当店では美味しいお茶を必ずご堪能いただけます(他は微妙です) 作:ShilonkS
扉の前に立っただけで、心臓が早鐘を打つ。
――今日は、開いている。
分かっている。
看板が出ている。
窓の内側に灯りもある。
それでも、ドアノブに触れて、実際に「開く」って確かめるまで、胸の奥のどこかが “まだ信じるな” と警報を鳴らす。
昨日みたいな「拒絶」が、もう一度あったら。
私はたぶん、笑ったまま壊れる。
たかが喫茶店。臨時休業。
たった一日、飲めなかっただけ。
――それなのに。
私は今日、縋るようにここへ来た。
喫茶店『お茶神様』。
情けない。
自分でも分かる。自分で分かるのがいちばん残酷だ。
でも、プライドって、息を吸う代わりにはならない。
今の私に必要なのは、“正しさ” じゃなくて “酸素” だ。
今日は言う。
全部は無理。「あなたのお茶がないと生きていけません」なんて言ったら、出禁か、通報か、どっちかだ。
だから、言えるところまで。
昨日、メモ帳に書いた一行が、制服のポケットで紙の感触になっている。
触るだけで、少しだけ背中が押される。
私はドアノブに手をかけた。
ひんやりした金属が、指先の熱を奪う。
開ける。
開いて。
ガチャ。
抵抗がなく、扉が動く。
ちりん。
その音が鳴った瞬間、肺の底がほどけた。
そして、香りが来る。
暴力的なまでに鮮やかな、情報の塊。
紅茶の華やかさ。緑茶の青さ。ほうじ茶の香ばしさ。
昨日、ここに存在しなかったもの。私が渇望して、昨日一日中、喉の奥で噛みしめていたもの。
安堵と、怒りに似た感情が混ざり合って、胸が熱くなる。
泣きそうになる。泣くな。今日は泣かない。
「あ、いらっしゃいませー」
カウンターの向こうで、真澄さんがのんびり笑った。
眠そうな目。黒いエプロン。気の抜けた声。
いつも通りの、世界に勝ってる人の顔。
その顔を見た瞬間、張り詰めていた糸がぶつんと切れそうになって、私は奥歯を噛んだ。
平和なのは、あなただけだ。
私は、昨日、窒息寸前だったのに。
喉の奥で名前が鳴る。勝手に鳴る。
真澄さん。
真澄さん。真澄さん。
真澄さん。真澄さん。真澄さん。
真澄さん。真澄さん。真澄さん。真澄さん。
真澄さん。真澄さん。真澄さん。真澄さん。真澄さん。
……落ち着け。
「……こんにちは」
「こんにちはー。今日もカウンター?」
“今日も” が、胸の内側をくすぐって、痛い。
「……はい」
私は、いつもの席に座った。
吸い寄せられるように。迷いなく。
その迷いのなさが怖い。
ここに座ると、体が “戻ってきた” って勘違いを始めるから。
「おすすめ紅茶でいい?」
「……お願いします」
「はーい」
真澄さんは、いつも通りにお湯を沸かす。
いつも通りにポットに移す。
そして、いつも通りに、ふわっと手を当てる。
その一瞬で、香りが “完成する”。
魔法みたい。
でも、見惚れてる場合じゃない。
言うんだ。
紅茶が出てくる前に。
一口飲んだら、私はまた溶ける。
“大丈夫なふり” が、簡単にできてしまう。
それが一番だめだ。
「……真澄さん」
声が出た。
自分でも驚くくらい、乾いて、硬い声だった。
「ん?」
真澄さんはポットを持ったまま、きょとんと首を傾げる。
その軽さが、私の喉を締める。
重くなるのは、いつも私だけだ。
息を吸う。
香りがある息。
今なら言える。
今しか言えない。
「……昨日、休みでしたよね」
「あー」
真澄さんは、あっさり笑った。
悪びれる様子もなく、空が青いって言うみたいに。
「うん。疲れちゃってさ。サボっちゃった。ごめんね」
サボっちゃった。
ごめんね。
その二語で、昨日の私の地獄が片付けられる。
胸の奥の棘が少しだけ抜けるような、でも逆に深く刺さるような、矛盾した感覚。
私は、奥歯を噛みしめた。
震えないように。声が尖りすぎないように。
「……あの。休みの日、分かるようにしてほしいです」
「え? 貼り紙、出してたよ?」
「……見ました。当日の朝に」
見た。
見て、扉を引いて、拒絶の音を聞いた。
それで一日が壊れた。
でも、それは言えない。
私は言える形に変換する。
嘘じゃない言葉を選んで、嘘みたいに軽くする。
「私……その、来て閉まってると……困るので。予定とか……あるし」
困る。
予定。
言葉は軽い。中身は重い。
本当は “死活問題” なのに。
そんな重たい本音、言えるわけがない。
「そっかぁ」
真澄さんはぽりぽり頬を掻いた。
子どもみたいな仕草。
「確かに急に休むのは社会人として良くないよね。うん。蒼一郎にもド正論で怒られた」
……蒼一郎。
知らない名前が、胸の底でぬるく跳ねた。
誰。
誰ですか、その人。
あなたの、何。
質問が喉まで上がって、ぎりぎりで飲み込む。
私は客。私は客。私は客。
真澄さんの生活に、踏み込む資格なんてない。
なのに、胸の中に黒いものが渦巻く。
自分の醜さに、吐き気がする。
私は笑ってごまかした。
仮面は、得意だ。七年もやってる。
「……前日に分かるように……お願いします」
「うん。前日までには貼る。てか、言ってくれて助かった。僕、放っとくと普通に人間やめるから」
言い方が軽い。
軽すぎて、救われる。
同情されない。腫れ物扱いされない。
ただ、店の都合として整えようとしてくれる。
私は小さく頷いた。
約束。
昨日の地獄に、手すりが一本増えた。
でも、それだけじゃ足りない。
足りないのに、足りないと言えない。
もっと。
もっと “確実” がほしい。
真澄さんに、“私” を打ち込みたい。
抜けないくらい深く、私という杭を打ち込みたい。
もっともっと、もっともっともっともっと、踏み込まないと。
私は息を吸った。
苦しくない。
溺れていない。
香りがある。
楽に吸える、息を、吸う。
胸が苦しくない。今なら。
「……あと」
「ん?」
真澄さんが紅茶を注ぐ手を止める。
視線が、まっすぐ私に向く。
怖い。
見透かされそうで。
でも、目を逸らしたら、また言えなくなる。
私は、言った。
“いちばん” じゃない。
“言えるところまで” の、いちばん奥。
「……私、普通の味が分からないんです」
沈黙。
店内の音が一段、遠くなる。
真澄さんが瞬きを二回した。
「え?」
真澄さんの声が、素っ頓狂にひっくり返った。
驚きがそのまま声になったみたいな声。
私は続けた。
逃げないように。逃げ道を潰すように。
真澄さんを、追い込むように。
「十歳の時、事故に遭って……味覚と嗅覚が、なくなってます。何を食べても……砂みたいで。何を飲んでも、ただの水で」
言った瞬間、胸が痛くなった。
言わなきゃよかった、って思うのに、言葉はもう戻らない。
真澄さんはポットをそっと置いた。
“扱いが雑な人” なのに、その動きだけ妙に丁寧で、余計に心臓が痛い。
「え、えっと……ごめん、いや、ごめんじゃないな……え、じゃあ……今まで、どうやって……」
言葉が迷子になっている。
その狼狽え方が人間臭くて、私は少しだけ肩の力が抜けた。
「どうやってっていうか……慣れます。慣れないけど。別に……死にはしないので」
言ってしまってから気づく。
これ、強がりだ。
強がりは得意。生存戦略だから。
「そっか」
真澄さんは、それ以上踏み込んでこなかった。
「大変だったね」も、「可哀想」もない。
代わりに、少しだけ眉を下げて、変な方向の確認をした。
「じゃあ奏音ちゃん、食べ物の話、苦手?」
そこ? と思って、でも、ありがたかった。
同情じゃない。
扱い方を決めるための確認。
普通に接するための、質問。
「……苦手です。話すのも、聞くのも。嘘をつくのが疲れるので」
「だよねぇ。無理に話さなくていいよ。僕も別にグルメじゃないし」
グルメじゃない。
それ、嘘だ。
神みたいな味を出すくせに、グルメじゃないわけがない。
でも真澄さんは本気の顔をしている。
味の蘊蓄を語らない人の本気だ。
それが、私の居場所を作ってしまう。
悪い意味で。
私は、最後の一段を下りる。
言いたくない。
でも言わないと、今日来た意味が半分になる。
「……でも、ここだと」
喉に引っかかる。熱い。
泣くな。泣いたら終わる。
私は拳を握りしめて、絞り出した。
「……ここで出してくれるお茶だけ、分かるんです」
真澄さんが固まった。
「……え?」
「香りも、味も……ここだけ。他は全部ダメなのに……真澄さんのお茶だけ」
言いながら、目の奥が熱くなるのを感じた。
泣くな。
泣いたら、また「情緒不安定な子」に戻ってしまう。
真澄さんはしばらく黙って、それから、ぽつりと言った。
「……すごいね」
すごい。
それだけ。
「なんで?」も、「病院行った?」もない。
ただ、事実を受け止めるだけ。
そのシンプルさが、胸に刺さる。
私はやっと顔を上げた。
「……だから、昨日、閉まってるの見て……」
言いかけて、詰まる。
昨日、私がどれだけ絶望して、どれだけ取り乱して、どれだけ惨めだったか。
そんな私の醜さを言葉にしたら、目の前の人に重さとして渡してしまう。
それは、したくない。
私は短い言葉に変換した。
ほんとは短くなんかないのに。
「……怖かったです」
真澄さんが、困ったように笑った。
困ってるのに、軽い笑い。
また、その軽さに救われる。
「ごめんね。ほんとごめん」
そして、次に言った。
たぶん真澄さんにとっては、天気の話ぐらいの一言。
でも私にとっては、鎖が外れる音。
「じゃあさ。もっとウチに来なよ」
思考が止まった。
「……え」
「だって、ここで分かるんでしょ? 味も香りも。なら来ればいいよ。いつでも」
いつでも。
その言葉が、喉の奥を甘く痺れさせた。
嬉しい。
怖い。
嬉しいのに、怖い。
私は必死にかけていたブレーキを、笑顔で外された気がした。
「……いいんですか」
声がかすれた。
真澄さんは、きょとんとした顔で言った。
「え、ダメな理由ある? ここ喫茶店だよ? お客様ウェルカム」
そうだけど。
そうじゃなくて。
でも、言えない。
私は首を振る。
「……ないです」
「なら大丈夫。いつでもおいで」
軽い。
羽毛みたいに軽い。
その軽さが、私を救い、同時に沼に落とす。
私は、依存していいって言われたみたいに感じてしまった。
違う。違うのに。
真澄さんは “客扱いとして” 言っただけだ。
分かってる。分かってるのに。
真澄さんは少し考えてから言った。
「じゃあ臨時休業は前日に貼り紙。あと、定休日も決める?」
「……定休日」
「うん。毎週ここは休み、って決めとけば、奏音ちゃんも心の準備できるでしょ」
心の準備。
息継ぎのタイミング。
それが欲しかった。それがあれば、私は今日みたいにパニックにならない。
私は小さく頷いた。
「……分かりやすい方がいいです」
「だよねぇ」
真澄さんはカウンターの下をごそごそ探って、小さな黒板を取り出した。
チョークでさらさら書く。
『定休日:水曜日(仮)
臨時休業:前日までにお知らせ』
(仮)。
その二文字が真澄さんらしい。
でも私には、仮でも十分だった。
何もない恐怖が、少しだけ形になるから。
「これ、店の前に出しとくね。あ、でも水曜って僕の気分だから、変わったらごめん」
「……気分」
「気分。僕、気圧に弱いから」
軽い。
笑うところだ。
笑えないのに、笑ってしまいそうになる。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして――で」
真澄さんが紅茶のカップを、そっと私の前に置いた。
「今日もおすすめ。神様のお紅茶」
私は両手でカップを包んだ。
温かい。
湯気が立つ。香りがする。
一口飲む。
味が来た。
香りが脳髄を満たした。
――やっぱり、ここだけだ。
私の世界は、ここにしかない。
その事実が残酷で、優しくて、甘美で。
涙が出そうになって、私は必死に飲み込んだ。
泣かない。
今日は泣かない。
言うことは言った。約束ももらった。
真澄さんは、私の “息継ぎ” の形を作ってくれた。
私は依存して――しまう。
いや、依存してしまっても、生活が壊れにくくなる。
そういう “整備” を、してしまった。
「……美味しいです」
「でしょ」
真澄さんが胸を張る。
「神様だからね」
「自称」
「自称でーす」
真澄さんは笑って、私もほんの少しだけ笑った。
たったそれだけのやりとりなのに、胸の奥が満たされていく。
私はカップを置いて、視線を落とした。
「……今日のこと、誰にも言いません」
自分でも驚くくらい、低い声だった。
「ん? 何のこと?」
「……私が、ここで分かること。このお茶だけ、味が……分かること」
「あー」
真澄さんはあっさり頷いた。
「うん。奏音ちゃんがそうしたいならそれでいいよ。僕も言いふらさないし」
理由を聞かない。
「治るといいね」も言わない。
ただ、今をそのまま置いてくれる。
無責任で、優しい。
だから危ない。
それでも、心地いい。
「……お願いします」
「うん」
真澄さんはそれ以上言わず、次のポットを手に取った。
別の客のための準備。
店は、いつも通りに回る。
私は、席に座ったまま思う。
言えた。
言えるところまで、言えた。
それでいい。
それでいいはずなのに。
カップの中の赤褐色が、血みたいに鮮やかで。
私はそれを見つめながら、胸の奥で小さく覚悟した。
これで私は、もう逃げられない。
でも、逃げたくない。
その両方が本音で――
自分が怖いのに、なぜか少しだけ救われていた。
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【トピックス】
・真澄の家庭について
両親健在。姉と弟がいる。
家族仲は悪くないが、真澄は「自分の現状を説明する」のが致命的に下手なため、重要な報告(転職・開業など)を先延ばしにしがち。
実家からは定期的に「結婚の予定はないのかなー(チラッ)」の圧が飛んでくる。真澄は毎回「蒼一郎とルームシェアしてたら、恋人も何もできないよー、あははー」と笑って流すが、家族は毎回だいぶ複雑な顔になる。隣で聞いている蒼一郎も複雑な表情になっている。
家族全員、蒼一郎には感謝&同情が強い。真澄が迷惑をかけている自覚は、家族の方が強いまである。
なお、喫茶店を開業したことは現時点で家族に未報告。真澄は「言うタイミングを失った」と言い訳している。