当店では美味しいお茶を必ずご堪能いただけます(他は微妙です)   作:ShilonkS

3 / 15
第2話 喫茶『お茶神様』

 元旦早々、僕は辞表を元職場に叩きつけた。

 いや、ごめん、叩きつけたは盛った。

 実際は、書類を提出して、上司に止められて、止められて、止められて、「すみません無理です」って笑って逃げた。

 引継ぎ?

 うん、できる範囲ではした。

 できる範囲っていうのは、僕のメンタルが崩れない範囲、ってことだ。

 今になって思い返すと、流石にくっそ迷惑かけたよなぁ、って思わなくもない。

 でも、僕の人生にくっそ迷惑かけてくれたダークネス職場だ。

 お互い様だよね。

 お互い様って便利な言葉だね。こういう時に使うと罪悪感がちょっと薄まる。

 

 そんな感じで僕は、逃げた勢いのまま、一ヶ月を走った。

 

 走った、というか、走らされた、というか。

 蒼一郎に。

 

「店やるなら準備が必要だろ。ほら次、保健所。ほら次、税務署。ほら次、講習。ほら次、金」

 

 ほら次、金。

 そこだけ妙に響きがいい。泣いちゃうぞ。

 

 食品衛生責任者だかなんだかは、講習を受けたら取れた。

 国家資格って聞いて身構えたけど、講師のおじさんが話してるうちに僕の魂がどこかへ遊びに行ってしまい、気づいたら修了証をもらっていた。

 僕の魂、自由すぎる。

 

 喫茶店営業許可は保健所で取った。

 ちんぷんかんぷんで独り保健所で首を傾げていたら、妙齢のお姉さんがめちゃくちゃ丁寧に色々教えてくれて、飲食店営業許可じゃなくても大丈夫、となった。ありがとう、結婚して。

 

 税務署に出した開業届は、蒼一郎に言われるがまま書いた。

 青色申告? 白色? 個人事業主? よく分からない。

 でも「分からないまま提出するのが一番やばい」って蒼一郎が言ってたので、たぶん僕は今、やばい手前で踏ん張れている。

 

 お店は、廃業した古い喫茶店を買い取った。

 内装はレトロで、木目がいい感じで、無駄に落ち着く。

 そして初期費用は安く済んだ。

 その代わり、僕の貯金は消し飛んだ。

 お金を使う趣味も暇もなかったから、そこそこ貯まってたはずなのに。

 気づいたら素寒貧。なんなら借金がちょっとできた。がはは。

 悲しい。

 こういう時、普通の人は「やりがい」とか「夢」とかで心を保つんだろうけど、僕にはそういうのがない。

 だから僕は、素直に思った。

 

 稼がないと死んじゃうね。

 

 いや、正確には死なないけど。蒼一郎に寄生してやりますけど。

 一回死んだ身としては、死ぬって案外気楽だった。

 むしろ生きてる方が厄介だ。

 だから、稼がないと。

 そんなこんなで、2月1日。

 

 喫茶『お茶神様』、オープンでーす。

 

 なお、店名は蒼一郎が勝手に決めた。

 僕の喫茶店だよねぇ!?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして喫茶店オープンから、早くも三週間。

 僕の人生は、介護職から喫茶店マスターへ、華麗なる転身を果たしていた。無計画とかいうなや。

 ついでに神様から貰った意味不明なチート能力でお茶を量産し、ひっそりこっそりと近所の口コミだけで生き延びている。

 生き延びている、という表現がすでに世紀末感漂うけれど、僕は別にゾンビじゃない。まだ人間だ。たぶん。

 

「真澄。お前さ、もうちょい食い物なんとかしろよ」

 

 開店前、カウンターの上の皿を見下ろしながら、親友の蒼一郎が渋い顔で言った。

 皿の上には、僕の店唯一の軽食メニュー、サンドイッチが鎮座している。

 薄切り食パンに、薄いハムと、薄いチーズと、薄いレタスを挟んだ、驚くほど存在感の薄いサンドイッチ。

 いや、薄いって言い過ぎだな。具は入ってるし。

 ちゃんと。

 薄く。

 うん。

 

「僕のサンドイッチ、そんなに薄い?」

 

「味が」

 

「味が薄いの!?」

 

「不味くはない……不味くはないんだけど……」

 

「その言い方、飲食店経営者の心に一番効くやつ!?」

 

 蒼一郎はスーツ姿で、出勤前に毎朝僕の店へ寄ってくれる。ありがたい。

 ついでに容赦ないツッコミも置いていく。もっとありがたい(白目)。

 弁護士事務所の事務だって大変だって言ってるのに、毎日律儀な男だよ。くっそ、拒否できない。

 

「お前、お茶だけは神だもんな」

 

「もっと褒めてくれてもいいんだよ」

 

「だから余計にサンドが際立って人間なんだよ」

 

「つまり神と人間のコラボレーションだね。奇跡かな?」

 

「そういうポジティブ変換やめろ。こっちが悲しくなる」

 

 悲しくなるのは僕だよ。

 僕は真面目に悩んでいた。いや、悩んでいる風を装っていた。だって現実を見たくないもん。

 お茶は売れるんだよ。

 お茶は、僕が水道水に手を当てて「美味しいお茶になーれ」って念じるだけでできる。

 あとは注ぐだけ。

 香りも味も、文字通り神がかってる。

 なにせ神様の力だもんね。

 だけど軽食は、僕が作る。僕の腕が出る。

 僕の腕は、サンドイッチの薄さへ直に反映される。

 

「まぁさ。喫茶店って、軽食なんて適当でも、お茶が美味けりゃ客は来るっしょ」

 

 僕が開き直ると、蒼一郎は即座に首を横に振った。

 

「来る。けど、長続きさせたいなら食い物も整えろ。客がここで腹も満たしたいって思ったら、勝ちだ」

 

「お腹満たしたいなら、コンビニで買えばいいのに……」

 

「そういう発想が客を逃がすんだよ」

 

「うぅ……」

 

 僕は呻きながら、サンドイッチをじっと見た。

 薄いハムが、脂身のつぶらな瞳でこっちを見返してくる。

 文句あるのかい。

 僕だって薄いハムになりたい時はあるよ。人生に厚みが欲しい。

 

「いっそパン屋で買ってきて出せば?」

 

「それ、僕の手作りの価値が……」

 

「あると思ってんのかよ」

 

「蒼一郎、今日当たり強くない?」

 

「真澄が客に泣かれてからじゃ遅いからな」

 

「縁起でもないこと言わないでよね!?」

 

 蒼一郎は時計を見て、肩をすくめた。

 

「じゃ、俺行くわ。あと金のことばっか考えてると罰当たるぞ。神様っぽいのに」

 

「神様っぽいのはお茶だけで、中身はただの強欲な人間ですぅ」

 

「知ってるよ。だから言ってんだよ」

 

 蒼一郎は手を振って店を出て行った。

 ドアが閉まると、ちりん、と涼しげな音が鳴る。

 僕がこだわって10分くらいで選んだ風鈴。ドアベルじゃない。ガラスを弾いたような、心地いい音色。

 この音だけは、僕の店の “神っぽさ” の演出として及第点だと思う。

 僕は深呼吸をして、エプロンの紐をぎゅっと結び直した。

 

「よし。今日もお金を稼ぐぞ」

 

 小声で言って、自分で自分がちょっと怖くなった。

 僕、ほんとにお金が好きだな。

 だけど、お金が好きって言えるうちは、まだ元気なんだと思う。

 元気がなくなると、何も欲しくなくなる。

 僕は、そういう自分を知っている。

 だから、欲しい。

 お金。明日。続き。

 僕はシャッターを開けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 店を開けて、昼過ぎ。

 最初の客は、いつもの常連さんだった。

 新聞を読むおっちゃん。いや、僕にとっておっちゃん、という存在は特別な意味がある。新聞を読む紳士、と呼ぼう。

 紳士はいつも同じ席に座って、同じように紅茶を頼む。

 

「今日もいつもの?」

 

「うむ。君の店の紅茶は、妙に心が落ち着く」

 

「だよねぇ。お茶だしね」

 

「茶だけに、というやつか」

 

「お、分かる人だ」

 

 僕はニコニコしながら、ティーポットに熱湯を入れた。

 ここが僕の店のズル。

 茶葉なんて使わない。水を沸かして、ポットに移して、手を当てて念じるだけ。

 

「美味しい紅茶になーれ」

 

 ふわ、と香りが立ち上る。

 この瞬間、毎回ちょっとだけ背中がぞわっとする。

 自分のやってることが普通じゃない、ってさすがの僕でも分かるから。

 

 でも深く考えない。

 考えたって答えが出ないことは考えない主義だ。考えたら負けなのである。たぶん。

 それに、考えたら、たぶん怖くなる。

 怖くなったら、僕はまた逃げる。

 逃げ続けてきた自分を、僕が一番信用していない。

 だから、考えない。

 紅茶を注ぐと、紳士は目を細めて香りを吸い込んだ。

 

「……やはり、良い香りだ」

 

「どういたしまして」

 

 それを聞くと、僕はちょっとだけ嬉しくなる。

 お金が好きだけど、褒められるのも好きだ。

 褒められると、僕の中のどこかが、生きてていい、って許された気がする。

 客が来て、去って、店は静かに回る。

 

 お茶だけで回る店。

 

 蒼一郎は「長続きさせたいなら食い物も整えろ」って言ってたけど、現実は現実で、来るんだよね、客。

 近所の人が「なんか変な店がある、でもお茶が異様に美味い」って噂して、また別の人が来る。

 ひっそり人気。

 僕の人生には不似合いな言葉だ。

 

 そして、その日の午後。

 

 ちりん、とあの音が鳴った。

 

 

 

 ドアが開いて、入ってきたのは、女子高生の集団だった。

 

 

 

 四人。

 制服。

 明るい声。

 きゃいきゃい。

 

 ……え、僕の店って女子高生来るような店だっけ?

 

 店内の空気が一気に青春色に染まる。

 眩しい。太陽が増えた。

 僕、今まで月光みたいな静かな客層で生きてきたのに。目が潰れる。ぎゃぁ。

 

「わー! ここだここだ! 雰囲気よくない?」

 

「ほんとだ、レトロっぽい〜」

 

「席空いてる! 座ろ座ろ!」

 

 彼女たちはテーブル席に座った。

 僕はカウンターの内側で、微笑ましいものを眺める置物と化した。

 いいね、若いって。

 僕も25歳だけど。まだ若いけど。

 ……まだ若いって言い訳してる時点で、心が加齢現象起こし始めてるんじゃないか、という疑念は捨て置く。えい産業廃棄物だ。

 

「いらっしゃいませー。注文どうぞ」

 

 声をかけると、彼女たちはメニューを覗き込む。

 メニューはシンプルだ。

 お茶。お茶。お茶。

 そしてサンドイッチ(薄)。

 

「え、紅茶めっちゃ種類あるじゃん」

 

「抹茶もある……チャイもある。ウーロン茶って種類あるんだ」

 

「何この店、何屋さん?」

 

「お茶屋さんだよ」

 

 僕が言うと、彼女たちは笑った。

 そう。ここはお茶屋さん。神様じゃない。たぶん。

 

「おすすめってどれですか?」

 

 質問が来た。

 ふははは、愚問だな小娘。

 とか言うと通報されそうなので、営業用スマイルで胸を張る。

 

「全部おすすめだよ。なんせ神様のお茶だからね」

 

「うわ〜」

 

「何それ」

 

「自称?」

 

 うんうん、いい反応。

 神様って言っとくと、だいたい笑ってくれる。

 そして笑ったあと、飲んでびっくりする。

 僕はその “狐につままれた顔” を見るのが好きだ。

 お金が好きって言ったけど、こういう瞬間の方が、実は好きかもしれない。

 

「じゃあ私はおすすめ紅茶で」

 

「私も!」

 

「私、ほうじ茶!」

 

「……えっと」

 

 最後の一人だけ、少し遅れた。

 黒髪。大きな目。

 でも表情が硬い。笑っていない。メニューを見たまま固まっている。

 同じ制服なのに、纏っている空気が少し違う。

 みんなが「わー」って浮かれている中で、その子だけ、息を止めて水底に沈んでいるみたいだった。

 

「……どうしたの?」

 

 隣の子が心配そうに覗き込む。

 

「奏音(かのん)、決まった?」

 

 名前が出た。

 奏音。

 奏音ちゃんは少し遅れて顔を上げて、店内に漂う香りを、まるで初めて知ったものみたいに、恐る恐る吸い込むような仕草をした。

 

 その瞬間、僕の背中に、ぞわっとしたものが走った。

 

 ただの女子高生が匂いを嗅いだだけ。

 それだけのはずなのに、変に胸が騒ぐ。

 なんでだろう。

 

「……紅茶で」

 

 奏音ちゃんが言った。

 声が、ほんの少し震えていた、ような気がする。

 

「かしこまりましたー。おすすめ紅茶三つ、ほうじ茶一つね」

 

 僕は復唱して、内心でガッツポーズした。

 女子高生に受け入れられた。これは拡散のチャンス。未来のお金。

 未来のお金って、なんて甘美な響き。

 と思ったのに、奏音ちゃんの硬い顔が、頭の片隅に残った。

 気になる。

 でも、気になるだけ。

 僕は基本、人に踏み込まない。

 踏み込むと、踏み込まれそうで怖いから。

 だから、常連客の様子が気になる、くらいが僕の限界だ。

 ましてや一見客ともなれば、ね。

 僕はティーカップを四つ用意した。

 水を沸かして、ポットに移して、手を当てる。

 

「美味しいお茶になーれ」

 

 少しだけサービスしようと思った。

 美味しいだけじゃなくて。

 

「香りがいいお茶になーれ」

 

 女子高生は香りで喜ぶ。蒼一郎の受け売りだ。

 ポットから湯気が立ち上り、華やかな香りがふわっと店内に広がる。

 奏音ちゃんが、びくっと肩を揺らした。

 え?

 香り、強すぎた?

 やりすぎた?

 僕、加減ってものを知らないんだよね。だったら店やるなって話なんだけど。

 でももう淹れちゃった。

 僕はトレイにカップを乗せ、テーブルへ運んだ。

 

「お待たせしました。おすすめ紅茶です」

 

「わー、いい匂い!」

 

「色きれい!」

 

「ありがとございまーす!」

 

 いつもの反応。よし。

 僕はほっとして、ほうじ茶も置く。

 

「ほうじ茶もどうぞ」

 

「うわ、香ばしっ」

 

 みんなが笑って、カップを手に取る。

 空気が和む。

 そして、奏音ちゃんも、ゆっくりとカップを持った。

 

 持ったけど。

 

 そのまま、止まった。

 

 口をつける寸前で、彫像みたいに固まった。

 まるで、そこに猛毒が入っているみたいに。

 いや入ってないよ!? 神様だけど毒は入れないよ!? ポイズンクッキングはサンドイッチだけで十分だよ!? あれも毒じゃないよ!?

 

「奏音? どうしたの、飲まないの?」

 

「……」

 

 奏音ちゃんの目が揺れている。

 怖い?

 何が?

 僕? 僕の顔?

 え、いやそれは傷つくよ?

 少ししてから、奏音ちゃんは、覚悟を決めたみたいに、ゆっくりと紅茶を口に含んだ。

 一口。

 たった一口。

 

 

 

 その瞬間、奏音ちゃんの顔が、ぐしゃっと崩れた。

 

 

 

 比喩じゃない。

 本当に、雪崩みたいに崩れた。

 眉が上がって、目が見開かれて、唇が震えて。

 

「……っ、ひ、っ……」

 

 鋭く息を吸う音がして、

 

 

 

「う、うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」

 

 

 

 泣いた。

 大声で。

 店の静けさを真っ二つに割るみたいに。

 え? ええ?

 僕、今、女子高生を泣かせた?

 僕、やった? やらかした?

 オープン二か月足らずで人生終了するやつ?

 

「えっ!? 奏音!? どうしたの!?」

 

「大丈夫!? やばい!? 救急車!?」

 

「え、え、あの、店員さん!?」

 

 女子高生たちが立ち上がる。

 店内の客の視線が一点に刺さる。

 新聞の紳士が新聞を下ろす。

 ざわ、と空気が震える。

 僕の心臓も早鐘を打った。

 やばい。やばいって。

 僕、何した?

 何したって言っても、紅茶出しただけなんだけど。

 紅茶って泣けるの?

 全米が泣いた的な?

 泣ける紅茶、初めて聞いたよ。

 

「ご、ごめん! ごめんね!? 熱かった!? 猫舌!? いや猫舌でも号泣は……!」

 

「違う、違うって! 奏音、落ち着いて!」

 

「奏音、息して! 息して!」

 

 奏音ちゃんは泣きながら首を振っていた。

 違うって言ってるの?

 でも泣いてる。

 そして何より。

 

 奏音ちゃんは、紅茶のカップを両手で抱えたまま、離さない。

 

 離さない。

 絶対に離さないって意志が、指先に乗ってる。

 え、怖い。

 僕の紅茶、依存性あるの?

 いや、そんなはずない。

 だってただのお茶だし。

 

 ……神様のだけどさ。

 

 僕はカウンターの内側から飛び出して、テーブルへ駆け寄った。

 紙ナプキンを掴んで差し出す。

 

「これ! これ使って! あ、ティッシュの方がいい!? ティッシュある! あと水――水いる!?」

 

 僕は慌てて立ち上がり、カウンターへ戻ろうとした。

 水。

 水を飲めば落ち着く。願望込み。

 その時、僕の手が条件反射みたいに、ピッチャーの水に伸びた。

 

「落ち着くや――」

 

 言いかけて、止まる。

 僕、今、無意識に水を“お茶”にしようとした。

 落ち着くやつ = 落ち着くお茶。

 

 やばい。

 

 もしここで香りを足したら。

 もしここで「心が落ち着く」を足したら。

 

 奏音ちゃんは、もっと泣くかもしれない。

 

 泣く理由は分からないのに。

 分からないのに、なんか、ダメな気がする。

 僕の中の、ちっちゃい理性が警報を鳴らした。

 

 ――これ以上は、触っちゃいけない。

 

 僕は手を引っ込めた。

 普通の水をコップに注ぎ、テーブルへ戻った。

 

「はい、水。飲める?」

 

 奏音ちゃんは涙でぐちゃぐちゃのまま、でも水には見向きもしなかった。

 代わりに、紅茶をもう一度口に運んだ。

 

 また一口飲んで。

 

 また泣いた。

 

 泣きながら飲んだ。

 泣きながら、慈しむみたいに味わっている。

 え、なにこれ。

 僕は今まで、誰かにこんな顔をさせたことがない。

 介護の現場で泣かれることはあった。怒鳴られることもあった。認知症ってやつさ。

 でも、これは違う。

 彼女は「助けて」って泣いてない。

 「痛い」って泣いてない。

 なのに、涙が止まらない。ネガティブな涙じゃない。

 

「マスターさん、すみません、あの、奏音が……」

 

 友達の一人が僕に謝ってきた。

 違う違う、謝るのは僕だよ!?

 僕が泣かせた側(たぶん)だよ!?

 

「いやいや僕が……僕が悪いんだよね? ごめんね? えっと、砂糖いる? ミルク? レモン? いや紅茶にレモンって合うのかな、僕よく分かんないけど……!」

 

 僕がパニックでまくし立てると、友達たちがさらに混乱した顔をした。

 

「え、砂糖とかじゃなくて……」

 

「奏音、ほんとにどうしたの?」

 

 奏音ちゃんは泣きながら首を振った。

 そして、震える声で。

 

「……ごめ、なさい……」

 

 謝った。

 泣いてる本人が。

 僕の店で。僕の紅茶で。

 もう、意味が分からない。

 僕はその場で固まって、目の前がちょっと暗くなった。

 あ、これ。

 これ僕の人生、終わるやつ?

 『お茶神様』、炎上。

 『JK泣かせ屋』に改名。

 未来のお金が羽を生やして飛んでいく。

 僕の頭の中で、日本紙幣が走馬灯みたいに消えていく。

 その時、奏音ちゃんが、紅茶のカップを両手で抱えたまま、泣き声の合間に、小さく呟いた。

 

「…………美味しい」

 

 ほえ?

 美味しい?

 泣いてるのに?

 美味しいって?

 その一言で、僕はさらに混乱した。

 泣いてる理由は分からない。

 でも泣きながら飲むくらい美味しいのなら。

 僕は、どうしたらいいんだろう。

 お茶屋としては、喜んでいいのか。

 人としては、心配するべきなのか。

 そして、僕としては。

 また誰かを傷つけたのか、って怖くなる。

 僕は、昔からそうだ。

 誰かが泣くと、自分のせいだと思う。

 実際、自分のせいじゃないことも多いのに。

 でも、自分のせいじゃない、って言い切るほど、僕は自分を信用していない。

 僕は情けなくオロオロしながら、もう一枚ナプキンを差し出した。

 

「と、とりあえず……拭こ?」

 

 奏音ちゃんは受け取って、泣きながら頷いた。

 でも紅茶のカップは離さない。

 友達たちは「大丈夫?」を繰り返す。

 客たちはざわざわと見守る。

 僕の店は、完全に“注目の的”になってしまった。

 ひっそり人気、がよかったのに。

 その時、新聞の紳士が静かに口を開いた。

 

「マスター。落ち着きたまえ。君が一番泣きそうな顔をしている」

 

「え、僕?」

 

 僕は自分の頬に触れた。

 震えていた。

 あ、僕、ほんとに泣きそうだったんだ。

 泣く資格なんてないのに。

 泣いたら余計に場が崩れるのに。

 

 僕は息を吸った。

 

 落ち着け。落ち着け僕。

 落ち着け落ち着け――

 

 ちりん、とまたドアの音が鳴った。

 

 新しい客が入ってきた。

 入ってきた瞬間、店内のカオスを見て固まる。

 僕も固まる。

 奏音ちゃんも泣きながら固まる。

 店内の空気が、さらにピンと張った。

 僕は悟った。

 

 今日、絶対に長い。

 

 そしてたぶん、僕の人生で一番、意味が分からない日になる。

 だって僕、紅茶出しただけなのに。

 女子高生が、泣いてるんだもん。

 

 

 

 ……なんでぇ?

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――

 

【トピックス】

・神様から貰ったチート能力について

 液体を好きなお茶に変えられる能力。

 正確には、『任意の液体』を『任意の茶』に変換できる能力。

 なお、神様とやらと同等かそれ以上の神秘で防がない限り、『任意』というのは真澄の『認識』に依存する。

 仮にどこかの筋肉ヤクザ少年がこのチート能力を授かったら、初日で地球の生態系を破壊する方法を思いついたであろう。

 体液などちまちました液体ではなく、海全部、とか。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。