■
夢のような数時間はあっという間に過ぎ去り、あたしたちがサーカスの天幕を出た頃には、辺りは暗くなりかけていた。
もうそろそろ、王宮に帰らなければならない頃だ。あまりプチ・トロワを空けていると、騒ぎ出すお節介が出てくる――今日だって、外出するために、コンキリエ枢機卿にありがたいお話を聞かせて頂くという名目を作らなくちゃならなかった。王女って立場はそれくらい窮屈なのだ。
あたしはリーゼロッテに言って、最初に会った教会まで連れていってもらうことにした。夕焼けに燃える鐘楼塔公園を出て、黄金色の夕陽が落ちるシレ川の岸を、ゆっくり歩く。
ゆっくり。わざと、ゆっくり。
「……今日は、楽しかったよ。リーゼロッテ」
何となしに、あたしは隣を無言で歩くリーゼロッテに、そんなことを言っていた。
「自由で、何にも縛られることがなくて。人の目も気にする必要がなくて、その上、あたしの好みに合ったものにも出会えた。こんなに羽根を伸ばせたのは、久しぶりだよ……ああ、本当に、本当に楽しかった」
心からの言葉だった。じめじめとしたカビだらけの部屋を、隅々まで徹底的に掃除して、爽やかな自然の風と太陽の光で乾かしたような、そんな清々しさがあった。
「そう。……楽しんでもらえたなら、よかった」
無表情に、リーゼロッテはそう返してきた。そのツラといい、素っ気ない口のきき方といい、やっぱりあのムカつくシャルロットを連想せずにはいられないが、どうしてかこいつには、もう全然ムカつかない。むしろ、そのシンプルな物言いが、まごうことなき本心から出ているのだと直感できて、嬉しい気分にすらなった。
「今日が晴れてたのもありがたかったね。あのサンドイッチとサワーは、外で歩きながらってところがキモだったもの」
「同意。青空とシャンゼリゼ・ストリートの景色が、ちょうどいいおかず」
「はは、洒落た言い方をするもんだね。
そうそう、サーカスも凄かったよ。初めて見る世界だったけど、ああいうのを、血沸き肉躍るっていうのかね? 特にあの空中ブランコ、あんな華やかな演技は、王きゅ……大貴族のダンスパーティーでも見られないよ!」
「あれはサーカスの花形。あの躍動感は、魔法をもってしても真似できない。
しかし、ピエロなどの演じる地上の曲芸も見逃してはならない。あのテクニックと滑稽味はため息もの」
「わかる、わかるよ! やってることはすっごい職人芸なのにさ、それで笑いを誘うって、並大抵のことじゃないよね!」
話が弾む。共有した楽しい記憶を、掘り返してお互いに投げ掛け、共感を確かめ合う。たったそれだけの、他愛のないやり取りが、どうしようもなく面白かった。
心が、いつになく軽い。うーん、と両手を空に向けて背伸びをすれば、そのまま飛んでいけそうな気分だ。これが、自由ってやつなんだろう。
でも、この自由も、教会にたどり着けば手放さなければならない。
楽しい時間だったからこそ、終わりはあっという間にやってきた。気がつくと、オレンジ色の明かりが窓に灯る教会の前にたどり着いていたのだ。
「あなたは、ここからどうやって帰るの?」
リーゼロッテが、門をくぐる前に、そう聞いてきた。
「ああ、ミス・コンキリエの馬車で送ってもらうつもりだよ。そういう約束だったから、中で待ってりゃ、すぐに迎えが来るだろうさ」
「そう……」
妙に虚ろな返事をしたリーゼロッテは、教会の玄関をちらと見て、それからあたしの方に振り向いた。
そのまま、じっと、じっとあたしの目を見つめている。何も言わずに、ただ見ている。その行為が、名残を惜しんでくれているのだと考えるのは、自惚れだろうか?
「……それじゃあ、私はこれで……」
「あ、ああ」
ふい、と踵を返して、彼女は暗い道の向こうへ歩いていく。その小さな後ろ姿が、遠ざかるに従って、さらに小さくなる。あたしをこの場に置いて、離れていく。
そのことが、あたしにはひどく――それこそ、我慢できないほどに――寂しかった。
「な、なあ!」
とっさに大声を張り上げて、あたしはリーゼロッテを呼び止めた。
藁色のおさげ髪を揺らして、彼女は肩越しに振り返った。眼鏡の向こうで、つぶらな瞳が不思議そうにしている。
今日出会ったばかりの彼女。まだ、全然見慣れないリーゼロッテという少女。
この顔を、これっきりで見納めにするのは――彼女との付き合いを今日限りのものにするのは――あまりにも、寂し過ぎた。
「あ、あのさ、もし、もしよかったら、なんだけどさ。
……また、一緒に遊ばないかい?」
あたしは、柄にもなくそんなことを言っていた。
■
――また、一緒に遊ばないかい?
王宮に戻り、部屋のベッドに潜り込んでからも、別れ際にアラベラから言われたその一言が、頭の中でリフレインしていた。
枕に顔を埋めたまま、ぼーっとその言葉の意味を考える。正直、そう言われるとは思っていなかったので、たぶん、私は、その意外性に驚いているのだと思う。
今日一日を、楽しんでもらえた自信はあった。その手応えは感じていた。しかし、彼女が、私個人に好感を覚えるような対応をしたとは、まったく思っていない。
自分で言うのも何だが、私は話していて楽しい人間ではないと思う。ニコリともしないし、しゃべる言葉は少ないし、場の空気を読む感性もない。だから、アラベラを接待する上で、彼女ひとりでも楽しんでもらえるように、サーカス見物というイベントを選んだのだ。
つまり、彼女のお誘いの言葉は、つまり、またサーカスが見に行きたいから連れていけ、という意味か?
――違う。人の心の内なんか、ほとんど考えない私でも、それくらいはわかる。あの言葉は、サーカスでもサンドイッチでもない、私を求めて発せられた言葉だ。
しかし、なぜ? なぜ、アラベラは、私のようなつまらない人間と、また遊びたいのだろう?
私との会話が、楽しかったとでも言うのだろうか? あり得そうにない。
でも、もしそうだったら?
……そうだったら――私は、嬉しいのか? それとも、面倒臭いのか?
それすらもわからない。わからない。わからない。
アラベラとは今日初めて会ったのだ。私の中で、彼女の占める位置を決めるには、時間は少な過ぎた。
また会えば、会って話をすれば。彼女の心も、私の心も、理解できるだろうか。
――私はヴァイオラに、フェイス・チェンジの首飾りを、もうしばらくの間貸したままでいてほしい、と頼むことにした。
シルフィードの方も、もう二、三日休ませてあげても、何も問題はないはずだ。
■
何もしなくても、結果だけが出るって素晴らしい。
テキトーぶっこいて、タバサにイザベラ殿下の接待を押し付けて、我自身は一日ゴロゴロして過ごしてみたのじゃが、それでもちゃんと利益は出てくれた。夕方になって、教会にイザベラ様を迎えに行ったところ、すごく晴れ晴れとした笑顔で、「ま、息抜きにはなったよ」などと仰せになったので、思わず吹き出すかと思うた。この素直になれんひねくれ小娘がそう言うということは、タバサはこいつをしっかり楽しませてくれたようじゃ。
これで王女サマの、我に対する好感度はうなぎ登り。人は、楽しみを与えてくれる人間は邪険にせんものじゃ。ジョゼフ王のアホがあまりにアホっぽくて、恩を着せてもすぐ忘れそうじゃから、代わりのコネを作るべく選んだ代用品じゃが、このイザベラが我に対する好意を忘れず、いろいろ便宜をはかってくれるようになるなら、はるばるガリアまでやって来た苦労も、無駄にせずに済んだということになろうて。
……しっかし、それにしても。
「なあ、コンキリエ枢機卿。あのリーゼロッテという娘は、学校に通ってるのかい? そうだとしたら、次の休みはいつなのかね。
ま、またお忍び遊びに付き合わせたいからさ……ひ、ヒマしてる日があったら、あたしに連絡するよう、言っといてくれない? それくらい頼んでも、あんたは気を悪くしたりしないだろうね?」
……なーんて言うとは。よほどタバサが気に入ったとみえる。
まあ、あの風呂場での愚痴を聞いた限り、こいつは周りにひとりも信用できる者がおらん状態でずっと過ごしてきたわけじゃから、気兼ねせず遊べる友達ができりゃ、あっちゅー間に依存してしまうじゃろうことは、我にも想像がついていたが。
しかし、じゃとしたら、話はさらにオイシくなるのう。
イザベラに恩を着せてコネを作るどころか、「はじめてのおともだち」にべったり依存させて、それ無しでは生きていけんようにしてやれば――彼女を、傀儡に仕立てあげることができれば――タバサを介して、我がガリアの国政にちょっかいを出す、なーんてこともできるようになるかも知れん。
果てはロマリア教皇を目指しておる我じゃが、その前に、大国を影で操る黒幕になっとくっちゅーのも、悪かないのではあるまいか。儲けもたんまり期待できるし。うえっへっへっへ。
さて、そうなると、タバサにはもっと働いてもらって、このデコ姫を完全篭絡してもらわねば。
我はイザベラ様のお願いを、「では、先方の都合を確かめてまいりましょう」と恭しく承って、返した踵でタバサのところに駆け込み、またイザベラことアラベラさん(また工夫のない偽名にしたものじゃ。タバサはリーゼロッテと名乗ったらしいが、それくらい大胆に変えた方がカッコイイと思うんじゃがのー)と遊んでやってくれんかと頼むと、意外と簡単に了解してくれた。日にちの都合については、明日でも構わないと言う。もしかして、こいつ騎士のくせにかなりヒマしとんのか?
我が折り返して、イザベラ様にタバサの返事を伝えると、青い目とデコを輝かせて、「へ、へえ、あいつ、そんなこと言ってたのかい。しかし、明日とはねぇ。あたしも王女だからね、忙しいからね? だからそんなに急に予定は空けられないけど、リーゼが明日がいいって言うんなら、何とかスケジュールを調整してやってもいいさ。……か、勘違いするんじゃないよ!? あいつに早く会いたいってことじゃなくて、あたしがたった一日じゃ遊び足りないから、まとまった休みを取るのも悪くないかなって思いついただけなんだからね!」
はいはいわかっておりますんじゃよー。そんな耳まで真っ赤にしておっしゃっては、まるで演劇に出てくる意地っ張りのヒロインではないですかープークスクス。
ほくそ笑みながら、我はイザベラ様のお部屋から下がり、再度タバサの部屋に伝言を持っていく。
いやー、こんな軽い歩行のみを対価に、ガリアという国を操縦する権利を夢見れるなんて、まったく笑いが止まらんのぅ。
この国に入ってから、どーも運に見放されとった気がしたが、やっぱり始祖は我の味方らしい。こんなにうまくことが運ぶと、ちょっと怖いくらいじゃ。
いや、でも、我みたいな富にも地位にも美貌にも知恵にも恵まれた優秀人類には、このような成功ロードこそふさわしいのじゃろうな。痛い目に遭ったり失敗したりすることの方が特別で、十年分ぐらいの奇禍を昨日まとめて味わったのじゃから、これからしばらくは良いことしかあるまい。
……あとは、シザーリアが目を覚ましてくれりゃ、言うことなしなんじゃがな。
あのねぼすけメイド、王宮付きの優秀な医師に治療してもらったっちゅーに、まだ意識を回復しよらん。
医師曰く、急激な回復による疲労が溜まっているから、しばらく寝かせてやるのが一番健康にいい、だそうじゃが。
早く起きてくれんと、あいつに世話されることに慣れた我のストレスがすごいんじゃよー。今の我の部屋付きのメイド、あの慌てんぼうのアニーじゃし。こんにゃろう、午後のティータイムにハーブティーを入れろ言うたら、乾燥ハーブと間違えてひじき煎じて出してきよった。優雅な時間がすごい磯臭いことになったわ畜生。
はー。シザーリアの煎れてくれる、美味い茶が早う飲みたいのぅ……。
未来の豊かな生活に思いを馳せながら、我は豪壮たるヴェルサルデイル宮殿の廊下を、独り寂しく歩いていった。
■
二日目。アラベラの時間の都合で、私たちはディナーをともにすることになった。
ヴェルサルデイル宮殿前で待ち合わせて、一緒に辻馬車に乗り、リュティスの夜を行く。
今回アラベラを連れていったのは、定食屋兼酒場といった色合いの、賑やかな店だ。仕事を終えた商人や、夜の街に遊びに出かける遊び人などが、一杯引っ掛けて景気をつけている。
私たちもその中に混ざる――アラベラは、私の思っていた通り、この店の喧騒を楽しんでいるようだった。
花瓶のように大きな木製のジョッキに並々と注がれたエールを、ほとんど一気にゴクゴクと飲み干してしまい、口の周りに白い泡を付けたまま、大声でゲラゲラと笑い始める。 貴族にあるまじき、下品なふるまいだ。きっと、実家ではそんなことをするのは、まったく許されておらず、このような場に来たのを幸い、試してみる気になったに違いない。
「リーゼ、あんたもがっつり飲みな! こいつはワインと違って、量を過ごすのが醍醐味の酒だろ? ちびちび舐めてたって、酔えやしないんじゃないかい!?」
「飲み過ぎは、体によくない」
「へん、何を今さらだよ。第一、飲み過ぎが悪いんなら、食い過ぎだって悪いだろうに」
何を言っているのやら。私は、牛モツのトマト煮込みの皿(ちょっと大きめな洗面器ぐらいのサイズ)をかきこみながら首を傾げた。
これを片付けたら、山盛りに盛られたフライドポテト(標高三十サント)に手を付けて、それからやっとエールで口を潤すつもりなのだ。計画的で慎み深くあれというのが、私の食事に対するポリシーであり、無軌道な暴飲暴食など、趣味ではない。
「……それはひょっとして、ギャグで言っているのかい?」
「言ってる意味が、わからない」
頬を引きつらせるアラベラを横目に、空になった皿を置き、フライドポテトをガッと一掴みし、口に運ぶ。
そしてようやくエールである。しかし、モツ煮込みに時間をかけ過ぎてしまったのか、ジョッキの中のそれは少しぬるくなっていたので、私は杖を振るい、ごく弱い風魔法をかけて、エールをしっかりと冷やしてから口をつけた。
「あ、それいいね。リーゼ、あたしのジョッキも、軽く冷やしておくれ。もーちょっとキンキンだといいのにって、さっきから思ってたんだ」
私の技を見ていたアラベラが、感心したように言って、ジョッキ(三杯目)をこちらに差し出してきた。
お安いご用だ。小さな杖をちょいと振るだけで、アラベラのジョッキも美味しそうに汗をかいた。それをぐっとあおって、アラベラはまたしても白い髭を生やす。
「ん、いい冷え具合だ! リーゼ、あんたの系統は風なんだね」
「……ん」
アラベラの問いに、私はフライドポテトを頬張ったまま、小さく頷く。
「やっぱりね。それにしても、飲み物ひとつを凍らない程度に冷やすなんて、微妙な仕事ができるぐらいだから、メイジとしての力量も、それなりのものなんじゃないかい?」
エールを冷やしたことから、そういった方向に考えを持っていくアラベラは、間違いなく支配者タイプの頭脳の持ち主だ。
どれだけ大きな威力で魔法を放てるか、というのが、メイジのレベルを知る上での最もわかりやすい基準となるが、同様に、どれだけ低い威力で、細かい仕事ができるか、というのも、重要な指標となる。
熟練した土メイジなら、麦粒ほどの大きさのダイヤモンドに、人の肖像を彫刻してみせるし、経験を積んだ水メイジなら、切断された腕を、血管や筋肉を一本一本つなぎ直すことで、再び動くようにさえできるという。
そういった仕事に比べれば、私のやったエールを冷やすなんてことは、大雑把でつまらない。しかしその何気ない行動から、私の実力を推し量ろうとしたのは、人を使う管理職ならではの考え方だ。
「ふん、まあ、あたしも家じゃ、人を指図して働かせてる身分だからね。目の前のやつがどの程度使えるか、ちゃんと把握できないとやっていけないのさ。
下に使えるやつが多いから、楽な仕事なんだけどねー……ただ、使う側のあたしがさぁ、ぶっちゃけあんまり実力がないからさー、肩身が狭いっつーか……あんたみたいに腕のいいメイジを見ると、羨ましくて泣きたくなるよ」
エールの酔いが回ったのか、アラベラはテーブルの上にひじをつき、あごを手のひらに乗せて、悲しそうに呟いた。
「うちは親からして、魔法の腕はからっきしでさ。それを受け継いだあたしも、たくさん練習したにも関わらず、ドットの下の方というありさまだ。
それとは逆に、親戚は才能の塊みたいな連中ばかりでねぇ。叔父はスクウェアだし、その娘であたしのひとつ下の従妹も、かなりの風の使い手になってる。
その出来のいい従妹と、あたしゃことあるごとに比べられてねぇ。召し使いどもにさえ、陰じゃ笑われてるってありさまだ。まったく、嫌になるよ」
「……それは、気の毒」
アラベラの愚痴を聞きながら、私は、ルイズ・フランソワーズのことを思い出していた。
魔法がまったく使えず、クラスメイトたちの嘲笑の的となっていた彼女。座学がいくらできても、魔法の才能という貴族の第一条件を欠くがゆえに、誰にも認めてもらえなかった、哀れな彼女。
アラベラも、同じような不遇に身を置いているらしい。人を使う権力を持っていても、部下が自分より優れていては、劣等感を刺激されるばかりなのではないだろうか。
「で、結局あんた、どれくらいやれるんだい? メイジとしてのランクは、ってことだけど」
その問いへの正直な答えを、魔法が苦手なことを気に病んでいるアラベラに言うのはためらわれたが、変に気を使うよりは、率直な方が彼女にとってはいいだろうと判断する。よって、ありのままに、トライアングルであると答えた。
「へえ、その歳でかい? 予想以上だね。あたしは十中八九、ラインだと思ったんだけど。
……いや、待てよ。世の中にはコンキリエ枢機卿みたいなガキっぽい大人もいるし、あんたも子供に見えて、実はもう大人だとか?」
私はさりげなく手首を持ち上げ、強すぎず弱すぎず、絶妙な力加減で、アラベラのおでこにデコピンを食らわせた。
「あだぁっ!? な、なにすんだい、いきなり!」
「人のことを、子供に見えるとか言うからいけない。私は見た目通りの十五歳。それほど幼くない」
歳を取ると、若く見られたいと思うようになるのが女性という生き物だが、若いうちは大人びて見られたいと思うのも、また女性の特徴なのだ。
あと、今の発言はヴァイオラに対しても失礼。彼女は幼く見える大人ではない。私は今でも、彼女のことを見た目通りの七、八歳ぐらいだと固く信じている。
しかし、アラベラは自分の発言を反省するどころか、眉をひそめてこんなことを言った。
「あん? 十五? だったらやっぱり幼く見えるって。あたしの見立てじゃ、あんたはせいぜい十一、二歳くらい……」
私は再び、手を振り上げた。
まったく、戦争がしたいのなら、素直にそう言ってくれればいいのに。
■
「あ゛あ゛〜だだだだ!? 痛い痛いタンマタンマ! おでこ擦りむけるっておでこ!」
「駄目。許さない」
ほんのちょっとした冗談のつもりで口にした言葉が、思いっきりリーゼロッテの逆鱗に触れてしまったらしく、あたしは今、いつ終わるとも知れない怒涛のデコピンラッシュによって、おでこの中心を集中突破されようとしていた。
一秒間に十六発は叩いてくる凄まじい指の動きに、なるほどさすがは素早さを売りにする風メイジ――と思ったりもしたが、いつまでも感心していられるほど余裕があるわけでもない。肉体的な打たれ弱さに関しては一般貴族よりさらに下と自負している温室栽培のか弱い花、その正体はプリンセス・オブ・ガリアなこのあたしが、そんな名人級のデコピンを受け続けては、ぶっちゃけ脳震盪も夢ではない。
ようやく許してもらって、デコピンから解放された時には、あたしのおでこは朱肉で拇印を押したみたいな感じになってた――今の顔は、フェイス・チェンジの首飾りで変化させられている幻影なのに、しっかり跡がついてしまっている。覆い隠しちゃってくれよこんなみっともないの。気が利かないマジック・アイテムだね。
ちなみに、リーゼロッテの方も、今の絶技を繰り出したことで疲労困憊したらしく、テーブルに突っ伏している。
「うう、すっごいヒリヒリするよ……あんたさぁ、接待する相手に対して、この仕打ちはさすがにないんじゃないかい?」
「その点、素直に謝罪する。でも、私にも譲れない一線がある」
幼く見えるって、そこまでウィーク・ポイントかねぇ――とは思ったが、口にするとまたこじれそうなので、控えておく。
「そりゃ、ま、こっちも悪かったよ。
しかし……こういうのも、いいもんだね」
じんじんと痛みの残るおでこを撫でながら、そんなことを言ったあたしに、リーゼは奇異なものを見る目を向けた。
「あ、いや、勘違いするんじゃないよ。別に、マゾヒスティックな趣味があるわけじゃないんだ。
こんな風に、人から率直に怒られるなんて、ずいぶん久しぶりでね」
まだ冷気の残っているエールジョッキを額に当てながら、あたしは問わず語りに語った。
「あたしは実家じゃ、人を使う立場だってのは、さっき言ったね。もっとはっきり言えば、うちの家はあるいち地方で一番権力があって、親父は一族の中でも一番立場が上なんだ。
だから、あたしの実力が低くても、誰も文句を言わないし、言えない。あたしがワガママを言ったり、ちょっとタチの悪い悪戯をしても同じさ。お大尽様の娘だから、何したって許される。
でも、もちろん、注意されないってだけで、恨みや軽蔑は山ほど買っちまってるのさ。あたしみたいな無能だって、それくらいのことは察せてる。ただ、誰もそれを、口にも顔にも出してくれないから、どれくらいの悪感情があたしに向けられてるのか、いまいちわからない。
殺したいほど憎まれてるのか? 道端のゴミを見るように、冷たく興味なく軽蔑されてるのか? それとも、子供のすることだと、他愛もなく肩をすくめられてるだけなのか? 程度というものが、一切わからない。これって、すごく気持ちの悪いことだよ。
だから、今みたいに……手を上げられて、直接怒りをぶつけられるってのは、うん、わかりやすくて、まだしもスッキリする」
もちろん、怒りや悪意を直接的な行動でぶつけてこようとした奴も、何人かいないではなかったけど、それって全部ガチの暗殺未遂だったからね……。まったく、王族の身の回りって、どうしてこうも極端なことばっかりなのか。
「……お父さんは? あなたより立場が上のはずだから、叱るくらいは当然――」
「は。あの親父はあたしになんかまるでかまいやしないよ。自分のことしか考えてない人だし、私のことは目に見えて疎ましがってる。
だいたい、あたしを叱る権利なんざ、あの親父にはありゃしないのさ。人を駒としか見れないくせに、妙に嫉妬深いところがあってね。さっき言った、すごい出来のいい親戚一家に、ちょっとシャレになんない嫌がらせを繰り返しやがって、おかげであたしまで向こうさんの一家に嫌われちまった。
例の従妹も(そりゃ、あいつの才能には嫉妬してたけどさ)、すごい可愛くていい子だったのが、急に冷たくなっちまって……親の喧嘩が原因だから、仲直りのしようもなくて、寂しい思いをしたもんだよ。
あたしはそういう問題をいろいろ抱えてるけど、そのうち八十パーセントぐらいは親父のせいだと言って差し支えないね!」
思い出すと、急にムカムカしてきた。あたし自身嫉妬深かったり、魔法が下手だったり、威張り屋だったり、駄目なところはたくさんあるけど、あたしを取り巻く「嫌なこと」のほとんど全てに、親父の陰がちらつく。親の因果が子に報い、とは言うけれど、それを地で行ってんのがウチじゃあないか?
腹の中に起こったムカムカを飲み込もうと、冷たいエールをぐっと煽る。そして、半ば皮肉るように、リーゼロッテに忠告をしてやった。
「あんたも家族や親戚には気をつけなよ、リーゼロッテ。あたしの場合は、あたし自身にも悪いところがいっぱいあるけど、あんたみたいに才能のある奴だって、周りの人間次第で不愉快な境遇にはまり込んじまう、なんてことがあり得るんだからね。
あんたは人付き合いとか苦手そうだから、少し心配だよ。ま、あたしみたいな極端な例は、そうそうないだろうから、そんな深刻に考える必要もないのかも知れないけどね」
多分に自嘲混じりの、不真面目な言葉だったが、リーゼロッテはわりと真剣に受け止めたらしく、途端にうつむいて、暗い雰囲気を漂わせ始めやがった。
「……そんなことは、ない。人間関係は、きっと誰にとっても難しいもの。
あなただけじゃない。私にも……家族や親戚のことで、悩んでいることは、ある」
そう言って顔を上げたリーゼの目には、あたしへの溢れる同情心があった。
いや、その表現では誤解を招く。それはシンパシーと呼ばれるものだった。共鳴できる心の波動を感じた者特有の眼差し。私の言葉は、なぜか彼女の心の、深い部分を揺さぶったらしい。
「私の場合は、あなたの逆。一族の中で、一番力のある人物に疎まれている。
その人物と、私の父が、家督を争ったのが始まりだった。本当は私の父の方が、当主に相応しいと言われていたのに、その人は父を押し退けた……ひどく強引な方法を使って。
それ以来、私の一家とその当主の一家の関係は、完全に冷え切っている。向こうはこちらに、無理な仕事ばかり回したりして嫌がらせをしてくるし、こちらも向こうを心から呪っている。むしろ、いつか直接討ってみせると――……」
そこまで言うと、さすがに言い過ぎたと気付いたか、はっとしたように目を瞬かせて、またうつむいた。
「……忘れて。今のはお酒のせい……」
「……ん。あたしはエールを飲むのに夢中だったよ。あんたも、飲み食いしてただけだ。お互い、何も聞いちゃいない」
それはきっと、リーゼロッテの家名を知っていたら、非常に不都合な話だったのだろう。
でも、あえて詮索しなければ、話した言葉は永遠に闇に葬られる。あたしたちの、ふたりだけの秘密として。
胸の中に埋められ、掘り起こされることはない。
互いに見せ合った弱みも、愚痴を言い合うことで同調した、他者への不満も。あたしたちだけのものだ。
あたしは、そっとリーゼロッテに肩を寄せた。
彼女は、思いがけぬ接触にこちらを振り向いたが、それでも拒絶することなく、むしろ向こうからも体重を預けてきた。
この、小柄な少女と触れ合っていることが、妙に落ち着く。
何だろう、この感じ。ずっと昔、まだ何の悩みもなかった頃に遡ったような、懐かしい安らぎ。
どうしてそれを、この子に感じているんだろう。昨日、初めて会ったばかりの相手なのに。
本当に、本当に何なんだろう。
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なぜ私は、このアラベラにここまでの安らぎを感じるのだろう。
妙に、警戒が緩んでいる気がする。彼女に、私の抱えている問題を仄めかしたことや、親戚への殺意を教えてしまいそうになったのは、あまりにも不用意だ。いくら、顔を変えて、身分を隠しているとはいえ――私は、ここまで迂闊な人間だったろうか?
原因は、おそらく共鳴にある。アラベラと私は、全く真逆の立場にありながら、何か通じ合うものがある。それが、私に親しみを感じさせ、彼女に心を開きたいという欲求となって顕れているのだ。
では、アラベラのどのような点に、私は感じ入っているのか?
この気持ちは――何となく、だが――懐かしさに近いような気がする。ずっと会っていなかった人と再会したような。
もちろん、私は過去にアラベラと会っていたことなどない。昨日が初対面だ。それなのに、なぜだろう、ごく近い肉親、つい甘えたくなる姉を思わせる何かを、彼女に感じる。
ずっと会っていなくて――もう二度と会えないと思っていた、優しい姉……。
馬鹿馬鹿しいと、自分でも思う。なぜなら、私に姉など、最初からいないからだ。
だから結局、このデジャブじみた感覚の正体はわからない。いくら考えても、漠然とした好意としか結論できない。
――でも、それでもいいのかも知れない。
人間の心の働きなど、そうそう簡単に解析できるものではないのだから。
アラベラといるのが、何となく好もしく思える。それで、いいのだ。
■
その日は、夕食を付き合っただけでリーゼロッテと別れた。
帰り際、二日後にまた、一緒に遊ぼうと約束した。
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トリステインに帰る予定を、また数日延ばすことにした。アラベラから、また誘いを受けたから。
彼女といるのは、嫌じゃない。明後日はどこに行こうかと考えながら、ベッドに入る。
――翌日、ヴェルサルデイル宮殿の花壇を暇つぶしに眺めていたら、イザベラに見つかって嫌みを言われた。すごく不愉快。
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リーゼロッテとの約束を楽しみにして、ウキウキした気分で宮殿の庭を散歩していたら、人形娘に出くわした。
リーゼを知った今では、こいつのことが前より気に食わなくなった。同じ無口チビでも、こいつの目の中には軽蔑があり、あいつの目の中には思いやりがある。その違いがはっきりわかってしまうのだ。
あたしはその目に耐えられず、無駄飯食ってないでさっさとトリステインに帰れと言ってやった。
あいつをトリステインに追い出したまま、二度と会わずに済むなら、どんなに気楽だろう。
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その日は、午前中からアラベラと会えた。
時間がたっぷりあるので、ふたりで馬を借りて、リュティス郊外の丘の向こうまで、遠乗りをすることにした。
大きめのバスケットに、お弁当をたくさん入れて持って行き、小川のほとりでお昼を食べた。とても穏やかなピクニックだった。
青空の下で、楽しそうに笑うアラベラの表情には、イザベラのような陰険さは少しもない。なぜ私は、最初に会った時、彼女はイザベラに似ているなどと思ったのだろう。
デザートの黒イチゴのタルトを食べ終えた時、アラベラは私の頬についた黒イチゴのクリームを、ナプキンで丁寧に拭いてくれた。
その優しさは嬉しかったが、やっぱり少し、恥ずかしい。
本当に、アラベラのことを、お姉ちゃんのように思い込んでしまうような気がして。
■
リーゼロッテがマジ可愛い。
昨日あのろくでなしのシャルロットに会ってたから、リーゼの可愛さがさらに引き立つ。ああもう、十五歳ってやっぱ嘘だろ、口の周り黒イチゴのクリームで真っ黒にしちまってからに。ほら、動くんじゃないよ、今拭いてやるから。……うんうん大人しくてよろしい。
王宮で、イザベラ王女としてシャルロットと向かい合う時間が、カビだらけの病んだ古木だとするなら、アラベラとしてリーゼと過ごすこの時間は、太陽に向かって健やかに伸びた若木ってところだね。天気もいいし、風も気持ちいいし、心がどんどん穏やかになっていくよ。
そのあと、丘の上から、見たこともないような夏の草原の広がりを、ふたりで馬の轡を並べて眺めた。
あたしの生きている世界そのものが、その草原のように、大きく広がったように思えた体験だった。
■
さらに翌日。やっぱりアラベラと、公営カジノで遊んだ。
かつては、ギルモアの闇カジノだった場所だが、今では国の管理下に入り、健全で公平な遊び場として生まれ変わっている。
ヴァイオラから預かった軍資金は百エキュー。それをアラベラと半分こして、プレイに興じる。
「おっしゃ、これだけありゃ相当遊べるね! リーゼ、どっちがいっぱい勝てるか、ひとつ勝負と行かないかい?」
「受けて立つ」
金貨袋を握りしめて、やる気を見せるアラベラに、私も負けずにファイティング・ポーズを取ってみせる。
「んじゃ、二時間後にバー・カウンターで、互いの儲けを見せ合おうじゃないか」
「了解。……負けない」
「あたしだって! 帰りには、この元手を膨らませた分で、コンキリエの奴にお土産を買ってやろうよ」
そうして、私たちは二手に別れた。別々のゲームでプレイした方が、相手の勝ち具合がわからなくて面白いからだ。
このカジノには、サイコロを使う数当て、ポーカーやサンクなどのカードゲーム、東方から伝来したマー・ジャンというゲームなど、様々なゲームがあった。私が得意なのはサイコロの数当てゲームだが、それだと百発百中になってしまう自信があるので(イカサマ? 違う。サイコロの転がる音に耳をすませば、誰でもできる)、今回はルーレットに挑戦してみることにした。
「お嬢様、どのマスに賭けられますか?」
ルーレット・テーブルに着くと、ディーラーがさっそく尋ねてきた。
前の任務の時と違って、今度は純粋に賭け事を楽しめる。となると、完全に運まかせで事に臨むのが、こういう遊びの醍醐味だろう。駆け引きやテクニックの要素を持ち込むことは、今は必要ない。
まず十エキューを取り出し、ディーラーに渡す。
「あなたに、運を呼び込んでもらう。好きなところに、置いて」
「いいんで?」
私は頷く。
「ようし、ではあえて、みんなが嫌がる数字といきましょう」
そう言ってディーラーが金貨を置いたのは、黒(ノワール)の十三。絞首台の階段の数に由来するこの数は、昔から縁起が悪いとされている。
それもいい。ギャンブルはそのくらい酔狂な真似をした方が、興が乗るというものだ。
ルーレットが回され、玉が放たれる。
回転を弱める盤と玉。玉が最後に落ちたのは――。
「お、お嬢様!」
ディーラーが興奮を抑えられない様子で叫んだ。
玉が落ちたのは、黒の十三!
私は心の中でガッツ・ポーズをきめ、配当金を受けとった。そして、それをそのまま、同じ黒の十三に置いた。
「次も、同じで」
今日の私は、ツイている予感がする。
少なくともアラベラには勝てる。そんな予感が、私を大胆にした。
■
ポーカー・テーブルに着いて一時間ほどした頃、リーゼロッテがしょんぼりした様子で近寄ってきた。
「ははあ、その様子じゃ、派手に負けたらしいね」
「……途中までは、いい線をいってた」
話を聞くと、ルーレットでなぜか黒の十三って数字に運命を感じて、そこに金を繰り返し突っ込んだらしい。
実際、それが彼女の、今日のラッキー・ナンバーだったんだろう。なんと、四回も連続でそのマスに、玉が止まったと言うのだから。
その時点で、儲けは二百エキューにまで達していた。しかし、運をあまり過信し過ぎたのが運の尽き。
元手も合わせて二百五十エキューを積んで、最後の大勝負に出たところで、赤(ルージュ)の八が、すべてをかっさらっていった。
「『あそこでやめときゃよかった、と思うのがギャンブルですよ、お嬢様』……って言われた」
「至言だねえ……ま、残念だが、そういうこともあるさ。
でも、気を落とすにゃまだ早いよ。あたしが勝って、あんたのスッた分もうまく補填してやるからね。そこで楽しみに待ってな」
「……勝っているの、ベラ?」
疑わしそうに聞いてくるリーゼに、あたしはフンと鼻を鳴らす。
「ギャンブルにはね、絶対負けない方法があるんだよ。今後のためにも、覚えときな。
いいかい、賭けの結果を単純化して、負ければゼロ、勝てば元手が倍になると考えるんだ。
一度負けたら、次も同じ掛け金で勝負に挑む。それで勝てば、倍の金が入るから、前の負けはチャラになるし、負けても、今度は二倍の掛け金で、次の勝負に挑めばいいんだ。それで勝てば、過去二回の負けを清算できる。
負けばかり連続するなんてことはあり得ないからね、このやり方を繰り返していけば、いつかは負けを取り返せるってことになるわけだ。
な、簡単だろ? 今さっきふと思いついた必勝法なんだ。だから、最終的にはしこたま儲けてみせるよ。今は二百エキューぐらい負けてるけど、この勝負では四百エキュー賭けてるから、勝ちさえすればまた仕切り直せる……!」
「ま、待って。ベラ、その賭け方、待って」
あん? どうしてそんな、泣きそうな目であたしのそでにしがみついてくるんだい?
手札にゃツーペアができてんだ、きっと勝ってみせるからさ、大船に乗ったつもりで待ってておくれよ!
■
何か知らんが、イザベラ様扮するミス・アラベラと、タバサ扮するミス・リーゼロッテが、ふたり揃って我のところに謝りに来た。
ふたりでカジノに行って、我が遊興費として与えた百エキューをスッたのみならず、六百エキューもの借金をこさえたらしい。
あはは、安心せい。我は金持ちじゃからの、それっくらいのはした金、笑って払ってやろうぞ。
……でも、うん。貴様ら二度とカジノに行くな。
■
その次にアラベラと会った時は、ヴァイオラからの資金提供が打ち切られてしまったので、お金のかからない獣狩りに行った。
森の中で、鹿や猪を魔法で撃って捕まえるスポーツだ。私はウィンディ・アイシクルなどの射撃系の魔法を得意とするが、木々の間をすばしこく動き回る獲物は、なかなか狙いにくくて苦戦した。
でも、意外なことに、魔法が苦手と言っていたアラベラが、うまく私をサポートしてくれた。彼女の放つ水の鞭は、鹿を捕まえるほどの威力はなかったけれど、鹿の進行方向の地面を叩いて、大きな音を立てて脅かし、私が狙いやすい場所に獲物を誘導してくれた。
ふたりで協力して、何とか大きな牡鹿を一頭捕まえることができたので、それを川辺で解体して、ヨシェナヴェ風に煮込んでみた。シエスタの料理の見よう見真似だけれど、それなりに美味しくできたと思う。
食事を終えた頃には、陽はすっかり沈んでしまっていた。
鍋を炊いた火を前に、ふたりで寄り添って星を見た。ダイヤモンドをばらまいたような、美しい天の川が、頭上いっぱいに広がっている。夢のような時間だった。
「……何だか、帰りたくないなぁ」
アラベラがぽつりと呟いたその言葉が、妙に印象的だった。
■
あたしの嫌いな魔法が、たぶん生まれて初めて役に立った。
相変わらず弱っちい威力の水の鞭。たとえばこれが戦場なら、革の鎧を着た農民兵にすら通用しないだろう。強靭な森の獣相手なら、言うに及ばず、だ。
しかし、無理に獲物を捕まえようとせずに、リーゼロッテのサポートに回ったのが正解だった。魔法でできた水の鞭は、入り組んだ木々の間を縫って動かすことができたから、走る鹿をリーゼの方へ追い立てるぐらいのことは充分にできた。逃げ場を失った鹿を、リーゼのウィンディ・アイシクルが一撃で仕留め、あたしたちはその日の夕食を手に入れることに成功した。テンションが上がり過ぎて、ついつい鹿の角を握って、森中に響くような大声で、「捕ったぞー!」と叫んでしまったが、後悔はしてないよ。
リーゼは、そんなあたしを見て肩をすくめてた。
「まあ、確かに大喜びしてもいいくらい、立派な獲物」って呟いてたのが聞こえたけど、あたしが嬉しかったのは、大きな獲物を捕まえられたことじゃなかったんだよ?
むしろ、鹿が倒れた時、リーゼがあたしの方を向いて、「ナイス・フォロー」って言ってくれたことに、有頂天になってた。しかも、親指をグッと立ててみせるゼスチュア付きだ。
魔法を使って、こんなに普通に誉めてもらえたのは、何年ぶりだろうか。王族なのにあの程度かと影で馬鹿にされ続けて、誰にも認めてもらえなくて、そんな人生の中でやっと言ってもらえた、誉め言葉。
嬉しくて、嬉し過ぎて、無理に大はしゃぎしてなきゃ、目から涙がこぼれそうだったよ。
喜びの余韻に浸りながら、リーゼの作ってくれた鍋を一緒につついた。最近、メシがすごく美味い。気の合う友達と食事をすると、味の感じ方まで違ってくるものらしい。
お腹が膨れると、ふたりで並んで星を見た。肩と肩とを触れ合わせて、お互いに寄り掛かるようにして。
静かで、幸せな時間が流れる。この広い世界に、まるであたしたちだけしかいないみたい。
「あ。……流れ星」
不意に、東の空からリュティスの方角に向かって、オレンジ色の光が横切っていった。
「綺麗」
と、リーゼロッテが呟く。
全く同感だった。
■
イザベラ姫とタバサが、そうだ樹海に行こうと言って出かけていった日の夕方頃。王宮の端の医務室では、寝ぼすけがようやくおはようございますしよった。
シザーリアが目を覚ましたと、アニーから知らせられた我は、あんまり急いで駆け付けても主人としての威厳が損なわれると思うたので、けっして走らず悠然として、奴の病室を訪ねてやった。
途中で、庭に寄り道をして、花壇を鑑賞するぐらいの余裕すらあったほどじゃ。やはりあれじゃな、怪我した部下の快気などという瑣事に、いちいちかまっておっては、とても大物とは言えんからな。さらりと、何でもないように済ませてしまおう。さらりと。……ところでアニーよ、さっき庭で庭師さんに譲ってもらったお花は、ちゃんと束ねてラッピングしてくれたじゃろな? あ、こんな雑な仕上げじゃいかんぞ! ちょうどここにシルクのオシャレなリボンがあるから、これでまとめ直せ! バラはシザーリアも好きな花のはずじゃから、目立つように手前に配置するんじゃぞ。それから……。
などと細々した指示を出しておる間に、我はシザーリアの寝とる部屋についてしもうた。
ノックなどという無粋なものははぶいて、勝手に中に入ると、我の慣れ親しんだシザーリアは、ベッドの中で、上半身だけを起こした状態で、我を迎えた。
以前より、顔色が青白くなっとる気がする。少し頬が痩せたか? でも、白い病衣の胸元を内側から押し上げる二つのメロンは健在じゃった。少しぐらいしぼめばいいものを。ぐぬぬ。
扉の開いたのに気付いたシザーリアは、金色の長い髪を揺らして振り向く。灰色の目がこちらを見つめ、こやつらしい控えめな角度で、そっと頭を下げた。
「……ご無事でしたようで何よりです、ヴァイオラ様」
「うむ」
我は短く、威厳たっぷりに頷く。そして、それ以外何も言わぬ。
すると、シザーリアの方から、言葉を続けた。
「このたびは、まことに申し訳ありませんでした。私が未熟なばかりに、ご迷惑をおかけして……」
「まったくじゃの。ミス・タバサがおったから、どうにか切り抜けられたが、そうでなければどうなっていたやら。
父様から我の護衛を任されたぐらいじゃから、あれぐらいの危機は、お前ひとりで軽くあしらってもらえると思っとったんじゃが」
我の冷たい叱責に、シザーリアはつらそうにうつむく。根が真面目なコイツに、こういう言い方をするのは少々心が痛むが、雇用者としてはこの機会に、護衛としてもうちょい上を目指してもらいたい。じゃから、あえて生ぬるく慰めたりせず、悔しさを刺激する態度を取ることにした。
「精進せい。今後も、我の下で働きたいのであれば、の」
「……必ず」
お腹の上にかけてある毛布を、引き裂かんばかりに固く握りしめて、シザーリアは搾り出すような声で応えた。
シザーリアは十七歳と、まだ若い。悔しかろうが、それをバネにして立ち上がるだけの気力は充分にあるはずじゃ。
それを踏まえると、今のうちに挫折を経験したのは、案外悪いことじゃなかったのかも知れん。失敗を学べば、次はもっと用心深くなるからの。用心深さは、護衛には必須のものじゃ。
……しかし、何つーか、落ち込む姿も妙に艶っぽいのぅコイツ。その色気を九十九パーセントでいいから我によこせ。
「……ま、今はしっかり休んで、出来るだけ早く仕事に復帰できるようにするのじゃぞ。お前がおらんと、どうも不便でならん」
ある程度責めたあとは、ほんのちょっとの優しさと、『我はお前を必要としておる』アピールをさりげなく入れてフォロー。これで大抵の部下はやる気を出す。
持ってきた花束を、アニーに命じて窓際の花瓶に活けさせ、「また来る」と言うて、渋く部屋を出た。背中に、シザーリアの弱々しい視線を感じながら。
廊下に出て、扉が中と外とを隔ててようやく、我は自らに課していた緊張を解いて、ぷへぇと息を吐いた。
「――あーよかった! 思ったよか元気そうじゃったな、あいつ」
衰弱は大したことなさそうじゃし、お肌も傷痕ひとつなかった。あれなら、もう何日もせずに本調子に戻るじゃろう。
アニーもにっこり笑って頷く。田舎っぽい、歯を見せて笑う笑い方じゃが、これはこれで、人によっちゃ魅力的に映るかも知れん。コイツはメイドとしては未熟で、感情を隠し切れずにしょっちゅう顔に出しよるが、彼女のように、素直に「よかったですねぇ」と表情で語れる女こそ、今この瞬間に我のそばにいるに相応しい。
とりあえずシザーリアが無事に目を覚ましたのは、めでたいことじゃから、今日のディナーにはいつもより奮発したワインを出してもらおう。我は来賓じゃからして、ちょっとぐらいならわがままを言うても許されような?
明日からはどうするか――ガリアに来て、もう一週間以上経つからのう……まあ、シザーリアの調子が戻るのを、二、三日ほど待ってみるとして――。
それから、いい加減にロマリアに帰ることにするか。
■
ぱたりと扉が閉まり、ヴァイオラ様の小さなお姿が見えなくなると同時に、私は小さなため息をついておりました。
――叱られた。
このシザーリア・パッケリが生きてきた、十七年という人生の中で、最も悔しい時間こそ、先ほどの数分間でした。
それなりに自信を持っていたのですが――火のスクウェアで、戦闘経験も少なくなく――百人や二百人程度の賊に襲われたとて、楽に返り討てる実力を、自惚れでなく持っていて――ヴァイオラ様を守り抜くという目標を、達成できて当然のものであると思っておりました。
その結果、見事に私は負けました。
音を消し、メイジから魔法を奪う、あの奇妙な魔法を使う暗殺者――奴の放つ無粋な矢に、冷たく孤独な、氷のような殺意に、私はねじ伏せられたのです。
私の持つ実力は、彼を倒すには足りなかった。そしておそらく、彼はこの世の中で、私より強い唯一無二の人間ではないのです。
――努力しなければ。
まだまだ強くならなくては。どんな敵が現れても、どのような苦境に置かれても、ヴァイオラ様をお守りできるメイドにならなくては。
ベッドの横に据え付けられた小さなテーブルの上に、フルーツの盛られたバスケットや水差しと並んで、私の杖が置いてあります。金属製の、細く短い飾り気のないワンド。五歳の時に、父から贈られて以来、ずっと使い続けているこの相棒を手に取り、目を閉じて始祖に祈りました。
どうぞ、お見守り下さい。私が強くなるために行う、すべてのことを。
行為に対し、結果がもたらされますように。心くじけ、努力を怠った時には、過酷な試練を下さいますよう。
祈りを終え、目を開けると、杖を置き、代わりに水差しとコップを取りました。
何日も眠っていたせいか、どうも喉が渇きやすくなっていたのです。コップに水を注ぎ、口に近付けようとした、その時……。
「――ふぅん、思ったより元気そうだな。もうちょいぐったりしてるかなって思ってたんだが」
耳に飛び込んできたその声に、私は思わずコップを取り落としそうになりました。
ほとんど反射的に杖を取り、声のした方に振り向きます。音源は、驚くほど近くでした――私のベッドのすぐ横。窓のそば。
ひとりの男性が、壁にもたれ掛かるようにして、そこに立っていました。
金色の長い髪を、背中でみつあみにした、二十歳ぐらいの青年です。彫りが深く、灰色の目はぱっちりとしていて、男ぶりは悪くありません。真っ白でパリッとした清潔感のあるシャツや、体のラインに合った、長い脚を強調して見せるズボンも似合っていて、お洒落にかなり気を使うタイプだということがうかがえます。
フルーツ・バスケットから取ったらしいリンゴをかじりながら、彼は私に向かって、呑気に片手を上げてみせました。挨拶のつもりでしょうか。しかし、私はそれで気を緩めたりはしません。
その理由の第一は、彼がいつ、どこから、どうやってこの部屋を訪ねてきたのか、まったくわからないからです。
ヴァイオラ様がお帰りになられてから、この部屋には私ひとりしかいなかったはずです。誰も、それからは出入りしていません。扉や窓が開けばすぐわかりますし、人の隠れられるスペースもありません。それなのに、彼はいつの間にやら侵入して、こうして私の目の前にいるのです。
ゆえに、彼の存在は不思議で不審ですが、それ以上に、彼を警戒しなければならない理由を、私は持っていました。
第二の理由――私は、彼が警戒しなければならない人間だと、昔から知識として知っていたのです。
「……どうして、あなたがここにいるのですか?」
私は、猛獣が敵を威嚇する時の唸りのように、低く抑えた声で、彼に尋ねました。
彼はリンゴから口を離して、小さく首を傾げながら、屈託なく答えます。
「どうしてって、そこの扉から普通に入ってきたんだが。……しっかしこのリンゴ美味いな。さすがはガリア王宮、医務室にも高級品を置いてやがる」
「そういうことを聞いているのではありません。
なぜ、セバスティアン様と一緒に東方に行ったはずのあなたが、このガリアにいるのですか?
答えなさい、シザーリオ」
名前を呼び、私はさらに強く彼に問い掛けました。
そう。私は、彼のことを生まれた時から知っています。
シザーリオ・パッケリ。水のスクウェアメイジで、二つ名は『水瓶』。セバスティアン・コンキリエ様に見出だされた、精鋭警護集団『スイス・ガード』の一員。出身はロマリア、アクレイリア。パッケリ家の次男で――この私、シザーリア・パッケリの、実の兄なのです。
「なぜ、って……まあ、話して困るこっちゃないから、答えてもいいけどさ」
シャクシャクとリンゴをかじり尽くし、芯までも飲み込んで(!)、彼は言いました。
「セバスティアン様が、一足先に帰って、ヴァイオラお嬢様に知らせてこいって言うからさ。ルーデルの旦那に……お前も知ってるだろ? 風のスペシャリスト、『轟天』のフォン・ルーデルに、東方からここまで運んでもらったのさ。あの飛行速度は正直ビビるね、スペルをどんなに説明してもらっても、どうすりゃ数千リーグを一時間で突っ切れるのか、まったく理解できやしない」
やってられない、とばかりに、肩をすくめるシザーリオ。そのおどけた様子には、少しの害意も感じませんが、私はそれでも気を緩めません。
「一足先に帰って……ヴァイオラ様に知らせる……? ということは、セバスティアン様たちは、もうすぐお帰りになられる、ということですか?」
「だからそう言ってるじゃん。まあ、あの人たちは、一月ぐらいかけて、ゆっくりサハラを横断してくるつもりらしいがね。
お嬢様にゃ、『盛大な出迎えを頼む』って伝言をするように言われてる。この伝言、お前からお嬢様に伝えてもらっていいか? オイラはちょっと、他のところにも回らなくちゃいけなくってさ、忙しいんだわ」
「それは……別に、かまいませんが……」
ごく平和的な、何の不自然もない話。しかし、それでも、私は彼をすぐに解放する気にはなりませんでした。
こちらの疑念が、いつまでも消えないのを察したのか、シザーリオは腰を曲げて、私の目を覗き込むようにして聞いてきます。
「んー? どうかしたのか、リア? どうして、そういつまでもピリピリしてんだ?
そりゃまあ、いきなり入ってきてビックリさせたのは悪かったけどさ、兄妹だろ? もーちょい打ち解けてくれてもいいんじゃねぇ?」
「あなたの……リオの内心が、いつも態度と一致するぐらい単純なら、そうしていましたよ。
でも、私はあなたを知っていますから。私の知っているリオは、今みたいに愛想よくしている時はね、大抵何か隠し事をしているんです。
忘れたわけではないでしょう? あなたが、セバスティアン様に雇われるまで、アクレイリアで何をしていたか」
「……………………」
「それにね、そんな簡単な伝言だけなら、ミスタ・ルーデルひとりだけで事足りるでしょう? あなたがわざわざついて来る意味が、私にはわからない」
「……複雑に考え過ぎだよ、リア」
小さく首を振って、皮肉げにリオは笑いました。
「オイラが来たのは、リアが怪我をしたって、セバスティアン様に教えてもらったからさ。そんなこと聞いたら、居ても立ってもいられないだろ? ルーデルの旦那が受けた任務に同行させてもらって、お見舞いに来たのさ。これでスジは通るだろ?」
「ええ。その語り口が、よけい言いわけ臭くはなりましたけれどね」
間違いありません。彼は、何かを隠しています。
それは、嘘をついている、という意味ではありません。セバスティアン様の指示で、ミスタ・ルーデルに運んでもらったというのは本当でしょう。私の見舞いに来てくれた、というのも、きっと本当。どうやって、東方にいるセバスティアン様が、私の怪我を知ったのか、なんてことは聞きません。あの方のことですから、私の理解を越えた方法で、ハルケギニアの情報を得るくらいはやってのけそうですから。
でも、それ以外で――きっと何か、私に言えない何かを、リオは隠しています。
そして、その何かが、ひどく不吉なものではないかという予感を、私は拭えません。
セバスティアン様は、いつだって部下に対して、その人に合った仕事をお任せになります。ちゃんと、誰が何を得意としているか、見抜いておられるのです。
当然、リオに向いている仕事が何かも、ご存知でしょう。私も、リオがどんな仕事なら喜々として引き受けるか、家族としての経験で知っています。
もし、私がセバスティアン様ならば――リオに、何か仕事を任せるとしたら――それは「戦場に行け」だとか、「誰々を殺してこい」とかいう種類のものでしか、あり得ないのです。
リオの帰還の目的が、単なる伝言のお使いと、私のお見舞いだけならば、まったく問題はありません。ですが、私の予感通り、彼がそれ以外の任務を帯びていたら?
その場合は、間違いなく、ハルケギニアのどこかで血生臭いことが起きます。セバスティアン様は、部下にそういう命令をしないお方というわけではありませんし、リオはそういう命令を嫌がるどころか喜ぶタイプの人間です。私は、それを知っているのです。
……止めるべきか?
これから彼がしようとしている何かを、やめなさいと諭して、東方にとんぼ返りしてもらうことができるでしょうか? 非常に困難です。彼は、何も認めていないのですから。
では、もう追求するのを諦めて、彼の好きなようにやらせるか?
実を言うと、個人的にはこれを採用したいところでした。何らかの目的で、セバスティアン様が誰かを処分することは、何も前例のないことではなく、その結果は、すべてコンキリエ家にとっての利益となって返ってきたはずです。つまり、セバスティアン様のお考えであるなら、血が流れても、まあ悪いようにはならないのです。
しかし、ひとつ問題がありました。それは、リオが私の知らないうちに、この部屋に入ってきてしまったということです。
「リオ……ひとつ聞きますが、あなたは門番さんや警備の人の許可を得て、この宮殿に入ってきたのですか?」
「いや? こっそり忍び込んできた」
だろうと思いました。
どういう方法かはわかりませんが、私に気付かれずにこの部屋に入り込めるのなら、そもそもヴェルサルテイル宮殿そのものにも、警備の目を盗んで入ってきた可能性もあるはずです。
そして、彼は正規の手続きを取らずに、潜入という形でここに来ていることを認めました。
来賓の従者である私の兄だと名乗り、ヴァイオラ様にでも身元を保証してもらえば、面会はたやすく叶ったでしょうに……その程度の手間を惜しみ、誰にも見られずにここまで侵入するという手間をかけるからには、それなりの理由が要ります。それはいったい?
おそらくリオは、王宮の人たちに自分の姿を見せたくないのでしょう。
遠からず、この宮殿内で変事が起きた時、容疑者として数えられないように。
自信があります。十中八九、彼はこのヴェルサルテイル宮殿の中で、何かをやらかすつもりなのです。
リオの実力を、私は知っています。何をするにせよ、それは成功するでしょう。そして、間違いなく大きな混乱が生まれるでしょう――それは望ましくありません。他の時ならともかく、今はヴァイオラ様が滞在しておられるのです。もし騒動に巻き込まれるようなことになれば、どんな結果になるかわかりません。
どうすれば、そのような不都合が起きるのを防げるでしょうか。
ひとつ。誰にも見られないうちに、リオを始末する。
ふたつ。誰にも見られないうちに、リオに重傷を負わせて追い返す。
みっつ。誰にも見られないうちに、リオを気絶させて縛り上げ、ヴァイオラ様が宮殿を出られる日まで、どこかに監禁しておく。
私の取れる行動は、だいたいこれくらいでしょう。ぶっちゃけリオ相手なら、そんな強行手段を採用しても、全然良心は痛みません。
……しかし、私にそれを実行することができるかどうかは、また別問題です。
精神的な理由でなく、実力的な理由で。
仮にも彼は『スイス・ガード』。セバスティアン様に選ばれた、烈風級とすら噂される連中の末席に名を連ねているのです。その戦闘能力は、そこら辺の貴族や傭兵とは、比べものにならないはずです。
病み上がりの私が、そんなリオを行動不能にできるでしょうか?
いえ、疑問に思ってはなりません。やらなければならないのです。
ヴァイオラ様の身に降りかかる火の粉は、払われなければならない。ヴァイオラ様にとって危険である可能性がある以上、リオを排除するのは私の役目です。
「なあリア、リンゴもう一個もらっていい? 東方にも、こんな美味いフルーツはなかなかなかったからさぁ」
私は上半身をひねり、テーブルの上の杖を掴むと、鈍い金属光沢を放つその先端を、呑気なことを言っているリオの顔に向けました。
あとは、スペルを唱えるだけ。小さめのファイアー・ボール一発でいいのです。この至近距離で、口や鼻などの呼吸口から肺に火炎を叩き込まれれば、いかに優れたメイジとて、即再起不能です。
十分の一秒で、ことは済みます。ファイアー……!
「――やめときなって、リア」
哀れむような、リオの呟き。
それと同時に、ばちり、と、視界の端でライム色の光がはじけたかと思うと、次の瞬間には、信じられないことが起きていました。
あれだけしっかりと握っていた杖が、その重みと冷たさを肌で感じていたはずの杖が、いつの間にやら、手の中から消え失せていたのです。
どこへ行ったのか、慌てて周りを見回しますが、どこにも見当たりません。
――ばちり。
――ばちり。ばちり。
竹を割るような、熱した鍋に水滴を垂らすような、短く刺激的な音が、どこかで鳴っています。ふと、視線をリオの方に戻すと、音源が彼の周りにあることに気付きました。
ばちり。ばちり。ばちり。と――ライム色の、毛糸の切れ端のように小さな稲妻が――リオの周辺を取り巻くように、生じてははじけてを繰り返しているのです。まるで、彼自身が帯電した雨雲になったかのように。
そして、そんな異様な状態にある彼の手には、彼自身の杖――ぶ厚く重そうな、片刃の短剣――があり、それだけでなく、私のワンドまで一緒に握られているではありませんか。
いったい、いつの間に奪われたのでしょう? 私は一瞬たりとも、自分の杖から意識を逸らしませんでしたし、リオも近付いてきた気配などなかったのに?
彼は私の狼狽を見抜くように、目を細めて、こちらを睨みつけました。
「無駄なことをするのは馬鹿だぜ、リア。おまえは昔から、オイラよか頭がよかったからわかるだろ? 無駄な戦いを――勝てない戦いを挑むのは、賢いことじゃねえ……」
――ばち、ばち、ばちばちばち。
稲光の輝きが増し、ライム色の雷球が、まるで手旗信号のように、複雑に明滅します。その向こうから、リオは無機質な声で語りかけてくるのです。
「もう何年も前にスクウェアに到達して……それからもセバスティアン様の下で経験を詰んできたオイラを相手に……スクウェアになりたてのひよっこでしかないお前が、杖を向けるのか?
おい、リア……勝負になると思ってんのかい……? まさか、勝てるかもなんて、ふざけたことは思っちゃいねえよな……?」
低く、脅すようなその声は、目の前にいる男を、ひと回りもふた回りも大きく感じさせました。
これが、貫禄の違いというものでしょう。桁違いの威圧感――実力を伴う自信を持つ者だけが発せる、重い波動が、私を上から押さえつけていました。
私はリオを、侮り過ぎていたようです。彼は東方に行っていた間に、さらに力をつけている――感じたことを率直に表現するならば――まるで、重く堅い、私の力ではびくともしない岩の扉です。
「……お前にゃ、オイラをどうにかすることはできないさ。たぶん、誰にもどうにもできない。
だが、安心しろよ……うまくやるから……お前にも、お嬢様にも、迷惑はかけねえようにやるからさ……だから、ここでゆっくり、何も考えずに休んでろよ……わかったな?」
ばぢばぢばぢばぢと、雷光の轟きは勢いを増し続け、それと反比例して、リオの姿は、霧に包まれるようにぼんやりとし始め――。
ついには、彼の虎のような鋭い眼差しだけが残り――それすらも、最後の稲妻の閃光とともに消え失せ――。
――ふと気がつくと、私は独りきりで部屋にいました。
窓の横には、誰もいません。私の杖も、テーブルの上にちゃんと乗っています。
ただ、服の中にびっしょりと汗をかいており、まるで悪い夢を見て、飛び起きた瞬間のような気分でした。
では、あれは夢だったのでしょうか? リオは相変わらず東方におり、このヴェルサルテイル宮殿では、何の騒動も起きないのでしょうか?
そう思いたいところではありますが、残念ながら、そうではないようです。その証拠に――フルーツ・バスケットの中から、リンゴがひとつ残らずなくなっているのですから。
私は、諦めの気持ちとともに体から力を抜くと、ベッドから出て、ふらつく足で床に立ちました。
私には、リオをどうにもできない。それは、不愉快なことですが、彼の言う通りです。
足元もおぼつかないようでは、戦いなど問題外。今回ばかりは、何もせずに休んでいるしか、できることはありません。先ほど聞いた――ヴァイオラ様にご迷惑をかけないという、彼の言葉を信用するしか、仕方がないのです。
しかし、いつまでもそんなことを許しておける私ではありません。
修業を積み、さらに強くなって、リオに『ひよっこ』などと言わせないぐらいになって――彼を倒し、今日の屈辱を晴らしてみせます。
ヴァイオラ様がお見えになったあとで、固く誓った『強くなる』という思い。
漠然とした目標でしたが、今、思いがけず、さしあたり到達すべき、具体的な目標が設定できました。
(リオ……近いうちに、必ずあなたを叩きのめしてみせます。
果てしない強さへの道程の、第一歩目にしてくれましょう……覚悟なさい)
私は、心の中でそう呟くと、世話係のメイドを呼ぶために、扉の方に向かいました。
まずは、汗だらけになった病衣を着替えないことには、ゆっくり休むこともできませんから。
■
「――それでさ、リーゼとふたりで取った鹿肉の残りを、街の肉屋に売って、ツノと毛皮込みで一エキュー三スウを儲けたんだ。そのお金で、おそろいのハンカチを買ったんだよ。ほらこれ! 安物だけど、デザインは悪くないだろ?」
コットン生地に、百合の花束を模様をあしらったハンカチを我に見せびらかしながら、イザベラ様は上機嫌でワインをきこしめしておられた。
このデコが帰ってきたんは、ついさっきのこと。シザーリアの見舞いを終えて部屋に戻ると、彼女がいて、寝酒に付き合えと言うてきた。
まあ、我もシザーリアの回復を祝って、ちと飲みたかった気分じゃったし、ふたりでテーブルを挟んで、ボルドーの赤の四十年もので乾杯をすることにしたのじゃ。
もちろん、アニーは下がらせた。最近ずいぶんと笑顔の増えたこの姫様は、我とだべる時は、だいたいリーゼロッテの話に終始するからじゃ。
今日も、とっても嬉しそうに「リーゼがね、」「リーゼが言うには、」「リーゼったら」「ああ、可愛いリーゼ」とまあ、ちと胸やけするようなとろけたことばっか、つらつらと飽きもせずおっしゃる。それに笑顔で付きおうてやる我って、ハルケギニアいち心の広い人間ではあるまいか。
「リーゼロッテとのご休養を、存分に満喫されておられるようですな、殿下」
「ああ。まったく、友達と遊べるってことが、こんなに楽しいなんて、思ってもみなかったよ。
ここ最近、すごく肩が軽いし、寝付きもいいんだ。きっと、ストレスがうまく処理されてるからだろうね――こんな日々を送れるきっかけをくれたあんたにゃ、本当に感謝してるよ」
朗らかに言うイザベラ様。よしよし、すっかりリーゼロッテというお友達に依存しておるな。それが強い酒みたいなもんとも知らずに。
もはやコイツは、リーゼロッテなしでは生きていけん体に改造されてしまっておる。もし今、彼女からリーゼロッテを取り上げたら、そりゃもう悲惨なことになるじゃろう。ストレスのない暮らしを知ってしまったあとの、ストレス解消ができない暮らしは、ずっとストレス漬けで通してきた暮らしより、落差がある分キツい。
そして、イザベラ様は馬鹿ではないから、そのこともよーくおわかりになるじゃろう。リーゼロッテという癒しを、自分のそばに留めておくためなら、何だってするに違いない。
そういう中毒者心理こそ、この尊いガリア王女様を、我が傀儡にする大計画の要なのじゃ。
もう、充分アメはやったからの。そろそろムチをくれてやって、お互いの立場を我の良いように作り替えてやろう。
理想は、「コンキリエ枢機卿の言うことを聞いてれば、ステキな人生がもらえる。でも、少しでも逆らえば、地獄が待っている」と、姫様が自分で思い込んでくれることじゃ。リーゼロッテを盾に、直接脅すような真似はしてはならぬ――ここからが計画の大詰めじゃ、抜かるなよ我!
「……そういえばですな、我の方も、今日はいいことがありましたぞ。ほら、怪我をして寝込んどった、我のメイドがおったでしょう。シザーリアというのですが、あれが、ようやく目を覚ましましてな」
「へえ? ずいぶん長くかかったね……でも、よかったじゃないか」
「ええ、我もホッといたしました。シザーリアのことは、ずっとやきもきしておりましたんでな。
しかしそれも、ようやくひと段落です。ここ数日で、用事も全部片付いておりますし、これでようやくロマリアに帰れます」
我がそう言うと、イザベラ様の表情がわずかに強張った。
「……そ、そっか。そういやそうだね。あんた、旅行でこっちに来てたってだけだもんね。
ずっといるから、すっかり忘れてた。このプチ・トロワに住み着いてる、妖精かなんかみたいに思いかけてたよ」
「むふふ、面白いことをおっしゃいますな。まあ、ここの居心地は実に良いものでしたから、我としても住み着くことに魅力は感じておりましたが。
しかし、向こうに仕事も残してきておりますから……さよう、二、三日中には、おいとますることになるかと思います」
「そう……寂しくなるね」
しんみりと呟き、グラスを傾けるイザベラ様。しかし、その一杯を飲み干す前に、ふと気付いたように、グラスを置いた。
「なあ、そうすると、あんたが帰っちまったあとは、どうやってリーゼロッテに連絡をつければいいんだい?
今まで、ずっとあんた経由で、あの子と待ち合わせの相談をしてたからさ。あんたがいなくなったら、もう連絡の取りようがないんだけど。
……もちろん、帰る前に、あの子の住所なり、家名なり、ちゃんと教えていってくれるんだろうね?」
「あー……そうですなあ」
我は中空に視線をさ迷わせながら、何でもない風に言った。
「我の口から、そういうことをお教えするのは、ちとご勘弁願いましょう。
その代わり、次にガリアを訪れた時は、また仲介をさせて頂きますぞよ」
「なっ……!」
ガタン、と椅子を鳴らして、イザベラ様は立ち上がった。
「ど、どういうことだい!? 別にいいじゃないか、あんたを間に挟まずに、あの子とやり取りしたって! 隠し立てしなきゃならない理由が、何かあるのかい?」
「……一言で申しますと、殿下。あなた様は、ストレス解消を楽しみ過ぎたのですよ」
詰め寄ってくるイザベラ様の剣幕を、柳のように受け流し、我は淡々と語った。
「ここ数日、あなた様は毎日のように宮殿から出て、遊び回っておられる。今は我が、やれ説教会にご招待だ、晩餐にご招待だとアリバイを作って差し上げておりますので、だれも不審に思っておりませぬが、我がおりません時に、あなた様はどういう口実で宮殿をお抜けになります?
仮にうまい言いわけを思いつかれたとしても、ここ数日のご様子では、その言いわけが通用する限り、毎日でもあなた様は遊びに出られるでしょう。その場合、公務はどうされます? 遊びの時間が増えれば増えるほど、お仕事には支障が出るのですぞ。そのバランスを、ご自分で管理できますかな?」
「そ、それくらい、できるに決まって……」
「これから先、それができるようなら、今までだって、もっと慎まれておられたはずだと、我は愚考いたしますな」
ぴしゃりと言い切る我。うろたえ、後ずさるイザベラ様。
彼女の表情を見て、心の中でほくそ笑む。我は、完全にこのデコの心理を掌握することに成功しとった。
「イザベラ様、休暇というのは、たまにあるからリフレッシュになるのでございますぞ。毎日が虚無の曜日だったら、人間は駄目になります。
我も手が空いたら、ガリアに旅行に来させて頂きますゆえ……まずは、リーゼロッテといつか再会できることを楽しみにして、日常を頑張って生きることを考えてみて下され」
「そ、そんなぁ……」
ここまで言うと、イザベラ様は、泣き出す直前の目になってしまわれた。
尊大な奴が半泣きになると、妙に胸がキュンキュンするのう。何つーか、心の奥のサディスティックな部分が刺激されるというか。もっといじめてやりたいわいうえへへへ。
もう一歩、もう一歩踏み込めば、コイツはリーゼロッテを求めて、我のいいなりになる。
もう一歩――さらに追い詰めてくれる、覚悟せい!
■
あたしは、コンキリエ枢機卿の言葉に、怖れおののいていた。
コイツがガリアを訪ねてきた時にしか、リーゼと会えないなんて――そんなの、つら過ぎる。
せっかく手に入れた心の安らぎ。あたしの生きがい。それが、長い間あたしと切り離されてしまう。こんな、こんな理不尽なことが、あっていいのか。
いや、自分でもわかっている。コンキリエの言っていることは、理不尽なんかじゃない。間違っちゃいないし、あたしのことを考えてくれたからこその提案だ。この小憎らしいチビは、ちっとも悪くない。
確かに、休日は働く日より少ないから、輝かしいものなんだろう。遊んでばかりの人間がろくなもんにならないってのも、納得できる。
リーゼロッテは、あたしには休養そのものだ。あたしが仕事をほったらかして、休養にばかりしがみつく人間にならないように、接触を制限しようというコンキリエの提案はわかる。
だけど、リーゼはあたしにとって、安らぎでもあるけど、友達でもあるんだ。
ずっとボッチだったあたしはよく知らないけど、友達って、好きな時に会って、話をして、楽しんで、お互いを励まして、成長し合うもんだろう?
だったら、会って話をするくらいはいいんじゃないのか?
「た、頼むよコンキリエ。仕事をおろそかにしたりしない。抜け出して遊びに行くのも、週一回にする。
だから、リーゼロッテと連絡を絶たせるようなことをしないでおくれ。お茶の時間に、少しだけ会って話をするだけでも、あたしは元気をもらえるんだ。
ね、お願いだ、考え直してくれ……あの子は、あたしの初めての、本当の友達なんだよ……」
そんな必死の懇願に、コンキリエは首を横に振った――まるで、あざ笑うかのような、薄笑いを浮かべて。
「夢でございますよ、イザベラ様。その気持ちは、うたかたの夢。
我だけがあなた様に提供できる、はかないエンターテイメント。その事実を、まずはご理解頂きたい」
「ば、馬鹿なことを言うんじゃないよ。この気持ちは夢でも幻でもない! リーゼは、あたしの本当の友達だ!」
「そうですかな? 我にはそうは思えませぬ。なぜなら――」
コンキリエは、テーブルの上に置いてあったあるものを指差した。
それは、あたしがこの部屋に帰ってきた時、首から外したネックレスだった――リーゼロッテと会う時は、欠かさず身に着けているもの、フェイス・チェンジのネックレスだ。
その石と鎖の光沢に視線が吸い寄せられた時、コンキリエは冷たく、こう言ったのだ。
「イザベラ殿下。あなた様は、リーゼロッテに対し、一度も本当の顔と名前で接していないではありませんか」
その指摘に、あたしは頬を叩かれたような気持ちになった。
そうだ。リーゼロッテと友達なのは、イザベラじゃない。アラベラという、幻の存在なのだ。
あたしは、あの子にずっと隠し事をしてきた。あたしの真実を、まったく教えずに過ごしてきた。
こんなのが、本当の友達と言えるだろうか? 顔も見せない、名前も知らせない。それで、相手との間に、信頼など築けるのか?
そんなわけがない。
あたしはずっと、リーゼロッテの好意を裏切り続けていたのだ。
絶望にうつむいたあたしに、コンキリエは慰めるように、優しい声をかけた。
「お気落としのなきよう。なぁに、今まで心を開けてなかったとしても、これから本当の友情を育んでいけばいいではないですか。未来は常に、行動する者に開けるのですから」
そうだ。その通りだ。
あたしは、リーゼロッテと本当の友達になりたい。そのためには、どうすればいいか? どう行動すればいいか?
「だから殿下、リーゼロッテとまた会いたければ、我とのつながりを断たぬようにして、お互いにいろいろと便宜をはかって社会的に癒着してですな――」
「コンキリエ。あんたに頼みがある」
何か言いかけていたコンキリエを制し、あたしは言葉を挟む。
「リーゼロッテを、この部屋に呼んでおくれ……今すぐに、だよ」
その3に続くーのじゃー。