私がその一撃を防ぐことができたのは、単純に運が良かったからだった。
それ以外の要素はない。魔法が使えなくなっていることに気付いて、呆然としていた私は、敵にとっていい的でしかなかったはずだ。
だから、敵は――『孤独』は容赦なく撃ってきた。放たれた矢は、音もなくこちらに向かって飛来し、私はそれに気付かなかった。
敵の狙った着弾点は、おそらく私の眉間だったのだろう。それが幸運だった。魔法が使えないことにショックを受けた私は、自分の杖を目の前に持ち上げて、信じられない思いでそれを見たのだ。すると――ちょうど顔の前にあった杖の真ん中に――軽い衝撃とともに、細い矢が突き立ったのだ。
私は反射的に、床に体を伏せた。そして、自分が今まさに死にかけたのだ、ということを理解し、ぞっとした。
心臓の鼓動が高鳴る。額に、冷たい汗が浮かぶ。
肌で感じる――死線の、空気。
ずれかけた眼鏡の位置を直して、私は思考を巡らせる。矢は、正面の御者台に通じる小窓から飛び込んできたのだろう。しかし、窓に嵌まっていたガラスが砕けて飛び散っているのに、その音は全く聞こえなかった。矢が、木でできた杖に突き立った音も、衝突した反動で小刻みに震えている、矢の振動音も。
音のない世界――初めて遭遇する環境――まさか、ここまで気付けないものだとは。
これでは、ヒトがすぐ近くに近付いてきても、まったく気付けないかも知れない。いや、気付く自信がない。今の一撃だけでわかった。この敵は、挑みかかって倒すには、あまりに厄介な相手だ。
少しも気配を感じさせずに攻撃してくる隠密性。魔法を使えなくするという、対メイジ戦用の鬼札。
正面からぶつかるのは得策ではない。それがはっきりとわかった。
だから、こちらの取るべき最善手は――逃走だ。
『シルフィード!』
スペルを唱えなくても使用可能な、使い魔に対する念話で、上空にいるシルフィードに呼びかける。
『きゅい!』とすぐに返事が返ってきたので、続けて私は指示を飛ばした。
『降下して、私たちを拾って』
風竜である彼女に乗って、この消音魔法の効果範囲外まで脱出すれば、ほとんどの問題は解決する。
私の任務は、ヴァイオラを無事にリュティスまで連れていくこと。敵を倒すことではない。
さすがの弓矢も、シルフィードの羽ばたきで生まれる風に煽られれば、まともに当たらないだろうし、私たちが飛び去ってしまえば、『孤独』にこちらを追いかける術はあるまい。
戦って勝つばかりが強さではない。逃げるという判断も、時には必要になる。今が、その時だ。
『わかったのね、お姉様! 今すぐ……きゅっ!? きゅいいぃぃ〜っ!?』
悲鳴とともに、恐怖と混乱のイメージが、使い魔とのリンクを通じて、私の頭に入り込んできた。
『どうしたの、シルフィード?』
『すごいでっかくて、恐いおじさんがいるのね! お姉様のところに行きたいのに、通せんぼされて……きゅいいっ! 痛い痛い!』
要領を得ないその言葉に、私はシルフィードの様子を確認しようと、体を低くしたまま、窓のひとつから空を見た。
ぎざぎざとした木々の影が、群青色の空を突いている。そんな景色をバックに、ふたつの影が追いかけっこをしていた。追いかけられているのは、スマートな青みがかった影――おそらく、シルフィード――もうひとつ、追いかけている方の影があったが、こちらはシルフィードよりふたまわりほど大きく、灰色がかった肌を持っていた。
シルフィードと同じく、皮膜状の翼を羽ばたかせて飛ぶ、あの生き物は――凶暴な飛竜種、ワイバーン。それも、成体だ。
『わーん、追いかけてこないでー! かじられるのは嫌なのねー!
い、痛い痛い! ぎゃあぁあ〜っ、おっ、折れるうぅ〜っのねー! 何で竜がこんな上手に関節技を……痛い痛いギブギブギブ!』
ふたつの影が重なり、空中で暴れ回る。捕まったらしいシルフィードが苦痛の念を送ってくるけど――関節技って何? 竜同士で、しかも飛びながら、どうやったらそんなことが可能なの?
気になって目をこらしたけれど、ふたつの月は両方とも雲に隠れかけていて、二頭のぼんやりしたシルエットしか見えず、何がどうなっているのかわからない。月、もっとちゃんと仕事して。
数秒の抵抗の後、何とかシルフィードは敵の拘束から逃れることができたけれど、ワイバーンの追撃は止まらず、シルフィードは私たちのいる場所に、まったく近付くことができそうになかった。
まさか――このワイバーンも、敵の打った手なのだろうか?
いや、疑問形ではいけない。間違いなくそうだ。私はボルドー港で、シルフィードとともにヴァイオラを迎えた。敵にその姿を見られていたなら――緊急逃走手段として、私が竜を使うだろうということは明らかで――それを潰しにかかるのは、当たり前の処置だ。
まずい。少しずつ、こちらの取れる行動が奪われていっている。
どうすればいい? この状況。
どう切り抜ける?
考える私の目の前で、再び音もなく窓ガラスが割れた。
そして、私の頭上をかすめ、対面の壁に突き刺さる矢。
敵の一方的な攻撃は、まだまだ続く。
■
(よし、うまくあちらさんの竜を追っ払ってくれているな、アームロック……これが終わったら、ご褒美に生きた羊を食わせてやろう)
俺の使い魔、ワイバーンのアームロックが、タバサとかいう騎士の風竜を小突き回している。
それを横目に見ながら、俺は弓に矢をつがえた。先ほどの一射で、ミス・タバサを仕留められなかったのは残念だが、牙も足も羽も奪われた敵は、かなり追い詰められているだろう。
この調子で攻め続ける。彼女らは、まだこもるべき甲羅を持っているから、次はそれを奪わなければならない。
弓を引き、重い反動とともに、矢を放つ。最初の狙いは、標的たちの乗っている馬車の、窓ガラス。
御者台の小さな窓はすでに撃ち抜いてあるが、大きな馬車だから、窓は他にも数面ある。これは的も大きく、非常に狙いやすかった。まるで飴細工を砕くように、透明な板はやすやすと崩れ、馬車には窓枠型の穴がいくつも空いていく。
次に撃つのは、馬車の扉の、蝶番。
こちらは窓に比べれば、小さい的だ。しかし、落ち着いて狙えば、案外当てられる。弓を鳴らして――音はしないが――いくらかのタイム・ラグののちに、百メイルの距離を隔てて、矢が金属の蝶番を突き破り、破壊する手応えが伝わってきた。
もちろん、扉を支える蝶番はひとつではない。慎重に、二発、三発と矢を放ち、その小さな金属部品を砕いていく。
縦に並んだ蝶番を三つ、残らず壊してしまえば、扉はぐらりと傾いで、次の瞬間には馬車から外れ、地面に落下してしまった。
(さあ、これで風通しがよくなっただろう)
こちらが矢を十本も消費した頃には、馬車は穴だらけになっていた。窓がなくなり、扉も剥がれ落ち、鳥かごのように中身がよく見える。床に伏せる、青髪のミス・タバサ。テーブルの向こう側で、片膝を立てて杖を構えている、金髪のミス・パッケリ。そして、その後ろにかばわれるようにうずくまっている小さな人影が、ミス・コンキリエだろう。
全員、姿が見えるようになった。ミス・コンキリエだけは、ミス・パッケリが盾になっていて見えにくいが、これは盾の方を先に射殺してしまえば、問題なく狙えるようになるはずだ。
うまくやれば、あと三本矢を消費するだけで、任務完了できるかも知れない。
楽な仕事だった。そう思いながら、新たな矢を構えようとすると――。
(む?)
ミス・タバサが、突然迷いのない力強さで床を蹴り、さっきまで扉の付いていた出入り口から、素早く馬車の外に駆け出したのだ。
一人で逃げる気か? それとも、俺を始末しに向かってくると言うのか?
どちらにせよ、大して変わりはしない! 動かない標的と、動く標的――攻撃する優先順位が、確定するだけのことだ!
馬車を一時的に照準から外し、走るミス・タバサに向けて矢を放つ。
木々の間に身を隠される前に、始末する――俺の《無音(ミュート)》を体験した以上、けっして生きて帰すわけにはいかないのだ。
ほぼ直線に近い弧を描いて飛んだ矢は、今度こそミス・タバサの額をぶち抜――かずに、彼女の振り抜いた杖に、虫のように叩き落とされた。
(おや?)
■
どうすべきか、という自問に、私は答えを出せずにいた。
逃げる? 否。馬は走り去り、シルフィードも使えない状況で、飛び道具を持つ相手から、走って逃げ切れるものか?
攻める? 否。こちらは魔法を使えない。その不利益は『孤独』も同じだが、通常武器を使い慣れている様子から見ても、向こうの方が圧倒的に有利。
そもそも、攻めるためにこの場を移動すれば、守るべき人を無防備にしてしまう。ヴァイオラを死なせる可能性の高い選択肢は、選べない。
この場に留まって、防御に専念する? 否。敵はいともたやすく、この馬車という防壁をぼろぼろにしてしまった。もう、どこから狙ってきてもおかしくはない。矢のストックがいくらあるかもわからない、直接攻撃をされる可能性もある――そんな状況では、どれだけ足掻いたとしても、じり貧にしかなり得ない。
他に選択肢はないのか。他に。
それを考え続け、そして結局、何も思いつけないでいた私に、ひとつの決断をさせたのは、杖を持つ手を揺らした、小さな衝突だった。
後ろから、手の甲に何かが当たったらしかった。見ると、すぐそばに、革の鞘に入れられた果物ナイフが落ちている。
振り向くと、シザーリアと目が合った。彼女は背中にヴァイオラを隠しながら、戸棚の引き出しを開けて、そこからいろいろなものを取り出しているところだった。果物ナイフ、ステーキナイフ、アイスピック――武器として使えそうな刃物類を引っ張り出しては、床を滑らせて、私の方へ送ってきている。
そして、私が見ていることに気付くと、まず、ナイフ類を指差してから、外を指差すというゼスチュアをしてみせた。
その意味するところは、まるで言葉で伝えられたかのように、はっきりと理解できた――すなわち。
(それを手に取って。そして、敵を速やかに始末してきて下さい)
彼女の意思表示に、私は驚いた。その選択肢は、私自身が、先ほど否定したばかりだからだ。
(ダメ。それでは、私はあなたたちを守れない)
身振り手振りで、それを伝える。たぶん、正確に伝わったと思う。しかしシザーリアの返事は、首を横に振る、というものだった。
彼女は、自身の杖――三十サントほどの、金属製の杖――を、戦いに挑むように構えて持ち、その手で、トン、と軽く、自分の胸を叩いてみせた。
(この場は、私が守り通します。だからあなたは、敵の排除に専念して下さい)
目と態度が、そう言っていた。
そこにあったのは、並の決意ではなかった。本気でそれをやると決めているし、できると信じている。戦いの場に身を置いたことのない、ただのメイドには持ち得ない自信と胆力だ。
彼女には、それだけの実力がある――私はそう判断した。
床に散らばるナイフをかき集め、スカートのポケットに収める。そして、シザーリアに目で合図をする――(すぐ戻る)と。
彼女も頷き、(ご武運を)と、唇を動かして伝えてくれた。
そこから、一秒もかからないうちに行動を始めた。床を蹴り、扉の失われた出入り口から、馬車の外に飛び出す。
森の中を駆けて、まっすぐ敵を目指す。矢の飛んでくる方向と角度から、奴の居場所はだいたいわかっている。青い月の方向、距離はおよそ百メイル。仰角で約二十五度!
青い月を背景に木々を見れば、一本だけ不自然に揺れているものがある。風に揺さぶられている動きじゃない――『孤独』は、あの木の頂上付近にいて、そこから狙ってきている。
案の定、その場所を起点とした銀色の輝きが、鋭さを持って私に迫った。月明かりの中を撃ち抜く矢の射線――!
暗闇の中を、ちらりと走るだけのその線を、視覚だけを頼りに回避するのは難しい。だが、私は風メイジだ。音が聞こえなくても――矢が空間を渡ってくるならば――必ず、風を貫き、掻き分け、押し退けてやってくる。その空気の歪みを、肌で感じることができれば、触覚で矢の動きと位置を知ることができる。集中するのだ――肌の表面で風を感じろ――風を操ることができる私が、空気を感じることができなくてどうする?
落ち葉だらけの地面を蹴り、前に進む。顔に風が当たる。まっすぐな風の流れが、私を包んで――その中で、一点の流れが歪み――崩れる!
(そこ!)
風の歪みを切り裂くように、杖を振り抜く。軽い衝撃があった。受け流した先を見れば、一本の矢が落ち葉を巻き上げて、地面の上を跳ねていた。
そのまま私は、速度を緩めることなく木々の間に飛び込み、太い木の幹を盾にしながら、移動を続けた。見通しのいい街道を通る馬車ならともかく、私のような立木の中に隠れた小さな獲物は、敵の位置からは矢で狙えない。
いける。これなら充分に近付いて、こちらからも攻撃可能な間合いで勝負が挑める。
勝ち目が出てきた、そう安堵しかかっていた私の頭上を、風の歪みが駆け抜けていった。
あれは、私を狙ったものじゃない。あの射線は――狙撃対象は、私がさっきまでいた馬車――。
私は唇を噛んで、走る脚にさらに力を込めた。敵は決断が早い! 私を撃ちづらくなったと感じたら、すぐに標的をヴァイオラたちに変えた!
安堵しているひまなどない! 急げ私よ、急ぐのだ!
■
ヴァイオラ様を背後に寝かせて、私は青い月の輝く外へと目を向けました。
赤い月は、私からは見えない死角にあるようです。今はそれで結構――赤という色は、どうも血を思わせるので、こういう状況ではあまり好ましくありません。
さて、ミス・タバサを激励して、賊の退治に行かせましたが、こうなったからには、このシザーリア・パッケリ、何としてもヴァイオラ様を守り通さなくてはなりませんね。
今、私が手に持っているのは、杖の他にもうひとつ、戸棚から引き抜いた、棚板の一枚です。魔法が使えない以上、この板はきっと、杖よりも役に立ってくれるはずです――具体的には、盾として。
私がすべきは、あくまで防御。攻撃はミス・タバサに任せて、私はこの板で矢を防ぎながら、ヴァイオラ様の前から、一歩も動かないつもりです。
自分の分をわきまえ、自分にできることをする。それが、慣れ親しんだ私のやり方ですので、そこからはみ出すことも、そこから逃げ出すことも致しません。
『――いいかい、シザーリア君。誰かと戦闘になった場合、まず必要なのは、彼我の戦力分析だ』
私の脳裏に、かつて私に戦い方を教えてくれた、ある人の言葉が浮かんできました。
四角いべっ甲縁の眼鏡をかけた、紫色の髪の紳士――アーム・チェアに腰掛け、膝の上にぶ厚い書物を置いて――目尻と頬にしわを浮かべて微笑んでいたあの方――ミスタ・セバスティアン・コンキリエ。
私のかつての雇い主で、ヴァイオラ様のお父上。
『向かってくるのが、勝てない相手だとわかったら、勝てる人に任せて、引っ込むことも必要だよ。
判断基準は、敵の攻撃の威力でもいいし、動きから見えてくる頭の良さでもいい。負けている、と考えられる分野では、勝負を挑んではいけない。
勝っている、と考えられる分野でのみ戦うのが、私が君に求める戦い方だ。ああ、そうそう、あえて自分に不利なシチュエーションで勝負して、格上の敵を打ち破ることを喜びとする人たちもいるけれど、そういう戦闘狂じみた嗜好は持たないでおくれよ。可愛いヴァイオラを守る護衛として、そういう性格は望ましくないからね』
語るセバスティアン様の周りでは、いつも奇妙な虹色の泡が、ぼこぼこ、ぼこぼこと、膨らんだりはじけたりしておりました。書き物机の上、天井の隅、絨毯の端、果ては彼の肩の上や、ティー・カップの中でまでも。
しかし、彼はそれを不気味がったり、疎ましく感じたりはしていないようでした。それどころか、その泡にしか見えないものを『ヨグ・ソトホート』と呼び、『僕の頼れる使い魔だよ』と言って笑っていらっしゃいました――あれが使い魔、というか生き物ということ自体、信じがたいことなのですが――奥様のオリヴィア様と比べましても遜色のないほど、不思議なお方だったと思います。
『シザーリア君。君には、できる限り合理的な戦闘スタイルを身につけてもらいたい。
その場その場で、適切な判断をし、判断通りに迷いなく動き、可能な限り勝利し、絶対に負けない戦いをしてもらいたい。
勝つよりも、負けないが重点だ。肝に銘じておくれ。最優先事項は、《ヴァイオラを守ること》。それさえ果たせるなら、敵に勝てなくてもいい。他にどんな損失、犠牲が出てもいい。極端な話、君が死んでくれても構わない。
ヴァイオラを正確に、確実に護衛できるよう、適切に判断して行動してくれ。それができるように、君を鍛えていくからね』
常に笑顔を崩さない、向かい合っているだけで安心できる人でした。
それでいて、眼鏡の奥で細められていた目は、何か底知れない感じがして――彼は私に、安心と胸騒ぎとを、同時に与えたのです――結局、私は今でも、あの方がどういう人間だったのか、はかりかねております。
ただ、ひとつ言えることは、あの方のご指導は、確実に私の血と肉になっているということです――確実にできることをする。ヴァイオラ様を、何としても守る。たとえ、私自身を犠牲にしてでも。
ありがたいことに、ヴァイオラ様は命をかけて守りたいという気になれるお方です。愛らしく、親しみやすく、微笑ましく、あと、意外と尊敬もできます。少なくとも、彼女が害されるところなど、見たいとは思いません。
ちらりと横目で、未だ眠りから覚めないヴァイオラ様を盗み見ます。自分の腕を組んで、そこにあごを乗せて、何も知らずにすやすやとお休み中です。これを起こすというのは、どう考えても不粋でしょう。
――腕が痺れるような衝撃とともに、私の構えた棚板に、矢が突き刺さってきました。
不粋。しかし、強い。
冷静に判断して、魔法という攻撃手段を奪われた私では、この賊を倒すことはできないでしょう。
しかし、勝たせないことはけっして不可能ではないはずです。
ヴァイオラ様のお姿が完全に私の陰に隠れるように、体の位置をととのえます。そして、再び感じる、矢が板にぶつかる鈍い痺れ。
三度目の衝撃では、板のこちら側に鏃が飛び出してまいりました。そして四本目の矢にいたっては、私の右のふとももに突き刺さり、我が戦闘服たるエプロン・ドレスに、血をにじませることを許してしまいました。
鋭い痛みに、思わずうずくまってしまいそうになります。しかし、私はヴァイオラ様の護衛。この程度で倒れることは許されません。
私はできることをする。立ち塞がることは、まだできます。
五本目――板を支えていた、左手の甲をえぐられました。狙ってのことなら、素晴らしい弓の腕前であると感心せざるを得ません。板という盾でなく――盾の持ち手を、確実に傷つけてきているのですから。
苦痛に手が緩み、盾を取り落としそうになりますが、すんでのところで指に力を入れ直すことに成功しました。そしてその直後、棚板の上部を打つ、着弾の衝撃。もし私が板を落としていたら、眉間に直撃していたであろう軌跡でした。
――計算もお上手。でも、残念でしたね。この程度の痛み、火竜のブレスに炙られた時の苦痛に比べれば、何ということはありません。
とは言っても、あれよりマシというだけで、痛いことに変わりはありませんが。
矢の刺さった左手の内側に、ぬるりとした感触。いけませんね、血で手が滑ってしまいます。板の縁をしっかり握って――矢の威力に負けて弾き落とされないよう、支えていなければならないのに。
突然、目の前で木屑が飛び散り、頬に熱いような痛みが走りました。
痛みから一歩遅れて、視覚で認識した事実は、矢が盾にしている板を貫いて、その鏃が私の頬をかすめた、というものでした。
さすがの私も、焦りに唇を噛んでしまいます。あと何本の矢を、この板で受けることができるでしょうか?
考えている間にも、幾度もの衝撃が板を痺れさせ、私の膝や足の甲にも、激痛とともに矢が生え続けていました。
――大丈夫。頭と、心臓――そこさえ無事なら、私は倒れません。
たとえ倒れても、その時は隙間なくヴァイオラ様を包み込んで倒れましょう。主を守る肉の盾となるために。
ええ、そうですとも。はりねずみのようになったとしても、ここをどいたりするものですか。
私は確固たる意志を込めて、青い月を見つめました。それと同じ方向にいるはずの、憎らしい賊を睨み殺すように。
■
(このワザとらしい挑発行為!)
手足の少なくない箇所に矢を受けて、しかし逃げることも隠れることもせず、頼りない板きれだけを盾に立ち尽くすメイド――ミス・パッケリの姿に、俺は感心して笑みを浮かべた。
身を呈して主人を守ろうというのか? 木々の中に隠れたミス・タバサに注意が向かないように、あえて自分が注目されるよう、わかりやすい位置に立ってくれているのか? あるいは、その両方か?
まあ、何でも構わない。彼女のように、力強い目をした女性は魅力的だ。
そんなミス・パッケリの努力を無にするのは心苦しいが、こちらも仕事であるから、彼女の命を、彼女の守ろうとしているものごと、打ち砕かなければならない。まずは、すでにかなり被弾してもろくなっているであろう板きれを粉砕し、あの美しいメイドの少女の額に、矢を撃ち込まなければならない。思うに、これはあと数分もかからないうちに完了する。それが済んだら、こちらに向かってきているであろうミス・タバサを迎撃する。魔法が使えなくなって、ただの子供同然になった彼女がこの場所に登ってくるまでには、かなりの時間がかかるだろう。ミス・パッケリを始末してから、落ち着いてゆっくり対処することができるはず――。
(ん?)
不意に、足場にしている枝が揺れた。
バランスを崩されるほどじゃない、小さな揺れだったが、風による揺れでもない。身の回りの風の流れと一致しない動きだ――不審に思った俺が、ふと下を見下ろすと――。
(……っとおっ!?)
黒く重なり合った枝葉が、ばっと左右に分かれて、その隙間から小さな影が飛び出してきた。
それは猿のような素早い動きで俺に迫ると、その手に握った銀色のナイフを閃かせ、俺のあごの下を浅く引っかいた。
喉を切り裂かれずに済んだのは、事前に枝の揺れに気付いて身構えていたからだ。あと、敵のリーチが短かったことも幸運だった。
それでも、あまりのことにかなり肝を冷やした――後ろにのけ反って避ける動きのまま、隣の木に飛び移り、刺客から距離を取る。
青い月光の中に浮かび上がったのは、青い髪のミス・タバサの小柄な姿。マントを風にはためかせ、左手に大きな木の杖を握り、右手にはナイフ――そんな彼女が、赤い縁の眼鏡の奥から、氷のような冷たい眼差しをこちらに向けている。その表情は、一端の仕事人だ。
彼女の右手がひるがえり、鋭く振り下ろされた。すると、回転する刃が、風を切り裂いて飛来する。
スローイング・ナイフ――俺は弓を振って、それを叩き落とした。――と、二本目のナイフが、すでに目の前に迫って――!
これを打ち落とすのは間に合わない。俺は思い切って枝から飛び降り、第二の投擲物を体全体で避けきった。
四、五メイルほど自然落下し、別の枝に着地する。その俺の足元に、さらに三本のナイフが突き刺さった。
見上げると、右手の指の間に一本ずつ、計四本のナイフを挟み込んだミス・タバサが、まるで獲物に襲い掛かる瞬間の肉食獣のように、腕を振り上げているのが見えた。
うわぁ……まいったなぁ、こりゃあ。
ここで殺す気マンマンというか、全力で叩き潰す感がスゴイというか。
少女の細腕が、鞭のように激しく空気を裂き、放たれた四本の銀の爪が、絡まり合うようにブレながら俺に襲い掛かる。
しかもだ、ナイフを投げたと同時に、彼女自身もこちらに向かって跳躍してきた。スカートのポケットに手を入れて、新しいナイフを取り出しながらという器用なことをしながら。
迎撃――弓じゃ駄目だ。俺は左手をマントの中に突っ込み、別な武器を取り出す。
よし。ここはこの山刀(ククリ)で決めよう。
軽く内側に湾曲した、三十サントほどの刃を持つ刀を構える。柴を刈ったり動物を解体したりするのに向いている、主に猟師などが好んで携帯する刃物だが、意外に対人戦でも使い勝手がいいのだ。
四本のナイフのうち、顔に向かってくる二本を山刀で弾き、残り二本を、身を屈めて回避する。
そして、その後ろから飛び込んできたミス・タバサを、返す刀で迎え打った。脳天を目掛けて振り下ろされたナイフと、俺の山刀がぶつかり合い、嫌な痺れが手に伝わる。
しなる木の枝の上で、一撃、二撃と打ち合う。金属の刃同士がぶつかり合い、闇の中にオレンジ色の火花を散らせた。
しかし、最終的には俺が腕力で押し切った――思い切り殴るように刃を叩きつけると、それを受け止めたミス・タバサは足を滑らせ、枝から落下した。
勝った! この高さから地面に落ちれば、どう頑張っても助からない!
そう思ったのもつかの間――墜落しかけたミス・タバサは、左手に持った杖の、鉤状に曲がった先端を枝に引っ掛けてぶら下がると、そのまま振り子のように体を揺らして、別な枝にふわりと降り立った。
まるで蝶のような、柔らかな動き。
なるほど、さすがは花壇騎士。ただのメイジと違って、身のこなしも洗練されているというわけか。
先ほどのスローイング・ナイフの腕といい、俺とクロス・レンジで打ち合った時の剣閃といい、幼いのに大したものだ。マントの下に学生服着てるけど、やっぱり普段は学生をやっているんだろうか? 国のエージェントとして働く時は、こんなに派手にチャンバラしておいて、学校じゃ普通に文学少女っぽく【イーヴァルディの勇者】なんか読んで、静かに過ごしていたりするんだろうか? 彼女のクラスメイトは、こんなミス・タバサを全然知らないのかも知れない。
まあ、それはともかく、こんな戦闘センスのある奴相手に、《無音(ミュート)》なしで戦っていたら、どうなっていたかわからないな。
――だが、ここまでだ。
ミス・タバサが別の枝に移ったことで、彼我の間に距離が生まれた。
弓で射るには近すぎるが、ナイフで切り結ぶには遠すぎる。そんな距離感――そして、スローイング・ナイフは、ミス・タバサだけの専売特許じゃあない。
俺が持っている刃物も、山刀だけじゃない。投擲用のナイフだって、マントの裏に何本も仕込んであるんだ。
山刀を鞘に戻し、代わりにふた周りほど小さな、真っすぐの両刃ナイフを抜く。
腕を曲げ、胸の前で刃を構える。数メイル離れた先で、ミス・タバサが同じようにナイフを構えている。
彼女の方が、先に投擲した――しかし、それは迂闊だ。ほんの少し頭を右に傾けるだけで、俺は彼女のナイフを避けることができた。
そして、無傷な俺の目の前には、ナイフを投げた姿勢で――腕を伸ばしきって、完全に無防備な体勢に陥っているミス・タバサの姿があった。
その絶好のタイミングを逃すことはできないし、俺は逃さなかった。
半月をイメージして、腕を振り切る。ナイフの軌跡は、ほぼ直線。ミス・タバサは身をよじって逃れようとするが、叶わない。
ミス・タバサの左肩に、刃が垂直に突き刺さる。苦痛に歪む顔。彼女の足の裏が、枝から離れる。
小さな体が、大きく傾く。マントに包み込まれるように、背中からゆっくり倒れていき、月の光も届かない暗闇の中に、落ちていく。
静かな、静かな決着。
(だけど、まだ一人だ)
あと二人やっつけなければならないのだから、ここで気を抜いてちゃいけないね。
俺は再び弓を出して、あらためて馬車に狙いを定める。矢の残りは正直少ないが、まあ、何とかなるだろう。
■
(んむふふぅ〜、やはりプリンは美味いのじゃー)
スプーンにすくった、ぷるぷるの甘ぁいお菓子を口に入れて、我はとろけるような幸せに浸っておった。
よき卵と、よきミルクのコンビネーション! 主役二人を取りまとめる砂糖は控えめ、バニラの風味は後口に香る程度。
カラメルソースには、チェリーのリキュールをちょいと混ぜて。
んふー、これはもう人類の生み出したスイーツの極みよの! あなたもそうは思いなさらぬか?
え? あなたっていうのは、そりゃあもちろんあなた様じゃよ。私の目の前で、優しく微笑んでおられる兄様、あなたじゃ。
日当たりのいい、ロマリア南部風の庭園の真ん中に、テーブルセットをしつらえて、大好きな兄様と二人っきりでティータイム。
自然とほっぺの緩む、素敵な時間のただ中に、我はおった。
紅茶がなくなれば、兄様はそっとおかわりを注いでくれる。『口の横にカラメルがついているよ、可愛いヴァイオラ』などと甘い言葉を囁いて、ハンカチで我の口元を拭うてくれたりする。
普段は無駄に格式張って、こんな甘いことなんぞしてくれんのに……うえへへへへ夢のようじゃ〜。
……………………。
………………。
…………。
ぱちりと目を開く。
目の前は薄ぼんやりと暗く、ほっぺにファーのようなフサフサしたモンが当たっとって、唇がよだれで濡れとる感じがする。
身を起こして、ふぁ〜と大あくび。
うむ。
案の定、夢じゃった。
……ちくしょう。道理でいろいろチョロいと思うたわ。
袖口で唇のよだれを拭い、もう一度あくび。そして、目をぱしぱしする。
薄暗くてようわからんが、ここは――ええと、そうじゃ、確か馬車に乗って、酒を飲み始めて――そのまま、うつらうつらして、寝入ってしもうたんじゃったな。
馬車が動いとる様子はないし、周りも暗くなっとるから、もうディジョンに到着したということかの?
だとしても、こうも暗いのは妙じゃな。――シザーリアー。お前も居眠っとるのかー? ランタンぐらいつけんかー。
と、心の中で文句を言いながら、顔を横に向けると。
青い月明かりの中に、ぼんやりと浮かび上がるように。
傷だらけになったシザーリアの、無惨な背中が見えた。
(…………へ?)
背中に氷を入れられたような悪寒とともに、意識がすーっと覚醒する。え? なんで? なんでこのメイド、こんなに血まみれなのん? エプロン・ドレスの白いとこ、ほとんど赤黒いシミで染まっとるっぽいし、肘とか指先からとか、重たげな汁が黒い玉になって滴っとるぞ?
肩とか脚とかからにょきにょき何本も生えとる細っこいもんは何じゃ? 我には狩人が使うような矢のように見えるんじゃが。いやいや――それはアクセサリーよろしく身につけるもんでないじゃろ。しかも、皮膚に肉に突き刺して装備するんは健康によろしくない。たぶんツボを刺激して血行をよくする効果もないと思う。
などと、混乱と不明の渦の中で口もきけずに呆然としとると、どこからか新たな矢が飛んできて、シザーリアの右肩を撃ち抜いた。
(ひいっ!?)
人間の肉体を、棒きれが突き抜けるというショッキングな光景を目の当たりにし、我は悲鳴を上げた――ってか、上げたつもりじゃった。しかし、どうしてじゃろか、喉は震えたはずなのに、しかし唇から外には一切の音が出ていかなんだ。
いや、出たのかも知れん。単に、我の耳に聞こえんかったというだけで。
そういえば、周りが妙に静か過ぎる。風の音も聞こえんし、虫の音も鳥の声もない。馬鹿みたいに静寂じゃ。シザーリアの肩に、矢が当たった時の音も聞こえなんだ――こればかりは幸運じゃったろうか? 人の肉がえぐれる音なんぞ、おぞましい響きに決まっとるし。
つまりこりゃ、我の耳が聞こえんなっとる? お、おいおい冗談じゃないぞ! 我はまだ若いのに! 耳の病気になるほど不健康な暮らしもしとらんぞ!?
我は、我が身に起きた異常に狼狽したが、それよりもさらに悪い状態にありそうなシザーリアの体が、ぐらりと傾いで、我の方に背中からぶっ倒れてきた。
我はとっさに、それを避けた――音もなく床に倒れ伏した我がメイドは、胸や腹にも複数の矢を受けておった。左胸だとか頭だとか、致命的な部分は腕を盾にして防いどったみたいじゃが、それでなくても胴体に七、八本も矢を突き刺されたら、普通に助かりにくいのではあるまいか?
しかし、それでもまだシザーリアは死んでいなかった。胸が大きく上下し、苦しそうに呼吸を試みておる。表情を苦痛に歪め、咳き込むと同時に、血の飛沫を吐き出す。その数滴が、我の頬に散った。
我はへたりと、その場に膝をついた。あまりの恐怖に、歯の根が合わぬ。
何じゃマジで。いったい何が起きておる? シザーリアは火のスクウェアメイジぞ。めっちゃ強いんじゃぞ。それがなして、矢なんて平民のしょっぽい武器でハリネズミになっておる?
つーか、こいつをこんな風にメタクソにできる賊は何者ぞ!? 『烈風』とかそーゆー怪物か!? それとも七万人規模の軍隊でも攻めてきたんか!?
わけがわからんであうあうしとった我の方に、シザーリアの青ざめた顔が向いた。
意識が途切れそうになるのを、必死にこらえておるようじゃった。細められた目は虚ろで、しかしその奥には、消えかけているろうそくの炎のような、かすかな生命の輝きがあった。手負いの狼を思わせる、強烈な意志の輝きが。
彼女の血まみれの唇が、震えながらこう動いた。
(に・げ・て)
その意味するところを、我は一瞬飲み込めなんだが――直後、またしても飛んできた矢の一撃が、シザーリアの左胸に突き刺さり、彼女の首ががくり、と力無く傾いたのを目の当たりにして――この場所にいることの危険を、はっきりと理解した。
(の、の、のぎゃああああぁぁぁぁっ!)
我は、転がるようにして馬車から逃げ出した。
なんでか扉の外れとった出入口から、真っ暗な森の中に駆け出す。脚が勝手に動いた。心は、とにかくこの恐ろしい場所から遠ざかりたいとだけ思っておって、体の方が気をきかせて、その要求に相応しい動きをしてくれた。
いつも守ってくれるシザーリアがおらなくなったというのは、それだけでひどく心細かった。裸で、オーク鬼の巣にでも放り込まれた気分じゃった――てか、タバサはどうした? あのガリア花壇騎士のお姉ちゃんは? 我を守らんでどこ行きよった。まさか逃げたんじゃあるまいな? それとも、これはもうちっと嫌ぁな想像じゃが、シザーリア同様やられてしまったとか――!?
何かに左の足首をガツンと叩かれ、その衝撃で我はすっ転び、落ち葉だらけの地面に顔から突っ込んだ。
あいたた、何じゃいったい――と、起き上がりながら足首を見ると――くるぶしに、銀色に輝く鋭いナイフが、深々と突き刺さっておった。
の、のげ、うげげげっ!? 怪我っ、我の足がっ、ひどい怪我をさせられたぁっ!?
パニックに陥った我は、じたばたとめちゃくちゃに、ナイフの刺さった足を動かした。まるでそうすれば、恐ろしい怪我が、靴についた泥汚れのように振り払えると信じているかのように。
そして、なんと、ありがたいことに、本当に怪我は振り払うことができたのじゃ。何度か足を振ると、ナイフは我が履いとった靴と一緒に、ぽーんと飛んでいった――かかとがやたら高い、シークレット木靴じゃ――ナイフはその見せかけのかかとに突き刺さったのであって、本当の我の足首には、傷ひとつなかった!
やった、助かった! と、一息つく暇もなく、我の目の前の地面に、新たなナイフが突き刺さり、落ち葉をばっと舞い上げた。
全然まったく助かっていないことを思い出した我は、またも声にならない悲鳴を上げて駆け出した――背後に、害意に満ちた邪悪の気配を感じながら。
■
ミス・コンキリエの小さな影は、薄暗い森の中では、いまいち狙いにくい標的だった。
うまくスローイング・ナイフで足止めできた、と思いきや、ナイフが刺さったのは靴の高いヒール部分だったようで、彼女は靴を放り出すと、そのままウサギのように逃げ出した。これがまた、走りにくい靴を脱いだせいか、さらにちょこまかとすばしこくなったときてる。
あのメイドに、残りの矢を全部使ってしまったのが痛かった。まさか、あんなにたくさん射たのに倒れないなんて、誰が思う? まったく、根性のある女に男がきりきり舞いさせられるのは昔からのことだが、まさかこんな静かな森の中でもそうだとはね。
とにかく、あのしぶといミス・パッケリのおかげで、俺はかなり接近してミス・コンキリエを狙わなくてはならなくなった。スローイング・ナイフも苦手ではないが、悔やむべきは、矢ほどたくさんはナイフを持ってきてはいないということだった。実のところ、今さっき標的の横顔を狙って外したナイフが、最後の一本だった。
これから、どうやってミス・コンキリエを攻撃するか? 近付いて組み伏せて、山刀で首をはねるか? いや、それはあまり気乗りがしない。かといって、今まで使ったナイフや矢を拾って再利用というのも、どうも……。
などと悩んでいると、細く真っすぐな、ちょっとした杖にできそうな木の枝が目についた。
(そうか……木の枝か)
俺はふと思いついて、その枝を山刀で刈り取り、葉を落として、先端を削り、鋭くした。
二十秒もかからないうちに、俺の手には、長さ一メイル半ほどの、手頃な重さの木の槍が握られていた。
うん、これならいける。
こんなに簡単に加工できるなら、周りにある木々がすべて、槍の材料として立ち上がってくる。
今まで森であまり苦戦したことがなかったから、こんなうまい凶器調達方法があるなんて気付かなかった。
となると、こんな背の低い潅木もうれしい。
適当な長さの枝を刈り取り、ささっと片方を尖らせ、簡易な武器として、今は空っぽの矢筒にまとめて入れておく。
ふふ、ちょっとした投擲槍のバイキングだぞ。
そうして、充分な量の武器を補充した俺は、最初に作った大振りな槍を思い切り振りかぶった。狙うのはもちろん、闇の中をちょろちょろと駆けていく、ミス・コンキリエ。
ウサギのようにすばしこい彼女を仕留めるのは難しいが、不可能だとは思わない。いくら小柄といっても、彼女は本当のウサギよりかは、ずっと大きいのだから。
■
(ひい、ひい、ひいぃっ、ひいっ)
右も左もわからぬ森の中を、我はひたすらに走り続けた。
顔は涙でべちゃべちゃになり、高価で清潔だった法衣にも、裂け目や泥汚れが目立った。ルビーやエメラルドのついた飾りボタンが何個か吹っ飛んだし、枢機卿の象徴である灰色帽子もどっかに行った。
優雅で高貴で美しく、金と権力によって至尊の地位に立っておるべき我が、惨めなことに、犬に追われる猟場のウサギと同じ扱いを受けておった。罰当たりなクソ賊野郎は、ナイフのみならず、野蛮な木の槍を投げて、我を害そうとしておりやがる。
全身に矢をぶっ刺されたシザーリアの姿が、脳裏に浮かぶ。我も、あんなふうにズタボロにされて死んでしまうんじゃろうか?
嫌じゃ嫌じゃ嫌じゃ!
どうしてこうなった? シザーリアにタバサと、かなり頼りになるボディーガードをつけて、のんびり気楽なガリア旅行じゃったはずなのに、どこで間違えた?
タバサの忠告を聞かず、ボルドーに留まらなんだことがいかんかったんか? 我自ら、ロマリアを離れて手紙を運ぼうとしたのがマズかったんか? それとも、シエイエスのやつを陥れようとしたのが悪かったのか? 人を踏み台にして出世しようとしたことを、始祖が罪認定してバチを当てよったのか!?
いや! そんなわけはない! 我はヴァイオラ・マリア・コンキリエぞ! ハルケギニア屈指の金持ちで、枢機卿なんじゃぞ! 偉くて尊いんじゃ! 我の幸せのために、他の下賎な奴らは喜んで踏み台になるべきなんじゃ! それが世の中のためで、ひいては始祖のアホタレの信者どものためなんじゃ!
(ひい、ひい……た、タバサー! どこをほっつき歩いとるんじゃー! 護衛じゃろが貴様、早く我を助けんかー!
シザーリア、シザーリアはどこぞー! お前の主のピンチじゃぞー! 駆けつけて守れー!
ぼさっとするな、助けろ、死にとうない! 誰か来い、誰かぁ……。
助けて、兄様――兄様ぁ、助けて……兄様、兄様、兄様……助けてエエェエェ――ッ!)
真っ黒な虚空に向かって絶叫する我の脇腹を、木の槍がかすめていく。
ひらひらした法衣を着た我は、賊にとって狙いにくい的なのか、まだ致命的な一撃はくろうておらん。しかし、さっきから何度も、きわどいところをヤバげな鋭いのが直撃しかけとる。ゆったりしたそでだとか、スカートのすそだとかが犠牲になって引き裂かれていったが、いつまでもそんな辺縁部が身代わりになり続けてくれると思うほど、我は楽観的ではない。
気配がするのじゃ。
我を追ってくる気配が、だんだん近付いてきておる。音がせんでもわかる、体中が警鐘を鳴らしておるのじゃ――逃げなくては、逃げなくては。
駆けて駆けて、何度も転んで、起き上がってまた駆けて。
暗闇の中を突き進んで――やがて、突然に視界が開けた。
木々に遮られていた空が現れ、赤青二色の月と、星空が見えた。紫色の月光が、我を明るく照らし出す。
やった、この恐ろしい森から出られたぞ!
我がそう喜んだのもつかの間――視線を足元に落とした瞬間、希望は絶望に席を譲った。
深い、深い断崖が、目の前に横たわっておった。
それは、森の中を横切る谷川じゃった。縁から覗き込んだ数十メイル下の谷底には、何万匹もの大蛇が絡まりながらのたうっておるような、轟々たる濁流があった。
谷の幅は、ざっと十メイル以上。向こうの岸まで飛び移るなんてマネは、まず不可能じゃ(フライでも使えりゃ話は別じゃが、何でか今は魔法が使えん。ここに来るまでに、さんざん呪文を唱えようと頑張ったが、成功せなんだ)。
これ以上先に行くことは、とうていまかりならぬ。
ああ、気配がする。肌がちりちりとする感じがして、危険の気配が近付いてくる。
こわごわと、我は後ろを振り向いた。ちょうどその時じゃった――真っ黒な枝葉をかきわけて、そいつが静寂の森の中から姿を現したのは。
黒いマントに身を包んだ、地味な風貌の男じゃった。どっかその辺で、輸入雑貨商でも営んでそうな。
一・九に分けた黒っぽい髪についた木の葉を振り払いながら、ゆっくりとこちらに近付いてくる。その右手には、木の枝を荒く削った槍が握られ、もう片方の手には、湾曲した鉈のような刃物があった。
男は、人間性というものを感じさせない冷たい目で我を見ると、槍の先っちょをこちらに向けた。
我は(ひぃ)と、声にならぬ悲鳴を口から漏らし、一歩後ずさった――崖の縁にかかとが触れ、そちらに目を向けると、小さな石ころが深淵の中に転がり落ちていくのが見えた。
あとのない我の手前、三メイルぐらいの距離まで詰め寄ると、男は槍を下に向け、地面の土に、なにやら書き始めた。
ご親切にも、こちらから見て普通に読めるように書いてくれたので、その内容は容易に理解できた――月の光に照らし出された文面は、実に簡潔に、これだけ。
『手紙をよこせ。そうすれば、助けてやる』
(て、手紙?)
我は思わぬ要求に、呆気に取られた。
手紙てあれか、我の懐にある、シエイエスを陥れるためのニセ手紙か?
何でそんなもん欲しがる? ニセじゃのに。何の価値もないクズ紙切れじゃのに。
からかわれとるのかも、と思ったりもしたが、向こうさんの顔は真剣じゃ。
いったい、どうなっとるのか――わけがわからん。
■
俺が地面に書いた要求を見て、ミス・コンキリエは明らかに動揺していた。
よほど手紙が大切なのだろう。自分の命と比べて、躊躇してしまうほどに。
しかし、できれば、命を惜しんで手紙をこちらに渡して欲しい。もちろん、素直に手紙をくれても、彼女を生かしておくつもりはない――ただ、渡してくれなかった場合、俺は彼女の死体から、手紙を漁る仕事をしなければならない。その不愉快な手順を省くためにも、ここは素直に従ってもらいたかった。
ミス・コンキリエは迷っていた。周りを不安げに見回し、何かを確かめるように、手でお腹の辺りを探っていたりした。
なるほど。あそこに入れているんだな。
とりあえず不愉快なことをしなければならない場合でも、その作業をごく短くすませられるめどがついたわけだ。
ならば、いつまでもグズグズしていないで、さっさと彼女を殺してしまった方がいいかな?
そんなことをぼんやり考えていると――突然、背後に殺気が生まれた。
考えるより先に体が動いた。さっと身を屈めると、今まで俺の頭があった場所を、節だらけの硬そうな木の杖が通り過ぎていった。
ゴロゴロと地面を転がりながら、襲撃者の姿を確かめる――なんてこった! あの高い木の上から転落したはずの、ミス・タバサじゃないか!
制服とマントを泥まみれにして、肌のあちこちに擦り傷を作って、ナイフをくらった左肩は、血で真っ赤に染まっていて、しかしそれでも彼女は、戦意に燃える目で俺を見ていた。あの、赤いフレームの眼鏡も健在だ。
右手に持った大きな杖を、こん棒のように振り回して、俺を叩こうとしてきた。魔法や投げナイフに比べればなんてことはないが、それでも当たれば痛いだろう。頭に直撃すれば、頭蓋骨が割れるかもしれない。大袈裟な予想じゃない――人の腕くらいの太さの木の棒で殴られれば、そのくらいの怪我はする。
俺は体勢を立て直して、ミス・タバサに木の槍を放った。彼女は正確にそれを弾き落とし、同時に俺とミス・コンキリエの間に立った。ミス・タバサのはためくマントの後ろに、ミス・コンキリエの小さな姿はすっかり隠れてしまった。
やはり、見事だ。あそこまで傷ついてなお、俺に奇襲をしかけ、流れるようにスムーズに、護衛対象を守れる位置を取った。
万全な状態であれば、おそろしくできる奴に違いない。
そう、あくまで、万全であれば。
こちらを睨む瞳には力があるが、息は荒い。肩が大きく上下し、杖の先が不安定に揺れている。そして、左手はだらんと垂れ下がったまま、まったく動いていない。
ここまでやってくるだけでも、かなりの体力を消費したはずだ。となると――。
当然、起きるべきことが起きた。ミス・タバサが、その場にがくりと膝をついたのだ。
やはりだ。――彼女は全然、血が足りない。
■
タバサ・イズ・バック!
我のピンチに颯爽と駆けつけ、悪漢に振りかぶった杖の一撃をおみまいしようとしたタバサに、我は拍手喝采を送りたかった。
よっしゃよっしゃ、それでこそじゃ! その調子で、そこなタコ助を撲殺して思い知らせてやれー! 天はお前と我に味方しておるぞー!
……そんな風に思うとった時期が……我にもあったんじゃ……。
二、三回杖をぶんぶこ振り回して、敵をちょいと遠ざけたまではよかったが、そこまでじゃった。すぐがっくりと膝をついて、それでもう立ち上がれそうにないときたこのガッカリ騎士。
いや、仕方ないとは我も思うんじゃよ? この青髪娘、ズタボロじゃったもん。あちこち擦り傷だらけで、左肩なんぞ、ナイフでも突き刺されたんじゃないかってぐらい血まみれになっとった。流れ出した血が、左腕のそで全体を赤く染めとったほどじゃ。
この出血で、さっきの立ち回りができたって時点で、めちゃくちゃすごいんじゃろう。昔、木の根につまづいて転んで、ひざ小僧すりむいて血が出て、痛くて立ち上がれなくなった経験をした我にはよくわかる。
この状態で、ろくな動きができんのはよーくわかる――じゃが、じゃがしかし。
その仕方ないことで、我が守れんのじゃあ意味がなかろーがこの役立たずがァーッ!
もーこの小娘には頼っておれん! 我は、我のできることで現状を打破するぞ!
我は覚悟を決め、懐から小箱を取り出した。
黒琥珀で全体を装飾した、手の平におさまるサイズの化粧小箱。
ガリア王への献上品として持参したもので――アホくさいニセ手紙が、あそこのバカ賊が欲しがっとるクソッタレなブツが――この中に入っておるのじゃった。
■
動いて、私の脚。ぶざまに震えないで――こんな風にしゃがみ込んでいるなんて、絶対にいけない。
私は、ヴァイオラを守らなくてはならない。座っていてはそれができない。
左手が動かないのはいい、呼吸が苦しいのも構わない、でも脚に力が入らないのはダメ。機動力抜きで、この男に対処することはできないから。
左肩をナイフで撃ち抜かれて、足を滑らせたあと、他の枝葉にぶつかって落下速度がセーブされ、こんもりとした柔らかい潅木の上に落ちることができたのは幸運だった。擦り傷はたくさん負ったけど、死ぬことはなかったのだから。
ヴァイオラを追う『孤独』の姿を、暗闇に近い森の中で見つけ出せたことも幸運――ヴァイオラが追い詰められた土壇場で、彼女を助けに入れたのも幸運。
だから、もう一度だけ幸運を――この脚、もう一度動いて。ヴァイオラを、きちんと、守らせて。
『孤独』は、無表情に山刀を構えたまま、じりじりと近付いてくる。私が動けないとわかって――でも、けっして油断することなく。
彼相手に、ヴァイオラは単独では勝てない。それは間違いない。だから、私が動かないと――。
そんな風に、私が必死になっている時だった。背後で、ヴァイオラが動く気配がしたのは。
振り向いて見ると――ヴァイオラは、黒い小さな化粧箱のようなものを手に持ち、何かを決意した眼差しで、『孤独』の方を睨んでいた。
あの箱はいったい? そう疑問に思いながら、敵の方に視線を戻した瞬間、あるものが私の目に飛び込んできた。
地面に書かれた文字。
おそらく、『孤独』によって書かれた、要求文。
手紙を渡せば助けてやる、という――正直なところ、首を傾げてしまう、その内容。
助けてやる、というのは、確実に嘘だ。しかし、それより気になるのは、手紙をよこせ、という部分――『孤独』が『テニスコートの誓い』に雇われたのなら、手紙は処分したいはずだ。それを、わざわざ渡せ、と? なぜ? 私たちを殺したあとで、適当に油でも撒いて、死体ごと焼いてしまえば早いだろうに、なぜ、地面に文字を書いてまで、手紙を出させる?
手紙を回収したい? 処分するのではなく? なぜ――?
そう考えた時、私の頭の中に、雷が落ちたような、鮮烈なアイデアが浮かんだ。
そうだ――彼らは、シエイエスの手紙をヴァイオラに送った人物の正体を知りたいんだ。
それはまぎれもなく、『テニスコートの誓い』の裏切り者。獅子身中の虫を探し出して始末するために――ヴァイオラにシエイエスの手紙を送り付けた人物が、ヴァイオラに事情を説明する手紙の中に、自分の名前をしたためている可能性にかけて――その人物の名を知るために、これを手に入れようとしているのだ!
しかし、それがわかったところで――もう――。
■
ミス・コンキリエが、懐から小さな箱を出した。
細かい彫刻の施された、黒い光沢のある宝石――オニキスか、いや、たぶん黒琥珀だな――で覆われた、美しい小箱。
彼女は俺に見えるように、その場で箱のフタを開けた。中には、折り畳まれた手紙のようなものが、数枚入っている。
俺は頷いて、こちらに渡せ、と手振りで合図した。
ミス・コンキリエは、フタを閉じると、その箱を持った手を、頭の上に高々と振り上げた。
よし、いいぞ。
そのまま、こちらに投げてよこすんだ。
そうすれば――すぐに、楽にしてやる。
■
この箱を投げれば、殺されないで済む。
正直、ホントにそーなのか? と思わないではない。むしろ、ブツをゲットした賊野郎が、よーし手紙手に入れたからもうお前ら用済みだぜヒャッハー、とかエキサイトして、約束をブッチする可能性の方が抜群に高い気がする。
振り向いたタバサも、『やめて』的な目で我を見ておる。じゃが、我はやる――あえて都合の悪いことから目を逸らして、わかりやすい希望に飛びつかせてもらう。
もー逃げたりハラハラしたり怖い目に遭ったりすんの嫌なんじゃもん。シザーリアみたいにボロボロのズタズタの痛そうな感じにはなりとうない。
このまま手紙を渡さずにおったら、ひどい殺され方するんは確定じゃし、それだったらいっそ、豆粒以下のちっこい可能性に賭けてもよかろうよ。0.000000000000001パーセントの可能性でも、0パーセントに比べりゃ高いってのは、数学的に明らかじゃ。
だから我は、この野郎の善性を信じてみる! 我、僧侶じゃし。助かるにはそれ以外の道ないし!
我は決意を固め、箱を持った手を振りかぶる。あの賊のいる場所に届かせるために、頭の後ろに手を持っていって、反動をつけてブンと投げ――。
ようとしたら、箱が手の中でずるりと滑って、指の間をすり抜けた。
(え)
原因は、手の汗じゃった――恐怖と緊張で、我の手はいつの間にか、汗でじっとりと濡れておった。
ついでに言うと、箱の表面がつるつるした黒琥珀で覆われておったのもまずかった。じっとりプラスつるつるで、滑りやすさは倍率ドン! さらに倍じゃ。
低すぎる摩擦力しかない環境において、箱は然るべきふるまいをした――つまり、ウナギのように、つるんと滑って我の手から脱出しおったのじゃ。
ちょうどその時、我は箱を投げようと、それを持った手を、頭の後ろに振りかぶっておった。
そして、我が立っとったのは断崖の縁で。谷の方に背を向けとったわけで。
その条件のもとで、我の手から離れた箱がどこに向かったかは――のう? 考えるまでもないじゃろ?
黒い小箱は、深い深い谷底さんに、スゥ――ッと吸い込まれて――。
(の、のじゃああぁあ――――――ッ!?)
■
ミス・コンキリエがあんな行動をとるとは、まったく想像していなかった。
彼女が手紙の入った小箱を、これみよがしに掲げてみせたので、当然それをこちらに投げてよこすものと思い込んでしまったのだ――彼女の目も、そうするつもりだと暗に語っていた。命を失うことを、ひどく恐れている顔。怯えきった、心の折れた人間の表情。麦藁ほどのはかない希望にもすがりつく、弱者の態度。
それが、こんな土壇場で真逆の決断をするだなんて!
箱を振りかぶって投げるようなポーズを見せながら、ミス・コンキリエは、手が充分に後ろに回った時に、パッと、小箱を後ろに向かって放り捨てたのだ。
いや、その表現は正確じゃない。投げ捨てたというよりは、そっと手放したというべきだろう。とにかく小箱は、静かにミス・コンキリエの手から離れ、真っ逆さまに谷底へ落下していった。
――まずい! あの箱があの濁流に飲み込まれてしまっては――手紙が失われてしまっては!
ロベスピエール氏の依頼は、ミス・コンキリエの始末と、手紙の回収なのだ。どちらか片方だけではいけない。早く、あれが川に落ちてしまう前に、取り戻さなくては!
俺は走った。ミス・コンキリエとミス・タバサの横をすり抜けて、崖の縁を蹴って深淵に身を投じる。
空中で、山刀を持っていない方の手を伸ばして、小箱をつかみ取る――間に合った!
しかし、まだ安心するのは早い。ぐんぐんと近付いてくる水面。このままでは、俺自身が川にじゃぼんと落ちて、激しい流れに飲まれてしまう。
それを免れるために、俺は素早く決断した――《無音(ミュート)》を解除して、別の呪文を唱える。早口で、しかし正確に――もうそこまで水面が迫って――。
「フライ!」
詠唱を完成させると同時に、上向きの力が体全体にかかり、俺は着水ギリギリでUターンすることに成功した。ふわりふわりと、谷の上へと昇っていきながら、俺は下の濁流を見下ろしていた。
《無音(ミュート)》の効果を切った今、周囲には音が戻っていた。ごうごうという、竜の吠えるようなものすごい音! あれに飲み込まれたらと思うと、まったく、冷や汗が出る。
とにかく、無事に済んでよかった。そう思いながら、戻るべき岸辺へと顔を向けると――。
黒い影が、俺の視界をさえぎった。
バサバサバサとマントを大きく広げて。赤と青、ふたつの月を背負って。
右手に杖を握った、猟犬のように厳しい目をしたミス・タバサが――こちらに向かって飛び降りてきていた。
■
ヴァイオラがこんな決断をするだなんて、まったく想像していなかった。
最初は、彼女が恐怖に負けたのだと思った。死を恐れるあまり、敵の見え透いた甘言を信じる気になってしまったのだと。
それは正しい選択とは思えなかった。おそらく、手紙を渡した瞬間、私たちは殺されてしまうだろうから――かといって、渡さずにだだをこねれば、じわじわとなぶり殺しにされていただろうし。
一言でいえば、私たちは詰んでいた。何をしても、助かり得ない状況にあったのだ。
だから、ヴァイオラが本当にしようとしたことは、敵に対する、ちょっとした嫌がらせだったのかもしれない。
彼女も、暗殺者の要求文を見て、敵が手紙の回収を目的にしていることに気付いたのだろう。そして、その理由――裏切り者の正体をつきとめること――も、見抜いていたに違いない。
だから、手紙をここで処分してしまえば、『テニスコートの誓い』の中にいる裏切り者につながる情報も、同時に隠滅してしまえると考えたのではないか?
その裏切り者が無事なまま、『テニスコートの誓い』の中にい続けることができるなら――彼(あるいは彼女?)は、いつか再び、この反社会的組織を告発すべく、内部から動いてくれるだろう――今回の告発が失敗に終わっても、内部の病根さえ残っていれば、それは『テニスコートの誓い』を蝕み、ついには滅ぼしてしまうはずだ。
ガリアのためを思うなら、それは望ましい結末だ。
ただ、その未来を選ぶことによって、ヴァイオラの命が救われることはない。
むしろ、敵の怒りを買い、より悲惨な死をもたらされる可能性の方が高いだろう。
手紙をこの瞬間に始末しようとすることは、ヴァイオラにとって悪い結果を生む。そんなことは、ちょっと考えればすぐわかること。
にも関わらず、彼女はその行為を選択した。
利益は何もないのに。害しかないのに。それによって救われるのは、犯罪組織の中に潜んでいる裏切り者の誰かだけなのに。
だとすると、ヴァイオラは、その裏切り者のために、自分の身を犠牲にする覚悟を決めた、ということになる。
あるいは、その裏切り者の告発がもたらす、ガリアの平和のために。
いくら聖職者だといっても、普通、他人のために、そこまでの決断ができるものだろうか?
――できるのが、ヴァイオラという人物なのだろう。実際、彼女はやってみせたのだから。
小箱を谷底に落としてから、彼女はぎこちなく首を動かして、こちらを見た。目は涙ぐんで、唇は半笑いになっていた。『やっちゃった』とでも言いたげな表情だった。
勇気ある決断をした人間が、必ず毅然とした態度をとるとは限らない。ヴァイオラの場合は、恐れて恐れて恐れぬいて、それでも勇気を振り絞って、小箱を捨てたのだろう。
このあとに待っている、殺されるという未来を想像してしまって、彼女は震えている。自分のしたことを誇る余裕など、まったくない。ごく普通の精神力しか持っていない、ありふれた少女なのだ――崇高な自己犠牲を行っても、彼女自身は、やはり死が怖い普通の子供だ。
(守らなければならない――この子雀のように震える少女は――傷つけられるべきではない)
手紙の入った小箱が捨てられるのを見た『孤独』は、慌てて駆け出した。狼のような瞬発力で私たちの横を通り過ぎ、迷うことなく崖から飛び降りた。
やはり、奴の仕事は、手紙の始末ではなく、回収。
ならば、このあと彼が取る行動は――決まっている。
震える脚をバシと叩く。下唇を噛んで、力を振り絞って――立ち上がる!
走るだけの体力はない。それでもいい。『孤独』を追って、谷底に飛び降りられればいい。
これから生まれるであろうチャンスを――ヴァイオラの勇気が、思いがけず生み出すであろう生き残る機会を――モノにできれば、それでいい!
ほとんどつんのめるように、私は崖に身を投じた。
数十メイルの距離を落下する、私と『孤独』。やがて、彼は小箱を掴み――でも、そのままでは彼も死んでしまう――フライを唱えて、上昇を始めた――声を出して、魔法を使ったのだ!
やはり、予想通り! 彼はフライを唱えるために、あらゆる音を停止させるアレンジ・サイレントを解除した!
瞬時に、世界に音が戻った。聞こえる。水の流れる音、体に当たる風の音、自分の心臓の鼓動まで。
フライと他の魔法は併用できない。『孤独』が命を惜しむなら、必ず音を停めるのをやめると思っていた。
私は、口の中で呪文を唱えながら、落下し続ける。上昇してくる『孤独』との距離は、みるみる縮まる。
やがて、彼は私に気付いた。驚愕に満ちた表情だった――自分の身に迫る危険に、気付いた人間の顔だった。
彼は山刀を振りかぶり、投擲するモーションを見せる――冷静な判断――だが、もう遅い。
私は『孤独』に杖を向け、練り上げた魔法を――声を出して――解き放った!
「ウィンディ・アイシクル!」
正常に発動する魔法――空気中の水分を風が凍らせ、数本の氷の矢を形成し――それを飛ばす。
超至近距離からの矢の雨を、『孤独』は避けることなどできなかった。
「あぐう〜〜〜〜〜〜っ!?」
肩に、腹に、胸に、太い矢が次々と突き刺さり、『孤独』はぞっとするような悲鳴を上げた。
その瞬間に彼の手が緩み、小箱がぽろりとこぼれ落ちる。
私は、右手の脇に杖を挟んで、右腕を自由にすると、引ったくるように空中の小箱をつかみ取った。左手が動けば、もっとスマートにやれたのだろうが、今の私ではこれが限界だ。
そして最後に、フライを唱えて、落下する自分を止める。
『孤独』は――血しぶきを散らしながら、真っ逆さまに落ちていった。
「……黒琥珀(ジェット)のせいで、歯車がズレたか……」
そんな呟きをあとに残して、彼は濁流に飲み込まれ――私たちを死の淵まで追い詰めた暗殺者は、こうして舞台から永久に退場した。
■
『オオ――ン……オオォ――ンン……』
私がヴァイオラのいる崖の縁にたどり着くと、上空から悲しげな遠吠えが聞こえた。
顔を上げると、灰色の大きな影が、谷川の下流に向かって飛んでいくのが見えた。
『孤独』の使い魔であろう、ワイバーンだ。主人の敗北を悟り、水に飲まれて流れ去る主を追って行こうとしているのだろう。
アレに追われていた私の使い魔も、これで助かったはず――そう思った途端、シルフィードからの念話が、私の耳に届いた。
『きゅ、きゅひ〜、きゅひ〜……や、やったのね、お姉様……翼のひとつもへし折られず、シルフィは逃げ切ったのね〜……。
ぜ、全速力で飛び回って、めちゃくちゃお腹すいたのね……何か食べ物……お肉食べたいのっ! 牛、豚、鳥ィィーッ』
うん。この子は放っといても大丈夫。
それより問題はヴァイオラ。彼女の服はボロボロだった。怪我をしていないかどうか、心配だ。
傷があるなら、魔法が元通り使えるようになったのだから、ヒーリングでも使って、速やかに回復をはからなければ――もちろん、私の怪我も治療する必要がある。
ヴァイオラは、一歩も動くことなく、へたり込んでいた。
服はかなり破れ、顔も手も足も泥だらけだが、目立った外傷はないように見える。よほど上手に逃げたのだろう。
……でも、一応ということはある。
「ヴァイオラ。どこか、痛むところはない?」
「……ふえ?」
ぼんやりと、寝起きのように目をしばたかせながら、ヴァイオラはこちらを向いた。
私は、取り返した黒琥珀の小箱を彼女に差し出しながら、もう一度聞く。
「怪我は、していない?
賊は追い払ったし、手紙も取り返した。あとは、ヴァイオラが無事なら、完全。
矢とかナイフを受けて、血が出たりしているなら、言って」
「矢……ナイフ……?」
彼女はおうむ返しにそう呟くと――急に涙をボロボロこぼして、取り乱し始めた。
「た、た、タバサッ! し、しししシザーリアがっ……ああっ、シザーリアがっ、しっ、死んでしまうっ!」
■
身のほど知らずの不敬な賊を地獄に送ったあと、我とタバサは急いで馬車に戻った。
ライトの魔法によって照らし出されたシザーリアの姿は、血の海に沈んでおった――いや、比喩抜きで。
真っ赤な血糊でべっちょんべっちょんのどろんどろんになり、顔色は紙のように白い。ぴくりとも動かんし、首筋に触ってみたらめちゃくちゃ冷たい。ジェラート触ったような気分になった。
そんな、もう手遅れっぽい状態で――しかし、シザーリアはまだ、命をつないでおった。
「弱いけど……脈はある。急所も、かろうじて外している。でも……やはり、危険」
診察するタバサの表情にも、焦りが見える。
彼女の肩の刺し傷や、いっぱいあった擦り傷は、我のヒーリングで治してやった(へたっぴじゃから、応急処置レベルの治療じゃが、一応麻痺しとった左腕は動くようにできた。えっへん!)。
しかし、シザーリアの方は、我やタバサで何とかできるレベルを遥かに越えておった――下手に矢を引っこ抜いたら、大出血して三十秒で死ぬレベルだそうな。なにそれこわい。
「水の秘薬が、たくさん要る。それと、腕のいい水メイジ。
最低でも、トライアングル以上の、熟練した医者が必要」
そ、そんなん、この辺におらんじゃろ。
金はいくらでも払う用意がある。少なくとも、このメイドのためなら、十万エキューぐらいは出してもええ。それなりに長い付き合いじゃし、我とて役に立つ部下には、少しぐらいの愛着は持つのじゃ。
しかし物理的に用意がならん状況というのは――ちと困りもんなんではなかろうか? この森めっちゃ深いし、うまくディジョンまでシザーリアを運べたとしても、そこに医者や秘薬がなかったらアウト。あまり都会でもない街じゃったはずじゃし、ぶっちゃけ期待できん公算の方がデカイ。
かといって、見捨てるとか諦めるっつー選択肢はないぞ。何とかせいタバサ。ガリア花壇騎士なら……ガリア花壇騎士なら、きっとなんとかしてくれる……!
「……ヴァイオラ。シザーリアにレビテーションをかけて。私のシルフィードに乗せて、街まで運ぶ」
しばし考えた末、タバサの出した結論は、それじゃった。
シルフィード? って誰ぞ――って思っとったら、ばさんこばさんこという羽ばたきの音とともに、瑠璃のように青い風竜が我々の前に舞い降りた。
おお! そーいやボルドーでタバサと会った時におったのうコイツ! すっかり忘れとった!
なるほど、風竜に乗せて運べば、森も山も谷もあっという間じゃ!
「し、しかし、ディジョンでうまいこと、腕のいい医者を見つけられるじゃろうか?」
我の不安な呟きに、タバサは静かに首を横に振った。
「ディジョンじゃない。行き先は、リュティス。
あそこなら、王宮付きの名医がいくらでもいる」
そうか――少し距離はあるが、それならば、確かに見込みがあるかも知れん。
我は頷き、シザーリアにレビテーションをかけて、竜の背にそっと運ぶ。
タバサはさっと身を翻して、竜の首に騎乗した。「ヴァイオラも、早く」と言われたので、でかい鱗に足をかけて、竜の背に登ろうとしたが――あれ。ツルツルして登りにくい。てか竜の背中って高くないか!? た、タバサ、じっと見てないで引っ張り上げんか!
最終的にはわざわざフライを使って、よーやく我はシルフィードの背中にまたがることができた。
タバサがポンとシルフィードの頭を叩いて、それを合図にこの風竜は、優雅に星空目掛けて舞い上がった――皮膜の羽根で空気を打ち、リュティスに向けて、どんどん加速していく。
(死ぬなよ。我が部下ならば、この程度でくたばるでないぞ……シザーリア……)
我らが行く先の空に、赤い大きな星が、ちかちかと瞬いて見えた。