載ってないんだけど。
「マスター、この紅茶もう一杯追加で!」
「はーい!」
「抹茶お願いできますか?」
「いけまーす!」
「サンドイッチありますか?」
「あります……!」
あります、と言った瞬間、僕の魂が一段沈んだ。
サンドイッチ。
僕の人間部分。
神のお茶の横に並べると、急に現実を突きつけてくる、不味くはない物体。
お茶は、僕が水に手を当てて念じるだけで神がかる。
でも軽食は、僕の腕が出る。
僕の腕は、文明開化前で止まってる。
でも注文されたら出すしかない。店だもん。
「頑張れ、僕の文明……今日は石器時代から産業革命まで行こう」
小声で自分を励まして、皿にサンドを乗せる。
客が増えれば増えるほど、僕がやる作業も増える。当たり前だ。資本主義だ。嬉しくない。
それでも、まあ。
売上は、たぶん、いい。
『広まるのはいいことだろ』
僕は蒼一郎に言われたことを思い出す。
そうだね。
資本主義的には、大正解だね。
でも僕は、落ち着いてお茶を淹れて、客が一口飲んで「はぁ」と息をつく瞬間を見るのが好きなんだよ。好きになってきたんだよ。回転率とかどうでもいいんだよ。
つまり、懐は潤っているのに、心が乾いている。
それに僕は、こういう“嬉しいはずなのに心が削れるやつ”に、弱い。
社畜時代、嬉しいはずの「残業代」が、心の寿命を前借りしてるみたいで嫌だったのと同じ匂いがする。
ちりん。
また鳴った。
顔を上げる。
反射的に「いらっしゃいませー」と口を動かし、声が裏返った。
「いらっしゃ……ッシャせ」
うわ、ださい。
今日はもう、僕の喉も疲れてる。
入ってきたのは、制服の女の子だった。
奏音ちゃん。
最近、よく来る子。
カウンターの端の、あの席に座って、静かにお茶を飲む子。
彼女が店内を見回した瞬間、目がほんの少しだけ見開かれた。
それだけでわかった。
これは、彼女の求めてる空気じゃない。
奏音ちゃんは、騒がしい場所が苦手そうだ。
というか、彼女は「お茶」だけじゃなくて、たぶん「静けさ」も買いに来てる。
なのに今日は、静けさが品切れだ。
僕の胸が、きゅっとした。
罪悪感?
いや、違う。
常連にいつもの環境を提供できない、って店としての焦りだ。たぶん。うん。たぶん。
奏音ちゃんはカウンターを見た。
席は埋まっている。
いつもの席も、誰かが座っている。
彼女の視線が、ほんの少しだけ彷徨った。
入口の近くで立ち止まって、動けなくなる。
迷子みたいに見えて、僕の心臓がもう一回きゅっと鳴った。
やめてよねー。
僕はそういう、庇護欲をそそる構図に弱い。
捨てられた子犬みたいなドラマ見ちゃうと、蒼一郎がドン引きするレベルでボロ泣きするくらい弱い。
社畜の時に“困ってる人”を見ると反射で身体が動く習性が染みついてる。
でも、今の僕は店の中で手が足りてない。
「奏音ちゃん!」
僕はポットを持ったまま、声をかけた。
「ごめん、今日はめちゃ混んでて……すぐ片付け――いや、片付けるっていうか、席が空くまでちょっと待っててくれる? 入口寒いよね」
奏音ちゃんは小さく頷いた。
「……はい」
声は平坦。
表情は硬い。
でも、その硬さの内側で、何かが必死に耐えてる感じがした。
なんだろう。
店が混んでるくらいで、こんなに緊張する?
彼女の事情は知らない。聞くのも得意じゃない。
だから僕は、せめて “いつも通りの対応” を頑張ることにした。
常連客。大事。
安定した収益源。もっと大事。
よし。僕はブレてない。たぶん。
そうやって自分を納得させた瞬間。
「すみませーん!」
客の声が飛んだ。
テーブル席の若い人が、手を挙げて僕を呼ぶ。
勢いよく挙げた手が――カップに当たった。
「あ」
僕が声を出すより早く、カップが跳ねた。
中身が舞う。
新緑の液体。
抹茶。
僕が神様からチート能力貰って、最初に作ったのが抹茶だったから、妙に思い入れのあるお茶。
が、飛ぶ。
床に落ちたら割れる。割れたら危ない。熱い。服が汚れる。火傷する。泣く。僕が泣く。
最悪の未来予想図が頭の中で高速再生された、その次の瞬間。
奏音ちゃんが、音もなく前に出た。
迷いがない。躊躇がない。
人混みの隙間をすり抜けるみたいに動いて、落ちる寸前のカップを、綺麗に受け止めた。
それだけじゃない。
一緒に滑り落ちたコースターまで、反対の手で掴んでる。
え、なにそれ。
反射神経、バケモンなの?
奏音ちゃんは、受け止めたカップをそっとテーブルに戻し、すぐにナプキンを取り、こぼれた抹茶を手際よく拭き始めた。
その動きに、迷いがない。生活に染みついた動きだ。
客が青ざめて言った。
「ご、ごめんなさい! 大丈夫!? 制服汚れて――」
奏音ちゃんは首を振って、落ち着いた声で返した。
「大丈夫です……火傷、してないですか」
その声が落ち着きすぎていて、逆に僕の方がパニックになった。
「え、えっ、奏音ちゃん!? 大丈夫!? ほんとに!? 手、熱くない!?」
「平気です」
平気です、って言い方が、平気じゃない人の言い方。
なのに平気そうに見える。すごい。なんなんだこの子。
「真澄さん、雑巾……あと、床、滑ります」
奏音ちゃんが床を指差す。
お抹茶様が無残な姿でぶちまけられた、そんな床。
あー、カップは無事だっただけで、そりゃ中身はこぼれるよね。
しかも抹茶は、床に落ちれば落ちるほど滑る。お茶って怖い。いや抹茶はお茶界の油だ。
じゃなくて。
「うわ、ほんとだ! ごめん、すぐ!」
僕は慌ててカウンターに飛び戻り、雑巾とモップを掴んで床へ。
客はひたすら「ごめんなさい」を繰り返している。
「いいよいいよ、大丈夫です! 割れてないし火傷もしてないなら勝ちです!」
へらへら笑いながら拭く。
慣れてる。床掃除は慣れてる。便や尿じゃないだけ天国だ。
いや比較対象が終わってるのは自覚してる。
床を拭きながら、ふと視線を上げる。
奏音ちゃんが、まだそこにいた。
入口のところで立ち尽くしていた時より、顔色が悪い気がした。
でも、目が離れていない。
カップ。
抹茶。
そして、僕の手元。
もったいない。
何故だろう、奏音ちゃんの目は、そんな言葉を放っているように見えてしまった。
零れたら、そりゃあ、もったいないけどさ。
でも何か、今の目の色は、ただの「好き」なものを粗末にされた、ていう感じじゃない。
なんだろう。
嫌な予感が、別の方向に増えた。
嵐みたいな昼が過ぎて、夕方。
客足がようやく落ち着いた。
僕はへろへろになりながらカウンターに突っ伏して、呻いた。
「しぬ……」
そして、カウンター席から淡々と返ってきた声。
「……死なないでください」
「この前も言われた気がする」
「……今日は特に。ここで死なれたら迷惑です」
「辛辣!」
奏音ちゃんだ。
いつの間にか、ちゃんと席が空いて、彼女は座っていた。
いつもの位置。
いつもの距離。
いつものカップ。
店内が静かになると、さっきまでの騒音が嘘みたいで、逆に耳が痛い。
この静けさに戻るだけで、僕の脳みそが喫茶店モードに帰ってくる。
「死なないよ。たぶん。今日はちょっと疲れただけ」
「……今日は特に、疲れてました」
「観察眼が鋭いね」
奏音ちゃんは返事をしなかった。
ただ、カップを両手で包んで、湯気を見ていた。
ああ、この光景だ。
この光景が、僕の店の “正しい姿” な気がする。
さっきまでの繁盛だって、店にとっては正しい。
でも僕の心は、この静けさの方が正しいって言ってる。
たぶん僕は、店をやる才能が半分欠けてる。賑やかに回す才能がない。残念。
「今日は、助けてくれてありがとうね。マジで助かった」
僕はちゃんと、言った。
照れ隠しも、冗談も挟まずに。
「カップ、割れたら危なかったし……奏音ちゃんが動いてくれなかったら、たぶん僕、間に合ってなかった」
僕が言うと、奏音ちゃんは一瞬だけバツが悪そうな顔をしてしまう。
「……勝手に動いて、ごめんなさい」
謝る方向が逆じゃない?
そう思ったけど、口にすると彼女はもっと硬くなる気がして、僕は軽く笑うだけにした。
「いや、助かったのは事実。えーっと……制服、汚れてない?」
「大丈夫です」
「火傷は?」
「してません」
質問に、即答。
どれも感情が挟まらない。
それが逆に、怖いくらい律儀だ。
「……そっか。よかった」
僕はそれ以上、踏み込めなかった。
踏み込む理由がないからだ。
彼女は常連客。僕は店主。距離感は、これでいい。
そうなんだけど。
奏音ちゃんが、カップに口をつける仕草を見るたび、僕は落ち着かなくなる。
宝物みたいに、あのお茶を扱う。
飲む前に、息をする。飲んだ後に、少しだけ肩が落ちる。
まるで、それが “呼吸” の代わりみたいに。
それってなんか、普通の「おいしい」とは違う。
僕は自分の胸のざわつきを、適当なラベルで封印した。
客は、色々あるんだろう。
僕は、それを詮索しないのが仕事。
「……真澄さん」
奏音ちゃんがぽつりと言った。
「うん?」
「今日は……すごく、混んでました」
「うん。たぶん、SNS。文明がさ、牙を剥くと早いよね」
「……」
奏音ちゃんは黙った。
その沈黙が、やけに重く落ちた。
僕はようやく気づく。
彼女は “混んでること” が嫌なんじゃない。
“混む未来” が嫌なんだ。
ああ、これ、店主としてはちょっと、まずい反応だ。
でも、まずいのは僕が気づくべき範囲じゃない。
そう思いたい。思いたいけど。
「今日の分、落ち着いて飲めてる?」
僕は、聞いてしまった。
余計なことだ、と脳が警告した直後に。
奏音ちゃんはカップを見たまま、小さく頷く。
「……はい。飲めてます」
飲めてますって言い方。
お茶って、飲めたかどうかで採点するものだっけ。
普通は「美味しい」とか「好き」とか「落ち着く」とか、そういう言葉になるのに。
やっぱり、この子は、ちょっと危うい。
でも僕は、危うさを見ても、それを抱え込んであげられる人間じゃない。
抱え込めない。抱え込むと僕が潰れる。
だから、できることだけする。
「じゃあさ」
僕は伝票を書く手を止めずに言った。
あくまで店主としての調子で。深刻にしない調子で。
「今日、手伝ってもらっちゃったし……一杯、サービスにしよっか。お礼」
奏音ちゃんの手が、一瞬止まった。
「……いいです」
即答だった。
拒否が早すぎて、逆に僕が困る。
「いや、いいって。店が助かったし。僕のメンタルも助かった」
「……」
「あと、客を働かせた罪悪感で、僕の寝つきが悪くなる」
冗談の形にして押し通すと、奏音ちゃんは少しだけ眉を寄せた。
「……じゃあ、真澄さんの寝つきのために」
「うん、そうそう。僕の健康は大事」
奏音ちゃんは、ほんの少しだけ口元を緩めた。
その “ほんの少し” が、今日はやけに胸に残った。
僕はいつも通りにポットを用意する。
水を沸かして、移して、手を当てる。
「美味しい紅茶になーれ」
お礼の一杯。
だからちょっとだけ、付け足す。
口には出さない。
出したら、湿っぽくなる。
疲れがほどけるやつになーれ。
今日が嫌な記憶で終わらないやつになーれ。
注ぐ。
湯気が立つ。
香りが広がる。
奏音ちゃんが、息を吸った。
深く。
まるで溺れていた人が、水面に顔を出したみたいに。
うん。
やっぱり、この子は “お茶” 以上のものを、ここで吸ってる。
奏音ちゃんはカップを受け取ると、祈るみたいに口をつけた。
一口。
表情が、ふっとほどけた。
それは笑顔じゃない。
でも、張り詰めていた糸が一本切れたみたいな顔。
「……美味しい」
「でしょ」
僕はいつも通りの軽い返事をした。
軽さで、距離を保つ。
「今日はほんと、お疲れ様の日だったからね。お茶くらいは、味方してくれないと」
奏音ちゃんは、返事をしなかった。
ただ、もう一口飲んだ。
その動きが、さっきより少しだけ焦って見えたのは、気のせいだろうか。
閉店時間になって、最後の客を送り出す。
ちりん。
ドアが閉まる。
風鈴の音が、今日はやっと “いつもの音” に戻った気がした。
僕は鍵をかけて、ようやく肩から力を抜く。
「はぁ……今日は、ほんと、疲れた」
奏音ちゃんはもう帰っている。
サービスの一杯を飲み終えたあと、きちんと会計をして、「ごちそうさまでした」と言って、いつも通りに出ていった。
いつも通り。
それが、なぜかありがたかった。
店内は静かだ。
お茶の香りだけが、壁に染みついている。
僕は思う。
繁盛は、いいことだ。
商売としては、正しい。
でも、あの子の席が消える未来は、なんだか、嫌だ。
嫌、って言うと湿っぽい。
だから僕は、また別のラベルを貼る。
常連は大事。
安定した収益源。
店の空気を作ってくれる人。
うん。そういうこと。
そういうことにしておこう。
カウンターを拭きながら、僕は小さく呟いた。
「……明日は、少しだけ、静かだといいなぁ」
それが叶うかどうかは分からない。
でも、叶わないなら、どうしてくれようかな。
その時はその時で、僕はきっとまた、軽いノリで何かを選ぶのだろう。
疲れたから休もーっと、みたいに。
その軽さが、誰かを地獄に落とすことになるなんて、まだこの時の僕は、知らなかった。
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【トピックス】
人気とは一過性に過ぎない。
真澄には後ろ髪もない過ぎ去ろうとしたもののを摑まえる力はない。