当店では美味しいお茶を必ずご堪能いただけます(他は微妙です) 作:ShilonkS
朝、目が覚めた瞬間に、絶望と希望が同時に襲ってきた。
――昨日の紅茶は、夢じゃない。
なのに、今日の私の世界は、いつも通り灰色だった。
洗面所の鏡に映る顔は、普通の女子高生。
泣いたことによる目の腫れは、少しだけ引いている。
目の下の薄い影は、いつも通り。
歯を磨く。
ミントの清涼感が口の中を刺激する。けれどそれは味じゃない。
痛覚に近い、温度に近い、ただの刺激だ。
うがいの水は、ただ冷たい液体。
朝食代わりに流し込む完全栄養食のゼリーも、粘度のある無機物が喉を通るだけ。
治ってない。
何も変わってない。
分かってるのに、脳の奥のどこかが、しつこく昨日の映像を再生してくる。
赤褐色。湯気。
鼻の奥を撫でた甘さ。
舌の上に立ち上がった渋み。
喉を抜けていった透明な余韻。
味が、あった。
香りが、あった。
それがどれだけ異常なことか、七年分の空白が証明している。
だから今日、私は行く。
嬉しいからじゃない。
確かめたいから。
あれが「再現性のある奇跡」なのか、ただの「一度きりの幻覚」なのか。
自分で確かめない限り、私は昨日のことを信じられない。
……違う。
信じられないんじゃない。
信じたいから、確かめる。
鏡の前で髪を整える。
指先が微かに震えている。情けない。
たった一杯の紅茶で、私の人生がハッキングされている。
私はいつものように、能面みたいな「何もない顔」を作る。
普通の私。
普通の女子高生。
味も香りも失っている欠陥品だなんて、どこにも書いていない私。
家を出る前、リビングから母の声がした。
「奏音、今日は帰り遅いの?」
言い訳は昨夜のうちに用意していた。
嘘は得意だ。
私は七年間、嘘で自分をコーティングして生きてきた。
「うん、ちょっと寄り道する。勉強の……資料、見に行くから」
「図書館?」
「そんな感じ」
母は「気を付けてね」とだけ言った。
その無防備な信頼が、胸を刺す。
私は小さく頭を下げて、逃げるみたいに玄関を出た。
嘘を吐くたびに、心が少しずつ汚れていく。
でも汚れたっていい。
守れるなら、何でもいい。
――今日だけは。
学校での時間は、スローモーションみたいに遅かった。
授業の内容は右から左へ抜けていく。
ノートに書いた文字も、意味のない記号の羅列に見える。
私は机の上でシャーペンを動かしながら、ずっと別のことを考えていた。
ちりん、という音。
香りの洪水。
カップの熱。
「美味しい」という、あまりにも単純で、あまりにも致命的な感覚。
昼休み、友達が「またあの店行こ」って笑うたびに、私は曖昧に頷いた。
頷きながら、心の奥がどす黒く濁っていくのを感じた。
……やだ。
あの店は、みんなのものじゃない。
そんな風に思った瞬間、吐き気がした。
最低だ。
私が独占していいものなんて、何一つない。
そもそも、あの店は店だ。誰が行ってもいい。
分かってる。分かってるのに。
あそこは私にとって、遊びじゃない。
「美味しいね」って笑うための場所じゃない。
私の命綱だ。
遊び半分で踏みにじられたくない。
そんな独占欲が芽生えている自分が、醜くて、怖い。
だから私は、笑った。冗談を言った。普通のふりをした。
“普通” は便利だ。
嘘と同じくらい便利だ。
放課後。
友達と別れて、私は反対方向へ歩き出した。
「奏音、今日も小食だったねー」
背中に投げられた軽い言葉を、私は振り返らずに聞き流した。
逃げる。
喫茶店『お茶神様』へ。
街の景色はいつも通りだ。
夕方の人通り。信号の電子音。コンビニの明かり。
世界は何一つ変わっていないのに、私だけがバグっている。
私は今、自分の人生にとっていちばん危ない場所へ、自分から飛び込もうとしている。
分かってる。
分かってるのに、ブレーキが壊れている。
店が見えた。
木目の扉。控えめな看板。
昨日、あの扉を開けた瞬間の衝撃がフラッシュバックする。
まだ、匂いはしない。
店の外は、無味無臭の真空地帯だ。
この世界に、香りは存在しない。私にとっては。
私は深呼吸をして、覚悟を決めた。
ドアノブを握る手に、力が入る。
小さな金属の冷たさが、現実の手触りとして頼もしい。
そして、開ける。
ちりん。
ガラスを弾いたみたいな音が、鼓膜を揺らした。
その次の瞬間。
来た。
暴力的なまでの情報が、私の中に流れ込んできた。
紅茶の芳醇。
緑茶の青さ。
ほうじ茶の香ばしさ。
抹茶の粉っぽい甘さ。
混ざり合って、押し寄せて、私の鼻の奥を叩き起こす。
怖い。
でも、これが本物だ。
幻覚じゃない。
昨日だけじゃない。
――私が今、感じている。
膝が崩れそうになるのを堪えて、私は平然を装った。
店内は昨日より静かだった。
客はまばら。テーブル席の奥で本を読んでいる人が一人。
昨日みたいに友達という防壁がないのが怖い。
でも、誰にも邪魔されずに確かめられることへの安堵もあった。
最低だ。
私は今、自分の渇きを最優先にしている。
「あ、いらっしゃいませー」
カウンターの向こうから、気の抜けた声。
マスター。
志摩 真澄、と名札には書かれている。
黒いエプロン。眠そうな目。中性的な顔立ち。
昨日、あんなにテンパっていたのに、今日は水面みたいに静かな顔をしている。
それだけで、乱れていた呼吸が少し整った。
私が来ても、世界は壊れない。
壊れているのは私だけだ。
「……」
私は「昨日の」って言いかけて、飲み込んだ。
昨日の、号泣。
昨日の、騒ぎ。
昨日の、恥。
言葉にしたら、会話が続く。
会話が続いたら、踏み込まれる。
私は踏み込まれたくない。
秘密を共有したくない。
ただ、この渇きを癒やしたいだけ。
「カウンター、空いてますか」
「空いてるよ。テーブルも空いてるけど」
「……カウンターで」
自分の口からその選択が出た瞬間、胸がちくりと痛んだ。
近い。
供給源に、近づいている。
距離を詰めるな。
昨日はテーブル席だったのに、今日は無意識にカウンターを選んだ。
自分で自分が怖い。
言い訳を探す。
――カウンターなら、店内が見える。
――手元が見える。淹れ方を観察できる。
――確証を得るために必要。
そうだ。これは調査。
依存じゃない。依存じゃない。
真澄さんは「かしこまりましたー」と軽く笑って、私の前にソーサーを置いた。
その手つきは妙に慣れていて、無駄がないのに、どこか適当に見える。
私はその手元を、獲物を狙う猛禽類のように見つめた。
昨日は泣いていて見逃した。
今日は見る。
盗む。
見破る。
どうやって、あの奇跡の味と香りが生まれているのか。
タネも仕掛けも、暴いてやる。
「今日もおすすめ紅茶?」
真澄さんがさらっと聞いた。
今日も、って言った。
私を「昨日の号泣女子高生」だと認識している。
でも深掘りしない。理由を聞かない。
その無関心さが、今の私には救いだった。
「……おすすめで」
「了解……えっと、昨日は、びっくりさせてごめんね」
「え?」
素っ頓狂な声が出た。
謝られる理由が、ない。
泣いたのも騒いだのも迷惑をかけたのも、私だ。
なのに真澄さんは、申し訳なさそうに眉を下げている。
「なんか、僕の店って、たまに刺さる人には刺さるらしくて」
何それ。
刺さるって。
そんな生易しい言葉で済む話じゃない。
心臓を貫かれて、髄まで侵された。
私は口元を歪めた。笑うふりをして、笑えなかった。
「……私が変だっただけです。すみません」
嘘じゃない。変なのは私の体だ。
でも理由は言えない。
真澄さんは「うーん」と悩むふりをして、ケトルを手に取った。
そして、無造作に水道の方へ行く。
真澄さんはただ、ケトルに水を入れて、火にかける。
動きが雑。
日常的すぎる。
だからこそ、不気味だった。
ケトルが沸く音が、静かな店内に響く。
しばらく待てば、お湯が沸く。
そして真澄さんは、そのままケトルから青い陶磁器のポットに沸いたお湯を移した。
……え?
茶葉は?
ティースプーンは?
ポットは事前に温めてた?
棚には高級そうな茶葉の缶が並んでいるのに、真澄さんは見向きもしない。
茶葉を入れる様子もなく、真澄さんはポットにお湯を注ぐ。
最初からポットには茶葉が入っていたのだろうか。
そもそもポット、冷えてなかっただろうか。
紅茶って、そんなインスタントみたいに作るものだっけ?
喉の奥がひゅっと鳴る。
昨日感じた“香り”の異常さが、今さら遅れて思考に追いついてくる。
これ、普通じゃない。
絶対に何かおかしい。
怖い。
でも目を逸らせない。
そして――
手を、ポットの上に当てた。
ほんの一瞬。
蓋をするみたいに、軽く。
口元が微かに動いた気がした。
呟いた? 念じた? 祈った?
次の瞬間。
ボンッ、と音が聞こえそうなほど、空気が変わる。
香りが“密度”を持った。
店内の空気がひとつの形になって、私の鼻を殴る。
息が止まった。
何、これ。
魔法?
手品?
それとも、ドラッグ?
真澄さんは何も気づかない顔で、カップに紅茶を注いでいく。
赤褐色が落ちる。湯気が立つ。
湯気の中に、花束みたいな甘さと、柑橘の爽やかさが同居している。
「はい。今日のおすすめ」
目の前に置かれるカップ。
私は両手で掴んだ。
熱い。
ちゃんと熱い。
昨日はパニックで覚えていなかった温度。
今日は覚える。刻む。
この熱を、細胞の隅々に焼き付けるみたいに。
「いただきます」
自然に言葉が出た。
七年間、食事の前の言葉なんて作業開始の合図でしかなかった私が、心からそう言った。
私はゆっくり口をつける。
一口。
――来た。
色がついた。
甘い。
渋い。
苦い。
酸っぱい。
そして香りが、鼻の奥を突き抜けて、脳の奥を直接撫でた。
ああ、だめだ。
だめだ、これは。
昨日より冷静に分析しようとしているのに、理性が快楽に溶けていく。
私はカップを置けなかった。
手が離せない。
マグネットみたいに吸い付いている。
怖い。
嬉しい。
この時間が永遠に続けばいい。
また泣きそうになる。
泣いたら、また騒ぎになる。
泣いたら、踏み込まれる。
泣いたら、特別扱いされる。
私は唇を噛んで、必死に嗚咽を飲み込んだ。
泣くな。
味わえ。
一滴も逃すな。
「……大丈夫?」
真澄さんが、少しだけ心配そうに覗き込んだ。
私は慌てて首を振る。
「だ、大丈夫です……美味しい、です」
昨日と同じ言葉。
でも今日は、震えを殺して、できるだけ平坦に言った。
真澄さんは、ほっとしたみたいに笑った。
「よかった。僕、女の子に泣かれるの慣れてなくてさ」
「……慣れなくていいです」
「だよねー」
返しが軽い。
羽毛みたいに軽くて、救われる。
この人は、私を特別扱いしない。
私の事情に踏み込まない。
優しさというより、ただの鈍感。
でも、その鈍感さが、今の私には聖人の慈悲に見える。
私はカップを両手で包み込むように持って、もう一口飲んだ。
美味しい。
悔しいくらいに美味しい。
泣きたいんじゃない。
取り戻したいんだ。
七年分の空白を。
七年分の「無」を。
でも取り戻せない。
この一杯が終われば、また灰色の世界に戻る。
シンデレラの魔法より、残酷なタイムリミット。
分かっているのに、喉が次の一口を渇望する。
カップの中で揺れる赤褐色が、宝石よりも綺麗だった。
こんな色を、私は七年、ただの液体として見ていた。
でも今は違う。
ここには世界がある。
私は飲み終えるのが怖くて、小動物みたいにちびちびと飲んだ。
少しずつ。
大事に。
大事にしすぎて、逆に苦しくなるくらいに。
全部飲み切った頃には、フルマラソンを走った後みたいに心臓が疲れていた。
でも、確証は得た。
昨日だけじゃない。
偶然じゃない。
この店の紅茶は、今日も味がした。香りがした。
つまり。
私の後遺症は治っていない。
だけど、この店だけが例外だ。
私の世界の、バグだ。
それが確定した。
確定した瞬間、安心より先に、底なしの恐怖が来た。
私は、これに縋る。
間違いなく、縋ってしまう。
縋らない理由が、ない。
だってここ以外は全部、死んだ世界なんだから。
「……お会計、お願いします」
声が少し掠れた。
真澄さんが「はーい」とゆるく返して、伝票を作る。
金額は普通の喫茶店として平凡くらい。
でも、安すぎる。
私の世界が戻る対価が、これっぽっちでいいの?
恐ろしくなる。
財布を出しながら、ふと思った。
この秘密を、誰かに言ったらどうなる?
誰かに知られたら、店はどうなる?
怪しい淹れ方をしている真澄さんはどうなる?
そして、私の楽園はどうなる?
想像しただけで、胃の奥が凍りついた。
私は「また来ます」と言いかけて、飲み込んだ。
言ったら、自分の依存を認めるみたいで怖かった。
代わりに、すごく平凡で、ありふれた言葉を選んだ。
「……ごちそうさまでした」
真澄さんは少しだけ目を丸くして、ふふっと笑った。
「どういたしまして。また、お茶飲みにおいで」
その言葉が、胸のど真ん中に落ちた。
無責任で、優しい誘い文句。
悪魔の囁きみたいに甘い。
私は何も言えず、小さく頷くしかできなかった。
扉に向かう。
ちりん、と音が鳴る。
外に出る。
冬の空気が頬に刺さる。
私は無意識に深呼吸をした。
……匂いは、しない。
店の外は完全なる「無」だ。
分かっていたのに、胸が万力で締め上げられるみたいに痛い。
でも、さっき確証を得た。
この店に行けば、味がする。香りがする。
治ってはいない。治らない。
だからこそ。
あの店の存在は、私にとって。
希望じゃない。
生命維持装置だ。
私はコートのポケットの中で、指先を爪が食い込むほど握りしめた。
誰にも言わない。
絶対に言わない。
言ったら壊れる。
壊れたら、私は二度と息ができない。
歩き出す。
足元のアスファルトの冷たさだけが現実だった。
それでも胸の奥は、まだ紅茶の香りの残像で焼け付くみたいに熱い。
その熱が冷める前に、たぶん、また行く。
……きっと、明日も。
――――――――――――――――――――――――――――――
【トピックス】
・完全栄養食のゼリー
そういう食品や飲料は存在しているが、完全栄養食というのは「その人にとっての完全栄養」ではなく、あくまでも厚生労働省の「日本人の食事摂取基準」に基づいて、1日に必要な栄養素の3分の1を含んでいる、だから完全栄養と名乗っているだけに過ぎない。
含まれていない栄養素は普通にあるし、現在厚生労働省が出している基準が必ずしも正しいわけではないし、その基準値が自分自身に当てはまっているかは分からない。
だから、3食全てを完全栄養食にするのは止めよう。
健康以上の投資対象は、たぶんない。