当店では美味しいお茶を必ずご堪能いただけます(他は微妙です) 作:ShilonkS
帰り道の空は、冬特有の、血の気の引いた薄い青だった。
夕方の冷たい風が頬を叩く。
けれど私は、唇を固く結んだまま歩いていた。
口の中に残っているはずの“熱”が、消えてしまわないように。
――味がした。
――香りがした。
たったそれだけのことが、私の世界をひっくり返した。
あの喫茶店の中だけ、世界の解像度が違っていた。
まるで、モノクロ映画がいきなり総天然色、フルカラーに変わったみたい。
輪郭が鋭くなって、空気に厚みができて、世界が「ある」って感じられた。
泣いた。大声で泣いた。
店中の視線が刺さって、友達が慌てて、マスターがオロオロして。
本当なら、死にたくなるほど恥ずかしいはずなのに。
それ以上に、胸の奥で暴れていた感情が痛かった。
嬉しい。
怖い。
嬉しいのに、怖い。
怖いのに、嬉しい。
相反するものがミキサーにかけられて、ぐちゃぐちゃになって、どろどろになって、それでも私はカップを離せなかった。
「奏音、ほんと大丈夫? 体調悪いなら送るよ?」
隣を歩く友達が、心配そうに私の顔を覗き込む。
私は反射で、いつもの顔を作った。
いつもの、普通の私。
何も欠けていない私の、仮面。
「うん、大丈夫。なんか、急に情緒がおかしくなっただけ」
「情緒って……」
「年末だし」
「年末じゃないけど?」
ツッコミが飛んで、みんなが笑う。
その笑い声が、私と彼女たちの間にある見えない壁を、くっきり浮かび上がらせる。
優しさが、今は鋭利な刃物みたいで怖い。
この子たちに、知られたくない。
私が、味と香りを失った欠陥品であることを。
告白した瞬間、対等な関係は終わる。
同情という名のクッションで包まれて、腫れ物として扱われる。
かわいそうな奏音ちゃん。
そのレッテルを貼られるくらいなら、私は一生、嘘つきでいい。
「じゃあさ、また今度行こうよ。『お茶神様』。あの店、めっちゃ雰囲気よかったし」
誰かが無邪気に言った。
その一言で、心臓が跳ねた。
また。
また行く。
味がする場所。
香りがする場所。
そこに、また行っていいの?
行きたい。
でも、行ったら私はもう、こちらの世界に戻れなくなる気がした。
モノクロの世界に。
何もない、無の世界に。
「うん……その時は、また」
笑って頷く。
吐き慣れた嘘の中に、今日はひとつだけ熱を持った本音が混ざった。
――“また”が、欲しい。
それを口に出したら、私は終わる気がして。
だから、飲み込んだ。
味のしない世界で、何度もそうしてきたみたいに。
友達と別れて、一人になる。
駅へ向かう道が、急に真空になったみたいに静かだった。
さっきまでの笑い声が遠ざかると、音が減って、世界が薄くなる。
今は、静か。
そして私は気づいた。
さっきまで忙しかったはずの鼻と舌が、今、まったく忙しくない。
――静かすぎる。
あれだけお祭りみたいに騒がしかった香りが、もう記憶の中で薄れ始めている。
赤褐色の紅茶。湯気。喉の奥を撫でた甘さ。鼻の奥を抜けた透明な香り。
「思い出す」ことはできる。
でも「感じる」ことはできない。
私は無意識に、大きく深呼吸をした。
肺いっぱいに空気を吸い込んだ。
――香りが、ない。
あ、れ。
あれ?
さっきまで、胸の奥に確かに残っていたのに。
焦燥が背中を這い上がる。
私はもう一度、犬のように鼻をひくつかせ、深く息を吸った。
さらにもう一度。
冬の乾いた空気。
排気ガス。
……分からない。何も感じない。
違う。
喫茶店の外では魔法が解けるの?
それとも、私の脳が焼き切れて、あれはただの幻だった?
怖い。
怖いのに、確かめたくて仕方がない。
現実がどっちなのか確かめたくて、私は帰り道のコンビニに、吸い寄せられるように入った。
自動ドアが開いて、暖房が肌を撫でる。
極彩色の照明が、やけに白々しい。
「いらっしゃいませー」
店員の声。
背が低い店員さんだった。
背丈だけなら小学生みたいなのに、雰囲気はちゃんと「お姉さん」だ。
私はその人を一瞬だけ見て、すぐに目を逸らして、店内へ足を踏み入れた。
私は迷わず、お菓子コーナーへ足を運ぶ。
そこは、かつての私にとって宝島だった。
甘い匂いの海。カラフルな包装紙。選ぶ楽しさ。迷う幸せ。
七年前。まだ味と香りがあった頃。
私はここで、しょっちゅう立ち尽くしていた。
見つけた。
金色のパッケージ。
少しデザインは変わっている。でも、面影は残っている。
ああ、これだ。
見ただけで記憶の引き出しが開く。
濃厚なカカオの香り。
口どけの滑らかさ。
舌に残るミルクの甘みと、微かな苦み。
覚えてる。全部、データとして脳に残っている。
再生できないだけで。
でも、もし。
もしも、治っていたのなら。
今日の紅茶が、奇跡的な完治の証だったのなら。
このチョコも、かつてみたいに私を甘やかしてくれるはずだ。
私は震える指でそれを掴んで、レジへ向かった。
「お支払いはどうされますか?」
「……現金で」
小さな店員さんの言葉に、声が情けないくらいに震えそうだった。
財布から小銭を出す手が、死人みたいに冷たい。
チョコ一つ。
それだけで、息が苦しい。
でも買った。
買ってしまった。
だって私は、信じたかったから。
帰宅して、靴を脱ぎ捨てて、自分の部屋に逃げ込んだ。
家族に顔を見られたくなかった。
泣き腫らした目も、期待で強張った表情も。
ベッドの端に座って、袋を開ける。
ぱり、と乾いた音が部屋に響く。
昔は、この音だけでパブロフの犬みたいに嬉しくなった。
脳が「ご褒美だ」って反射する。条件反射。
――匂い。
カカオの香りが立ち上るはず。
私は祈るように息を吸った。
……。
…………。
何も、ない。
いや、まだだ。
諦めるのは早い。
袋の口に鼻を近づける。
鼻を突っ込むみたいにして、もう一度深く吸う。
……。
…………。
無。
ただの空気が肺に入って、出ていくだけ。
胸の奥が、す、と冷えていく。
私は無理やり口角を上げた。
大丈夫。まだだ。まだ味があるかもしれない。
チョコを一つつまむ。
昔より小さくなったように思う。
ステルス値上げというやつか。
それとも七年で、私が大きくなっただけなのか。
祈るように震えながら、そのチョコを口に入れた。
舌に当たる。
冷たい。
体温で少しずつ溶けていく。
ねっとり広がる。
甘いはず。
ほろ苦いはず。
香りが鼻に抜けるはず。
そのはず。
なのに。
――ああ、何もない。
あるのは油脂の食感と、温度だけ。
冷たくて甘くないラードを舐めているみたいだった。
ただの、溶ける固形物。
泥。
私はもう一つ、口に放り込んだ。
分からない。
もう一つ。
分からない。
喉の奥が、ひゅっと鳴った。
「……うそ」
声が出た。
自分の声すら、遠い他人のものみたいに聞こえた。
治ってない。
何も、治ってない。
私の味覚も嗅覚も、七年前のあの日、アスファルトの上で死んだままだ。
あの紅茶だけが、例外だった。
例外。
エラー。
バグ。
どうして?
なんで、そんな残酷なことをするの?
一瞬だけ極上の夢を見せて、叩き起こすなんて。
私はチョコを握りしめた。
手のひらの熱で溶けたチョコが、汚れた泥みたいに指にまとわりつく。
涙が出た。
頬を伝って口に入った涙のしょっぱさすら、私には分からない。
ただの水滴だ。
ほんとに、残酷だ。
チョコの袋をゴミ箱に投げ捨てた。
それ以上見ていたら、心が壊れてしまいそうだったから。
でも。
喫茶店の紅茶は、確かに美味しかった。
あれは幻覚じゃない。
私の体が。
私の魂が。
確かに打ち震えた現実だ。
あれが嘘だったら、私はもう、この世界の何一つ信じられない。
コンコン、とドアがノックされた。
「奏音、ごはん――」
母の声。
私は息を止めた。
返事をするのが怖い。
食卓に行けば、また「演技」の時間だ。
味のしない食事を、笑って飲み込む虚無の演劇。
家族は気を遣う。
香りの分からない奏音。
味の分からない奏音。
かわいそうな奏音。
いい匂い、とは言わない。
美味しそう、とは言わない。
美味しい、とは褒めない。
グルメ番組は流さない。
食事の時間なのに、食事の話は一切しない。
私を傷つけないように。
私に気を遣って。
だから私も気を遣う。
「大丈夫」って言う。
笑う。
平気なふりをする。
優しさが、真綿みたいに首を絞めてくる。
「……あとで食べる」
ドア越しに、できるだけ平坦な声を作って言った。
「分かった……無理しないでね」
足音が遠ざかる。
無理しないで、なんて。
無理しなきゃ、この家では生きられないのに。
家族は悪くない。
悪いのは、私のほうだ。
出来損ないなだけ。
壊れてるだけ。
私は机の引き出しを開け、パウチに入った完全栄養食のゼリー飲料を取り出した。
いつものやつ。
キャップを開けて、機械みたいに流し込む。
……何も分からない。
でも喉に流せば空腹は消える。体は動く。
生きるための給油。
それだけ。
味のない世界で、効率的に生きる方法を私はもう熟知している。
知っている。
慣れている。
あの事故から7年で、悲しんで、苦しんで、もがいて、もがいて、足掻いて、諦めて。
ようやく落とし込めた、私の中の折衷案。
だった。
のに。
――今日までは。
あの喫茶店で味わった世界が、脳裏に焼き付いて離れない。
香り。
味。
温度だけじゃない、鮮やかな色彩。
私は七年間、それを諦めることで自分を守ってきた。
でも今日だけは戻った。
戻ってしまった。
それは希望じゃない。
――誘惑だ。
乾ききった砂漠で、一滴の水を与えられたようなものだ。
一度知ってしまえば、もう元の渇きには耐えられない。
私はベッドに倒れ込んで、白い天井を見上げた。
情けなくて、悔しくて、涙がまた滲む。
行きたくない。
あんな場所。
あんな残酷な例外。
でも。
確かめたい。
もう一度だけ。
あれが本物だったのか。
それとも私の狂気が見せた夢だったのか。
――違う。
確かめたい、は嘘だ。
本当は、もう一度“飲みたい”。
口にした瞬間に世界が戻るあの感覚を。
喉を通った瞬間に色がつくあの瞬間を。
私は枕に顔を押しつけて、小さく、呪いみたいに呟いた。
「……明日、もう一回だけ」
誰にも聞かれない声。
誰にも言えない決意。
喫茶店『お茶神様』。
あそこに行けば、味がする。香りがする。
治ってはいないのに、そこだけが楽園。
それはきっと、私にとっていちばん危ない麻薬だ。
分かってる。
分かってるのに。
私はもう、あの扉の音を思い出している。
ちりん、と鳴る、あの悪魔的な音色を。
そして、その音の次に続く――のんびりした声まで。
……違う。
私は紅茶が好きなだけ。紅茶の味が欲しいだけ。
そう言い聞かせながら、私は目を閉じた。
胸の奥で、乾いた渇きが、静かに、確かに、育っていくのを感じながら。
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【トピックス】
・家族の優しさ
たぶん、正しい、のかもしれない。
しかし、奏音にとっては“味と香りの話題が消える”ことで、逆に欠落を毎日確認させる装置になっている。