当店では美味しいお茶を必ずご堪能いただけます(他は微妙です) 作:ShilonkS
「いつもの」。
それは本来、喫茶店においては便利な短縮コマンドに過ぎない。
説明を省き、思考を省エネにして、店と客の両方が楽をするための、怠惰で優しい合言葉。
けれど、私にとっての「いつもの」は、もう少しだけ重い。
それは、今日を生き延びるための、契約の言葉だ。
契約は、双方が覚えていないと成立しない。
だから私は、今日も扉の前で息を整える。
その「いつもの」が、ちゃんと残っているか確かめるために。
定休日って、偉大だ。
何がすごいって、これがあるだけで店が「趣味」から「事業」に昇格した気がする。
店の前に置いた小さな黒板を眺めながら、僕、志摩 真澄はひとりで悦に入っていた。
『定休日:水曜日(仮)
臨時休業:前日までにお知らせ』
(仮)って書いておくのが、大人のリスクヘッジだ。
人生も予定も、ガチガチに固めると割れるからね。柳のように、しなやかに。
「それを世間では“適当”って言うんだよ」
って蒼一郎に刺されたのは昨日のこと。うるさい。僕は柔軟なんだ。
ちなみに今日は、その“仮”の初日だった。
いきなり休みにすると自分が不安になるから、まずは「水曜は短縮営業にして様子を見る」みたいな、超・日和った運用をしている。
うん、社会人のすることじゃない気がするけど、僕は喫茶店マスターなのでセーフ。たぶん。
最近、SNSの影響か見知らぬ客が少し増えた。
ありがたい。お金は好きだ。
でも知らない顔ばかりだと、接客スイッチを入れるのにちょっと疲れる。
僕、もともと人間の取り扱い説明書を読んでないタイプだから。
カウンターを拭いていると、
ちりん。
ドアの風鈴が鳴った。
この音、最近ちょっとだけ聞き分けられる気がする。
扉の開け方で、音が変わるんだ。雑に開ける人は音が跳ねる。遠慮がちな人は音が細い。
迷いなく、でも丁寧に開ける、繊細な音。
「いらっしゃいませー」
顔を上げると、予想通り。制服の女の子。
小松 奏音ちゃん。
最近よく来る、いや、もう「常連」って呼んでいい頻度の子。
奏音ちゃんは店内をさっと見回し、カウンターの端、あの席が空いているのを確認してから、ほんの数ミリだけ肩の位置を下げた。
分かりやすい。
あそこ空いてるかどうかで安心度が変わるんだ。
僕の胸の奥が勝手に、きゅっとなる。
やめてくれー。
僕はそういう「ここが私の居場所です」みたいな顔に弱い。弱いポイントが多いんだよ、僕。
いや違う。違う違う。あれだ。安定した収益源が来たからだ。そういうことにしておこう。
「こんにちは」
「こんにちはー。今日もカウンター?」
「……はい」
奏音ちゃんが席に座る。
椅子を引く幅、鞄を置く位置、背筋の角度。全部が、この店のルールに馴染んでいる。
初めてじゃない動き。
僕は、彼女の事情を知った。
味と香りが分からないってやつ。十歳の事故。七年の「無」。
聞いたけど。
僕はそれを「かわいそう」とか「大変だったね」とか、うまく言えない。
言ったら奏音ちゃんが「同情する大人」認定して、目に見えない壁を作りそうな気がした。
だから僕は、いつも通りにする。
いつも通りにサボって、いつも通りにチートを使って、いつも通りにお茶を出す。
それが僕の、たぶん唯一の誠意。
「おすすめ紅茶でいい?」
「……お願いします」
僕はポットを用意して、お湯を沸かして、手を当てる。
そして、念じる。
「美味しいお茶になーれ」
あとは、今日はちょっと寒いよね。
付け足し。
「芯から温まるやつになーれ」
それから、余計なお世話もほんのりと。
「……他の味も分かる感じになーれ」
はい完成。神様ありがと。僕は努力が嫌いです。
カップを置く。
「はい。おすすめ。今日は寒いから、ちょい熱め」
奏音ちゃんは目を丸くして、それから両手でカップを包んだ。
湯気を吸い込むみたいに一瞬だけ目を閉じる。
その顔が、祈りを捧げる人みたいで、僕はうっかり視線をそらした。
なんだろう、僕は “真面目に扱う” のが苦手だ。照れるから。
「……いただきます」
その言葉が胸にすとんと落ちる。
奏音ちゃんが一口飲んで、表情がほんの少しだけほどけた。
よし。今日も平和。
僕は心の中でガッツポーズをした。誰にも見られてないのでセーフ。
味がする。
香りがする。
たったそれだけで、私は今、人間としての輪郭を取り戻している。
それが分かるのが怖い。
怖いのに、この温かさに全身を委ねてしまうのがもっと怖い。
カップを口元から離して、息を吐く。
肺の奥に、香りの “情報” がたまる。胸の内側が満たされる。
――ここだけ。
ここだけが、私の世界で唯一、色彩を持っている場所。
「……美味しいです」
いつも同じ感想。
語彙がないんじゃない。
「美味しい」以外の言葉を使うと、この魔法が壊れてしまいそうで怖いのだ。
定義しないまま、抱きしめていたい。
真澄さんは、いつも通りに胸を張った。
「でしょ。うちの店、世界一だからね」
「自称」
「自称」
軽口。
この軽口が、私を救う。
重く扱われたら、私は押し潰される。
同情されたら、惨めになる。
でも真澄さんは、私をただの「紅茶好きな女子高生」として扱ってくれる。
その勘違いが、何より心地いい。
――勘違い、じゃない。
私は紅茶が好きだ。
今は。
今だけは。
ここだけは。
カップを置くと、真澄さんがカウンターを拭きながら言った。
「そういえばさ……これ、あげる」
「え?」
差し出されたのは、小さなクッキーが一枚。
……食べ物。
喉がきゅっと縮む。
反射で、逃げ道を探してしまう。断る理由。笑い方。小食の盾。
私が身構えるより早く、真澄さんが笑った。
「試作品。砂糖の量間違えて、めちゃ甘いんだけど。紅茶に合うかなって」
「……」
「無理ならいいよ。蒼一郎に食わせるから」
――蒼一郎。
その名前が落ちた瞬間、胸の奥に黒いものがじゅわっと滲んだ。
昨日聞いたばかりの、知らない他人の名前。
真澄さんの口から、自然に出てくる名前。
誰。
誰なんだ、その人。
質問が喉元まで上がって、飲み込む。
私は客。私は客。私は客。
言っていいのは、紅茶のことだけだ。
でも、黒い感情が止まらない。
そのクッキーが、蒼一郎の口に入る。
真澄さんの “試作品” を、当たり前みたいに受け取って食べる。
その光景を想像しただけで、胃の奥が冷える。
……嫌だ。
嫌なのはクッキーじゃない。
“当たり前” を奪われるのが嫌だ。
私は、震える指でクッキーをつまんだ。
紅茶がある今なら。
この“世界”の中なら、私も食べられるかもしれない。
口に入れる。
サクッとした食感。
その次に――
甘い。
砂糖の甘さが、舌の上にちゃんと立った。
紅茶の渋みと混ざって、輪郭のある味になって溶けた。
「……っ」
目頭が熱くなる。
お菓子が美味しいなんて、ただの当たり前。
なのに私にとっては、奇跡みたいで、胸がぎゅっとなる。
「……どう?」
「……甘い、です」
「だよねー! 失敗失敗」
真澄さんは笑った。
私は笑えなかった。
甘い。
美味しい。
怖い。
“ここなら食べられる”という事実が、嬉しいのに、首輪みたいに重い。
その時。
ちりん。
風鈴が鳴った。
入ってきたのは、スーツ姿の背の高い男性。
年齢は真澄さんと同じくらい。髪型も雰囲気も、きちんとしている。
ちゃんと社会で生きてる人の匂いがする。私には分からないはずなのに、そう感じる。
真澄さんの顔が、そちらに向く。
いつもの「いらっしゃいませ」より先に、声が飛んだ。
「よー真澄。生きてる?」
馴れ馴れしい声。
親しすぎる声。
「生きてるよー。蒼一郎も生きてる?」
……そういちろう。
こいつか。
胸の奥に、嫌な熱が生まれる。
嫉妬――そんな可愛い言葉じゃない。
これは敵意だ。
縄張りを踏まれた動物の、暗い噛みつき衝動。
「知らん。ゾンビかもしれん。とりあえずコーヒーくれ。濃いやつ」
「えー、ウチ喫茶店なんだけどー」
「喫茶店ってコーヒー置いてるもんだろ」
「ふっ、僕の店にはお茶しかない」
「サンドイッチ……まあいいや。抹茶くれ」
「はーい、適当に座ってて」
……何この会話。
雑なのに、呼吸みたいに自然。
言葉が乱暴でも、前提に信頼があるリズム。
真澄さんの表情が明るい。
声のトーンが違う。
私の前で見せる “軽さ” とは別種の軽さ。
もっと、近い。
胸の奥が、ちりちりする。
私はカップを持つ手に力が入った。
顔を勢いよく上げてしまう。
目が合った。
蒼一郎が、こちらを見た。
私は――睨んでしまった。止められなかった。
「うお……っ」
蒼一郎が、分かりやすく怯んだ。
「す、すみません……うるさかったですか」
謝ってくる。
違う。うるさいのは音じゃない。存在だ。
でも私は、口では何も言えない。
言えないから、能面のまま首を振るだけ。
真澄さんの声が、カウンターから飛ぶ。
「蒼一郎、女子高生に絡まない。通報されるよ」
「絡んだつもりないんだけど……いや、わりぃ。女子高生にガンつけられるの、結構メンタルに響く……」
「あー……」
真澄さんが、わざとらしく溜め息をつく。
それから、私に向けて、さらっと言った。
「奏音ちゃん、静かなのが好きなんだよ」
――胸が跳ねた。
静かなのが好き。
それを、覚えている。
私の“輪郭”の端っこを、ちゃんと見ている。
その一言で、さっきまでの黒い敵意が一瞬だけ霧散して、代わりに甘い熱が胸を満たす。
私は自分が単純すぎて怖い。
「……そうですね」
声が、かすかに柔らかくなってしまった。
やめて。嬉しさが漏れる。漏れたらバレる。
真澄さんは、蒼一郎に向けておどけた口調で言う。
「ほら蒼一郎、うちの常連様に不快な思いをさせちゃダメだよー」
「いや、開店前から毎日来てる俺の方が常連じゃね?」
毎日。
その単語が、私の内側をえぐった。
真澄さんは笑いながら、ポットに手を当てる。
香りが、抹茶の青さに変わる。
それを当たり前みたいに蒼一郎の席へ運ぶ。
蒼一郎は、ここに最初からいる。
私は、あとから来た。
その事実が、喉の奥に砂みたいに残る。
私はカップを両手で握りしめた。
静かなの、好きだ。
でもそれは、ここだからだ。
この喫茶店だからだ。
真澄さんが “いつもの” を出してくれるから、好きだ。
……好き?
――違う。これは恋じゃない。
恋なんて甘酸っぱいものじゃない。
これは生命維持装置への執着だ。
私は紅茶に依存している。
紅茶に。
紅茶に。
紅茶に。
紅茶だ。
そう言い聞かせないと、感情のダムが決壊しそうになる。
真澄さんが蒼一郎に抹茶を置いたタイミングで、蒼一郎が黒板をちらりと見た。
「……なあ真澄。定休日、水曜(仮)って書いてあるけど、今日水曜だぞ」
心臓が止まりかけた。
今日、水曜。
じゃあ、明日は?
明日が休みなら、私は――
「え、うん。だから “仮” だよ」
「仮って何だよ。定休に仮つけるやつ初めて見た」
「来週から本気出す」
「お前の本気、信用できねぇ」
軽口。
軽口なのに、私の胸の奥が冷える。
私は思わず口を開いた。
自分の声が出る前に止めたかったのに、出た。
「……真澄さん」
「んー?」
真澄さんが振り向く。
私はその目を見てしまって、逃げられなくなる。
「……明日も、やってますか」
聞き方が重い。
自分でも分かる。
でも確約がないと眠れない。
真澄さんは、蒼一郎の方を一瞬見て、それから、何でもないみたいに言った。
「やるよー。明日は木曜だし」
……やる。
その二文字だけで、肺に空気が戻る。
「定休日(水曜仮)は、来週から “それっぽく” 始めるつもり。今日はね、様子見で開けてる。僕、急に決めると自分が怖いから」
自分が怖い。
その言い方が、軽いのに妙に真実っぽくて、私は何も言えなくなる。
「……はい」
「奏音ちゃんも、また来る?」
その問いかけに一瞬詰まる。
「行く」と言えば、依存を認めることになる。
でも否定なんてできない。
「……行きます」
真澄さんは、さらっと笑った。
「りょーかい。じゃあ “いつもの” 用意して待ってる」
いつもの。
脳内で反響する。
私と真澄さんの間にも、確かにある。
蒼一郎と真澄さんみたいに太くはない。
でも、細い細い糸が、私の喉元に結びついている。
私は小さく頷いた。
嬉しくて、泣きたくて、怖かった。
横で蒼一郎が、ふっと息を吐いた。
「……真澄、客に “いつもの” って言えるようになったんだな」
「成長したでしょ」
「なお成長してるのはそこだけ」
「うるさいなぁ」
ふたりの会話に、私の知らない年季が滲む。
また、胸の奥がざわつく。
でも私は笑わない。表情も変えない。
ただ、紅茶をもう一口飲む。
……味がする。
今はそれだけでいい。
それだけで、戦える。
会計を済ませて席を立つ。
ちりん。
扉の音。
外に出た瞬間、魔法が解ける。
香りが消える。
口の中に残っていたクッキーの甘さが、じわっと薄れていく。
世界がまた彩度を失って、灰色に戻る。
分かっていたのに、胸が押し潰されそうだ。
私は一度だけ振り返った。
ガラス越しに見える暖色の灯り。
真澄さんがカウンターの中で、蒼一郎と話している。笑っている。
切り取られた楽園みたいだ。
――帰りたくない。
ずっとあそこにいたい。
住みたい。鍵をかけて閉じ込めてほしい。
そんな危険な思考を振り払うように、コートの襟を立てた。
明日も来る。
明日も “いつもの”。
その予定があるだけで、私は今日という無味乾燥な時間を耐えられる。
……耐えられてしまう。
それが、落ち着くのに、同時にぞっとする。
“明日も来る” が、当たり前になり始めている。
当たり前は、奪われた時に毒になる。
十歳の冬、私はそれを知った。
でも。
私はもう、その毒なしでは生きられない。
ポケットの中でスマホが震えた。
見なくても分かる。友達の「今度行こう」か、SNSの通知。
世界は、私の聖域を侵食しようとしている。
私はスマホを見ずに歩き出した。
味のない家へ。
でも明日、また “味のある世界” へ戻れる。
――その約束が、私の呼吸を繋ぐ。
真澄さん。
あなたは知らないでしょうね。
あなたがお気楽に口にする「いつもの」が、私にとってどれだけ重いか。
愛の言葉より、ずっと重い。
祈りより、ずっと現実的で。
契約書みたいに、冷たくて、救いになる。
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【トピックス】
・真澄の前職
介護老人保健施設の介護。
かなりの認知症を相手にする施設の介護だったため、メンタルががっつりと削られる環境だった。
暴力を受けるのは普通。
罵倒を受けるのは普通。
理不尽な利用者は普通。
排泄物が散乱するのも普通。
癖の強い家族からのクレームも普通。
普通として外で単身では生きられないから入所している高齢者の「普通」。
また、認知症による諸々もそうだが、半身麻痺、拘縮、褥瘡、経管栄養、難聴、失語、失明、感覚異常、そのほか盛沢山の症状を見てきた真澄にとって、嗅覚障害と味覚障害は、「ふーん」くらいの認識。割と本気で同情をしていない。感覚がバグってしまっている。