当店では美味しいお茶を必ずご堪能いただけます(他は微妙です)   作:ShilonkS

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第3話 味と香りが戻った日

 人は世界を、五つの感覚で拾っている。

 触れる。見る。聞く。嗅ぐ。味わう。

 

 

 

 私には、三つしかない。

 

 

 

 触覚と視覚と聴覚。

 それだけで世界と繋がっている。

 足元の床の硬さ。制服の布の擦れる音。蛍光灯の白さ。

 それらを頼りに、私は七年、生活してきた。

 

 味と香りがない世界。

 

 嗅覚と味覚がないことに、慣れたわけじゃない。

 慣れたふり、が上手くなっただけだ。

 味と香りがない世界でも、生きていける。

 そう言い聞かせて十歳からずっと生きてきた。

 言い聞かせないと、崩れてしまうから。

 何を食べても、何を飲んでも、味がしない。

 甘いもしょっぱいも苦いも、分からない。

 匂いもしない。

 焼きたてのパンの香ばしさも、シャンプーの甘さも、雨上がりのアスファルトの匂いも。

 あらゆる「生活の手触り」みたいなものが、ごっそり消えた。

 

 交通事故だった。

 

 十歳の冬。

 横断歩道で、車が止まらなかった。

 骨は折れた。痛かった。泣いた。

 でも歩けるようになったし、顔に傷も残らなかった。

 外見上は、何も変わらなかった。

 

 だからこそ、余計に厄介だった。

 

 外からは見えない障害。

 見えないから、説明しないと分からない。

 説明したら、可哀想って顔をされる。

 気を遣われる。腫れ物みたいに扱われる。

 優しくされる。変に優しくされる。

 

 それが一番、残酷だった。

 

 だから隠した。

 隠したら、隠し続けるしかなくなった。

 “普通” でいるには、嘘を重ねるしかない。

 

 ――私は、そういう生き方を覚えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「奏音、今日さ、放課後ヒマ?」

 

 昼休み。

 机に頬杖をついていた私に、友達が軽い声を投げてくる。

 

「ヒマじゃない……って言ったら?」

 

「ウソでしょ。誘いたいとこあるんだけど」

 

「また食べ物?」

 

 自分でも嫌になるくらい、声が尖った。

 食べ物。

 その単語だけで、喉の奥が条件反射みたいに縮む。

 食卓の匂い。給食の匂い。ファミレスの匂い。

 全部、私にはもう無いはずの匂いなのに、記憶の中の匂いだけは勝手に疼く。

 

「え、なに、グルメ的なの嫌いなんだっけ? 奏音ってほんと小食だよね」

 

 小食。

 その言葉に、私は即座に仮面を被る。

 笑う。

 肩をすくめる。

 軽い冗談を返す。

 いつもの。

 

「うん、小食。ほんと小食。胃がハムスター並みだから」

 

 嘘だ。

 胃が小さいんじゃない。

 食べるのが怖い。

 味のしない食べ物を口に入れるのは、砂を噛むみたいに虚しい。

 ゴムを噛んでいるみたいに不気味だ。

 飲み込むたびに、心だけが置いていかれる。

 「美味しいね」って言い合う時間は、私にとって拷問に近い。

 笑って、頷いて、適当なことを言う。

 それだけで魂が削れる。

 

 でも、仲間外れにされたくない。

 

 障害というレッテルを貼られたくない。

 同情されたくない。

 気を遣われたくない。

 

 障害者扱いされるのが怖いんじゃない。

 

 自分がそうだと確定するのが、怖い。

 

 私はまだ、普通でいたい。

 普通のフリでもいい。普通のフリのままでもいい。

 とにかく、普通の輪から落ちたくない。

 

「最近できた喫茶店、お茶がめっちゃ美味しいらしいよ。『お茶神様』って店」

 

 店名を聞いた瞬間、私は心の中で盛大にツッコんだ。

 何その名前。中二病?

 でも喫茶店。

 お茶。

 食べ物よりは、マシかもしれない。

 どうせ味は分からない。

 けれど飲み物なら、喉に流し込めば終わる。

 適当に一口飲んで、適当に笑って、適当に「美味しいね」って言って、帰ればいい。

 嘘を吐く手間は同じでも、苦しさは少ない。

 

「行こ行こ。奏音もたまには付き合ってよ」

 

 断り続けたら怪しまれる。

 怪しまれたら、いつかバレる。

 私は小さく息を吐いて、頷いた。

 

「……分かった。行く」

 

「やった!」

 

 肩を叩かれて、胸の奥がちくりと痛んだ。

 何も知らない、その無邪気さ。

 羨ましくて、眩しくて、怖い。

 私が隠しているものは、彼女たちの世界には存在しない。

 存在しないものを説明するのは、とても疲れる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 放課後。四人で歩く。

 冬の夕方。制服のスカートが冷たい風に揺れる。

 節分が終われば暦の上では春なのだろうけれど、そんなものは当てにならない。

 風は冷たい。

 身体を抜ける風も。

 心を撫でる風も。

 

 店に近づくほど、私の口数は減った。

 

 内心はずっと、呪文みたいに同じことを唱えている。

 早く終われ。

 早く帰りたい。

 早く、無の世界に戻りたい。

 違う。

 無の世界に戻りたいわけじゃない。

 戻るしかないから、戻りたいと思い込むだけだ。

 

「ほら、ここ! 雰囲気よくない?」

 

 木目の扉。控えめな看板。

 レトロ、という言葉でまとめられそうな外観。

 友達がドアノブに手をかける。

 

 ちりん。

 

 風鈴みたいな、ガラスを弾いたような繊細な音。

 その瞬間、私はその場に縫い付けられたみたいに立ち止まった。

 ……え?

 今、何か。

 何かが、鼻の奥を撫でた。

 熱い湯気みたいなものが、胸の奥まで落ちてきた。

 

 

 

 香り。

 

 

 

 紅茶の香り。

 

 

 

 ダージリンとか、アッサムとか、そういう知識としての名前が頭に浮かぶ前に、もっと原始的な感覚が脳を殴った。

 甘い。温かい。どこか、懐かしい。

 嘘。

 嘘だ。

 だって私は、匂いなんて分からない。

 七年間、この鼻はただの空気の取り入れ口だった。

 なのに。

 

「……っ」

 

 息が止まった。

 心臓が早鐘を打つ。

 嬉しい、じゃない。怖い。

 これは幻覚だ。

 脳がバグったんだ。

 事故の後遺症が、今さら別の形で出たんだ。

 得体の知れない不安が喉を塞いで、言葉が出ない。

 

「奏音? どうしたの?」

 

 覗き込まれて、私は反射で首を振った。

 

「……なんでもない。ちょっと、足つっただけ」

 

 嘘。

 つっているのは足じゃない、思考回路だ。

 店内に入る。

 香りが逃げない。

 むしろ、濃度を増して襲いかかってくる。

 紅茶だけじゃない。

 ウーロン茶の香ばしさ。緑茶の青さ。抹茶の粉っぽい甘さみたいなもの。

 いくつもの香りが混ざり合って、情報の洪水で頭がくらくらする。

 

 ――香りって、こんなにうるさかったっけ。

 

 忘れていた。

 忘れたはずなのに、細胞が覚えている。

 私の体は、香りを知っている。

 知っていることが、怖い。

 

「あ、いらっしゃいませー」

 

 カウンターの向こうのマスターが、のんびりした声で笑った。

 中性的な顔立ち。眠そうな目。黒いエプロン。

 世界から一歩引いたみたいな、ゆるい雰囲気。

 この人が、マスター。

 

「見て、席空いてる。座ろ座ろ」

 

 友達が当然みたいにテーブル席へ向かう。

 私は操り人形みたいに、その後ろについていく。

 逃げるわけにもいかない。

 ここで逃げたら、怪しまれる。

 でも、このままじゃ、香りがすることがバレる。

 いや。

 香りがするのが、普通だ。

 普通の人は香りを感じる。

 

 ――私が過剰に反応していることが、変なんだ。

 

 私は顔の筋肉を必死に動かして、いつもの「普通の私」の仮面を貼り直した。

 笑う。

 頷く。

 黙る。

 

「え、紅茶めっちゃ種類あるじゃん」

 

「抹茶もある……え、チャイもある。ウーロン茶って種類あるんだ」

 

「何この店、何屋さん?」

 

「お茶屋さんだよ」

 

 いつの間にか注文を取りにきたマスターが、会話にするりと入ってくる。

 友達が笑う。

 私は笑うふりをする。

 でも口の中が乾いて、舌が張り付く。

 

 ……香りがする。

 

 香りがするって、どういうこと?

 ありえないはずの現実に、頭が追いつかない。

 

「おすすめってどれですか?」

 

「全部おすすめだよ。なんせ神様のお茶だからね」

 

 マスターが、恥ずかしげもなく言った。

 友達が「うわ〜」と笑う。

 

 神様。

 

 痛々しいジョーク。

 でも今の私には、その言葉が冗談に聞こえなかった。

 だってここは、香りがする世界だ。

 まるで魂に染み込むような、そんな香りに包まれている。

 私の失われた世界の欠片が、なぜかここにある。

 神様がいるなら、こういうことも起こるのかもしれない。

 

「奏音、決まった?」

 

 覗き込まれて、私はメニューを掴む。

 紙の感触。文字の黒。

 現実にしがみつくための、手触り。

 

「……紅茶で」

 

 声が掠れていたと思う。

 咳払いで誤魔化す余裕すらなかった。

 

「かしこまりましたー。おすすめ紅茶三つ、ほうじ茶一つね」

 

 マスターが奥へ引っ込む。

 私は膝の上でスカートを握りしめた。

 落ち着け。落ち着け。

 これは気のせい。

 プラシーボ。集団催眠。錯覚。幻。

 

 ……だとしても。

 

 もし、もしも。

 もし本当に匂いがしているなら。

 私は今から、とんでもないものを口にすることになる。

 

 七年ぶりの、世界の欠片。

 

 カップが運ばれてくる。

 湯気。

 香り。

 近づくほど、逃げ場がなくなる。

 心臓が痛い。

 頭の中で警報が鳴る。

 

 危ない。危険だ。

 

 希望は危険だ。

 期待は毒だ。

 期待して、裏切られたら、私はもう立っていられなくなる。

 

「お待たせしました。おすすめ紅茶です」

 

「わー、いい匂い!」

 

「見て、色きれい!」

 

「ありがとうございまーす!」

 

「ほうじ茶もどうぞ」

 

「うわ、香ばしっ」

 

 友達が笑って、カップを持つ。

 私は震える指でカップを持った。

 持ってしまった。

 陶器の冷たさ。

 伝わってくる液体の熱さ。

 そして、暴力みたいな香り。

 

 ――逃げたい。

 

 でも逃げたら、終わる。

 私はいつもの「味のしない液体を飲み込む作業」をするために、口をつけた。

 一口。

 たった一口。

 その瞬間。

 

 

 

 世界が、爆発した。

 

 

 

 味。

 

 味がする。

 

 舌の上で甘みが立ち上がって、渋みが追いかけて、最後に透明な余韻が喉の奥に残る。

 香りが鼻腔を突き抜けて、脳髄を揺らす。

 湯気が頭の中を満たす。

 

 ――なに、これ。

 

 なにこれなにこれなにこれ。

 

 脳が処理落ちする。

 体が勝手に理解してしまう。

 

 “美味しい”。

 

 美味しい。

 おいしい。

 味がある。香りがある。

 七年ぶりに、私の世界に色が戻ってきた。

 戻ってきてしまった。

 嬉しい。

 嬉しいのに、怖い。

 怖いのに、もっと欲しい。

 

「……っ」

 

 息が変なところで引っかかった。

 目の奥が焼け付くみたいに熱くなる。

 泣くな。

 泣くな。

 泣いたら終わる。

 ここで泣いたら、全部バレる。

 でも、ダムが決壊したみたいに涙が出る。

 止まらない。止められない。

 

 

 

 七年間、どれだけ我慢してきたと思ってるの。

 

 

 

 七年間、どれだけ「平気」って言い続けてきたと思ってるの。

 

 

 

「……ひ、っ……」

 

 口から漏れた音は、自分でも知らない生き物の声だった。

 そして次の瞬間、耐えきれなくなって――

 

 

 

「う、うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」

 

 

 

 声が出た。

 大声で。

 店中に響くくらいの声で。

 やめて。やめて。止まれ。

 心の中で叫ぶのに、体は言うことを聞かない。

 

「えっ!? 奏音!? どうしたの!?」

 

「大丈夫!? やばい!? 救急車!?」

 

「え、え、あの、店員さん!?」

 

 椅子が鳴って、視線が集まって、空気が刺さる。

 私は泣きながら首を振る。

 違う。痛いんじゃない。苦しいんじゃない。

 

 ……美味しい。

 

 美味しいから泣いてる。

 そんなの、誰が信じる?

 説明できるわけがない。

 

「ごめんね!? ほんとごめん! えっと、砂糖いる? ミルク? レモン? いや、紅茶にレモンって合うのかな、僕よく分かんないけど……!」

 

 いつの間にか、マスターが飛んできていた。

 オロオロ。

 情けないくらいオロオロ。

 でも、その情けなさが、逆に現実感をくれた。

 

 この人はわざとじゃない。

 

 この人は何も分かってない。

 

 分かってないのに、私の閉ざされた世界をこじ開けた。

 私は泣きながら、声を絞り出した。

 

「……ごめ、なさい……」

 

 謝る。

 とりあえず謝る。

 泣いてる理由なんて言えない。

 味が戻ったなんて言えない。

 味覚と嗅覚を失ってたなんて、言えない。

 可哀想な子、になりたくない。

 同情されるのは嫌だ。

 だから、泣く理由を私の事情にしてはいけない。

 私は泣きながら、それでももう一口飲んだ。

 飲んでしまった。

 美味しいから。

 逃げられないから。

 

 そして、カップを離せなかった。

 

 もし手を離したら、この味が消える気がした。

 この香りが逃げる気がした。

 この世界が、また灰色に戻る気がした。

 

 そんなの、耐えられない。

 

 七年間、耐えてきたくせに。

 戻ってきた瞬間に、もう耐えられなくなる。

 私は泣きながら、自分が怖かった。

 でも、止められなかった。

 口が勝手に呟いた。

 

「…………美味しい」

 

 その一言で、マスターが固まった。

 友達も固まった。

 私は泣きながら、自分を呪う。

 言うな。言うなって。

 でも言ってしまった。

 

 だって、美味しい。

 

 七年間、ずっと “無” だった世界に、今だけ鮮烈な色が溢れている。

 怖いくらいに。

 嬉しいくらいに。

 残酷なくらいに。

 私は涙でぐちゃぐちゃのまま、必死に笑うふりをしようとして、できなくて、ただただ泣いた。

 泣きながら、紅茶を飲んだ。

 その間ずっと、胸の奥でひとつの考えが膨らんでいく。

 

 ――もしかして。

 

 もしかして、治ったのかもしれない。

 

 そんな希望が勝手に芽を出す。

 怖いのに、期待してしまう。

 普通に戻れるかもしれないという、甘い毒のような期待を。

 私はカップを抱えたまま、祈るみたいに思った。

 

 お願い。

 

 お願いだから。

 

 これが夢じゃありませんように。

 これが嘘じゃありませんように。

 

 私はまだ、普通でいたい。

 

 そして、もう二度と。

 

 無の世界に戻りたくない。

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――

 

【トピックス】

・神様から貰ったチート能力について

 液体を好きなお茶に変えられる能力。

 正確には、『任意の液体』を『任意の茶』に変換できる能力。

 当然、変換されるお茶も真澄の認識に依存する。

 美味しいお茶と指定されたら、お茶を飲んだ人は問答無用で『美味しい』と認識させることができる。

 これを防ぐには、神様とやらと同等かそれ以上の神秘で防ぐしかなく、身体機能の損傷程度では到底防げるものではない。

 当然ながら、回復させるお茶と指定されたら如何なる怪我や病気も回復するし、即死させるお茶と指定されたら速やかに死ぬ。地球上においてはほぼ防げる者はいない。

 

 ――卓越した魔法使いでない限り。

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