コンキリエ枢機卿の優雅な生活   作:琥珀堂

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にじファンに投下した時、激烈に評判の悪かったエピソードじゃ……。
だが、あえてそのまま投下しちゃる。


うごめく不穏

 あまりに静かだったので、誰もそれに気づかなかった。

 ヴァイオラ・コンキリエの、水メイジとしての実力は、情けないほどに低すぎた。また、タバサも水魔法の心得はあったが、やはり得意としているのは風魔法の方で、回復魔法にそれほど秀でているとは言えなかった。

 このふたりの治療で生命を維持するには、シザーリア・パッケリの負った怪我は、あまりに重過ぎたのだ。

 リュティスまで、残り五十リーグの距離。風を切って飛ぶシルフィードの背の上で。

 シザーリアの心臓は、動くのをやめた。

 

 

 あまりに静かだったので、誰もそれに気づかなかった。

 シザーリアの心臓が停止した二秒後、彼女の胸骨に埋め込まれていた、小さな機構が動き始めた。

 それは、一立方サントほどの、数種類の鉱物で作られた塊だった。一億分の一サント以下のパーツを無数に組み合わせ、水車と歯車で動く粉挽きからくりのように、ある一定の仕事ができるように作られていた。

 その仕事のひとつが、埋め込まれた生体――この場合は、シザーリア・パッケリ――の、健康状態のモニタリングだった。心臓の鼓動、呼吸回数、血中の栄養成分などを観察し、その結果が健康(グリーン)である限りは、何もせず休眠している。

 しかし、ある程度の負傷(イエロー)を負えば、休眠から覚めて準備状態に移行し、さらに死亡(レッド)に至れば、速やかに活動を始める。『修復機能』とでも呼ぶべきものが起動し、風石と水石と土石の箔を何層にも重ねた構造が、少しずつ崩壊して三種類の力を放出した。

 風石は、物理的な力を生み、止まった心臓に一定のリズムで圧力を加え、血流を再開させる。

 水石は、水エネルギーを血液に乗せて全身に行き渡らせ、破壊された体組織を再生する。

 土石は、失われた血や、不足した栄養を作り出し、補った。体内に侵入した毒素や雑菌、苦痛により発生したストレス性物質を変質させて無害化するのも、この石の役割である。

 それは回復や治療というより、やはり『修復』という表現が似つかわしいプロセスだった。およそ四十秒ほどで、『修復機能』はシザーリア・パッケリの肉体を、グリーンに近いイエローの状態まで復調させることに成功していた――体に刺さった矢はさすがに排除できなかったため、その段階で修復が終了してしまったが、もし異物を取り去った状態で機能が働いていれば、傷ひとつないオール・グリーンの状態まで、治し尽くしていたことだろう。

 さて。シザーリアの胸の中にある物体の仕事は、これで終わったわけではない。それは風、水、土の三種のエネルギーを発生させたが、あるパーツは、その力の波動を長・短の二種類の長さに区切って、複雑に組み合わせて、あたり一面に放ち始めた。

 単純なものを並べて、なんらかの法則がありそうな長いパターンを作るというそれは、例えて言うなら、船乗りの使う手旗信号のようで――事実、それは信号だった。精霊力を使った、二進法のシグナル――自然界にはけっして存在しないそのパルスは、はるか天にも届き、地上四百リーグという超高空において受信された。

 信号を受け取ったのは、三十立方メイルほどの、主に風石でできた、フネのように浮遊する構造物だった。その形は、立方体に近いずんぐりとした直方体で、本体の両側に、薄い長方形の羽のようなものが生えていた――それは時おり、くるりと回転したりしていたが、周りに大気と呼べるものがないので、空気を掻いて姿勢を制御しようとしているわけではないようだった。

 シザーリア・パッケリの体内の端末から受け取った微弱な信号を、その構造物――あえて呼ぶならば『中継機』――は、強力に増幅して再発信した。それは人間にも野生生物にも、精霊との縁が深いエルフにも感じ取ることができない種類の波動だったが、中継機と同様の、特別な信号受信機能を備えた端末であれば、それを感知し、人間の目にわかるように解読・翻訳することができた。

 その翻訳端末を持つ唯一の人間は、ハルケギニアにはいなかった。

 中継機の発した信号波は、一瞬のうちにハルケギニア外まで拡散していた――ガリアの東、広大なサハラ砂漠――そこすらも通過し――さらに東、ハルケギニア人が『東方』と呼ぶ地域にまで及んだ。

 その場所は、そこに住む人々には『大中国』という名で呼ばれていた。

 大中国の、国としての規模は非常に大きい――面積は、ハルケギニアの五つの国家を足したものの二倍以上。総人口は三億六千万人。広大な領地は、三十七の「省」という地域区分によって分けられ、その省がさらに、数十の県、市、町、村に分割できる。それらの政治形態は、ハルケギニアとあまり変わりはしない――小さな区分の長が、それらをまとめる大きな区分の長に従い、大きな区分の長が、さらにそれを取りまとめる長たちによって統治される。ハルケギニアと違うのは、爵位というものがないことぐらいだろうか(貴族・平民の区別もないが、メイジ・非メイジの区別は歴然と存在する。支配階級に就く人々は、百パーセントがメイジであるのは、ハルケギニアと同じだ)。

 その、大中国の東端――ニホン省と呼ばれる地域に、『受信者』はいた。

 

 

 ニホン省エヒメ県の中心都市マツヤマ――さらにその中の、ドウゴと呼ばれる地区に、彼はいた。

 このドウゴという場所は、かなり古くから知られる保養地である。五千年以上の歴史を持つすばらしい温泉があり、ほぼ一年を通して、国中から観光客がやってくるのだ。ごくたまに、西方地域――いわゆるハルケギニア――からの旅行者も、評判を聞きつけて、湯に浸かりに来ることがある。彼も、そういう西方からやってきた人物だった。

 彼はその時、ある上等な温泉宿の、最高級の部屋でくつろいでいた。ちょうど湯に浸かってきたところらしく、肌から湯気を立ちのぼらせている。紫色の、ややくせのある髪は水気をやや多めに含んでおり、もう少しちゃんとタオルで拭けばよかったかと、ぼんやり思っていたりした。

 素肌の上に、『ユカタ』と呼ばれる東方風のバスローブを羽織り、藤を編んで作ったアームチェアに腰掛けて、ほてった体を休める。窓から流れ込む空気は、澄んでいて優しい。軒先につるされた、『フーリン』というクリスタル細工のベルが、風に揺られて涼しげな音を立てる。窓の外には、松や楓などの木々を、苔むした岩たちと調和させた、不思議な魅力のある庭が広がっていた。

 実に安らかだ――彼は思った。東方風の、時間がゆっくり流れているかのような、素朴な環境。彼は大いに気に入っていた――木の柱と土の壁、草でできた奇妙な『タタミ』という床、木製の格子に、植物で作った紙を張った、脆弱そうな窓や扉! 西方ハルケギニアにはなかった、東方独特の住居形態に、最初は戸惑いもしたが、今ではすっかり慣れてしまった。

 ハルケギニアからこちらに移ってきて、何年経っただろう? 故郷のロマリアに残してきた娘は、元気でやっているだろうか? あの子も連れて来ればよかった、と思わないではないが、たぶんヴァイオラでは、この国の一般的な料理である『ナットウ』や『キムチ』に順応することはできないだろうから、やはり置いてきたのが正解だったのだろう。

「……セバスティアン? セバスティアン・コンキリエ? 居ますか?」

 フスマ(この国の引き戸)の向こうから声をかけられ、彼は――セバスティアン・パウロ・ベネディクト・コンキリエは、心地よい思考の海から浮上した。

「ああ、いるよ。その声はウェンリーだね? どうぞ入ってくれ」

 そばのサイドテーブルに置いてあった、べっ甲縁の眼鏡を手に取りながら、セバスティアンは返事をする。彼がそれを顔にかけると同時に、フスマが開いて、友人であるヤン・ウェンリー氏が姿を現した。

「やあ、元帥殿。半月ぶりだね。ま、座りなよ」

「その呼び方はやめてくれませんか、セバス。階級で呼ばれるってのは、どうにも慣れないんですよ。仕事の間は、まあ仕方ないと割り切れるんですが……プライベートの時は流石にね、わかるでしょう?」

 ヤン氏は、もじゃもじゃとした黒い髪を掻きながら、彫りの浅い顔に苦笑を浮かべた。

 何となくパッとしない、この威厳に欠ける青年が、大中国政府軍の誇る伝説的英雄『奇跡(ミラクル)』ヤン元帥であると、初見で見抜ける人間は少ない。カーキ色の軍服に身を包み、左腕に階級を示す腕章をつけていても、一兵卒と間違えられることがあるという。それどころか、安物のコットン・シャツにズボンという今の姿では、どう頑張っても、学校の事務員のなり損ないにしか見えない。

 もちろん、見た目がどうあれ、大中国軍部のトップに立つお偉いさんであることには変わりなく、普通であれば、セバスティアンのような外国人旅行者と親しくなる機会などないのだが――そこにはちょっとしたわけがあった。

 ヤン元帥は、セバスティアンからすすめられたザブトン(ひらべったい、八十サント四方ほどの大きさのクッション。この国では、このクッションを敷いて、床に直接座る習慣がある)に腰を下ろすと、にわかに表情を引き締め、言った。

「さて、セバス。今日はプライベートではあるんですが……公の方の用事がひとつあるので、まずはそれを済ませます。

 この度の南蛮との戦役で、あなたが我が大中国に多大な援助を下さったことに、深くお礼申し上げます。

 あなたの助けがなければ、あの地獄の南部国境地方で、五千人は余計に命を落としていたでしょう」

「ふむ……援助といっても、暇をしていた奴らを、たった三人貸しただけだがね」

 何でもないようにセバスティアンは言ったが、ヤン氏は首を横に振った。

「それで充分以上でしたよ。ひとりひとりが、数万人に匹敵する働きをしてくれたのですから。

 彼らの力を借りたのは、これが三度目ですが……やはりあの戦闘能力は凄まじい。西方には、彼らのような強力なメイジが、ゴロゴロしているのですか?」

「ああ、その辺は安心してくれたまえ。西方でも飛び抜けた実力者だからこそ、僕は彼らを雇ったのだ。

 僕の眼鏡に適い、ボディーガードを任せるに足ると判断したメイジは、あちらには指折りで数えられる程度しかいなかった。全体的に見れば、メイジたちの実力の平均は、こちらとあちらで大して違いはすまい」

 セバスティアンがこの東方を訪れた際、同行していたのは、わずか六名だけだった。

 ひとりは、彼の妻であるオリヴィア。残り五人は、セバスティアン自らが発掘し雇い入れた、『スイス・ガード』と呼ばれる護衛集団である。

 彼らは少数ながら、ひとりひとりが『烈風』級の戦闘力を持ち、全員合わされば、実に二十万人規模の軍隊に匹敵すると、セバスティアンは豪語していた。その言い草を、子供じみたハッタリだと笑う者ももちろんいたが、ヤン氏はセバスティアンの発言に、誇張がまったくないということを知っていた。

 彼は遠い目をして、窓の外のニホン風庭園を見つめた。そして、自分とセバスティアンが出会った時の思い出を、脳裏に蘇らせていた。

「もう五年近く前になりますかね。西部国境地方で、あなたと出会ったのは……。

 ある基地の視察に向かう途中のことでした。同行させた部下は五十人……戦闘を行うわけでなし、特に危険な地域でもなしで、正直なところ、油断していたんです。

 だから、思いがけずテロリスト集団『大地教』の待ち伏せ攻撃(アンブッシュ)に遭ってしまった時は、心底焦りました。あとで知ったことですが、私を暗殺するために、大地教に情報を流していた奴がいたんです。――敵のプリミティブな攻撃の前に、部下は次々と討ち取られて、私も右足を深く傷つけられ……死の寸前まで追い込まれてしまった……」

 出血多量で、意識すら危うくなったヤンにとどめを刺そうと、大地教の兵士たちは一気に押し寄せた。

 迫り来る刃、刃、刃――あと数秒で、大中国軍の中心的人物である彼は、ばらばらの肉片に分解されるはずだった。

 しかし、その瞬間はついに訪れなかった。

 具体的に何が起きたのか、朦朧としていたヤンにはわからない。ただ、ひとつだけ覚えていることがある――虹色に輝く何がが、目の前を横切ったと思ったら、視界の中にいたテロリストたちの頭が、次々に爆発していったのだ。

 笛の鳴るような風の音とともに、何人もの敵が輪切りになって崩れ落ちるのも見た。数十人が突然苦しみだしたかと思うと、目や鼻や口から血を噴き出して、のたうち回りながら死んでいくのも見た。

 それは悪夢のような光景で、実際に夢だったのかもしれない。しかし、現実に何が起きたにせよ、ヤンが生き残ったことは事実だ。

 夢の虐殺の半ばで、完全に気を失った彼は、十時間後に最寄りの街の病院で目を覚ました。

 足の怪我は、もとからなかったかのように、完全に消えていた。怪我をした記憶さえ夢だった、というわけではない。強力な水メイジが、完璧な治療をほどこした結果だった。

 ただ、ヤンの治療にあたった水メイジというのは、その病院の医師ではなかった。彼は病院に担ぎ込まれた時点で、すでに傷ひとつない状態にされており、担ぎ込んだ人は、単にヤンを休ませるための場所として、病院を選んだに過ぎなかったのだ。

 ヤンの他に、三人の部下が同じように救出されていた。彼らは、尊敬する上官が生還したことを喜び、ヤンも部下たちの無事を喜んだ。

 しかし、命拾いをしたことはよかったが、いったいどうして、あの絶望的な状況から、自分たちは逃れることができたのか?

 生き残った部下たちのふたりは、ヤンと同じく半死半生の状態で、記憶も幻のようにあやふやだった。

 ただひとり、比較的軽傷だったマ=シュンゴ大尉だけが、はっきりした記憶を持っており、彼はそれを他の三人に話して聞かせた。

 それは、現実であるはずなのに、夢同様に荒唐無稽な証言だった――攻撃してきた敵兵は、少なくとも五百人以上。それを撃退し、自分たちを救ってくれたのは、なんと、たった七人の旅人だったと言うのだ。

『男が三人、女が四人のグループでした。馬もラクダも連れず、荷物らしい荷物も持たず、まるで近所を散歩しているかのような、身軽な姿をしていたのに、なぜか砂漠の方から現れたのです。

 大地教の連中は、ただ通りかかっただけの彼らにも襲いかかりました。目撃者の口を封じるつもりだったのか、裕福そうな身なりをしていた彼らから、金品を剥ぎ取るつもりだったのか、具体的な動機はわかりません。ただ、武装した数百人のテロリストにかかっては、たかが七人程度、数秒で黙らせられると信じていたであろうことは、間違いないと思います。

 ところが、彼らが杖を振り始めると……七人の方ではなく、数百人の方が、あっという間に蹂躙されていったのです』

 マ=シュンゴの説明は、ヤンが夢だと思っていた景色と一致していた。

 吹き飛ぶ頭、ずたずたに切り刻まれる人体、血だるまになって絶命する敵たち――まるで、竜巻や雷や火山噴火や疫病などの大災害が、まとめてやってきたような光景だったそうだ。

 地獄は嵐のようにやってきて、嵐のように去っていった。時間にして三十秒もかからなかった、とマ=シュンゴは言う――それだけの時間が過ぎたあと、テロリストたちは全員、悲惨極まる死骸となって倒れ伏し、七人の旅人は、まったく無傷で立っていたのだ。

『あまりに恐ろしく、人間離れした虐殺でしたが、それでも私は、その旅人たちに助けを求めました。彼らに戦意があったわけではなく、ただ襲われたから迎撃しただけだということが、明らかだったからです。反撃の威力は高過ぎたようですが、間違いなく正当防衛でした。

 リーダーらしき、紫色の髪の紳士は、私の言葉を信じ、助けてくれました。暗紅色の髪のご婦人が、瀕死のヤン元帥や、私の同僚たちを水魔法で治療して下さって、他の方々もご親切に、我々をこの病院まで連れてきてくれたのです』

 ヤンが目を覚ます前に、旅人たちは出立してしまっていたが――義理堅いマ=シュンゴは、彼らに名を尋ねることを忘れたりはしなかった。

『紫色の髪の紳士は、コンキリエ様と名乗られました。ミスタ・セバスティアン・コンキリエ。西方のロマリアという国からいらした、貴族様だということです』

 ――これが、ヤン・ウェンリー元帥と、セバスティアン・コンキリエの縁の始まりだった。

 後日、シャンハイという街に滞在していたセバスティアンを、ヤンが礼を言うために訪ねたことがきっかけで、彼らは正式に知り合い、近付きになった。

 ふたりは、交流を始めてすぐに、お互いに深く信頼し合うようになった。どちらも穏やかな気性であったことに加え、相手の優れた性質が会話の中で理解できる程度に、優れた頭脳を持っていたからだ。

 セバスティアンが大中国で事業を興したいと思い立った時、彼はすぐにヤンの地位と人脈を利用させてもらおうと考えたし、ヤンもまた、セバスティアンの『スイス・ガード』を借りられれば、自分の仕事がどれだけ楽になるかを考えた。

 そうして、互いの長所を必要に応じて借り合うことで、この二大頭脳は、莫大な利益を上げ続けてきたのだ。

「あの大地教襲撃の時、あなたと出会えたことは、あらゆる意味で私にとって幸運でしたよ、セバスティアン。あなたは私と出会わなくても、やはり何らかの成功をつかんでいたでしょうが、私はあなたと『スイス・ガード』がいなければ、この一年のうちに、五回は死んでいたでしょうから」

「そこまで自分を卑下することもないと思うがね。君ほどの将軍は、西側にもそうそういないのだから。

 強いて言うなら、ゲルマニア空軍の『獅子』伯爵が匹敵できるくらいだろうかな……一度、君と会わせてあげたいよ。きっと仲良くなれると思うんだ」

 セバスティアンは、ハルケギニアにいた頃に出会った、若い青年将校のことを思い出していた。ローエングラムというその若者は、当時は一隻の軽巡航艦の艦長に過ぎなかったが、自分の見る目が正しければ、今頃は大艦隊を率いる将軍になっているはずだ。

「それに、私の立ち上げた『東方計画』も、君がいたからこそ実現したのだ。共同経営者になったミス・ユカリンを紹介してくれたのは、君なのだからね。私ひとりでは、彼女のような才能をこの広い国で捜し当てることは、不可能だったに違いない」

「ああ、あの巨大テーマパーク事業ですか! あれは順調らしいですね。グンマ県の広大な密林を切り開いて、神話や寓話を題材にしたアトラクションを集めた遊園都市『幻想郷』を造ると聞かされた時は、正直うまくいくのかと危ぶんだものですが……。

 近く、ソウルに第二幻想郷をオープンさせる予定だと、ユカリンさんは言っていましたっけ」

「うん。自分はあまり関わらず、後継者のミス・ランとミス・チェンを責任者にして、経験を積ませるのだそうだよ。ふたりとも……特にミス・チェンは非常に若いが、ボーダー商事の古参幹部たちがサポートするから、まず失敗はないだろう」

 そして、その資金のいくらかをセバスティアンが融通し、収益の一部が配当金として彼に戻ってくる。おそらくは、出した分の数倍に及ぶ大金が。

 ミス・ユカリンが第二幻想郷を直接運営しないのと同様に、セバスティアンも金を出す以外のことは特にしない。しかしそれでも、儲けは手に入る――彼にとって、仕事とはそういうものだった。努力も、運も、新しいアイデアも必要ではない。ただ、右にあるものを左に持っていくだけで充分なのだ。その間にお金は増えたり減ったりするから、増えてこぼれ落ちた分を懐に収めればいい。ある程度のコツさえわかっていれば、簡単なものだった。

 しかし、簡単だからこそ、最近は少し飽きがきていた。ロマリアに置いてきた分とは別に、大中国の銀行にも、豊かな人生を三十回以上繰り返しても使い切れないだけの金を貯めることに成功していたし、これからもその金額は増え続けるだろう。それを使った気になるほど消費するためには、この世の物価は安過ぎたのだ。

 ここ半年は、仕事を控えて観光地巡りをして遊んでいるが、そろそろ新しい楽しみが欲しくなってきた。セバスティアンは考える――猛獣狩りでもしようか? いや、それは自分の性に合わない。絵を描いたり、文章を書いたりは? 昔やってみて、散々な出来栄えに落ち込んだことを思い出した。

 いよいよ何も思いつかなくなったら、久しぶりに故郷に帰るのもいいかも知れない。懐かしきロマリア――彫刻された大理石の柱や、卵のような丸天井が美しい寺院――きらびやかなステンドグラス――天使屋根――八つの鐘――街中を走る水路――木靴のような形のゴンドラ――金貨や銀貨の投げ入れられる噴水――チーズとトマトをたっぷり使ったラザニア――シチリア島のレモン酒――甘い花の香り。

 そして、ヴァイオラ。

 セバスティアンは、ヤンに気付かれないように忍び笑いをした。そうだ、さっきも娘のことを思い出したっけ。自覚はないが、やはりヴァイオラの顔が見られないことを、寂しく思っているのかも知れない。

 やはり、遠からず帰ることにしよう。ある理由で、数年以内に一度は帰郷する必要があるのだ。具体的な日取りは決めていないが、温泉を充分楽しんだと思うようになったら、でいいだろう。あるいは、何かきっかけが――帰る理由になるようなことが起きたら――。

 などと思っていた時だった。フスマの向こうから、再び声がかかったのは。

「セバスティアン、セバスティアン・コンキリエ……居るかい?」

 その問い掛けに、セバスティアンとヤンは無言で苦笑した。先ほど、ヤンが訪ねてきた時と、ほとんど同じセリフが繰り返されたからだ。

 だから、セバスティアンも洒落っけを発揮して、こう言った――つまり、やはりヤンが来た時と同じ言葉を返したのだ。

「ああ、いるよ。その声はリョウコ君だね? どうぞ、入ってくれ」

 フスマが滑り、浅葱色の地に紺色の朝顔をあしらった、涼しげなユカタをまとった女性が入ってきた。

 純粋な東方風の美人だった。漆を塗ったような、黒く艶やかな真っすぐの髪を、肩の高さで一直線に切り揃えている。前髪もやはり、眉の高さで一直線にしてあり、「おかっぱ」と呼ばれるヘアスタイルの見本のようだ。

 目は柳葉のように切れ長で、唇は薄く、珊瑚のように赤い。全体的に華奢で控えめな、百合の花を思わせる女性――彼女こそ、セバスティアン・コンキリエの秘書であり、『スイス・ガード』の一員でもある、ミス・リョウコという人物だった。

 リョウコは、自らの主の他に、ヤンという客が部屋にいたことに気付くと、小さく会釈をしながら言った。

「おや、ミスタ・ヤンではないですか。どうやらお話し中だったようですね……お邪魔をしたのでなかったらよいのですが」

「いえ、お気になさらず、ミス・リョウコ。私たちはただ、無駄話をしていただけですから。

 むしろ、お仕事の話をなさるのなら、私こそ席を外しますが……?」

「いえ、それには及びません。ちょっとした報告だけですので。――大丈夫だろうね、セバスティアン?」

 秘書の確認に、セバスティアンは頷いた。

「問題ないよ。というか、聞かれてまずい内容なら、そもそもきみはそう言わないはずだ。違うかい?」

「違わないね」

 リョウコはセバスティアンからすすめられる前に、部屋の隅に積んであったザブトンの一枚を勝手にひっぱってくると、よっこらしょ、と言いながら、そこに腰を下ろした。

 秘書が雇い主の前で、しかも来客中に取る態度としては、あまりにくつろぎ過ぎであるかも知れない。しかし、セバスティアンはリョウコをとがめなかったし、ヤンもそれを不自然には感じなかった。リョウコという人物が、もうかれこれ三十年以上もセバスティアンの事業を補佐してきた、事実上のビジネス・パートナーであると同時に、プライベートでも家族同然の付き合いであると言うことを、ヤンはすでに知っていたのだ。

 ふたりのやり取りを、何度も見てきたヤンは思う――不思議な主従だと。もうそれが当たり前になっているのだろう、リョウコは雇用主であるセバスティアンに敬語を使ったりしないし、むしろセバスティアンに対し、姉や母親のような態度で接することもある。すでに五十近い年齢の、目尻や口元にしわができ始めた中年男のセバスティアンに、せいぜい十代後半にしか見えない若々しいリョウコが、だ!

(もっとも、三十年以上秘書をしていると言うからには、彼女の実年齢は確実に見た目と一致しないはずなのだが。実際、ミス・リョウコは今、何歳なのだろうか?)

 ヤンはそんな疑問を、友人たちに対する礼儀として口にせず、したがってセバスティアンたちも、その答えをヤンに伝える機会を持たなかった。

 謎多き秘書は、こほんと咳払いをしてから、謎めいた主に言葉をかけた。

「で、報告というのはだね、セバス。西方からの情報なんだ。つい五分前に、風石衛星経由のSOE(超精霊力)通信で届いたものだ。

 ロマリアに残してきた、キミの娘さん――ヴァイオラちゃんの、世話係の娘さんがいただろう? 金髪のミス・シザーリア。覚えてるかい?」

「シザーリア君? もちろん、覚えているとも。実に優秀な火メイジだった。真面目で、忠誠心が高く、ヴァイオラの扱いが上手い娘だったな。

 兄であるシザーリオ君の才能がもう少し低ければ、彼の代わりに彼女を『スイス・ガード』に迎えていただろうね。……彼女が、どうかしたかい?」

「うむ。どうやらね、死んでしまったみたいなんだよ」

 あっさりとしたその言い方に、横で何気なく聞いていたヤンは目を丸くした。

 しかし、訃報を伝えられたセバスティアンの方は、小さく片眉を上げただけで――驚くでも悲しむでもなく、確かめるように一言だけ尋ねた。

「ええと……それは、『死にっぱなし』ということかな?」

 その奇妙な質問に、リョウコは首を横に振る。

「いいや。ただ単に『一回』死んだと、彼女の体内のチップが知らせてきたってだけの話さ。チップの中の修正パッチは正常に作動した――死亡が確認された直後に、ミス・シザーリアを完璧に蘇生させたし、今はもう全然心配はない。

 ただ、死因がね。全身に二十ヵ所以上の刺傷を負ったことによる、失血性のショック死だ。ちょっと自然な死に方じゃないっぽいんでね、一応キミに知らせた方がいいかなって思って。なにしろミス・シザーリアは、ヴァイオラちゃんのボディーガードも兼ねてたはずだからね……」

 ぎし、と、セバスティアンの座る藤椅子が鳴った。彼はそれに深く背中を預け、何かを考えるように、視線を天井に向けていた。

「……ヴァイオラの体内のチップはどうしてる? あの装置は、死という極端なものだけでなく、小さな怪我でも観察できるはずだ。あの娘のバイタル・サインに、何か異常は?」

 問われると同時に、リョウコはユカタの帯に手を差し込み、四角く薄い手の平サイズのクリスタル板を取り出した。その側面を指で軽くなぞると、ただ透明でしかなかった板が、まるで月明かりを受けたかのように青白く輝き始め――その表面に、ハルケギニア文字で構成された文章が、次々に浮かび上がってきた。

「えっと、修正パッチが起動するまでに至らない、軽い擦り傷や切り傷が少し。手足には、全力疾走した後みたいに、疲労が溜まっているようだね。数分前まで、心拍数と呼吸数がすごく高まっていたが、今はわりと落ち着いてる。あとは、やや血中のアルコール濃度が高いかな。その程度だ」

「つまり、多少の怪我はしたということか」

 セバスティアンは腕組みをして、眉間にしわを寄せながら考えを巡らせる。

(シザーリア君が、どうやら「殺害」されて、同時にヴァイオラが軽い怪我をする。あの娘の疲労というのは、もちろん走って逃げたことが原因だろう。

 つまるところ、何者かにヴァイオラが襲われて、走って逃げた。シザーリア君は襲撃者に応戦して、敗北して死んだ……いや、どうやらヴァイオラは生き延びたようだから、敗北じゃなくて相討ちになったってところかな?)

 セバスティアンはシザーリアに、命をかけてでもヴァイオラを守れ、と教え込んでいた。どうやら、若いボディーガードはその教えに忠実に従ったらしいが、本当に一度命を落とすとは想定していなかった。

 よほどの強敵だったのか、それとも鍛え方が足りなかったのか? その二択のどちらかだとして、どちらであっても大して変わらないと思ったので、セバスティアンは深く考えるのをやめた。

 重要なのは、ヴァイオラが死なずに済んだということと――ヴァイオラが少なからず怖い思いをしただろうということだった。

 それは好ましいことではなかったし、嫌な目に遭った娘を慰めてやりたいという気にもなった。つまるところ、セバスティアン・コンキリエはごく当たり前の、子煩悩な父親だったのだ。

「……ちょうどいいきっかけ、かな」

 彼はぽつりと呟くと、視線を話について来れていないヤン氏に向けた。

「なあ、ウェンリー。仮にだね、僕が近いうちに、西に戻るつもりだと言ったとしよう。

 その場合、僕がこちらで始めた事業のほとんどは、もう僕の手から離れているから、放っておいてもいいんだけど、最近手を出したいくつかの取引については、相場の動きを見て、そのつど適切な対応をする必要があるわけだ。

 僕が自分で対応するのが一番ではあるが、それじゃいつまで経っても帰ることにならない……だから誰か、頭の良い人を代理人にして、その人にこちらでの事業を任せようと思うんだが、使えそうな人はいないかな? 少なくとも、ミス・ユカリンや、上院議員のトリューニヒト氏に匹敵する財務の才能が、必要条件なんだが」

「……また、突然ですね、セバス」

 あなたはときどき、政治家たちよりずっと気まぐれなことをする場合があるようです――と、ヤンは口に出さず、心の中だけでそっと付け足した。

 彼は今の地位に至るまでに、政治家たちのイメージ活動や派閥争いに巻き込まれ、苦労した経験があった。しかし、今、目の前にいる西方の大商人は、かつて彼を振り回した政治家たち数十人をまとめたくらい、さらりと恥ずかしげもなく無茶な相談を持ちかけてくる。さらに、無茶振りをされているのに、セバスティアンの不思議に親しみやすい性格のせいで、何とかして彼の望みを叶えてやろう、という気にさせられてしまうのだから、恐ろしくたちが悪い。

「そうですね……シャイロック氏やカリオストロ氏、チュルヤ夫人、あるいはスピードワゴン氏といった人たちなら、まず信用できるでしょう」

 大中国きっての超富豪たちの名を聞いて、セバスティアンは満足げに微笑んだ。

「金融王と時計王、スモークチーズ王に石炭王か……妥当なところだな。よし、リョウコ君。今名前の出た人たちの会社と、ミス・ユカリンのボーダー商事に、僕の事業と資産を、均等に分割して信託する手続きを取ってくれ。それと、『スイス・ガード』のみんなに連絡を……西方に帰る日取りを、全員で相談して決めたい」

「了解だ。信託の方は、部下たちに手分けして当たらせよう」

 リョウコは頷いて、クリスタル板(タブレット)の表面を、文字を書くように指先で撫で始めた。

 すると、表面に浮かんでいた光の文字が消え、新しい文字が浮かび、あるいは図表のようなものが現れたりして、指の動きに応じて、映し出されているものが絶え間無く変化し続ける。何をしているのか、という問いをリョウコに投げれば、命令書を作成し、それを大中国中に散らばる部下たちへ送っているのだ、という返事が返ってくるだろう。

 彼女の持つタブレットは、土石と水晶からなる複雑なメカニズムを内蔵した、超多機能情報端末だった。遠い場所との通信が可能で、難解な計算を一瞬でこなし、さらに大量の情報を蓄積できる。量産できれば、間違いなくハルケギニアと大中国の両方に革命を起こすであろう品だ。

 その性能に驚嘆したヤンが、一台譲ってもらえないかとセバスティアンに相談したことがあるが――大中国の軍事費一年分を超える代金を提示された。材料代はもちろん、精密部品の加工にかかる手間賃も桁外れで、さらには組み立てにすら、とんでもなく高価な技術が使われているらしいのだ。作り方を教えてもらって、自分たちで作るということも不可能だった。説明を受けても、そのややこし過ぎる構造と機能を、誰も把握できないのだ――リョウコが言うには、これをちゃんと作るには、伝説のミョズニトニルンに匹敵するほどの、マジックアイテムへの知識と理解が必要らしい(しかし、だったらなぜ、そんなものがここに実在しているのだろう? まさか、本物のミョズニトニルンが作ったわけでもないだろうに)。

 無言で端末を操作すること、五分。リョウコはたったそれだけの時間で、数百万エキューの金を動かし終えてしまった。この翌日、いくつかの会社でコンキリエ資金を運用する専門の部署が生まれ、五千人近い人間が異動、もしくは昇進することになる。セバスティアンとその秘書は、予告もなしに大中国の社会をスプーンでぐるりと大きく掻き回したが、その理由が里帰りのためだという事実は、この旅館の一室にいる三人しか知らない。

「……よし、オーケイ。これでキミの事業は全て、四十八時間以内に新しい経営者たちに委託される。同時に、かなりたくさんの株式と証文が入ってくることになるが、それは銀行に預けたのでいいかい?」

「構わない。帰ってくるにしても、また何年も空くだろうからね。こちらの屋敷の金庫に置いとくよりは、その方が確実だ」

 セバスティアンの確認を得て、リョウコは再び端末をいじり始める。その横で、ヤンは控えめなため息をついた。

「どうやら、本気みたいですね、セバス。あなたがいなくなると、寂しくなりますよ……。

 実は、今日ここに来たのは、あなたを来週のフライング・ボールの試合観戦に誘おうと思っていたからなんです。チーム・ハイネセンのスタメンで、うちのユリアンが出るんですよ。これはぜひ応援に来て欲しいのですが、試合の日まではこの国にいてくれませんか?」

 このお願いに、セバスティアンは少しだけ考える。ユリアンというのは、ヤンの家に住み込みで働いている、使用人の少年の名だった。素直で気の利く良い子で、ヤンは彼を実の息子のように大切にしていた。家のことは、この少年に任せておけば、必ず良い結果が出るそうだ――特に、紅茶をいれる腕前は、セバスティアンも絶賛していた。大中国ではお茶といえば、黒っぽいウーロン・ティーか、緑色のグリーン・ティーが主なのだが、ヤンの家に招かれた時だけは、アルビオンの一流ホテルに勝るとも劣らない、美味い紅茶を楽しむことができるのだった。

 まだ十五歳のユリアン少年は、ヤン家の家事を手伝いながら、ハイネセンの魔法学院に通っており(この国では、ハルケギニアと違って、全寮制の学校が一般的ではないようだ)、優秀な成績をおさめている。部活動でも、フライング・ボールという球技に並外れた才能を示し、将来はプロ試験を受けることを、コーチから熱心に奨められているらしい。

「ふむ、こちらの用事も急ぎというわけではないし、一週間ぐらいは延ばしてもいいだろう。僕も、彼の試合は楽しみだしね。

 オリヴィアや、他の連中の都合も聞く必要はあるが、まあ、誰もすぐ帰りたいとは言わないだろうよ。――リョウコ君、『スイス・ガード』たちへの連絡は済んだかな?」

 セバスティアンが尋ねた時、リョウコは相変わらずタブレットの表面を撫でたり、叩いたりしていた。

 流れる情報から目を離さず、彼女は答える。

「『極紫』と『悪魔』からは、もう返事が来たよ。近所の菓子屋でお茶をしていたようだ……あと三十分もしたら、ここに戻ってくるってさ。

『水瓶』君は、位置検索してみたところ、どうやら入浴中のようだね。彼の端末に知らせを入れておいたから、風呂から上がったらすぐ気付いてくれるだろう。そして『轟天』は……」

 リョウコは突然言葉を切ると、不機嫌と呆れを混ぜたような表情を浮かべ、「あの馬鹿」と小さく毒ついた。

「コホン、失礼……。セバスティアン。ルーデルの奴なんだが、今は海上にいるようだ。ここから東に、八千二百リーグの距離を飛行中。まったく、何かあったら、すぐに駆けつけられるところにいろと言っておいたのに!」

 憤るリョウコとは反対に、セバスティアンはクスクスと含み笑いをして、ハエでも追い払うように、ぞんざいに手を振った。

「まあ、あまり目くじらを立ててやりなさんな。ルーデルは、常に空を飛んでないと気が済まないタイプの男だよ。

 それに……彼なら、二、三時間もあれば帰ってこられるだろう?」

 セバスティアンのその言葉と――タブレット上に新たに現れた情報を目にして、リョウコはさらに呆れの気持ちを強め、ため息という形でそれを吐き出した。

「ルーデルから返事が来たよ……『一時間で帰る』ってさ」

「それは結構」

 からからとセバスティアンは笑う。この部屋で、笑っているのは彼だけだ。リョウコは雇い主とボディーガードの自由さに、少なからず諦観の念を抱いていたし、ヤンは「いったい、どんな風竜に乗れば、そんなに速く遠く移動できるのだろう? フライの魔法で出せる速度じゃないし」などと、かなり真剣に考えていた。

「『スイス・ガード』の連中は、それで全員と。あとは、僕の可愛いオリヴィアだけだな。彼女の返事はまだかな?」

「うん、彼女も知らせに気付いたら、すぐ応えてくれると思うんだが……位置検索してみようか……ああ、なんだ」

 リョウコはタブレットから顔を上げ、先ほど自分が通ってきた入り口のフスマを見やった。

「奥様は、タブレットを通して返事をするより、ずっと手軽な方法を取られたようだよ。きっと、最初からここに向かっていたんだろうね――マダム・オリヴィアは、ほら、ちょうどこの部屋の前まで来ておられる――」

 その言葉につられて、セバスティアンもヤンも、同じようにフスマに目を向けた。

 その直後だった――「ビシュ」と濡れた音を立てて、何かひらべったいものがフスマの真ん中を突き破り、室内へと飛び込んできた。

 赤く、薄く、長い――それはまるで槍だった。騎馬兵の突撃もかくやという勢いで、部屋の真ん中を突っ切ると、先端を正確にリョウコの白い喉に埋めた。

 鋭く尖った先端は、リョウコの首をやすやすと貫き、反対側に抜けた。刃の幅は、リョウコの首より少し広かったので、出来事は貫通というよりは、切断と呼ぶべきだろう。ギロチンにかけられたも同然なリョウコの頭部は、タタミの床にゴトンと落下し、そのままセバスティアンの足元まで転がっていくと、藤椅子の脚にぶつかって止まった。

 意思の宿る頭脳を失ったリョウコの体が、糸を切られた操り人形のように、前のめりに倒れた。ヤンの側から見えた首の切断面は、真っ黒に焼け焦げていて、血は一滴も噴き出していない。そしてそれは、転がった頭部の切り口も同じだった。

 ほんの一瞬のうちに、無惨な殺人をやってのけた恐るべき深紅の槍は、二、三秒の間は中空に静止していたが、やがてそれはぐにゃりと萎れ、風に揺れるリボンのように、ひらひらとしながら、フスマの向こうへと引っ込んでいった。

 そして――ばりばりと紙の破られる音――フスマを手斧で引き裂いて、その傷口から溢れ出すようにして、狂気に満ちた紅い瞳が、死人のような青白い顔が、血に濡れたような波打つ髪が、邪悪な美しい笑顔が――オリヴィア・コンキリエが姿を現した。

 彼女は、部屋の奥にいる夫の姿を見つけると、口の端を三日月のようにつり上げた。

「うふ、ふ、ねえ、セバスティアン――私の私だけのセバスティアン。ねえ、ねえ、死んだ? あの泥棒猫。無様に血をぶちまけて死んでくれた?

 あ、ああああのリョウコとかいう黒髪娘、しょっちゅうしょっちゅうしょっちゅうしょっちゅうしょっちゅうしょっちゅうセバスティアンと二人きりで会ったりして。仕事の手伝いなんて言ってたけど、セバスにコナかける気で近づいてるんだって、私にはちゃんとわかるんだから。あなたにちょっかいを出すうるさいハエは、私が一匹残らず叩き落としてあげますからねぇ? 私の魔法でずたずたに切り刻んで、血を地面に吸わせて、苔とかカビとかそういったものにしてあげるの。手足をもってあなたの隣に立てるのは私だけでいいってわかるでしょう? もちろんセバスティアンならわかってるに決まっているわセバスだもの。泥棒猫が何匹寄って来たって揺るがない人だってことぐらいわかってるわ、でも、纏わりつかれるとうっとおしいのは誰だって当然よね? だから私が見つけるごとに潰して殺すの。夫の不愉快は妻の不愉快だもの、もちろん私は喜んで殺すわ! あなたもべたべたしてくる厄介者が死んで嬉しいでしょ、ね、ね? そうでしょ? まるで晴れた夏のカルイザワくらい爽やかな気分よね? 私は今とっても清々しいわ、首のちぎれた泥棒猫の死体って、何でこんなに見ていて気持ちがいいのかしら! ね、あなたもそう思うわよねセバス? だから褒めて、私を褒めて撫でて。ぎゅってして愛してるって言って。もちろん私が言わなくてもあなたはしてくれるでしょうけど、たまには私から口に出して求めるのも重要だと思うのそうでしょう? だから、ね、だから――」

 夢見るような眼差しで、オリヴィアはセバスティアンに歩み寄る。彼女が着ているのは、赤地に黒い揚羽蝶をあしらったユカタだ――前の合わせ目からのぞく首すじや鎖骨、控えめな胸の谷間は白く、瑞々しく、蠱惑的だ。四十代半ばの年齢を感じさせないほどの、若さと美しさを持っていて――だが、それ以上に病的だった。右手には手斧を持ち、暗紅色の長い髪を床に引きずり、表情には正気というものがまったく存在していない――この世ならざる、幽冥の世界の妖女――。

 彼女はヤンに目もくれない。倒れ伏したリョウコの死体にも目をくれない。ただ、愛する夫だけしか眼中にない。

 そして、求められた夫、セバスティアンは、足元にあったリョウコの首を、ひょいと持ち上げてテーブルに乗せると、それでその問題は片付いたとばかりに、オリヴィアに笑顔を向けた。

「やあ、ダーリン。相変わらず君は可愛いね。

 立っていないでこちらにおいで。ちょうど、僕の膝が空いている」

 その言葉を聞いた途端、オリヴィアの青白い頬が薔薇色に色づいた。彼女はこくり、と一度頷き、小走りに夫へと近付くと、彼の膝に横向きに腰を下ろした。

「えへへ、セバス……だぁい好き」

 地獄の亡霊のようだったオリヴィアは、いつの間にかごく普通の、恋する女に変わっていた。恍惚に潤んだ紅い瞳も、三日月のように湾曲した微笑みを浮かべる唇も変わらない。しかし、今のそれは、狂気でも病性でも邪悪さでもなく、血と肉と情熱をそなえていた。愛する者と接する時こそ、一番魅力的になれるのが、オリヴィア・コンキリエという人間なのだ。

 彼女はセバスティアンの首に腕を絡めると、優しくその頬に口づけした。セバスティアンは、そのお返しに、妻の長い髪を指で梳かしながら、唇に唇を合わせた。二人のキスは、彼らの愛の深さに比べるとひどく短い。それでも、たっぷり一分以上、この夫婦は抱き合いながら、お互いの唇の感触を楽しんでいた。

 セバスティアンもオリヴィアも、人の目を気にしない情熱的なロマリア人だった。同じ部屋にいた、他の二人の視線なぞどこ吹く風である。

 ヤンは、このコンキリエ夫妻のいちゃつきぶりは慣れっこだったので、無言で明後日の方を向いて、肩をすくめる余裕があった。しかし、もうひとりの方は――彼女もまた、セバスティアンとオリヴィアのことはよく知っていたし、理解もしていたが――痛い目に遭わされてなお、黙っていられるほど寛容ではなかった。

「……あのね、オリヴィア。あなたがセバスのことを好きなのはわかるがね。だからっていちいち、私を出会い頭に殺すのはやめてもらえないかな」

 その声は、テーブルの上から発せられた。「私、怒ってます」と言いたげに、唇をへの字にして、眉間にしわを寄せているのは――切断されたリョウコの生首だった。

 むくりと、首のないリョウコの体も起き上がる。そして、テーブルに乗った自分の首にトコトコと歩み寄ると、割れやすい壷でも扱うように、慎重に持ち上げた。

 それは、まるで奇術の一幕のようだった。平民のエンターテナーが、トリックを使って催す人体切断のマジック。しかし、殺害に及んだオリヴィアは奇術ショーの助手ではないし、リョウコの首は見せかけだけでなく、実際に切り落とされていた。

 互いの切断面を合わせるように、リョウコの体は、首を自分の上に乗せる。すると、傷口から虹色の不気味な泡がぶくぶくと溢れ出し、まるで包帯のように首の周りを包み込んだ。そのまま数秒――やがて、泡がすべて弾けて、得体の知れない蒸気となって消え去ると、現れたのは傷ひとつない、なめらかな肌だった。首を落とされたことなど、悪い夢にしか思えないほどに、一切の痕跡は消失していた。

 完全に元の姿に戻ったリョウコは、首を左右に軽く振って調子を確かめると、今だ平気でいちゃこらしている夫婦の片方に、空気を読まずに声をかけた。

「こら、聞いているのかねオリヴィア? 昔からさんざん言い聞かせてきただろう、あなたはいささか近視眼的に過ぎるし、思い込みが激し過ぎる! セバスを独占したいのだろうが、世の中にはあなたが思っているほど敵はいないんだよ。年に四百回くらいは言ってるけど、私はセバスを狙ってなんかいないし、人の旦那を寝取る趣味だって持ち合わせちゃいないんだ。あなたも昔と違って、セバスに話しかけたレストランの女給仕だとか、ホテルのコンシェルジュを殺したりしなくなったのは、一応成長したと言えるんだろうが――あなたの殺した女たちを、いちいち生き返らせるのは大変だった――いい加減、私のことも信用しちゃくれないかね? 何だかんだで、もう三十年近い付き合いだろうに――」

 リョウコのこの説教に対する、オリヴィアの返事は、攻撃魔法のスペルだった。セバスティアンに抱き着いたまま、口の中で小さく、素早く――ほんの一秒で構成された呪文は、しかし恐るべき鋭さを持った紅い刃物となり、せっかく復活したリョウコの脳天から下腹部までを、縦一直線に切り裂いた。

「う、ううううるさいわね、い、いいところなのに……ひ、人の恋路の邪魔をする奴はね、馬に蹴られて噛まれて斬られて焼かれて皮を剥がされて食中毒になって死んじゃえばいいのよ。は、ハムみたいにスライスしてパンに挟むわよ?」

 一音一音に呪詛を込めて、オリヴィアは呟く。彼女の髪の中から、赤黒い直線や楕円や三角形などから構成された、まがまがしい幾何学模様が出現していた――最初にリョウコの首をはねたのは、この図形群の内の直線の要素であり、今、脳天を割ったのは、三角形の要素であった。

 水メイジでありながら戦闘を得意とするオリヴィアは、やると決めたら容赦はしない。セバスティアンと愛を確かめ合う時間を確保するためなら、何度殺しても平気な顔をして蘇る、この『無限』の二つ名を持つ女秘書を、何億回でも切り刻むつもりだった――すでにこの三十年間で、一万回以上もこの同一人を殺し続けているが、それでも諦めたりするつもりはない――今もリョウコは、切断面からあの虹色の泡を噴いて、傷を治しつつあるが、もう百回も細切れにすれば、絶命してくれるかも知れない――ある意味、オリヴィアは非常に楽天的な性格の持ち主と言えた。

「ああ、まったく、オーダーメードしたブランド物のユカタが台なしだよ……あれ、タブレットはどこにいったかな? ああ、ミスタ・ヤンのところまで吹っ飛んでいましたか、これは失敬」

 オリヴィアの憎しみを全身に受けてなお、リョウコはのんきに構えていた。破れたユカタの前を手で押さえながら、ヤンから水晶タブレットを返してもらったりしている(このふたりの女性のケンカや、リョウコの超自然的な復活をしょっちゅう目撃しているヤンは、例によってうろたえない。ただ、非常識な出来事に驚かなくなった自分に対し、いくばくかの寂しさを感じるだけである)。

 その余裕が、さらにオリヴィアの苛立ちを煽った。図形たちが空中に並ぶ――複雑で不吉な、狂ったモザイク画が描かれる――これは総攻撃のための準備行動だった。彼女が杖である手斧をチョイと動かせば、憎いリョウコをサイコロのように分解できる――今はまだ、攻撃の射線上にヤンがいるから、発動はさせられないが――オリヴィアは、怨念溢れる頭の中で囁いた――ミスタ・ヤン、どきなさい。その女殺せない。

 彼女の憎悪は、グラスの縁ギリギリまで満ちた赤ワインのようで、今にも弾けそうだった。

 そんな危険域にあったものにケリをつけたのは、リョウコの死でもオリヴィアの諦めでもなく、もっと穏やかなもの――夫であるセバスティアンの囁きだった。

「ほら、オイタはそこまでにしたまえ、可愛いオリヴィア。君は、僕よりもリョウコ君を見ていたいのかな?」

 オリヴィアの小さな顔を、自分の胸に抱き寄せ、セバスティアンは言う。すると、あっという間にオリヴィアの中の憎悪は萎んで失せ、彼女の狭窄気味な意識は、残らず夫に戻っていった。

「あぅ……んーん、私の目に映るのは、セバスだけ。他のものなんて、な、何も見えなくったって、か、かか、構わないわ」

「僕もそうだよ、愛しい木苺ちゃん。さあ、そのおっかない《壁画(ベートーベンフリーズ)》を解除して、また僕のほっぺにキスしておくれ」

「お安いご用よ、ハニー……♪」

 甘い声と、ピンク色の空気。オリヴィアの惨殺用オリジナルスペル《壁画(ベートーベンフリーズ)》の幾何学模様は、まるでいたたまれなくなったかのように、静かに消えた。

『奇跡』のヤンと、『無限』のリョウコも、圧倒的な居づらさに勝つことはできなかった。砂糖を吐きそうな気分をかろうじて耐えながら、そっとフスマを開けて部屋を出る――お互いしか見えなくなっている夫婦に一声かけてから辞去するというのは、逆にマナー違反でしかないので、無言で逃げるように立ち去った。

 ヤンは、一応伝えるべきことは伝えた後だったし、リョウコは――説教が無駄になったのはこれが初めてではないので、すぐに諦めがついた。

 廊下に出て、愛に満ちた濃密な空気から逃れると、ふたりの黒髪の男女は、長いこと呼吸をしていなかったかのように、大きく息を吸い込んだ。

「まったく、あの夫婦ときたら! 昔から私は思っていたんですよ、人ってのは、誰かを愛するようになると、途端に知性が低下するものなんじゃないかってね。いや、あのふたりの場合は、離れ離れにしてても対して変わらないかもしれないが。

 ミスタ・ヤン、あなたも注意しなければなりませんよ。ミス・ミドリガオカと一緒になったあと、あの連中みたいなことになってしまったら、部下たちはウンザリするでしょうから」

 リョウコは、溜まりに溜まった鬱憤をぶちまけるように、手近にいたヤンに言った。

 ヤンは、その忠告を苦笑とともに受け止めた。年下の婚約者である、ミス・ミドリガオカとの結婚は、来年の水無月に予定している。彼は確かに、婚約者のことを愛していたが、お互いに控えめな性格であるため、コンキリエ夫妻のような大胆な睦み合いができるとは、まったく思えなかった。それとも、そんな風に恥ずかしがっているのは最初だけで、やがては彼らのようになってしまうのだろうか?

「まあ、仲がいいのは悪いことじゃないですよ、ミス・リョウコ。彼らだって、場合によってはちゃんと控えてくれますし……たぶん」

「たぶん、とつけたのは、賢明な判断ですよ、ミスタ・ヤン。はあ……フライング・ボールの試合を観戦する時でも、あの調子でいたりしないか、ちゃんと監視しておかなくちゃ……まったく、私としたことが、とんでもない人たちを主に選んでしまったものだ」

「まあまあ、そんなことは言わずに。彼らはややクセがあるだけで、別に悪い人たちじゃないんですから。

 あなたも彼らを気に入っているから、長い間、彼らの仕事をお手伝いしているんでしょう?」

 そう言われてしまうと、怒り心頭のリョウコも、しぶしぶ頷かざるを得ない。

「確かに、そりゃあ、あの子たちのことは嫌っちゃいませんとも。ああいう人目を気にしない態度は、若者特有のダメなところでもありますが、同時に微笑ましくもありますからね。

 それにね、彼らは彼らなりに、素直だったり優しかったりするところもあるんですよ。オリヴィアは私に、編み物のやり方を教えてほしいって頭を下げてきたことがあるし(あの時は確か、マフラーの作り方を教えてあげました。後日、彼女は自作した物をセバスにプレゼントしたんですが、すごく喜んでもらえたとか言って、私に笑顔で抱きついてきたんですよ。あのオリヴィアが! 信じられますか?)、セバスは仕事と関係のない休暇旅行にも、いつも私を誘ってくれますしね。

 今回の、この大中国への旅行が決まった時も、私は西方に残って、セバスの代わりに会社を守っていようと思っていたのです。なのに、私がいないと心細いとか言われてしまいまして、仕方なく……まったく、いくつになっても甘えん坊で……」

 ぶつぶつと、不満なのかその逆なのかよくわからない文句をこぼし続けるリョウコの姿は、ヤンからは、息子夫婦を溺愛しているおばあちゃんに見えた。

「まあ、頼られるのは嫌いじゃないですし? 彼らの気遣いのおかげで、私もいい目を見させてもらってますからね。

 いい服やいい食事を楽しめるし、面白い演劇も見せてもらえるし――何より、色々な場所に旅行に連れていってくれるのがいいですね。この国も、人づてに聞いて想像していたより、ずっと珍しいものばかりで、大いに楽しめておりますし――」

「え?」

 何気ないリョウコの言葉の切れ端が、ヤンの心に引っ掛かった。

「少し意外ですね、ミス・リョウコ。今のおっしゃりようからすると、あなたはセバスにつれられて来るまで、この国に来たことがなかったみたいじゃないですか。

 私はてっきり、あなたのことを、この大中国の出身だと思っていましたよ。それも、名前からして、ニホン省の生まれであろうと考えていたのですが……違いましたか?」

 その問いかけに、リョウコは不意を突かれたように、きょとんとしていたが――やがて、クスリと秘密めいた微笑を浮かべると、こんな答えを返した。

「ええ、そうです。私は『日本』の出身ですよ。――でも、それは『大中国のニホン省』では、ないのです」

 ヤンの疑問への答えは、疑問自体よりさらに謎めいていた。

 リョウコは遠い過去を振り返るように――事実そうしていたのだろう――遠くを見るような目をして、誰に聞かせるでもなく呟いている――。

「懐かしいなぁ……昔の日本……トウキョウタワーにスカイツリー……こっちのニホンには、その手のランドマークって、ツーテンカクしかないからなぁ……」

 板張りの廊下を、ぺたぺたと歩いていくリョウコの後ろ姿を、ヤンは呆然と見送った。

 まったく知らない彼女の過去と、まったく聞き覚えのない、彼女の故郷の何か。ヤンは結局、自分がミス・リョウコのことを、何も知らないということに思い至った。常識を越えた情報処理テクノロジーの秘密も、異常な不死性の正体も、彼女の実年齢も、故郷も、過去の足跡も、そもそも何者であるかさえわからない。

 そしてそれは、セバスティアンやオリヴィアについても同じだった。彼らが仲の良い夫婦で、西方のロマリアという国の出身で、あちらでも相当な財産家であったということは知っている――妻は強力な水メイジで、夫はメイジとしての腕より、マネーを操るセンスが優れている、ということも知っている――他には? そう、娘がひとりいるということも聞いている。

 たくさんのことを語らい、共有していたような気がする――のに、いざ思い起こしてみると、実際に彼らについて知っていることが、あまりに少ないことに驚かされる。ヤンは、セバスティアンたちと友情を持っているということは疑っていない――しかし、漠然と不安になった。

 謎の多過ぎる、西方から来た友人たち。

 彼らはいったい、何者なんだろう?

 ――ヤンがそんなことを思い、立ち尽くしていた時、ふたりきりの閉ざされた部屋の中で、コンキリエ夫妻は、まったく悩みのない平和な時間を過ごしていた。

 具体的に言うと、退室した人たちがいるということにすら気付かず、ひたすらにいちゃこらしていた。

「僕の心に住んでいるのは君だけだよ、ダーリン……」

「嬉しいわ、セバス……じゃあ、本当の本当の本当の本当の本当の本当の本当の本当に、リョウコとは何でもないのね?」

 夫人が、夫の肩に指先で「Q」の字を書きながら尋ねると、夫は夫で、夫人の髪をくるくると指に巻きつけながら、朗らかに答える。

「もちろんさ。彼女とは、イシヅチ山まで遠乗りをしたぐらいで、特別なことは何もないんだ。だから、そんな辛そうな顔をするのはよしておくれ……僕まで悲しくなるじゃないか」

 言いながらセバスティアンは、幼い子にするように、オリヴィアの背中をポンポンと叩いてやった。すると、それだけで彼の腕の中の女は、ふにゃりととろけて、全身を彼に預けてしまった。

 セバスティアンが、かつて親交のあったトリステインのグラモン伯爵から伝授された、「疑い深い女性をなだめるための会話術」は、完璧に役に立っていた。これほどうまくいくようなら、本当にオリヴィア以外の誰かと浮気をしても、あっさりごまかし切れるかも知れないな――と、セバスティアンは内心で呟いた。

 もちろん、頭の中で仮定しただけで、実際に浮気をするつもりなど、彼にはない。彼女にとって彼が特別で唯一であるように、彼にとっても彼女は特別で唯一なのだ。

「そうそう、オリヴィア、言い忘れていたよ。リョウコ君に言って、君をここに呼ばせたのはね、また、一緒に旅をしないかって提案したかったからなのさ。

 この国の観光は充分にしたし、仕事も全部片付けた。そろそろ、ここを離れてもいい頃だ」

「ふぅん? いいと思うわ。もっとも、あなたさえ隣にいてくれるなら、私は世界のどこに行くのだって構わないのだけど。

 次の行き先はどこ? 北? 南?」

「いいや。未知の土地じゃないよ。実は、ロマリアへ里帰りをしようと思っているのさ。久しぶりに、ヴァイオラの顔を見に行ってやろうじゃないか」

「まあ! まあ、まあ――それは素敵な考えだわ、セバス!」

 恋する乙女の微笑みに、母親としての暖かみが混じった。

「そうよねえ、一度は帰って、あの娘と話をしてあげなくちゃ。手遅れになる前に。

『スイス・ガード』のみんなも連れて帰るのよね? リョウコは置いていきたいけど――それと、あなたのお友達の、ミスタ・ヤンはどうするの?」

「うん? ヤン? ヤン・ウェンリーがどうかしたのかい?」

 問いかけの意味がわからなかったセバスティアンに、オリヴィアは軽く首を傾げて、言葉を足した。

「だって、この大中国は、もうすぐ滅んでしまうんでしょう? 置いていったら、彼、死んでしまうんじゃないかしら」

『だって、リチャードは殺されたんでしょう?』とでも言うかのような、気軽な調子だった。対するセバスティアンも、「ああ」と小さく頷くだけで、その心の水面には、驚きも悲しみも恐怖も現れなかった。ただ、妻の言葉の意味がわかったことへの、納得があっただけである。

「そうか、それのことを言っていたのだね。――うん、確かに、もうすぐこの国は滅びる。でも、それはロマリアも――西方ハルケギニアもそうだ。そう遠くないうちに、大地がまるごと吹き飛んで、空と海と土が混ざり合い、この世の人類は全員、死に絶えることになるだろう――それに備えている、僕たちを除いて……」

「ええ、前に聞いたわ。荒唐無稽だけど、あなたの言うことだもの、きっと真実なんでしょうね?

 だからあなたは、避難場所を造らせたんでしょう? リョウコと、ヨグ・ソトースに命じて。最後の瞬間が来る前に、私や『スイス・ガード』のみんなを、そこに連れていってくれるということも教えてもらったわ。

 でも、他には誰を連れていくの? ミスタ・ヤンやユリアン君みたいな、仲良くなったお友達は? ミス・ユカリンとか、トリューニヒト氏みたいな、仕事仲間の人たちは? 彼らを置いて、ロマリアに戻ってしまったら、世界が滅びるまでに、迎えに来ることができるのかしら?」

「そんな心配はいらないよ、オリヴィア」

 セバスティアンは、妻を抱く腕に、少しだけ力を込めた。

「ウェンリーたちは置いていく……ユリアン君も、ミス・ユカリンたちも、他の人たちも、誰ひとり連れていかない――そして、終末の日までに、迎えに来ることもない。

 ハルケギニアの人たちもそうだ。助けるつもりはない――いや、違うな。みんな、みんな死んでもらわなくちゃいけないんだ」

 それは穏やかでありながら、断固とした口調だった。眼鏡の奥で、強い決意を秘めた目が、冷酷に細められる。

「僕の夢――いや、目標というべきか――を叶えるためには、人類という種には滅んでもらわなければならない。生存を許すのは、ごく身近な、僕の利益に反しない、ほんのわずかな人数でなければならない。それは原理的な問題であって、仕方のないことなんだ……オリヴィア、君には、理解できないかもしれないけれど……」

「私を説得しようなんて、しなくていいのよ」

 しっとりとした、青白く冷たい指先が、セバスティアンの唇をふさいだ。

「理由がどうあれ、結果がどうあれ、私はあなたについていくわ……すべてを、あなたに捧げているんだもの――あなたが、私を犠牲にしたいと思ったなら、遠慮なくそうして、と言えるくらいには、ね?」

「……君のそういうところが、特に好きさ」

 セバスティアンが妻に感じるものは、強い愛情と、それと同等以上のシンパシーだった。自分の思い通りにするためなら、何をどれだけ犠牲にしてもいいという――通常の価値観からすれば、明らかな邪悪――自分の考え方を全肯定してくれる彼女がいるからこそ、彼は自分に自信を持って、これまでどんなことでもやってこられたのだ。

 そして、これからも。

「帰ったら、さっそくヴァイオラに会って、僕らと一緒に来るかどうか、聞いてみよう」

 理解者と肌を触れ合う安心の中で、セバスティアンはまどろみながら言う。

「否と言うなら、僕たちの娘といえど、見捨てなきゃならないけど――まあ、そんなことにはならないだろうな。あの子は割と俗っぽいから。

 あとは、シザーリア君と、トリステインにいるマザリーニ君にも声をかけよう。この二人は来てくれるか微妙だが、来てくれたら来てくれたで、ヴァイオラのいい遊び相手になるだろう。

 ハルケギニア組で、命が助かるチャンスをくれてやるべきは、そのくらいか。他は一人も残さない……特に、人類滅亡を阻止できる可能性を持つ『虚無』たちは――世界が滅びる前に、死んでいてもらった方が安全だ……」

 オリヴィアは、無言で夫の髪を撫でる。子供を寝かしつけるように、優しい笑みを浮かべて。あるいは、魔王に魅入られたかのように、虚ろな笑みを浮かべて。

「ロマリアの聖エイジス三十二世――ガリアのジョゼフ一世――そして、トリステインの虚無も、やっと姿を現した――ヴァリエール公爵家の三女、ミス・ルイズ・フランソワーズ……あとは、アルビオンの虚無さえ発見できれば……」

 セバスティアンは、今の時代に出現している可能性のある、伝説の系統の使い手たちを、かなりの人数を使って捜し求めていた。それ専門の探偵社をひとつ、ゲルマニアに設立したほどである。

 六千年の昔に、始祖の後継者たちによって作られた国が四つ。そのひとつずつに、ひとりずつの『虚無』の使い手。今のところ、三国家までは存在を確認できているが、唯一アルビオンだけが、すっきりした答えを彼に与えてくれない。

(探偵たちは、まったく成果を出せていない――それも仕方ない。あの国は事情が複雑なのだ――大きな粛清騒ぎがあり、最近ではとうとう、王家自体が滅びてしまったと聞く――それと同時に、虚無の血も途絶えたものと考えるのは簡単だが……やはり、念には念を押したい……帰ったら、僕が自分で探してみるか……ヨグ・ソトースを使えば、それほど難しくはないだろう)

 その思考を嗅ぎ付けてか、セバスティアンの頭上に、突如として虹色の泡が浮かんだ。

 リョウコが傷を治すために使った泡と、よく似ている。最初、エキュー金貨ほどの大きさだった小さな泡は、どんどん膨らみ、分裂し、人の頭ほどになった。

 さらに、同じものが、部屋のあちこちに現れていた。タタミの隙間から、梁や柱の木目から、トコノマと呼ばれる飾り台に置かれている、アヤメの生けられた花瓶の中から、鮮やかでおぞましい色合いの、ねっとりとした質感の泡が、ごぼごぼ、ぶくぶくと――。

 その泡と粘液の混合物のひとしずくが、セバスティアンの耳に垂れ落ちる。すると、まるで鼓膜を直接震わせるように、彼にだけ聞こえる声が、耳の奥で囁いた。

『セバス……セバスティアン? もうそちらに戻ってもいいかな? 今、一階のロビーにいるんだが――シザーリオ君と、コーヒー・ミルクを飲んでいるよ――いちゃつき終わったら、再び部屋に入れてくれたまえ』

 くぐもってはいたが、それは確かに彼の秘書の声だった。

 セバスティアンは、口を開かず、頭の中で言葉を浮かべる。この泡を介した通信では、実際に喉で空気を振動させて情報を発信する必要がないのだ。

『ああ、もう大丈夫――いや、やっぱり、他の三人も揃ってから、一緒に来てくれ。人数が少ないと、またオリヴィアが君を切り刻んで、話が進まなくなりそうだ』

『わかったよ。じゃ、もうしばらく戯れているがいいさ。……おっと、菓子屋に行っていた二人が戻ってきた。あとはルーデルだけだね。君たちのお楽しみの時間も、もうあまり残っていないようだよ? ふ、ふ、ふ』

 皮肉げな笑い声を残して、通信は切れた。それと同時に、部屋中にあふれていた不気味な泡たちがいっせいに音もなく弾け、蒸発して消えていく。

 セバスティアンは、目を閉じた。生まれ育った土地、親しくしていた人々、あの清らかさと醜さの混じった空気――先ほども夢想した、あらゆるものを、再びイメージの中に浮かび上がらせる。

 そのすべてを、遠からず失うということが――まったく残念でない。

 心の底でそれを認め、そう確認できた自分にほっと安堵すると、彼は再び両目を開けた。

 

 

 そんな風にして、不穏な意思がうごめいていた――世界の果てで――ハルケギニアから遠く離れた、東の国で――。

 それは、まるでおぞましい生き物が這いずるように、ハルケギニアに帰ってこようとしている。

 彼が、あるいは彼らが、具体的に何を目的とし、何をするつもりなのか、本当にわかっている者は、本人たち以外にはいない。

 彼らを人類全員にとっての脅威――世界の敵であると気付いている者もいない。

 危険性、不吉さ、恐ろしさ――そういったものを巧みに隠したまま――彼らはやがて、故郷への旅路を踏み出す。

 誰にもそれを止めることはできないし、感じ取ることもできない――。

 

 

 遠い遠い、東方から渡ってきたようなぬるい風が吹き――我はその中に、ぞっとするような不穏の気配を感じた。

 肌が粟立ち、背すじが凍る。危険がこの身に近付く時の、あの嫌ぁな感覚が、まるで背後から薄いヴェールをかけられたかのように、静かに訪れたのじゃった。

 それは別に、シザーリアの死を予感したとか、そういうのではない。このハリネズミなメイドの容態は、なんかよくわからんが、気がついたらえらく好転しておった。ちょっと前まで血がだくだくで、今にも召されんばかりの土気色な顔をしとったんが、今ではほっぺも綺麗なばら色、呼吸も楽そうに、深くゆっくりで安定しておる。

 かけてもかけても焼け石に水っぽいなーと思っていた我のヒーリングが、ようやく効いてきたのじゃろう。うむ、さすが我。高貴な身分の者に相応しく、魔法の腕前もスペシャルでグレートじゃ。

 これなら、まず峠は越したと言ってよかろう。今の時点で、シザーリアは死なずに済むことが、ほぼ確定したのじゃ。

 それは良いことじゃった。うん、間違いなく良いことじゃ――しかし――シザーリアの命が助かったらしいと、安心したことで――我は、我の身に迫る恐るべきプレッシャーに気付いてしまったのじゃ。

 ああ、シザーリアのことだけに意識を集中していなければ! もっと余裕を持って、他のことにも注意を向けていれば! こんな、あからさまな危険信号を、見逃すはずはなかったのに!

 体の奥に、ずっしりと溜まる不快感。額に汗がにじむ。不安がつのり、目がきょろきょろと落ち着きを失う。

 まずい、まずい。恐ろしいものが迫ってきている。ワイングラスの縁までいっぱいに水を注いだかのように、限界点が近付きつつある。

 恐怖、苦痛、羞恥、嫌悪、ありとあらゆる避けるべきものが、遠くから我に向かって、青白い手を伸ばしてきている。

 そのおぞましきものの正体を、我は肉体的な感覚で察していた。馴染み深きその不穏。ああ、我は、我は――。

 

 

 

 

 

 我は、ものすごく――トイレに行きたい!

 

 

 

 

 

 やばいやばいやばい。さっきまで死にかけたり死なれかけたりして、まったく余裕なかったから気付けなんだが、すごいもうなんていうかギリギリじゃ。さっき水をいっぱいに注いだグラスのたとえを使ったが、マジでそんな感じ。

 ここまでの圧迫感(プレッシャー)は、五歳か六歳のころ、家族でラグドリアン湖にハイキングに行った時以来じゃ。あん時は、湖の水でよく冷やしたスイカを食べ過ぎたせいで、限界線(デッドライン)に踏み込んでしまったが、今回はどうしてこんなになっておる? 別に、果物食い過ぎた覚えはないのに。

 強いて言うなら、レストランでワインをがぶ飲みして、馬車の中でもシャンパンをゴクゴクしたぐらい――うん、原因特定。ボルドーの酒が美味いのが悪い。

 し、しかし、原因がわかったところで、何の慰めにもならん。この切迫した事態を切り抜ける方法を考えんと、とてつもなく致命的なことになる。

 二十六歳にもなる立派なレディである我が、人前で『グラスから水を溢れさせる行為(比喩表現)』をしてしまったら――もう、なんつーか、精神的に死ぬ。

 しかも、外国の王が直々に派遣した騎士の駆る風竜の上で。さらに言うなら、その竜が到着するのは、ガリア王宮というやんごとなき場所。

 ――ことによると、死刑になるかも知れん。

 そうならんでも、我の方で自主死刑を執行する可能性が高い。貴族の誇りだとか、ブリミル教徒としての良識だとかを軽蔑しておる我じゃが、恥ずかしいのは人一倍気にするタチなのじゃ。

 わ、我が死なずに済むためには。一刻も早く、手洗い場に駆け込むしか方法はない!

 今、森の中に下ろしてもらって、茂みの陰で花摘みとかは駄目じゃ。山暮らしの野暮ったい平民じゃあるまいし、都会暮らしでスタイリッシュな我にはそんな、ワイルドな真似はできん。

 ガリア王宮なら、清潔な水洗式のトイレもあろう。そこにたどり着くまで、何としても耐え抜く――我の全精神力を集中して、ガマンしてみせる!

 じゃから早く、早く着くのじゃ! いやホント、マジでお願いします!

 シザーリアの怪我を心配していた頃よりも強い焦燥が、我をさいなむ。タバサの風竜の飛行が、ナメクジの歩みのようにのろっちく感じられる。

「ヴァイオラ……シザーリアの具合は? 少しは落ち着いた?」

 前の方に座っているタバサが、振り向いてそう聞いてきた。

「もし落ち着いてきているようなら、ヴァイオラは少し休んで。ずっとヒーリングを続けていたら、あなたの方もまいってしまう。

 代わりに、私が治療をするから――シルフィードを誘導することができなくなるから、少しスピードを落とすことになるけど、その方が風が弱まるから、怪我人にかかる負担も減るかも……」

 ちょ、馬鹿言うなコラ!

 今スピード落とすとか、貴様は我に死ねと言うのか!?

「ならん! むしろもっと飛ばせ……一刻の猶予もならんのじゃ!」

 我は、我にできる最大の厳しさでもって、その提案を拒絶した。

 歯を食いしばり、肩を怒らせ、顔を脂汗で濡らして、容認できぬ発言をしたタバサを睨みつける。地獄の淵まで追い詰められた精神が、怒りと焦りに満ちた、甲高い絶叫を上げた――。

「モタモタするな――ッ! 間に合わなくなっても知らんぞ――ッ!」

 我の剣幕にビビッたのか、タバサは息を飲み、「そんなに危険な状態……」と呟いた。

 それから小さく頷くと、風竜シルフィードに向かって、早口でこう命じた。

「急いで。もっと。――全力の出し過ぎであなた自身が再起不能になることも厭わずに、加速して」

『きゅいきゅい! がってん承知なのね――って、お姉様、今さりげなく酷いこと言わなかった?』

 なんか竜の鳴き声に非難の色が混ざっとった気がするが、シルフィードは言われた通り、スピードを上げてくれた。

 大きな翼が長い距離を吹き飛ばし、数分間という短い時間に置き換えた。本来なら確かに短いと言えるそれを、我はぷるぷるしながら、無限を数える気分で耐え忍び――あとちょいとで、堤防の絶望的な決壊に至らんとしたところで――ついに――ついに!

 シルフィードの首の向く先に、リュティスの美しい街並みが現れた。

 そして、その中心に、我は、涙が出るほどの感動とともに――青く輝く、壮麗なるヴェルサルテイル宮殿(トイレのある建物)の姿を発見したのじゃった。

 

 


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