当店では美味しいお茶を必ずご堪能いただけます(他は微妙です) 作:ShilonkS
朝の喫茶店は、だいたい静かだ。
静かで、ひんやりしていて、世界のエアポケットみたいに音が少ない。
でも嫌いじゃない。
僕、志摩 真澄は、シャッターを半分だけ上げて店に入ると、まず換気をした。
冬の乾いた空気が、古い木の匂いと一緒にすっと入ってくる。
次に電気ケトルへ水道水を注ぐ。
水道水。僕の店の原材料。
原材料って言うと胡散臭い健康食品みたいだけど、実際のところ原価はほぼ水道代だ。
詐欺スレスレの錬金術。いや、詐欺ではない。神様の力だから合法。たぶん。
カウンターを拭く。
カップを並べる。
ポットを出す。
いつもの青いティーポット。
安物の量産品なのに、僕の手には高級磁器より馴染んでいる。
……これも「いつもの」。
最近、「いつもの」って言葉が妙に増えた気がする。
お客さんが増えたからかな。
それとも僕が歳を取ったからかな。いや、まだ二十五だし。四捨五入しても――いや、二十五って四捨五入したら。やめよう。考えると急に怖くなる。
でも、ルーティンが増えると人は精神的に老けるらしい、と蒼一郎が言っていた。
うるさい。人を老けたみたいに言うな。僕は渋みが出てきただけだ。お茶だけに。
僕は店内の席を見回した。
テーブル席。窓際。本棚の横。
そして、カウンターの端。
なんとなく、そこだけ拭く回数が増えている。
ピカピカにしなくてもいいのに、つい指がそっちへ向かう。無意識の引力みたいに。
意味はない。
意味はないんだけど。
あそこが汚れてると、なんとなく落ち着かない。
僕、別に潔癖症じゃないはずなんだけどなぁ。
「……ま、いっか」
独り言で誤魔化して、エプロンの紐を結び直す。
今日の黒板も店先に出した。
『定休日:水曜日(仮)
臨時休業:前日までにお知らせ』
(仮)、って付けるあたりが僕らしい。
らしいって何だ。僕は僕だよ。
でもこれを書いてから、胸の奥の変な焦燥感が少し減った気がする。
誰かが困るかもしれない、ってやつ。
僕はそういう他人の感情に気づかないふりをするのが得意だけど、一度気づいてしまったらもう、完全には無視できない。
善人ぶるつもりはないけど、寝覚めが悪いのは嫌だ。
ケトルが沸く。こぽこぽ音がして、湯気が立つ。
ポットにお湯を移して、ふわっと手を当てた。
「美味しいお茶になーれ」
いつも通り、香りが立つ。
紅茶の華やかさ。緑茶の清涼感。ほうじ茶の香ばしさ。
店内の空気が「仕事してます」って顔になる。
僕はその香りを深く吸い込んで、ふっと息を吐いた。
この匂いがないと、僕はたぶんただの社会不適合者になる。
いや今でも自営業という名の自由人だけど。
喫茶店のマスターは立派な職業だ。うん、職業。言い張る。
準備をしていると、ふと頭の中に浮かぶ。
今日は来るかな。
最近よく来る制服の女の子。奏音ちゃん。
毎日のように来る、常連ちゃん。
それだけの話。
それだけの話なのに、来ないと店内の空気が少し足りない気がするのはなんでだろう。
僕は自分に言い聞かせる。
常連ってそういうものだ。
常連が座ると店が “店” として完成する。
売上も安定する。
つまり、お金。
お金のため。そう。資本主義万歳。
僕はそうやって、胸の奥に灯った小さな熱を雑に箱へ放り込んだ。蓋も閉めた。はい終了。
時計を見る。開店まで、あと少し。
風鈴が揺れていないのに、耳の奥で鳴った気がした。
――ちりん。
来る。
そんな確信めいた予感だけが、店内に先に落ちた。
私には、世界は三つしかない。
家と、学校と――喫茶店『お茶神様』。
そして、三つ目の世界だけが、私に「味」と「生」をくれる。
だから、私は今日も歩く。
吸い寄せられるように、義務のように、あるいは祈るように。
歩いて、角を曲がって、看板を見て、黒板を確認して。
貼り紙がない。
鍵が閉まっていない。
それだけで、胸の奥が締め付けられるほど安堵する。
……情けない。
一日の幸福が、他人の気まぐれに委ねられているなんて。
でも情けなくていい。
プライドなんて、今の私には足枷でしかない。
扉の前で深呼吸をする。
外は無。匂いはしない。味もしない。
世界は薄いガラス一枚で隔てられているみたいに、手触りがない。
そのままドアノブに手をかけた。
ちりん。
風鈴の音が耳を撫でる。
けたたましい電子音的なものではない。無機質なドアベルの音でもない。
薄いガラスを指先で弾いたような、心地の良い繊細な音。
そして次の瞬間、香りが来た。
紅茶の香り。
ダージリン、ウバ、アッサム、セイロン、ニルギリ。知識としての名前はあるけれど、今の私には「色彩」として感じられる。
そこに緑茶やほうじ茶や抹茶まで溶けていて、混沌としているのに不思議と調和している。
お祭り騒ぎみたいな香り。
死んでいた嗅覚が叩き起こされる感覚に、胸がきゅっとなる。
嬉しくて、怖くて、泣きたくなる。
……落ち着く。
落ち着く、なんて言葉で誤魔化しているけれど、本当はもっと違う。
ここに入ると私は呼吸ができる。
ここに入ると私は人間でいられる。
味がない世界で、ずっと嘘をついて、笑って、頷いて、耐えてきた私が。
ここでは、嘘をつかなくてもいい。
……嘘をつかなくてもいいのに、私はまだ嘘をつく。
依存していませんって顔で、涼しい顔で、いつもの席へ向かうために。
カウンター席が空いている。
端の席。
真澄さんから少しだけ距離があって、でも決して遠すぎない特等席。
――誰にも取られたくない席。
そう思った瞬間、自分の独占欲の強さにぞっとして、視線を逸らした。
最低だ。
でも最低でもいい。
私は生きたい。
そのために必要なのがこの席と、この香りと、この一杯なら――私はもう、手段を選ばない。
ちりん、と扉が閉まる音が店内に溶ける。
席に座る前に、のんびりした声が降ってきた。
「あ、いらっしゃい、奏音ちゃん」
その声を耳にしただけで、冷え切っていた胸の奥に、小さな灯がともる。
私は顔を上げる。
カウンターの向こうにいるのは真澄さん。
眠そうな目で、穏やかに笑っている。
何も知らない顔で。
私の内側で何が起きているかなんて、たぶん半分も分かっていない顔で。
それが、救いで。
それが、残酷で。
それでも私は、ここに来る。
「こんにちは。カウンター、空いてますか?」
「空いてるよ。ちなみにテーブル席も空いてるけど……」
「はい。ではカウンターで」
「ですよねー」
やりとりがいつもと同じで。
いつもがあることが怖いのに、嬉しい。
背後でドアが閉まり、ちりん、と余韻を残して音が消える。
私は迷わずいつもの席へ向かう。
ここが、私の指定席だ。誰にも譲りたくない、私だけの特等席。
私は腰を下ろして、両手を膝の上で握った。
香りを逃がさないように、肺いっぱいに吸い込む。
それだけで、涙腺が緩みそうになる。
泣かない。
泣いたら、また「特別な客」になってしまう。
私は特別になりたくない。日常の一部になりたい。
ただ――この一杯が欲しいだけ。
真澄さんが、いつもの青いティーポットを手に取った。
どこにでもある安物のはずなのに、私には王冠の宝石みたいに見える。
「今日も紅茶かな?」
「抹茶くださいって言ったらどうします?」
「奏音ちゃんって、そこはかとなくサドっ気があるよね」
「信頼の証拠です」
「最近の女子高生って怖いなぁ。ちなみに、今日の抹茶は『さみどり』風味だよ」
どうでもいい冗談。
どうでもいいはずの会話。
でも私は、この “どうでもよさ” に救われている。
同情じゃなく、特別扱いじゃなく、ただの会話。
それが、私の肩から鎧を一枚ずつ外していく。
私は、答える。
いつもの合図を、口にしてしまう。
「宇治抹茶じゃないですか。いつものでお願いします」
言ってしまった瞬間、胸の奥がきゅっと締まった。
いつもの。
それはもうただの注文じゃない。
私が今日を生きるための、生存確認の言葉だ。
真澄さんは何も知らないまま、いつも通りに笑う。
「うーん、お茶だけに茶番だな、っと」
「おやじギャグ……」
あきれたように呟く私をよそに、真澄さんは暖かな笑顔のまま、手にしたティーポットを軽く揺らしている。
私は頬杖をつき、その手元をじっと見つめる。
ティーポットは陶磁器。澄んだ海を思わせる鮮やかな青。
率直に言えば、どこにでも売っている安物のティーポット。
けれど、真澄さんの指先が触れると、それは魔法のランプのように見えてくる。
私は真澄さんを見ながら、他愛ない会話を続けた。
真澄さんとは、だいぶ気を楽に喋れるようになった。
仮面を被らなくても、喋れる。
喋って、溺れそうな感じもしない。
楽に、呼吸ができる。
「はい、お嬢様、本日の紅茶でございます」
私の前に、すっと紅茶が差し出された。
芝居がかった台詞の後に、へたくそなウインクのおまけ付き。
ときめいてしまう自分が悔しい。
違う。私が欲しているのはこの人じゃない。この目の前の液体だ。
私は人の心を惑わせる悪人から目を逸らすように、紅茶へと視線を落とす。
香りが、完成している。
ストレートなのに、ほのかに甘い。
リンゴか、バラか、蜂蜜か。その奥には柑橘系のような爽やかさが顔を覗かせている。
キーマンとベルガモット。本来ならば喧嘩して歪な香りになるはずなのに、奇跡的にも互いを邪魔せず、むしろ長所を引き出し合うかのように圧倒的な香りを成立させている。
紅茶の香りなんてものは、水と温度、時間、そして受け取り手の体調によっていくらでも変化するひどく曖昧なものだ。
それなのに、真澄さんが淹れるお茶は、常に究極の状態で提供される。
この人は、神様なんだろうか。
そんな冗談みたいなことを真剣に考えてしまうくらいに。
その究極を注がれたティーカップを、震えそうになる指で静かに持つ。
「いただきます」
自然とそんな言葉が口からこぼれた。
どうぞ、と真澄さんがほほ笑む。
私は、ゆっくりと紅茶を一口含んだ。
泣きたくなるほどの『美味しさ』が、空白だった私の中を暴力的なまでに埋め尽くした。
美味しい。
おいしい。
ああ、死に絶えていた味覚の神経が、強引に、けれど優しく接続される。
元気いっぱいな甘みと爽やかさ。それをそっと支える心地の良い苦みと渋み。
口から喉へ、鼻腔へと突き抜ける極上のアロマ。
ミルクもレモンも要らない。完全なる調和がとれた、圧倒的な一杯の紅茶。
味わう。
喉に流して、飲む。
味がゆっくりと引いていく。
私の貧相な、死に絶えた味覚では、この奇跡を言葉で表現することなど一生できない。
「……美味しい」
ついつい私の感想が、貧しい語彙のまま流れ出してしまった。
香りも。味も。なにもかも。
いつもと変わらず、私を絶望から救い上げてくれたあの日の紅茶、そのままだ。
シンプルに。
ただただシンプルに。
極められた、一杯の紅茶。
「どういたしまして」
私の感想を拾い上げてしまった真澄さんが、優しい声色でお礼を口にした。
ぱっと私は顔を上げる。
にこっと真澄さんがほほ笑んでくれたのを見て、私は頬が熱くなるのを感じてしまう。
ずるい。
独り言を聞かれた。恥ずかしい。というか、真澄さんも聞くんじゃないし、聞いたとしても知らないふりをするのが大人のマナーじゃないのか。本当に真澄さんは、デリカシーがない。もう。
顔と、そして胸が火照るのを自覚しながら、むぅ、と拗ねたような表情を作る。
「……相変わらず美味しくて、ちょっとムカつきます」
「落ち着いた広く寛大な心で味わっておくれ。ここのお茶は世界一美味しいんだから、カリカリしながら飲むのはもったいないでしょ?」
「大した自信です」
私の棘のある言葉に、真澄さんはふふんと鼻を鳴らしながら胸を張る。子供っぽい。
「自信も何も、真実だからね。なんせ神様のお茶だよ? 全部美味しい、世界で一番ね」
恥ずかしげもなく言い放つ、自称・神。
中二病の戯言だろうか。だけれど、これほどまでの紅茶を鼻歌交じりに淹れられるのならば、真澄さんは確かにお茶の神様なのかもしれない。
私はそっとティーカップに口をつける。
優しくて、美味しくて、切なくなるほど幸せな味が広がる。
ほぅ、と一息。
カリカリするなと言われたけれど、これを飲んで落ち着かないわけがない。
心は感動で沸き立っているのに、凪いだ湖面のように静かだ。不思議な気分。
ティーポットを片付けてから、ケトルに水道水を入れて火にかけている真澄さんの背中を、ぼんやりと眺める。
木目調のレトロな店内。
音楽すらない、静寂。
ひしめき合ってる香りたち。
私を甘やかしてくれる、ゆったりとした時間。
私の、好きな場所。
この喫茶店に来ると、いつも色んな感情が湧いてくる。
そしてその感情たちがぶつかり合って、混ざりあって、最後はゆっくりと沈殿して落ち着く。
静かに天井を見上げる。
ゆっくりと回っているシーリングファンが、この喫茶店に素敵な香りを広げてくれている。
静かな空間。音楽のない時間。木目の温度。ひしめく香り。
落ち着く。
嬉しい。
私の中にある、ずっと目を背け続けてきた黒く汚い感情が、紅茶の湯気と共に穏やかに溶けていくのを感じる。
再び吐息を、ゆっくり、長く。
「世界唯一に、美味しいですよ」
今度はちゃんと、自分の意志ではっきりと伝えた。
お湯を沸かしているケトルを見つめたまま、相変わらず真澄さんは穏やかに笑っていた。
「美味しいよねぇ、お茶」
どこか他人事のように、ゆったりとしたマイペースで、真澄さんは笑顔で返してくれる。
そういうことじゃ、ないんだけどなぁ。
そんなことを頭の片隅で考えつつ、私は再び紅茶を口に運ぶのだった。
香りを吸う。
味を確かめる。
それを、逃がさないように胸の奥に深くしまい込む。
私が依存しているのは、あくまでこの人が淹れる「お茶」だ。真澄さん自身ではない。
いい香りですよ。
美味しいですよ。
それが私にとって、どれだけの救い――いや、狂おしいほどの執着になっているのか。
こののんきな神様は、きっと一生、気づかないんでしょうね。
ちりん。
この音が鳴る限り、私はまだ壊れない。
私は笑って、紅茶をもう一口飲む。
味がする。香りがする。
世界が、ここだけは、ちゃんと厚みを持つ。
たぶん私は、もう戻れない。
でも戻りたくない。
風鈴が鳴る。
それは今日も、私の呼吸の合図だった。
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ここまでお読みいただきありがとうございました。
神様チートさんと、味覚と嗅覚が消えてるちゃんの物語のはずでしたが、最終的には、怖がりさんと怖がりちゃんの物語でした。
この物語の舞台は、私のもう1つの小説と繋がっています。
よろしければ、そちらもお読みいただければ幸いです。
【トピックス】
・志摩 真澄(しま ますみ)
あまり深いことを考えない、ほんわかのんびりとした25歳。
自己肯定感が低い。心の底では他人を信用していない。将来は暗いものだと考えている。
中性的な顔立ち、ユニセックスな服装、やや子供っぽい少年のようなしゃべり方。
一人称は「僕」。
女。
別に男装してないし、外見は普通に女性。
ユニセックスな服装なのは楽だから。
奏音のドロドロした想いを察せないのは、そもそも真澄自身はノーマルの異性愛者で、奏音が同性愛者であるとは全く想像していなかったから。
・小松 奏音(こまつ かのん)
真澄に対しての感情から目を逸らしているのは、同性愛というのを遠いものだと思って自分事として想定できていないから。
なお、自分を救ってくれるのならば、男だろうが女だろうが関係はない。
ちなみに、蒼一郎の名前に強く反応したのは、その名前が明らかに男性名だったから。
・榊原 蒼一郎(さかきばら そういちろう)
自分の前ではガードがゆるゆるな好きな女とルームシェアをして、一切手を出していないという鋼のようなメンタルをした男。
童貞。