当店では美味しいお茶を必ずご堪能いただけます(他は微妙です)   作:ShilonkS

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第4話 好きだったお菓子

 帰り道の空は、冬特有の、血の気の引いた薄い青だった。

 夕方の冷たい風が頬を叩く。

 けれど私は、唇を固く結んだまま歩いていた。

 口の中に残っているはずの“熱”が、消えてしまわないように。

 

 ――味がした。

 

 ――香りがした。

 

 たったそれだけのことが、私の世界をひっくり返した。

 あの喫茶店の中だけ、世界の解像度が違っていた。

 まるで、モノクロ映画がいきなり総天然色、フルカラーに変わったみたい。

 輪郭が鋭くなって、空気に厚みができて、世界が「ある」って感じられた。

 泣いた。大声で泣いた。

 店中の視線が刺さって、友達が慌てて、マスターがオロオロして。

 本当なら、死にたくなるほど恥ずかしいはずなのに。

 それ以上に、胸の奥で暴れていた感情が痛かった。

 嬉しい。

 怖い。

 嬉しいのに、怖い。

 怖いのに、嬉しい。

 相反するものがミキサーにかけられて、ぐちゃぐちゃになって、どろどろになって、それでも私はカップを離せなかった。

 

「奏音、ほんと大丈夫? 体調悪いなら送るよ?」

 

 隣を歩く友達が、心配そうに私の顔を覗き込む。

 私は反射で、いつもの顔を作った。

 いつもの、普通の私。

 何も欠けていない私の、仮面。

 

「うん、大丈夫。なんか、急に情緒がおかしくなっただけ」

 

「情緒って……」

 

「年末だし」

 

「年末じゃないけど?」

 

 ツッコミが飛んで、みんなが笑う。

 その笑い声が、私と彼女たちの間にある見えない壁を、くっきり浮かび上がらせる。

 優しさが、今は鋭利な刃物みたいで怖い。

 この子たちに、知られたくない。

 私が、味と香りを失った欠陥品であることを。

 告白した瞬間、対等な関係は終わる。

 同情という名のクッションで包まれて、腫れ物として扱われる。

 かわいそうな奏音ちゃん。

 そのレッテルを貼られるくらいなら、私は一生、嘘つきでいい。

 

「じゃあさ、また今度行こうよ。『お茶神様』。あの店、めっちゃ雰囲気よかったし」

 

 誰かが無邪気に言った。

 その一言で、心臓が跳ねた。

 また。

 また行く。

 

 味がする場所。

 

 香りがする場所。

 

 そこに、また行っていいの?

 

 行きたい。

 でも、行ったら私はもう、こちらの世界に戻れなくなる気がした。

 モノクロの世界に。

 何もない、無の世界に。

 

「うん……その時は、また」

 

 笑って頷く。

 吐き慣れた嘘の中に、今日はひとつだけ熱を持った本音が混ざった。

 

 ――“また”が、欲しい。

 

 それを口に出したら、私は終わる気がして。

 だから、飲み込んだ。

 味のしない世界で、何度もそうしてきたみたいに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 友達と別れて、一人になる。

 駅へ向かう道が、急に真空になったみたいに静かだった。

 さっきまでの笑い声が遠ざかると、音が減って、世界が薄くなる。

 今は、静か。

 そして私は気づいた。

 さっきまで忙しかったはずの鼻と舌が、今、まったく忙しくない。

 

 ――静かすぎる。

 

 あれだけお祭りみたいに騒がしかった香りが、もう記憶の中で薄れ始めている。

 赤褐色の紅茶。湯気。喉の奥を撫でた甘さ。鼻の奥を抜けた透明な香り。

 「思い出す」ことはできる。

 でも「感じる」ことはできない。

 私は無意識に、大きく深呼吸をした。

 肺いっぱいに空気を吸い込んだ。

 

 ――香りが、ない。

 

 あ、れ。

 あれ?

 さっきまで、胸の奥に確かに残っていたのに。

 焦燥が背中を這い上がる。

 私はもう一度、犬のように鼻をひくつかせ、深く息を吸った。

 さらにもう一度。

 冬の乾いた空気。

 排気ガス。

 ……分からない。何も感じない。

 違う。

 喫茶店の外では魔法が解けるの?

 それとも、私の脳が焼き切れて、あれはただの幻だった?

 怖い。

 怖いのに、確かめたくて仕方がない。

 

 現実がどっちなのか確かめたくて、私は帰り道のコンビニに、吸い寄せられるように入った。

 

 自動ドアが開いて、暖房が肌を撫でる。

 極彩色の照明が、やけに白々しい。

 

「いらっしゃいませー」

 

 店員の声。

 背が低い店員さんだった。

 背丈だけなら小学生みたいなのに、雰囲気はちゃんと「お姉さん」だ。

 私はその人を一瞬だけ見て、すぐに目を逸らして、店内へ足を踏み入れた。

 

 私は迷わず、お菓子コーナーへ足を運ぶ。

 

 そこは、かつての私にとって宝島だった。

 甘い匂いの海。カラフルな包装紙。選ぶ楽しさ。迷う幸せ。

 七年前。まだ味と香りがあった頃。

 私はここで、しょっちゅう立ち尽くしていた。

 

 見つけた。

 

 金色のパッケージ。

 少しデザインは変わっている。でも、面影は残っている。

 

 ああ、これだ。

 

 見ただけで記憶の引き出しが開く。

 濃厚なカカオの香り。

 口どけの滑らかさ。

 舌に残るミルクの甘みと、微かな苦み。

 覚えてる。全部、データとして脳に残っている。

 再生できないだけで。

 でも、もし。

 もしも、治っていたのなら。

 今日の紅茶が、奇跡的な完治の証だったのなら。

 このチョコも、かつてみたいに私を甘やかしてくれるはずだ。

 私は震える指でそれを掴んで、レジへ向かった。

 

「お支払いはどうされますか?」

 

「……現金で」

 

 小さな店員さんの言葉に、声が情けないくらいに震えそうだった。

 財布から小銭を出す手が、死人みたいに冷たい。

 チョコ一つ。

 それだけで、息が苦しい。

 でも買った。

 買ってしまった。

 

 だって私は、信じたかったから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 帰宅して、靴を脱ぎ捨てて、自分の部屋に逃げ込んだ。

 家族に顔を見られたくなかった。

 泣き腫らした目も、期待で強張った表情も。

 ベッドの端に座って、袋を開ける。

 ぱり、と乾いた音が部屋に響く。

 昔は、この音だけでパブロフの犬みたいに嬉しくなった。

 脳が「ご褒美だ」って反射する。条件反射。

 

 ――匂い。

 

 カカオの香りが立ち上るはず。

 私は祈るように息を吸った。

 

 ……。

 

 …………。

 

 何も、ない。

 

 いや、まだだ。

 諦めるのは早い。

 袋の口に鼻を近づける。

 鼻を突っ込むみたいにして、もう一度深く吸う。

 

 ……。

 

 …………。

 

 

 

 無。

 

 

 

 ただの空気が肺に入って、出ていくだけ。

 胸の奥が、す、と冷えていく。

 私は無理やり口角を上げた。

 大丈夫。まだだ。まだ味があるかもしれない。

 チョコを一つつまむ。

 昔より小さくなったように思う。

 ステルス値上げというやつか。

 それとも七年で、私が大きくなっただけなのか。

 祈るように震えながら、そのチョコを口に入れた。

 舌に当たる。

 冷たい。

 体温で少しずつ溶けていく。

 ねっとり広がる。

 甘いはず。

 ほろ苦いはず。

 香りが鼻に抜けるはず。

 そのはず。

 なのに。

 

 

 

 ――ああ、何もない。

 

 

 

 あるのは油脂の食感と、温度だけ。

 冷たくて甘くないラードを舐めているみたいだった。

 ただの、溶ける固形物。

 泥。

 私はもう一つ、口に放り込んだ。

 分からない。

 もう一つ。

 分からない。

 喉の奥が、ひゅっと鳴った。

 

「……うそ」

 

 声が出た。

 自分の声すら、遠い他人のものみたいに聞こえた。

 

 治ってない。

 

 何も、治ってない。

 

 私の味覚も嗅覚も、七年前のあの日、アスファルトの上で死んだままだ。

 あの紅茶だけが、例外だった。

 例外。

 エラー。

 バグ。

 

 どうして?

 

 なんで、そんな残酷なことをするの?

 

 一瞬だけ極上の夢を見せて、叩き起こすなんて。

 

 私はチョコを握りしめた。

 手のひらの熱で溶けたチョコが、汚れた泥みたいに指にまとわりつく。

 涙が出た。

 頬を伝って口に入った涙のしょっぱさすら、私には分からない。

 ただの水滴だ。

 ほんとに、残酷だ。

 チョコの袋をゴミ箱に投げ捨てた。

 それ以上見ていたら、心が壊れてしまいそうだったから。

 

 でも。

 

 喫茶店の紅茶は、確かに美味しかった。

 あれは幻覚じゃない。

 私の体が。

 私の魂が。

 確かに打ち震えた現実だ。

 あれが嘘だったら、私はもう、この世界の何一つ信じられない。

 コンコン、とドアがノックされた。

 

「奏音、ごはん――」

 

 母の声。

 私は息を止めた。

 返事をするのが怖い。

 食卓に行けば、また「演技」の時間だ。

 味のしない食事を、笑って飲み込む虚無の演劇。

 家族は気を遣う。

 

 香りの分からない奏音。

 

 味の分からない奏音。

 

 かわいそうな奏音。

 

 いい匂い、とは言わない。

 美味しそう、とは言わない。

 美味しい、とは褒めない。

 グルメ番組は流さない。

 食事の時間なのに、食事の話は一切しない。

 私を傷つけないように。

 私に気を遣って。

 だから私も気を遣う。

 「大丈夫」って言う。

 笑う。

 平気なふりをする。

 優しさが、真綿みたいに首を絞めてくる。

 

「……あとで食べる」

 

 ドア越しに、できるだけ平坦な声を作って言った。

 

「分かった……無理しないでね」

 

 足音が遠ざかる。

 無理しないで、なんて。

 無理しなきゃ、この家では生きられないのに。

 家族は悪くない。

 悪いのは、私のほうだ。

 出来損ないなだけ。

 壊れてるだけ。

 私は机の引き出しを開け、パウチに入った完全栄養食のゼリー飲料を取り出した。

 いつものやつ。

 キャップを開けて、機械みたいに流し込む。

 

 ……何も分からない。

 

 でも喉に流せば空腹は消える。体は動く。

 生きるための給油。

 それだけ。

 味のない世界で、効率的に生きる方法を私はもう熟知している。

 知っている。

 慣れている。

 あの事故から7年で、悲しんで、苦しんで、もがいて、もがいて、足掻いて、諦めて。

 ようやく落とし込めた、私の中の折衷案。

 だった。

 のに。

 

 ――今日までは。

 

 

 

 あの喫茶店で味わった世界が、脳裏に焼き付いて離れない。

 

 

 

 香り。

 味。

 温度だけじゃない、鮮やかな色彩。

 私は七年間、それを諦めることで自分を守ってきた。

 でも今日だけは戻った。

 戻ってしまった。

 それは希望じゃない。

 

 ――誘惑だ。

 

 乾ききった砂漠で、一滴の水を与えられたようなものだ。

 一度知ってしまえば、もう元の渇きには耐えられない。

 私はベッドに倒れ込んで、白い天井を見上げた。

 情けなくて、悔しくて、涙がまた滲む。

 行きたくない。

 あんな場所。

 あんな残酷な例外。

 

 でも。

 

 確かめたい。

 

 もう一度だけ。

 あれが本物だったのか。

 それとも私の狂気が見せた夢だったのか。

 

 ――違う。

 

 確かめたい、は嘘だ。

 本当は、もう一度“飲みたい”。

 口にした瞬間に世界が戻るあの感覚を。

 喉を通った瞬間に色がつくあの瞬間を。

 私は枕に顔を押しつけて、小さく、呪いみたいに呟いた。

 

「……明日、もう一回だけ」

 

 誰にも聞かれない声。

 誰にも言えない決意。

 喫茶店『お茶神様』。

 あそこに行けば、味がする。香りがする。

 治ってはいないのに、そこだけが楽園。

 

 それはきっと、私にとっていちばん危ない麻薬だ。

 

 分かってる。

 分かってるのに。

 私はもう、あの扉の音を思い出している。

 

 ちりん、と鳴る、あの悪魔的な音色を。

 

 そして、その音の次に続く――のんびりした声まで。

 

 ……違う。

 私は紅茶が好きなだけ。紅茶の味が欲しいだけ。

 そう言い聞かせながら、私は目を閉じた。

 

 

 

 胸の奥で、乾いた渇きが、静かに、確かに、育っていくのを感じながら。

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――

 

【トピックス】

 

・家族の優しさ

 たぶん、正しい、のかもしれない。

 しかし、奏音にとっては“味と香りの話題が消える”ことで、逆に欠落を毎日確認させる装置になっている。

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