当店では美味しいお茶を必ずご堪能いただけます(他は微妙です) 作:ShilonkS
土曜日の朝は、いつもより静かなはずなのに。
私の胸の奥だけが、朝からずっと、鉛みたいに重い。
理由は簡単だった。
今日は友達と一緒に、喫茶店『お茶神様』へ行く約束をしてしまったから。
してしまった、なんて言い方は卑怯かもしれない。
いいや、卑怯だ。私にお似合い。
断れたはずだ。断る言い訳なんて、いくらでも捏造できた。私は七年間それで生きてきた。
なのに断れなかったのは、ただひとつ。
輪から外れるのが、怖かったから。
あの店を、みんなのものにしたくないくせに。
そうやって、また自分で自分の首を絞めた。
ああ、息苦しい。
息が、詰まっていく。
『今日ね、写真撮ろ! 絶対映えるって! あの店の紅茶、色がエグいもん!』
スマホが震える。
グループチャットの通知。
写真。
映え。
その単語を見ただけで、背骨の内側が冷える。
投稿。
タグ。
位置情報。
拡散。
誰かの「行きたーい!」。
その誰かの、さらに誰か。
広まる。
デジタルタトゥーのように、あの店の情報が世界に刻まれてしまう。
誰でも来られる場所になってしまう。私の避難所が、観光地になってしまう。
――やめて。
そんな叫びが喉まで上がってきて、強酸のように喉を焼く。でも、飲み込んだ。
言えるわけがない。
「私の救いを奪わないで」なんて。
そんなの、あまりにも醜いエゴだ。
かわいそうな障害者の泣き言だ。
そう思われたくない。思われた瞬間、私の人生の立ち位置が変わってしまう。
私はスタンプをひとつ押した。
「了解」みたいな、何も決めない丸い顔。
それで、世界の崩壊を先延ばしにできた気がした。
できるわけないのに。
歯を磨く。
ミントの刺激は“痛み”みたいに通り過ぎるだけで、味はない。
ゼリー飲料を喉に流し込む。粘度のある液体が落ちていくだけ。
世界は今日も、無味無臭のまま。
なのに、私は鏡の前で髪を整えてしまう。
行く準備を、してしまう。
胸の奥の鉛が、さらに沈む。
駅前で集合した友達は三人とも、朝から無敵だった。
休日の私服。いつもの制服よりずっと自由で、ずっと眩しい。
「奏音、今日は絶対泣かないでね? バスタオル持ってきたほうがいい?」
茶化すように言われて、心臓が嫌な音を立てた。
冗談みたいな口調。
でもその冗談の中に、あの日の私の惨めさが、軽く包装されている。
あの日のことは、もう笑い話になっている。
それは正直、助かる。
彼女たちなりの優しさだ。消化して、日常に戻してくれている。
でも私の中では、終わってない。
笑い話どころか、今もその続きを生きている。
「泣かないよ……たぶん」
「たぶんって言った!」
「情緒不安定キャラ定着してるってば」
笑い声。
私は笑って、同じ速度で笑って、精巧な仮面を顔に貼りつける。
大丈夫。
今日はただ、普通に紅茶を飲むだけ。
普通に「美味しいね」って言うだけ。
普通に。
その “普通” の中で、私は、店を守るだけ。
……守る?
言葉にしてはいけないものが、思考の端に生まれる。
自分の思考の歪さが怖くて、私は口を閉じた。
歩いているうちに、店が見えてきた。
木目の扉。控えめな看板。
私の心臓は、勝手に早くなる。
友達の手が、ドアノブにかかる。
ちりん。
ガラスを弾いたみたいな、あの音。
次の瞬間。
――香りが、来た。
外では何も感じないはずの私の鼻が、店の境界線を越えた途端に、強制的に受信を始める。
紅茶の甘さ。緑茶の青さ。ほうじ茶の香ばしさ。抹茶の粉っぽい甘み。
情報の塊が、温かい暴力みたいに胸の奥に落ちる。
膝が折れそうになる。
でも折れない。折れたらバレる。
私は歩幅を合わせる。
過剰反応はしない。しない。しない。
――しない、はずなのに。
心の奥が、うっかり息を吸ってしまう。
この空気を、もっと吸いたいと思ってしまう。
最悪だ。
「あ、いらっしゃいませー」
のんびりした声。
カウンターの向こうに、真澄さんがいる。
黒いエプロン。眠そうな目。中性的な顔立ち。
いつもの平和ボケした顔。
それだけで、胸が少しだけ緩む。
溺れていた私が、ゆっくりと息ができるようになる。
真澄さん。
真澄さん。真澄さん。
真澄さん。真澄さん。真澄さん。
真澄さん。真澄さん。真澄さん。真澄さん。
真澄さん。真澄さん。真澄さん。真澄さん。真澄さん。
世界がどれだけ危うくなっていようと、たぶんこの人の体温は一定だ。
……この人、今日も何も知らない。
私が必死に防衛線を張っていることも、私の内側で渦巻く恐怖も、たぶん何も。
「お、今日はお友達と一緒だね」
私を見て言う。
“私” を、識別している。
心臓が跳ねた。
やめて。私だけを見ないで。
私だけが特別になってしまう。
私は反射で、軽く笑って頷いた。
「はい」
「女子高生が来ると一気に店が華やかになるねぇ。加齢臭が消し飛ぶよ」
「おじさんくさい発言やめてください」
反射で言ってしまった。
自分でもびっくりするくらい、速かった。
友達が「奏音こわ」って笑う。
真澄さんは「ごめんにゃちゃい」みたいな顔をして、ふにゃっと笑う。
この空気は、平和だ。
平和なのに、私だけが一人で塹壕の底にいる気分だ。
席はテーブル席。
当然だ。
カウンターに座りたい、なんて言えるわけがない。供給源に近づきたいって言ってるみたいで気持ち悪い。
座りながら、私は無意識に店内を見回してしまう。
いつもの新聞の紳士。
本を読んでいる人。
見たことのない客。
それだけで、胸がちくりとする。
――この店は、私だけのものじゃない。
分かってる。
分かってるのに、全員に出ていってほしいと思う。
思ってしまう。
「おすすめってどれですかー?」
友達が聞く。
この子、前も同じこと聞いてた気がする。
それを繰り返しのボケと捉えたのか、真澄さんは前と同じように胸を張った。
「全部おすすめだよ。なんせ神様のお茶だからね」
「うわ出た、自称神!」
「かわいい〜」
笑い声。
私は笑いに混ざりながら、脳内で今日のミッションを繰り返す。
広めない。
広めさせない。
でも、そのための正当な理由がない。
真澄さんがお茶を用意しに奥へ引っ込んで、店内は一瞬だけ静かになる。
友達はスマホを取り出した。
来た。
「ねえ、先に店内撮っとこ! 雰囲気いいし! ストーリー上げよ!」
友達がカメラを起動した瞬間、私の背中に氷柱を差し込まれたような感覚が走った。
写真。
投稿。
拡散。
タグ付け。
位置情報。
地獄の役満。
私の避難所が、観光地になる。
「……やめない?」
声が出てしまった。
思ったより鋭く、強い声になってしまった。
自分の声なのに、自分の耳が痛い。
「え、なんで?」
なんで。
その問いが、私の喉を締める。
言えない。
言えるわけがない。
私は咄嗟に嘘を縫い合わせる。下手な裁縫みたいに。
「……個人店って、勝手に撮るの、あんまり良くないかなって。マナー的に」
「え、でもみんな撮ってるよ?」
「最近、無断撮影で炎上とかあるし……店長さん、ああ見えて厳しいかもしれないし」
言いながら、自分でも苦しいのが分かった。
穴だらけの理屈だ。
友達の目が少しだけ細くなる。探る色。
「奏音さ、この店のことになると妙にピリピリしてない?」
心臓が、嫌な音を立てた。
バレる。
疑われている。
私は笑う。
笑って、声の温度を下げる。
「ピリピリじゃないよ。ここ、静かで落ち着くじゃん。スマホのシャッター音とかで空気が壊れるの、もったいないかなって」
「あー、それは分かるかも」
ひとりが納得しかけた。
でも別の子がすぐにスマホを構える。
「じゃあ無音カメラで! 紅茶だけ撮る! 手元だけならいいっしょ!」
一番ダメなやつ。
紅茶が写れば、色が写る。湯気が写る。
「やばい紅茶」が投稿される。
それが一番の機密情報なのに。
でも、店内や位置情報よりはマシだ。ここで拒否し続けたら、余計に怪しまれる。
私は妥協点を探す。必死に、必死に。
「……それ、マスターさんに聞いてからにしない?」
「律儀かよ」
「えへへ、奏音ってそういうとこ真面目だよね」
笑い。
私は笑えないのに、笑う。
そこへ、真澄さんがトレイを持って戻ってきた。
湯気。
香り。
友達が「わー!」と声を上げる。
「お待たせしましたー。おすすめ紅茶、四つね」
「うわ、いい匂い!」
「色きれい! マスター、写真撮っていいですかー?」
友達が軽いノリで聞く。
私は息を止めた。
どう答える。
断って。
お願いだから断って。
でも真澄さんは、すぐに笑って言った。
「いいよー。宣伝してくれるなら助かるし」
――あ。
店側にとっては、当然そうだ。
私にとっては、死刑宣告みたいな一言だった。
「でも、僕の顔は撮らないでね。魂抜かれるから」
「なにそれ、明治時代の人?」
「マスターかわいいキャラ?」
「いや不思議キャラでは?」
空気が丸くなる。
真澄さんの軽口で、友達のテンションが上がる。
そしてスマホのカメラが、紅茶に向けられる。
湯気が写るように角度を変えて、カップを寄せて。
パシャ。
パシャ。
パシャ。
シャッター音が鳴るたび、私の心が薄く削られていく。
写真1枚。
投稿1回。
それだけで、世界は変わる。
私の救いが、みんなの消費コンテンツになってしまう。
私は自分の紅茶のカップを持って、口をつけた。
一口。
味がする。
香りがする。
ほ、と呼吸ができる。
味と、香り。
それだけで脳が溶けるように安らいで、同時に、胸の奥が引き裂かれるように痛くなる。
この一口は救いなのに。
この一口のせいで、私はここを手放せなくなる。
友達が「美味しい!」と笑う。
その「美味しい」と、私の「美味しい」は同じ言葉で、意味が違う。
私は混ぜる。
嘘と本音を、同じカップの中で混ぜて飲む。
「奏音も撮りなよ!」
友達がスマホを差し出してくる。
「……私、いい」
「えー、絶対映えるって! もったいない!」
「見る専だから」
嘘だ。
アカウントは持ってる。
多少の投稿も、ある。
でも、そこにこの店を載せたくない。
載せたら、私が“広めた側”になる。共犯者になってしまう。
それだけは嫌だ。絶対に嫌だ。
友達は「奏音ほんと謎」って笑って、それ以上は押してこなかった。
その優しさが刺さる。
私は優しさで刺されるのが一番苦手だ。罪悪感がのしかかるから。
紅茶が減っていく。
それが怖い。
怖いのに、飲む。飲んでしまう。
飲み終えた頃、友達が「次はサンド頼む?」なんて言っていた。
私は笑って首を振る。
「私は……小食だから」
いつもの盾。
最強で、最悪の盾。
友達が「あーはいはい」って流してくれる。
紅茶を飲み終える。
飲み終えてしまった。
会計をして、店を出る。
ちりん。
外は無。
香りが消える。
舌が死ぬ。
さっきまでの救いが嘘だったみたいに、肺が一瞬だけ酸欠になる。
でも今日は友達がいる。
倒れそうになっても、普通の顔を作らなきゃいけない。
「また来よー!」
「次は違うお茶も飲みたい!」
楽しそうな声。
私は笑って頷きながら、心の中では同じ言葉を呪詛みたいに繰り返していた。
広めないで。お願いだから。
帰り道、スマホが震えた。
グループチャット。
『投稿した! #お茶神様 #紅茶やばい #隠れ家カフェ』
画面の文字を見た瞬間、血の気が引いた。
投稿。
タグ。
拡散の種。
「隠れ家」のくせに、堂々と鍵を開ける言葉。
足が止まりそうになる。
私はアスファルトに爪を立てるみたいに踏ん張った。
隣の友達が気づいて、笑いながら言う。
「奏音、顔こわ。そんな写真嫌だった?」
嫌だ。
嫌だ嫌だ嫌だ。
でも言えない。
私は笑った。笑って、声を平坦にする。
「……別に。私が半目になってないか心配なだけ」
「なってないって〜。てか奏音さ、この店のことになると妙に守るよね。彼氏でもいるの?」
冗談みたいな口調。
でも、その目は少しだけ真剣だった。
心臓が、嫌な音を立てた。
バレる。
私の中の特別が、歪な形でバレる。
私は肩をすくめる。軽く、軽く。
軽く見せないといけない。ここで重くしたら終わる。
「守ってないよ。ただ……落ち着くから。静かにしたいだけ。隠れ家って、隠れてるからいいんでしょ?」
「ふーん。まあ一理あるけど」
友達はそれ以上追及しなかった。
しなかったけど、私の胸の中には焼け焦げた跡が残る。
疑われた。
そして、もっと最悪なのは、投稿は、もう私の手では消せない。
私の知らないところで、誰かが「行ってみたい」と思ってしまう。
その誰かが、増えていく。
お店にとってはいいことだ。
真澄さんにとっても、きっといいことだ。
なのに私は、良かったね、と思えない。
私はスマホを握りしめる。
消したい。
全部消したい。
サーバーごと、跡形もなく。
でも、できない。
できないから、私はただ、喉の奥で小さく呟いた。
誰にも聞こえない声で。
「……お願いだから、奪わないで」
醜い。
自分が醜い。
それでも止められない。
私はもう一度だけ、あの扉の音を思い出す。
ちりん、と鳴る音。
その音が、今の私を繋ぎ止める鎖になり始めていることに、
私は気づいて、気づかないふりをした。
依存してるのは紅茶だ。
私は、そう言い聞かせる。
真澄さんは、ただの蛇口。
蛇口の位置に、たまたま人が立ってるだけ。
そう。
だから。
蛇口の場所を、誰にも教えないで。
――――――――――――――――――――――――――――――
【トピックス】
・奏音は独占欲の強いヤンデレ気質か
はい(断言)