当店では美味しいお茶を必ずご堪能いただけます(他は微妙です)   作:ShilonkS

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第11話 りんじきゅうぎょう

 前日の夜、僕は布団にダイブしてから三秒で意識が落ちた。

 誇張じゃない。

 ほんとに、身体が「もう無理ぽ」って電源を落とした。

 繁盛って、すごい。

 お金は増える。お客さんは増える。風鈴は鳴り続ける。

 でも僕の脳内メモリは増えない。むしろ減る。ガリガリ削れる。

 お茶を淹れるのは簡単だ。

 湯を沸かして、手を当てて、念じるだけ。神様から貰ったチートだから、努力はゼロでいい。

 

 問題は、そこじゃない。

 

 洗い物。

 会計。

 席案内。

 「すみませーん」の呼び声。

 椅子の脚の軋み。

 スマホのシャッター。

 勝手に動く人間たちの予測不能。

 

 要するに、人間が多い。

 

 僕、人間が嫌いってほど嫌いじゃないけど、人間が多いのは苦手なんだよね。

 人間って、音がするし、気配が濃いし、予定外が多いし、何より謝るタイミングが難しい。

 だから僕は、落ちた。

 ストン、と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 朝。目が覚めた。

 天井の木目が、やけにくっきり見える。

 いつもなら「木だなぁ」で終わるのに、今日は「木目ってこんなに木目だったんだ」って感動した。

 つまり、脳が疲れている。

 身体を起こそうとして、起きない。

 起きる気はある。ないわけじゃない。

 でも、身体の方が「いやです」って言ってる。

 

「……今日は休も」

 

 口から出たのは、そんな言葉だった。

 深い理由はない。

 戦略もない。

 ただの直感。野生の勘。

 反省も、教訓も、次への改善も、ない。

 疲れたから休む。

 それだけ。

 人類がここまで生き延びてきたのは、たぶんそういう生存戦略のおかげだ。

 知らんけど。

 僕は起きて、顔を洗って、部屋着のまま店へ行った。

 シャッターの前でしゃがみ込み、コピー用紙を取り出して、マジックで書く。

 

『本日 臨時休業

 マスター、疲れたので休みます

 また明日』

 

 よし。完璧。

 

 簡潔にして誠実。嘘偽りのない真実。

 言い訳って嫌いだし、こういうのは正直が一番、って思ってるだけで、実は単に文章を考えるのが面倒なだけだ。

 紙をぺたりと扉に貼って、満足して、踵を返した。

 その瞬間、背後から声が降ってきた。

 

「……は?」

 

 蒼一郎だった。

 スーツ姿で、出勤途中の顔をしている。つまり、朝から真顔で悲しい。

 蒼一郎は貼り紙を見て、次に僕を見て、もう一度貼り紙を見て、そして僕を見た。

 目が、「こいつ終わってんなぁ」の目だった。

 

「真澄。お前……これ、もうちょいオブラートに包めないの?」

 

「オブラートって何。食べられる紙?」

 

「そうじゃねぇよ。店としての体裁ってもんがあるだろ。“誠に勝手ながら” とか “設備点検のため” とか」

 

「えー。嘘つくのヤダ。疲れたんだもん」

 

「正直が正解とは限らねぇんだよ」

 

 蒼一郎はため息を吐いて、貼り紙を指で軽く弾いた。紙がペラッと鳴る。

 風鈴の音は鳴らない。店は開けないから。

 

「客の予定とか考えろよ。せっかく来たのにってなるだろ」

 

「喫茶店って、ふらっと来るもんじゃないの?」

 

「ふらっと来る客ほど、ふらっと崩れるってこともあるだろ」

 

「何その哲学」

 

「哲学じゃなくて現実な……まあ、いいか。昨日のお前、目が死んだ魚より濁ってたから今日は寝ろ」

 

「それはつまり白内障では?」

 

「比喩をホラーに落とすな」

 

 蒼一郎は僕の背中を軽く押した。

 

「いいから帰れ。寝ろ。お前は寝ればだいたい直る」

 

「蒼一郎、僕のことを家電だと思ってない?」

 

「だいたい合ってる」

 

 ひどい。

 でも、背中を押されると、あら不思議。

 「休む」という決断に罪悪感が挟まる隙がなくなって、僕はすんなりアパートへ戻れた。

 今日は休み。

 それだけ。

 世界は平和。

 二度寝最高。

 布団ちゃん最高愛してるー。結婚しておくれラブラブちゅっちゅっ。ぐー。

 

 

 

 その日は、僕にとって「ただの休み」だった。

 身体を休めて、頭を空っぽにして、たまった疲れを水に溶かす日。

 それだけのはずだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 放課後。

 私は、競歩選手みたいな早足で歩いていた。

 理由は簡単。

 息が詰まったからだ。

 苦しい。

 首が絞まる。

 息ができない。

 

 朝、母が私の顔を見て、少しだけ声を柔らかくした。

 「無理しないでね」って、あの言葉を言いそうな顔をした。

 言われる前に、私が先回りして笑ってしまった。

 

 昼休み、友達が『自分のお弁当が過去最高においしい』って盛り上がっていた。

 私は、「えーいいな」って言って、笑って、頷いて、全部わかったふりをした。

 

 放課後、誰かが「今度またお茶神様行こ」って言った。

 私は、曖昧に笑った。

 その “曖昧” の裏で、胸の奥が黒く濁っていった。

 

 ――来ないで。

 

 ――遊び場にしないで。

 

 ――あそこは、私が息をする場所だから。

 

 そんなこと、言えるわけがない。

 言えないから、私は歩く。

 あの店へ。

 喫茶店『お茶神様』。

 学校と家の間にできてしまった、三つ目の世界。

 行けば味がする。香りがする。

 それだけで私は、“欠けたままの人間” から “ちゃんとした人間” に戻れる。

 怖い。

 たった一杯の紅茶に、生殺与奪を握られているのが怖い。

 でも、それでも必要だ。

 

 今日も。

 

 今日も、あの扉を開けて、ちりんと鳴る音を聞いて、香りに殴られて、ようやく肺が膨らむ。

 その予定だった。

 

 角を曲がって、看板が見えた。

 いつもならこの時点で、胸の奥が少しだけ軽くなる。

 

 ――あ、もうすぐだ。

 

 期待が、条件反射みたいに湧く。

 自分で止めようとしても湧く。

 情けないくらい、勝手に湧く。

 

 でも今日は。

 

 店の前に立った瞬間、何も来なかった。

 

 香りがしない。

 

 来るはずの「救い」が来ない。

 

 私は一度、息を止めた。

 焦って、溺れるみたいに深呼吸をする。

 

 ……やっぱり、何もない。

 

 無機質な乾いた空気だけ。

 当たり前なのに、今日はそれが鉛のように重かった。

 

「……え?」

 

 嫌な予感がして、視線を上げる。

 扉。

 風鈴。

 そして、白い紙。

 

 紙が、無慈悲にぺたりと貼られていた。

 

 嫌だ。

 嫌なものを見る前って、目が勝手に焦点を合わせる。

 見たくないくせに、見なきゃ確かめられないから。

 私は文字を読む。

 

 

 

『本日 臨時休業

 マスター、疲れたので休みます

 また明日』

 

 

 

 読み終えた瞬間、頭の中が真っ白になった。

 臨時休業。

 休みます。

 また明日。

 

 

 

 また、明日。

 

 

 

 ――明日?

 

 

 

 喉の奥から、何かがせり上がってきた。

 叫びたいのに、声が出ない。

 怒りじゃない。悲しみでもない。

 

 もっと単純で、もっと醜いもの。

 

 怖い。

 

 私はしばらく、その紙を見つめた。

 瞬きをして、読み直して、読み直して、読み直した。

 現実が変わらないことを確認するために。

 扉は無慈悲に閉まっている。

 木の扉が、今日だけ鉄みたいに見える。

 ちりん、という音は鳴らない。鳴りそうにない。

 香りも、来ない。

 私は無意識にドアノブへ手を伸ばしてしまった。

 引く。

 

 ガチャン。

 

 鍵がかかっている。

 当たり前だ。休業なんだから。

 でも私は、その当たり前が怖くて、信じられなくて、もう一度引いた。

 

 ガチャン。

 

 拒絶の音だけが返ってくる。

 胸が苦しい。

 酸素が薄い。

 私は店の前で立ち尽くしたまま、どうしていいかわからなくなった。迷子になった子どもみたいに。

 

 ――ここに来れば大丈夫。

 

 その前提で、私は今日を耐えてきた。

 息を詰めて、息を誤魔化して、息を嘘で薄めて。

 

 その前提が崩れた瞬間、世界が二つに戻る。

 

 家と学校。

 味のない、香りのない、二つの世界。

 ああ。

 そうだ。

 私は七年間、そこだけで生きてきたはずなのに。

 どうやって、息をしてたっけ。

 思い出せない。

 喫茶店の前で、私は初めて、依存の形を自覚した。

 行く、じゃない。

 戻る、でもない。

 

 

 

 “行かなきゃ保てない”。

 

 

 

 そこまで来ていた。

 悔しくて、恥ずかしくて、腹が立った。

 

 ――たかが喫茶店の臨時休業で。

 

 ――たかが一日、飲めないだけで。

 

 私は自分に呆れた。

 でも呆れても、呼吸は戻らない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 私は店の前から離れた。

 どこへ行くでもなく、亡霊のようにふらふら歩いた。

 足が勝手に動く。止まったら、ここで崩れる気がしたから。

 途中、コンビニの前で立ち止まる。

 七年前の自分が好きだったお菓子の棚が脳裏に浮かんで、ぞわ、と鳥肌が立つ。

 吐き気がする。

 気持ちが悪い。

 呼吸が、だんだんと浅くなる。

 狂ったリズムで、息をする。

 苦しい。

 あの時、私は確かめた。

 世界は戻っていないって。

 何を口に入れても “無” だって。

 

 ……でも。

 

 藁だとわかっているのに、縋りたくなる。

 私はコンビニに入った。

 

「いらっしゃいませ」

 

 店員さんの明るい声。

 真澄さんのような間延びした声じゃない。

 真澄さんの声じゃない。

 

 真澄さんじゃない。

 

 香りがしない、光が白くて、無駄に眩しいだけの空間。

 背の低い、お人形さんのような店員さん。

 チョコレートを買った時も、この人だった気がする。

 ちらりと名札を確認すれば、渡巻。

 どうでもいい。

 私はふらふらと店内を歩く。

 お菓子の棚は通り過ぎる。

 それが藁だと分かってるクセに、それでも縋るように探す。

 

 お茶。

 

 ペットボトルの緑茶。

 高級茶葉使用。香り立つ。旨み。渋み。そういう宣伝文句が踊っている。

 

 笑ってしまいそうになる。

 私には、その “踊り” が見えない。

 それでも買った。

 カテゴリが同じなら、もしかしたら、なんて、浅はかな期待を手放せない自分が、みっともない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 公園のベンチに座って、キャップを開けた。

 直感で分かる。

 ダメだ、と。

 藁は所詮、藁なのだ、と。

 溺れるしかないのだ、と。

 一口飲む。

 

 冷たい。

 

 それだけ。

 舌の上に、何も立ち上がらない。渋みも、甘みも、香りも、ない。

 二口目。

 三口目。

 

 無。

 

 ただの、色つきの水。

 

 現実が、冷徹にそこにあった。

 私はペットボトルを握りしめた。ベコッと音がするまで握りしめた。

 握りしめても、味は出てこない。香りも出てこない。

 出てくるのは、私の無力感だけだ。

 

 その瞬間、はっきりわかった。

 

 私は、依存してる。

 

 あの店に。

 あの一杯に。

 真澄さんが作る “例外” に。

 

 ……いや。

 

 違う。違う。違う。

 

 私は首を振った。

 自分を説得するみたいに。

 依存してるのは、紅茶だ。

 味と香りがある紅茶。

 それだけ。

 店主とか、関係ない。

 人とか、関係ない。

 もし自販機で、あの紅茶が買えたなら。

 もし他の店でも同じ味がするなら。

 私は――

 

 ……違う。

 

 わかってる。

 自販機じゃだめだ。

 他の店じゃだめだ。

 だって私は、今日、呼吸ができない。

 

 原因は「紅茶が飲めない」じゃない。

 

 “いつもの扉が開かなかった” ことだ。

 

 その事実が、私の胸を締めつける。

 私は空になったペットボトルを見つめた。

 透明で、軽くて、頼りない。

 今の私みたいだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 家に帰ると、食卓には家族がいた。

 鍋が湯気を上げている。

 私はいつも通り、完全栄養食のゼリーを開けて飲んだ。

 いつも通りのはずなのに、今日はその “いつも通り” が異様に残酷だった。

 家族は気を遣って、踏み込まない。

 私は気を遣って、笑う。

 笑いながら、思ってしまう。

 

 ――今日は、あの店が開いていなかった。

 

 ただそれだけで、私は一日が壊れた。

 それを家族に言えない。

 言ったら心配される。

 気遣われる。

 かわいそうって顔をされる。

 でも、それ以上に怖い。

 家族が、あの店を知ってしまうことが。

 あの店を、善意で広めてしまうことが。

 「奏音が救われた店」だって、誇らしげに語ってしまうことが。

 そんな未来を想像して、背筋が冷えた。

 

 私は食卓から逃げるように部屋に戻った。

 

 ベッドに座る。

 スマホを握る。

 連絡先が、ない。

 当たり前だ。

 私は客でしかない。

 ただの客が、店主の連絡先なんて知っているはずがない。

 普通は。

 普通なら。

 でも私は、普通じゃない。

 あの店が休みだと、私は一日が機能不全になる。

 

 明日も休みだったら?

 

 明後日も?

 

 もしこのまま閉店したら?

 

 その考えが浮かんだ瞬間、心臓が暴れた。

 呼吸が浅くなる。

 空気が足りない。

 怖い。

 こんな自分が怖い。

 枕に顔を押しつけて、乾いた声で笑った。

 笑うしかなかった。

 だって、あまりにも滑稽で、惨めで、みっともないから。

 しばらくして、私は起き上がった。

 机の引き出しからメモ帳を出す。

 震える手で、文字を書く。

 

 

 

『次に会ったら、言う』

 

 

 

 何を?

 味が分からないんです、なんて言えない。

 あなたのお茶じゃないとだめです、なんて、重すぎる。

 言った瞬間、全部終わってしまう気がする。

 

 だから、言えるところまで。

 

 私は書き直した。

 

 

 

『休みの日は、教えてください』

 

 

 

 それだけでもいい。

 それだけでも、私は “息継ぎ” のタイミングがわかる。

 突然、酸素を抜かれる恐怖からは逃げられる。

 メモ帳を閉じて、胸の前で抱きしめた。

 お守りみたいに。

 明日、店が開いていますように。

 ちりん、という音が鳴りますように。

 香りが来ますように。

 味がしますように。

 そして私は、もう少しだけ、自分の心を壊さずに済みますように。

 

 ……ああ。

 

 真澄さんに、会いたい。

 

 そう思った瞬間、私はまた首を振った。

 違う。

 会いたいのは、紅茶だ。

 味と香りがある紅茶。

 それだけ。

 そう言い聞かせながら、私は暗い天井を見上げた。

 ちりん、と。

 鳴らないはずの音が、耳の奥でいつまでも鳴っていた。

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――

 

【トピックス】

・奏音の交通事故について

 よくある交通事故。

 車が人を撥ね飛ばした。

 ニュース番組ではさらりと流されてしまう。

 それを見たとある少年は、子どもながらに “交通事故なんてロシアンルーレットの実弾を引き当てるような、ただの不幸” という認識をしてしまう。

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