コンキリエ枢機卿の優雅な生活   作:琥珀堂

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バッソ・カステルモールの敗北/ルイズさんは元気ですか?/薔薇が咲いた/散った

「……ない」

 ランプの明かりに照らされた部屋の中で、もぞもぞと蠢く影がある。

 砂色の髪に、尖った長い耳を持つエルフの男――ビダーシャルであった。

「ここにもない……まったく、この部屋はものが多過ぎる……棚ひとつをあらためるのもひと苦労だ。……こちらのチェストはどうだろうか?」

 引き出しの中身を、丁寧により分けるように探りながら、ビダーシャルは呟く。

 六段あるチェストの一番上から、一段ずつ、開けては探り、閉め、開けては探り、閉めを繰り返す。それで成果が出なかったので、次は壁に据え付けの戸棚を開き、再び探し始める。

「この部屋にあるはずなのだが……あのようなもの、よそに持ち出す必要があるとも思えぬからな……なのになぜ見つからないのか……隠し金庫のようなところに入れてあるのか? だとしたら、まずその金庫を探し出さねばならないが……」

 長い耳を困った犬のように垂れさせて、彼は探し物を続ける。

 月の明るい夜。ヴェルサルテイル宮殿の静かな夜。

 ヴァイオラたちの乗る『スルスク』号が、アルビオン沖で襲撃されている夜の、平和なひと幕。

 

 

 ズドン、という腹に響く衝撃音とともに、またしても床が、壁が、天井が、激しく上下に揺さぶられる。

 直感的に、ふたつ目の風石室が破壊されたのだという考えが頭の中に浮かんだ(あとで知ったことだが、この想像は間違っていなかった。舳先側の第四風石室が爆発を起こし、機能を喪失したのがこの時だった)。敵の――『極紫』の攻撃は素早い。俺は充分に急いでいるつもりだったが、まだ余裕を持ち過ぎていると自分を叱る。傾いた廊下を矢のように駆け抜け、目的の場所へとたどり着く。

「よし……ちゃんといてくれたな、助かった……!」

 俺が駆け込んだのは、『スルスク』号の船内郵便局だ。ここは速達の風竜便も取り扱っているということを、乗船前に聞いていた。

 風竜便があるということは、当然そこには風竜が待機しているということになる。風竜といえば、ハルケギニア最速の生物として名高い。敵の戦術の要である超長距離攻撃をしのぐには、撃たれる前に高速で接近するしか方法はないだろう。

 期待通り、郵便局の裏には数部屋分の大きさの広いケージがあり、そこには五匹の元気そうな風竜がいた――ずっと続いている船の揺れに怯えているのか、それとも怒っているのか、かなり興奮しているようだったが、怪我をして飛べないとか、そういう問題を抱えている者はいないようだ。

「よしよし、安心しろお前たち。今すぐ、この居心地の悪い檻から出してやるからな。

 俺と一緒に外へ飛び立つんだ。そして、この船をメチャクチャにしている『極紫』とかいう殺し屋に、思いっきりやり返してやろうじゃないか!」

 ケージの格子扉を開けながら、俺は《偏在》のスペルを唱える。スクウェア・スペル、風のユビキタス――流れ行く風は偏在し、自分の分身を作り出す。

 渦巻く空気の流れが形を作り、数秒後、ケージの中には、本体を含めて五人のバッソ・カステルモールが立っていた。

「オーケイ諸君、行くとしよう。目指すは御者座の方角、全速力で羽ばたかせろ!」

『了解!』

 俺たち五人は、ひとり一匹ずつの風竜に騎乗し、次々に夜空へと飛び出していく。

 まず最初に、本体がケージ後部の竜発着台(ドラゴン・ポート)を開いて出発した。そのあとから、数秒おきに一騎ずつがついていく。先発の竜は、夜闇に紛れてあっという間に見えなくなるが、本体も偏在も、同じ自分だ。それぞれがどこにいるのか、感覚で察知できている。

 もちろん、視覚や聴覚もすべて共通だ。だから、四人目の偏在――最後に残った俺――が、いざ飛び立とうと竜の手綱を握った時、突然に横から声をかけられたことは、他の偏在や本体にも伝わっていた。

「ミスタ・カステルモール。あなたの本体を『極紫』の方に向かわせるのはお止め下さい」

 呼び掛けの主は、ミス・パッケリだった。いつの間についてきたのか、厳しさと不安とを含んだ眼差しで、俺を見上げている。

「ミス・パッケリ……なぜここに? きみには、イザベラ陛下たちのことを頼んだはずだが」

「そのことはミスタ・サイトに任せてきました。どちらにせよ、陛下たちへの応急処置は終わっていますので、私にできることはありません。

 あそこでただぼうっとしているよりは、あなた様に助言をさせて頂く方が有益だと判断しました。ミスタ、『極紫』相手に風竜で近付くなどという自殺行為はお止め下さい。あなた様がどれだけ速く飛んでも、敵は正確に急所を撃ち抜いてきますよ。時間稼ぎとしてならまだしも、あなた様の本体を前面に晒して攻撃を仕掛けるというのは、無謀です」

「……『極紫』の実力を、よく知っているのだな。きみの言い方はまるで、親しい友人か師匠を語るかのようだ」

 態度と表情は落ち着いているのに、どこか必死さを隠し切れていないミス・パッケリの様子に、俺はつい、くすりと笑ってしまう。

「残念だが、ミス・パッケリ。ここにいる私は偏在だ。本体はすでに、御者座に向かって一リーグ以上飛んでいる。今からでは、引き返す方がよっぽどいい的だろう。

 それに、どちらにせよ私は退くつもりはない。『極紫』は、ガリアの王権に対して弓を引いた。状況が不利だからと言って、敵に背を見せるのは、ガリアへの忠誠を捨てることを意味する。俺にとって、いや、騎士にとって、それは死よりも受け入れられないことだ」

「頑固だとか、融通がきかない、とか、よく言われませんか。ミスタ」

 理解できない、という感情を言葉の裏に潜めて、ミス・パッケリは言う。

 だが、それに対する俺の回答はひとつしかない――「すまない」だ。人間誰しも譲れないものはある、そうじゃないか?

「……わかりました。そこまで決意が固いのでしたら、私はもう止めません。その代わりと言ってはなんですが、これをどうぞ」

 彼女は諦め顔で言いながら、ポケットから何か、小さなものを取り出し、それを俺の手に握らせた。

 教典の文句が刺繍された、平たい小袋。ブリミル教徒ならわりと見慣れた、ささやかなアイテム。これは――。

「護符(タリズマン)でございます。マザー・コンキリエから頂いたものです。お持ちになれば、きっと始祖のご加護がございましょう」

「いいのか? きみにとって大事なものでは?」

「ええ、その通りです。なくしたりしたら、きっとお叱りを受けるでしょう。なので、必ず生きて帰って、私の手に返して下さい」

「ああ……なるほど、了解した。『極紫』を倒して、必ずこれを返しに来よう。約束だ」

 手のひらの中に握り込んだそれは、始祖のご加護が詰まっているからか、それともミス・パッケリの思いがこもっているからか、ほのかに暖かいようだった。

 ちっぽけで、しかしとても頼りがいのある護符を左胸のポケットに入れ、俺は改めて風竜の手綱を握る。

「では行ってくる。ミス・パッケリ、きみは今度こそ、イザベラ陛下たちのところへ戻っていてくれ。この状況では、まとまって行動するのが一番安全なはずだ」

「ええ、そうします。――あと、もうひとつだけ。できるだけ、一直線には飛ばないようにして下さい。狙撃魔法は、横や縦にジグザグに移動する標的には、照準を合わせ難いはずです」

「なるほど、了解した。ご助言、ありがとう」

 そのやり取りが最後だった。俺は風竜の腹を蹴って、今度こそ深い夜の中へ飛び出していく。

 背中に、ミス・パッケリの視線を感じながら。

 

 

 私は何のために生きているんだろう。

 ときどき、そう思うことがある。魔法の才能に目覚めてからも――たまに。

 

 

 ふんふんふふーん。ふふんふーん。

 ついつい出そうになる鼻歌を、なんとか頭の中だけで奏でるにとどめる。我もいい歳じゃものな、心がふわふわ華やいでおっても、表情はしっかり引き締めておかなければならぬ。

 表面上は緊迫しておる風を装って、間抜けなピンク髪のミス・ヴァリエールのあとをついていく――この世間知らずのアホお嬢様は、我の殺意になどとーんと気付いておらんようじゃ。ユカイユカイ。始祖ブリミルは己の後継者よりも、我にこそ微笑んでくれとるらしい。

 ミス・ヴァリエール――哀れなる運命の子、我らが時代に生まれ落ちた虚無の使い手。お前が我にとってどれだけ邪魔者か、まったく想像もつくまいな。

 お前の人格にはなんの恨みもない。じゃが、お前の持って生まれた才能が、他の誰も持たない虚無魔法の系統が、我にとってははなはだ不都合なのじゃ。

 始祖の再来であるお前は、トリステイン=ゲルマニアの期待通り、アルビオンのオリヴァー・クロムウェルを降伏させるじゃろう。戦争を終わらせた聖女として、大衆の賞賛を浴びるじゃろう。

 教皇も高く評価するはずじゃ。ハルケギニア中の聖職者が、お前にかしづく。全ブリミル教徒が、お前を始祖と同じくらい、あるいはそれにも増して熱狂的に崇拝し、現人神の座に担ぎ上げてくれるじゃろう。世界最高の名声が、権力が、お前の手の中に転がり込む。

 それは、それは――ミス・ヴァリエール――お前さえおらなんだら、我の手に入るかも知れんものなんじゃよ?

 我は、お前が手に入れるであろうものが欲しい。ゆえにじゃ、お前を生かしておくわけにはいかん。

 この『スルスク』号の大事故は、そんな思いを抱く我にとってひっじょーに都合がいい。ミス・ヴァリエールを事故に見せかけて殺すのに、これほど向いている環境が他にあろうか?

 凶器はそこら辺にいくらでもある。落ちて砕けたシャンデリアの破片、へし折れて手頃な角材のようになった窓枠、花を活けてあった金属製の花瓶。それらを持ち上げて、目の前にいるこいつの脳天をガツーン! それだけで、スッ転んで頭を打って死んだお間抜けさんの出来上がりじゃ。この激しく揺れる船内では、実に自然な死因よの。疑われることはまずあるまい、ふひひひひ。

「マザー、コンキリエ、早く! イザベラはすごくたくさん出血していたんです、急がないと危険かも知れません!」

「わかっております、わかっておりますとも、ミス・ヴァリエール」

 時おりこちらを振り返るピンクわかめに気付かれぬよう、我は近くに落ちていた木材を拾い上げる。もともとは階段の手すりかなんかであったのじゃろう、太さ四、五サントほどの、握りやすい棒材じゃ。長さも六十サント程度で、こん棒として振り回す上で、実に具合が良さそうであった。

「んで、イザベラ陛下はなにゆえ、そのような怪我をなさったのですかや? この揺れで倒れた家具にでもぶつかりましたかな?」

 凶器を後ろ手に隠しながら、我はじんわりじんわりとミス・ヴァリエールとの距離を詰めていく。その接近を不自然に思われないよう、てきとーに話しかけながら。

「それが……外から誰かに狙撃されたらしいんです。窓ガラスに蜘蛛の巣状の穴が開いて、イザベラの肩が真っ赤に血を噴いて。

 平民の使う銃のようなもので撃たれたって、サイトは言ってます。『ごるごさーてぃーんで全く同じエフェクトを見た』って騒いでたんですけど、どういう意味かわかりますか、マザー?」

「さあ……ちょっと我には想像がつきませぬなぁ……」

 でも、あのアホサイトのことじゃから、きっとどーでもいい下らないことなんじゃろうなぁ、とは思う。

 しかし、イザベラが撃たれたというのは、衝撃的な情報ではあるが、同時にこれ以上ない吉報でもあった。

 外部から攻撃が加えられたということは、この船に起きている異常も、突発的な事故ではなく、何者かの仕組んだテロ行為であると考えて間違いあるまい。ならば、もし我がこのピンクわかめを一撃で葬ることに失敗した場合――のちのち、ミス・ヴァリエールの遺体が調べられることになって、それが他殺だとバレてしまった場合でも――その罪を、どこのバカとも知れぬテロリスト野郎におっかぶせることができるっちゅーわけじゃ!

「しかし、銃で撃たれたというのはまずいですな。あれの作る傷口は、かなり大きくてぐちゃぐちゃした感じになりますぞ。血がたっぷり出るのも仕方のないことです」

「ええ……私には、どうすることもできない怪我でした。シャルロットがヒーリングをかけて、その上でマザーのお付きのメイドさんが止血をなさってたので、少しは持ちこたえていると思うのですが」

「ほほう? ウチの者がそのような役に立ちましたか」

「はい。見事な手際でした……私なんか、ただ見ているだけだったのに」

「まあ、貴族のお嬢様に、しかも水メイジでもない人に、そのような場合の手際を求めるわけにもいきますまい」

「でも、王家に仕え、人々を守るのが、貴族のつとめです。私は貴族なのに……自分の国の人でないとはいえ、王族の人が襲われるのを目の前で看過したばかりでなく、怪我をして苦しんでるイザベラに、何もしてあげられなかった……」

 心なしか、肩を落とすミス・ヴァリエール。顔もうつむき加減で、その視線はこちらから完全に外れておる。

 こりゃ好機到来じゃな、と悟った我は、隠していた木材を振り上げながら、一気にミス・ヴァリエールの背中に突進していく。

「わたし……もうゼロじゃないはずなのに。無能で役立たずのダメな子じゃ、なくなった、はずなのに。

 魔法もちゃんと使えるようになって。それどころか、他の誰にも使えない、すごい系統の担い手になれた、はずなのに。血統に相応しい義務を果たせる、立派な貴族になれると、思ってたのに。

 大事なところで、なにもできない。怪我した友達を癒してあげることもできない。友達を傷つけた敵を、やっつけることもできない。すごいはずの力が、何の役にも立ってない。

 アルビオンに渡ってからの交渉だって、実際に話し合うのはマザリーニ枢機卿で、私はただお神輿としてついていくだけ。何かすることを望まれてなんかない。

 私は……結局、何も変われないのかしら。持ち物が増えただけで、心は満たされないゼロのままなのかしら。

 マザー、私は……どうやったら、みんなの役に立てる、立派な貴族になれるんでしょうか……」

 ぶつぶつねちねちと、陰気な独り語りで盛り上がっておるミス・ヴァリエールの後頭部を狙って。

 我は渾身の勢いで、木片を振り下ろした。

「でりゃあああぁぁぁ――ッ!」

「あぼぁ!?」

 べちこーん、という、かなり派手な音とともに。殺意のこもった一撃は、ミス・ヴァリエールの左肩に着弾した。

「い、痛……いったあぁぁ――ッ!? ま、マザー? い、いきなり何をするんですか!?」

 涙目でこちらを振り返るミス・ヴァリエール。そのツラには、怒りと混乱が混ぜこぜになって浮かんでおる。そして、彼女の抗議の声ときたら、ずいぶんと元気じゃ。

 致命傷どころか重傷ですらない。ちっ。完全にやりそこなった。なんだってこのバカピンク、我が凶器を振り下ろしたその瞬間にこっちを向きやがるのじゃ。おかげで目測が狂ったではないか。

 ふん、まあよい。一発で即死させてやるというのが、面倒がなくてベストではあったが、そうでなくても特に問題はない。

 そう。何度も何度もぶっ叩いて、痛みをその体に刻み込んでやるというのも、けっして悪いやり方ではないのじゃ。地位と名誉を横取りされそうになった我の、鬱憤を晴らす効果は大きかろう。

 高貴で神聖なる我こそが、アルビオンにおいて聖女と呼ばれるようになるべきなのじゃ。始祖に選ばれただけの、意識の低い愚か者には、身の程というものを思い知らせてやらねばなるまい! 罵倒と苦痛でもって、な!

「ミス・ヴァリエール。誰もができて当たり前のことも満足にできぬ、能無しのミス・ヴァリエールよ」

 低く抑えた、悪意たっぷりの我の言葉に、ピンクワカメの表情が凍りつく。

「誰も救えぬ役立たずのミス・ヴァリエール。誇れるものを持たない卑小なミス・ヴァリエール。悩み悲しみ、嘆くばかりで前進せぬ、根暗のミス・ヴァリエール。我は貴様のような奴が大嫌いじゃ」

「なっ、な、なななななっ」

 おうおう、こいつ、どんどん混乱が深まっておるようじゃの。まともに言葉も返せぬようになりおった。

 じゃが、我の求める反応はそんなものではないのじゃよ。恐怖と恥辱にまみれて、虚無の使い手に生まれたことを後悔しながら死んでいくがいいわ。

「はっきり言ってくれよう。我は、貴様のような軟弱者が始祖の再来として讃えられることが不快じゃ。

 誰もに恐れられ、誰もに尊敬され、誰も代わりになれない。虚無の使い手とはそういうものじゃ。生まれながらにして価値があり、ただそこにおるだけで意味がある。

 そんな素晴らしき属性を得た特別な人間が……フン! このようなウジ虫以下の精神しか持たぬクソガキとはのう! どうやら虚無の属性を受け継ぐ条件は、始祖が適切な人物を選ぶとかではなく、あくまで血統のもたらす偶然によるようじゃな。神聖なる意志がそこに働いとるようなら、こんな奴は選ばぬわ」

「なっ……なんで……何で、そんなひどいこと、言うのよぉ……」

 ぽろり、ぽろりと。大粒の涙が、ミス・ヴァリエールのまなじりから零れた。

 ちと意外じゃったな。サイトのバカへの態度から、何事にも怒りが先に来るタイプかと思うとったんじゃが、こちらの想像以上にモロい精神の持ち主であるらしい。これからはプディングメンタルヴァリエールさんと呼んでくれよう。

 そして、ミス・ヴァリエールの心が目に見えて折れそうになっておるという事実は、我にとって実に都合がいい。精神的に弱っている人間を上から目線でいたぶり、叩きのめす! これほど楽で愉快なことは他にあるまい、うへへへへ!

「なぜ、じゃと? 間抜けな質問をするでない、嫌いな奴に嫌いと言うことは、当たり前のことじゃろうが。

 我は能無しが好かん。そして貴様は能無しじゃ。ゆえに嫌う、非常に単純で矛盾のない理屈じゃろう?

 いや、それだけではないな。単なる能無しなら、我もここまで激しく嫌いはせん。

 本当の意味で能力を持たない者であるのなら、何もできなくても仕方ない。草木が海を泳げぬことを、無能と呼ぶ者はおらぬしな」

 たとえば、貧乏人や浮浪者ども。我は奴らを役立たずのクズじゃと思うし、目の前にいれば、さっさといなくなれと思う。しかし、この手で積極的に虐殺したいとまでは思わぬ。

 ぶっちゃけ、どーでもええもんな。見苦しくて汚ならしいだけで害はないし。他の親切な人が片付けてくれれば、そりゃーさっぱりするが、我自ら労力を割いて駆除するとか、めんどくて嫌じゃ。服に下賎な血がついたりしたら、気分も急降下じゃ。できれば近付きたくさえない。

「じゃが、ミス・ヴァリエール。貴様の場合はどうじゃろう?

 あえて感情を無視して評価させてもらうがな。貴様自身はどー見ても無能ではない。血筋は王家にも連なる申し分のないもので、容貌も実に美しい。マナーもしっかりしておるから、社交界に出しても恥はかくまい。魔法学院で最高級の教育を受けとるのであれば、学も一定の基準以上にはあるのじゃろう。才色兼備の、とても素晴らしいお嬢さんじゃ。我が、お嫁さん探しをしとる独身の男の子じゃったとしたら、まず放っておかんじゃろな」

「へ? ……え、あれ? え? ……え?」

 二度、三度と、起き抜けのように目を瞬かせるミス・ヴァリエール。

「しかも魔法の才能ときたら、偉大なる始祖を継ぐ虚無の属性なんじゃろ? 天は人に二物を与えずと言うが、貴様はいくつイイものを持つ気じゃ。英雄譚の主人公か何かか。イーヴァルディの勇者でもここまで贅沢しとらんぞ。シャルロットが頬っぺた膨らませて石を投げるわ」

「えっと、ほ、褒められてるの? けなされてるの? ど、どっち?」

「けなしとるに決まっとろうが、この間抜け。ええか、何が言いたいかってな、どんなにええものをたくさん持っておっても、それを扱う心がろくでもなかったら、ぜーんぶ台無しじゃっちゅーことよ。

 人間は自分の身の程を知って、それに相応しい心構えをせねばならぬ。王になるべき人間には王としての、料理人になるべき人間には料理人としての適性があり、それぞれ違った心構えがある。卑屈で責任感のない人間は人の上に立つべきではないし、多くの他人を従えられるような奴は人の下につくべきではない。自分の領分を知り、自分の仕事をきちんとこなす者は、貴賤問わず高い評価を得られよう。

 ひるがえって、貴様はどうじゃ、ミス・ヴァリエール?

 地位にも魔法の才能にも恵まれており、人間的にも多くの点で平均的な水準をぶっちぎっておる。それでいて、自分は役立たずで何もできないじゃと? なんじゃそれ。イヤミか? イヤミなんか? それとも自分を客観的に見ることもできんノータリンなんか? すでにある才能を生かすこともできず、ないものねだりばかりをして、ぶちぶち文句ばかり垂れる……なんとムカつく、なんと恥知らずな、なんと傲慢な、大馬鹿者よ」

「えっ……あっ、う……」

 我の言葉を聞くミス・ヴァリエールは、水揚げされた魚のように口をパクパクさせておる。

 よほど衝撃なのじゃろう。我のような、美しく上品で理知的な感じの聖職者に、むき出しの悪意を向けられるというのは。彼女のように真面目そうな小娘には、生まれて初めてのことじゃろうな。

 品のないゴロツキや、教養のないクソガキに罵られるのとはわけが違う。普段優しい人間や、大人しく分別のある人間に責められる方が、人は心を痛める。ギャップっつーのは大切ぞ。人に取り入る時も、叩きのめす時も効果的なんじゃから。

 今回我は、我の栄光を奪おうとしておるこのミス・ヴァリエールを、徹底的にいたぶり尽くすつもりでおる。肉体的な拷問にはなんの興味もないが、こいつの心はズタズタに引き裂いてから殺してくれよう。この世に生まれてきたことを、ヴァルハラに行ってからじっくり悔やむがいいのじゃ。

「……でっ、でもっ! でも、身分が高くても、虚無の魔法が使えても、イザベラになにもしてあげられなかった! シャルロットみたいに治癒の魔法をかけてあげることも、メイドさんみたいに応急処置をしてあげることもできなかった!

 勉強ができても、すごい威力の魔法が撃てても、大事な時に役に立たないんじゃ意味がないの! 私は……私はっ、みんなに認めてもらえる人間になりたい! 立派な貴族になりたい! 特別な人間になりたいんじゃない、他の誰にもできないことができる人間になりたいんじゃない、みんなの上に立ってふんぞり返りたいんじゃない! 困ってる仲間たちを助けたい、仲間たちの輪に入って馴染んでいきたい、父様や母様や、ちい姉様や、あとついでにエレ姉様にも褒めてもらいたい! そのためのありふれた才能が欲しかっただけなの! それが傲慢だって言うの!?」

「傲慢じゃろうが。自分の与えられた役割に、文句を言うな」

 涙ながらに噛みついてきたガキの言葉を、我はひと言で叩き潰す。

 ああ、もう。必死の訴えを蹴散らされたミス・ヴァリエールの、絶望的な表情ときたら! な、なんっつーか、ゾクゾクするのう。イケナイ悦びを見い出してしまいそうじゃ。イジメがいがあり過ぎぬかコイツ。

「ええか。貴様にそんな未来は来ない。ルイズ・フランソワーズという少女は、永遠にその辺の有象無象どもの集まりに馴染むことはできぬ。

 虚無の才能を持って生まれた以上、それは必然じゃ。貴様は人の上に立ち、人を導き、王者としてふんぞり返らなければならない運命にある。誰かの役に立ちたいだとか、誰かと仲良くなりたいだとか、そんなのは叶わぬ夢じゃ。一般大衆に紛れて穏やかに暮らしたいっちゅーなら、一度死ぬしかないわ」

 だから心優しい我が殺してやろうというのに、貴様が勝手に避けるから、変に苦しむことになるんじゃよ?

「役割を直視せよ、ミス・ヴァリエール。虚無として、自分の求められた仕事をしろ。それを果たさずして、貴様が認められることなどない」

 役割を放棄するならそれでもいい。というかそれがいい。何もできないまま、役立たずとして死ね。

「誰かが困っておる時に、自分は何もできないと嘆くのは愚かじゃ。何かをするのは、その瞬間に何かをすることのできる能力を持った者だけでいい。

 そして、貴様はその者たちを羨んだりする必要はない。その者たちが、他のあらゆる場面で役に立てる人材だなどということはあり得んからじゃ。そやつらは、貴様の虚無魔法が必要な瞬間に、何もできない。万事に対応できる人間など、この世にはおらぬ。肝心な時に何もできない己を恥じるのは、貴様ひとりの特権ではない。

 ……答えよ、ミス・ヴァリエール。身についた虚無の才能を厭うか」

「えっ……そ、それは」

「人を癒せる水魔法の才が良かったか。農耕の役に立つ土魔法の才が良かったか。戦場において取り回しのいい風や、火の魔法が使いたかったか。どの才能でもできることとできんことがあるが、それはわかっておるのか。

 オリヴァー・クロムウェルを訪ねて、虚無魔法を見せつけて、奴を降伏させる仕事は不満か。アルビオンに平和をもたらすことに誇りが持てぬか。多くの人が貴様を称え、貴様に感謝するじゃろうに、それは認められることには含まれぬか」

「そ、……それ、は」

「正直な気持ちを言うぞ、ミス・ヴァリエール。我は貴様が妬ましい。貴様の立場に取って変わりたい。

 じゃが、それはできない。我は虚無ではないのでな。誰に聞いたって、アルビオンに降臨する聖女の役には、貴様の方が適していると言うじゃろうよ。他ならぬ我自身も、そう思っておる。

 じゃから……じゃからこそ! ムカつく! そんな立派な役割をもらっときながら、その体たらくはなんじゃーっ!」

 再び、我は木材を振り上げ。「じゃーっ」の叫びとともに、ミス・ヴァリエールに突進していった。

「貴様のような! 身の程知らずの贅沢三昧の不平不満言いまくりのワガママ女は! ヴァルハラにおわす始祖のもとへ出向いて、ゴメンナサイしてくるがいいわーっ!」

「わ、わわっ、きゃ――――っ!?」

 我の剣幕に恐れをなしたか、ミス・ヴァリエールは空中で器用にきびすを返し、一目散に逃げ出した。

 その後ろ姿を追いかける我。逃がすものか。いっぱい悪口を言って、奴の心を折った。次は物理的に、奴の頭蓋骨を折ってやる番じゃ。

 片手落ちはよくない。我が攻撃の前に、完膚なきまでに敗北せよ、ミス・ヴァリエール!

 

 

 私は――ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールは、逃げていた。

 異様に傾いだ船の中を、慣れないフライの魔法を駆使して、上へ下へと飛び回って。追いかけてくる小さな影から、逃げ続けていた。

 なんで、どうして、こんなことになったのか。

 ちらりと後ろを振り返って、追跡者の姿を確かめる。まだ、諦めずに追ってくる。彼我の距離は、十メイルもない。近過ぎて、表情までよくわかる――殺意で耳まで赤く染めた、マザー・コンキリエの悪鬼のような形相。

 本当に、なんで? なんで私、マザーに追われてるの?

 私がしたことは、ただ単に愚痴を言っただけ。

 怪我をしたイザベラに、何もしてあげられなかった。他の人たちが、何かしら役割を見つけて動いていた時に、私はただ突っ立っていることしかできなかった。

 そのことをふがいなく思うと、同じように何の役にも立っていない自分のいる場面が、連鎖的に思い出されてきてしまった。

 フーケの事件の時。

 アルビオンで、ワルドに裏切られた時。

 タルブ村での空中戦の時。

 私は大きな事件にいくつも関わってきたけれど、どの場合でも、ただそこにいただけのような気がする。

 最初の二つの事件では、サイトがいてくれなかったら、きっと私は死んでいた。

 三つめの事件では、私は虚無の魔法に目覚め、敵を全滅させる最後の一撃を撃ち込んだ。これは、大きな役割だったかも知れない――でも、トリステイン艦隊とゲルマニア艦隊は、アルビオン艦隊を相手に互角以上に戦えていたのだ。私がタルブに行かなくても、結局トリステインは勝っていたのかも知れない――私は軍人さんたちが一生懸命働いているところに、横からひょいと顔を出して、手柄をさらっていっただけなのかも知れない。

 そうでないと、誰に言えるだろう?

 惚れ薬事件の時は? 私は薬の効き目に抗えず、みんなに迷惑をかけてしまった。

 アンリエッタ姫殿下が、生ける屍と化したウェールズ皇太子に襲われた時は? 何でか知らないけど、姫様にお部屋に入れてもらえず、閉め出されて鍵までかけられた。

 ジョゼフ王に監禁されたシャルロットを助けに行った時は? 私たちがエルフ相手にまごまごしてる間に、イザベラがシャルロットを救出してた。

 ――思い返せば思い返すほど、気持ちが沈む。本気で、疑いようがなく、誇張も偽りもなく、私、何の役にも立ってない。

 虚無魔法に目覚める前と、何も変わらない。いえ、魔法が使えなかった頃は、「魔法さえ使えるようになれば、きっと立派な活躍ができるようになる」という希望があったから、まだよかった。

 今はもう、それすらない。魔法を手にしても、私は相変わらず、活躍の機会ゼロのルイズだ。

 そんな私のことが、決定的に嫌になったのは――ついさっき。

 イザベラが撃たれて、大怪我をしたのを見てしまった時。

 シャルロットが一生懸命、治癒の魔法をかけて。マザーのメイドさんが、慣れた様子で応急処置を施して。

 私は、それを何もできずに、ただ見ていた。

(わたし、どうして、ここにいるんだろう)

(わたしの虚無は、いったい何のためにあるの)

(始祖ブリミルはわたしに、何を期待してるの。なんでわたしを、選んだの)

(何もできない魔法。何もできないわたし)

(ただその肩書きだけを、使われるだけなの?)

(名前と地位と属性だけが必要で。わたし自身はいらない子?)

 そんな、鬱屈した考えばかりが、頭の中を駆け巡る。

 これ以上独りで悩んでたら、死にたくなっちゃうような気がした。

 だから、誰かに聞いて欲しかった。この胸の内を。

 慰めてもらえるかも、とか、何かいい解決策を授けてもらえるかも、とか、そんな都合のいい期待をしてたわけじゃなかった。人に話せば、それだけでモヤモヤが少しは晴れるかな、と思っただけ。

 ちょうどそんな気分になった時。そばにいたのは、マザー・コンキリエだった。

 ブリミル教会の中でも高い地位におられる、枢機卿様。いろんな人の悩みを聞いてきたであろう、尊き聖職者。愚痴を聞いてもらうには、一番適した相手のように思えた。

 それがまさか。こんな苛烈な反応をされるなんて、思ってもみなかった。

「きゃーっ! きゃーっ! 待って、やめて、武器を収めて下さい、マザー! は、話し合いましょう! ね! ねっ!?」

「今さらできるかあぁ――ッ! 素直に我が懲罰の一撃を受けるがいいわ!」

 折れた木材らしきものを振り回しながら、こちらを睨むマザー。聞く耳さえ持ってもらえない。

 何が悪かったのか? ――心当たりが、ないわけじゃない。この荒んだ追いかけっこが始まる前に、彼女は丁寧過ぎるくらいに言葉を使って、私を嫌い、攻撃する理由を、切々と語ってくれた。

 マザー・コンキリエは、私が悩み、苦しんでいることそのものに、憤っている。

 私が、私のことを、役に立たないゼロだと思っていることを、嘆いている。

 よくよく考えてみれば、マザーの激怒は当然の反応だったのかも知れない。

 彼女は、敬虔なブリミル教徒だ。若くして枢機卿にまで上り詰めるほどのお方なのだから、私なんかより、よほど真剣に始祖を崇め、深い信仰をもって仕えてきたのだろう。

 そんな彼女の前に、特に深い考えも持たずに現れた、私。

 虚無の魔法を扱う――ブリミル教にとっては、始祖の再来とでも言うべき、私。

 そんな私が、自分を、虚無を、役立たず扱いしている。

 これは、始祖ブリミルを冒涜しているのと、同じ意味を持つのでは?

 ただの不信心者が、始祖を貶すのとはわけが違う。私は(自分自身にその気がなくても)、始祖の再来なのだ。私の言葉は、始祖自身の言葉のように、強い力を持つことになる。

 ああ、私の馬鹿。

 マザーにとっては――始祖同様に崇めなければならない相手から――「始祖は何もできない役立たずだ。お前の信仰も、まったく意味がない」と言われたようなものなんだ。

 それは怒る。すごく怒る。

 仮に私の立場に置き換えたとして、たとえば姫様が「王族も貴族も国もどうでもいいわ。私は恋に生きるひとりの女の子になります!」とか言い出したら、きっと怒る。ぶん殴りたくなるし、たぶんぶん殴る。

 マザーに、ごめんなさいって言って謝りたい。

 大切なものを、足蹴にするようなことをした私を、許して欲しい。

 でもきっと、彼女は受け入れてくれないだろう。私の心構えが変わらない限り、うわべだけの謝罪なんて意味を持たない。

 私が、自分に誇りを持てるようにならなければ。

 自分はできる子だって、ちゃんと何かの役に立てる人間だって、胸を張れるようにならなければ。

 虚無の使い手という肩書きに、始祖の再来という肩書きに、振り回されないようにならなければ。むしろ、その肩書きに相応しい人間にならなければ。

 そうでなければ、マザーはきっと許してくれない。

(でも、でも……そのために、私はどうしたらいいの?)

 今の私には、何もできない。

 いや、やるべきことが特にない、というべきだ。

 何かをしなければ。何か立派なことをやり遂げなくては、自信なんてつけられない。

(始祖ブリミル様。私を、どうか助けて下さい)

(人にできて自分にできないことを、もう羨んだりなんかしません。自分を、あなたのお力を、役立たずなんて蔑んだりしません)

(ですから――私に、果たすべき役割をお与え下さい)

(つらい仕事でも。危険な仕事でも、文句は言いません。あなたの後継者として自覚を持つために、使命を下さい)

 無言の祈り。

 飛びながら、逃げながらの、無様な祈り。

 けれども始祖は、ちゃんとそれを聞き届けてくれた。

「…………えっ?」

 突然、私の手もとが、美しく輝き始める。

 水のルビーの指輪が。新たな目覚めを告げるように、光を溢れさせている。

 この現象には覚えがある。タルブの上空で、初めて虚無の魔法が使えるようになった時。王宮で、姫様の寝室の前で、施錠された扉をぶち破るために、新しい呪文を身につけた時。

 同じ光を、私はこの指輪に見た。

 慌てて、ポケットから始祖の祈祷書を取り出す。そこにも、神聖な輝きが宿っていた。

 ページをめくる。今まで空白でしかなかったところに、新たに文字が浮かび上がっていた。

 虚無の呪文。

 今の私に、必要な呪文。

 私だけにしかできない役割が、そこにあった――。

(与えられた役割に文句を言うなと、マザーは仰った)

 飛びながら、私はその呪文を詠唱する。

(どんな時にでも役に立つことのできる人間はいない、とも。自分にできないことは、それができる人に任せておけ、とも)

(つまり……役割が与えられた時は。できることが見つかった時は、きちんとそれをこなせってことよね……)

(私、やってみせます。マザー!)

 虚無の呪文を唱え終えて。発動準備を整えた私は、フライの呪文を解除する。

 フライを使いながら、別の魔法を使うことはできないからだ。

 全身を持ち上げていた力が消え去り、私は床に降り立つ。

「ふはははははー! ようやく観念したかピンクワカメ! 潔くて良いぞ! 褒美にその頭蓋骨をキレイに陥没させてや――」

 マザーの声が近付く。でも、それをちゃんと聞いている時間はない。

 杖を振り、呪文を叫ぶ。新たに手にした、私の力。

「《イリュージョン》」

 ――その効果は劇的だった。

「どえ? え? え? え? な、ななな、なんぞこれー!?」

 発動した魔法を間近で見たマザーは、ただ混乱している。

 私も、その不思議な光景に、しばらく固まってしまった。

 そこら中に溢れ返る、無数の私。

 百一匹はいそうな、大集団のルイズ・フランソワーズが、わちゃわちゃと駆け回っている。

「ど、どどど、どっから涌いたんじゃこいつら!? 風の精霊の悪戯か何かか!?

 ああ、いかん! どれが本物のヴァリエールかわからんくなったぞ!? こいつか? いや、こっちか!?」

 わーわーと賑やかに、あっちへこっちへ散らばっていく偽の私。それらはすべて、実態のない幻影らしかった。マザー・コンキリエの振り回す木切れが頭や体に当たっても、煙のようにすり抜けて、ダメージを受けている様子がない。

「これが……新しい虚無魔法、《イリュージョン》……」

 幻を作り出す力。

 またずいぶんと、使い勝手の悪そうな魔法だ。

 すでに習得した《エクスプロージョン》や《ディスペル・マジック》と同じで、日常で役立たせることのできるものではなさそうだ。もしかして、虚無魔法ってひとつ残らず、こんなニッチな性能のものばかりなんだろうか。

 でも――使う。

 デルフリンガーが言ってた。虚無の呪文は、使い手がその呪文を必要としている時に、祈祷書に浮かび上がってくると。

 今、この魔法に目覚めたということは。今、この魔法が役に立つということのはずだ。

「ええい、逃げるなミス・ヴァリエール! こうなったらもう、片っ端から全部ぶっ叩いてくれるわーコンチクショー!」

 どこへともなく逃げていく私の幻影を追って、マザー・コンキリエは遠ざかっていく。本物の私をほったらかして。

 その小さな背中を見送りながら、私は呟く。

「ありがとう、マザー……私、頑張るから」

 私は立ち上がり、食堂へと駆けた。

 虚無のメイジ、ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエール。

 私の魔法で、みんなを救ってみせる!

 

 

「あ、おかえりルイズ! 船医さんは? 見つからなかったのか?」

 食堂に戻った私を迎えてくれたのは、サイトのそんな言葉だった。

 わ、わ、わ、忘れてたーっ!

 

 

 ――えーと、とりあえず。

 イザベラの怪我はなんとかなり、私のポカは無事うやむやになりました。

 船医さんが甲板の救命ボートに避難する途中で、偶然食堂のそばを通りかかったので、声をかけて治療をお願いしたのです。

 本当によかった。きっと、天にまします始祖のお計らいね。

 そしてごめんなさいイザベラ。でも、仕方なかったの。マザーの狂乱と、新しい呪文の覚醒っていう衝撃的な出来事が重なったせいで、最初に何をしようとしてたのか、するっと頭から抜けちゃってたの。きっと誰でも、私の立場になったら同じようなミスをしてたと思う!

 ――はい、自分でも言ってて言いわけにしかなってないなーって気はしてます。ごめんなさい。

 まあ、イザベラには、あとで落ち着いてからちゃんと謝るとして。

「サイト。あんたちょっと、こっち来て」

「ん? 何だよルイズ。イザベラの怪我も治ったし、早くみんなで避難しようぜ」

「その前に、ちょっとやることがあるの。イザベラとシャルロットには、先に行ってもらって」

「……何か、あったのか?」

 ちら、と、イザベラたちの方を確かめながら、サイトは聞いてくる。

 気持ちはわかる。イザベラは大怪我を治療してもらったばかりで、まだ全然本調子じゃない。シャルロットも、応急処置として不得意なヒーリングを使い過ぎて、体力をかなり消耗してる。

 船医さんや船員さんたちに頼んで、救命ボートまで連れていってもらうとしても、心配してしまうのは仕方のないことだ。

「いや、イザベラたちもだけどさ。お前も危ないだろ。ふたりを先に行かせるってことは、このグラグラする船の中に留まる気なんだろ? いつ沈むか、わかんないってのに」

「わかってる。でも、私、やれることを見つけちゃったの。

 私にしかできない仕事。うまくいけば、『スルスク』号を救うことができるかも知れない。ううん、そこまでできなくても、テロリストに一矢報いることができるかも知れない。

 とにかく、試してみたいの。無理をするつもりはないわ。ほんの少し試してみて、危なくなりそうならすぐに避難する。

 だから……だから。その、ほんの少しの間。私を守って。お願い」

 サイトの目を正面から見つめて、頼み込む。

 彼は必ずしも、これに頷かなくてもいい。お互い身の安全を考えるなら、余計なことをせずに避難するのが最善だろうし。むしろ、私を引っ張って、救命ボートに連れていく権利すらあると思う。

 これは私のわがまま。何かしたいという、個人的な望みに過ぎない。

 サイトに一緒にいて欲しいのも――わがまま。

 新しい力を手に入れても、恐ろしい敵に立ち向かうことへの恐怖は、克服できるものじゃない。

 だから、支えてもらいたい。

 ひとりで何でもできる人間はいない。無理な時、誰かに頼ることは、恥じゃない。

 サイトなら、頼れる。

 守って、欲しい。まだまだ弱い、私の心を。

 寄り添っていて、欲しい。それだけで私、頑張れるから。

「……あー。イザベラ、悪いんだけど、さ」

 サイトはわしわしと頭を掻きながら、ばつの悪そうな視線を、イザベラに投げた。

「みなまで言わなくていいよ、サイト。あたしらなら、別に平気なんだからさ」

 即席の担架に乗せられて、船員さんたちに運ばれながら、イザベラが言った。

「ああ、ああ、もちろん先に避難してるとも。あんたらに付き合う気は微塵もないしね……こっちは馬に蹴られる趣味はないんだから。

 言うまでもないことだけど、あとからちゃんと追いついてきなよ? あんたらに死なれちゃ、ガリア王家の面目丸潰れだし、あのマザリーニ枢機卿にどんだけ怒られるか知れやしない。面倒は嫌いだし、人から叱られるのはもっと嫌いなんだよ。せいぜい、あたしに不快な思いをさせないように立ち回るんだね」

「ありがとな。助かる」

「ありがと……イザベラ」

 ふん、と鼻を鳴らしながら運ばれていくイザベラを、サイトと共に見送る。シャルロットも、船員さんに背負われて従姉のあとを追った。

 食堂に残ったのは、私とサイトだけ。

 人が減ると、一気に場は静かになった。

「……で、結局、何があったんだよ。お前がそんな風にしおらしくしてるの、俺、たぶん初めて見るぞ。何かできるようになったとか言ってたけど、それが関係してんのか?」

「そう……うん、それもあるわ。でも、それよりも……久しぶりにひどく、怒られちゃって。ちょっとしっかりしなくちゃ、って思ったの」

 私は先ほどの、マザー・コンキリエとのやり取りを、サイトに話した。

 彼はとてもびっくりしてたけど、最後にはなんだか納得したらしくて、腕組みをしてうんうん頷いてた。「俺にはわかるぜ」的な態度が、ちょっとイラッとする。似合わない。

「あー、なるほど……思いっきり喝を入れられたってわけかー……。すっげえなぁ、コンキリエさん……あんなちっこいのに、大人なんだなぁ……」

「カツ? って、何よ」

「なんていうかな。弱ってる奴や迷ってる奴の根性を、気迫で叩き直す感じ?

 俺の故郷にもあったんだよ。強くて活力に溢れてる人のところに、悩みのある人が集ってさ。思いっきりビンタしてもらうことで、強い人のパワーを注入してもらう、みたいな儀式が」

「な、何それ……あんたの故郷って、やっぱりかなり野蛮なんじゃ……?

 う、ううん、でも、よく考えたら、確かにマザーのお説教と暴力も、そんな感じがしたわ。後ろから殴られた時だって、酷い怪我をしないよう、肩を叩かれたし。もし本当に殺す気だったら、頭を真上からやられてたわよね……」

「だろーな。お前、コンキリエさんがめちゃくちゃ怒ってたって言ってたけど、よく考えたらそれ、本気の怒りじゃないってことがわかるだろ?

 あくまであの人、お前を励ましたかっただけだと思うぜ。すごく手荒くはあるけどさ、それくらいしないと、根本的なところが変わらないって考えたんじゃないかな。生ぬるい慰めが、何の助けにもならない時ってあるし……お前って、特に同情とか苦手なタイプだろ?」

「……………………」

 ふぅっ、と、大きなため息をつく。

 やっぱり、マザーはすごい人だ。厳しいけど、優しい。正しいけど、近寄りがたい。

 方向性は違うけど、私のお母様に通じるところがある。とってもとっても怖いけれど――きっと、嫌いにはなれない。

「さて。それじゃ……注入されたパワーとやらで、さっそくひと仕事しようかしら。

 イザベラにも、すぐに避難するって言っちゃったし、ぱぱっと終わらせなきゃね。サイト? 私が魔法を使ってる間、周りの警戒をよろしくね」

「おう。任せときな」

 サイトと頷き合って。私は、先ほど覚えたばかりの呪文を、再び紡ぎ始める。

 大きな窓の方を向いて。ガラス一枚挟んだ向こう側には、星の海。

 イザベラを狙撃し、『スルスク』号を沈没させようとしている、謎のテロリストが潜んでいる大空があった。

 敵が――悪意ある弾丸を、こちらに撃ち込んでくるというのなら。

 その目で狙いを定め、まっすぐに攻撃してきているというのなら。

 私の力は、確実な防壁となる。

「――《イリュージョン》!」

 静寂の空に。私の声は遠く、染み込むように響いた。

 

 

 五匹の風竜は羽ばたく。夜闇を切り裂くように。空気を打ち据え、後方に投げ放つように。

 俺が『スルスク』号を飛び立って、はや数分。十リーグ近い距離を飛び越えたが、未だに敵――『極紫』の姿は確認できない。

 ミス・パッケリが教えてくれた、人間離れした狙撃者の懐までは、まだまだ大きな隔たりがあるらしい。

 その魔法攻撃の射程は、五十リーグから百二十リーグと聞いたが、事実だとすれば、まだまだ旅程の半分にすら到達していないということになる。

 だが、俺は充分に希望を持っていた。俺と俺の偏在によって構成されたバッソ・カステルモール竜騎士隊は、総勢五名だ。また、各々が『スルスク』号より遥かに小さく、素早く、小回りもきく。どのような優れた弓兵であろうとも、この真っ暗な空を飛び回る砂粒のような我々を、狙って撃ち抜き、しかも全滅させるなどということは不可能に近いはずだ。

 ――そう、思っていた。ミス・パッケリの話した、『極紫』の評価は、過大なものであるに違いないと。

 それが誤りだと気付いたのは、――ビクン! と、騎乗している風竜が震え、急に螺旋を描いて墜落し始めた時だった。

「なんだ、どうしたっ!? ……っ! くそ、やられたっ! 本体である俺が、まさか最初の脱落者になるとは!」

 落ち行く風竜の眉間には、見覚えのあるコイン大の焦げ痕が刻まれていた。背中に乗っていた俺は、運良く狙撃魔法の射線から逃れられたようだが、乗り物を失ってしまっては、もう遠い道のりの果てにいる『極紫』のもとにたどり着くことはできない。

 急いで竜の死体から離れ、フライの魔法を唱えて、宙に浮かぶ。

 追撃はない。もう完全に仕留めたと思われているのか、竜という移動手段を奪ったから、とどめを刺す必要はないと見逃されたのか。どちらにせよ、俺の胸の中は、言葉にできない屈辱で満たされていた。

「だが……だが、まだ四人いる! 俺の偏在たちが、ひとりでもたどり着けば……ぐっ!?」

 偏在たちに感覚をリンクさせた途端、その苦痛は襲ってきた。

 竜の胴体ごと、胸の真ん中を撃ち抜かれた感触。左目から右の後頭部まで、焼けた鉄串をぶちこまれたような感触。二体の偏在が、続けざまに射殺された。

 ――まずい。俺は、『極紫』の実力を、あまりにも侮り過ぎていたようだ。不規則な軌道を描いて飛行する高速の竜を、こうも正確に狙撃してくるとは!

 ほんの数秒の間に、三騎が落とされた。残りはわずか二騎。こうなると、俺も楽観してはいられない。敵まで、あと何十リーグを残しているかも知れないのだ。このままのペースで特攻しても、確実に全滅する。

 なにか、ブレイク・スルーになるものが必要だ。速いだけではいけない。強いだけでもいけない。敵の圧倒的な攻撃を防ぐか、回避することのできる、なにかがなくてはならない。

 俺個人では、どうしようもない。実力や工夫で、どうにかなる状況ではなかった。

 やれることがあるとしたら――祈ること、それだけだった。

『極紫』が狙いを外しますようにと。残る二人の偏在が、うまく致命傷を食らわずに飛び続けられますように、と。

 始祖に祈るぐらいしか、できることはない。

 歯がゆさを押し殺しながら、しかし真剣に祈る。敵を倒せる可能性があるのは、いまや風前の灯である偏在たちだけなのだ。あれらを落とされた瞬間、我々の敗北は決定する。それは『スルスク』号の沈没を意味し、ガリア王家が害される可能性を意味する。そのようなことは、けっして現実にしてはならない。

 始祖よ、どうぞご加護を下さい。この無力な俺にではなく、あなたの末裔に。シャルロット様とイザベラ様を、あの尊敬すべき君主たちを、危難から救いたまえ。

 ――結論から、言うと。

 その祈りは、通じた。

 突然、俺の頭上を、何か大きなものが横切った。

 かぶりを振って、それを仰ぎ見る。そして、それが何であるのかを認識して、俺は息を飲んだ。

 竜騎士が、いた。

 俺の偏在ではない。鞍もくつわも手綱も着けた軍用風竜を駆る、完全武装の立派な竜騎士が、一、二、三、四――数えきれないほど、たくさん!

 空を埋め尽くすほどの、大部隊。国籍も所属も知れず、どこから現れたのかもわからない。ただ、彼らは一様に、御者座を目指していた――俺には目もくれず――まっすぐに、雄々しく突撃していく。

 そのことはつまり、彼らが俺の味方であるということを意味していた。連中の狙いは、『スルスク』号を攻撃する者――『極紫』ただひとりなのだ。

 いつの間にやら竜騎士たちに取り囲まれ、編隊の一部に組み込まれてしまった俺の偏在も、そのことを理解し、感動に打ち震えていた。

「は、はは……ミス・パッケリ……これがまさか、枢機卿様の護符の加護なのか?

 さすがというべきか……まったく、驚くべきものだな……信仰に対し、始祖は必ず応えて下さると、昔から教えられてきたが……ここまで露骨にお力添え頂けたのは、これが初めてだ!」

 その偏在は、左胸のポケットに入れた護符を、服の上から握りしめた。

 しぼみかけていた希望が、一気に膨らむ。始祖の遣わして下さった天の軍勢が加勢してくれるのだ、負けることなどあり得ない!

 風竜はさらに力強く、羽ばたいていく。飛行距離はいつの間にか、三十リーグを越えていた。

 

 

 ルイズが発動させた虚無魔法。広範囲に渡って幻影を生み出す《イリュージョン》は、七十リーグ近い遠みにいたシモーヌ・ヘイスにも、その効果を及ぼしていた。

 彼女の目の前に、何千、何万とも知れぬ竜騎士軍団が、虚空から染み出すように出現していた。まるで、夜空の星々がすべて変化したのかと錯覚するほどの数だ。

『スルスク』号から飛び立ち、シモーヌの方へと近付いてきていた五匹の風竜を、手際よく三匹まで撃ち落としたところで起きた、この不可思議現象。

 さすがのシモーヌ・ヘイスも、度肝を抜かれた。その細く鋭い目を、ぱしぱしと数度、まばたきさせたほどの驚愕である。

 だが、彼女もプロフェッショナル。超一流のメイジばかりを集めた護衛集団、『スイス・ガード』の一員であった。すぐに冷静さを取り戻すと、現状を分析しにかかる。

(あの、風竜の数……どう考えても、『スルスク』号に搭載されていた、戦力ではない……多過ぎる……。

 船外に潜んでいた……伏兵でも、ない……私の目に捉えられずに、隠れていられる死角など、ないし……護衛艦のたぐいも……周囲に、ない。

 風魔法の、偏在……? ノン。あのような数の偏在を出すには……数千人のスクウェア・メイジが必要……あり得ない。

 他のあらゆる魔法でも……私の知る限り、あのような軍勢を虚空から生み出すことなど、できはしない……。

 即ち……既存のものでない、未知の魔法の力によって、あれらは召喚された、可能性が高い……。

 ミスタ・セバスティアン……あなたの読みは、当たったようです……ジョゼフ・ド・ガリア……虚無のメイジ……真のガリア王……やはり、傀儡のイザベラやシャルロットとともに、あの『スルスク』号に……乗り込んで、いるのでしょう……。

 船を破壊されるという……未曾有の危機に……とうとう、隠れていられなくなって……自ら、杖を持って反撃に出た、といった、ところ……か。

 見たことのない魔法……間違いなく、虚無……それはわかるが……いったい、どういう効果……? あの数の竜騎士が……皆、実体ならば……さすがの私も、苦戦しそうだが……)

 そこまで考えたところで、シモーヌは改めて、杖――狙撃用長銃モシン・ナガン――を構え直した。

 そして、無数の竜騎士たちの中から、適当に選んだ一騎を、魔法で射抜いてみる。

 ウルトラ・ヴァイオレット光線を利用した、火系統の狙撃魔法。シモーヌにしか使えないオリジナル・スペル、《収束ガンマ線バースト(Kuolema kuuntelee)》は、数十リーグの距離を一瞬で駆け抜け、狙いをつけた竜騎士の額を貫通した。

「……わかった……」

 ふう、と、安堵のため息を漏らしながら、彼女は呟く。

「突然、出現した……あの、大量の竜騎士たちは……実物ではない。

 目に見えるだけ……触ればすり抜ける、ただの幻……そう、間違いない……手応え、ないし」

 一流の狙撃手ともなると、何かを狙い、撃ち、命中させた時には、標的となったものの手応えがちゃんと感じられるという。

 どれだけ遠くものを撃った時でも。タバコのように軽いものを撃った時でも。その感触が、その手に伝わってくるという。

「あの竜騎士は……撃っても、何も、感じなかった……まったくの……虚無……。

 さっき……軍団が、出現する前……『スルスク』号から飛び立った、五騎の竜騎士たち……そのうち、三騎を落とした時には、ちゃんと重い反動が……感じられた……そのうち、二騎は……偏在だったけど……空気袋を貫く、実感は……ともなっている……。

 新しく現れた方には……それすら、なかった。つまり、幻。私を脅かすものでは、ない」

 しかし、と、シモーヌはひとりごちる。

「それでも、二騎。偏在と思われる……私に攻撃を加えられる可能性のある……竜騎士が残っているのは、確か。

 なのに……そいつらは……あの、無数の幻の中に……紛れて、しまった……これは、こまった……どうしたものか……さすがにもう、私にも見分けが……つかない」

 ならば、どうすべきか。

 シモーヌは考える。既存のスペルに工夫を凝らし、まったく新しい狙撃魔法を産み出した天才的な研究者が、その優れた頭脳をフル回転させて、今現在直面している問題を解決しようと試みる。

 思考に費やした時間は、およそ三十秒。自分の手札と、相手の手札。周囲の環境。あらゆる条件を計算に組み込み、考えに考え抜いた彼女が出した答えとは――。

「……よし、決めた……とりあえず全部撃つ」

 それが一番、楽で、確実。

 少なくともシモーヌ・ヘイスには、そう思えた。

 気持ちも新たに、モシン・ナガンのトリガーに指をかける。

 迫り来る敵を撃ち落とせる確率は、数万分の二。

(大丈夫……落ち着いてやれば、できる。

 セバスティアン様のため……リョウコ様のため……このシモーヌ・ヘイス、今こそ、お役に立って……みせましょう……!)

 トリガーが引き絞られ、撃鉄が落ちる。

 暗闇の虚空に、目に見えない極紫の火線が乱舞した。

 

 

 実体なき竜騎士たちが、空いっぱいに狂い咲く。それを刈り取るべく、実体なき光の弾丸が空を裂く。

 ――カチ。カチ。カチ。カチ。目にも止まらぬ早さで、繰り返し繰り返し、シモーヌ・ヘイスは引き金を引き続ける。カチ。カチ。カチ。カチ。カチ。カチ。カチ。カチ。天球を埋め尽くす敵たちを、目に入ったそばから、しらみ潰しに撃ち抜いていく。すでに数百発を発射しているが、手応えはひとつもない。しかし、それにめげず、飽きず、諦めず、ただただ正確に、幻影を排除していく。

 幻の竜騎士は、撃たれても落ちたり消えたりしない。攻撃がすり抜けるだけだ。だが、撃たれることで失われるものもあった。それは、相手にする価値である。シモーヌにとって、幻影を撃つという一見無駄な行為は、それをもう二度と撃つ必要はない、ということを知る役に立っていた。

 彼女は、同じ竜騎士を二度撃つということをしない。どれを撃ったか、どれを撃っていないか――ちゃんと判別し、記憶している。敵の群れがどれだけ多かろうと、目でひとつひとつ区別できるならば覚えられる。

 カチ。カチ。カチ。カチ。カチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチ。千騎、二千騎と射抜いていき、それでもまだ無数の残敵が迫ってくる。だから何だ、とシモーヌは思う――慌てたって、怖がったって、有利になどなるものではない。ひたすらに、機械的に、殲滅狙撃を続けるべし。

 そんな作業に没頭していた彼女の視界に、再び大きな変化が生じた。

 雲が渦巻くように、風景そのものが歪む。すわ、さらに竜騎士が増えるのか、と身構えたが、次の瞬間に現れた幻影は、それよりさらに都合の悪いものだった。よりによって『スルスク』号が――墜落させるべしとセバスティアンに命じられたメイン・ターゲットである『スルスク』号が、分裂するように増え始めたのだ。

 これはありがたくない。向かってくる竜騎士への対応は必要だが、『スルスク』を撃ち落とすことは、それより遥かに優先順位が高い。何しろ、神であるセバスティアンの命令なのだから。自分の身を守ることより、ずっとずっと重要だ。

 もし、竜騎士の幻影と戯れている隙に、『スルスク』号も何万隻を越える大群になってしまったら? 同じようにどれが本物か見分けがつかなくなって、落とせないままアルビオンに逃げ込まれてしまうことになったら?

 まずい、標的を変えなくては。竜騎士たちは放置だ、『スルスク』号がこれ以上増える前に――まだどれが本物か区別がつくうちに、速攻で仕留めておかなければ!

 広い範囲にばら撒かれていた狙撃魔法が、一点に集約され、連続で撃ち込まれる。

 狙いは『スルスク』号の心臓部、第一風石室。他のサブ風石室より規模が大きく、船の重心を支えているこの施設を破壊されれば、『スルスク』は間違いなく沈む。

 十発。二十発。三十発。四十発。

 強烈なウルトラ・ヴァイオレット光線が、分厚い壁面を貫通し、風石に注ぎ込まれる。さすがに搭載量が多いだけあって、すぐさま臨界に達するというわけにはいかないが、それでも内蔵されている風エネルギーを急激に活性化させていく。

 無理な浮力をかけられて、ギシギシ、ギリギリと苦悶の声を上げる『スルスク』。

 船体の歪みによる傾きと振動は、船内を蠢く人間たちにとっては、災害以外のなにものでもなかった。

 船長は『スルスク』の沈没がもはや避けられないものになったと判断し、全船員、および全乗客に対し、避難勧告を出した。

 それを受けた船員たちは、大急ぎで、しかしつとめて冷静に行動した。まず、最優先で乗客たちを救命ボートへと誘導する。この時『スルスク』に乗っていたのは、ガリア王家にトリステインの高級貴族、そしてブリミル教会の枢機卿。ひとりとして死なせるわけにはいかない顔ぶれだった。

 まず、トリステイン外交団のリーダーであるマザリーニ枢機卿が保護された。彼は船内で、仲間であるミス・ヴァリエールとサイト・ヒラガを探していたが、ついに見つけることができず、仕方なくマザー・コンキリエの指示通り、救命ボートに乗り込んだのだ。

 次に、ガリア女王イザベラ、副王シャルロットが、船医に付き添われて、救命ボートの客となった。ふたりは怪我をしていたが、命に別状はなかった。特にイザベラ女王は、意識はしっかりとしており、貴人用の個室(たとえ救命ボートであろうとも、そういう部屋をちゃんと用意しておくのがガリア客船業界の心意気である)のベッドに横たえられた時も、仲間の安否を気遣う言葉を口にしていた。

「おい、船医。シャルロットは……あの子の顔の怪我は、大丈夫かい?」

「問題ありません。出血のわりには、浅い怪我でしたので。明日までには、傷ひとつ残らず治りますよ」

「そうかい……よかった。そういえば、ヴァイオラの奴は見てないかい? あー、コンキリエ枢機卿のことだけどね。あいつもちゃんと避難してるのか、確かめたいんだけど」

「少々お待ちを。誰かに聞いてきましょう」

 イザベラのもとを辞した船医は、混雑する救命ボートの中で、適当な船員を捕まえてこう尋ねた。

「君、枢機卿様がどこにいるか知らないかね? まだ避難してこられていないのだろうか?」

 問われた船員は、ちらりと――マザリーニ枢機卿のいる部屋を見て――「ええ、先ほど避難してこられました。あちらの部屋で、お休みになっておられます」と答えた。

「そうか、ありがとう。それさえわかれば充分だ」

 こうして得た答えを、船医はイザベラに伝えた。「コンキリエ枢機卿様も、ちゃんとこの救命ボートに乗り込んでおられます」と。それを聞いたイザベラは安堵し、自らも休むことに決めた。船員と船医との間に、とんでもない誤解があったことになど、少しも気付かずに。

 同じ過ちを、シザーリア・パッケリも犯した。

 彼女が救命ボートに乗り込んだのは、イザベラたちのあとだった。カステルモールを見送ったあと、船内を軽く回り、主人であるヴァイオラを探していたが、結局見つけることができなかった。

 すでに避難していることを期待して、救命ボートに来てみれば、通りすがりの船員が「枢機卿様は先ほどお休みになった。お疲れのようだから、あのまま寝かせておいて差し上げろ」などと話していて。それを聞いたシザーリアは、普段の慎重さを忘れてしまったかのように、ほっ、とひと安心してしまったのだ。

 無理もない。彼女は彼女で疲れていたのだ。何しろ、考えるべきことが多過ぎた。ミスタ・カステルモールは無事に帰ってこられるだろうか。『極紫』と戦うためのアドバイスは、あれで充分だっただろうか。このテロを仕組んだセバスティアン・コンキリエには、どう対応すればいいか。彼を始末しつつ、ヴァイオラ様の名誉を損なわないようにするにはどうすればいいか。

 それらの重大な問題の前では、のんきにすぴよすぴよと眠っているらしい主の様子を確認することなど、特に必要とは思えなかった。彼女は救命ボートの甲板で、手すりにもたれ掛かり、大きくため息をついた。

 ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールと、その使い魔平賀才人は、最後まで『スルスク』の中に残り、『極紫』の攻撃に抗い続けた。

 ルイズは長く繊細な交響曲(シンフォニー)を指揮するような気持ちで、虚無魔法《イリュージョン》を維持していた。

 彼女はサイトから、ガリア騎士のミスタ・カステルモールが、イザベラに命じられて『極紫』の討伐に向かったと聞いていた。ならば、それを支援するのが、攻守両面から見て一番良いはずだ。空を埋め尽くすような無数の竜騎士たちを産み出せば、カステルモールはその中に紛れて、安全に『極紫』に接近できるようになるだろう。

 いや、どうせならもっと贅沢をしてしまおう。せっかく使える魔法なのだ、そのポテンシャルを最大限に発揮してやらないともったいない。

 さらにイメージを、魔法の力を振り搾る。実現させるのは、『スルスク』号が無数に分身する光景。竜騎士隊を進攻させながら、新たな幻を作り出すことは、未熟なルイズにとって大きな負担だった。

 頭の奥で、ちりちりと何かが焦げつくような感覚が生じる。そして、めまい。精神力が枯渇に近付いているのが、ある種の切迫感とともに理解できた。

 でも、ここでやめるわけにはいかなかった。倒れるわけにはいかなかった。『スルスク』を増やす、増やす、増やす、増やす。増やせば増やすほど、敵はこの船を撃ちにくくなる。みんなを守りやすくなる。

 この仕事は、私にしかできない。だから、ルイズは苦痛を押さえ込んで、杖を掲げ続ける。

「おい、大丈夫かルイズ? つらいなら、適当なところで切り上げろよ?」

 その様子を見ていたサイトは、何度もそう声をかけた。

 ただでさえ燃費の悪い虚無の呪文。それを、長時間に渡って連続使用しているルイズの顔色は、客観的に見てひどいものだった。

 どちらかと言うと鈍感で、無神経な行動をとってはご主人様の怒りを買いまくっているこの使い魔が心配するほどなのだから、相当なものである。ただでさえ白い顔は青ざめ、眉間には深いしわが刻まれ、目は充血していた。額に、頬に、滝のような汗が浮く。事情を知らない者がそこにいれば、即座に医者を呼ぶだろうありさまだ。

 しかし、ルイズは杖を下ろさない。使命を果たそうとする自分を、止めない。

「まだやれるわ。私、まだ続けられる。

 ミスタ・カステルモールは、きっとまだ敵のところまでたどり着けていない……そのための時間を、私が稼いでみせる……私にしかできない、ことだもの……!」

 汗が顔の輪郭をつたって、ぽた、ぽた、と落ちていく。立派な貴族であろうとする少女の横顔を、使い魔の少年は、不安と好感の混じり合った気持ちで見つめた。

 ――そして。ヴァイオラ・マリア・コンキリエは――。

「ええい、畜生、どこへ行きおった、あのキラキラピンクめが。確かにこっちに逃げたはずなんじゃがなぁ……五、六人ぐらい」

 幻影のルイズを追いかけて、彼女はいつしか『スルスク』号の船尾の辺りまでやってきていた。周りには人影がまったくない――食堂で頑張っているルイズとサイトを除いたすべての乗客乗員が、救命ボートへ避難してしまったからだ。

 折れた木の棒を片手に、きょろきょろと辺りを見回す。目的であるルイズの姿はない。当たり前のことだが、ルイズはすでに自分の幻影を作るのを止めていた。竜騎士と『スルスク』のコピーを作り出すので手いっぱいになっていたからだ。

 そんなことなど知るよしもないヴァイオラは、人の隠れられそうな場所を徹底的に探し回った。薄暗い倉庫、トイレ、乗員休憩室。目的の人物はどこにもいない。

 もたもたしている間にも、ぐらりぐらりと船は揺れ続けた。床は波打ち、天井からは木屑の混じった埃が落ちてくる。目の前で、壁にかけられていたランプの灯りが、ふっ――と消えた時には、神経の太い彼女も身震いを禁じ得なかった。

「ちっ、いかんな……いよいよこの船、ヤバそうじゃ。早いことヴァリエールのアホをやっつけて、救命ボートに避難せねば。

 次の場所におらんかったら、いっそ回れ右して逃げるのもええかもしれんな。いずれ落ちるこの船の中に放置しとけば、かくれんぼの得意なあのガキも、もろともにくたばるじゃろうし」

 そう呟きながら、ヴァイオラは『第五風石室』というプレートの掲げられた部屋に、足を踏み入れた。

 そこは、まだシモーヌ・ヘイスに撃たれていない、無傷の風石室だった。狭く、頑丈そうな部屋で、中心には風石炉とでも呼ぶべき、巨大な装置が鎮座している。この中に風石をくべて、適切な刺激を与えることで、風エネルギーを取り出し、船に浮力を与えるのだ。

 ゴオ、ゴオと、低く不気味な音を立てて稼働している風石炉をちらりと横目に見やって、ヴァイオラは唇をへの時に曲げる。

「うーむ、ここにもおらんか。ホントにあいつ、どこに隠れよった?

 まあ、こうなっては仕方ない。あんなクズのために、我の身を危険にさらすわけにはいかんしの……どれ、さっさと脱出を……」

 そう言って、踵を返そうとした時だった。

 ひときわ大きな揺れが、『スルスク』を襲った――シモーヌ・ヘイスに狙撃された第一風石室の出力が爆発的に上昇し、船体が急激に浮き上がる。

 内部にいた者にとっては、床が突然跳ね上がったように感じられただろう。フライの呪文で、ふよふよと浮いていたヴァイオラにも、そのように見えた――恐ろしい速さで迫ってくる床板――バシイッ、と派手な音が鳴り響き、彼女は吹き飛ばされた。

「うげっ!?」

 ハエ叩きで殴られた羽虫と同じ運命を、彼女は辿った。床板によって打ち上げられ、天井にぶつかる。その衝撃で杖を手放してしまい、飛行呪文が強制的に解除され、受け身も取れずに、再び床へ落とされる。

 小さな体は、でん、ででん、と、二、三度バウンドし、風石炉に寄り添うような形で、ようやく止まった。

 悲鳴は上げない。目は閉じている。指先さえ、ピクリとも動かない。ふわふわした紫色の髪の生え際から、額に向かって、たらり、と赤い血が流れる。

 ヴァイオラは、完全に意識を失っていた。

 目覚める様子はない。頭を打ち、意識が底無し沼のように深い暗闇の奥へ沈んでしまったのだ。

 激しい揺れも、柱や梁がへし折れていく轟音も、彼女を起こすことはできなかった。

 狭い風石室の中で。今にも落ちてしまいそうな船の中で。そこにいるということを誰にも知ってもらえないまま、彼女は眠る――。

 

 

 起きていても、眠っていても、時は流れる。

 ルイズが《イリュージョン》を使い始めてから、すでにかなりの時間が経過していた。

 もう少し、まだやれる、最後の踏ん張り――自分にそう言い聞かせながら、彼女は幻影を一秒でも長く維持しようと努めた。

 しかし、ついに限界が訪れる。細い両足から、不意に力が抜け、彼女はへなへなとその場に崩れ落ちた。精神力を使い切り、気を失ったのだ。

「ルイズッ!」

 そばに控えていたサイトが、倒れかけるルイズを抱きとめた。

 窓の外では、少女の力によって現れた竜騎士たちが、その姿を失いつつあった。魔法が解けて、にじむように、崩れるように、虚空へと還っていく。

 あとには何も残らないだろう。しかし、その出現は無意味ではなかったはずだ、とサイトは確信する。

「よくやったよ、ルイズ……みんなが逃げる時間を稼げたし、きっとカステルモールさんの助けにもなれたはずだ。

 やっぱりお前、役立たずなんかじゃないよ。ちゃんと、立派に、貴族できてると思うぜ。

 おっと、しんみりしてる暇はないよな。早く避難しなくちゃ。救命ボートに乗り遅れて、こいつを死なせるようじゃ、俺こそホントの役立たずになっちまう」

 軽い少女をその背に負って、少年は大急ぎで甲板まで駆けた。

 船の揺れと傾きは、いよいよ激しくなっている。サイトが救命ボートのところまでたどり着いた時、その乗り込み口で、船員たちが必死な様子で彼を手招きしていた。

「早く! 早く乗り込むんだ! もう出発するぞーッ!」

「わ、わかった!」

 サイトたちが救命ボートに乗り込んだ途端、最後の大きな振動が、『スルスク』を襲った。

 広い甲板が、バキバキとウエハースのようにひび割れていく。もう限界だった。これ以上留まっていては、救命ボートも危うくなる。

 乗り込み口が閉じられ、救命ボートは『スルスク』から飛び立った。スピードは出ないが、ゆっくり、着実に、滅びつつある巨大客船から遠ざかっていく。

 サイトは窓越しに、『スルスク』が崩れ落ちていく様子を見ていた。それは事故というより、むしろ天変地異に近い眺めだった。城のように大きな船が、バラバラになる。ゴ、ゴ、ゴ、ゴ、と、腹に響く音を撒き散らしながら、真ん中から真っ二つに折れた。

 壁も、柱も、床も、梁も、竜骨も、マストも、帆も。テーブルも、椅子も、食器も、酒も、食べ物も、花瓶も、ベッドも、枕も、ドレスも、化粧品も、海図も、コンパスも、すべてが雨のように、海へと降り注いでいく。

 いや、すべてではない。キラキラと光るものが、逆に天へと昇っていくのも見えた。

 近くにいた船員に聞くと、それは風石室に残っていた風石の欠片だろう、という答えが返ってきた。風の力を励起させている状態の風石は、宙に放り出されると、あのように落下せず、空に向かって浮き上がっていくのだとか。

 よく見ていると、かなりたくさんの瓦礫が、落ちずに空中で渦巻き、風に流され、どこへともなく飛び散っていく。それは幻想的な光景であったが――同時に薄気味の悪い光景でもあった。地獄へ落下するのであろうと、天上へ召されるのであろうと。それらの意味するものはどちらも『死』なのだ。

 このような雄大な『死』が。たったひとりのテロリストの狙撃によって現出したとは。

 それを思うと、サイトは背筋が寒くなるのを感じた。そして、そのテロリストにひとりで立ち向かっていった、カステルモールのことがひどく心配になった。

 どうか、無事に帰ってきて欲しい。

 そう祈る。ブリミル教徒でないサイトは、始祖ではなくカステルモール自身に対して、祈りを捧げた。

 彼の背中で、ルイズが身じろぎをした。始祖の再来であるこの少女には、今しばらくの休息が必要なようだった。

 

 

 駆ける。駆ける。駆ける。駆ける。

 羽ばたく。羽ばたく。羽ばたく。羽ばたく。

 大勢の味方たちに守られて、俺、バッソ・カステルモールは夜を鋭く突き抜ける。

 もう何分飛んだだろうか。すでに、数十リーグの距離を稼いだ。

 敵からの狙撃はない――どうやら完全に、向こうはこちらを見失ったようだ。

 それも仕方がないだろう。こちらは数万という竜騎士の群れの中に、身を潜めているのだ。見分けをつけて正確に撃ち抜けるとしたら、それはもう人間技ではない。

(しかし、こちらも敵を見つけることができないでいるのは同じ……いったい『極紫』は、どこに……むっ!?)

 飛行距離が、そろそろ六十リーグに達しようかという時だ。俺の目はついに、暗闇の中に浮かぶ、一隻の怪しい船を見つけ出した。

 五人も乗れば満員といったサイズの、遊覧用と思しき小型ボート。灯りもつけておらず、星明かりの下にかろうじて、その姿を潜めている。

 さらに目を凝らす――舳先に、誰か人が立っている。そしてその人影は、こちらに――あるいは『スルスク』号に――何かを向けて、構えているようだ。

 あれだ、間違いない! ついに俺は『極紫』を捉えたのだ!

 興奮が高まる。あとは、もうほんの少し接近して、魔法による一撃を叩き込んでやれば、それでミッション・コンプリートだ。『極紫』自身を狙い撃つ必要さえない。あの小さな船を落としさえすれば、乗り物を失なった敵は勝手に詰むだろう。

 もう少し、もう少しだけ――攻撃魔法が届く距離まで近付くことができれば、すべては終わる――。

 そう思ってほくそ笑んだ、まさにその時だった。

 周囲を守ってくれていた、天の竜騎士たちが。まるで霞のように、その姿を失い始めた。

「なんだ!?」と、疑問に思えども、虚空から答えは返ってこない。ただ、見たままの現象がそこにあるだけ。形が薄れ、色が薄れ、彼らはだんだん消えていく。

 そして、その事実がもたらす結果に思いを巡らせて、俺は震え上がった。竜騎士たちが消える――しかし、俺は消えはしない。ならば――あとにはただ、俺が残るのみ。

『極紫』に撃たれればすぐに落ちてしまう、脆弱な俺が。

「い、いかん! 始祖の軍勢が帰ってしまう前に! 急いで『極紫』を始末しなくてはッ!」

 敵の船までの距離は、目測でおよそ、八リーグ強。

 五百メイルまで近付けば、こちらの魔法の射程に入る。あと七リーグ半! 何としても縮めねば!

 にじみ去る天の竜騎士たちの中を掻き分けるようにして、俺は疾走する。

 速く、速く、速く、速く。流星よりも、速く。

 残り七リーグ。六リーグ。五リーグ――ああ、竜騎士たちが。ヴァルハラの英雄たちが。もう、半透明になってしまっている。彼らの向こう側に、星や月が見えそうだ。

 残り四リーグ――三リーグ――敵の姿が、『極紫』の顔が、はっきりと見えてくる。女だ――しかも、まだ若い。俺と同じぐらいかも――鉄灰色の髪を風になびかせて――なんという堂々とした佇まいだ。手にしているのは――長銃か? その構えは、老練な猟師を思わせるもので、実に美しかった。

 しかし、その目は恐ろしい。氷のように冷たい眼差し! 俗に言う邪眼(イビル・アイ)というやつだ。ただ睨むだけで、死の呪詛を飛ばすという呪われた目。その言い伝え自体は迷信だが、この女に見られることは確かに、死を意味するだろう。

 残り二リーグ。一リーグと五百メイル。一リーグと三百メイル――まだ、まだ届かない。

 ここにきて、ビシリ、と、首を焼かれる不快な衝撃。

 ふたりいる俺のうち、片方がやられた。

 その偏在が風となって散り消えるさまを、気にかける余裕もない。俺はもうあとひとりしか残っておらず、天の軍勢も、もう人の姿すらしていない靄と成り果てた。もう、次の瞬間にでも、『極紫』に捕捉されるかも知れないのだ。

 ここまで来て。ここまで来て、やられるわけにはいかない。

 左胸のポケットに入っている護符に、改めて祈る。

 あとほんの数秒でいい、この身を守りたまえ。

 敵にたどり着く時間を。『極紫』を打ち倒すための力を、授けたまえ。

 残り一リーグ――九百メイル――八百メイル――。

 竜の背にしがみついたまま、呪文を唱え始める。俺の使える攻撃呪文の中で、最大の威力を誇るスクウェア・スペル、《カッター・トルネード》を。

 有効射程である五百メイルに到達したら、即座に敵の乗るあの船に向けて撃ち込んでやるのだ。無数の風の刃は、密集し、絡み合って巨大な竜巻となる。その威力の前では、いかに『極紫』といえど、嵐の中の枯れ葉同然の儚きものとなろう。

 残り七百メイル――六百五十メイル――六百メイル――。

 五百九十――五百八十――五百七十――。

 あと少し――時間が、遅く感じる――まるで、空気が粘性を持ったようだ――超高速で飛んでいるはずなのに――じりじりと、スローモーションで進んでいるような感覚に陥る。

 その――ゆっくりと動く、視界の中で――。

『極紫』が――。

 そのアイス・ブルーの瞳が――。

 恐るべき『邪眼』が――。

 じろり、と。

 こちらを、捉えた。

「……………………ッ!」

 俺は恐怖に襲われ、反射的に杖を構えた。

 向こうも、こちらに銃口を向けている。完全に見つかっていた。

 彼我の距離は、およそ五百五十メイル。

 あと、五十メイル詰めれば、魔法を撃ち込める。

 五十メイルを進むには――この風竜であれば――あと、一、二秒もあればいい。

 それだけの時間が許されれば、俺の勝ちなのだ。

 残り五百四十。三十。二十。十――。

 あと少し。

 間髪の距離。

 だというのに。

 だというのに。

『極紫』の手は。

 無駄なく。容赦なく。

 引き金を引き絞っていた。

 激鉄が落ちるさまを、俺の目は見ていた。

 ――カチ、という渇いた音が、耳に届いたような錯覚さえあった。

「カッター・トルネー……!」

 有効射程、五百メイルに到達。

 しかし、俺は用意しておいた攻撃呪文の、最後の始動キーを唱え切ることができなかった。

『極紫』が放った見えざる火の弾丸は。

 焼けるような痛みだけを伴って、俺の左胸に――ポケットの中の護符を貫き、始祖の加護さえ踏みにじって――深々と突き刺さったのだ。

「こ、こん、な……ここまで、来て……!」

 もんどり打って、竜の背から転がり落ちながら。

 最後の俺も、アルビオン沖の空に散った。

 

 

 勝ち誇った人間は、その時すでに敗北している――という、古い格言がある。

 圧倒的な有利を得て、勝利を確信した瞬間こそ、人は最も油断しやすく、反撃に対して無防備になるという意味だ。

 人類の歴史の中で探しても、追い詰めたはずの相手に逆襲され、屍をさらすことになった強者は数多い。

 もちろん、本当に強い英傑であれば、最後の最後まで油断などしない。勝利を喜び、誇るのは、間違いなく相手に止めを刺したあとのことだ。

 ――バッソ・カステルモールと死闘を繰り広げた、シモーヌ・ヘイスの場合は、どうだっただろうか。

 彼女は、明らかに『油断しない強者』だった。

 接近するカステルモールとその偏在たちを、次々と撃ち落としていった。

 最後の二体は、謎の幻影の妨害もあって見失いかけたが、最後には無事発見し、始末をつけた。

 六十八リーグの距離を貫き、残り五百メイルにまで迫った偏在を射殺し――シモーヌの勝利は確定した。敵の戦力を完全に排除したので、逆転される可能性などひとつもなかった。

 シモーヌ・ヘイスは油断しなかった。

 それは確かだ。

 だからこそ。

 この直後に起きた、シモーヌの死は――彼女の敗北でも、ましてやカステルモールの勝利でもないのだ。

 

 

 シモーヌ・ヘイスの目の前で、カステルモールの最後の偏在が消えていく。

 竜の背にいた男が、左胸を押さえながらのけぞり、風に溶けていった。シモーヌはそれを見届け、銃の引き金にかけていた指をほどく。

 ――勝った。

 確信と共に、大きく息を吐く。敵を全滅させた安心感に、ほんの一瞬浸る。

 だが、まだ任務は達成していない。『スルスク』は完全に破壊したが、救命ボートが脱出していくのを、彼女の目はきちんと捉えていたのだ。

 それを落としてやっと、セバスティアンの御心にかなうのだ。休憩している暇はない。一刻も早くボートを撃って、標的であるガリア王族たちを抹殺しなければ――。

 そう思いながら、再び銃を構えようとした、その時。

 シモーヌの視界は、一面の深紅に染まった。

 

 ――ズ・ド・ド・ドドオオォォ――ンンンッ!

 

 全身を砕くような轟音が、直後に訪れた。

 いや、「全身を砕くような」というのは、比喩にはならなかった。回避不可能な衝撃波が、文字通りシモーヌの体に叩きつけられ、骨という骨を砕き、肉という肉を引き裂き、血煙よりも粉々にして、吹き飛ばしてしまったからだ。

 彼女の信頼した愛銃、モシン・ナガンも、その頑丈な銃身をねじ曲げられ、引きちぎられ、ばらばらの鉄屑となって飛び散った。乗っていた小型船も、ぐしゃぐしゃの木材の破片に分解されて、暗い海に撒き散らされた。

 まるで、巨人の拳に叩き潰されたかのような、瞬間的な大破局であった。

 自分の身に何が起きたのか、シモーヌは知る暇もなく命を落とした。

 だが、彼女の死の原因となった現象を目撃した人間は、大勢いた。

 六十リーグほど離れた場所に浮いていた、バッソ・カステルモール(本体)も。救命ボートに乗っていた、『スルスク』からの避難者たちも。

 空中に咲いた、紅蓮薔薇の大輪を目の当たりにした。

 何十リーグ離れていても、はっきりと視認できるほどの大きな花火。真っ赤な炎が爆発し、海に太陽を浮かべたような光景を作り出していた。

 炎の赤は、闇に飲まれるように沈んでいき、その痕跡から、もくもくと巨大なキノコ雲が立ち昇る。大理石のような色合いの、重々しく、禍々しい雲だった。

 サイトがそれを見て、呆然とした様子で「え、何あれ、やべぇ」と呟いたのも、無理のないことだろう。目撃者であれば、きっと誰もが、同じ感想を抱いていた。

 何の予告も予兆もなく、まったく突然に起きた、謎の大爆発。

 シモーヌ・ヘイスを倒したのは――誰でもない。

 神の起こしたような、得体の知れない「現象」だった。

 

 

 ――同時刻。リュティスのヴェルサルテイル宮殿では、ビダーシャルが使用人たちと、他愛もない会話を交わしていた。

「やっぱりありませんよー、ビダーシャル様」

「こっちもです。壁に隠し扉とかも見つかりません」

「はいはいはーい。天井裏の捜索、終わりましたぁ。ホコリしか見つかりませーん!」

「ぬう……そんなはずはないのだが……どうなっているんだ」

 使用人たちの報告を聞いて、ビダーシャルはうめいた。

 場所は、かつてミス・シェフィールドの居室だった部屋だ。彼は、この場所にあるはずのあるものを見つけるために、人手を借りて、部屋中をひっくり返していた。

「他に手をつけていないような場所はないだろうか? 何かに紛れて隠れている、という可能性も、大いにあるんだ。

 もう一度説明するが、モノは手のひらより少し小さいくらいの大きさの護符だ。布製で、表面にはブリミル教の聖句が刺繍してある。

 中には、平たい赤褐色の石が入っている……必要なのは、この石だ。護符はあくまで入れ物に過ぎないから、別の何かに入れ直されているかも知れない。入れ物になりそうなものがあれば、ひとつ残らず中を確かめてみて欲しいのだが」

「それも踏まえて、あらゆるところを探しましたよー」

 疲れた様子のメイドが反論する。彼女以外の者たちも同じことを思っていただろうし、他ならぬビダーシャルも、そう思っていた。それほど広い部屋でなし、ちゃんとモノがあるのなら、大人数で探して出てこないわけがないのだ。

「あ、あのー。そういえば、なんですけど」

 赤い癖っ毛の大人しそうなメイドが、おずおずと手をあげて発言した。

「ここ最近、マザー・コンキリエがこの部屋に入り浸っておられました。なので、もしかしたら、あの方なら何かご存じかも知れません」

「なに? マザー・コンキリエが?」

 ビダーシャルの端正な顔がしかめられる。話に上がったマザー・コンキリエは、ちょうどアルビオンに出掛けていて留守だ。

 彼女が持ち出した、という可能性が生じたのはありがたかったが、それを確かめることができるのは、ずいぶんと先のことになるだろう。

「うーむ、しかしまあ、十日もすれば帰ってくるだろうし……他に手がないならば、気長に待つとするか。

 皆の者、ご苦労だった。助力に感謝を。君たちのもとの仕事に、戻ってくれて構わない」

 ぱんぱん、と手を叩き、彼は使用人たちを解散させた。

「しかし、ミスタ・ビダーシャル。私たちの探していたその石ってのは、いったい何なんです?」

 好奇心の強そうな使用人が、去り際にビダーシャルにそう尋ねた。

「ただの石であろうはずもなし。宝石でもなさそうですし、まさか、石が薬の材料になったりするんですか? あなたは、ミス・オルレアンのお母上のために、薬を作っているんだという噂ですが……」

「ふむ、そうだな。手伝ってもらった礼の代わりだ、教えてあげよう。

 その石は『火石』というものでな。風石と同じで、精霊の力が秘められた鉱石なのだが、これは風ではなく、火の力を持っているのだ。

 主な利用法は、やはり燃料として、だな。適度な刺激を与えて、うまく力を取り出せば、かまどで薪を燃やすより大きな火力が得られるのだ。今作っている薬は、どうしても材料を高温で熱する必要があってな。火石が手元にあれば、作業が実に楽になるのだが……」

「ほほう。なるほどなるほど。そういう事情でしたか。

 しかし、火の力を含んだ石だなんて、どうもおっかないですな。危険はないんですか? たとえば、放っておくと燃え出したりとか」

「心配はいらない。火石は非常に安定した精霊石だからな……意図して力を取り出そうとしない限りは、普通の石ころと変わりはしないよ」

 そう言ってビダーシャルは、その使用人を安心させたが――万が一、火石の中に秘められたエネルギーが暴走したらどうなるかまでは、話しはしなかった。

(あの火石は小さいものだが、全部の力を一斉に取り出したとしたら……だいたい、半径一リーグの空間を焼き尽くす大爆発を生じることになるだろうな。

 まあ、そんな致命的な暴走など、まず起きないだろうが。極端な話、ジョゼフの使う虚無の爆発魔法とか……あるいは、蛮人の分類でいうところの、火のスクウェア・スペルのような強烈な刺激を叩き込まない限りは、エネルギーの全解放を起こすことなどできはしない。

 マザー・コンキリエがあれを持っているとしても、平和な船旅で、そのような凶悪な魔法を浴びることなどあり得ないだろうし、数日後にはちゃんと、何事もなく我が手に戻ってくるだろう。……まったく、小さなサンプルとはいえ、軽い気持ちでミス・シェフィールドに譲るのではなかった。我が手元に置いておけば、無駄な回り道をしなくて済んだものを)

 そんな風に心の中で文句を言いながら、ビダーシャルは自分の部屋へと帰っていった。

 もちろん、言うまでもないが、彼の手元に火石が戻ってくることは、永遠にない。アルビオン沖の空中で、それはシモーヌ・ヘイスの狙撃魔法によって貫かれ、直径二リーグの大火球となって吹き飛んだのだ。

 ――のちに、彼の火石が引き起こした爆発は、ハルケギニア人たちの間で『スルスクのための始祖の雷』と呼ばれ、伝説化することになるが――それが自分の私物によるものだと気付いた時、ビダーシャルはとても、とても、渋い顔をしたという。

 

 

 あの爆発は、果たして凶兆でしょうか、それとも瑞兆でしょうか。

 救命ボートの甲板でそれを見た私には、どちらなのか、区別がつきませんでした。ただ、何かに決着がついたのだと、漠然と感じられただけで。

 キノコのような不気味な雲が天を衝き、およそ十数分も経った頃、竜に乗って飛び立っていったミスタ・カステルモールが、フライの魔法で帰還してきて初めて――私はそれを、瑞兆だったのだと認めることができました。

 彼は怪我をした様子もなく、元気そうに見えました。ですが、表情はどこか呆然としていて、まだ幻の中にいるような、そんな不安定な空気を醸し出していました。

「おかえりなさいませ、ミスタ・カステルモール。ご無事で何よりです」

「……あ。ミス……パッケリ……」

 声をかけた私に、彼はぼんやりとした目を向けてきました。

「俺は……勝てなかった。『極紫』に、あと一歩のところで返り討ちに、されてしまったよ……きみの応援を受けていたってのに……情けない、限りさ」

「? 何を仰っているのです。あなたはこうして、生きて帰ってきたではありませんか。勝ったのは、あなたのはずです」

「勝ったのは……始祖だ。天の軍勢、天の雷火……俺じゃないんだ。始祖が、すべてを片付けて下さった。俺の手柄なんて、何ひとつ、ない」

 自嘲ぎみに呟きながら、彼は甲板の冷たい床に座り込みます。船を落とすような強敵に、勇敢にも立ち向かい、生還した戦士とは思えない、このくたびれた様子は、いったい何なのでしょう。天の軍勢や、天の雷火とは? 後者は、あの凄まじい爆発のことを言っているのでしょうか?

「ミスタ。ミスタ・カステルモール。何があったのです? あの爆発が、『極紫』に引導を渡したということですか? とんでもない威力のように見えましたが……あれは、あなたの魔法による攻撃では、ないのですか?」

 そう問いかけると――ミスタ・カステルモールは――うつむき、顔を青ざめさせて――震える声で、こう、囁いたのです。

「……たりずまんが。ばくはつ、した」

「……は?」

「きみから、あずかった、たりずまんが。まざー・こんきりえの、たりずまんが。へんざいが、むねぽけっとにいれてた、たりずまんが。

 ぼーんって。いきなり、ふっとんだの。

 そんで、あのでっかいひのたまが、できた」

「……………………」

 絶句する私。

 泣きそうなミスタ・カステルモール。

 彼は背中を丸め、膝を抱える三角座りをして。顔を膝小僧に埋め、ぷるぷると肩を震わせています。

「みす・ぱっけり……始祖のご加護、めっちゃコワイ……」

 ヴァイオラ様――――――――――ッ!?

 このボートの貴賓室で休んでいらっしゃるであろう、我が主を。今すぐに叩き起こして、問い詰めたい気持ちで心がいっぱいになりました。

 ヴァイオラ様、あなたは私に、何を下さったのですか。爆発する護符って、いったいどういうことですか。私にそんなものを持たせて、どうなさるおつもりだったのですか。

 ミスタ・カステルモールに対する、この罪悪感をどうすればいいのですか。この人、完全にトラウマ負っちゃってるじゃないですか。立派な騎士様が丸くなってすすり泣いてる様とか、あまりにも対応に困るのですが!

 とりあえず、「おーよしよし」と声をかけながら、可哀想なミスタの背中を撫でて、慰めて差し上げます。ヴァイオラ様への追究は確実に必要ですが、この人も放ってはおけません。

 泣き止むまでは、そばにいてあげるとして――ヴァイオラ様のお部屋をお訪ねするのは、アルビオンに到着してからにしておきましょうか。

 それまでの時間は、あの方にどのようなお仕置きをするか、考えることに費やしましょう。一ヵ月おやつ抜きは当たり前として――夕食に欠かさずはしばみ草を混ぜるとか――おしりペンペンもありですね――動機の重さに応じて、三百叩きから千叩きぐらいの間で調整して――。

 そんな風に延々と、悶々と、粛々と思考をこねくり回し続けます。

 計画を立て、推敲している時間は、それなりに精神を落ち着ける役に立つものです。気がつくと救命ボートは、アルビオンを監視するトリステイン艦隊に発見され、保護されておりました。

 彼らもまた、海峡上で起きたあの大爆発を目撃しており、調査のためにこちらに近付いてきていたのです。

 艦隊のトップであるトリステイン空軍元帥、ラ・ラメー伯爵は、当然のことですが、遭難者である我々の身元の提示を求めました。

 この取り引きにおいて、アクシデントは一切生じなかった、と言っていいでしょう。ガリアの乗客は、イザベラ様が全員の身元を保証し、トリステインの乗客は、マザリーニ枢機卿様が身元を保証しました。

 船員たちについては、『スルスク』号船長が責任を持ち、生存者はもちろん、『スルスク』崩壊で失われた人員についても、資料として整理していたようです。

 その資料によりますと、救助された乗客は七名。

 イザベラ・ド・ガリア。シャルロット・エレーヌ・オルレアン。シザーリア・パッケリ。バッソ・カステルモール。

 ファーザー・マザリーニ。ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエール。サイト・ヒラガ。

 生き残り、保護された『スルスク』号船員は、百七名。

 確認された死亡者は、十三名。いずれも、船員でした。

 

 そして。

 

 資料に記された項目は、もうひとつ。

 

 ――行方不明者、一名。

 

 そこに、ヴァイオラ・マリア・コンキリエの名が。

 呪いのように、刻みつけられておりました。

 




今回はここまでー。
次回、『フツーにひょっこり見つかるヴァイオラ様』、『森の真ん中でクロムウェルが「むーりぃー」と叫ぶ』、『リョウコさんのアルビオンまずいもの紀行』(全て仮タイトル)を、楽しみに待つのじゃー。

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