■
――ばち。ばち。ばち。
毛糸屑のように細かい、ライム色の稲妻を体中にまとって、シザーリオ・パッケリは、ヴェルサルテイル宮殿の廊下に立っていた。
彼の視線の先にあるのは、壁にかけられた一枚の絵だ――ルノアール作『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』。手に手を取り合って踊る男女を中心に、無数の陽気な人々が描かれた、大群像画だ。人物画を得意としたルノアールの最高傑作と名高い作品で、シザーリオはこの絵をぜひ一度見てみたいと、東方に行く前から思っていた。
夢が叶った彼は、その絵の美しさに惚れ惚れとしていた。妹の病室からパクってきたリンゴをかじりながら、ほぅ、とため息を漏らす。
しかし、その充実した観賞の時間を邪魔する音が、彼のズボンのポケットから鳴った。ぴぴるぴるぴるぴぃと繰り返す、笛のような音。
シザーリオは小さく舌打ちをすると、ポケットに手を突っ込み、水晶のように透明な、小さな長方形の板(タブレット)を取り出した。それは、彼が主であるセバスティアン・コンキリエから預かった、小型通信端末だった。音はそのタブレットからあふれ出しており、表面には「着信」という文字が浮かび上がっていた――指でちょっとした操作をして、タブレットを通話状態にすると、耳に当てて呼びかける。
「グラジーム、グラジーム。こちら水瓶。そっちは誰だい? ――ああ、ルーデルの旦那か。何か用ですか?
――いや、そんなせっつかないで下さいよ。こちとら、念願だったヴェルサルテイル宮殿秘蔵の絵画を楽しんでる最中なんですから。――わかってますって、仕事はちゃんとやりますよ。ただ、標的が今、執務室か何か、鍵のかかった部屋に閉じこもってましてね。お仕事してんのか、チェスでもして遊んでんのか、美人のねーちゃんとしっぽりしてんのかはわかりませんが、出てくるのを待って始末をつけようかと――ええ、そうそう、もう少し時間がかかるかも知れませんから、酒場で一杯やって待ってて下さいよ。日が換わるまでには、標的の首を――ジョゼフ・ド・ガリア陛下の首を持って、そっちに行きますから」
宮殿全体に響くような大声でそう言い放って、シザーリオは通話を切った。
そして、やれやれと首を振って、再び絵に見とれる。そんな彼の横を、夜間見回りの兵士がふたり、何も見ず、何も聞かなかったような涼しい顔で通り過ぎていった。
――そう。彼らは、シザーリオの話を聞いていなかった。彼の姿すら見えていない。
だからこそ、シザーリオは王宮の中という特別な場所にもかかわらず、先ほどのような発言を平気でできたのだ。
シザーリオの周りで、ばちばちと、ライム色の稲妻が踊る。その怪しい光は、ランプの明かりしかない廊下ではかなり目立つものだったが、誰もそれに気付かない――兵士も、雑用のために行ったり来たりしているメイドたちも、そろそろ家に帰ろうかとあくびをしている文官たちも、誰ひとりシザーリオに目を向けない。短剣型の杖という、いかにも怪しい者を握っているこの男は、まるでその空間に存在しないかのように扱われていた。
そして、周りのその無関心さは、シザーリオに強い自信を与えていた。なぜならば、誰も彼に注目しないように仕向けているのは、他ならぬ彼自身だったからだ。
(そうさ、こんなでかいアドバンテージがある状況で、仕事をしくじるわけがない。
セバスティアン様から命令を受けた時は、ちょっと驚いたが、あの人もオイラの実力を知っているから、安心して任してくれたんだろうからな。
しかし、やはり恐ろしいお方だ。まさか、あんなに気軽に、一国の王を含めた、三人もの重要人物の暗殺を、オイラひとりに命じるだなんて!)
シザーリオは、ほんの六時間前のことを思い出す――東方の地方都市、ドウゴの温泉宿で、雇い主であるセバスティアン・コンキリエと相対した時のことを。
『シザーリオ君。君の忠誠に報いるために、僕は国をひとつ用意することにしたよ』
籐椅子に深く腰掛けた、紫色の髪の紳士――セバスティアンは、いきなりそんな度肝を抜くようなことを言った。
『セレファイスという名の、非常に豊かな土地だ。縞瑪瑙でできた美しい城、四季の果物が楽しめる庭、無限に広がる耕作地、白い砂浜のついた暖かい海が、近いうちに君のものになる。もちろん、それまでに僕を裏切ったりしなければ、の話だが』
『オイラは妹より馬鹿だって、親にしょっちゅう言われてましたがね。損得勘定ができないほどのマヌケじゃねえっすよ、旦那』
シザーリオは、もちろんどこまでもセバスティアンについていくつもりだった。主が、味方に対しては常に充分な報酬を与えるということを、ちゃんと知っていたからだ。国ひとつを云々という話も、他の者が言ったなら鼻で笑うが、セバスティアンが言うなら、信用に値する。彼は報酬に関して、けっして嘘をつかない。
『でも、そんなすげぇもんくれるって言うんなら、もちろんかなり難しい仕事をしろって言うんでしょう?』
『いや、シザーリオ君。君にとっては、比較的簡単な仕事だと思うよ。標的は、たったの三人なんだからね――このメモに書いてある人たちを、これからハルケギニアに帰って、速やかに始末してもらいたい』
その言葉とともに、渡されたメモ――そこに書かれた名前を見て、シザーリオは眉をひそめた。
――ガリア国王ジョゼフ・ド・ガリア
――ロマリア教皇ヴィットーリオ・セレヴァレ
――トリステイン・ヴァリエール公爵家三女ルイズ・フランソワーズ・ド・ラ・ブラン・ラ・ヴァリエール
『えーと、これって、ジョークとかじゃなしに?』
『僕が今まで、仕事のことでジョークを言ったことがあるかい?』
もちろん、ない。シザーリオは肩をすくめた。
『ま、やれって言われるなら、やりますけどね。何でやるのかっていう、理由は教えてもらえます?』
その問いかけに、セバスティアンは不敵な笑みを浮かべた。
『彼らが、世界を救う救世主になるかも知れないからさ。
遠からず起きる大隆起現象……それを止めて、人類を滅亡から救う可能性を、彼らは持っている。信じてくれるかい? 彼らはね――始祖の再来、現代に生まれ落ちた、神聖なる虚無の使い手なんだよ』
セバスティアンは、嘘も冗談も言わない。
だから、それは真実なのだ。シザーリオはそれを信じた。
しかし、それでもわからない。
『だったら、殺しちゃまずいんじゃないっすか?
ダイリューキが何なのかは知りませんけど、人類の滅亡を防いでくれるんなら、その可能性を潰すわけには……』
その言い分に、セバスティアンは苦笑しながら、首を横に振った。
『駄目駄目。僕は人類にはね、滅びてもらうつもりでいるんだから。その予定を覆す要素は、早めに処理しておきたい。
君にプレゼントするセレファイスも、人類滅亡以後の、持ち主がいなくなった土地に作る予定なんだから。たとえて言うなら、これはね、大規模な区画整理事業なんだよ――そう言えば、君も僕の意図は理解してくれるだろう?』
シザーリオはため息をついた。人類を全部殺して土地を手に入れる地上げなんて、途方がないにもほどがある。
――しかし、セバスティアンは本気なのだろう。繰り返すが、彼は嘘は言わない。
だから、シザーリオも忠誠心を持って、彼に従うのだ。たとえ、その命令がどんなに大それたものでも。セバスティアンの言うことは、いつも正しいのだから。
(そうさ、あの人はいつも正しい。そして的確なんだ。
オイラにこの仕事を任せるってことからも、それがわかる。他の『スイス・ガード』たち……ルーデルの旦那でも、『無限』のリョウコさんでも、『極紫』でも『悪魔』でもない。オイラこそが、この仕事に一番向いている。
この『水瓶』のシザーリオこそが、な)
――ばちばち、ばちばち。
ライム色の光の中で、シザーリオはくっくっと忍び笑いをした。
彼の体を取り巻いているのは、その光だけではない。薄い、じっと見てもわからないような微妙な霧が、彼を中心に拡散し、その霧を伝うように、稲光も散らばっていく。
――シザーリオの得意な系統は、水である。この系統の得意技は、その名の通り水を操ることであるが、もっと細かい特徴としては、ヒーリングなどの、人の体を癒し、回復させる魔法に優れるという点がある。
彼は、幼い頃からヒーリングを得意とした。魔法の練習として診療院に通い、医者たちに混じってたくさんの怪我人を癒し、腕を磨いた。
魔法と同時に、彼は人体の構造についても、深く学んだ。血管の位置や内臓の機能を把握して魔法をかけると、闇雲に患部をヒーリングするより効果が高いと気付いたからだ。
研究と実践の反復は成長を促し、彼は十五歳で早くもスクウェアに目覚めた。
そして、転機が訪れたのは、その直後のことだった。とある患者の、精神的な病を治す方法を探して、実家の書庫を漁っていた時。ふと手に取った大昔の医学書に、ある興味深いスペルを見つけたのだ。
その名は《誓約(ギアス)》。人の心に暗示を与え、意のままに操ることのできる洗脳魔法。
あまりにも悪用しやすい性質を持つため、今でこそ禁呪とされ、学ぶことも唱えることも許されていないスペルだが、シザーリオはこの魔法に、精神医学を発展させる大きな可能性が秘められているのではないか、と考えた。
洗脳によって行動を操るというのは、外部から肉体を動かすのではなく、肉体を動かす精神に干渉するということだ。ならば、心を操るギアスを応用することで、病んだり傷ついたりした心を癒す術も、開発できるのではないか?
そう考えた彼は、誰にも内緒で、こっそりとギアスの解析に取り掛かった。禁呪指定されたスペルを研究することは、明白な異端――犯罪行為だ。誰にも、家族にだって教えるわけにはいかなかった。
彼は、机上の研究だけではなく、実際にギアスを唱えてみたりもした。最初は、自分の家の使用人などに術をかけ、催眠状態にある人間の脳を、ディティクト・マジックで詳しく調べた。その結果、人間が思考を行うと、脳内でそれに応じた水の流れが生じるだけでなく、微弱な――本当に、問題にならないほど弱い雷が発生する、ということを発見した。
正常な人間の脳では、この雷は非常に複雑な波形を描くのに対し、ギアスをかけられた人間の脳では、雷は例外なく単純な定形を示した。このことから、シザーリオはこの雷こそ、人間の精神の本体であり、この雷に手を加えることで、人の感情を、ひいては人格そのものまでも変化させることができるはずだ、と予想した。
その予想を証明するには、更なる実験が必要だった――すなわち、人の脳内の雷を操作することで、実際に人の思考を左右してみせなければならないのだ。
この実験には、使用人は使えなかった。何しろ、前例のないやり方で脳をいじくるのである。失敗した場合、命に関わりかねないし、身近な使用人が変死したりしては、疑いを持たれる。安全に研究を進めるためには、事件を起こすわけにはいかなかった。
それは言い換えれば、事件を起こしたとしても、発覚させなければいい、ということだった。運のいいことに、シザーリオの住んでいたロマリアには、いつ野垂れ死んでも誰も気にしない難民たちが、そこら中にあふれていた。彼は、そんな難民たちに近付き、ひと切れのパンと一杯のスープを報酬に、実験への協力を依頼した。もちろん、飢えた難民たちの中に、自分が何をされるのか、理解できた者はいなかっただろう。
実験内容はごく簡単。水と風の組み合わせで生じさせた雷(静電気のようにごく弱いもの。風のスクウェアスペルである、ライトニング・クラウドの威力とは、比べるのも馬鹿馬鹿しい)を、被験者の脳に浴びせ、ある特定の感情状態の波形を再現し、実際に被験者がその感情をもよおすかを確かめる。
危惧した通り、最初の被験者は死亡した。雷の威力が強過ぎ、脳出血を起こしたのだ。
ふたり、三人と続けたが、やはりことごとく死亡した。十二人目で、やっと喜びの気持ちを、何の理由もなく感じさせることに成功したが、この被験者も、実験直後に発狂し憤死した。
しかしそれでも、少しずつ成功に近付いていた。さらに雷の威力を調整して、十三人、十四人と続け――五十八人目にして、悲しみと怒りの再現に成功――百十六人目には、喜びと怒りを交互に三回ずつスイッチさせ、さらに実験後七十時間も生存させることに成功――このペースならば、五百人死なせる前に、感情を完全に制御することができるようになるかも知れないと、シザーリオは夢見た。
しかし、すべてが順調にいったわけではなかった。彼の家の周りで難民がぽつぽつ行方不明になることが、少しずつ怪しまれ始めたのだ。特に家族には、難民を自分の部屋に連れ込むところを見られたこともあった。その時は患者だと言ってごまかしたが、いつまでもそんな言いわけが通じるはずもない。シザーリオは、すべてが露見する前に、荷物をまとめて家を出た。
野に下った彼は、もう誰の目も気にせず実験に没頭した。難民たちは、闇に飲み込まれるように、続々と姿を消していった。
しかし、本業の医者としての職務を放棄していたわけではなく、彼は相変わらず、腕のいい水メイジとしてロマリアの人々を救っていた。ノリが軽くて親しみやすく、しかし仕事熱心な善人というのが、当時のシザーリオ・パッケリの評価である。
ラルカスという名の、遍歴の水メイジと交流を持ったのも、この独り暮らしをしていた時期のことだ。
ラルカスは不治の病を患っており、それを治す方法を探して、各地の優秀な医者を訪ね歩いていたのだった。
シザーリオは彼を診察し、難民での実験すら中断して治療にあたったが、結果は芳しくないものに終わった。ラルカスの病というのは、彼の生まれ持った肉体の質に起因するものであり、どのような魔法を使っても治すことはできない、とわかってしまったのだ。生きることを望むラルカスに、そのことを伝える勇気は、シザーリオにはなかった。ただ、今の自分では手に負えないということを言うに留めた。
シザーリオにとって、この敗北はつらいものだったが、ラルカスとの出会いが悪い結果しかもたらさなかったわけではない。ラルカスは、彼自身が優れた医者であり、研究者だった。特に脳神経に詳しく、その腕と知識は、動物の脳移植を成功させるほどに極まったものだった。
シザーリオは、ラルカスから多くのことを学んだ。脳の構造と、各部分の働きを知ることは、彼の研究を一足飛びに進展させた。難民を使った実験でも、成功率が格段に上がり、とうとう命の危険なしに脳の雷を操作できるようになった。
今でもシザーリオは、ラルカスに感謝している――ラルカスの教えがなければ、シザーリオの研究は、おそらく完成までに二十年は余計にかかっただろうから。
他人の脳内雷を操作する実験のことを、ラルカスに打ち明けて協力を願えば、もしかしたらさらに五年は、完成が早まったかも知れない。しかし、シザーリオは最後まで、ラルカスに自分の研究について話さなかった。ラルカスは、残念ながら、シザーリオに欠ける良心というものを持っていたからだ。
いつかシザーリオは、ラルカスの病気を治す方法として、より健康で生命力の強い肉体への脳移植ならば何とかなるかも知れない、という提案をしたことがある。肉体に生まれつきの問題があるなら、問題ない他人の肉体に乗り移ればいいのだ、というのが、シザーリオの考えだった。ラルカスの魔法の腕なら、その移植手術は充分実行できる。さらにシザーリオが助手として手伝えば、成功率は九十五パーセントを越えるだろう。
しかし、ラルカスはこの方法に難色を示した。自分が助かるためとはいえ、人を殺して体を乗っ取るというのは、いくら何でも踏み出せないと言うのだ。
そして、とうとう手術は実行されず――脳についてのあらゆる知識をシザーリオに伝授したあと、ラルカスはロマリアを去っていった。
(あいつ、今頃どうしてんのかなぁ)
絵をぼんやりと眺めながら、シザーリオは物思う。
(結局どっかで移植手術をして、新しい人生を謳歌してんのかなぁ。それとも病に負けて、どこかでおっ死んだか。
まあ、どちらでもいい。ラルカスの知識は無駄にならなかった――今、オイラの中でひとつの結晶となって、セバスティアン様のお役に立ってるんだ。それは、すごい名誉なことなんだぜ)
ばちばちと雷光をばらまくシザーリオの背後を、また兵士たちが通り過ぎていく。
「いいか、今はこのヴェルサルテイル宮殿に、ロマリアのコンキリエ枢機卿様がご滞在しておられる。普段以上に気をつけて見回りにあたれ――もし少しでも怪しい奴を見つけたら、容赦なく捕まえるんだぞ!」
隊長格らしい男が、引き連れた部下たちにそんなことを言っている。なのに、彼らはすぐ目と鼻の先にいるシザーリオを、完全に無視していた。
いや、認識できていなかった。
兵士たちの頭の周りを、ライム色の稲妻が飛び回る。兵士たちだけではない。メイドも、文官も、貴族も平民も、シザーリオに近付く人間すべてが、この微弱な雷によって、脳に変調をきたしていた。
――シザーリオの、雷によって人の心を操る研究は、セバスティアンに見出され、『スイス・ガード』として雇われた直後に、ひとつの到達点を迎えた。
雷を霧に乗せてばらまくことで、広範囲に散らばるすべての人間の脳を、一定の波長に誘導することができるようになった。人々に思い通りの感情を与え、思い通りの感覚を与え、思い通りの思考を導くことができた。ギアスのように、具体的な指示を与えることはできないが、精神の在り方を偏向させることはできる――。
シザーリオのそばを通り過ぎた者たちは、皆、目の前に不審者がいるということを認識できないほどに、注意力散漫になっていた。しかも彼らは、自分たちがぼーっとしていることにすら、気付いていないのだ。そんな状態になった警備兵の目を盗んで、宮殿に忍び込むのは楽勝だったし、彼に攻撃を仕掛けようとした妹の意識を五秒ほど混濁させて、その隙に彼女の手から杖をもぎ取るのも簡単だった。
やろうと思えば、周りにいる人間全員を絶望的な気分にさせて、自殺に追い込むこともできる。陽気な気分にさせて、三日三晩ぶっ通しで宴会を開かせることもできる。シザーリオの発生させた霧の届く範囲――ライム色の稲妻が自由自在に渡っていける範囲――にいる人間は、皆、彼の望んだ心理状態に陥る。そして、雷を孕んだ霧は、ヴェルサルテイル宮殿を中心とした、半径一リーグの空間を満たしていた。その範囲内にいる全員を同時に操れるなら、いったいどのようなことができるだろう?
(とりあえずは、クーデターでも起こったってことにするか……警備兵百人ぐらいと、大臣級の貴族を四、五人操れば、体裁は取れるだろ。
ジョゼフ王はオイラが自分でカタをつけるが、それからの後始末はその人たちに丸投げだ。本当は、全員の脳を狂わせて大乱闘を起こすのが一番面白いんだが――前に東方で、千五百人の馬賊たちの脳をめちゃくちゃに混乱させて、同士討ちで全滅させた時は、本当に楽しかった――しかし、今回はそこまでする必要はない。標的はあくまでひとりだけだからな。
人為的に人を油断させて、安全に標的に近付くことができる……まったく、これ以上ない暗殺向きの能力だよ、オイラのこのオリジナル・スペル、《群集(ムーラン・ド・ラ・ギャレット)》は)
精神病を治すために開発したこのスペルが、何をどう間違って、暗殺のための道具になっているのか、シザーリオ自身にもわからない。
間違いないのは、こうなったことを彼が悩んでもいなければ、後悔もしていないということだ。セバスティアンの役に立てるなら、医者としてであろうと、暗殺者としてであろうと、どちらでも誇らしいことなのだから。
(――おっ)
しばらく待っていると、執務室の扉が開き、中からジョゼフ王と、側近のモリエール夫人とが連れ立って出てきた。
シザーリオは唇を舌で湿して、現れた標的の方に足を向けた。そして、ゆっくりと――緊張感のかけらもなく――下手な鼻歌さえ歌いながら――まるで、街で偶然見かけた知り合いに声をかけようとしているかのような気楽さで――近付いていく。
彼の手にした短剣型の杖が、血を求めるようにぎらぎらと輝いた。
■
「寝床に入ったところを起こしてしもうて、すまんかったのう。アラベラが、どーしても今すぐお前に言わにゃならんことがある、と言うてごねるもんじゃから……」
「大丈夫。気にしてない」
夜も更けた頃、ヴァイオラに呼ばれた私は、彼女の宿泊しているプチ・トロワに出向いていた。
今の姿は、タバサとしてのものではなく、藁色のおさげ髪をしたリーゼロッテのものだ。これから会う相手はアラベラなのだから、この変装は仕方がないが、宮殿の中を変装して歩くのは、さすがに少し緊張した。見回りの兵士に見つかって、身分を聞かれたりしなければいいが。
だが、不安なのはそのことより、アラベラがどんなことを私に言いたいのか、ということだった。彼女は大雑把な性格だけれど、こんな夜中につまらないことで人を呼びつけるような人間ではない。なのに、それをあえてするということは、ひどく重大で緊急な用事ができたという以外に考えられない。それは、いったい――?
「ヴァイオラ。アラベラの話というのが何か、あなたは聞いている?」
私の問いかけに、ヴァイオラは小さく首を横に振る。
「いや、我は何も知らんな。ただ、我の印象を言うならば、今のアラベラは、ひどく追い詰められているようじゃった」
「追い詰め、られて?」
不穏な言葉に、胸がざわめく。
ヴァイオラも同じような不安を感じていたのか、真面目な顔で頷くと、念を押すように、こう言ってきた。
「ええか、タバサ。アラベラは尊大に見えるが、あれはあれで意外と心根は繊細な奴じゃ。
今、あいつは、お前だけを頼りにしておる……我ではない、お前の存在を心から求めておるのじゃ。孤独の中で、ようやっと見つけた光が、お前なのじゃよ。
だから、どうか、何が起ころうと、あれを見捨てないでやってほしい。ガリアの杖が交差した紋章のように、あれを支えてやってほしい。事情を話してもらえなんだ我が、お前にできるアドバイスは、それくらいじゃ」
「……わかった」
ヴァイオラの借りている客室の前に着いた。ヴァイオラは、席を外すよう言われていたのだろう、扉を開けて、私に中に入るように促したが、自分は廊下に立ったままだった。
私は、意を決して部屋の中に入る。後ろで、ぱたんと扉が閉められた。ヴァイオラの気配が消え、その代わりに、部屋の奥に馴染みの気配を感じた――ソファに座っていた彼女は、私の姿を認めると、立ち上がって近付いてきた。茶色い髪の、野性的な眼差しをしたアラベラは。
私たちは、一メイルほどの距離を隔てて、見つめ合った。
「変な時間に呼び出して悪かったね、リーゼ」
「かまわない」
それで、用件は? ――そう聞こうとした瞬間、私の体は、暖かくて柔らかいものに包まれていた。
アラベラに抱きしめられたのだと気付いたのは、何秒も経ってからだった。彼女のイメージからすると少し意外な、甘く上品な香りが鼻をくすぐる。姫百合の花束に顔をうずめているような気分だ。
「リーゼ。あたし、あんたのことが大好き」
私の髪に唇を触れさせて、アラベラはそんなことをささやいた。
「あんたと出会ってから、まだそんなに経っちゃいないけどさ……それでも、あんたと過ごした時間は、他の誰と過ごした時間よりも色鮮やかだった。
まるで、何の悩みもなかった子供の頃に戻れたような感じさ。そう……子供が感じるような、素直な幸せを、あんたはあたしにくれたんだ」
愛しさの込められた声で、しみじみと語るアラベラ。思いがけず直接的な好意を表現されて、私はどうにもくすぐったい思いをした。
でも、それは嫌な感覚じゃない。昔、母様や父様に抱きしめてもらった時に感じたような、心地のよいむずがゆさだ。このぬくもりの中に、もっと深く潜っていきたいと、素直に思える。
だから私は、アラベラのわきの下から、彼女の背中に腕を回し、こちらからも彼女に抱きついてあげた。
アラベラはそれに気付くと、驚いたようにピクンと身を震わせたが、すぐに更なる喜びを込めて、私を強く抱きしめてきた。体温を、お互いに伝え合う。
私も、彼女のことは嫌いじゃない。少なくとも、こうしている時間に、幸せを感じられるくらいには。
「ありがとう、リーゼ。
……でも……あんたのことが好きだからこそ、あたしはあんたに謝らなくちゃいけないんだ」
抱擁を解き、そっと私から離れるアラベラ。
その表情は切なげで、崩れかけの古城を思わせた。
「あたし、ずっとあんたに隠し事をしてたんだ。
あんた、コンキリエから言われてるだろ? あたしの素性を詮索したりしないようにって。あたしがどこの家のなんて奴か、あんたにわかっちまったら、いろいろと差し障りがあるかも知れないってさ、コンキリエが気を使ってくれたんだよ。
あたしも、普段の立場を忘れて、生まれ変わったような気持ちでのびのびしたかったから、アイツの配慮はありがたかった。あんたに家名を聞かせないようにするだけじゃなくて、あたし自身もこんなものを使って、身元がバレないようにしていたんだ。――あんた、これが何か、わかるかい?」
言いながら、アラベラは首にかけていたネックレスを手ですくってみせた。銀の鎖に青い石のリングがついた、シンプルな首飾りだ。私と会う時、彼女はいつもそれを身につけていた――まさか。
はっと目を見開いた私の様子にも気付かず、アラベラは続ける。
「これはね、フェイス・チェンジの魔法が付与された首飾りなんだ。これを首にかけると、自動的に魔法が働いて、装着者の顔を別人のものに変える。
わかったかい、リーゼ。……今、あんたが見ているこの顔はね、あたしの本当の顔じゃないんだ。アラベラって名前だって、適当に考えた偽名さ。
あたしは、嘘の顔と名前で、あんたと付き合ってたんだ」
アラベラの表情が陰る。私は、何も言えない。
「単なる気晴らしなら、ずっとそれでもよかったんだろうけど……でも、もう、そうしていられなくなった。あたし、心底あんたに惚れ込んじまったんだ。
あんたと、本当の友達になりたい。顔を隠したままでのごっこ遊びじゃなく、本当の顔と名前を知ってもらって、嘘のないあたしを受け入れてもらいたい。そう思って、あんたをここに呼んだんだ」
私の目を、真っ直ぐに見つめるアラベラの瞳。強い決意が、そこにあった。――それと同時に、強い不安も。
「正直なことを言うとさ……あたしの本当の姿じゃ、あんたに受け入れてもらえないんじゃないかって、すごく心配してるんだ。
あたしの家はいろいろあってね、悪名ばっかり有名なんだ。あんたの耳に入ってる評判も、散々なもんなんじゃないかって思うんだよ。
だから、もしあたしの正体を知って、こんな奴と友達付き合いをするのは嫌だ、と思ったら、そう言ってくれてかまわない。その時は、あたしもあんたの素性を知らないしね、すっぱり全部忘れることにするよ。変な未練は残さないって、杖にかけて約束する。
でも……本当のあたしを、もし受け入れてくれるなら……その時は、今度こそ一生の親友になっておくれ」
「ま、待って」
そう言って、ネックレスを外そうとするアラベラを、私はすんでのところで止めることができた。
――彼女が、そこまでの気持ちを見せてくれるのならば、私もそれに応えなくてはならない。
応えられる人間でなくてはならない。そうなりたい。
「私も、あなたに謝らなければならないことがある。……これを見て」
私は、自分のブラウスの中に手を入れ、内側に隠していた首飾りを取り出してみせた。緑色の石がついたネックレス――アラベラがつけているものに似た、シンプルなアクセサリー。
「私も、これをヴァイオラからもらって、ずっと身につけていた。
私の素性を、もしあなたが知っていたら、くつろげないかも知れないと言われたから……」
「そのネックレス……じゃ、リーゼ、あんたも?」
目を丸くするアラベラに、私は頷く。
「リーゼロッテという名前じゃない。本当の自分を隠していたのは、私も同じ。
それに、顔を隠すことに、私自身も開放感を感じていた。あなたと同じで、私の家柄も……人に好まれるものではない。だから、率直に言えば、私はあまり、自分がどこの家の者だと、人に明かしたくはない。でも」
私からも、アラベラを見つめ返す。誠実な思いへのお返し。私も、できる限りのものを贈りたい。
「でも……あなたには聞いてもらいたい。私のことを。本当の私のことを。
その結果、あなたに拒絶されても、私は怨まないと誓う。これで、おあいこ」
「リーゼ……」
アラベラの瞳は、感動に潤んでいた。私も、鼻の奥が熱くなるのを感じる。私たちは、似た者同士だったのだ。どちらも隠し事をしていて、どちらも家庭にコンプレックスがあって、どちらも相手を求めていた。
こんな私たちが、相手の正体を知ったぐらいで、気持ちを翻すわけがない。
「ね、リーゼ。ふたり一緒に、首飾りを外そうか。
そして、お互いに、改めてよろしくって言うんだ。どうだい、こういうの?」
アラベラの提案に、私は頷く。
首に巻きつく銀の鎖に、手をかける。アラベラも、同じようにした。
頭を下げ、鎖を引き上げて、ネックレスを首から抜いていく。
魔法のそよ風が顔を撫で、偽りの姿が失われ、もとの私の顔が戻ってくるのがわかる。
これで顔を上げれば、私たちは本当の自分同士で、ようやく出会うことになるのだ。
■
リーゼロッテと出会えて、本当によかった。
そう思いながら、あたしは首からネックレスを外していく。
彼女なら間違いなく、本当のあたしを――イザベラ・ド・ガリアを受け入れてくれるだろう。それができる優しい心を、あたしははっきりと感じた。
あたしも、本当の彼女を受け入れてみせる。
たとえ、どんなに身分の低い木っ端貴族でも。家名すら持たない、平民メイジだったとしても。極端な話、犯罪者か何かだったとしても、この気持ちは変わらない。
あたしはこの子の心に惚れたんだ。身分なんか、何の関係もない。
そうだろ、リーゼロッテ?
■
私は顔を上げた。すると、そこには――。
■
あたしは顔を上げた。すると、そこには――。
■
私の、
■
あたしの、
■
大嫌いな、青髪の少女が立っていた。
■
「……………………」
「……………………」
「……………………」
「……………………」
「……………………」
「……………………」
ふたりは、凍りついたような表情で、しばらくお互いを見つめ合った。
ふたりとも、自分の見ているものが信じられなかった。何が起きたのか、わけがわからない。イザベラは口をぽかんと開けていた。タバサは無表情に見えなくもないが、眼鏡の奥で目を見開いていた。
時が止まったような静寂――ぴりぴりと肌を焦がすような緊張――。
やがて、タバサが先に動き、それが崩壊のきっかけとなった。
「イザ――」
とにかく何か言おうと、震える唇で相手の名前を呼ぼうとした。すると、イザベラは、まるで至近距離で銃をぶっ放されたかのような勢いで、思いっきり後ろに飛び跳ねて逃げた。
「なっ! な、なな、なっ!?」
顔を恐怖に歪め、ただでさえ白い肌をさらに青ざめさせて、彼女は破片のような叫び声を上げた。
「な、な、なな何であんたがここにいるんだよ、人形娘! リーゼを、あたしのリーゼロッテをどこにやったんだい!」
「私がリーゼロッテ。イザベラ……あなたこそ、アラベラをどこにやったの」
「ば、馬鹿言ってんじゃないよ、アラベラはあたしだ。……あんたはリーゼじゃない……あの可愛くて優しいリーゼロッテが、お前みたいな冷たい奴だなんて、あり得ない……」
うろたえて、虚ろな疑いを口走るイザベラ。その様子を前に、立ち尽くすタバサ。
ふたりとも、ひどく動揺しており、馬鹿げた質問を掛け合ったが、心の底ではちゃんと理解していた。すなわち、自分が心から慕った友人の正体が、けっして相いれることのない、憎らしい敵であったのだと。しかし、それを認めて受け入れるのには、天が大地の周りを巡っているという考えを捨て、大地が天の中を駆け巡っているのだと認めるほどの、大規模なパラダイム・シフトが必要だった。
「う、嘘だ……嘘だ……」
急激な思考の転換に耐え切れず、その場にへたり込んでしまうイザベラ。そんな相手の姿を見て、タバサは混乱の中でも、少しずつ情報の整理を始める心の余裕を取り戻しつつあった。
(イザベラの顔を見た瞬間は、これが全部趣味の悪いいたずらだと思った。
まったく他人のふりをして私に取り入り、私が心を開いたところで裏切って、笑いものにするという、唾棄すべき悪ふざけだと。
でも、イザベラの様子を見る限り、その可能性はないように思える。この悲しみようは演技には見えないし、アラベラとしてふるまっていた時の彼女は、本当に楽しそうだった。あれが嘘だとは思えないし、思いたくない。
では……まさか……今さっきの、アラベラとしての彼女の発言は、すべて本当?)
それはそれで、タバサにとってはショッキングな結論だった。あの悪王の娘で、サディズムの権化、タバサに対して憎しみと嘲りと害意しか向けてこなかったイザベラが、本当はつらい思いをしていて、寂しがっていて、リーゼロッテとしての自分を本気で求めていた、などと――。
とにかく、その辺を確かめる必要がある。そう考えたタバサは、イザベラに歩み寄った。
「イザベラ……」
「く、来るなっ。来るんじゃないよっ。あたしを見るなっ。嫌だっ、こんな現実、もう見たくないっ」
頭を抱えて、タバサを拒絶するイザベラ。
「せっかく、せっかく頼れる友達ができたと思ったのに。憎んだり羨んだりせずに、気楽に接することができる奴と出会えたと思ったのに。こんなのってないよ。こんなの、酷過ぎる……全部、全部仕組まれていただなんて……」
涙声で搾り出されたその言葉に、タバサはハッとした。そう、タバサがこの事態を、イザベラの仕組んだ茶番劇ではないかと疑ったように、イザベラもこれを、タバサによる陰謀と思い込んでいたのだ。
「イザベラ、それは誤解。話を聞いて」
「うるさいっ、うるさいっ! あんただって笑ってたんだろ、だらしなく骨抜きになってるあたしを見て! さぞや気分がよかっただろうよ、普段の仕返しができてさぁ!」
突き放すように言うイザベラの態度に、タバサは頭に血が上るのを感じた。その感覚に、彼女は覚えがあった。魔法学院に入ってほどない頃、不届き者に本を焼かれてしまった時に感じたのと、同じ怒りだ。
大事にしているものを、粗末に扱われて怒る。それは人形にはできない、人間的な感情だった。
「イザベラ」
タバサは、顔を隠そうとするイザベラの手首を掴み、引き寄せて、むりやりに対面を果たした。
イザベラは泣いていた。八十二パーセントの悲しみと、十パーセントの憎しみ、そして八パーセントの現実逃避を、輝くしずくとして目の端からこぼして。
そんな彼女としっかり目を合わせて、タバサははっきりと言い渡した。
「馬鹿にしないで。私だって、アラベラのことが……あなたのことが、大好きだった」
――再び、時が止まった。
一時の激情にまかせて口走った言葉というのは、しばしば後悔を招く。タバサの場合もそうだった。言わなきゃよかったこんなことと、独りきりの空洞の中でこだまを聞くように、何度も何度も思った。
それというのも、タバサの言葉を聞いたイザベラが――怒るでもなく、馬鹿にするでもなく、正気を疑うでもなく――顔を、耳まで真っ赤にしたからだ。
「あ、えっと……えーと、え?
な、な、何言って……何言ってんだよ、ばか。そそそそんなこと、そんな真剣な顔で言われて……ど、どう反応したらいいのさ?」
おでこから湯気を立てんばかりに照れて、もじもじと落ち着かなげにしているイザベラを前にして、タバサも同じように、どうしていいかわからなくなっていた。
大嫌いなはずだった従姉に、本心とはいえ、堂々と大好きだなんて言ってしまって。しかも、その発言に対し、妙にピュアな反応をされてしまって、ちょっと可愛いなとか思ってしまったりして。
そんな自分の気持ちを省みると、途端に恥ずかしくなってしまう。タバサも頬を赤らめ、うつむいてしまう――ここに、照れながら無言で向かい合う青髪美少女たちという、何とも絵になる光景が完成してしまった。
(え、えーと、落ち着け……落ち着くんだよ、あたし)
無数の感情パターンがごっちゃになった状態で、それでもイザベラは何とか思考を再開した。
(こいつにいろいろと言いたいことはあるけど、まずは何が起きたのかをまとめよう。今のままじゃ、ぐちゃぐちゃ過ぎてわけがわかんないから。
まずは、ええと、一連の出来事は、どっちかが仕組んだいたずらじゃない、ってのは確定だね。あたしは、リーゼロッテがシャルロットだって知らなかったし、シャルロットもアラベラのこと、あたしだって知らなかったみたいだ。じゃなけりゃ、こいつの反応はあり得ない。
じゃあ――つまり、誰が悪いんだい? お互いにこんな恥かいて、でも誰も悪くないとか、あり得ないだろ)
タバサも、火照った顔を意識しないよう、思考を巡らせる。
(私もイザベラも悪くない。でも、こんなややこしい状況が生まれたことについて、何らかの原因があるべき。
諸悪の根源とでも呼ぶべきもの――考えて――思い出して、私――そう、そもそも、どうして私は、こんなことに巻き込まれた?)
イザベラはさらに考える――。
(悪いのは誰だ? そもそも、この茶番はどこからが始まりだ? あたしがぶちぶち悩んでたのが原因っちゃ原因だけど、そんなのは昔からだ。そう――最近、あいつに悩みを相談してから、物事が回り出して……)
タバサもさらに考える――。
(フェイス・チェンジの首飾り。あれさえなければ、物事は複雑にならなかった。あれを私に渡した人物……それこそが、最初のきっかけ……)
ふたりが結論に手を届かせた、まさにその時だった。
がちゃりとドアノブが回り、空気を読めない子が空気を読めない笑顔で、部屋に闖入してきたのは。
「そろそろお話は終わりましたかのー? 我、そろそろ寝たいんで、いい加減で切り上げて下さると助かるんじゃけどー」
のじゃーんと登場した彼女は、部屋の真ん中で向かい合っているふたりを見ると、悩みのなさそうなあっけらかんとした声で、親しげに話しかけた。
「……って、おや? ふたりとも、相手に正体をバラしてしまわれた? ありゃー、お互いの正体を知らずに交流を深めるってとこに、面白みというかお芝居じみた洒落っけがあったんじゃが。
でもまあ、正体がわかった時のびっくり驚き感も、ちょっとは狙っておりましたし、ここはドッキリ大成功とでもいうべきですかな! のじゃっはっはっは!」
悪意のカケラもない、ヴァイオラ・マリア・コンキリエ枢機卿の笑い声。
この小柄な女僧侶を、イザベラとタバサはしばし見つめ――やがて、お互いに目を見合わせると、小さく頷いた。
言葉を交わさなくてもわかる。ふたりは、結論をぴったり一致させていた。
すなわち。
――だいたい全部こいつのせいだ。
完璧に同調したイザベラとタバサは、迅速に行動を開始した。まず、タバサが音もなくヴァイオラの背後に回り、羽交い締めにする。
「え、何じゃ?」と、ヴァイオラは慌て始めるが、北花壇騎士として経験を詰んだタバサの羽交い締めは、ちょっとやそっと暴れた程度で抜け出せるものではない。
両手をぷらぷらとさせて、無防備なわきの下を晒す彼女の目の前に、イザベラが立った。
ニヤァとサディスティックな笑みを浮かべて。両の手のひらをヴァイオラに向けて突き出し、十本の指をワキワキと意味ありげにうごめかせて。
「え、えーと? イザベラ殿下? タバサ? い、いったい何が行われようとしとるのですかや、これは?」
ようやく、部屋の空気のおかしさに気付いたヴァイオラは、おどおどしながら尋ねたが、タバサは冷たい沈黙を守り、イザベラは熱っぽく湿った声で、こう問い返すだけだった。
「なあ、マザー・コンキリエ。あんた、くすぐったいのは平気かい?」
「く、くすぐったいのですかや? さ、さあ……あまり平気とは言えませぬ」
「ふぅん、そうかい……じゃあ、何も知らないままじゃ可哀相だから、あらかじめ注意だけでもしておいてあげようかねえ」
「な、な、何をでございますか……?」
低く押さえたイザベラの声に、ビビりっぱなしのヴァイオラ。その半泣きの顔を、暗い微笑で見下ろして、イザベラは宣告した。
「ガリア王女の名において――あたしたちを騙したあんたをお仕置きするよ」
直後、プチ・トロワに、のじゃあああぁぁという絶叫が響き渡った。
■
シザーリオと標的までの距離は、わずか三十メイル程度。
駆け寄らなくても、あとほんの数秒で仕事は終わる。シザーリオの操る広範囲型精神撹乱魔法、《群集(ムーラン・ド・ラ・ギャレット)》は、虚無の使い手であるジョゼフ王の頭脳さえ支配下に置いていた。ライム色の稲妻が、王の青い髪の中でパチパチとはじけているのに、彼は何も気付かず、傍らのモリエール夫人に冗談など囁いている。
もちろん、ナイフを片手に接近しているシザーリオのことなど、まったく目に入っていない。
暗殺者は薄笑いを浮かべながら、さらに歩みを進める。
(すべては、《群集(ムーラン・ド・ラ・ギャレット)》の作り出す無意識の中で展開し、無意識の中で完結する! あらゆる警備も注意も働かない――オイラ自身、まるで自分の家でくつろいでいる時のような無警戒さで、ことにあたることができる!
これからオイラは、ジョゼフ王の首を一息に掻き切るが、彼は自分が殺されたことにすら気付かないだろう!
ほら、もう目の前だ。あとたったの十メイル……)
彼我の距離は、徐々に詰まっていく。シザーリオの意識は、これから切りつけるジョゼフ王の喉元に集中し――。
「の、の、の、のじゃ――――っ!」
「ぐわっ!?」
いきなり真横から、何か紫っぽいモノが、ものすごい勢いでシザーリオにぶつかってきた。
彼は自分の魔法の効力を信じていたので、今、誰かから攻撃を受けることなど、絶対にあり得ないと思い込んでいた。それに、まさか、王宮の中という静謐な場所で、全力疾走する人間がいるとも、まったく思わなかった――それは、シザーリオの油断であった。
プチ・トロワとグラン・トロワをつなぐ廊下との合流点で、彼はそれと鉢合わせた。ぶつかった衝撃でバランスを崩し、その場に尻餅をついたシザーリオは、自分を転ばせたそれが何なのか確かめるために、顔を上げた。
「あたた……いったい何が……って、ヴァイオラお嬢様じゃねえか」
彼の目に映ったのは、自分と同じように尻餅をついた、ふわふわした紫髪の小柄な女僧侶――シザーリオの雇い主である、セバスティアン・コンキリエの息女、ヴァイオラ・マリアだった。
彼女もまた、《群集(ムーラン・ド・ラ・ギャレット)》の影響を受け、シザーリオのことを認識できなくなっており、なぜ自分が転んだのか理解できない様子で、周りをきょろきょろと見回していた。
「な、何じゃ? よくわからんが、何か透明な壁にぶつかったような、そんな感じが……。
い、いや、そんなことより、早く逃げねば! あのふたりに追いつかれないように……もう、くすぐり地獄は嫌じゃー!」
ヴァイオラはそんなことを言いながら飛び起きると、怯えきった目でプチ・トロワの方を見やり、その反対方向へ脱兎のごとく駆け出していった。
「な、何なんだぁ、ありゃ?」
わけがわからず、シザーリオは首を傾げた。何が起きたか理解するには、情報が少な過ぎた。
とにかく、まずは立ち上がろうと床に手をついたが――そこで、さらなる得体の知れないもの――爆音のような怒声が、彼の背後から接近してきた。
「逃げんなアアァァこのクソコンキリエエェーッ! 待ちやがれコラアアアァァァ――ッ!」
「ん? 今度はいったい何おぶぅ――○))゜3゜)――っ」
シザーリオが、声の方向に振り向いたその瞬間。
怒りの形相で突進してきたイザベラ姫の白いお膝が、身を屈めていた彼のこめかみを思いっきり蹴り抜いていった。
人ひとりの全体重(たとえ、羽のように軽いお姫様の体重であっても)が乗った強烈な一撃を、何の気構えもしていない状態で頭部に受けては、いかに『スイス・ガード』といえど、ひとたまりもない。シザーリオは凄まじい激痛に声も上げられず、その場でじたばたとのたうち回った。
「んっ? 今、何か脚に当たったような……気のせいかね?」
立ち止まり、不思議そうにもと来た道を振り返るイザベラ。その足元で苦しむシザーリオの姿は、やはり《群集(ムーラン・ド・ラ・ギャレット)》の力によって、彼女の目に映ることはなかった。
「まあいいや。それよりもコンキリエのやつ、どこ行きやがったんだい……せっかくあたし自らお仕置きしてやってたってのに、隙をついて逃げ出しやがって……あっ、見つけた! そこだアアァァッ!」
「ひ、ひいいっ、見つかってもうたあぁっ!」
兎のように逃げるヴァイオラ。それを追って、狼のように駆け出すイザベラ。
後ろを気にしながら走るヴァイオラの前に、さらなる絶望が立ち塞がった。
「逃がさない。あなたのための道は、ここまで」
「げえっ! タバサ! さ、先回りじゃとっ!?」
「おーっしゃ、よくやったよシャルロット!
それじゃ、今度こそ覚悟を決めなコンキリエ! 乙女ふたりの純情をもてあそんだ罪は重いんだからね!
足の裏はどうだい!? どうなんだいオラッ! こちょこちょこちょ〜」
「のじゃはははひははは〜! ら、らめぇ勘弁してぇ! うひあはひゃはははは〜!」
タバサがヴァイオラを押さえつけ、イザベラが横腹なり足の裏なりおへその周りなりを、執拗に徹底的に残虐非道にくすぐりまくる。
廊下をごろごろ転がりながら、そんな光景を目撃したシザーリオは――。
(だから……いったい何なんだよ、マジで……?)
そんなことを思ったのを最後に、とうとう意識を失った。
■
シザーリオが気絶すると同時に、彼の精神力で維持されていた《群集(ムーラン・ド・ラ・ギャレット)》の効果は、はかなく消え去った。
ヴェルサルテイル宮殿を覆っていた魔法の霧は蒸発し、ライム色の稲妻も消滅した。脳の働きを阻害されていた人々は、正常な認識力を取り戻し、目の前で起こっていることを正しく理解できるようになった。
正気に戻ったジョゼフ・ド・ガリアは、まず廊下の先で勃発している騒ぎに気付いて、眉をひそめた。
「モリエール夫人……あそこにいる彼女たちは、いったい何をしているのだろうな?」
「さ、さあ。私にも見当がつきかねます」
モリエール夫人も、戸惑いながらそれを見ていた。
ガリア王女であるイザベラが、取り潰しになったとはいえ、王弟家の令嬢であるシャルロット・エレーヌ・オルレアンと一緒になって、ロマリアからの賓客であるコンキリエ枢機卿を組み敷いて、見ている者が引くぐらいの容赦の無さでくすぐり倒しているのだ。
ぱっと見は、女の子同士の可愛らしいじゃれ合いに過ぎないが、出すトコ出せば、普通に国際問題になる光景である。
その政治的な意味ゆえに、モリエール夫人は戸惑っていたが――ジョゼフは、まったく別な理由から、その光景に注目していた。
(……なぜ、イザベラとシャルロットの息が、あんなに合っているのだ?)
ジョゼフの知る限り、ふたりの仲は犬猿のものだったはずだ。それが、気持ちの通じ合った親友同士のように、協力して事にあたっている。
こんなことは、以前のふたりでは起こり得ない。何があった? 何がふたりを通じ合わせた?
ジョゼフには理解できなかった。その光景が生まれた原因も、過程も――そして、その光景を見て、自分が顔をしかめている理由も。
心の壊れた王様には、想像することもできなかったのだ。自分が、自分の娘に――彼と似ていて、彼と同じように不幸なはずの娘に――嫉妬の気持ちを抱くなどということは。
ジョゼフは、取り憑かれたように、三人の戯れる様子を睨みつけていた。
「あら?」
そんな王と、彼の見ているものからふと視線をはずしたモリエール夫人は、廊下の片隅に、また別の奇妙なものを発見した。
「可笑しなこと。あの三人だけでなく、こんなところにも、人が寝転んでおりますわ」
その言葉に反応して、ジョゼフもモリエール夫人の視線の先をたどった。そこには、確かに人が寝ていた――金髪の、洒落た服を着た伊達男が、もがくように絨毯を掴んで、ぐったりと気を失って倒れていたのだ。
言うまでもなく、シザーリオ・パッケリである。
「ふむ、人の通る廊下で眠るとは、酔狂な奴もいたものだな。
というか……これは何者だ? 俺の知る限り、我が宮殿に出入りする貴族に、こんな奴はいなかったと思うが。モリエール夫人、あなたはこの男に、見覚えがあるかね」
哀れにも口から泡を吹いているシザーリオの顔をのぞき込んで、ジョゼフは首を傾げた。モリエール夫人も、人相を確かめるために身を屈めたが、こちらも思い当たるところがなく、首を横に振る。
「私の見知った顔でもありませんわね。顔立ちからすると、外国人のように思えますが……あっ!」
倒れている男の手に目を向けた途端、モリエール夫人は一歩後ずさって叫んだ。
「ジョゼフ様、お下がり下さい! この男、殿中であるにもかかわらず、抜き身の短剣を手にしております! もしや、陛下のお命を狙う刺客では!?」
「何だと?」
場の空気が、さっと緊張したものに変わる。
「衛兵! 衛兵ー! 出会え、出会えー! 早く、この曲者を捕らえなさい!」
モリエール夫人は、よく通る声で見回りの兵士を呼び――わずか十五秒後には、失神した暗殺者は、武装を解除された上に厳重に縄を打たれて、兵士たちに引っ立てられていった。
■
で、あの理不尽極まるくすぐり地獄のあと。
我は、元気になったシザーリアと入れ代わるように、病室の客となってしもうた。
ベッドの上で、湿布を貼った足の鈍い痛みに、うおおおぉと切ないうめき声をもらす――まさか、くすぐられ過ぎの笑い過ぎで、足がピーンとつって肉離れを起こしてしまうとは思わなんだ。水魔法のおかげで回復は早いが、それでも治ったばかりの筋肉がしっかり安定するまで、あと三日は寝とかにゃならんらしい。
てゆーか、物理的な怪我を負わせるぐらいくすぐり続けるって、あのデコ姫には良心というものがないのか。悪辣残忍なエルフでも、あの時のイザベラ姫の笑顔を見ればドン引きすると思う。正直、あの恐ろしさに耐えてまでコネクションを結ぼうと思うほど、我は図太くはない。
いや、まあ、我もミスったとは思うとるんじゃよ? でも、このミスを事前に予測して対処するって、まず無理じゃろ。あの花壇騎士のタバサが、イザベラ様の愚痴に出てきた大嫌いな従妹だなんて、どう頑張っても思いつかんぞ(タバサの身の上については、あのあと、彼女自身の口から教えてもろうた。取り潰されたとはいえ、政局次第では再浮上もできそうな高貴な血筋じゃと知っておれば、もっと媚びへつらって取り入ったというのに。ぐぬぬ)。
そんな嫌い合うふたりを、それぞれ変装させて、別人として引き合わせりゃ、うん、真実がバレた時、そりゃ裏切られた感がすごいわな。
あーあ、イザベラ様とのコネは、これでパァじゃろなー。まあ、最初から無かったもんと思えば、諦めもつくが、やはりもったいないことをしてしもた。
しかし、あのふたり、これからどうなるんじゃろ。お互いに、相手のことをさらに嫌いになったじゃろうし、やっぱりさらにギスギスした関係になっちまうんかなぁ。
これきっかけに武力政争とか始めんのはやめて欲しいのう。いや、やってもええけど、我がロマリアに帰ってからにして欲しい。巻き込まれるのだけはマジ勘弁じゃ。
――ロマリアに帰る、といえば、父様が東方から帰ってくるとか、シザーリアが言うとったっけ。
ちょうどあのカタストロフィの起きた日に、シザーリアの病室に使いの者が訪ねてきて、言付けていったんじゃと。ただでさえ失敗してへこんどる我に、何この追い討ちかけるようなバッド・ニュース。
父様の顔を見ずに済むから、ここしばらくずっとせいせいした気持ちで過ごせとったのに――あのクソ親父のことじゃから、絶対ロクなことせんぞ。
セブン・シスターズの経営権返せ、って言ってくるぐらいなら、全然無害なレベル。新しい国家興すよ、とか、新しい宗教立ち上げてブリミル教とシェア争うよ、とか言い出してもおかしくない。セブン・シスターズができた時もそうじゃったけど、父様が動きを見せる時って、国家レベルか文明レベルで何かが変わるんじゃよ。そんな奴が東方からハルケギニアまで移動する手間をかけるんじゃから、何をやらかすか心配でならん。
足の痛みに、つい先ほどの失策に、将来への悩み。繊細な我には、まったく悩みが尽きぬ。
それに対して、もうすっかりいつもの余裕たっぷりの無表情を取り戻しとるのが、我のベッドの横に控えておるシザーリアじゃ。
新しいメイド服に身を包んで、果物ナイフでくるくるとリンゴを剥いておる様子は、完全にいつも通りのマイペースじゃが、それはつまり、あれだけ冷たくしてやったにも関わらず、焦りの気持ちが見当たらぬということじゃ。
我の期待に応えることを諦めたのか、と思いきや、そうでもないらしい。なくなったのは、やる気ではなく闇雲さ。何か一本、スジの通った決意のようなものが、彼女の目の中に感じられる。
「ヴァイオラ様、フルーツのカットが出来上がりました。今、お召し上がりになりますか?」
「うむ、食べる。あーんするから、我の口の中に入れろ」
「かしこまりました」
フォークに刺したリンゴを食べさせてもらいながら、我はシザーリアに尋ねた。
「シザーリアよ。お前、少し変わったか?
あの敗戦から、何か学び取りでもしたんかの?」
「いえ。確かに、あれは得難い経験でしたが……もし、私に変化があるとするなら、その原因は、また別な理由によると思います」
「ほう? どんな理由じゃ」
「目標を……越えるべき目標となる人を見つけました。
ヴァイオラ様をお守りするに相応しい人間になるために、まずはその人より強くなりたいと思っております」
「ふむ……はっきりした目標があるから、どれくらいの加減がいいのかとか、何をしなけりゃならんのかとか、そういう迷いを捨てられた、っちゅうことか?」
「だいだい、そのようなところです。もちろん、その目標となる人は、あの殺し屋より高みに立っておりますが。
どうぞご期待下さい、ヴァイオラ様。このシザーリア・パッケリ、あなた様が起き上がれるようになるまでに、ひと皮剥けた女になってみせます」
いや、さすがにそれは進化が早過ぎるんでないか? とか思ったが、護衛が強くなるんは悪いことじゃないし、我はツッコミを入れるのをやめた。
我の周りは、いろいろと徐々に変わり始めておった。
■
――さて。シザーリア・パッケリの目標となった人物が、その頃何をしていたかというと――。
牢屋の中にいた。
石の壁と鉄の扉に囲まれた狭い独房の床に、脚を折り畳んで、ションボリと座っていた――これは、「セイザ」という東方独特の座り方で、主に反省をする時に用いられるという。
彼は、見張りの兵士の気配がなくなると、懐からクリスタル・タブレットを取り出して、祈るような気持ちで通話機能を使用した。
『――はい、もしもし』
「あ、もしもし、リョウコさんですか? オイラです、シザーリオです」
タブレットの向こうから、小川のせせらぎのような澄んだ声がした。シザーリオが連絡したのは、はるか東方にいるセバスティアンの秘書を勤める、リョウコという名の女性だった。
『シザーリオ君かい? こんな朝早くに通話してこないでおくれよ。私、今さっき起きたばかりなんだからね……ふあぁあ……』
「す、すいません。でもちょっと緊急事態で」
『緊急事態? キミ、確か、セバスティアンのお使いで、虚無の使い手たちを暗殺しに行ってるんだよね。そんな難しい仕事でもないはずだけど……まさか、しくじって捕まったとか言わないよね?』
「い、いやー、それがそのまさかでして……アハハ……」
『……………………』
「あ、あの、何か言って下さいよ、リョウコさん」
シザーリオは不安になって聞き返したが、リョウコの沈黙は、思考を巡らせていたゆえのタイム・ラグだった。
『……キミの能力――《群集(ムーラン・ド・ラ・ギャレット)》が、打ち破られたということかい? 冗談がきついよ。あれは暗殺のための魔法としては、ほぼ無敵に近いはずじゃないか。
仮に、虚無魔法の中に、精神操作を解除するスペルがあっても、そもそも相手から対処しようという気持ちを奪ってしまえるから、結局どうしようもないはず……いったい何が起きたんだい?』
「それが、どうしてこうなったのか、全然覚えてないんですよねー。ヴェルサルテイル宮殿の中に潜入して、ジョゼフ王に近付いていったところまでは覚えてるんですけど……頭をぶつけたかなんかしたみたいで、思い出そうとすると頭痛がひどくて」
『役に立たないねぇ』
ため息とともにそう言われて、シザーリオはさらに肩身が狭くなるが、それでも何とか話を続ける。
「そ、それでですね。今、グラン・トロワの地下牢に入れられてるんですけど……そのー、できれば、助けに来てもらえないかなーってお頼みしたくて……はい」
『……………………』
「お、お願いしますよ。捕まった時に杖を没収されちゃって、オイラひとりじゃ脱出できそうにないんです。クリスタル・タブレットだけは、どう見ても杖じゃないってんで返してもらえましたけど……もう、これで助けを呼ぶしかなくって。
最初はルーデルの旦那にかけようかと思ったんですけど、あの人の魔法は派手っつーか、威力ありすぎて加減がきかないでしょ? 巻き込まれたくないんで、ここはぜひリョウコさんに、こっそり何とかして頂きたいなぁと……はい」
『……尋問には、何も答えていないだろうね? キミが、セバスティアンの指示で動いていたということや、ジョゼフ王を暗殺しようとしていたことなんかは?』
「い、言ってませんよ! 拷問されたって話しゃしません!
あ、でも、あと数時間もしたら、マジで拷問が始まりそうなんで、急いでもらえますか。さっき、オイラを捕まえた兵士が、『どばどばミミズを一万匹ぐらい使う拷問プランAを採用する』とか言ってるのを聞いちまったんで。何されんのかわかんないけど、スゲー嫌な予感がします」
『はぁ……まったく、仕方がないな。わかったよ、キミが変な拷問を受ける前に、手を打とう』
「おおっ! ありがとうございます、リョウコさん!
で、いつ頃、どうやって助けて下さるんで?」
『なぁに、難しい方法じゃないし、キミは待たされたとは感じないだろうよ、シザーリオ君』
優しく、明るい声で――まるで笑いかけるように、リョウコは告げた。
『私の能力がどんなものか、キミも知っているだろう?
時間はかかるかも知れないが――あとで、ちゃんと生き返らせてあげるからね』
「えっ。ちょっ、それって、」
シザーリオが聞き返す前に――通話は切られた。
■
シザーリオからの通話を容赦なく切断したリョウコは、多機能端末であるクリスタル・タブレットを操作して、別な機能を立ち上げた。
タブレットの表面に、グラフと数字がいくつも並んだ画像が映し出される。それは、シザーリオ・パッケリの健康状態を示すモニターだった。シザーリオのみならず、『スイス・ガード』のメンバーの体内には、体調をチェックする特別なチップが埋め込まれており、怪我したり、死亡したりした場合には、すぐにわかるようになっているのだ。
このモニター・チップはスグレモノで、体調の観察のみならず、内部に仕込まれた水石の力によって、怪我を回復させるなんてこともできる。いや、回復どころか、脳さえ無事なら、死亡した肉体すら蘇生させてしまうのだから、これはもはや医療の域を超えた技術だった。
さて、そこまでの凄まじい仕事ができるチップだから、もちろん、生かすことの逆だって、簡単にできる。
さすがに人為的な操作が必要になるが、リョウコは何の気兼ねもなく、それをやってのけた。シザーリオの現在の状態――『グリーン(健康)を維持』という設定を解除し、別なコマンドを選ぶ。
「えーっと……『シザーリオ・パッケリ――心臓麻痺』と」
あくびをしながらの、ほんのわずかな指の動き。それだけで、この四十秒後、遠いガリアにいるシザーリオは、虫のように心臓を止めて死んだのだった。
(これで、彼から余計な情報が漏れることはない、と。
シザーリオは根性のある子だが、たとえばギアスなんか使われたら、さすがにどうしようもないだろうからなぁ。やっぱり、この手の決断は、早く、非情にが鉄則だよね)
リョウコは眠気の残る頭で考えながら、自分の部屋を出る。時刻は朝の八時――ドウゴの温泉宿の、板張りの廊下には、まだひんやりした空気が残っている。開け放たれた格子窓の向こうに見える庭では、朝露に濡れた木々が、一日の最初の光を浴びて、きらきらと輝いていた。
(とりあえず、朝風呂にでも入って……それから、セバスティアンに連絡するか。
しかし困ったなぁ。大隆起がまだ始まってもいないのに、『スイス・ガード』がひとり欠けるなんて。
シザーリオを倒したのは、十中八九ガリアの虚無だろう。四系統メイジごときにやられるほど、彼は弱くない……我々の予想を覆せるのは、いまだに詳細不明の虚無だけだ。
ジョゼフ王が、シザーリオを撃退できるレベルの実力者だとすると、楽観せず、気を引きしめてかからなければ。次に誰を刺客として差し向けるかは、セバスティアンとの相談で決めなくてはならないが、その任務を受けた者には、けっして油断しないよう、しっかりと言い聞かせておこう)
残る『スイス・ガード』は、リョウコ自身を除けば、三人。
『轟天』。
『極紫』。
『悪魔』。
皆、『水瓶』のシザーリオを上回る強力なスクウェア・メイジたちだ。二度目の失敗はない――大隆起を看過し、全人類を滅ぼそうとしている彼女たちが、たかだか虚無のひとりやふたりを片付けられないようではいけないのだ。
リョウコは、自慢の黒髪を掻き上げながら、朝陽とは反対の方向に目を向けた。そして、滅びゆく種族の、生きるために足掻く姿に思いを馳せる。
生きようとする意思は美しい。しかし、それ以上にはかない。
彼女とその仲間たちを除いた人類に、果たして生き抜くだけのパワーがあるのか。彼らは、リョウコたちにどこまで抗えるのか。
少なくとも、その行く末は見届けようと彼女は思った――それがきっと、新たな世界を支配する種の、担うべき役目なのだ。
■
私は、この古い世界に生きている。
六千年以上の時間をかけて、私たちの種はこの大地に繁栄してきた。その末裔として思うが――この世界は、お世辞にも美しいものじゃない。
嫌なものがたくさんある。病気や死がある。事故や争いがある。憎しみや怒りや悲しみがある。
私個人の世界は、嫌な色の絵の具でめちゃくちゃに汚された、見るに堪えないカンバスだ。父を殺され、母を狂わされ、それをした伯父に殺意を抱き、その娘である従姉と憎しみ合った。暗く澱んだ色しか、そこにはない。
しかし、だからこそ――ほんのわずかでも、美しく澄んだ彩りを見つけたならば――それを心から大切にするのだ。
それはたとえば、親友のキュルケだったり。
勇気を与えてくれる『イーヴァルディの勇者』だったり。
美味しいごはんだったり。
あるいは――お互いにすれ違ってばかりいたけれど、ようやく正面からぶつかることのできた、近しい人だったり。
「ねえ。……ねえってば。何であんた、そんなに離れんのさ。もっとこっちに寄っておいでよ」
「嫌。これくらいの距離がちょうどいい」
シレ河に突き出した桟橋に、私は茶髪の少女と並んで腰掛けていた。ふたりとも、手には安物の釣り竿を握り、糸を緩やかに流れる水面に垂らしている。
釣りを始めて一時間ほど経つが、獲物は全然かからないくせに、隣の少女は釣り針にでもかかったかのように、ちょくちょく私の真横に移動してきては、ぴったりと肩と肩とを合わせようとしてくる。私はそのたびに、彼女から離れるように移動し、彼女はさらにそれを追いかけてくる。ちっとも落ち着いて釣ることにならない。
「あんたとくっついてると落ち着くんだよ。釣りってさ、穏やかな気持ちでやった方が、よく釣れるんだろ? だったら、あたしの心をほのぼのさせるために協力しておくれよ、シャルロット」
「ダメ。暑苦しい。近寄り過ぎると糸が絡む。あとなんか恥ずかしい。だから諦めて、イザベラ」
茶髪の少女――かつてはアラベラと名乗っていた少女の、本当の名前を私は呼ぶ。
イザベラは、ヴァイオラからもらったフェイス・チェンジの首飾りで変装して、今日も宮殿を抜け出してきている。私は、彼女のお忍び遊びに付き合わされていた――私の方も、やはり魔法の首飾りを身につけて――藁色のおさげ髪の、リーゼロッテと名乗っていた時の容姿で。
「ふふ、恥ずかしがるあんたって、ホント可愛いからねぇ。どうしても無理強いしたくなっちゃうよ。
できれば、偽物の顔じゃなくて、本当の姿で抱きしめてやりたいけど、その楽しみは、家同士のゴタゴタを片付ける日まで取っておくさ」
「……ばか」
まったく、何がどう間違って、イザベラはこんな風になってしまったんだろう。
王宮にいる間は、周りの目を気にして、これまでと同じように憎らしく威張ったイザベラで通しているが、ふたりっきりになった時や、こうして偽の身分を使っている時は、まるで糖蜜のようにベタベタと甘えてくるようになった。
いちいちくっついてくる彼女は、ちょっと鬱陶しくもあるが――それでも、あの陰険な王女としてのイザベラより、ずっと魅力的だし――何より、自然だ。日陰で萎れていた花が、日なたに出されて、たっぷり水を与えられたような、健康で幸せな感じがする。
実際、今のイザベラは幸せなのだろう。私に正体を明かす前――私の正体を知る前に、彼女が言ったことは嘘じゃなかった。彼女の態度から、私のことを本当に好いてくれているとわかるし、私がシャルロット・エレーヌ・オルレアンだったという事実も、最初こそ戸惑っていたものの、最終的には、むしろ素晴らしい真実として受け入れたらしかった。
イザベラは、私をずっと憎んできた――私の魔法の才能と、私の冷たい態度が気に入らなくて。
しかし、そんな大嫌いな相手を、彼女は大好きになることができた。嫌いなものが減り、好きなものが増えた。そんな幸福を、イザベラは思いがけず手に入れたのだ。
そういう考え方は、素敵だと思う。私も、嫌いなものが好きなものに反転する現象を、イザベラと同時に味わった。だから、実感として、彼女の幸福を理解できる。
寄ってくるイザベラから、三十サントだけ逃げる。それを繰り返す私が、とても穏やかな気持ちでいると、彼女は気付いているだろうか?
めちゃくちゃにもつれた糸のようだった私たちの関係を、きれいにほどいて結び直してくれたヴァイオラには、いつかお礼を言いに行かなくてはならないだろう。彼女が用いた方法は、心臓に悪いとんでもないものだったけれど――結果として、私とイザベラに最良の結果をもたらしてくれたのは、間違いないのだ。
「そういえば、さ。これは独り言なんだけど」
釣れない時間が、さらに三十分ほど経過した頃、イザベラが空を眺めながら、ぽつりと呟いた。
「非公式だけど、親父のところに、砂漠のエルフがひとり、客人として滞在してるんだよ。
エルフって奴は、人間の知らない知識をたくさん持ってる。薬学にもすごい精通しているはず。
もし、未知の毒薬のせいで体を悪くした人がいて、その娘さんが困ってる、なんてことがあったら……あたし、そのエルフに、解毒剤がないかどうか、聞いてあげてもいいよ」
その言葉に、私はたっぷり十秒以上、彼女の横顔を見つめてしまった。
「……いいの?」
「駄目ってことはないだろ。あたしだって、親父の残酷趣味にゃ、ほとほと愛想が尽きてんだ。
あいつが今までにやってきた悪いことは、償われなくちゃならない。取り返しのつかないこともたくさんあるだろうけど、まだ手遅れになってない問題なら、何とか埒を開けてやりたいのさ。
言ったろ。あたしはあんたを、本当の姿で抱きしめてやりたい。それができるようになるためなら――あたしと、あたしの家がやってきたことを、あんたに許してもらうためなら――あたしは、何だってやるって決めたんだ」
力強いその言葉に、私は戸惑って顔を伏せた。
そんな日が、果たして来るのだろうか。
母様の病気が治り、ジョゼフが罪を償い、私が怨みを忘れて――私の家とイザベラの家が和解し、みんな仲良く暮らせるような、そんな日が。
夢のような期待を持つのは、愚かなことだ。でも、私は、その輝かしい未来のヴィジョンが現実になって欲しいと、心から思った。
「あ、シャルロット。あんたの竿、引いてるよ」
その注意に、はっと我に返る。見ると確かに、浮きが沈んで、竿がしなっていた。
ぐっと竿を立てて、獲物を釣り上げようとする。しかし、なかなかの大物らしく、力がすごい。私の腕力では、こちらに引き寄せることができない。
と、その時、イザベラの暖かい手が、私の手に添えられた。
「息を合わせて引っ張るんだよ……そぉ、れっ!」
ふたりで竿を操り、獲物を桟橋に近付ける。
さっきより、ずっと竿が軽い。ふたりでやっているから――そうだ。独りでは難しくても、ふたりなら――。
「釣れた」
暴れ回る獲物が、とうとう水面に顔を出した。
それは、青黒いひげの生えた、大きなナマズだった。
〜おまけ・その頃の『スイス・ガード』の皆さん〜
極紫「シザーリオがやられたようだな……」
悪魔「フフフ……彼は私たちの中でも最弱……」
轟天「虚無ごときに負けるとは、『スイス・ガード』の面汚しよ……」
リョウコさん「何でだろう、急にものすごく不安になってきた」