コンキリエ枢機卿の優雅な生活   作:琥珀堂

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うひゃはははは! 久しぶりの投稿じゃー!


アーハンブラ断章(フラグメンツ)/ジョゼフはみんなにひどいことしたよね(´・ω・`):その1

「ふむ……膠着状態、か」

 薄暗い遊戯室の中で、ガリア王国国王ジョゼフ・ド・ガリアは、短い髭に縁取られた自らの顎をさすりながら、小さく呟いた。

 彼の視線は、目の前にある巨大なジオラマセットに向けられていた。専門の職人によって作られた、非常に精巧な大地の模型だ。山があり、谷があり、森があり、海があり、街があり、国がある。まるで世界のミニチュアのようだ。

 そして実際、それは世界のミニチュアだった。現実の地形を正確に再現した、スモール・ハルケギニア。ジョゼフの作った、彼が見守る、彼が神様の世界。

 その世界では、今、戦争が起きていた。無数の兵隊の駒が、大陸と空に浮かぶ島国とに分かれて、睨み合っている。

 天から、ぬっと、ジョゼフの太い指先が降りてきて、駒のひとつをつまみ上げ、別な場所に下ろす。

 ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ。戦艦の模型もあり、それも彼の手によって移動させられる。大陸側の空軍が、島国を取り囲むように展開した――特に、港の使用を封じて、島から出ることも入ることもできないように――分厚く、隙間なく。

 その状態をしげしげと見つめて、その意味するところを頭の中で咀嚼して、ジョゼフはため息をつく。

「トリステイン・ゲルマニア連合は、包囲戦術を採用したか。まったく、危なげのない判断だ。しかし、非常に気の長い戦術でもある。

 ゲルマニア皇帝がアドバイスを与えたものだろうが……まだ若いアンリエッタ姫が、このやり方を採用するとは、少々意外だったな。ウェールズ皇太子の死体を使って、戦意と憎悪を煽ったつもりだったのだが、あの程度では足りなかったか……それとも、見た目より自制心があったということか?

 まあそれはどちらでもいい。問題は、これでは面白くないと言うことだ……こんなに戦況が硬直してしまっては……大規模な軍団同士がぶつかり合い、たくさんの血が流れ、たくさんの人が死に、たくさんの悲劇が生まれる……それを期待していたのに。

 こんな退屈な持久戦では、戦艦一隻落ちることすら考えにくいではないか」

 まるで楽しみにしていたピクニックが、雨のせいで中止になったことを嘆くような、そんな屈託のなさで、ジョゼフは文句を言う。

 そう、このジオラマの上で展開しているのは、けっして架空の戦争ごっこではない。駒のひとつひとつが実際の世界での、トリステイン・ゲルマニア同盟軍、アルビオン軍の各部隊が存在する位置を表していたし、軍艦の動きも現実のものと変わらない。では、実際の戦争の状況を、ジオラマの上に再現しているのかというと、それも違う。

 このジオラマの戦争こそが、先に起こっているのだ。

 ジョゼフは、オリヴァー・クロムウェルというブリミル教司祭をアルビオン皇帝に祭り上げ、彼を操ってトリステインやゲルマニアに戦争を仕掛けさせていた。ジョゼフはジオラマの上で、どのような戦法でトリステイン・ゲルマニアを攻めるべきかを検討し、思い付いた通りに盤上の駒を動かし――現実でもクロムウェルに、その駒の通りに軍を動かせと命じていた。

 今現在、ハルケギニアの五大主要国のうち三国を巻き込み、世界全体を緊張させている大戦争の正体が、まさかジョゼフのロール・プレイング・ゲームだなどと見抜ける人間は、どこにも存在するまい。このような人の命をおもちゃにする遊戯は、本来は人間のものではなく、他人の流血と悲鳴と死を楽しむ悪魔のためのものなのだから。

 では、ジョゼフが他者を虐殺することに快感を覚えるサディストなのかというと、それも違う。

 彼には、人が苦しむのを見て楽しんだり、興奮したりすることはできない。そういう趣味がない、という意味ではない。何かを楽しんだり、逆に悲しんだり――そういう心の動き自体を、彼は持っていなかったのだ。

 かつて、弟のシャルルを暗殺した時から、ジョゼフの心は麻痺し、あらゆる感動を受け付けなくなった。

 それまでは、悲しみや憎しみなど、とにかく「自分は生きている」と自覚できる心の震えを、ジョゼフは持っていた。

 魔法の使えない自分と違い、天才的な魔法の才能に恵まれていた弟に嫉妬し、魔法以外のことでなら負けてやるものかと、自分を激励し努力を重ねた。学問、武術、さらにはチェスの腕前で大きく差をつけ、弟から勝ちを拾えば、達成感も覚えたし、優越感に浸れもした。

 しかし、魔法の使えないジョゼフは、何で勝ろうと、世間的な評価はシャルルより下だった。父王の没後、王座につくに相応しいのは、誰もがシャルルだと感じていた――弟をライバル視していた、ジョゼフですら。

 それが、どのような運命のいたずらか――父王がいまわの際に、次の王にと指名したのは、ジョゼフの方だった。

 ジョゼフはこの遺言を喜んだ。王になれることを喜んだのではない。シャルルではなく、自分を選んでもらえたことを喜んだのだ。彼はこの時、やっと弟に勝てたと思った――人からの評価でも、自分はお前を上回ったんだ、ということを誇りたかった。きっと期待していたであろう王座を横からかっさらわれて、悔しがる弟の姿が見られれば、ジョゼフはこれ以上ない満足感に浸れただろう。

 しかし、シャルルは悔しがらなかった。

 笑顔で、兄のことを祝福したのだ。

 まるで、自分には王座など必要なかった、と言わんばかりに。

 兄の必死の闘争など眼中になく、別にどっちが上でも構わない、と言わんばかりに。

 親しみのこもった弟の祝福に、ジョゼフは、あらゆる努力が、優越感が、やる気が、悔しさが、涙が、つまりこれまでの自分の人生が、無惨に叩き潰されたのを感じた。

 大切にしていた価値観を破壊した弟に、ジョゼフは毒を塗った矢で復讐を遂げた。しかし、それは単にこれまで目標にしていたものをゴミ箱に入れたというだけのことで、あとには結局何も残らなかった。

 心に風通しのいい穴が空き、感じたことすべてが、彼の中を素通りしてしまうようになった。そんな風になってしまった者の人生に、どのような希望があるだろうか?

 平坦な凪の海では、船はどこにも進めない。ジョゼフは懐かしむ――苦痛も多かったが、前に進んでいるという感触のあったかつてのことを。

 生きている実感が欲しい。心の震えを取り戻したい。それができなければ、自分は永遠に立ち止まったままになる。

 では、どうすれば心の震えが戻ってくるのか?

 ジョゼフにとっての最後の感情は、シャルルを殺した瞬間の悲しみだった。あれに匹敵する悲劇を目の当たりにし、自分に強い精神的ショックを与えれば、眠っている感情が呼び起こされるかも知れない。

 発想自体は非常に素朴で妥当そうに見える。しかし素朴過ぎたゆえに――この場合は無邪気過ぎたと言うべきか――以降のジョゼフは、周囲に悲劇をばらまく暴君となってしまった。

 シャルル派だった貴族たちを大量に処刑した。シャルルの妻には毒を飲ませ、心を病んだ廃人にしてしまった。さらにはシャルルの幼い娘さえも、母親を人質にして脅し、汚れ仕事を請け負う騎士にして、いつ死ぬともわからない危険な任務をやらせるようにした。

 常人であれば、目を覆いたくなるような悲劇の連鎖。しかしそれを間近で見ていても、ジョゼフの心にはさざ波ひとつ立たない。

 やがて彼は、もっと大きな悲劇、戦争を起こすことを思い付いた。まずはアルビオンで革命を起こさせ、それがうまくいくと、トリステインやゲルマニアに戦火を広げようと企んだ。

 ――しかし――。

 親善大使として偽装したアルビオン艦隊に、トリステインを奇襲させたまではよかった。残念ながらそれは撃退されてしまったが、トリステイン国民にアルビオンへの敵意を植え付けることには成功したはずだ。

 さらに、アンリエッタ姫に対する挑発行為によって、トリステインはアルビオンへの報復を兼ねた侵攻を決意する――はずだった。恐らく同盟国であるゲルマニアも参戦し、三国の軍隊が総力をあげてぶつかる、大規模戦闘が勃発する――はずだった。大勢が直接的に殺し合い、ジョゼフの心を揺り動かすような、この世の地獄を現出させる――はずだった。

 そのはずだったのに、トリステインは理性的に行動する決断を下した。

 アルビオンを包囲し、輸入を規制することで、戦闘なしで相手を降伏させる戦略を取ったのだ。

 確かに、アルビオンは小さな国で、土地もさほど豊かではない。食料自給率は低く、かなりの割合を外国からの輸入に頼っている。

 しばらく食料の供給を止めてやれば、いずれアルビオンは飢えて白旗をあげなくてはならなくなるというわけだ。

 合理的で効率的。アルビオンへの敵意と、直接的な害意さえ抑えられれば、最も良い解決策と思われる。

 ただ、ジョゼフにとっては、それは非常に拍子抜けで、つまらない展開だった。

 そんな穏やかな決着では、絶対に彼の心は震えない。もっと血が。悲鳴が。悲劇が必要だったのに。

「ううむ、いっそアルビオンに、再度トリステインを攻めさせるか? いや、前回の失敗で、空軍がひどく消耗している。恐らくあっという間に鎮圧されてしまうな。戦争の火種が、ますます小さくなるだけだ。

 更なる挑発やゲリラ戦術は……いや、今のトリステインとゲルマニアの結束は固い。散発的な攻撃では小揺るぎもすまい。さて、どうしたものか……」

 相手は攻めを放棄している。こちらから攻めることもできない。状況を動かしうる最も大きな要因は時間だが、待てば待つほど、アルビオンは飢えて弱っていく。

 はっきり言って詰みに近い。もちろん、ジョゼフならば、ここからでもアルビオンを逆転勝利させることのできる策を、いくつでも思い付くことができたはずなのだが、この日の彼は今ひとつ、ゲームに集中できないでいた。

 というのも、他に気になることがあって、ことあるごとにそれが脳裏をよぎったからだ。連続すべき思考はそのたびに分断され、膨らみかけたアイデアはしぼんでしまう。ジョゼフにとって、それは非常に不快なことだった。

 ジョゼフの胸につっかえているもの。それは、彼の娘であるイザベラについてのことだった。

 イザベラ・ド・ガリアは、父によく似た娘である。もっとも、外見的な一致は美しいロイヤルブルーの髪ぐらいなものだが、内面は相似形と言ってもいいほどに似ていた。

 魔法の才能に乏しいこと。そのことにコンプレックスを抱いていること。劣等生の自分と、優秀な従妹のシャルロットとを比べて、自己嫌悪と嫉妬に身を焦がしていること。

 どこをとっても、シャルルと張り合っていた頃のジョゼフ自身だ。

 そんな娘に、ジョゼフは親近感ではなく、同族嫌悪を覚えていた。彼にとって、娘は過去の幻影だ。情けなく、無様で、絶対に幸せになれない。努力はすべて無駄に終わり、誰からも認められず終わる。自分の経験を通じて、そんな未来が手に取るようにわかる。見ているだけで――嫌になる。

 だからこそジョゼフは、イザベラに彼女が嫌うシャルロットをあてがった。イザベラを上司とし、シャルロットを部下として監督しなければならない立場に立たせた。

 これはイザベラ、シャルロット両方に対する嫌がらせだった。シャルロットの才能に嫉妬するイザベラ。父を殺し、母を病ませた仇の娘に従わなければならないシャルロット。ふたりは当然反目し合い、鬱屈を溜めていくだろう。それがつもり積もって、やがて悲劇的な爆発を引き起こしてくれればな、と、ジョゼフはぼんやり期待していた。

 ――ところが。

 先日、ジョゼフは見てしまったのだ。イザベラとシャルロットが、息もぴったりに協力し合い、ロマリアからの客であるコンキリエ枢機卿を追い詰めてくすぐり倒していたのを。

 その時のふたりは、まるで虚無の曜日ごとに待ち合わせて一緒に遊びに行くような、仲のいい友人同士のようだった。屈託もわだかまりもなく、好意によってつながっていることが見てとれた。

 ジョゼフはそれを見ていて、胃が重くなるような感覚を味わった。彼自身気付いていなかったが、それは久しぶりに発現した、動揺と嫉妬の気持ちだったのだ。しかし、鈍感な彼が自覚できたのは、なぜこんなことが起き得るのだ? という疑問だけだった。

(イザベラとシャルロットは、互いに嫌い合うように仕込んでいたのに。いつの間に、何が起きたのだろう?

 シャルロットだけならまだしも、俺に似ている、空っぽの心しかないイザベラが、あそこまで生き生きしているのは解せない。なぜあいつは鬱々としていない? 楽しそうにはしゃいでいる? 理屈に合わない……公平じゃ、ない)

 ひとたびそのことが頭にとりつくと、盤上の戦争ゲームはしばらくの間無視される。やがて、横道にそれていることに気付いたジョゼフが、あらためて駒をどう動かそうか考え始めても、イザベラとシャルロットの顔が、皮膚に刺さったまま抜けない棘のように気になってしまい、集中できない。

 ジョゼフのゲームは、トリステイン・ゲルマニア同盟の気長な戦術と、ジョゼフ自身の思考の不調によって、ここ数日、ほとんど進んでいなかった。

「……ここまでだな。このゲームにも、飽きが来た」

 手のひらをざっと動かし、彼は、ジオラマの上に並んだ駒たちを、ひとつ残らず床に払い落とした。

 ジョゼフが飽きて、ゲームを放棄することは珍しいことではない。もっとも、彼が盤を放り出す理由のほとんどは、簡単に勝て過ぎてつまらないから、というものだから、集中できなくてやめる、という今回のケースは、実に珍しいものと言えた。

 一度放棄したゲームにはもう目もくれないので、アルビオンとトリステイン・ゲルマニア連合の戦争は、これ以降は自然の定める通りに展開し、決着することになるだろう。

 そしてジョゼフは、また新しいゲームを――悲劇を産み出すゲームを探してさ迷うのだ。

 さて、何かないだろうか。戦争より刺激的で、規模の大きい悲しみを作り出すものは?

 それとも先に、目障りなイザベラとシャルロットの件を何とかすべきか。彼女らを不幸の沼に首まで浸けておかなければ、気が散っていけない。

 悲劇的なゲームをプロデュースしつつ、そこにイザベラたちを巻き込めれば一石二鳥なのだが――。

「……ジョゼフ様」

 考えるジョゼフの後ろ姿に、突然声をかけた者があった。

 彼が振り向くと、そこには暗がりに溶け込むように、ひとりの女が立っていた。

 ハルケギニアでは珍しい、長い黒髪。豊かな胸に引き締まったウエスト、長い脚という魅惑的な肉体を強調するような、薄手の黒いドレスを身にまとった、黒ずくめのその姿は、まるで夜の妖精のようだ。

 顔立ちもその雰囲気に相応しく、妖しい美しさを備えている。紫色のルージュを引いた唇は艶然と微笑み、切れ長の目にはジョゼフに向ける親愛と敬意とが表れていた。

 そして、特筆すべきはその額。魔力を帯びて淡く光る、不思議なルーン文字が、大きく刻まれている。

 見る者が見れば、それが古い伝承に記された四体の始祖の使い魔、その中でも神の頭脳と呼ばれるミョズニトニルンを表すものだということに気付くだろう。

「おお、余の女神(ミューズ)。ちょうどいいところに来てくれた。実はな、例のアルビオンを使った戦争ゲームに、すっかり退屈してしまったのだよ。

 新しい娯楽を探さねばと思っているのだが、どうもいいアイデアが浮かんでこなくてな。お前の周りに、何か面白いことはないだろうか?」

 ジョゼフの親しげな呼びかけに、ミューズと呼ばれた女性――王宮内では、ミス・シェフィールドという名で知られている――は、ジョゼフを慰めるように、彼の手に自分の手のひらをそっと添えた。

「それは残念でしたわね。

 まあ、クロムウェルも自分の国の面倒ぐらいは自分で見られるでしょうし、放置しても問題はないでしょう。

 それにしても……新しい娯楽、ですか。生憎ですが、すぐには思い付きそうにありませんわ。

 今日、ここにお邪魔しましたのも、何てことのない事務報告のためですから。先日、王宮に侵入した曲者についての調査結果がまとまりましたので、ご報告に上がりましたの」

「ふむ? 曲者というと、あのわけのわからん男のことか? 巡回の兵士たちにまったく気付かれずに、王宮の深部にまで入り込んできたくせに、なぜか廊下の真ん中で気絶していて捕まった……」

「はい、その男のことですわ。身元を示すものをまったく身に付けていませんでしたので、尋問するために牢に閉じ込めておいたのですが、話を聞く前に心臓麻痺で死んでしまった、あの男です」

「うむ。だが、死体は残っていたのだろう? ならば、結局尋問は成功したはずだな?」

「ええ、もちろんです。これさえあれば、曲者だろうと死体であろうと、私の忠実な友人ですわ」

 言ってうっすらと笑みを深めたシェフィールドの右手、その人差し指には、何やら不思議な雰囲気を醸し出す、古びた指輪がはめられていた。

 これはラグドリアン湖に棲む水の精霊の秘宝で、名をアンドバリの指輪という。

 強い水の力を宿しているマジック・アイテムで、人の心を操って奴隷にしたり、果ては死者に偽りの命を与えて蘇らせたりすることができるのだ。ジョゼフはシェフィールドを介して、クロムウェルにこの指輪を一時貸し与え、その力でアルビオンを支配させたのだった。

「で、あの曲者はどこの手の者だった? 地下に潜っているシャルル派の生き残りか? それとも、『テニスコートの誓い』のような過激派だったか?」

「いえ……それが、なんと言いますか……」

 問われたシェフィールドは、急に、困ったように口ごもる。

「誰の差し金だったか、聞き出すことはできました。ですが、その、その証言が、いまいち信用できない可能性が……」

「? どういうことだ? アンドバリの指輪を使ったのなら、使われた者はお前に忠実になるはずだ。ならば嘘は言うまい。まさか指輪の力に反抗している、などとは言うまいな?」

「いえ、そういうことではございません。ただ、あの男、死ぬ前から、ここに問題があった可能性が……」

 そう言って自分のこめかみを指差すシェフィールド。そのしぐさで、ジョゼフは状況を理解した。

「ああ、なるほど……狂人の類か。それは少々厄介だな。

 で、結局そいつは、どんなことを言っているのだ? 夢枕で、ブリミルに命じられたとでも言ったか?」

「それに近いです。自分はどっちにしろ生き返るはずだったのだとか、この仕事の報酬として国をひとつもらうはずだったのだとか、馬鹿馬鹿しいことを真剣に話すのですから」

「ふむ……確かに、まともではないな……。

 だが、まあ、ちょうど暇をしていたところだ。狂人の夢見がちな話を聞くのも、退屈しのぎにはなるかもしれん。

 シェフィールドよ、その男をここへつれてきてくれ。余が自ら、証言の真偽を確かめよう」

「はっ。かしこまりました、ジョゼフ様」

 優雅に一礼して、シェフィールドは闇に紛れるように、音もなく退室していった。

 ジョゼフにしてみれば、この命令は自身の言葉通り、退屈しのぎ以外の何物でもなかった。次の娯楽を見つけるまでの、どうでもいい時間潰し。

 それがまさか、自分の人生を左右する重大な出会いにつながっているとは、思ってもいなかった。

「つれて参りました、ジョゼフ様」

 五分ほどで戻ってきたシェフィールドは、二十歳前後ほどの、若い男を伴っていた。

 長い金髪を、頭の後ろでみつあみにした、なかなかの美青年だ。パリッとしたシャツ、脚の長さを強調するようなタイトなズボンなど、身に付けているものも洒落ている。暗殺者というよりは、舞台役者か何かと言われた方がしっくり来るだろう。

 彼はシェフィールドに押し出されるようにジョゼフの前に立つと、ややぎこちない笑みを浮かべて、「どうも」と挨拶した。少しだけ緊張しているようだが、本来は人懐こい、明るい性格の人物なのだろうと、ジョゼフは判断した。

「お前が、余を暗殺しようと宮殿に侵入した不届き者だな」

 ジョゼフが威厳を込めてそう尋ねると、青年はばつが悪そうに肩をすくめて、こう答えた。

「ええ、仰る通りです。

 でも、結局失敗して、陛下には傷ひとつつけずに終わりましたし、今じゃこちらのシェフィールド姐さんの部下になりましたんで、どうか過去の悪さは水に流しちゃくれませんかね?」

 そのさばけた態度が、ジョゼフの表情をニヤリと笑わせた。

「ふっ、とぼけた奴だな……気に入った。

 よかろう。貴様の無礼は、今回に限り忘れてやろう。もちろん、余の役に立たないようなら、いつでも思い出すことができるがな。

 さて、それはそれとして、だ。貴様には色々と聞きたいことがある。余が直々に尋ねてやるのだ、心して答えよ。

 まずはそうだな……貴様の名を聞かせろ」

「名前っすか? へえ、シザーリオって言います。シザーリオ・パッケリ。どうぞよろしく」

 

 

 健全な精神は健全な肉体に宿る、という言葉がある。

 しっかり鍛えられた健康な体の持ち主は、心根も鍛えられて立派になるっちゅー意味で、要するにスポーツ万歳貧弱な坊やはクズじゃからちったぁ動いて筋肉つけやがれ、って感じの、汗と青春至上主義者どものスローガン的なあれじゃね。

 さて、この言葉、裏返すとまた違った意味になる。つまり、もとから人に尊敬されるような立派な精神を持っておる人間は、自動的にその肉体も健康である、ということじゃ。

 ならば、ロマリアにおいて絶大な権力を誇り、多くの信者に慕われ、まさに人の上に立つべくして立つ我のような人間は、その白雪のように純粋で清浄な心根の加護によって、常日頃から健康に恵まれるのが当然と言えよう。仮に怪我をしても、すぐに治ってしまうべきである。でなければ道理に合わぬ。

「ふはははーっ! 見るがいいシザーリアよ! 我のこの脚の動きのなめらかさを! これはもはや、完全復活と言って差し支えなかろう!」

「お見事ですヴァイオラ様。あんよが上手でございます」

 メイドのシザーリアに手で支えてもらいながら、我は病室の中を二本の脚で縦横無尽によちよちよちよちと歩き回る。

 数日前、何かわからんがイザベラ姫とタバサにくすぐり倒された我は、脚の肉離れという恐ろしい怪我を負った。

 しかし、ガリア王宮お抱えの医師どものそれなりな治療と、我自身の清廉潔白な魂が肉体に及ぼした聖なる感じのヒーリング作用(我のようなエライ人間にならきっとあるはず)によって、早くも通常の歩行が可能な程度には回復することができた。まだ本調子とは言えんが、リハビリ代わりにこうして室内限定で動くことならちょちょいのちょいじゃ。

「ふーっ。この調子ならば、明日にはもう、この辛気臭い病室からおさらばできるやも知れんな」

「ヴァイオラ様ならば、きっと可能でしょう。ですが、どうかご無理はなさらぬよう」

「わかっておるわ。じゃが、いつ我が元のプチ・トロワの客室に戻ってもええように、準備はしておくのじゃぞ」

「心得ております。お部屋着も、よそ行きのお召し物も、いつでも袖を通せるようにご用意させて頂いております」

「うむ、よい心がけじゃ。まあ、治ったらばすぐに、ロマリアに帰るという選択をする可能性もありうるがの。この国には、ちと長く留まり過ぎたわ」

 ホントなら、シエイエス大司教を陥れる手紙をジョゼフに届けたらば、そのあとほんの二、三日観光してすぐ帰るつもりじゃったのに、なんやかんやあり過ぎて、もう二週間近くこのヴェルサルテイル宮殿に留まっておる。それが実りのある日々ならよかったんじゃが、結局のところ損ばかりで、なーんも得はしておらぬ。

 シエイエスを陥れる計略は、シエイエス自身が陥れられるまでもなく最初から穴の底におったせいで、よーわからんうちにうやむやになったし、じゃあせめてイザベラ王女に取り入ってガリアの国政を裏から操ってやろうと企んだら、やっぱりよーわからんうちに王女とその従妹のシャルロット殿下(パーソナルネーム:タバサ)の怒りを買って、全身くまなくこちょこちょされるし。そのせいで肉離れを起こして、ベッドでしょんぼりせねばならなくなるし――つまるところ我、ガリアに来てから怪我しか手に入れておらぬ。

 どうもこのガリアという国と、我との相性は非常に悪いようなのじゃ。これ以上居続けても、利益があるとは思えんし、むしろ厄介ごとばかり増え続けそうな気がする。やはり住み慣れたロマリアが一番じゃ。早くおうちに帰って、我を礼賛してくれる世の中のバカどもを見下ろしていい気分になりたい。

 というわけで、当面の目標は怪我の全快と速やかな帰郷じゃね。そしてそれが無事に叶うまで、余計なアホイベントがひとつも入らんようにとも祈っておきたい。あの凶悪なイザベラ姫だとか、我を妹扱いする甘ったれのタバサとはもう金輪際関わってやるものか。

 と、そんな風に思っていた時じゃった。こんこんと扉がノックされたのは。

 シザーリアに目配せして、来客のために扉を開けさせる。入ってきたのは、なんか全身真っ黒な出で立ちのカラスみたいな女じゃった。陰気なカラーリングのくせに胸はでかかったので、ちょっとばかしイラッとした。じゃが、立派なブドウの盛られたフルーツ籠を携えておったので、我のイラつきは瞬時に雲散霧消した。甘いものは心を穏やかにしてくれる。見舞品としてはやはりこういうものがありがたい。

「失礼いたします、マザー・コンキリエ。お加減はいかがですか」

「うむ、順調によくなっておりまする。ところで、おたくはどちら様でしたかな?」

「これは失礼しました。私、ジョゼフ一世陛下の直属の女官で、名をシェフィールドと申します。どうぞお見知りおきを」

「おお、陛下の……」

 となると、ちょっとへり下っといた方がいい相手っちゅーこっちゃな。

 今んとこあのジョゼフのバカ王とは特に確執もないし、奴との付き合いは今後の商売に役立つじゃろう。奴と直接的な接触のある女官に媚を売ることは、きっといい結果を生むはずじゃ。

「さ、どうぞこちらの椅子にお掛け下され。シザーリアよ、ミス・シェフィールドのお荷物をお預かりせい。

 ここでは、あまりよいもてなしもできませぬのが残念でございます。もしお時間を頂けるようでしたら、このメイドにお茶を入れさせますが」

「いえ、お気遣いなく。本日は、陛下からの伝言をお伝えしに参りましただけですから」

「陛下からの伝言、ですかや」

 シザーリアが受け取った美味そうなブドウを横目に見つつ、我はシェフィールドに言葉の続きを促した。

「ええ。『明後日の晩餐に、マザーをご招待したい。ご多忙でなければ、是非おいで願いたい』だそうです」

「ほほう! 王様からご招待を頂けるとは、実に光栄ですな」

 うむ、やはりさすがは一国の主、シエイエスの偽手紙を持ってきた我に、ちゃんと恩義を感じてくれておるようじゃ。ケツの青い小娘のイザベラとは違うわい。

 これはあれじゃな、晩餐での他愛ない会話に乗じて、しっかりコネを固めておけという始祖のお導きじゃな。つまり逃してはならない千載一遇の大チャンス。ここしばらく全然いいことなかったが、ここに来てようやく運が向いてきたか。

「かしこまりました、ミス・シェフィールド。必ず出席いたしますと、陛下にお伝え下さいませ」

「ありがとうございます、マザー。陛下もお喜びになられますわ」

 そう言って、にっ、と唇の端だけをつり上げてみせるシェフィールド。その笑い方が少し胡散臭く見えたのは、果たして我の気のせいじゃったろうか。

「では当日、またお迎えに参ります。それまでにお怪我がご快癒なさるよう、陛下と共にお祈りいたします」

「お心遣いに感謝いたしますぞ、ミス・シェフィールド。ではまた、明後日の夜に……」

 そうして話を終えると、ミス・シェフィールドは丁寧にお辞儀をして、部屋を出ていった。まったく、王の側近らしい、そつのない態度であった。

 その後ろ姿が、閉じ行く扉の向こうへ完全に消え去るのを見送ってから、我はフムン、と息を吐き、控えるシザーリアの方を向いた。

「聞いた通りじゃ、シザーリア。明後日の予定ができたわ。

 王との会食に相応しい、品のいい洋服を出しておけ」

「かしこまりました。僧服と夜会用のドレスとでは、どちらがお好みでしょう?」

「んー、普段が僧服じゃからのう。たまにはドレスにしようか。柔らかくて丈が長くて、淡い色合いのやつがよかろうの。

 アクセサリーは、おっきなダイヤのついた髪飾りがあったじゃろ。あれを出しとけ。上品な席にはちょうどいい」

 そう指示を出しながら、我は内心でニヤつく。せいぜいあのアホ王に媚びて媚びて媚びまくって、今までの損を取り返すようなでかいお土産を引き出させてもらうとしよう。

 なーに、相手は国際的にアホだバカだ無能だと言われまくっておる残念王じゃ、聡明なる我ならば、調子に乗らせたり騙したり言いなりにしたりするくらい、おちゃのこさいさいじゃろうて。

 領地を寄越せとかまでは、さすがの我も言いはせぬ。でも、美味い酒を作るワイナリーとか貴族の集うレストランの経営権とか、そういう軽いもんであれば、ポンとくれたりするくらいの太っ腹さは期待してもよかろうな? ウエヘヘヘヘ。

 よっし、モチベーション上がってきたのじゃ! 明後日までに、優雅で美しいウォーキングができるよう、体を仕上げておかねば! 我はやるぞー!

 

 

「ねえ。聞いたところによると、あんたはいろんな薬を作れるんだそうだね?」

 グラン・トロワの奥の奥、特別に許された者しか立ち入ることのできない秘密の部屋で、あたしは――イザベラ・ド・ガリアは、そんな問いかけを口にした。

 何でもない世間話の一部のような、きわめてさりげない切り出し方ができたと思う。でも、内心は緊張と恐怖でかなりガクガク震えてた。問い掛けた相手というのが、ハルケギニア人ならばまず恐れずにはいられない存在だったから。

 あたしは恐怖を押し殺しながら、そいつを直視した。長い金髪を背中まで垂らした、背の高い男だ。話しかけられたにも関わらず、こちらに背中を向けたまま、振り向こうともしない。何やら得体の知れない草や干物を乳鉢に入れて、丁寧にすり潰している。

 王族であるあたしを無視して、手仕事の方に集中しているこの野郎の無礼を咎めてやりたいところだけれど、それだけは我慢しなくてはならない。あたしの計画にこの男の協力は必要不可欠だし、仮に必要ないとしても、こいつを怒らせるような行動は慎まなければならない。純粋な戦闘力の問題で、あたしではこいつに勝つことができないからだ。いや、ぶっちゃけ、花壇騎士を全部束にしてぶつけても、普通に返り討ちに遭う危険性がある。あー、そんな危険物に単身で向かい合うあたしって、なんて勇気があるんだろうね。

「なあ、答えておくれよ。暇なお姫様の知的好奇心を、軽く満たしてくれるだけでいいんだ。

 あんたたちの薬学は、あたしたち人間のものよりずっと進んでるんだってね? ちぎれた手足を元通りつなげるような薬や、流行り病を治すどころか、かかることすら予防できる薬とか。

 毒薬もとんでもないのがあるって聞くよ。一度口にすれば、永続的に心を病ませる呪いの薬とかあるらしいね。まったくゾッとするよ。

 でも、そんな薬のレシピがあるんなら、当然解毒剤のレシピもあるんだろうから、心配はいらないんだろうけど……」

「念のため言っておこう、蛮人の姫、イザベラよ」

 そいつはあたしの口上を、感情のこもらない冷たい一言でさえぎり、そっとこちらを振り向いた。

 ナイフを思わせる切れ長の目。凛々しく一文字に結ばれた唇。大理石の彫刻のように整った、ちょっと人間離れした美形だ。そして実際、こいつは人間じゃない。その証拠に、その耳はピンと尖って長く、砂漠にすむ恐るべき亜人、エルフの特徴を完全に備えていた。

 彼は言葉を止めた私に、まるで楔を打ち込むように、こう言ってのけた。

「もし、その精神を病ませる毒薬が欲しいとか、その毒の解毒剤が欲しいと言うのなら、諦めることだ。我はその要求に応えることができない」

「ッ……そ、そりゃいったいどういうことだい、ビダーシャル卿」

 あたしは足元を崩されたような気持ちを味わいつつも、それを表に出さないよう踏みとどまって、エルフに――ビダーシャルに食い下がった。

「まだ頼んでもいないのにさ、何でそれに応じることができない?

 薬を作れないってわけじゃないんだろ? 対価が払えないだろうとか思ってるんなら、そりゃ侮辱だよ。あたしだって一国の姫なんだ、金なら有り余って……」

「そうではない。理由は、契約に反する結果を生む可能性があるからだ。

 我は今、お前の父君であるジョゼフと契約を結んでいる。彼に願い事を聞いてもらう代わりに、彼のために働いているわけだ。

 お前の依頼を――まあ、毒薬や解毒剤の製作を依頼する意図があったとしてだが――受けてしまうと、ジョゼフにとって都合の悪いことが起きるかもしれないと考えられる。我は、雇い主の利益を損なう行いは、できる限り慎まなければならない」

「つ、都合の悪いことって……あたしが何をするってんだい」

「お前は王位継承権を持っている。そしてジョゼフは、あまり評判のいい王ではない。

 我がお前に毒を与えたとして、それを王に使わないと誰が言える?」

 歯に衣を着せない物言いに、さすがのあたしも二の句が継げない。

「求めるものが解毒剤であっても、似たようなものだ。ジョゼフは政治的に敵対関係にあったオルレアン公夫人に、精神を病ませる毒を用いている。そのことはお前も知っていよう。

 もしも解毒剤が、公夫人の治療に使われたなら。ジョゼフにとっては好ましいことではあるまい。

 そんな使い方をする気はない――と、お前は言うかも知れないが、この場合お前の意思は関係がないのだ。お前に渡った解毒剤が、奪われるなり盗まれるなりして公夫人に渡っても、同じことが起きてしまう。何にせよ、ジョゼフにとって不都合な結果が起き得るというわけだ」

「そうなる可能性があるから、あたしにその手の薬は渡せない……ってわけかい。いや、違うな。誰に頼まれても、そういう薬は渡さないし……そもそも作らないってことだね?」

「その通りだ。もちろん、ジョゼフ自身が望めば話は別だが」

 ビダーシャルの言葉を頭の中でまとめながら、あたしは下唇を噛んだ。

 エルフが契約というものを非常に重視する、ある意味商人のような気質を持つ連中であるということは知っていた。しかし、ここまで取り引きに対して誠実で、思慮深いというのは予想外だった――実際に契約を結ぶとしたら、とても信頼できるが、あたしが出し抜きたいと思っているジョゼフ王――我が不肖の父上――と契約しているこいつは、その信頼のおける姿勢が極めて厄介だ。どんなになだめすかしても、脅しつけても、騙そうとしても、哀願しても、あのバカ親父の不利益になる可能性がある以上、絶対に解毒剤を調合してはくれないだろう。

 しかしそれでも、あたしはその不可能ごとを、このエルフにやらせなくてはならない。可愛い可愛いシャルロットのために。今までのろくでもない人生を清算して、あいつと手を取り合って歩いていくために。

「……ふうん。なかなかしっかりした考え方を持ってるじゃないか。さすがはエルフってとこかね。王宮に出入りしてる商人たちも、それくらいサービス精神旺盛だと助かるんだけど。

 ね、あんた、父上だけじゃなくてさ、あたしとも契約を結ぶ気はないかい? あんたみたいにしっかりしたルールを持ってる奴なら、安心して部下として使えそうだからね」

「ありがたい申し出だが、お断りさせてもらおう。二重契約はトラブルを生みやすい」

「ちっ、ホントにしっかりしてやがるね……でも、だからこそなおさら欲しくなったわ。なんか抜け道はないのかい? あたしにあんたをかしずかせる、今からでもできるやり方は?」

「そんなものはない。我とジョゼフとの契約が切れるまで待つがよい。そのあとでならば、交渉に応じるのもやぶさかではない」

 彼のその言葉に、あたしはごく小さな、しかし確かな希望の光を見た気がした。

「契約が切れたら、か。じゃあ、もし父上が、今すぐにでもあんたとの契約を破棄するって言ったら、その時点であんたはフリーになるわけだね?」

「そうなるな」

「それ以外でも、そうだね、父上が契約を無視して、あんたに不利益な行動をとったら? つまりあんたが裏切られたら? その場合は、あんたの方から契約を破棄することもあり得る?」

「その場合は……確かに、契約は無効となるだろう。そして、ジョゼフにとっても、重大な不利益が生じることとなろう。お互いに得はない。そうならないことを、心から祈るのみだ」

 よし。それならばいける。

 父上がビダーシャルを裏切れば。そうなるようにうまく誘導すれば。二人の契約は切れて、あたしが代わりに彼と契約を結ぶことができるようになる。

 あの気まぐれで人の迷惑をかえりみないバカ親父なら、ほんのちょっと煽れば何となく後先考えずにビダーシャルを裏切ってくれるだろう。あの人に、エルフの報復を恐れるような、当たり前の人間性などありはしないのだから。

 これで方針は決まった。何とかして親父とビダーシャルが仲違いするように仕向ける。そしてふたりの契約が破棄されるのを見計らって、あたしがビダーシャルを雇う――それがうまくいけば、こいつに精神毒の解除薬を作らせるまでは一直線だ。全く難しくない。

 ただ、ひとつ懸念があるとすれば、あの親父は人間性は欠片もないが、知恵は人一倍あるという点だ。こっちの企みが知られたら、絶対に逆手に取られる。警戒される、とかいうレベルではなく、計画を阻まれた上で、こっちが思い付きもしないような最悪の状況に追い込まれる。ジョゼフ王に謀略と詐術で挑もうとして、それをことごとく封殺されて破滅していった政治家や企業家、テロリストの類を、あたしは何人も見てきた。その仲間に入らないように、できる限り注意を払わなくてはならない。

「ときにイザベラよ。我からも、ひとつ尋ねてもいいだろうか」

「ん? ああ、あたしばっかりさんざん質問攻めにしちまってたからね、別に構わないよ。なんだい?」

「正直に答えてもらえることは期待していない。だが一応聞いておく……お前は、我と契約することで、自分の父親を害そうとしているのではあるまいな?」

 その言葉に、あたしの頬はひきつった。

 あたしは自分が最初っからポカをしていたということに、この時ようやく気付いたのだ。

 このエルフだって、並々ならぬ知性の持ち主だ。それこそ、親父が部下としてではなく、わざわざ客人扱いでもてなすほどの。

 そんな奴に、あたしは突っ込んでモノを尋ね過ぎた。薬のこと、親父ではなくあたしに仕えさせるための条件など、際どいことを。――こいつは今、正直な答えは期待していないと言った。半ば以上の確信がないと、そういう言葉は使うまい。

 虎の尾の上に、足を乗せてしまった。だが、ここでやけになってはならない。あたしの『反乱』はまだ、未遂ですらないのだ。尾を踏んだ足に体重をかけないよう、そっと後退して、体勢を整えれば、うん、まだ巻き返せるはず。

「……怖いことを言わないでおくれよ、ビダーシャル。あたしは単に優秀な部下を欲しているだけさ。

 父上に対しては、なんも含むところはないよ。ただ、そうさねえ……父上よりはあたしの方が、あんたを効率的に使えるのにって思いは、確かにあるかな。あの人、あんたのこと、ほとんど遊びの延長でしか使ってないだろ? せっかくのエルフの技術なんだ、もっとこう、医薬品の質の向上だとか、城塞の強化だとか、いろいろ世の中の役に立つことに使いたくなるじゃないか」

「……それは、我も思わないではないな。もし機会があるなら、ぜひお前からジョゼフに進言しておいて欲しいものだ。

 もっとも、そのくらいで彼が気づかいをしてくれるようなら、誰も苦労はしないわけだが」

 鉄面皮をほんの少しだけほころばせ、苦笑に近い表情を見せるビダーシャル。彼もまた、親父に関わったことで苦労している者たちのひとりのようだ。この一瞬だけ、あたしはこいつに、人間とエルフという垣根を越えて親近感を抱くことができた。

「しかし、まあ、なんだ。お前がジョゼフに害意を持っていないというなら、それが真実であることを心から祈ろう。

 肉親同士で争うというのは、悲劇の中の悲劇だ……自分に近しい者を傷つけることは、自分の一部を傷つけることと同じ意味を持つからだ。

 エルフが、蛮人を殺すより、同じエルフを殺すことに忌避感を持つように……あるいは蛮人が、豚を殺すより、同族である蛮人を殺すことに罪悪感を持つように。生物は自分から遠いものより、近いものに共感する性質を持っている。

 共感が強ければ強いほど、それを裏切った時の罪悪感は重いものになる。そして、血のつながりは、生物としてもっとも強く、近い。本人同士がどれだけいがみ合っていようと、そのつながりを断つことは絶対にできない。

 我の言っている意味がわかるか、ジョゼフの娘、イザベラよ」

「……………………」

「肉親を害する行為には、必ず後悔がつきまとうということだよ――これは生物的な必然だ。

 エルフにも、血縁の者を害した犯罪者の例がいくつかある。そういった連中は、相手をどれだけ憎んでいても、やったあとは魂を削られたような、死人のような表情になる。精神的な覚悟や、対象への憎しみといったもの程度では、たとえそれがいかに苛烈であっても、血の感じる忌避感を押し流すには足りないのだな。

 そして、イザベラ……お前は、どう考えても、身内を本気で排除できるような、冷たく鈍い精神の持ち主ではない。せいぜいが嫌がらせをしたり、悪口を言ったりして、こっそり溜飲を下げる程度しかできないタイプだ。

 そんな精神の持ち主は、時として軽はずみなことをしでかすし、やってしまってからの後悔を人一倍感じやすい。己が邪悪だと知っているから、罪悪感を覚えてもそれに背を向ける。だからのっぴきならない事態に陥った時、何の覚悟もできない。

 つまり……お前は陰謀には向いていない。父親を追い落として、自分が頂点に立つ、などという筋書きが似合う器ではないのだ。度を越した野心は持つな……お前には絶対に、肉親を倒す覚悟は、持てないのだから」

 あたしは――あたしは何も言い返せなかった。

 反論は思いつかなかったし、むしろ彼の言うことに心の中で頷いてすらいた。自分の精神の卑小さはよくわかっているつもりだったが、いざ他人からこうもはっきりと言われると、暗がりからいきなり殴りかかられたかのような衝撃だ。

 あたしは、親父を倒す気でいる。シャルロットのために、そしてこれからの自分のために、それは絶対に必要なことだ。

 しかし、そのあとで後悔せずにいられるだろうか?

 親父を倒すということは、言葉にするとどことなく英雄的な響きがあるが、現実的には血なまぐさい行為に落ち着く。あたしはそれをした結果、後悔せずにいられるか?

 いや、もっと単純な話。

 いざ、父王に反旗を翻したとして――あたしは部下たちに、「彼を殺せ」と命令できるだろうか?

 そんな覚悟が、あたしみたいなショボくれたガキにできるのか?

 忠告じみた警告を発したビダーシャルは、言葉を失って立ち尽くすあたしに再び背を向けて、変な薬品の調合作業に戻った。

 あたしはそのそばで、いつまでもうつむいて考え続けた。シャルロットのこと。父ジョゼフのこと。二本の近しい血の流れが、断ちがたい糸となって、あたしの心をがんじからめに縛り上げてしまった――そんな気分だった。

 

 

「ミス・タバサ。今、お時間はよろしいかしら」

 グラン・トロワの、青く明るい廊下を歩いている時。私は、しっとりと濡れた声に、背後から呼び止められた。

 振り向くとそこにいたのは、夕闇のようなドレスをまとった、妖しげな美女――ジョゼフの側近として知られる、ミス・シェフィールドだった。彼女は人目をはばかるように、あるいは愉快な内緒話でも期待しているかのように、アルコーヴから体を半分だけのぞかせ、目を細めた微笑みをこちらに向けている。

「……大丈夫。用件は?」

「仕事の命令ですわ。陛下からの、直接のものです」

 彼女は、胸元から筒状に丸めた書簡を取り出すと、こちらに差し出してきた――私は、それを受けとることに躊躇をおぼえ、また疑念をおぼえた。これまで、ジョゼフから命令を受ける時は、常に北花壇騎士として、イザベラを介して受け取っていたからだ。

「……なぜ、私の上司であるイザベラ姫殿下を通さず、直接私に?」

「王の深き思し召しは、私には推し量ることもできませんわ。ただひとつ言えるのは、この任務が極秘のものであるということ。そして、あなたには拒否する権利などないということです。さあ、どうぞお受け取りになって」

「………………」

 私は意を決して受け取ると、封印を解いた。押印もサインも、間違いなくジョゼフのもの。

 そして、その内容もまた、彼の直筆によることを証明するだけの説得力を持つ、残酷で意味不明なものだった。

 

【トリステインに飛び、ヴァリエール公爵家三女ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ラ・ヴァリエール及び、その使い魔の少年サイト・ヒラガを拉致せよ。

 対象の二名をヴェルサルテイル宮殿に連行し、余に直接引き渡すことをもって、この任務を完了とする】

 

 ――なぜ彼は、私に、このような命令を?

 目の前のミス・シェフィールドに問い質したいが、彼女がジョゼフの『思し召し』を答えたりしないのはわかっている。でも――待って。あのふたりを、ジョゼフに引き渡せ、と? この私の手で?

 ミス・ヴァリエールのことも、その使い魔のサイトのことも、私にとっては、まったくの他人というわけではない。いくつかの事件や冒険を共にして、最近ではキュルケほどではないにしても、親しく(私の基準で)話すぐらいにはなっている。

 ミス・ヴァリエールについては、その勤勉さと、諦めることを知らない心の強さに、同じ女性として敬意を覚えているし、サイトには何か、他の誰にもない、特別なものを感じる。剣を持った時の異様な強さも興味深いが、あの平民とも貴族ともそれなりに打ち解けられる気安さと、何か(自身の矜持であったり、人の命を守るためだったり)のために、自分の命を懸けて立ち向かえる勇敢さ。それらを兼ね備えた、あまり類を見ない精神性――ちょっとだけ、そう、ちょっとだけ、あくまで好奇心の範囲で、気になっている。

 どちらも好感の持てる人物である、という評価で間違いない。私の灰色の世界に、彩りを与えてくれる、数少ない人々なのだ。

 それをさらって――しかも、ジョゼフに引き渡す?

 授業をさぼった生徒を捕まえて、教師のところに連れていく、みたいな牧歌的な任務ではない。教師役はあのジョゼフなのだ。もし、私がこの任務を達成したとして、そのあと、ミス・ヴァリエールとサイトは、どのような目に遭うのだろう? あの残虐な王が、紅茶とマフィンでもてなし、広く明るい部屋に泊めて、丁重に送り返すとでも? あり得ない。ふたりの身の行く末に、不安しか感じられない。

 それに、もし私が彼女たちと特に接触がなかったとしても、この任務はためらわれる種類のものだ。ミス・ヴァリエールがトリステインの公爵家の人間である、というファクターは大きい。彼女がいなくなるだけで大騒ぎになるだろうし、ガリアの手による拉致であると露見した場合には、重大な国際問題になる。この国を統治するジョゼフにとっても、非常な面倒ごとになるはずだ。

 なぜ彼は、このような危険な命令を――いや、理由など考えても意味はないというのはわかっている――ただ、考えがまとまらない――違う。気持ちがこの命令を受け付けないだけ――今までの、私の命を危うくする過酷な任務と引き比べても、私はこの命令を受けたくない。

 戦慄と動揺に、百秒近く沈黙してしまった私に、ミス・シェフィールドは、そっと寄り添うように距離を縮めてきた。

「恐ろしいとお思いですかしら? 仮にそうだとしても、誰もあなたを臆病とは言えませんわ。陛下も、とても困難な任務であるから、もしかするとあなたでもためらうかもしれない、と仰っていましたから……この仕事を実際に行わなければならないあなたに、申し訳ない気持ちでいっぱいだ、とも。

 だから、陛下は、あなたに特別な報酬を用意しておられます。北花壇騎士としての手当の他に、任務達成後、あるとてもいいものが、下賜されることになるでしょう」

「……いいもの?」

 私がおうむ返しに聞き返した時、ミス・シェフィールドの唇は、私の右頬のすぐ横にあった。ぞくぞくと寒気をもよおすような、艶のある囁きが、その唇から、私の耳に流し込まれた――。

「エルフの薬。人の心を壊す毒の効果を打ち消し、正気に返らせることのできる、人間にはけっして作れない奇跡の霊薬。それを譲ってくださるとのことですわ……。

 もちろん、この任務を極秘のうちに、完璧にやりとげたらの話、ですが……」

 脳天から焼けた鉄串をぶち込まれたような、激しい衝撃が私を襲った。

 壊れた心を治せる、エルフの霊薬。私が夢にまで見て、追いかけ続けていたもの。

 それが手に入る? 友人たちを、ジョゼフに売ることで?

 すでに充分動揺していた私は、さらに背中をどんと押されて、大きくよろめいた形になった。

 理性は、これは罠だと言っている。私の大切なものを奪い続けてきたジョゼフのことだ、私を縛る鎖の一番太いものを、そんなに簡単にほどいてくれるはずがないではないか。実態のない餌を目の前にぶらさげることで、私自身に友人たちを捨てさせようとしている、そんな悪趣味な企みでないとどうして言えよう。

 だけれど、ああ、だけれど! もし本当に、薬が手に入るのなら! 母様を、もとの元気な姿に戻せる可能性が、少しでもあるのなら――!

「…………この任務。

 北花壇騎士七号が、確かに承ったと、陛下に伝えて」

 血を吐くような気持ちで、私はミス・シェフィールドに言った。

 彼女は相変わらずの不敵な笑みで、小さくうなずいただけだった。当たり前の返事を聞いた者の反応だった。この女には、この女とジョゼフには、私がこの餌に逆らえないと、前もってわかっていたのだ――疑わしい可能性にしがみつかなくてはならない、私の内心の苦痛も、きっと手に取るようにわかっている。

 私はきびすを返して、その場を去った。悔しさと、裏切った友人たちへの後ろめたさ、そして寂しさが、心の中に黒い絵の具をポタポタと垂らしていく。

 最近は、心の慰めも少しずつ増えてきていた。魔法学院でできた友人たち、仲違いしていた従姉妹との和解。人生は灰色ではなく、鮮やかな色彩もあるのだと思うことができていた。

 でも、それはそう思いたいだけの、勘違いに過ぎなかったかもしれない。私の世界は、やはり、あの恐るべきジョゼフの手のひらの上なのだ。

 

 

 牡蠣うめぇ。

 コンソメ・ジュレのかかった新鮮な生牡蠣を、殻から直接ちゅるんと口の中に落とし込んで、我はほっこりと表情をほころばせた。

 そのミルキーな味わいを充分に堪能してから、キリリと冷えた白ワインで舌をさっぱりとさせる。この繰り返しによって、何度でも鮮烈な感動でもって、このオードブルを楽しむことができる。まったく見事なコラボレーションじゃ。

「ブルゴーニュ産の牡蠣は気に入っていただけたかな、マザー・コンキリエ」

 テーブルの対面に着いたジョゼフ王が、上品に微笑みながら聞いてきた。我は礼を失さぬよう、軽くナプキンで口もとを清めた上で、それに答える。

「素晴らしい味でございます、陛下。我の住まうロマリアも美食に関しては自信のある方ですが、ここまで大粒で濃厚な牡蠣は初めて食べましたぞ」

「それはよかった。そちらの、ポロねぎとかぶの一皿もおすすめだ。柔らかいぷりっとした牡蠣の合間に食べると、しゃきしゃきした食感がなんとも面白い。ぜひご賞味あれ」

「おおお……これはこれは。食感も素晴らしいですが、このかぶの爽やかな香りがたまりませぬなぁ」

 さすがは名高きガリア王宮のディナー、舌の肥えた我でもいちいち唸らざるを得ぬ。ここ数日は怪我の治療のために臥せっておって、あまりがっつりした食事をしておらなんだせいもあって、我は次々に出てくる上等な料理を、笑顔のうちに口に運び続けた。

 玉ねぎを使ったタルトタタン、極楽鳥の卵のオムレツ、トリュフとフォアグラのマカロニ。ハーブ入りのバターをたっぷり添えた鱈のフライ。兎肉のテリーヌに、きのこのオイルマリネ。クレソンのポタージュスープ。デザートはそれぞれ違ったスパイスをきかせた、七種類のショコラじゃった。どれも手が込んでおるし、材料も最良。王族との会食は、ほんとーにいいもんじゃ。

 ついで言うと、ホストとしてのジョゼフ王のマナーも申し分なかった。食器の使い方も美しいし、食事の合間に話す話題も実に楽しい。これはアホタレ王の無能王のはずなんじゃが、案外客を喜ばせる接待の仕方は心得ておるようじゃ。いつか失脚したなら、レストランかカジノのオーナーにでもなるといいと思う。魔法の関係ない商売っけの世界なら、そこそこ認めてもらえるんじゃなかろうか。

 まあそんな感じで、我とジョゼフ王の、ふたりだけのささやかな晩餐会は、まったりと楽しく、なんの問題もなさげに進行しておった。少なくとも、食後の紅茶が出てきた時までは、今回ガリアに滞在している時間の中では、最も楽しい時間じゃったと思えたものじゃ。

 そう、それはまさに、祭りの後とでも言うべき、弛緩した瞬間にやってきた。食べ終えたデザートの皿も下げられ、テーブルの前には、湯気をたてるティー・カップのみが鎮座し、給仕も退出していき、広い正餐室に、正真正銘我とジョゼフだけになった、そんな時に、彼はさりげない様子でこう切り出してきた。

「ところで、マザー・コンキリエ。あなたのお父上は、ミスタ・セバスティアンは、元気にしておられるだろうか」

 口に向かって持ち上げかけたティー・カップを、危うく落っことすかと思うた。

 あのボケ親父が東方から帰ってくる、っつー話をシザーリアから聞いたあとに、このアホ王からもボケ親父の話をふられる。全然関係のないふたりから、ごく短い間隔で同じ人物の話題が出てくるというのは、ちと気持ち悪い。なんか因縁めいたものを感じてしまう。

「と、父様ですかや。最近来た便りでは、相変わらずなようでございますが」

「ふむ、さようか。なに、あなたのお父上が近々、東方からお帰りになるという噂を耳に入れたものでな。本当かどうか、あなたに確かめてみようかと思ったのだ。

 もし帰ってこられたならば、久々にチェスで争ってみたいものだ。次に連絡をすることがある時は、余がそう求めていたと、手紙の端にでも一筆添えておいてくれるとありがたい」

「は、ははっ。そ、それは構いませぬが、そのう」

 言葉につまる。その情報をジョゼフが知っておったというのも意外じゃが、求められた伝言もかなり意外じゃ。

「その、失礼ですが陛下。陛下は、うちの父のことをご存じなのですか? あなた様とご縁がございますようなことを、父からは聞いたことがございませんで……」

「ふむ? そうかね。まあ、二十年以上前のことだから、仕方ないかもしれぬな。

 マザー・コンキリエ。余はあなたのお父上から、学問を教授されていたことがあるのだよ。

 余の父上は、余と弟のシャルルに、王族として相応しい最高の教育を受けさせようと、各分野の優秀な教師を集めた。算術の担当として選ばれたのが、当時、風石メジャーの顧問として活躍していたミスタ・セバスティアンだった。

 王子の教育を任されるだけあって、彼は確かに算術家としては超一流であったな。その教えは、今でも余が政をするのに役立っている。特にそう、今思えば、経済の流れを掴む上で重要な知識を、優先的に叩き込んでくれたようだ。彼の本職を踏まえて考えるに、自分の最も教えやすい知識からカリキュラムを組んだに過ぎなかったのだろうが、今のガリアの繁栄は……余の政策がうまく機能している結果だとするなら……セバスティアン氏は、その一翼を担った、と言っても過言ではあるまい」

 お、お、おおお? なんじゃなんじゃ、あの間抜け親父、ずいぶんベタ褒めされとるでないか。

 一国の王に、こんなに好印象持たれとんなら、我にたっぷり自慢してから東方行かんかい。そうと知っておれば、最初からその話をこのアホ王に切り出して、恩を傘にきていろいろおねだりしたっちゅーのに!

「まったく存じ上げませんでした。仕事のことは、あまり口に出さぬ父親でありまして」

「なに、気にしてはおらん。お父上は国境をまたいだ、大きな仕事をしておられる。交流を持った人たちのことをいちいち家族に話していては、際限がなかろう。

 ただ、余にとっては、彼のいた頃のことはよき青春の思い出だ。一日の勉強を終えたあとは、シャルルや教師たちと、チェスに興じたものだ。ミスタ・セバスティアンは、教師陣の中では一番の差し手であったよ。少なくともシャルルとは、互角の勝負を繰り広げていたな」

 天井を見上げて、懐かしげに語るジョゼフ。――彼の弟であるシャルル王子は、すでにこの世の人ではない。我の聞いた噂では、他ならぬこのジョゼフが、弟であるシャルルを暗殺したのだ、とされている。

「シャルル亡き今、ミスタ・セバスティアンは、余とそれなりにいい勝負のできる、数少ない人間のひとりだろう。余はもう何年も、楽しいチェスを打った覚えがない。マザー・コンキリエもおわかりになるだろうが、ああいう勝負事は、実力の近い者同士の、一進一退のせめぎ合いが楽しいものなのだ。一方的では、たとえ勝利する側に立っていたとしても、満足感は得られないものだ。

 そう、最初から理解しているべきだったのだ……ゲームは、負けるかも、倒されるかも、という緊張感があるからこそ、勝利した時に感動が伴うのだ。安全な高みから独りで駒を操るだけの戦争など、なんと子供じみていてつまらないことか……」

 いつしか彼の言葉は、我に語り聞かせているというより、独白の様相を呈してきた。何が言いたいのかよくわからぬ。しかし、なんか妙に、背筋がぞくぞくとしてきた――これは予感じゃ。よくないものがこの身に近付いてきておる、そんな嫌な予感がする。

「……だから、ミスタ・セバスティアンが帰ってくるという報せを聞いた時は、心踊ったものだ。また白熱したチェスの試合ができるかもしれない、そんな期待を抱かずにはいられなかった。

 しかし残念ながら、彼との試合は永久に実現すまい。余とセバスティアンがチェス・ボードを挟んで向かい合うことができない、ある事情が生じたのだ。それがなにか、マザー、あなたにはおわかりになるかな」

「へ? い、いえ、さっぱり。父が東方から帰るのを取り止めたとか、そういったことでしょうか」

 そうだとしたら、我はむしろもろ手を上げて大歓迎じゃけど。

 しかしジョゼフは、無言で首を横に振って、我の期待をぶっ壊した。そして、彼自身の口から答えを言う代わりに、ぱんぱんと手を打ちならして、部屋の外に合図を送った。

 それに応えて扉が開き、ある人物が食堂に姿を現した。振り返って、そいつの顔を確認する――気のせいか、我にはその男の顔が、見覚えのあるもののように思えた。

 ちょいと軽薄そうじゃが、なかなか顔形の整った、男前と言っていい若者じゃ。長い金髪を太いみつあみにして、肩から胸へ垂らしておる。シミひとつないフランネルのホワイト・シャツも、長い脚にぴったり合ったズボンも、洒落た上等なもの。金に余裕のある貴族の、遊び好きな次男坊か三男坊といったところじゃろか――って、あれ、こいつ、もしかして。

「なんじゃ、シザーリオではないか。妙なところで会ったもんじゃのう」

「へへ、どうもご無沙汰しております、ヴァイオラお嬢様」

 話題のバカ親父のボディー・ガード軍団《スイス・ガード》の一員であり、我が従者であるシザーリアの兄貴でもある彼、シザーリオ・パッケリは、ニヤリと安っぽい笑みを浮かべて、頭を下げた。

「お前がなぜ、こんなところにおるんじゃ? 父上のお供で、東方に行ったはずじゃが……ああ、そうか、わかったぞ。シザーリアのやつが言うておった、父上の帰還を知らせにきたメッセンジャーっつうのは、お前のことだったか!」

「ええ、おっしゃる通りで。セバスティアン様より、一足早く戻って参りました。ご挨拶が遅れまして、申し訳ありません」

「まったくじゃぞ。あんな重大な情報なら、妹に託したりなんぞせんで、我に直接持ってくりゃよかったんじゃ」

 そしてついでに、東方の土産物とか持ってくるべきだったんじゃ。手ぶらとかあり得んわ。何かないんか、東方パイとか東方クッキーとか東方フィナンシェとか。

「ちっと事情がございましてね。セバスティアン様から、他にも内密な仕事を任せられてまして……あまり大っぴらに人前に姿を見せられなかったんすよ」

「内密な仕事じゃ? またあの父上ときたらこそこそと……お前が今、ジョゼフ王陛下とおることと関わりのあることか?」

「ええ、関係ありあり、大ありでございますよ。それというのも……えーと、陛下、オイラから言っちまっていいんすかね? 陛下の方から言うんなら黙ってますけど」

「構わぬ。お前からマザーにお話しするがいい」

 そう許可を出すジョゼフの顔をかえり見てみると、こちらもニヤリと、意味ありげな笑みを浮かべておった。イタズラ者が悪ふざけをする時特有の、ガキっぽさのある笑みじゃ。

「左様っすか。では……ヴァイオラお嬢様、オイラがセバスティアン様から請け負った仕事というのはですね、これは始祖に誓って冗談じゃねえんですが……ここにおられるジョゼフ陛下の、お命を頂いてくるっつーもんだったんですよ」

「…………は?」

 ぽかん、と口が開く。

 まずは理解できぬ内容への疑問符が頭の中で躍り、続いて理解が追いついたことによる驚愕が頭の芯を震わせ、最後に途方もない恐怖が、我の歯をかちかちと鳴らし始めた。

「な、ななな、何を言うとるのじゃ、シザーリオ!? 冗談としてはたちが悪すぎることぐらいわからんか!? そ、そそそ、そんなこと、口にするだけで不敬じゃぞ!」

「いやいや、だから冗談じゃないんですって。正真正銘、天にお日様がひとつ、お月様がふたつあるくらい間違いのない事実っす。オイラはあなた様のお父さんから、ジョゼフ王をぶち殺してこーい、って言われまして、はいはいと頷いてこのヴェルサルテイル宮殿に忍び込んできたんすよ。

 いやー、我ながら、いいとこまでは行ったんすよ? でも残念ながら、あと少しってとこで見つかって捕まっちゃいまして。

 ホントなら首だけになったジョゼフ様に『初めまして、どうぞお見知りおきを』って挨拶したかったところを、普通に陛下の足元にひざまずいて挨拶することになっちまいました」

「その男の言うことは本当だ。彼は、武器を持って余の目の前まで迫りおった。衛兵が取り押さえなければ、余は今頃ここにはいまい」

 ジョゼフが余計な補足をする。いやいや、そんな保証は要らんのじゃ、つーかそんなんなければどんなにええか。間違いであってほしいっつー我の女心を察せよこのスカポンタン!

 とゆーか親父何しとんの!? 馬鹿なの!? いや、馬鹿なのはわかっとるんじゃった。そーゆーことやりかねんボケナスなのは確かなのじゃ。

 そして、そして、だからこそ、我はシザーリオの言うことがきっと事実なんじゃろーなーって、心の底で頷いてしまっておる。きっと何か利益の出るでかい計画があったんじゃろなー、だから周りへの迷惑とか考えないで暗殺者なんか差し向けちゃったんじゃろうなー、そういう人じゃよ今までもそういうことあったよ、まったくしょうがないパパンじゃねー、って笑い話で済ませてやりたいけれども、あいにくこうダイレクトにピンポイントに我にとばっちり食らわしてくるとはテメエこの野郎××××、××××××って感じで、できるだけ口汚い言葉で罵ってやらざるを得ない。

「ま、そんなわけで、任務半ばでオイラは捕まっちまって、尋問を受けたわけですよ。最初はまあ、セバスティアン様への義理もありましたんで沈黙してたんですがね、王様直々に、正直に喋れば命を助けて、ついでに部下として雇ってやる、っつーありがたい提案を頂きましてね。

 さすがにオイラも、命は大事ですから、心の中でセバスティアン様にごめんなさいって言いながら、知ってること全部ゲロしたんっす。ヴァイオラお嬢様も、どーか寛大なお心でこの役立たずをお許し下さいな」

 よーし許してやるからそこに土下座しろ。そしたら我が貴様の口から尻まで水の鞭を貫通させて、腹の中をぐりんぐりんかき回してくれる。

 実際にこの素晴らしい考えを実行に移そうと、杖を手に立ち上がりかけた我じゃったが、その前に再び扉が開き、屈強な衛兵がふたり飛び込んできて、あっという間に我の両腕を、左右から掴んで身動きできんように押さえてきよった。

「ちょ、なんじゃ貴様ら、我に対してこのような無礼を……! 陛下! こやつらに、我を離すよう言うてやって下さいまし!」

「悪いがそれはできぬ。そして、あらかじめ詫びておこう。マザーにはこれから、しばらく不自由な待遇を強いねばならないことをな」

 ジョゼフは言いながら、席を立った。我も衛兵どもに引っ張られて、強制的に立たされる。

「余の気持ちを察して頂きたい、マザー。かつての恩師に、命を狙われた余の気持ちをな。

 衝撃的で、それ以上に悲しいものだ。だが、だからといって打ち沈んでいるわけにはいかない。余への攻撃は、即ちガリアという国への挑戦だ。国家の威信を落とさぬためにも、余はセバスティアン・コンキリエの挑戦に、断固として立ち向かわなければならない。

 そこで、あなたの存在が重要になってくるのだよ、マザー・コンキリエ。あなたはセバスティアンの娘だ。余の敵と、最も近しい関係にある人物だ。

 あなたがセバスティアンの陰謀に荷担していないということは、シザーリオの証言によりわかっている。だがそれでも、あなたの身柄を押さえておくことは、大きなアドバンテージになるはずだ。賢明なあなたならば、きっと理解してもらえるだろうと思う。

 マザー・ヴァイオラ・マリア・コンキリエ。ガリア王国国王ジョゼフ一世の名において、あなたを拘束する。ロマリア連合皇国貴族としての、またブリミル教会枢機卿としての権利はすべて制限され、無期限で余の監督下に置かれることを宣告しておく……衛兵、マザーを丁重に、牢までお連れしろ」

 ちょ、ちょ、ちょちょちょ! う、うそ、嘘じゃろおい!?

 絶望的な気分で、ジョゼフのツラを見つめてみたが、やつの表情には冗談の気配は微塵もなく。

 両腕を衛兵たちに抱えられて、連行されていくことを止めてくれる者も、その場にはひとりもおらなんだ。――つーか衛兵、両脇を抱えて拘束するのはいいが、微妙に持ち上げるのはやめんかい。我の爪先が、床の上十サントあまりの高さでぷらぷらしておるではないか! 我は洗い場に連れていかれる汚れた子犬か!

 のじゃーのじゃーとわめき散らしながら、我は食堂から連れ出された。我のために用意された紅茶は結局誰にも口をつけられることなく、テーブルの上でただ冷めていく運命にあった。

 

 

「……どういうことでしょう。詳しい説明を求めます」

 私は――シザーリア・パッケリは、低く抑えた声で、ミス・シェフィールドに問い返しました。

 優雅に冷静に、仕事は正確に。感情を昂らせて無様なふるまいをすることは許されない。それが、貴族様に仕えるメイドの基本です。しかし、そんな当たり前のことさえ、気力を振り絞って意識してやらなければならないほどに、今の私の心は乱れ、荒んでおりました。

 それというのも、ジョゼフ陛下の側近であるミス・シェフィールドが、私にそっと知らせてくれた情報のせいです。ヴァイオラ様を陛下との会食に送り出して、部屋で主のお帰りを待っていたところに、彼女が人目をはばかるように忍んできたのです。

 ミス・シェフィールドは、前回お会いした時よりずっと余裕の無さそうな様子で、私を驚愕させる恐るべき事態を、ジョゼフ陛下との会食の場で、ヴァイオラ様の身に何が起きたかを、話してくれたのでした。

「詳しい説明も何も、今言ったこと以外に、話せることはないの。ジョゼフ様が、マザー・コンキリエを逮捕なさったということ以外には……。

 その理由も、すでに話した通り。マザーのお父上であるミスタ・セバスティアンが、ジョゼフ様の暗殺を企てて、刺客を送り込んできたから。でも、これに関しては刺客の証言だけが根拠だから、私は怪しいと思っているわ。ミスタ・セバスティアンに罪を着せるための、嘘の自白と考えても不自然ではないもの、ね」

「……………………」

「ミス・パッケリ。私は、今回のマザー・コンキリエの逮捕は、ジョゼフ様の判断ミスの可能性が高いと思うの。陛下が世間で、どんな風に思われているかは、あなたもご存じよね? 無能王、狂人、簒奪者……悪意のある風評がほとんどだけれど、真実から遠すぎる、というわけでもないわ。あの方は確かに、独裁者的な性格の持ち主だし、自分の判断だけで行動するところがあるもの。マザー・コンキリエを、邪悪な陰謀家だときめてかかって、ろくに調べもせずに、早く処刑してしまえと叫んでいる。

 今は、私をはじめとした常識的な重臣たちが、なだめたりすかしたりしながら、決定的な命令は出させないように抑えているけど、それもいつまでもつかわからない……」

 影のように暗い色合いの服に身を包んだミス・シェフィールドは、ただそこにいるだけでも忍んでいるような人でしたが、次の発言をする時には、自分を薄暗がりの中に沈め、できる限り慎重を期した上で、囁くよりもさらに潜めた声で言ったものです。

「ミス・パッケリ。こうなると、頼れるのはあなたしかいないの。今すぐ、ロマリア大使館に駆け込んで、マザーの救出を本国に依頼して。

 証拠もろくにない今の状態でマザーが処刑されてしまうと、ガリア王国はかつてない国際的非難を浴びることになるわ。ロマリア宗教庁は、枢機卿を害したジョゼフ様を許さないでしょうし、ハルケギニアに住まう人々のほとんどすべてがブリミル教徒であるという事実も考え合わせると……ガリア王室は、全世界を敵に回すことにもなりかねない。

 そうならないためには、ジョゼフ様よりも高い地位にあるお方から、警告を発して頂くしかないの。ロマリア教皇から牽制されれば、陛下も強硬な態度は取れないはず。そうして、マザー・コンキリエの処刑を先伸ばしにし、その間に暗殺未遂事件の真相を究明する……ガリアがハルケギニアで孤立することを防ぎ、マザーの命を救うには、この方法以外には考えられない。

 お願い、ミス・パッケリ。あなたのヴェルサルテイル宮殿からの脱出は、こちらで手引きするわ。ガリアを救うと思って……いいえ、あなたの可愛いご主人様を助けるために、速やかな行動を!

 マザー・コンキリエと、彼女に不利な証言をした暗殺者は、今夜中に辺境のアーハンブラ城に移送されるわ。暗殺者の方はどうでもいいけど、マザーの方の尋問は、その社会的地位も考慮して、ジョゼフ様が直々になさるそうよ。王は古今東西の拷問術にも通じておられる。下手な拷問吏より、よほど冷酷で過激な取り調べをなさるでしょうね。誰も止めなければ、マザーは恐ろしい苦痛をあの小さな体に浴び続けながら、処刑の日を待つことになるわ。

 どうか、あなたの手で、ガリアの外から陛下の暴走を止めて! どうか……!」

 私が彼女の訴えに、首を縦に振ったのは、当たり前といえば当たり前のことでしょう。

 ヴァイオラ様を処刑など、絶対にさせられはしません。必ず助け出さなければなりません、一分、一秒でも早く――ジョゼフ王の薄汚い手が触れる前に。

 ミス・シェフィールドの話を聞き終えてから十五分後には、私はヴェルサルテイル宮殿を脱出しておりました。ミス・シェフィールドが手配してくれた、衛兵のいないルートを通って、城門の通用口を抜け、通りに出ます。さすがは国王直属の女官、内側から外への移動とはいえ、王宮の厳重無比な警備体制に、こうも見事に穴を作り出すとは。

 一度、城壁の外に出てしまえば、あとは誰に見咎められる心配もありません。ロマリア大使館は、徒歩で五分もかからずたどり着ける距離にあります。ミス・シェフィールドに依頼された通り、そこに駆け込んでヴァイオラ様の苦境を知らせ、教皇聖下に助けを求める分には、もうなんの障害もないわけです。

 ――そう。常識的な、人道的な人間としては、そうするのが正解なのでしょう。

 しかし私は、足をロマリア大使館へは向けませんでした。踵を返して、大通りを逆方向に進みます。

 なぜ、ヴァイオラ様を助けるための行動を、私は起こさないのでしょう?

 別に、主を見捨てたいわけではありません。ただ、熟慮の必要があると判断したのです――とある、確実な事実を知っていたから。

 そう、ミスタ・セバスティアンが本当に有罪であるという、明らかな事実を。

 ミス・シェフィールドは、ミスタ・セバスティアンの無実を信じてくれていたようですが、彼の性格を知っている私としては、その考え方には頷けません。あの方が王族の暗殺を企てるなど、別に意外でもなんでもないのです。商売の邪魔になるという理由で、それこそ通行に邪魔な梢を刈り取るくらいの気軽さで、部下に人命の処理を命じるところを、私は何度も見てきました。彼の一言で消された中には、勢いのある商人もいれば、犯罪組織のボスも、さらには伯爵や侯爵といった人々もいたのです。今さら王を狙ったところで、ああ、ついにやったか、という程度の感想しかありません。

 そして、私の休んでいた病室にやってきた、シザーリオという要素もあります――彼は確かに、ヴェルサルテイル宮殿に何らかの任務を与えられて、潜入してきていました。今ならわかります――彼の任務は、ジョゼフ王の暗殺だったのでしょう。それが失敗して、彼は捕らえられ、真実を吐いた。

 あの馬鹿みたいに強いシザーリオが敗北したというのは意外でしたが、それだけ強い護衛が、ジョゼフ王のそばにいたということでしょう。そして、強靭な精神力の持ち主であるシザーリオに自白をさせる、恐るべき尋問官も。

 その人物の仕事はしっかりしたもので、リオの白状したことに嘘はないはずです。しかし、ありがたいことに、ジョゼフ王以外は、その自白を信用していません。いくら力を持っているとはいえ、ロマリアのいち商人に過ぎない人物が、大国の王の暗殺を謀るなど、現実離れしすぎているからです。

 だから、今はまだ問題ありません。でも、シザーリオという、生きた証拠がガリア王室の手中にある以上――これからも、綿密な調査が続けられ、真相が遠からず明らかになるとすると――非常にまずいことになります。

 まず、王室の調査の結果、シザーリオが嘘を言っていない、つまりミスタ・セバスティアンが、本当に暗殺未遂の黒幕だと判明してしまうと。非難されるべきは、ヴァイオラ様を捕らえたガリア王家ではなく、ロマリアということになってしまいます。

 ジョゼフ王はヴァイオラ様を処刑することをためらう必要がなくなり、臣下の者たちもそれを止める理由がなくなります。もし、教皇聖下の強権によって、処刑前にヴァイオラ様を救出できたとしても、ガリアが真実を公表すれば、今度は聖下がコンキリエ家に裁きを下されるでしょう。罰がどんなに軽くても、ヴァイオラ様の評判は地に落ち、政界での失脚は免れません。

 ヴァイオラ様は、次期教皇の座を狙っておられます。そして実際、その地位に相応しいだけの才覚もお持ちだと、私も信じております。こんなところで、本人と関係のない原因で、その夢が手折られることなど、あってはいけません。

 では、どうすればいいか。座していればヴァイオラ様は処刑されてしまいます。ロマリアに助けを求めても、破滅からは逃れられません。

 あの方を本当の意味で助けるには、ミスタ・セバスティアンがジョゼフ王暗殺を指示したという事実を、闇に葬る以外にないでしょう――証拠を消し、捜査を絶対に進展させられないように妨害し、事件をうやむやのまま終わらせるのです。そうした上で教皇聖下に助けを求めれば、ヴァイオラ様の立場も安泰、すべては――少なくともコンキリエ家にとっては――丸く収まります。

 証拠を消す。この場合は、唯一の証言者である暗殺者――私の兄、あのお調子者のシザーリオを始末し、永遠に余計なことを言えないようにしてしまえばいいわけです。

 彼の身柄も、ヴァイオラ様とともに、アーハンブラ城に移されると、ミス・シェフィールドは言っていました。その城に忍び込み、シザーリオを消去し、ついでにヴァイオラ様も助け出せば、一石二鳥。このふたりが同じ場所に監禁されてくれるという幸運は、きっと天にまします始祖のお導きでしょう。

 やるべきことが決まると、肚も決まります。私はまっすぐ、リュティス郊外の風竜便発着所に向かいました。

 まずすべきは、アーハンブラ城にたどり着くこと。できれば、ヴァイオラ様を連れたジョゼフ王より先に。

 どうか恐れず、忠実なしもべをお待ち下さい、ヴァイオラ様。あなたのことは、このシザーリア・パッケリが必ず救い出してみせます。

 

 

「いったいどういうことだい、父上! 詳しい説明をしてもらおうじゃないか!?」

 あたしは、自分の気持ちを隠すこともせず、殺意に満ちた怒鳴り声を上げた――あたしの激情の矛先は、執務机の向こうで革張りの椅子に座り、ゆったりとくつろいでいるクソ親父だ。

 グラン・トロワの中心たるこの国王執務室――やや横長な楕円形をしているので、オーバル・オフィスとも呼ばれる――にいるのは、あたしと親父のふたりだけだ。どんなに乱暴な言葉づかいをしても、それを下品だなんだとたしなめる家臣どもはいないし、親父は自分が適当なだけあって、人の無礼に対しても無頓着だ。だからあたしは遠慮も躊躇もなしに、父に感情をぶつけることができた。

「どういうことだ……も何も、今告げたことですべて説明は終わっているのだがな、イザベラよ。

 シャルロットが任務に失敗した。ゆえに処刑する。それだけだ。どこに疑問や不満がある?」

「どこにって……どっから手をつけていいのかわかんないレベルだよ!

 まずあれだよ、あいつの直属の上司はあたしなんだよ? 何であたしを抜かして、あいつに直接任務なんか与えてるんだい!」

「非常に重要で、機密を重んじる任務だったからだ。関わる人間はひとりでも少ない方がよかった。できるなら人を使わず、余が自ら着手したいほどの案件だったが、そんなわけにはいかんのでな、実行役として選んだシャルロットにのみ、声をかけた。

 そもそも、余が王であるということを忘れてはおるまいな、イザベラ? 余の行為はどのようなものであろうと、ガリアが専制君主国である以上、すべて正当化される。お前の職務を余が軽んじたからといって、お前に文句を言う権利はない」

「そりゃ……そうかもしれないけど! でも、シャルロットは今まで、いくつもの危険な任務を成功させてきた腕利きだよ? 一回失敗したからって、それで処刑ってのはもったいないじゃないか。

 あたしに引き渡してくれれば、たっぷり痛めつけて叱りつけて、もう二度と失敗しないように教育してやるよ。今後のガリアのためを考えると、ああいう裏方の掃除係はひとりでも惜しい。どうだい、考え直した方がいいと思わないかい、父上?」

 あくまでシャルロットの命を救いたいという本音は隠して、自分のプライドと職務上の利益を守るため、という名目で、親父を説得しにかかる。

 だが、親父は他ならぬガリア国王ジョゼフだ。無能王というあだ名をつけられただけの、実際には知謀機略に優れた天才だ。あたしが必死に言葉を選んで説得しても、彼は余裕たっぷりに、椅子に体を沈めている。余裕のないあたしを、手のひらの上で転がして遊んでいるのが丸わかりだった。

「残念ながら、そんなに簡単に済ませられる問題ではないのだよ、イザベラ。

 先程言った通り、シャルロットに与えた任務というのは、非常に機密を重んじる種類のものだった。奴が失敗した以上、隠しだてをする意味も失われたので打ち明けるが、それは外国から、人を拉致してこいというものでな。

 それが失敗したということは、さらわれそうになった人間がシャルロットを撃退したということで……その時、向こうは誘拐未遂犯である、シャルロットの顔を見てしまったらしいのだ。

 目撃情報というのは重大なものだ。特にシャルロットは、個性的な容姿の持ち主だからな……相手側が、シャルロットの名前や国籍、所属といった、具体的な人物像を特定するのは、それほど遠いことではないだろう。この意味は、お前にもわかるな?」

「……………………」

「かの国の調査結果に当てはまるガリア人が、この世にいてもらっては困るのだよ。シャルロットを処刑し、証拠を完全に隠滅しなくてはならない。

 それにシャルロットは、シャルルの娘だ……もともと、抹殺されていて当たり前の存在なのだ……北花壇騎士として役に立つなら生かし、役に立たないようなら殺すと、最初から条件を決めて使っていた人形に過ぎん。ここで打ち捨てたところで、惜しくもなんともない」

「そんな……いくらなんでも、そんな一方的な……!」

 父の、あまりに冷たい言いぐさを聞いて、鼻の奥がぴりぴりと痛くなる。頭に血が上り過ぎている――でも、それも仕方ない――シャルロットのことをそんな風に言われては――そんな風に、とるに足らない物のように扱われては。

 ただの父と娘の間柄だったら、ここでぶん殴っていただろう。いや、正直なところ、我を忘れて掴みかかる寸前までいっていた。だが、怒りで熱くなっている頭というのは、冷静なそれよりもえてして働きが遅いものだ――あたしが暴力行為に及ぶよりも、父が牽制の言葉を発する方が早かった。

「何をそうも苛立つ? お前とシャルロットは、ずっと憎み合ってきた間柄ではないか。お前はあいつのふてぶてしい態度を、魔法の腕前を、ずっと嫌い抜いてきたではないか。気に入らないやつが、永遠に目の前から消えてなくなるのだぞ。無条件で喜ぶべきだろう」

「……それは」

「まさか、和解などしているわけではあるまい。それは感心できんぞ。余の実の娘であるお前が、潜在的な政敵と、通じあっているというのは……そんなことがあったら、王としては黙って見てはおれん。

 城の外より、身内に敵がいる方が恐ろしいものだからな。己の手が腐り始めたら、多少の痛みを覚悟してでも、これを切り落としてしまわねばならん。さもなくば、やがて全体が腐って死んでしまう。我が娘よ……お前は余に、そのような辛い決断はさせまいな? 余はよほどの必要がない限り、自分の娘を処刑した王になりたくはない……」

 試すように父は、あたしの顔をのぞき込んだ。その空虚な言葉に相応しい、虚無的な目で。

 彼の眼差しの中に、人間的な暖かみはない。このような目ができる奴が、手を――肉親を切り捨てるのに、痛みなど感じたりするだろうか? また、切り捨てるにあたって、必要なんてものを必要とするだろうか?

 あたしの命もまた、この瞬間、父の頭の中の天秤に乗っていたのだ。シャルロットのついでで殺してみようか? それともまだとっておこうか? ほんの少しの気持ちの揺らぎで、生に傾くも死に傾くも自由自在の天秤の上に。

 それを察した時、あたしは心臓が凍りつくような恐ろしさを味わった。あたしの父は、おぞましい怪物だ。火竜やオーク鬼なんぞより、よっぽど対応の難しい、虚無の怪物なのだ。

「……勘弁しとくれよ、父上。あたしが、あの人形娘と和解だなんて。

 あたしはあいつのウジウジした態度が我慢ならないんだ。昔っから、この手で絞め殺してやりたいって思ってたんだからね。

 あたしが苛立ってるのは、あくまであたしの好き放題に使える駒が一個減るからってだけ! 役に立つ部下をまた補充してくれるなら、別に文句なんてありゃしないさ!」

 ――ビダーシャルと相対した時と同じ。あたしはまた、牙をむき出しにした虎の前から、一歩退いた。

 危険を感じた時、前進したり、思いきった行動をとるのは、愚か者のすることだ。あたしには怒りはあっても、愚か者ほど無鉄砲じゃない――たとえそれが、シャルロットを窮地から救い出す上で、何の役にも立たないとしても。

 あたしが敵対の意思を示さなかったことが、父という虎のお気に召したのかは知らないけど、彼は再びニヤリと笑って、こちらを見つめるのをやめた。

「安心しろ、代わりの部下ぐらいいくらでも世話してやる。余は、余を裏切らない者には、常に満足のいく待遇を与えてやりたいと思っているのだ。

 だからこそ、余の期待を裏切るシャルロットのようなやつには、それに相応しい罰を下すのだよ……今夜のうちに、あれをアーハンブラ城に移送し、そこで余が、自らの手で、ギロチンにかけてやるつもりだ。

 もしお前が望むなら、見物に来ても構わんぞ。切り落としたシャルロットの首を銀の盆に乗せて、それを眺めながら酒を飲むというのはどうだ? 案外月を見ながら飲むより旨く感じるかもしれんな、ハッハッハ!」

「……いや、いい。あたしはそんなのよりは、バラでも見てた方が酒が進むからね。父上はまあ……好きにするといいさ」

 どうしようもなく気分の悪くなる提案をして、馬鹿みたいに笑う父。それを見ているのもつらくなったあたしは、適当に話を切り上げて、オーバル・オフィスを出た。

 プチ・トロワの自分の部屋に戻ったあたしは、ベッドに背中から倒れ込んで、天蓋をぼんやりと眺めた。

 体の力を抜き、色々なことに思いを巡らせる――まずはかつての、シャルロットを憎んでいた頃のこと。あの頃の憎しみや嫉妬、悪意は本物だった。当時のあたしがここにいたなら、きっと父の提案に大喜びして、シャルロットの生首を見ながら飲むワインを選んでいただろう。

 次に思ったのは、ここ数日のこと。シャルロットと和解し、あいつを子供の頃のように可愛く思えるようになった、楽しい時間のこと。この時間は、ほんの短い間の幻想じゃない。まだまだこれから先も、この暖かい関係を続けていきたい。

 そして、最後に思ったのは、父のこと。

 政治はうまくやっている。ガリアをかつてないほどに繁栄させ、富ませ、強くしている。魔法が使えないことで低く見られていることは否めないけど、頭のいい人たちはみんなわかってる。ジョゼフ一世陛下は能力とカリスマを兼ね備えた、理想的な国王だ。

 それでも――あれはどうしようもないほどに狂っている。他人を駒としてしか見ていないし、それを排除することに罪悪感を抱くどころか、子供が小動物をいたぶって楽しむような、娯楽性さえ見いだしている。

 あたし自身、そういう他人を苛めて楽しむ嗜好を持っていたからよくわかる。父は残酷なことをしたがる。そこに彼にとっての、何か大切な意味がある。

 いくら有能でも、そんな人間を王として戴いていていいのか。戦時なら、勇王として評価されることもあり得たかもしれない――だが、どこもガリアを攻めたりはしていない、安定したこの時代に、残虐性を秘めた王など、存在していていいのか。

 あたしは王女だ。父の娘だが、国というくくりの中では、王の家臣だ。ジョゼフ一世に仕え、彼の役に立つ義務がある。

 だが、同時にあたしはイザベラでもある。ワガママ放題の贅沢三昧で、自分の思い通りにならないことが許せないたちの、ありがちな嫌われ者で――それでいて、シャルロットのことが大好き。

 そのシャルロットが、処刑されてしまうという。

 あたしは、王女でいるべきか。それとも、イザベラでいるべきか。

 ――決まってらぁね、そんなこと。

 あたしは起き上がり、ぱんぱんと手を打ち鳴らした。すると、部屋の外で控えていた使用人が、扉越しにおうかがいをたててくる。

「お呼びでしょうか、イザベラ様?」

「ああ。ちょいと、元素の兄弟を呼んできておくれ。

 あたしは執務室にいるから、そこに三十分以内に集合するように、って伝えるんだ。

 誰かが一秒でも遅れたら、あんたも含めて全員打ち首にするからね。さっさと行きな」

「はっ」

 命令を受けた使用人が立ち去る気配を感じながら、あたしはベッドから飛び降りる。命じた当のあたしが、連中より遅く執務室に入ったんじゃカッコがつかない。一度決めたら、素早く行動しなくちゃね。

 そう、あたしは決めた。だからもう、行動することは確定だ。

 あたしはシャルロットを守る。

 そのために――父を、この手で、倒す。

 避けて通れないなら、正面からぶつかってやれってわけだ――ちくしょうめ。

 




その2へ続くんじゃ。

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