真夜中のヴェルサルテイル宮殿は、静かで重い。暗く深い星空の下、光沢のある青いタイルで覆われたその豪壮な建物は、眠れる巨大な海亀にも似ていた。
その眠りは、羽ばたきの音によって乱された――夜間警備用の篝火の点在する中庭に、青い羽根を広げた風竜が降下し、優雅に着地する。
あたしは――イザベラ・ド・ガリアは、プチ・トロワの窓から、それを苦々しい気持ちで眺めていた。
正確に言えば、その竜の首にまたがる、あたしと同じ髪の色をした少女を見て、不快を感じていた。あの嫌な人形娘――あたしの忌まわしい従姉妹、シャルロット。
あいつが戻ってきたということは、今回の任務も無事に果たしてきたということだ。失敗してぶち殺されていたら、当然戻ってこないんだから、またしてもあたしの期待は裏切られたということになる。
――しぶとい奴だよ、本当に。
腹の中が重くなるような、ムカムカする気持ちを抱えて、あたしは親指の爪を噛んだ。憎悪が汗みたいに毛穴から出るもんなら、きっとどす黒いそれが、あたしの全身をくまなく覆って、さらに床にまで滴っていただろう。
そうだ、あたしはあの従妹を憎んでいる。この手で絞め殺してやりたいぐらいに怨んでいる。だから会うたびに嘲笑や罵声を浴びせるし、使用人を使ってまで虐め倒している。あのクソ親父――無能王ジョゼフは、シャルロットを騎士としてあたしの下につけ、危険極まる任務を与え続けることで、いつか勝手に死んじまうように仕組んだようだが、あたしにしてみりゃ、気が長い上に回りくどい、イライラするやり方だ。殺すなら思い切って、バシンと死刑にしちまえばいいんだよ。王様なんだから、そんな非道をやったって、誰も文句なんかつけらんないだろうに。
実はあれを殺したくなくて、せめて生き延びられる可能性を与えてやってるってことなのか? トチ狂った脳みその片すみに、親族を殺めることへの忌避感が、ほんのわずかでも残ってたって言いたいのか?
そんなわきゃあない――親父がそういう手っ取り早い方法を選ばない理由は、あたしにも大体想像がつく。まず、ひと思いに殺すより、何かさせてた方が面白いだろうってのと――もうひとつ――シャルロットが生きてようと死んでようと、ホントはどっちでもいいんだってこと。
少なくとも、慈悲の心だとか温情だとかじゃ絶対にない。シャルル叔父を殺し、その奥さんに気が狂う毒を飲ませて、それで平然としている親父が、シャルロットだけにそんな仏(ブリミル)心を発揮するはずがないのだ。
ていうか、誰に対してだって気遣いなんてことをしないのがうちの親父だ――よりによってこのあたしに、シャルロットの上司をやれってんだから。あの大嫌いな人形娘、チビで陰気で仮面みたいに表情を変えない、気味の悪いアイツと、仕事のこととはいえ、顔を合わせて話をしなくちゃならないことがどれだけ苦痛か、まったくわかっちゃいないんだ。いや、もっと最悪なことに、わかっててやってる可能性の方が高いか。
あたしの見ている先で、シャルロットがひらりを身をひるがえして、竜から降りた。それに続いて、僧衣を着たえらいちっこい女が、やけに慌てて飛び降りてた――それ以降は、窓にカーテンをかけちまったから見ていない。シャルロットの凱旋なんて、見続けててもヤな気分になるだけだからね。
「アニー」
部屋のすみに控えていたメイドたちの中の、適当に選んだひとりの名を呼ぶ。赤毛でソバカス面の、田舎臭いその娘は、おどおどと落ち着きのない態度で、あたしのそばに寄ってきた。
「な、何でございましょうか、イザベラ様」
「厨房にひとっ走りして、塩とオリーブオイルをもらってきな。……変な顔するんじゃないよ、あたしがそれだけを食うと思ったのかい。
ご帰還したあの人形をねぎらってやるのに使うんだ。塩を頭の上の高い位置から振りかけて、そのあとでオリーブオイルを回しかけてやる。きっと美味しくなるよ」
そう言ってクククと笑うと、アニーはいかにも気の乗らなさそうな表情をしつつ(このメイドはアホだから、考えてることがすぐに顔に出るのだ)、黙って頭を下げて退室していった。
あたしはそれを見送って、じろりと他のメイドたちを見やった。アニーよりはしつけのされている連中で、仕事中に感情を表に出すような不作法はしないが、それでもわかる。どいつもこいつも、あたしを見る目の中に、軽蔑や嫌悪の光がある。
昨日も、こいつらが物陰で、あたしの陰口を言っているのを聞いたばかりだ――「イザベラ様のシャルロット様への当たり様は、陰険にもほどがありますよ」――「あんなにかわいらしい子に、どうしてあそこまでの仕打ちができるのかねぇ……きっとお父上と同じで、気がふれているんだよ」――フン、好き勝手言ってろってのさ。お前らの賛成なんて求めちゃいないんだ。誰にもあたしの気持ちはわからないんだから。
そうとも、理解されてたまるか。誰かを憎まずにはいられない、こんな惨めな気持ちを。
■
我のこのもにょもにょした気持ちを、たぶん誰も理解してはくれんじゃろう。
無事にヴェルサルテイル宮殿にたどり着いて、タバサにシザーリアを医者に見せるよう頼んだ後――出迎えてくれた綺麗なねーちゃん(自己紹介によると、ジョゼフ王の秘書かなんかをしとるモリエール夫人っつう人じゃそうな。たぶん秘書ってのは建前で、ホントは愛人なんじゃろーなー、やーらしー! きゃーきゃー)を、出合い頭にのぎゃーって脅かして、手洗いまで案内させた。
そんで、まあ、抱えていた問題を解決して――手水鉢で手をぱちゃぱちゃ洗っとった時は、この世のすべてを許せるほどに慈悲深い気持ちになっとったんじゃけど。
問題はそれからじゃよ。何とか守り抜いた手紙(忘れとる奴がおるかも知れんから言うが、我がシエイエス大司教を陥れるために作ったニセ手紙な)をジョゼフ王に渡すべく、謁見を求めたんじゃ。
最初からの約束じゃったし、それはすぐ叶った。もっとも、話す内容が内容じゃから、正式な謁見でなく、王の私室での非公式会談という体裁になった。モリエールさんに案内されて、王専用の遊戯室なる場所に連れていかれたが、これ、人に見られてたら、我も愛人のひとり扱いされたのではあるまいか。ちょっとヤじゃなー。
遊戯室は、その呼び方をされるには少々陰気な部屋じゃった。だだっ広くて天井が高いくせに、窓がひとつもなく、壁にかけられたランプの明かりも弱々しい。だもんで、薄紫色をした壁は、天井に近付くにつれて暗い色にグラデーションしていき、一番高いところでは、黒々とした闇が雨雲のようにたちこめておる有様じゃった。
部屋の真ん中には、すごいでかい模型の塊みたいなもんがあった。山や森、川に湖、海岸線や街、街道まであるように見える。あの地形――どうやら、ハルケギニア全体を箱庭化したものであるらしい。さすが大国ガリアの王ともなると、趣味にもなかなか金をかけておるようじゃ。ただ、金かけて作るのが箱庭っつーのは、ちとガキっぽい気がするがの。
「ジョゼフ様。ミス・コンキリエをお連れしました」
モリエール夫人がそう呼びかけると、箱庭の向こう側で人影がもぞりと動いた。
ランプの冷たい明かりの中に浮かび上がったのは、青髪青ひげの、立派な風采の男じゃった。肩幅は広く、鍛えられてがっしりとした体つきをしていて、中年だというのにだらけた感じが一切しない。眼差しは鋭く、強い知性の光があり、さりげなくこちらをじっと観察している。
強そうで賢そうで、見るからに頼もしく――それでいて、絶対に油断のならない人物。
我から見たジョゼフ一世というのは、そのような男じゃった。
「ご苦労だった、モリエール夫人。あちらに控えていてくれ。……そして、初めましてだな、マザー・コンキリエ。そなたの来訪を、余は心待ちにしていたぞ」
彼はまず、夫人を部屋の入口まで下がらせ、次いで我に視線を移し、威厳たっぷりに挨拶の言葉をかけてきた。
深く渋い、いい声じゃ。ぜひとも我が教会で、聖歌を歌わせたい。
我は礼儀として、その場に片膝をつき、頭を垂れた。
「お目にかかれて光栄でございます、陛下。まずは、こうして会談の機会を与えて下さったことに感謝を。
そして、ここに至るまでの道中に、陛下の騎士を護衛としてお貸し下さったことにも、お礼申し上げます」
「ふむ。聞けば、何者かの襲撃を受け、そなたの従者を負傷させてしまったという話だが。役立たずを送りつけたことを、むしろ余は謝るつもりであったのだがな?」
自分のひげを触りながら、ジョゼフ王は不敵に言う。本気で申し訳なく思っておるわけではないようじゃ。単なる謙遜であり社交辞令と考えるのが正解じゃろう。
「いえいえ、ミス・タバサがおりませなんだら、シザーリアは死んでおりましたし、我の運命も同様だったでしょう。我らの命を体を張って救ってくれたあの勇姿、さすがは名高きガリアの花壇騎士でございます」
王が社交辞令をお使いならば、我もわかりやすいお追従を言うのが筋であろう。見ていて空々しいとか思う奴がいるかも知れんが、それは心得違いじゃ。これは様式美というのじゃよ。
――とはいえ、外交の腕前を示す指標のひとつに、いかに様式美を早めに切り上げられるか、というのがあるからのう。我は頃よしと判断し、本題を切り出すことに決めた。
「さて、ジョゼフ陛下。本日参りましたのは、ただご挨拶のみのためではございませぬ。
我がお抱えの細工師が、素晴らしき工芸品を仕立てましたので……それをお受け取り頂きたく参りました」
言いながら、我は懐から、黒琥珀で装飾された美しい小箱を取り出し、ジョゼフ王に差し出した。
その中には、シエイエスを無実の罪に落とすニセ手紙が入っておる――何であのクソ強盗が、これを欲しがったのかわからん――ともかく、これがこの能無しと噂のアホ王によって『本物なり』と認められれば、シエイエスは失脚、彼と仲の良いヴィットーリオのタコ教皇にも、遠回りなダメージを与えることができる。
現教皇を追い落として、我が代わりにその座につくための、深謀遠慮なる計画が、今まさにクライマックスを迎えておるのじゃ。
「ふむ、なるほど、これは美しい装飾だ……拝見する」
ジョゼフ王は小箱を受け取ると、装飾など完璧に無視して、ふたを開け、中の手紙を取り出した。
がさがさした羊皮紙を伸ばし、ためつすがめつしながら、じっくりと読む。やがて満足したのか、彼は小さく頷いた。
「よろしい、マザー・コンキリエ。確かにこの手紙は、我が国を荒らす犯罪組織『テニスコートの誓い』を告発するための、立派な材料になるだろう」
よっしゃあああああぁぁぁぁぁッ!
ありがとう目ん玉フシ穴王! そんな簡単にちょちょいと見ただけで本物断定して下さって!
専門家に鑑定されたらヤバいかなーとか思っとったが、あんたが『裁くのは! 俺の判断だーッ!』って感じにセルフチェックで満足してくれた以上、それも行われんじゃろう。可哀相なシエイエスに黙祷。怨むなら、司法の役目を立派に果たしたこの王様を怨んでくれ。
我の内心ガッツポーズなど想像もしていないであろうチョロい王様は、ニヤリと白い歯を見せて、握手を求めてきた。
「ご苦労であった。ロマリア人であるあなたが、このガリアのために、命をかけて手紙を運んでくれた恩を、余は生涯忘れぬだろう」
よせよせ、そんなに褒めるでない、うえへへへ。そのままいい感じに勘違いし続けて、将来的に政治的なコネで我に恩返しをしておくれ。
「――さて、マザーがガリアのためにしてくれた仕事に、ガリアも報いなければなるまい」
お? なんか報奨金でもくれるんか?
我がそう思ってワクワクしておると、ジョゼフ王は控えていたモリエール夫人に向けて、こう命令を発した。
「その壁のランプを一台、こちらに」
彼女は頷き、ランプを壁から取り外すと、ジョゼフ王のところへ持っていく。
王はそれを受け取ると、金属の傘とガラスの覆いを外し、油を吸って青白い炎を燈している芯を露わにした。
そして、その揺らめく炎の上に――我が渡した手紙をかざしたのじゃ。
「……って、えええええぇぇぇぇぇッ!?」
な、何をするだァ――ッ!?
火は、ぺらっぺらの手紙に、すぐに燃え移った。羊皮紙を舐める炎は、薄気味の悪いオレンジ色をしており、獣のような悪臭がかすかに漂った。炎は徐々に勢力を強め、重大な犯罪の証拠(偽)は、黒ずんだグズグズの灰になっていく。
「……シエイエス大司教が、『テニスコートの誓い』の中枢にいるということは、すでに調べがついていた」
炎の色を瞳に写して、ジョゼフ王は呟く。
「シレ銀行のロベスピエールについても同様……さらにそこに、サン・ジュストという若造も含めた三人こそが、あの犯罪組織をまとめている。やつらには前から目をつけていたのだ……余と、余が直接指揮した調査員だけはな。
ただ、奴らは尻尾をつかませなかった。九十九パーセント確実でありながら、確信は持てなかった。余にとって、これほど落ち着かないことはない」
炎が手紙全体を包み、ジョゼフ王の指にまでその輝きが達そうとした時、彼はぱっと手紙を放った。ひらひらと――オレンジ色の蛾が羽ばたくように――それは床に舞い落ち、やがて燃え尽きて、真っ黒な何の意味もない塊になり果てた。
「マザー。あなたがこの手紙を持ってきてくれたことで、余は確信を持てた。ロベスピエールが殺し屋を雇い、手紙を奪い取ろうとした事実を突き止めた。
だから実を言うと、この手紙が本物かどうか、検分する必要などなかったのだ……奴らに行動を起こさせ、証拠を出させた……それで、手紙の役割は終わっていたのだよ」
ジョゼフ王の靴の底が、用済みになった消し炭をぐしゃりと踏みにじる。
我は、呆然とそれを見ていた。すると、その態度を勘違いしたのか、ジョゼフ王はさらに言葉を次いだ。
「シエイエスの潔白を信じていたあなたには、つらい現実だろうな。そして、おそらくはロマリアにとっても。
ファーザー・シエイエスは敬謙なブリミル教徒だ……教会内での地位も高いし、民衆の支持も集めている。そんな彼を犯罪者として裁けば、世の中に与える影響は計り知れないものになるだろう。もちろん、悪い方向に、という意味だが。
もしかしたら、彼を殉教者に仕立てて、新たな指導者のもと、『テニスコートの誓い』はさらに勢いを増すかも知れない……それは我々にとっても、ロマリアにとっても望ましくないはずだ。
だから、余はシエイエスたちを捕らえぬことにした。こうして証拠も破棄し、奴らが組織とつながっていた事実を葬った。
マザー、あなたは彼の無実を証明するためにやってきた。ならば、かの聖職者の名が汚されることは望むまい。シエイエスの名誉は守られる……これが、余からあなたへの返礼だと思ってくれ」
え……えええぇ〜……。
なんか、ようわからん方向に話が展開してしもうたんじゃが。
えーと、まとめると、シエイエスがマジで犯罪組織のボスで――我の行動でそれが明るみに出て――そこまではいい――最後に、このアホ王が妙な気ィ使ってくれたせいで、我の企みが何もかもおじゃんになったと、そういうことか?
……む、虚しさが……すごい……。
「だが、もちろん、シエイエスを無罪放免にするというわけではない」
塩のかかった青菜みたくションボリした我の前で、ジョゼフはまだ何か言うとる。
「ガリアが彼を裁くことはできない……衛士でも、花壇騎士でもいけない……だが、外部の者が、秘密に処理するのなら問題ない。
奴らがあなたに対して取ったのと、同じ手段を使わせてもらった。ある人物にコンタクトを取り……仕事を依頼したのだ。
シエイエス……ロベスピエール……サン・ジュスト。彼ら複合標的群(マルティプル・ターゲッツ)には……すでに刺客を差し向けている……」
■
――翌日、正午過ぎ。リヨン郊外、聖タリアン教会にて――。
昼食を終え、食後の紅茶を楽しんでいたシエイエス大司教は、そのゆったりとした時間を、突然の闖入者によって乱された。
「た、大変です、シエイエス様!」
部屋に飛び込んでくるなりそう叫んだのは、シエイエスの下で働く若い僧侶だった。顔は青ざめ、焦りに両目を見開いている。
「どうしたのかね、そんなに慌てて……こんな気持ちのいい天気の日に……?」
シエイエスは、アルビオン風のスコーンにクックベリーのジャムを塗りながら、そう問いかけた。
彼の視線は、突入してきた若者にも、手元のスコーンにも向いていない。カーテンの開け放された広い窓から、美しいリヨンの空を眺めていた。その日は雲ひとつない晴天で、ラピスラズリを用いた絵の具でも表現しきれない、無限に透き通った青空を拝むことができた。
しかし、若者にその美しさを楽しむ余裕はなく、シエイエスもすぐに、同じようになる運命にあった。
「そ、それどころではありません!
あ、あなた様のご友人の、ロベスピエール様とサン・ジュスト様が……今朝、射殺されたそうです!」
「…………!?」
シエイエスの手からスコーンがこぼれ、ジャムのついている側から床に落ちた。
「ば、馬鹿な! そんなことがあるはずが……」
「リュティスの情報ギルドから届いた、確かな知らせです、ファーザー。ふたりとも、シレ銀行の執務室で、窓から飛び込んできた矢に眉間を貫かれて……」
シエイエスは呆然としたまま立ち上がろうとして、急に体から力が抜けてしまったらしく、また座り直した。そして、同志を失った悲しみに打ちひしがれ、両手で顔を覆った。
「誰が……誰がそんな、恐ろしいことを……」
「過激派政治団体の仕業ですよ! あいつら、金に汚い貴族ばかり襲って満足してたのが、とうとう金を動かすだけの銀行家まで狙い始めたらしいんです。まったく、とんでもない悪党だ……あの『テニスコートの誓い』って連中は!」
意外な言葉に驚いたシエイエスは、弾かれたように顔を上げた。
「『テニスコートの誓い』? 今、君はそう言ったのかね? あの団体がロベスピエールたちを殺したと……? ありえない」
ありえるはずがない。『テニスコートの誓い』に行動を命じる権利は、他ならぬシエイエスと、殺されたロベスピエールたちしか持っていないのだ。
シエイエスはもちろん、同志たちを殺す命令など出していないし、ロベスピエールたちにしたところで、自分たちの組織を使った自殺など試みるはずもない。
しかし、若者の口にする言葉は、そんなシエイエスの考えに真っ向から反対するものだった。
「ありえないと言われましても、実際にあいつら、犯行声明まで出しているんですから。二人を殺害後、情報ギルドや高等法院に、普段配ってるビラみたいな、刺激的な文句を並べた手紙を送りつけて、その中ではっきりと……『共和制実現のため、我々への資金提供を拒絶したロベスピエール及びサン・ジュストを排除する』って。ここまでくると、政治理念はただの建前で、金持ちを殺して金を奪うのが、奴らの本当の目的じゃないかって思えてきますね……」
(馬鹿な。『テニスコートの誓い』は、そんな組織ではない。そのような犯行声明だって、我々が出すはずがない……幹部のマラーもバラスも、ダントンもエベールも……そんな自分勝手な理由で、排除する相手を決めるような奴らではない。
何が起きている? わけがわからない……我々のけっしてしないことが……我々の名のもとに行われるなど……)
シエイエスの頭の中で、無数の否定が駆け巡り、絡み合った。それはやがてつながり合い、固まり、ひとつの形を成していく。
そして――真実に気付いた時――彼は、脳天に焼けた鉄串を打ち込まれたかのような衝撃を受け、身を震わせた。
(そうか……単純な話だ! これは、我々と敵対する勢力の策略なのだ!
敵は、ロベスピエールたちが『テニスコートの誓い』の中枢であることを突き止めたに違いない。そして、同時に悟ったのだ……平民にも貴族にも公平な取引をすることで知られている、誠実な銀行家である二人を逮捕することは、平民階級の反発を招き、『テニスコートの誓い』をさらに勢いづかせる結果になると……。
だが……だが、ロベスピエールたちを社会から排除するのが、他ならぬ『テニスコートの誓い』だったなら……世間の非難は、『テニスコートの誓い』に向く……そのために、おそらくは偽の犯行声明まで出して……実行犯も、ガリア王宮や司法とは関係のない、フリーの殺し屋を雇ったのだろう……だから、魔法でなく平民の矢が凶器に使われているのだ……。
やられた……実に効果的な方法だ、ジョゼフ陛下! 敵組織の頭を潰すことと、評判を失墜させることを、同時に行なっている……見事としか言いようがない!
そして……そのような抜け目のない陛下が、もうひとりの頭脳である私を見逃すとは思えない……つまり、次は……)
大司教は老いた目に、諦観と覚悟の輝きを宿して、立ち上がった。
「君。すまないが、少しひとりにしてくれないか」
若者にそう言いながら、彼は窓に歩み寄った。ガリアの空を――彼の愛する国の空を、最後にしっかりと目に焼き付けておくために。
(私までも『テニスコートの誓い』の名のもとに殺されれば……組織の評判は、どうしようもなく地に落ちることになるだろう……このガリアを改革するという我々の野望は、もはや潰えた……。
しかし、ジョゼフ陛下……この国が人民の集合であることは変わらない。格差が、貧困が、差別がある限り……世の中を憂う者たちがいる限り……必ず誰がが立ち上がり、私たちの意志を継いでくれることだろう……)
若者は、大司教の小柄な背中に、何かわびしさのようなものを感じながらも、一礼して部屋を出ようとした。
その時だった。窓の外に賑やかに広がるリヨンの街並み――その中でもひときわ背の高い鐘楼塔の上で、何かが一瞬きらりと輝いた。若者はそれが何だかわからず、シエイエスは、それを運命の手であると理解した。
(ガリア、万歳……!)
――バシッ!――
突然、窓ガラスに蜘蛛の巣状のひび割れが走った。そして、シエイエスの体が、まるで朽ち木のように、背中から床に倒れ込んだ。
「ファーザー!?」
若者は、倒れたシエイエスに駆け寄った。そして、息を飲む――大司教の額に深々と突き刺さった、無慈悲な矢を目撃して。
こうして、秘密政治組織『テニスコートの誓い』は、人知れず壊滅した。トップを失い、評判も失墜したことで、この組織は徐々に支援者や賛同者を離脱させていくことになり、わずか一月のうちに、ほぼ無力化されることになる。
この顛末の裏にある真実が、ガリアの歴史に残ることはない。ジョゼフ王の策略も――シエイエスたちを消した、殺し屋の仕事も――コンキリエ枢機卿の活躍も――。
すべては、闇に葬られた。
■
……な? もにょもにょした気分になるじゃろ?
我のやってきたことは何だったんじゃー、って話じゃ。手紙の偽造屋や宝石小箱の職人に払った手間賃、フネや馬車に使った旅費、もろもろ合わせて千エキューぐらい使ったっちゅーに、それだけの金をかけて生み出される予定だった輝かしい成果を、ガリアさんときたら全力で秘匿してくれるとおっしゃる。あーははは殴りたい。
金も、ここまで来た労力も、途中で殺し屋に襲われた恐怖も、何もかんも無駄に終わった。しょんぼりじゃ。強いて利益があったとすれば、ジョゼフ王にいい印象を与えられた、ということぐらいじゃろうが、こいつアホ王っつー評判じゃしなあ。三歩歩いたら、我の顔も名前も忘れるんじゃなかろか。
「さて、問題が片付いたところで、マザー。あなたのこれからの予定を聞いてもいいだろうか?」
アホジョゼフが何も察さんと、気楽そうに聞いてきよる。
「もう、大分遅い時間だ。宿は取ってあるのか? ないならば、宮殿の客間を用意させよう。食事をご一緒したいところだが、一時間前に夕食を済ませてしまったのでな、それはまたの機会にお誘いさせてもらおう」
「あー……えと、助かりますですじゃ……ええ、お心遣いに感謝いたします……ううう」
死んだ魚の目をして、虚ろな返事を漏らす我。
なんつーか、気力的なものがゼロになっていた。
■
もうどうにでもなーれ、という気持ちで、ジョゼフ王の部屋から退出した我は、宮殿内のプチ・トロワと呼ばれる一角に設けられた豪華な客室に案内された。
天蓋付きのふっかふかベッドにドサリと倒れ込み、しばしぐったりと脱力する。計画がうまくいかなくて落ち込むなどというのは、我のガラではないが、今回は殺されかけたり走り回ったりして肉体的にも疲れたので、ちと倦怠感に身を委ねることにした。こんな時に発奮したって、空元気に終わることぐらい想像がつくのじゃ。
今夜はしっかりだらけて気力の回復につとめるとして――明日はどうしよう? もうガリアにいる理由はなくなってしまったが、すぐロマリアに帰るのもつまらん。テキトーに観光でもしようかのう。時間はたっぷりあるし、今回ガリアに来たことに、少しでも意味を見いだしたいし。
「こ、コンキリエ様、失礼いたします」
扉の外から声がしたので、寝転んだまま「入れ」と返事をすると、年若い赤毛のメイドがおそるおそるといった感じで入ってきた。
「あのぅ、お湯の準備ができたって、釜炊き係のジャンさんが言ってまして……お風呂、入られますか?」
「ほう?」
我は上半身を起こして、その魅力的な提案に笑みを浮かべた。
風呂か。疲れを取るために、熱い湯に浸かるっつーのは悪くないな。ガリア王宮の風呂ならば、きっとでかくてのびのびできるじゃろうし。
「うむ、ぜひ入らせてもらおう。浴室まで案内いたせ」
「はっ、はいっ、かしこまりましたです」
妙におどおどと落ち着きのないそのメイド(たぶん新人なんじゃろーなぁ。シザーリアも我のところに来た頃は、態度が固かった――そういや、シザーリアはどうしたじゃろうか? タバサがちゃんと医者に診せてくれたはずじゃが……風呂から上がったら、様子を聞きに行くかのぅ)の後ろについて、我は部屋を出た。
案内された浴室は、まず脱衣所からして豪華なもんじゃった。よく磨かれた大理石の柱や壁、細かい織り目で幾何学模様を描いた美しい敷物。我はそこでメイドに服を脱がせてもらって、浴室へと踏み込んだ。
ほやほやとした湯気の立ち込める浴室は、やはりというべきか、総大理石造りじゃった。真っ白でつやつやしとって、雲の上にでもおるように感じたものじゃ。ちょいとした池ほどの広さがある大浴槽には、真っ赤なバラの花びらがぷこぷこ浮かんでおり、甘い香りを漂わせておった。
ううむ、これは良い。ロマリアの我の屋敷の風呂もわりと豪華にしとるが、やはり一国の王宮の風呂は見事なものじゃ。いかにも疲れが取れそうではないか。
赤毛のメイドが、お背中流しましょうかと言ってきたが、我はそれを断って彼女を下がらせた。風呂に入る時は、できるだけ独りでいたいタイプなのじゃ。特に、このように広々とした風呂ではの。――なぜかって? 決まっておろうが。湯舟で、存分に泳いで遊びたいからじゃよ!
水メイジである我は、水泳という運動に並々ならぬ魅力を感じ、またそれを得意としておるのじゃ。この広さなら、さぞのびのび泳げるじゃろうて。さあ行くぞ、我の優美で洗練された究極の犬かきを、天にまします神々にのみお見せしよう!
まずは髪と体をざっと洗って、汗を落としたのちに、どでかい湯舟にそーっと足を入れる。よしよし適温。
そして、いざ泳ごうと湯に顔を沈めかけた時――浴場の奥の方から、声が飛んできた。
「そこにいるのは誰だい? アニーじゃないだろうね、あたしは体を洗う手伝いなんかいらないって、こないだ言ったばかりじゃないか」
我が声の方を振り向くと、重なり合った湯気の向こうに、ひとりの女性がおることに気付いた。
青い美しい髪を、タオルをターバンにして頭の上にまとめた、若い女じゃった。目が猫みたいに釣り上がっとって、ややキツめな印象があるが、美人さんであることは否定できん。湯舟の縁に背中をもたれかけさせて、偉そうにふんぞりかえっておる。
……ん? この娘の顔、どっかで見たことがあるような気がするが……誰じゃっけか?
その青髪娘は、我が彼女に対してしておるように、目を細めて、じっとこちらをうかがった。
「あん? マジで誰だい……メイドじゃないね? このイザベラ・ド・ガリアの浴室に堂々と入ってくるたぁ、どういうつもりだい? 言い訳は聞いてやるが、その内容によっちゃ、ただじゃおかないよ」
その名乗りに、我は熱い湯の中におりながら、肝が凍るような思いをした――おお、思い出したああぁっ! コレ、ガリア王女のイザベラ殿下じゃ! さっきのスットコ無能王の娘ではないかド畜生!?
「こ、これは失礼を、殿下! 我は、ロマリアのヴァイオラ・マリア・コンキリエと申す者でございまする!」
この場合は、とりあえず我が悪かろうと悪くなかろうと、謝ってへりくだっておくことが必要じゃ。でないとあとがめんどくなる。
我の名乗りを聞いて、イザベラ殿下の表情から、少しだけ警戒が緩んだ。
「コンキリエ……? ああ、思い出したよ。ブリミル教の枢機卿様だったねぇ。で、結局、何であんたはここにいるんだい?」
「いや、それがその、メイドに風呂の準備ができたと言われまして、ホイホイついて来たらここに……」
我の釈明に思い当たるところがあったらしく、殿下は渋面を作って、小さくため息をついた。
「それでわかったよ。アニーの奴のせいだね……あいつ、まだ新米でさ。おおかた、来客者用の浴室にあんたを案内するつもりで、間違ってここに連れて来ちまったってとこだろ。この浴室は王族用で、他の人間は一切入れないしきたりになってるんだが……」
「そ、それでは、我がここにいること自体がご無礼に当たりますな。我はすぐに出ますゆえ、どうぞごゆるりと……」
「待ちな」
慌てて湯舟から上がろうとする我の背中に、殿下の低い声がかかる。
「別にいてもらってかまやしないよ。どうせこんなでかい風呂、あたし独りで入ってても持て余すだけさ。あんただって、今からここを出て、体拭いて、また服着て、来客者用の風呂に行くのなんざ、面倒臭いだろ?」
「あ、いや、我は別にそのくらいは」
「居ろ、ってあたしは言ったよ――ガリア王女が譲ってんのに、それを遠慮する気かい?」
そんな風に言われたら、我はどうしようもないのじゃよ……。
ぬるんと湯の中に戻り、その温かさに体を委ねる。温度もよく、香りもよく、肌触りもよい、ひじょーにリラックスできる風呂じゃ――ほんの少し離れたところにおるイザベラ殿下の威圧感を無視できれば、の話じゃが。
殿下と目を合わせんように注意しながら、ただひたすら時間が経つのを待った。肩までしっかり浸かっとるのに、背筋が妙に冷えるのは、ちょっとご勘弁願いたい。
心の中で百ほど数えて、もー充分あったまったからお先に失礼しますぞーグッバイ! ってしようと思いついて、いざそれを実践しようとした時――イザベラ殿下は唐突に口を開いた。
「なあ、あんた……尼さんなんだよな? それだったらさ……悩み相談、みたいなのは、聞いてくれるのかい?」
■
目の前にいる、腹を空かせた子リスみたいに切なげな目をした、紫髪のちびっこい娘にそう尋ねて――あたしは――「何を言ってるんだよ自分」という気分になった。
あたしは王女なんだ。ガリアという国を代表する、特別に高貴な人間のひとりなんだ。そんな奴が、外国人に悩み相談を持ちかけるなんて、あっちゃならないだろ。あたしが弱みを見せるってことは、ガリアの弱みを晒すってことだ――そうさ、もちろんよくないことだ。ガリアがよそからナメられるようなことは、絶対しちゃいけない。それくらいは、ボンクラのあたしにだってわかる。
でも、それでも――心の底から湧き上がってくるこの衝動を、押さえ込むことはできなかった。この機会を逃したくなかった。完全に人払いのされた、浴室という閉鎖空間。その中には、誠実で思いやりがあると評判の枢機卿と、あたししかいない。そして、あたしは、胸の奥に詰まっているどろどろとした嫌な感情を、もういい加減吐き出してしまわずにはいられない状態にあった。
ざば、と湯を掻き分けて、コンキリエ枢機卿に近付く。ちびっ子は半泣きになり、表情にさらに怯えの色が加わる。
そしてあたしは、枢機卿の隣に腰を下ろした。――そばに寄ると、この娘のちっこさがはっきりわかる。もしかしたら、あのシャルロットより小柄かも知れない――下の毛とかちゃんと生えてんのかね? これでハタチ過ぎてるとか、ちと無理がないか――ってか、相談相手として、あまりに心もとなくないかい? あのグズのアニーの方が、まだ頼りがいを感じるよ。
でも、もう口に出して言ってしまったのだ。今さら引き返すことはできない。
「なあ、どうなんだい。あんたも聖職者なら、いろんな迷える子羊の悩みを聞いてきたんだろ。
もし、もしもだよ。あたしが、あんたに聞いてほしい悩みがあるって言ったら、聞いてくれるのかい?」
ひじで軽く枢機卿の肩をつつきながら、あたしは言う。彼女はくすぐったそうに身をよじったが、やがて、おそるおそるといった様子でこちらを向き、小さく頷いた。
「は、はあ。そりゃまあ。人民の心の平穏を守るのが、ブリミル僧としての務めでありますゆえ」
「そうかい。……当然、聞いたことをよそに漏らすような真似はしないね?」
「も、もちろんでございます」
あたしは大きく頷き、覚悟を決めた。
「あたしの話を聞いておくれ、コンキリエ枢機卿。そして……あたしがどうすべきなのか、助言をしておくれ」
あたしは関を切ったように、溜め込んでいた激情を、言葉に変えて吐き出した。
昔のこと。あたしの父と叔父とが仲良くしていて、何の悩みもなかった頃のこと。
小さな従姉妹のシャルロットと、よく遊んだこと。朗らかで可愛らしいあの娘のことが、本当に大好きだったこと。
少しだけ成長して――世の中が思ったほどいいことばかりじゃないと気付いた頃のこと。
魔法の勉強を始めたけれど、あまりうまく使えず、落ちこぼれと言っていいレベルから這い上がれず、もがいたこと。対してシャルロットは、優れた才能を示し、自分よりずっと上手に魔法を使って、周りから褒められていたこと。それを見て、すごく羨ましく思ったこと。
父が魔法が全く使えず、陰で馬鹿にされていると知ったこと。私もまた、シャルロットと比べられて、馬鹿にされていると知ったこと。
ガリア王族としてふさわしくあらねばならないという思いから、魔法の才能に乏しい自分に焦りを感じたこと。それに対して、今日は何々の魔法が使えるようになったと、朗らかに話しかけてくるシャルロットに、鬱陶しさを感じるようになったこと。
そして――病床にあった前王が、次期ガリア国王を指名した直後に起きた、叔父シャルルの暗殺事件。
世間では、魔法の才がないために王に選ばれなかった父ジョゼフが、王に相応しい、才能豊かな弟を謀殺したのだと噂された。
父は、その噂を否定しなかった――それどころか、王位についてからは、シャルル派だった貴族たちを次々と粛清し、弟への悪意を公然とさらけ出した。
あたしは父のその残虐な行為を「ああ、やっぱりね」と思いながら見ていた。あたしとシャルロットの関係と、父とシャルル叔父の関係は相似形だ。あたしは、シャルロットを妬み、羨み、憎んでいる――父も当然、シャルル叔父のことを、そう思っていたに違いない。
ただ、ひとつ戸惑ったのは、父の悪意の矛先が、シャルル叔父の家族にまで及んだことだ。
叔母は――シャルロットの母親は、シャルロットが毒を飲まされそうになっていることに気付き、代わりにその毒を飲んだ。その結果、彼女は心を病み、愛していた娘のことすらわからなくなってしまった。
シャルロットは、そんな母親を人質に取られ、父に逆らえないようにされた。外国に追い出され、ガリアの騎士としての身分だけを与えられ、危険な仕事を押しつけられるようになった。それは、父の残酷な遊びだった――自分を憎む姪が、どこまで足掻くか。いつ力尽き、不様な死に目を晒すか。その様子を見て、楽しんでいるのだ。
そして、そのシャルロットの上司として、あたしを指名した。父は、あたしがシャルロットを憎んでおり、これにつらく当たることを見抜いていたのだろう。
両親に起きた不幸を経て――部下としてあたしの前に立ったシャルロットは――昔の面影を、大いに失っていた。
可愛らしい顔形は変わらない。ただ、心根は見る影もなかった。明るく、人懐っこかったあの子は、ニコリともしない仮面のようなツラをした、命令を淡々と聞くだけの人形娘になっちまってた。
あたしは、さすがに父ほどふっ切れちゃいないから、シャルロットの身に起きた出来事を、最初は同情してた。昔はこれでも、彼女の姉代わりだったんだ。魔法の腕前のことで感じていた劣等感を押さえつけてまで、さりげなく励ましの言葉をかけてやったりしたもんさ。
でも、そんなあたしに対するシャルロットの態度ときたら、氷みたいな冷たさだった。
結局のところ、あの子にとっては、あたしは憎い仇の娘だってことなんだろうね。こっちの言葉にはろくに反応を返さない。無表情なのに、ときどきはっきりとした敵意の気持ちが、瞳の奥に表れることもあった。
あたしも、もういいやって気持ちになったよ。自分の憎悪を隠していても、意味がないってね。
そっからはもう、泥沼というか、あるべき姿に落ち着いたというか――言いたいことを言ってやることにした。面と向かって罵倒したり、メイドに強要して、あいつに卵だとか投げつけさせたりして、シャルロットをいじめにいじめぬいた。
あいつは眉ひとつ動かさなかったけれど、ちっとも嫌な気持ちにならなかったとは思いたくないね。
で、本心を露わにして、やりたいことをやったあたしが、スカッといい気分になれたかっていうと、そうじゃない。
信じてもらえるかわからないけどね。あたしはシャルロットを怒鳴りつけて、痛めつけて、あざ笑っても――少しも面白くなかった。単に疲れるだけでね。あいつが任務を受けて、あたしの部屋から出て行った瞬間にこそ、安らぎを感じるような始末さ。
じゃあ、いじめるのやめればいいんじゃないかって思うかい? そりゃ無理だよ。あいつのことを考えるとさ、いらいらするんだもの。
だってそうだろ。あたしのことを思いっきり嫌ってる奴を、どうやって好きになれる?
昔の慕われてた頃の思い出があるからさ、余計に今の無愛想な感じが我慢ならないんだ。顔見りゃ自然とムカつくし、やり込めて屈服させてやりたいって気持ちになる。で……やっぱり無表情を貫かれて、さらにムカつきが増す。
負のスパイラルってやつさ。あたしは生まれた瞬間が最高で、そこからどんどん下に転がり続けてるんだ。まず、魔法の腕がマズいことで、王族としての余裕をなくして、シャルロットへの年上としての余裕をなくして、周りからの評判もなくして。シャルル叔父が死んでからは、算奪者の娘と陰口を叩かれ、シャルロットから寄せられる親しみを完全になくして。むしろ、憎悪を向けられるようになって。無理して歩み寄れば無視され、こっちが憎悪を隠さず表せば、向こうの目はさらに冷たくなって。お互いに敵意の応酬で、黒々とした嫌な気持ちが、腹の中にどんどん溜まっていくのがわかって。
もう、ず――っと、あたしの心は、安らぎのひとつも感じちゃいないんだ。
はっきり言って、クソな人生さ。まったく、どうしてこんなことになっちまったんだか。過去のどの時点をやり直せば、今の状態は回避できたんだろうか。
いや、そうじゃないな。あたしが、答えを欲してるとするなら、それは――。
「あたしはどうすりゃいいのかってことだよ……今からでも、このどろどろした状態から抜け出せるとしたら、ね」
■
いや、無理じゃろ。常識的に考えて。
イザベラ殿下の独白を聞き終えて、我が真っ先に浮かべた感想が、それじゃった。
何その焼く前のハンバーグみたいなグッチャグチャのお家模様。それをどうにかするって、ハンバーグ種を挽き肉とタマネギと卵とパン粉と塩胡椒とナツメグに分解するぐらい無茶じゃろうが。
どこが一番キツいって、当のイザベラ殿下とミス・シャルロットに直接の原因がないっつー点じゃ。どっちかが特別悪いんなら、そっちをこらしめるなりして謝罪でもさせれば、まあ関係改善の足掛かりにもなろうが、問題の焦点が魔法コンプレックスと親同士の確執となると、ちとめんどくさい。
始祖にあらぬ人の身では、どうあがいても生まれついての魔法の才能をどうにかすることはできんし、我程度の身分では、ガリア王たるジョゼフのアホタレに謝罪をすすめたりすることもできん。始祖の教えを説いて改悛させることはできるかも知れんが、我は口下手じゃから、それができるとしたらもっと口の上手い説教慣れした坊主じゃろう。
それに、仮にジョゼフが心を入れ替えてシャルロット殿下に謝ったとしても――シャルルっつー人死にが出とる以上は、今さら感が拭えないのではあるまいか。
つまり、クリーンに解決するには、この問題はベトベトしたところが強すぎる。むりやり何とかしても、絶対どっかにしつこい油汚れが残るに違いない。
そのストレス満載の境遇に同情せんではないが、おいコラこのお疲れ姫、そんな切ない目でこちらを見るのはやめい。我にだってできることとできんことがあるのじゃ。
だから我は、早々に無駄な期待を断ち切るために、そのことを正直に指摘してやった。
「その問題を解決するのは、我のような非才の身には、荷が重過ぎるように思われますな」
重々しくそう言うてやると、イザベラ殿下は一瞬泣きそうな顔をして、すぐに目を伏せた。
「……そうかい……。
いや、あたしだってわかってたよ。人に相談してどうにかなる問題じゃないってことぐらいはね」
はぁ、というため息が、水面を揺らし、浮いていた薔薇の花弁をちょっとだけ遠くへ押しやった。
「変なこと聞かせて悪かったね。忘れとくれ。
……でも、あんたも妙な奴だね。ブリミル僧だから、適当に慰めでも聞かせてくれるかと思ってたら、どうにも出来ませんってはっきり言ってくるんだから」
「う……し、修業不足で申し訳ない……」
「いやいや、逆に少し楽な気分になったよ。どうにもならないものに抗おうとするよりは、すっぱり諦めた方がいいこともあるのかもね。それがわかっただけでも、相談した甲斐はあったってもんさ」
言いながら手のひらでお湯をすくうイザベラ殿下の表情は、確かに大いなる諦観に安らいでおるように見えた。
しかし、それが彼女の本心であるとは信じがたい。
さっきの話を聞く限り、この娘はものすごい俗物じゃ。欲があり怨み嫉みそねみがあり、悲しみがあり迷いがある。そんな奴がそんなあっさり悟って現状を諦められるようなら、世の中に坊主のありがたい説教などいらんのじゃ。
きっと今も、頭ン中はドロドロした思いが渦巻いておることじゃろう。このままほっとけば、いつか胃に穴が開いたり血圧が上がったり小ジワが増えたりするのかも知れんが、先ほど言うた通り我にはどうにもできん。てゆーかやる気が湧かん。ここはぜひ、我から見えないところで苦しみに耐えて頑張って欲しい。一万エキュー以上の金だとか、出世への足掛かりになるっつーんなら、もう少し真剣に考えてやってもいいが。
……待てよ。
ほんとーに何の利益もないか?
いやいや、そんなことはないじゃろ。一国のお姫様なんじゃぞ。超大国ガリアの王位継承権第一位なんじゃぞ。こいつに恩を売ることは、のちのち大いに生きてくるに違いない。
むしろ、ここでコイツを放置して、「コンキリエ枢機卿って案外役に立たないんだね」みたいな印象を与えることこそ、多大な不利益であろう。
父親のジョゼフ王が期待ハズレにもほどがあったんで、すっかり感覚が鈍っとった。王女から悩み事の相談を受けるなぞ、またとない大チャンスではないか!
「……イザベラ様。ひとつ提案したいことがございます」
先ほどまでの緊張など、キレイさっぱり放り捨てて。我はキリッと顔を引き締めて、イザベラに言う。
「あん? なんだい」
顔を上げて、どんよりした目でこちらをうかがう彼女。いかにもひねくれていて、くみしやすそうなタイプではないが、しかし釣りがいのありそうな、大きな魚ではある。
「我の微力でできる範囲ではありますが、殿下の悲しみを多少なりとも軽減させて差し上げられるかも知れませぬ。
そこでひとつお尋ねしたいのですが――姫。ご自身の心を晴らすために、五百エキュー。用意できますかな?」
イザベラの眉が寄り、訝しげな表情になる。まあ、仕方あるまい。この言い方だけで、我の企みがこのボンボン姫にわかるはずもない。
じゃが、是非にでも食いついてもらうぞ。一国の姫になら、五百エキュー程度なら余裕で出せよう。己が心の平安と引き換えと言われたなら、ポンと払うに決まっておる。
案の定イザベラは、「まあ、それくらいなら」と言って、我に小切手を渡すことを承知してくれた。
よしよし、その金、絶対に無駄にせんから安心するのじゃ。お前様のことを、きっと幸せな心かるがるお姫様にしてくれよう。
シエイエスに対する我の企みは破れた。しかし、それで泣き寝入りする我ではない。
このイザベラとの間に信頼関係をこしらえて、将来の利益につなげてくれる。
我の座右の銘は、「転んでもただでは起きぬ」なのじゃからな!
■
――翌日。あたしはお供にアニーだけを連れて、リュティスのはずれにある小さな教会にやってきていた。
それというのも、あのチビのコンキリエ枢機卿が、そこで待ち合わせたいと言ってきたからだ――昼食をご一緒したい、という名目だったけど、そのあとで「なァに、悪いようにはいたしませぬとも」とか言っていたから、きっと何か他に目的があるんだろう。
それは、昨日くれてやった五百エキューと関係のあることだろうか? あれは、単なるお布施を要求されたのとは、意味合いが違っているように思われた。あたしの心の平安――そのために必要だ、みたいな――どう使うのか、イマイチ想像がつかないけれど、まあ、アイツから直接聞けばいいことだ。
礼拝堂に入り、出迎えた若いシスターに、コンキリエ枢機卿と待ち合わせをしていると告げると、奥の個室に案内された。
アニーを外に待たせて、あたしだけ中に入る――壁に窓がなく、大きな姿見が一枚あるきりの、シンプルな部屋だった。黒塗りの大きなテーブルが中心にあり、その一席に、紫色の髪の、小柄な僧衣の女が着いて待っていた。
「おお、よくいらっしゃいました、イザベラ様。お待ちしておりましたですじゃ」
コンキリエ枢機卿が、席を立って揉み手をしながら近付いてきた。
「ああ、来てやったよ。それで、さっそくだけど」
「ええ、さっそくランチを摂りに行きましょうか。いい店を見繕っておきましたゆえ、きっとお気に召して頂けるでしょう」
「いや、そうじゃなくてさ」
あたしは首の後ろを掻きながら、少し言い淀んだ。――あたしの心に平安をくれるってんなら、それを先におくれ――そう、こちらから言うべきか否かで、迷ってしまったんだ。
その懊悩を見抜いたのか、このチビ僧侶は、ニヤリと悪そうな笑みを浮かべて、わざとらしく頷いた。
「ええ、ええ、わかっておりますとも。ちゃんと準備は整っております。
イザベラ様のお悩みを聞かせて頂きまして、私じっくり考えましたでございます。そこでわかったのは――はい、イザベラ様は、お父上やシャルロット様とのご関係、そして自分の立場に関わる重圧に悩まされておられる。正しいですかな?」
「否定はしないよ」
もし仮に、親父もシャルロットも初めからあたしと何の関わりもなくて、あたしが普通の貴族の娘だったら、ここまでの苦しみは感じていなかっただろう。
コンキリエ枢機卿は、さらにかぶせて聞いてくる。
「で、そのお悩みをですな。これまで、我以外の誰かに打ち明けたり、相談なさったことは?」
「ないよ」
そっけなく答える。そうとしか言いようがないから。
あたしの周りの人間は、皆あたしを恐れているか、軽蔑している。北花壇騎士の部下どもには、それなりに忠実な奴らもいるが、そいつらに弱音を吐くのは、上司としてやってはいけないことだ。
だから、あたしには頼れる相手が、周りに一切いないと言って差し支えない。
「ふむん。だいたい思った通りですな。
で、肝心のイザベラ様のお心を安らがせる方法――つまりはお抱えの問題を解決するやり方があるのかどうか、ということでございますが、こりゃ立場に起因するものですので、イザベラ様がイザベラ様であらせられる限り、まず不可能だと思われます」
昨日申し上げた通りですな――と言って、コンキリエ枢機卿は気の毒そうにあたしを見た。
あたしの感想は、ああそうかい、というもんだった。ちょっと期待してたんだけど、ま、世の中そんなに甘くないってことらしい。そんなことを繰り返し言うために、人を呼びつけたこのチビ紫には、すごいイラッとしたけれど。
「ああ、ですが、誤解なさらぬよう。我は、イザベラ様がイザベラ様である限り、と申しました。
それは言い換えれば、イザベラ様がイザベラ様でなくなれば、話はまた違ってくる、という意味でしてな」
「はあ?」
コイツが何を言いたいのか、どんどんわからなくなっていく。
あたしがあたしでなくなるなんて、そんなことがあり得るわけがないじゃないか。
「ところが、それがあり得るのですな。この首飾りを使いますれば……」
そう言いながら、コンキリエ枢機卿がこれみよがしに懐から取り出したのは、一本のネックレスだった。
銀色の細い鎖に、青い小さな石のリングがひとつだけ通してある。飾りっけのない、つまらないアクセサリーだ。コンキリエ枢機卿がそれを差し出してきたので、あたしはつい反射的に、それを受け取ってしまった。
「で、このダサい首飾りが、どうしたって言うんだい?」
「そいつが、イザベラ様を様々なしがらみから解き放ってくれるのですよ。
ま、深く聞かずに、それを身につけてごらんなさいまし」
あたしは不審に思いながらも、言われた通りそのネックレスを首にかけた。金属の鎖が肌に触れ、ひやりとした感じを受けると同時に――そよ風のようなものが、あたしの首から上を撫でていったような気がした。
「……ふむ、どうやらうまくいきましたぞ。ちと、これを見てお確かめ下され」
満足げに笑いながら、姿見の前にあたしを導き、その姿を見るよううながした。
「ったく、いったい何だって言うんだい……んんっ!?」
鏡をのぞき込んだあたしは、驚きに目を丸くした。
四角い鏡の枠の中では、あたしの見たこともない女が、呆然としてたたずんでいたんだ。
茶色の髪を肩まで垂らし、同じ色の目を見開いて、不思議そうにこちらをうかがっている。ややボーイッシュな、悪い言い方をすれば、何だか野蛮に思える顔立ちだ。まあ、整ってるっちゃあ整ってるから、美人の部類には入るだろう――軍人や平民にいそうな、田舎じみた美人だ。
しかし、もちろんあたしはそんな顔じゃなかったはずだ。青い髪、白い肌。繊細さと高貴さを絵に描いたような、まさに深窓の令嬢って感じのはかなげな顔こそが、あたしの長年付き合ってきた顔のはずだ。誰が何と言おうとそれが真実なのだ。
あたしの顔はいったい、どこへ消えた? そして、この顔はどこから来たんだ?
「お、おい枢機卿、こりゃどういうことだい!?」
慌てて問いただすあたしに、コンキリエ枢機卿はくすくす笑いをしながら、人差し指であたしの胸元を指差した。
「そのネックレスの仕業でございますよ。今朝、この街のマジック・アイテム・ショップで手に入れてきた品でして、フェイス・チェンジの魔法が込められておるのです。効果はごらんの通り――身につけた人間の顔を、別人のように変化させるというものですな」
なるほど、とあたしは、首にまとわりつく鎖と、リング状の青い石を見下ろした。
「基本的には、まあ高価なパーティー・グッズですな。別人の顔になって、顔見知りの相手をちょっとからかうといった使い道の。
昔は、殺し屋に命を狙われた偉い人が、それで顔を変えて難を逃れた、なんて話もあったようですが、まあ、それなりに見破りにくい変装道具ということでございます。平民はもちろん、高位の風・水メイジであっても、あえてディティクト・マジックで調べようとしない限り、あなた様のその顔が偽物であるとは、気付きようがありませぬ」
「ふーん……つまり、昨日の五百エキューは、これを買うのに使ったってわけかい」
高ランクのスペルであるフェイス・チェンジを付与してあるアイテムが、安物なわけがない。それくらいの金額はしてもおかしくないと、あたしは判断した。
「でもさ、確かにこりゃ面白い玩具だけど……顔を変えることと、あたしの抱える問題に、何の関係があるんだい?」
それがイマイチわからない。そう言って首を傾げると、相手はあたしをそそのかすように、耳元に口を寄せて、こっそりと囁いた。
「考えてごらんなされ。その首飾りの力で、別人になっている間は、誰もあなた様をイザベラ殿下と思わないのですぞ。
だぁれも、あなた様をシャルロット様と比べませぬ。魔法がうまくなくても、まああのくらいの年頃なら普通だよねとスルーいたします。
だぁれも、あなた様をジョゼフ陛下の娘とは見ませぬ。纂奪者の娘だとか、無能王の娘だとか、陰口を言われることもありませぬ。
ありとあらゆる、『王女イザベラ・ド・ガリア』としての責任から解放されまする。今のあなた様は、イザベラ・ド・ガリアではありませぬゆえに。
すべてのしがらみを忘れて、はしゃぎ回るには――それで充分事足りるのではありませぬかな?」
あたしは、脳天に雷が直撃したかのような衝撃を味わった。
他人になりきって、自分の抱えていた重荷を肩から降ろす――それはかりそめのものに過ぎない。いつかは覚める夢だし、夢が終わったあとには、また重荷を背負い直さなければならない。
根本的な解決にはならない。一時的なごまかしだ。
でも、それでも――今のあたしの、この田舎じみた顔には――あたしの望むすべてがあった。
自由が。解放が、一時とはいえ手に入るのだ。
「イザベラ様。あなた様に必要なのは、ストレス解消のための手段でございます。
シャルロット様をいたぶっても気が晴れないなら、こういう別な手をお試しになってはいかがかと思い、提案させて頂きました。
聞いたところによると、かのトリステインの姫なども、ときおり城を抜け出しては、平民に身をやつして城下に遊ぶ、というご趣味をお持ちだった頃があったとか。それに倣う、というわけではありませんが……今日一日、そのお姿のまま、過去のことをすべて忘れて、羽を伸ばしてみてはいかがですかな?」
「コンキリエ枢機卿」
あたしは、この発想力豊かな枢機卿に敬意を評して、その肩に手を置いた。
「あたしは、何でこのことを今まで思い付かなかったのかって、ひどく悔しい思いをしているよ。
今までもお忍びで街に遊びに出たことはあったけど、その時だって、あたしはあたしのままだった。護衛の者は、うわべだけのお追従ばかり言うしさ、レストランや洋服屋みたいな街の人たちも、あたしが王女と気付くや怯えた表情になった。王宮と何も変わらない……外の世界にも、安らぎはないと思ってた。
でも、この方法なら……あたしのことを誰も知らない世界に飛び込んでいくのなら……もしかしたら……」
あたしは、鏡の中の新しいあたしを、期待のこもった目で見つめた。鏡の向こうにいる奴は、「あたしに任せときな」とでも言うように、自信に満ちた目をしていた。
「お気に召して頂けたようで、安心いたしましたですじゃ。
では、さっそくそのお姿のまま、街に繰り出して頂きますぞ。案内役はこちらで用意させて頂きましたゆえ、自由な一日をじっくり楽しんできて下され」
そう言って、あたしを部屋から送り出そうとするコンキリエ枢機卿――って、ちょ、ちょっと待ちなよ!
「あんたは来ちゃくれないのかい? せっかくお膳立てしてくれたのにさ」
「残念ながら、我はあなた様のことを、イザベラ王女殿下と存じ上げておりますので。それを知っていては、顔が違っていても王族として敬意を払わずにはいられませぬ……つまり、お追従じみたことを言わずにいる自信がないのですよ」
「ああ……」
確かに、それじゃあ意味がない。あたしとイザベラ・ド・ガリアとのつながりを断ってこその自由なんだ。あたしをイザベラと知っている人間がそばにいちゃ、この計画の魅力が台なしになる。
しかし、まったく知らない奴と連れ立って遊ぶというのは、少々気兼ねする。かといって、独りきりで外をぶらつくというのも、同等以上に不安なもんだ。
「なに、ご心配は要りませぬ。そいつは我の個人的な知り合いでしてな、あなた様の身の上を詮索したりせぬよう、しっかりと言いつけておきました。
ついでに言うと、あなた様のことは田舎から出てきた知人の妹と告げてありますので、さほどかしこまったりもいたしますまい。まあ、その分、彼女の態度をちと無礼に感じられることもあるやも知れませぬが、相手は王族に接しておるとは夢にも思っておりませぬので、ひとつ寛大なお心で見てやって下さいませ」
「ん〜……まあ、その辺は妥協すべきなんだろうね。わかったよ。
じゃ、さっそくそいつに引き合わせてくれないかい。さすがに、あんたから紹介ぐらいはしてくれるんだろうね」
「それはもちろんでございます。では、こちらにどうぞ」
コンキリエ枢機卿に導かれて、あたしはその小部屋を出て、さらに別の部屋の前に案内された。
「おーい、来たぞー。準備はできとるじゃろの?」
扉をノックしながら、親しげに尋ねる枢機卿。中から、あたしには聞き取れないくらいの小さな声で返事があった。きっと、入っていいとでも言ったんだろう。枢機卿はドアノブを回して、待機させていた知人とやらと、あたしを引き合わせた。
出会いの場所は、先ほどの部屋と同じような、簡素な小部屋だった。やはり窓がなく、姿見が一枚だけある。そして、部屋の真ん中にはテーブル――その一席に、そいつは、コンキリエ枢機卿と同じように、ちょこんと座っていた。
干し草色の髪を二本のおさげにして、肩から胸に垂らしている、地味な感じの娘だ。丸い眼鏡をかけていて、その奥で灰色の目がこちらを見つめていた。
いまいち個性が掴みにくい種類の見た目だ。家庭でパンでも焼いてるのが似合いそうに見えるが、アカデミーで黙々と鉱物の分類をしてるのも相応しそうだ。
まあ、おそらくは後者の印象の方が、この娘の内面に近いはずだと、あたしはあたりをつけた。なぜなら、彼女の向かっているテーブルの上に、ぶ厚い難しそうな本が、ページを開いたまま置いてあったからだ。あたしたちが来るまで、それを読み耽っていたに違いない。
そいつは本をたたみながら、椅子から立ち上がった。コンキリエ枢機卿ほどではないが、かなり小柄で、ほっそりしている。いくつぐらいだろう、十二、三歳くらいか? あんまり年下過ぎる相手と組まされるってのもねぇ……休暇が子守に終わるなんて、あたしは嫌だよ。
「待たせてすまんかったな。ほれ、こちらが、今日お前にリュティスを案内してもらいたい、我の友達の妹さんじゃ。
とにかく気楽に遊びたいそうなんでの、せいぜい肩の凝らんところを巡ってやってくれ」
「……わかった」
朗らかなコンキリエの頼みに対して、少女の返事は淡々としていた。それこそ、本の一文でも読み上げたみたいな、平坦な声だった。お世辞にも、とっつきやすそうなタイプには見えないけど、大丈夫なのかい?
あたしは心配してコンキリエ枢機卿の方を見返したが、このチビは「うむ、お前に任せとけば安心じゃ」などと、あたしの印象とは真逆のことを言ってやがる。ホントに大丈夫なのか。今度は自分自身に問い掛けた。
「さてと、時間も押しとるし、我は用事の方に取り掛かってくるかの。あとはふたりに任せるから、仲良く楽しんでくるがよろしい。んじゃ、さらばじゃ〜」
「あ、ちょ、おいっ!?」
呼び止めようとするあたしのわきの下をすり抜けて、チビ枢機卿は飄々と部屋を飛び出していった。
おしゃべりがいなくなったあとの部屋は、一気に静かになった。
あたしは、初対面の相手に、まずどう声をかければいいのか思い浮かばないで、相手のことを気にしながらも、口を開けずにいたし、このおさげ髪の娘は、こちらをじっと見ているばかりで、やはり口を開く様子がない。
それどころか、コイツ、粘土かなんかでこしらえた人形みたいに、気配がなくて、およそ人らしくない。見ていて不安になる――続く無言に、気分が重くなる。緊張して、握り込んだ手の中が汗で濡れる。
この息苦しさを、何とかして打破しようと、あたしはついに意を決して、娘に話しかけてみようとした。
「あ、あのさ、」
「リーゼロッテ」
そしたら、向こうの方も、かぶせるようにぽつりと何かを言った。
「……えっ? あ、今、何て?」
「リーゼロッテ。私の名前」
どうも言葉の上ずるあたしとは対照的に、なめらかに、冷静に繰り返す娘――リーゼロッテ。
どうやら、自己紹介をされたらしい。
そういえば、お互い名乗り合ってすらいなかった。
「あなたは?」
問われて、はっとする。そうだ、向こうが名乗ったなら、こちらも名乗らないと。あたしはイザベラ――と言いそうになって、危うく踏みとどまる。せっかく顔を変えてあるのに、本名を言う馬鹿があるかい。適当な偽名、適当な偽名――。
「……アラベラだ。ベラって呼んどくれ、リーゼロッテ」
あたしの名乗りに、リーゼロッテは、「わかった」と小さく呟く。
そして、再び場に沈黙が降りた。
「お昼ごはん」
十秒か二十秒か、はたまた五分か一時間か。半端に間を置いて、リーゼロッテはまたも唐突に口を開いた。
「レストランに案内する。……ついて来て」
「あ、ああ……」
彼女のペースに戸惑いながらも、あたしは先に立って歩き出したリーゼロッテの小柄な背中を追って、部屋を出る。
こちらを振り向きもせず、つかつかと歩き続けるリーゼロッテ――なんつーか、この無口さ、無表情さ、周りに気を使わないマイペースさ――どっかの誰かさんをすごい彷彿とさせるんだけど。あたしのすっごい苦手なあの娘を。
コンキリエの馬鹿、何でよりによってこんな娘を案内役に選んだんだい。これじゃ心休まらないだろうがよ、ちょっとは察しなよド畜生。
心の中で、無邪気な笑顔のコンキリエ枢機卿に毒づく。早くもあたしは、今日一日のささやかな自由が、ひどくぎくしゃくとした落ち着かないものに終わりそうな予感を、ひしひしと感じてしまっていた。
■
アラベラという、ヴァイオラの友達の妹だという女性に、「リーゼロッテ」と名乗った私は――胸の中、服の下に入れてある、緑色の宝石がついたネックレスを、ブラウスの上から撫でながら、昨日のことを思い出していた。
あれは、かなり夜遅くなってからのことだった。王宮の端に借りた宿直騎士用の仮眠室で、私が眠る準備をしていると、ヴァイオラが突然訪ねてきたのだ。
「タバサや。お前にちょいと頼みたいことがあるんじゃ。
一時でも姉妹の縁を結んだ女を助けると思って、ちと引き受けてはもらえぬか」
「……内容による」
ヴァイオラのたっての頼みというなら、私は断る気はなかったが、すぐに頷いてしまうのも、お姉ちゃんとしての威厳に欠ける行為だ。そのため、一応話を聞いてから頷くことにした。
ヴァイオラのお願いというのは、思った以上に簡単なものだった。彼女の知人の妹さんを、リュティスで遊ばせてやりたいから、観光案内のようなことをしてやってくれないか、というのだ。
「本当なら我と、そいつの姉とで案内して回るべきなんじゃが、我らはちと外せぬ用事があっての。
代わりをシザーリアに頼む予定だったんじゃが、あいつは怪我をして、しばらく働かせられそうにないし……」
ヴァイオラの従者であるシザーリアは、ここに来る途中で、襲ってきた賊からヴァイオラをかばって大怪我をし、今は王宮の水メイジたちによる集中治療を受けている。
私が聞いた限りでは、命は間違いなく助かるが、まだベッドから起き上がれる状態でもないらしい。
「シザーリア以外にロマリアから連れてきた従者はないし、この国で、こんなお願いができる相手というと、お前をおいて他におらんのじゃ。ちと手間をかけることになるが……」
それくらいならと、私は引き受けた。任務は終わったし、明日はトリステインに帰るだけ。しかも、今は学院が長期休暇中なので、急いで帰る必要もない。
シルフィードにも無茶をさせたから、一日ゆっくり休ませて、帰るのはそれからでも悪くはない。
「おお、引き受けてくれるか! 恩に着るぞ!」
ぱっとたんぽぽが咲いたように笑うヴァイオラ。子供のこういう表情は、やはり魅力的だ。
「あっ、そうじゃ。そいつと会う時の注意点を言うておかねば。
まずの、その娘は姉にねだって、親御さんに内緒で家を出てきておるのじゃよ。ゆえに、身分を明かすのがはばかられる――だから、家名を聞いたり、住んどる土地のことを尋ねたりするのは控えてやってくれ」
「わかった」
私も、本名を隠して世の中を渡っている身だ。隠したいと思っていることなら、もちろん聞かずに済ませるくらいの気は使う。
「あとは、お前の方でも、なるべく身分を明かさず、変装をしたり、偽名やなんかを使って、そこら辺の一般貴族として相手に接してやって欲しいんじゃ。
お前も名誉あるガリア花壇騎士じゃからの、もし相手がお前の身分を知ったら緊張するかも知れんし、ロマリア人の我が、ガリアの公務に携わるお前に、プライベートの用事をやらせたと知られたら、ちとごたごたが起きるかもわからん。そういう面倒は、できるだけ避けたい」
「わかった。……けれど、偽名はともかく、変装は難しい」
今まで、身分を偽って任務につくことは何度もあったが、顔を変えたことはない。風や水のスクウェア・メイジなら、フェイス・チェンジという顔を変える魔法を使えるが、私はまだその域には達していなかった。
カツラをかぶって、眼鏡を換えてみれば何とかなるだろうか?
そう思案していると、ヴァイオラは、その点は我に任せろ、と、ない胸を自信ありげに叩いてみせた。
「いい道具があるのじゃよ。マジック・アイテム・ショップに問い合わせたら、あるっつー返事だったんでな、明日の朝一で届けさせて、お前にくれてやる。
それをつけて、件の娘に会ってくれ。くれぐれも、身分を明かさぬよう気をつけるんじゃよ?」
――そして、今朝。
ヴァイオラが持ってきてくれたのが、今、私が首にかけている、このフェイス・チェンジの首飾り。
身につけるだけで顔を変え、眼鏡の形までちょっと変えた、とても気のきいたマジック・アイテム。
これを使って、私は今、シャルロット・エレーヌ・オルレアンでも、タバサでも、人形七号でもない、リーゼロッテという、まったく新しい人間になっている。
不思議な感覚だった。これまで持っていた三つの名前は、すべて相互に関連があった――どれも私であり、ただ違う名前を使っているというだけで、内面には特に変化は起きていなかった。
しかし、このリーゼロッテは別だ。離れ小島のように、私にこれまでの私と違うものであることを要求する。
リーゼロッテとしての私に必要なのは、戦闘能力ではない。敵の企みを看破する知力でもない。伯父ヘの復讐を誓うような過去もないし、愛する父や母といった背景もない。
――浮足立つ。
ゼロから人生を始めるというのは、ふわふわしていて落ち着かない。
普段使いの大きな木の杖も、私の手の中にない。あれは特徴的過ぎて、見る人が見れば誰のかすぐわかってしまう、とヴァイオラが言うので、泣く泣く部屋に置いてきた。今、私の腰に差してあるのは、スペアのタクト型の小さな杖だ。
父の形見のあの杖を持っていないというだけでも、何かどこかがひどくズレている感覚がある。正直、あまり気分の良いものではない。
――早く終わらせて、もとの自分に返りたい。
そんな思いがふと浮かんで、私は内心で少しだけ驚いた。私にも、私自身に愛着を持つという意識があったとは。
「で、行き先はいったいどこなんだい、リーゼロッテ?」
私の後ろからついて来ながら、アラベラはけだるそうな声でそう聞いてきた。
貴族にしては、変に粗野な言葉遣いをするこの女性を、私はなぜか、初対面から気に入らなかった。
一言、二言しか会話をしていないし、相手も初対面の私に遠慮している風なのに、何か、よくわからない点で、決定的に合わないと感じていた。
いや、何が合わないかは、はっきりわかっていた。できれば、自覚したくなかっただけだ。
似ているのだ。このアラベラの雰囲気が。私の苦手な、あの従姉に。
だから、――自分でも理不尽だと思うが――アラベラに対する私の態度は、どうしても硬いものになってしまう。
「こっち」
シレ河沿いの馬車道をさかのぼり、シャンゼリゼ・ストリートに出る。ここは、リュティスでも指折りの華やかな通りだ。凱旋門と呼ばれる、太陽王時代に造られた白亜の大門を入口に、マロニエの並ぶ石畳敷きの歩道を挟んで、両側に流行最先端の洋裁店、ジュエリー・ショップ、レストランが軒を連ねている。
その中でも、特に評判の高い高級レストランに、私はアラベラを連れていくつもりだった。
普段は、あまり好んでそういう店には入らない私だが、今日の目的がそもそも接待であるということと、ヴァイオラから充分なお金を預かっていたことから、たまにはいいだろうと、そこを選んでみる気になった。格式にこだわる貴族の子女を連れていくなら、高級店であればあるほどいいのだ。
しかし、いざ店の前に立つと、アラベラはうんざりしたような声をあげた。
「えー、ここかい? 何だか、肩の凝りそうなとこだね……どっちかっていうとさ、もうちょっとくつろげる店の方がよかったんだけどねぇ」
やはり、見た目と態度に表れている通りの、粗野でわがままな性格の持ち主らしい。普通、初対面の相手に連れていかれた店に、入る前から文句を言う人がいるだろうか。
少しイラッとしたが、私は接待する側。もてなされる側のアラベラが気に入らないなら、ここはやめておくしかない。
では、どこに行こう? 彼女の言い草ならば、肩の凝りそうな高級なところは望ましくない。ならば、必然的に安い店にならざるを得ないけれど――。
そう考えながら辺りを見回していると、いいものが目に入った。
「ここで待ってて」
そう言い置いて、私は小走りに通りの端に――凱旋門の下、ちょっとした人だかりができている一画に向かった。
人波に紛れて、少ししてアラベラのところに戻った私は、丸っこい紙包みを二つ手にしていた。
「何だい、それ」
「ランチ」
紙包みの片方を、アラベラに手渡した。それを開くと、切れ目を入れたパンに大きな豚肉を挟んだ、ボリューミーなサンドイッチが現れる。
「そこの屋台で売ってた。歩きながら、食べられる」
「いや、肩の凝るのは嫌だって言ったけどさ……こりゃまた、雑だねぇ」
目を丸くしながらも、気に入らなかったわけではないようで、アラベラはサンドイッチをしげしげと眺めてから、思いきってがぶりとかじりついた。
■
このリーゼロッテっつー娘は、人との接し方ってものをわかっていない。
言葉は少ないしこっちの顔をほとんど見ないし、何より笑顔がない。権威主義の貴族たちのおべっかに慣れたあたしには、こいつみたいなのはどうも接しにくい。
シャルロットに様子が似ているから、あいつにするみたいに居丈高にしてやろうかとも思ったが、今のあたしは王女でも何でもないわけで、それなのに威張り散らしてみせるのは滑稽でしかないだろうし、こいつを紹介してくれたコンキリエ枢機卿に恥をかかせることにもなる。それはさすがによろしくない。
まあ、仕方ないかなと我慢してついて行けば、このチビ、シャンゼリゼ・ストリートいちの名店に、あたしを連れていこうとしやがる。
あのね、こちとら王女様なんだよ。いいもんは食い慣れてんだ。ガリア屈指の名店は大抵足を運んでるし、このレストランにも飽きるほど来てるんだよ。
とはいえ、今のあたしは田舎から出てきた、リュティスに不慣れなお嬢さんって設定だから、そんなことを思っても口に出すわけにはいかない。そこで気の進まないフリをして、やんわり断りを入れてみると、今度は畜生、道端の屋台で売ってる、安っぽいサンドイッチを買ってきて、ハイどうぞと来たもんだ。
上から下へ極端過ぎだろコラ。これ、忙しい商人どもが短い昼休みにサッと買ってサッと食えるように都合した、いわゆるファストフードってやつじゃないか。買おうと思えば、平民でも買える値段のシロモノだよ!
ちょっとばかし呆れもしたが、よく考えたら、こういうものはイザベラ・ド・ガリアとしては絶対口にできるものじゃないし、今日一日だけの珍しい経験と思えば悪くないか、と思い直して、とにかく食べてみることにした。
何かオレンジ色と茶色の中間みたいな、ギトギトしたツヤのあるソースがたっぷり付いた豚肉を、周りのパンと一緒にかじる。
「うっわ……大雑把な味……」
あたしは思わずうめいた。ソースはどうやら、マーマレードと焦がしタマネギで作ったものらしく、甘みとほろ苦さと旨味が混然一体となって、口の中に広がった。
しっかり焼いた豚の三枚肉は柔らかく、噛むたびに甘い脂があふれてくる。ぶっちゃけ、しつこいぐらいだ。
でも――うん、まずくない! けっして、まずくないよ!
さらにひと口、ふた口とかぶりつく。ソースや豚の脂が染み込んだライ麦パンも、かなりイケた。最初はどうかと思ったが、こりゃ意外な掘り出し物だね。
手間隙をかけたオシャレな高級料理には、色んな意味で遠く及ばないけど、どう言えばいいかな――これは、あたしの性に合っている気がする!
がつがつとマナーも何もなくサンドイッチを頬張りながら、あたしはすっかりいい気分になって、指についたソースまで舐めてしまった。これも、王宮じゃ絶対できないしぐさだ。
ふと見ると、そんなあたしの様子を、横からリーゼロッテがじーっと見上げてきていることに気付いた。何だかきまりが悪かったので、咳ばらいをしてごまかしてみる。
「ん、ま、まあ、こういうのも悪かないね。しかし、ひどくくどい味付けなんで、喉が渇いたよ。飲み物の用意はないのかい?」
「大丈夫」
そう言って、リーゼロッテが向かった先は、一軒の喫茶店。
そこに入るのかと思いきや、彼女はすぐに出てきた。その両手にひとつずつ、青竹を節に合わせて切ったただけの、簡素な使い捨てコップを持って。
「飲み物。テイクアウトしてきた」
「へえ? 持ち帰りとか、そんなこともできるのかい」
感心しながら、コップを受け取る――そこに入っていたのは、ピンク色の、小さな泡を生じさせている液体だ。顔を寄せて匂いを嗅いでみると、爽やかなイチゴの香りがした。
「ははぁ、サワーってやつかい」
昔、ワインも飲めないくらい小さかった頃、オルレアンのシャルル叔父の屋敷に招かれた時、これをご馳走してもらったことがある。世の中には不思議なことに、スパークリング・ワインのように発泡する水を湧かせる泉があり、そこで汲んだ発泡水に、酢に果物を漬け込んで甘みと香りを移した汁を混ぜて、さっぱりとしたジュースのように仕上げた飲み物を、サワードリンクと呼ぶのだった。
コップを傾けて、キューっと喉の奥まで流し込む。売る直前まで、井戸の底に浸けてあったのだろう、それはキリッと冷えていて、口の中で弾ける刺激的な泡も、鼻に抜ける甘酸っぱいイチゴの風味も、実に爽快だった。
脂っこいサンドイッチでしつこくなっていた口の中が軽やかになり、ひと心地つく。すると、再びサンドイッチの濃厚な旨味が恋しくなる。サンドイッチをかじり、こってりしてきたらサワーをごくり。こいつはいい相性だ。
「悪くない……うん、うん。こりゃ全然悪くないよ、リーゼロッテ」
青空の下に栄えるシャンゼリゼ・ストリートを、サンドイッチとサワーを手にしたまま、リーゼロッテと並んでゆっくり歩く。
全体的に安っぽいが、確かにこれは悪くない、のびのびした休日って感じだ。
隣を見れば、あたしと同じセットを持ったリーゼロッテが、どんぐりにかじりつくリスみたいに、サンドイッチをもふもふもふもふと一心不乱に食べていた。
人格的にはちょっとダメなこいつだが、こういう仕草は小動物的で好ましい。癒し系って、こういうものなのかねぇ。
「ごちそうさま」
「って、早っ!?」
なごみながらこいつの食事を眺めてたら、目を離す暇さえなく完食されていた。
先に食い始めたあたしの方が、まだ半分程度しか済んでないってのに、何だこの早さ。ほっぺた膨らませて口の中でもぐもぐしやがって、ホントにリスみたいだねこいつちくしょう可愛いなぁ。
そんなことを思いながら見ていると、その視線に気付いたものか、リーゼロッテは小脇に抱えていた本を広げ、歩きながら読み始めた。まるで、あたしのことをわざと視界から追い出すかのように。
「ちょいとあんた。人と歩いてる時に本なんか読むんじゃないよ」
いくらマイペースったって、人前でこの態度はない。あたしは、その本を上からひょいと取り上げて、意見してやった。
「横にいるあたしがいい気持ちしないってことぐらい、わかんないのかい? ダチの前で同じことやってみな、きっと呆れられるよ」
言いながら、開いたページにスピン(しおり紐)を噛ませて閉じ、リーゼロッテに返す。
彼女はそれを受け取り、しばらく本を見つめていたが、やがてそれを脇に抱え直して、こちらを見上げた。
「……確かに、あなたの言う通り。
失礼なことをした、許してほしい」
「ん。わかってくれりゃ、それでいいんだよ」
思いのほか素直に言うことを聞いてくれたね。
あのシャルロットに雰囲気が似てるから、ひねくれた礼儀知らずの性格も一緒なんじゃないかって危惧してたんだが――ちゃんと悪いところを謝れるんなら、こいつはあの人形娘みたいにはならずに済みそうだ。
■
アラベラに態度を注意された。
イザベラと似た雰囲気を持つ彼女に見られているのが苦痛で、つい本を開いたのだけれど、それを失礼だと言われたのだ。
確かに、よく考えればその通り。こればっかりは、私に非がある。でも、それを自覚していても、素直に謝るのは何となく癪だった。あの尊大で人を見下さずにはいられない、イザベラに頭を下げるような気分になるから。
……もちろん、これは私のわがまま。ただの意固地。私の内心が誰かに見られたなら、確実に非難される醜い考え方だ。
そんな風に思っていた私が、それでもアラベラに謝罪したのは、彼女が本にスピンを挟んでから閉じるというささやかな気遣いをしてくれたことと、友達の前で同じことをしてみろと言ってくれたからだ。
その言葉で、私はキュルケのことを脳裏に浮かべた。開けっ広げで陽気で、人をからかうのが大好きな、私とは何もかもが正反対の――私の親友。
彼女の前でも、私はよく本を読んでいる。時々はサイレントをかけて、彼女の話を遮ったりもする。
キュルケはそれでも、あの母性的な笑顔で私と付き合ってくれるけれど――それはきっと、彼女が寛容だからなのだ。親しい人と一緒にいる時は、お互いの目を見ているのが一番いいはずなのだから。
キュルケのことを考えると、アラベラの注意がすとんと胸に落ちる感じがした。そして、さっきまでの自分の考えが、いよいよ情けなくなってきた。アラベラはイザベラではない。意地を張る必要はないし、たとえ注意をくれたのがイザベラだったとしても、内容はごく真っ当で他意のないものだ。意地悪ではなく、単純に私のためを思って言ってくれたことをはねつけるのは、人として恥ずべきことではないか。
私は謝り、アラベラは鷹揚に頷いて許してくれた。
彼女の表情に、もはや苛立ちやむかつきなどといった陰険な感情はなく、その態度はまるで水に流したようにさっぱりしたものだった。
やはり、彼女はイザベラとは違う。性格はあれくらいがさつだけど、イザベラにはない余裕がある。
――もしイザベラが、王族なんかじゃなくて、並の貴族としてのびのびと暮らしていたら、こんな風になっただろうか。
私は、アラベラという女性への不思議な印象に戸惑った。彼女は基本的にイザベラを思わせる。しかし、キュルケのような懐の広さも持っているのだ。ひとりの人間に、別々のふたりの人間と似通った性質があってもおかしくはないが――ちょっと、落ち着かない。
しかし、同時に、初めて会った時の苦手意識が、かなり薄れたようにも思えた。この感覚は、前にも体験したことがある。あのキュルケも、第一印象は最悪だった。ある事件に巻き込まれて、彼女と喧嘩をして、そのあと仲直りした時、この胸に灯った暖かいものと、非常に似たものをアラベラに感じる。
……このアラベラとも、キュルケのように親しくなるのだろうか。この気持ちは、その前兆なのだろうか。
「よし、いい感じに腹は膨れた。んじゃ次は遊びだよ。お上品に取り澄ます必要のない、なんかワクワクするような催しはないかい?」
私に五分ほど遅れて、サンドイッチとサワーを平らげたアラベラは、街角の屑入れにコップや包み紙などのゴミを捨てながら、そう聞いてきた。
私は、先ほどの高級レストランを嫌がった時の態度や、今のリクエストから、アラベラは実家でひどく窮屈な思いをして暮らしてきたのだろう、と察した。
貴族はマナーを身につけていなければならないし、趣味や娯楽にも品性が求められる。もちろん子供の頃から、そういうことは教育として叩き込まれるから、大抵の貴族はそれを当たり前のものとして受け入れるし、むしろそうあることを誇るようになる。
しかし稀に、そういう生き方が肌に合わない者もいる。彼ら、あるいは彼女らは、貴族らしく生きることに苦痛を感じ、平民のような素朴な生き方や、遊び人や旅人のような、ルールに囚われない考え方に憧れを抱いたりする。当然、家族と衝突することも多い。
そういった者たちの末路は、まあ、家を飛び出して望みの自由と苦労を得るか、あるいは家族に押し切られて、息苦しいマナーの中に留まって我慢するかの二択だけれど、まだ若いアラベラは、今のところ後者の立場にあるらしい。姉にわがままを言って、こっそりリュティス観光に来たというのは、現状へのささやかな反抗といったところだろうか。
私のこの想像が正しいかはわからないけれど、彼女の傾向が掴めたのは間違いない。少なくとも、美術館だとか、音楽会だとか、刺繍を教えてくれる教室だとかはアウトだとハッキリわかった。そういった候補地を、頭から追い出す。代わりに、もっと気取らない、貴族的でない遊び場をピックアップする。
そして、私が選んだのは――。
「あああ落ちる落ちる! めちゃくちゃ揺れてんじゃないか、ちょっと! 危ない、危ないって、あれ!」
私の肩をガクガク揺すぶりながら、アラベラは恐怖と緊張の叫び声を上げていた。
その視線は、地上十数メイルの高さに渡された、長さ三十メイルほどのロープの上を軽やかに渡る、ひとりの曲芸師にくぎづけになっていた。
フライの魔法など使えない平民が、命綱もなしに地上四階以上の高さで綱渡りをすると聞いた時点で、アラベラは落ち着きをなくしていた。それから演技が始まって、曲芸師がそろそろと慎重に綱を渡るのでなく、踊るように跳ねながら足を進めていくのを見ると、ひゃあひゃあ言いながら私にしがみついてきた。時々、スリルを煽るために、曲芸師はわざとバランスを崩すフリをするのだけれど、その演出はアラベラには非常に効果的だった。息を飲み、声にならない悲鳴を上げ、ついでに私の二の腕を、爪が食い込むぐらい、思いっきり握りしめてくれた。痛い。
しかし、結局その曲芸師は足を踏み外すことなく、見事に綱を端から端まで渡り切り、安全な足場の上で、優雅なお辞儀をしてみせた。
その時のアラベラの表情といったら。ほっと安心して、そのまま気絶するのではないかとすら思った。
曲芸師の退場に、惜しみない拍手を送りながら、彼女は疲れたような声で呟く。
「ああ、まったく、とんでもないことをする奴もいたもんだね。一歩間違えば命がないってのに……こっちの心臓が止まるかと思ったよ。
なあ、リーゼロッテ。ここにいる奴らは、いつもこんな恐ろしいことをしてるのかい?」
「彼らは、特殊な訓練を積んでいる。心配はいらない」
私は、アラベラをなだめるようにそう返す。彼女は納得できない風な表情を浮かべたが、ステージの上にピエロが出てきて愉快に踊り始めると、目を輝かせて「なにあれ! なにあれ!」と、子供のようにはしゃぎだした。
――エッフェル鐘楼塔公園の広場に張られた、白い大天幕の中。華やかな音楽が鳴り響き、面白く着飾った芸人たちが、入れ替わり立ち替わり現れる。そして繰り出される、人間離れした不思議な技の数々。
そういったものを鑑賞できる客席に、私とアラベラは座っていた。
旅回りのサーカス団が、リュティスで興行を始めたことを聞き込んでいた私は、アラベラにはちょうどいい催しだと判断し、ここに連れて来た。
最初こそ「平民の芸なんて面白いのかい?」と首を傾げていたけれど、ここまでの反応を見る限り、この選択も正解だったようだ。
「見なよリーゼ、あの変な服着た白塗りのオッサン、リンゴを七つもお手玉してるよ! あれ、マジで魔法使ってないのかい!?
あっ、転んだ! 思いっきりすっ転んだのに、リンゴは一個も落としてない! すごい、すごいよ!」
顔を白く塗り、赤いボールの鼻をくっつけた中年のピエロが演じるジャグリングに、アラベラは立ち上がらんばかりに引き込まれていた。
しばらく経つと、ふたり目のピエロがステージに上がってきて――細身で背の高い、ジョーカーのような仮面をつけたピエロだ――最初にいたピエロの投げ上げるリンゴに、小さなナイフを投げつけて、一個ずつ撃墜していった。
ジャグラーのピエロは、残ったリンゴが三つになると、お手玉をやめ、リンゴのひとつを自分の頭の上に乗せ、残りふたつを左右の手に持ち、投げナイフのピエロと、十メイルほどの距離を隔てて向かい合った。
太鼓がダララララと打ち鳴らされ、緊張感を煽る。やがて、投げナイフのピエロの腕が、ささっと三度動き――次の瞬間には、ジャグラーのピエロが頭と両手に乗せていた三つのリンゴに、鋭いナイフが深々と突き刺さっていた。
スリル満点のこの芸にも、アラベラは非常に感動したらしく、今度こそ立ち上がって夢中で拍手をしていた。
「見事だねぇ! メイジだって、あんなことはできないよ!」
そんな称賛の声を背に、ふたりのピエロは舞台裏に消えていった。
――そのピエロたちが去っていった方から、「やったぞトマ! 大好評だったな!」という声と、「ええ、一生懸命練習した甲斐がありましたね、ギルモアさん!」という声が聞こえてきた気がするが、たぶん空耳だろう。私は何も聞いていない。
それからも、美女たちが華麗に舞う空中ブランコの技、凶暴な虎が調教師の鞭に従い、火の輪をくぐる芸など、手に汗握る愉快でスリリングな出し物の数々を、アラベラと一緒に楽しんだ。
一話でまとめて投下するつもりじゃったが、十万字超えてしもたんで、三話ぐらいに分けるぞー。