当店では美味しいお茶を必ずご堪能いただけます(他は微妙です) 作:ShilonkS
学校という世界は、残酷なほど「味」でできている。
昼休みの教室。放課後の寄り道。週末の計画。
女子高生の会話は、気づけば食べ物の話題へ流れ込む。
美味しい。
まずい。
甘い。
辛い。
映える。
エモい。
私には、その全部が、ただの“単語”だ。
意味は分かる。使い方も分かる。
でもそこに、体温がない。
骨だけの言葉。中身の抜けた貝殻。
それを、七年間ずっと、拾って並べて、生きてるふりをしてきた。
「ねえ奏音、昨日の放課後さ、駅前の新しいクレープ食べた?」
昼休み。
購買のパンをかじりながら、友達が机に身を乗り出してくる。
教室には、紙袋を開ける音や、ストローを吸う音や、笑い声が満ちている。
きっとここには、パンの匂いも、甘い飲み物の匂いも、混ざっているんだろう。
私は、何ひとつ受け取れない。
「食べてない。昨日は寄り道できなかった」
「えー。めっちゃ美味しかったよ。クリームがさ、軽くて、でもミルク感がすごいの! 口の中でじゅわって溶ける感じで!」
軽いのに濃い。じゅわって溶ける。
その具体的な形容が、まぶしくて、痛い。
味と香りを持ち合わせている、選ばれし人間の言葉だ。
私も昔は、そうやって話してた。
“グルメちゃん” だった十歳までの私は、香りと味に言葉をつけるのが得意だった。
それがある日、事故でごっそり削ぎ落とされて。
今の私は、「わかる人の言葉」を借りてるだけになった。
そのクレープ、私にはきっと、冷たくて、もさっとして、油っぽい、そんな粘土にしか感じられないだろう。
「へえ、いいな」
私は口角を上げて頷く。
いいな、は魔法の言葉。
肯定も、羨望も、同意も、全てを曖昧に包み込んでくれる。
そして何より、それ以上踏み込まれない。
「奏音ってほんと小食だよね。甘いの苦手?」
来た。
定期的に、刺さるやつ。
「ううん。胃が小さいだけ。燃費がいいエコカーなんだよ」
いつもの嘘。
呼吸するように吐き出される、防衛のための嘘。
胃が小さいんじゃない。
味のしない固形物を、みんなと同じ速度で食べるのが怖い。
「美味しいね」の会話に、呼吸を合わせられないのが怖い。
怖いから、笑う。
笑って、話題から半歩ずつ下がる。
どっと笑いが起きる。空気が丸くなる。
助かる。
助かるけど、その笑いが優しいほど、首が締まる。
ああ、息が。
苦しいな。
私だけが、輪の中心に入れない。
入れないのに、入っているふりを続けている。
その時、別の子がぱっと顔を上げた。
「そうだ、あの喫茶店さ! 『お茶神様』! 紅茶、やばかったよね」
友達が目を輝かせた瞬間、私の心臓が嫌な音を立てて跳ねた。
やばかった。
そのチープな一言で、私の中の記憶が勝手に再生される。
ちりん、という音。
扉の向こうの香りの洪水。
舌に乗った瞬間に、世界が色を取り戻した感覚。
――私にとっては、「やばい」で済むものじゃない。
あれは、世界そのものだ。
「また行こーよ! 今度はサンドも食べようよ。ね、奏音も!」
サンド。
無理。
味のしない固形物を飲み込む苦行は、家だけで十分だ。外でまで演技をしたくない。
私は口角を上げて、さらりと身をかわす。
「うん……でも私ほんと小食だから。飲み物だけでいい?」
「それ喫茶店に一番向いてる客じゃん。コスパ良すぎ!」
また笑いが起きる。
また空気が丸くなる。
でも、私の胸の奥には、薄いガラス片みたいなものが刺さったままだ。
コスパ。
そうだよね。
みんなにとって、あそこはお得で美味しい喫茶店だ。
私にとっては。
言えない。
言ったら終わる。
私は話題の端っこで、息を潜めて呼吸をする。
バレないように。
異物として排除されないように。
昼休みが終わるチャイムが鳴るまで、私は完璧な普通の女子高生を演じた。
心の中の小さな私は、その間ずっと息継ぎの場所を探して、溺れていた。
放課後。
友達は「寄り道しよ!」と元気だけれど、私は今日も断る。
断り続けたら怪しまれる。
だから、もっともらしい理由を用意してある。
「ごめん、今日は家で用事ある。親戚が来るから」
「えー、また? 奏音ほんと付き合い悪いー」
「ごめんごめん」
付き合いが悪いんじゃない。
付き合い続けると、心が擦り切れて、もう普通が保てなくなるだけ。
最近、それがひどい。
喫茶店で鮮やかな世界を知ってしまったせいで、七年間淡々と続けて来れたはずの “無” が、耐え難いほどの拷問に変わっている。
友達と別れて一人になると、街の喧騒が急に耳についた。
車の走行音。
自転車のブレーキ。
信号の電子音。
誰かの笑い声。
世界は音で溢れているのに、味と匂いだけが欠落している。
真空パックされたような疎外感。
――なのに。
私の足は、磁石に引かれた鉄くずみたいに同じ方向へ向かっている。
喫茶店『お茶神様』。
行かないと決めたはずなのに。
自制しようって誓ったはずなのに。
依存は破滅の入口だって、分かっているのに。
分かっているから、言い訳を作る。
これは依存じゃない。
これは “確認” だ。
毎回、味と香りが戻るかどうか。
それを確かめているだけ。
――そう思い込まないと、怖い。
店が見えた。
控えめな看板。木目の扉。
深呼吸。
外は、無だ。
私の鼻は何も拾わない。今日も世界は空っぽのまま。
ドアノブに手をかける。
ちりん。
ガラスを弾いたような、あの中毒性のある音色。
ぞわり、と背中に粟が立つ。
それは恐怖か。
それとも歓喜か。
次の瞬間、私の中で何かが反転する。
香りが、殴りかかってくる。
紅茶の華やかさ。
緑茶の青さ。
ほうじ茶の香ばしさ。
抹茶の粉っぽい甘さ。
情報の洪水。
溺れる。
溺れている。
なのに、溺れることがこんなにも心地いいなんて、ずるい。
家の優しさは、真綿みたいに優しく首を絞める。
学校の笑い声は、薄い刃みたいに明るく胸を削る。
でもこの香りは、胸を締めつけるのに、同時に呼吸を許してくれる。
息ができる。
ああ。
酸素がある場所を知ってしまった深海魚は、もう暗い底には戻れないのだろうか。水圧の違いで、死ぬと分かっているのに。
怖い。
私の心が勝手にここを “安全地帯” だと誤認するのが怖い。
ここは安全じゃない。
ここは、私の理性を溶かす場所だ。きっと麻薬の直営店だ。
でも、細胞が先に歓喜してしまう。
「あ、いらっしゃいませー」
カウンターの向こうで、真澄さんがのんびり笑った。
黒いエプロン。眠そうな目。やる気があるのかないのか分からない声。
この人は今日も、平和の象徴みたいな顔をしている。
私だけが、世界の崖っぷちで爪を立てているのに。
「カウンター、空いてますか」
「空いてるよ。今日もカウンター?」
今日も。
その二文字で、背筋がぞくっとする。
覚えられている。
怖い。
でも、嬉しい。
私は頷いて、いつもの席――いつの間にか“私の席”になりかけている場所へ滑り込む。
「おすすめ紅茶でいい?」
「……はい」
それだけの会話。
それだけで十分だった。
真澄さんはポットを用意して、お湯を沸かして、ふわっと手を当てる。
たったそれだけ。
なのに湯気の中に、完成された世界が立ち上がる。
分からない。
この人が何をしているのか、原理は分からない。
でも結果として、私は救われる。
救われてしまう。
カップが目の前に置かれた。
「はい、今日のおすすめ」
「……いただきます」
一口。
色が、ついた。
舌の上に甘さが立ち上がって、渋みが追いかけて、透明な余韻が喉を撫でる。
香りが鼻の奥を抜けて、頭の中のモノクロフィルムを焼き払っていく。
――ああ。
だめだ。
これを飲むと、外の世界がもっとつらくなる。
なのに、やめられない。
重度の依存症患者だ。
「……美味しい、です」
私がそう言うと、真澄さんはいつも通りの顔で返した。
「でしょ。お茶って美味しいよねぇ」
それだけ。
真澄さんは、深くは全然聞いてこないし、語らない。
銘柄がどうだとか、原産国がこうだとか、発酵が、ブレンドが、そういう蘊蓄は一切ない。
蘊蓄も、感想の掘り下げも、正解探しの質問もない。
味が分かる人の会話は、いつも試験みたいだ。
フルーティ? 渋み? 余韻? 香りの立ち方?
正解を言えなければ、置いていかれる。
でも、真澄さんは違う。
真澄さんは、聞かない。
そして語ってこない。
聞かないから、私は嘘をつかなくて済む。
私は、味が分かる人の語彙を持っていない。
だから、いつも会話の輪から弾き出される。
でもここでは、弾かれない。
だって真澄さんも、味の蘊蓄を語らないから。
美味しい、だけで完結する世界。
私が言葉を持っていなくても、置いていかれない。
単純で、簡素で、言葉を頼りにしない世界。
それが、救いだ。
あまりにも。
「……学校、疲れた?」
真澄さんが突然、独り言のように聞いた。
心臓が一瞬止まりそうになる。
なんで分かるの。
顔に出てた?
能面は、完璧だったはず。
でも真澄さんの声は軽い。重くない。
ただの、天気の話をするようなトーン。
「……ちょっとだけ」
「そっかぁ。今日は疲れが取れるお茶にしといたからね。元気になーれ」
さらっと言われた。
軽い。適当。たぶん本気でもない。
なのに胸の奥が熱くなる。
疲れが取れるお茶。
元気になーれ。
そんなの、子どものおまじないだ。
――でも私は今、その子どものおまじないで呼吸している。
気遣いなのか、ただの適当発言なのか。
たぶん後者だ。
でも、その適当さが私を縛らない。
私はカップを両手で包んで、もう一口飲む。
涙が出そうになる。
泣いたら困らせる。
だから、泣かない。
代わりに、ほんの少しだけ笑う。
誰にも見せない、自分のための笑み。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
たったそれだけで、ささくれ立っていた心が凪いでいく。
私の世界は、今や三つになりかけている。
学校と、家と――ここ。
それが怖い。
あまりに心地よすぎて、ここ以外が要らなくなりそうで。
三つの世界が、一つでいいや、になりそうで。
……違う。
私は真澄さんに依存してない。
依存してるのは、紅茶だ。
ここで出される “味と香り” だ。
真澄さんは、ただの蛇口。
たまたま蛇口の位置に人が立っているだけ。
そう思わないと、もっと怖い。
カップの残りが少なくなる。
その事実が、背骨の奥から冷える。
飲み終えたら、魔法が解ける。
また無に戻る。
分かっているのに、飲むのをやめられない。
私は最後の一口を、必要以上に丁寧に飲み込んだ。
帰り際。
ちりん、と音が鳴って店を出た瞬間、魔法が解けた。
香りが消える。
外は、冷たくて乾いた無の世界だ。
分かっていたのに、胸が抉られるみたいに痛い。
私はコートのポケットの中で手を握りしめて、駅へ向かって歩き出した。
ブブッ、とスマホが震える。
通知。
クラスのグループチャット。
『今度さ、またお茶神様行かない? 土曜とか!』
『行きたーい! あそこのマスター、かわいい系だしw』
画面の文字が、やけに眩しくて、汚らしく見えた。
来ないで。
近づかないで。
あそこを、遊び場にしないで。
あそこは、みんなの “美味しいお店” じゃない。
あそこは、私の場所だ。
私がようやく見つけた、唯一息ができる場所だ。
土足で踏み込んで、その無神経な明るさで汚さないで。
喉の奥まで、どろりとした独占欲がせり上がる。
友達に対してこんなことを思う自分が、醜くて、怖い。
でも止められない。
私はスマホを握りしめた。
画面がきしむ気がするくらい強く。
「いいね」のスタンプを押しそうになって、指が動かない。
代わりに、曖昧で、卑怯な返事を打つ。
『また予定見て言うね』
嘘。
予定なんて、もう決まっている。
私はまた一人であの扉を開ける。
ちりん、と鳴る音を独り占めするために。
あの味と香りを、誰にも邪魔されずに摂取するために。
――依存しないように必死でブレーキを踏みながら、アクセルをべた踏みしている。
私はもう、戻れないところまで来ているのかもしれない。
そしてその事実を、私は今日も、紅茶のせいにする。
私は紅茶が好きなだけ。
そう、好きなだけ。
それだけで済むなら、どれだけ楽だっただろう。
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【トピックス】
・小松 奏音(こまつ かのん)
17歳の女子高生。
10歳の頃に交通事故により味覚と嗅覚を失う。何を食べても何を飲んでも、味が全く分からなくなって絶望する。
味覚消失と嗅覚消失以外の後遺症は全くなく、外見的には全くの健常者。
ただ、味覚と嗅覚は戻っておらず、どんな飲食も味がしない。
味覚と嗅覚を失う前まではグルメちゃんだったので、食事の楽しみがなくなって一時期は絶望したが、今はどうにか食べることはできている。
ただ、完全に「生きるための栄養補給」という飲食で、家では完全栄養食というのを売りにしているドリンクで済ませている。
外では自分が味覚障害者であるというのを隠しており、高校の友達と食べに行くことは普通にあるが、何も味のしない食べ物を食べる気にはどうしてもならず、友達には「かなりの小食」ということにして付き合い程度にしか口にしない。
味覚と嗅覚を失っているのを友達などに隠しているのは、自分が障害者であると見られたくないから。仲間外れにされたくないから。