コンキリエ枢機卿の優雅な生活   作:琥珀堂

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フェステさんの方がひと段落したので、こっちも更新しておくのじゃよー。


森の中のヴァイオレット

 私――アンリエッタ・ド・トリステインが、アルビオンの土を踏んだ時。

 そこにあったのは、混迷以外のなにものでもありませんでした。

 

 

「アンリエッタ。ローズヒップ・ティーはどうかね。

 ヴィンドボナの王宮で、余が育てた薔薇の果実で作ったものだ。優れた疲労回復効果がある」

「頂きますわ、アルブレヒト様」

 アルビオンの首都、ロンディニウム。その中心にそびえ立つ、雄壮なハヴィラント宮殿のバルコニーで。私とアルブレヒト三世様は、穏やかな時間を過ごしておりました。

 そう――信じられないくらい、とてもとても、穏やかな時間を。

 初冬の柔らかな日差しを頬に浴びながら、よく手入れされたアルビオン式庭園を観賞し、暖かいお茶と甘いお菓子を頂いています。

 戦争を終わらせるため、アルビオンの現君主、オリヴァー・クロムウェルに降伏を呼び掛けるために、気合いを入れてやってきたというのに。高度な政治的駆け引きを、困難な精神的闘争が繰り広げられることを覚悟していたというのに。

 もう、かれこれ十日以上も。私たちはこのハヴィラント宮殿に滞在して、子供の長期休暇のような、平和な日々を過ごしているのです。

 なぜ、このようなことになったのか。

 そもそも、この地で何が起きているのか。無学な私では、とても理解が追いつきません。

 わかることといえば、断片的な数々の事件の、限られた側面だけ。

「オリヴァー・クロムウェルは、どうやら今日も、我々と面会するつもりはないようだね、アンリエッタ」

 テーブルを挟んで、私の対面に座ったアルブレヒト様が、穏やかな声でそう仰いました。

「我々を迎え入れてくれたあの将軍――確か、ホーキンスといったか――は、神聖皇帝閣下は多忙のため、面会まで暫しの猶予を頂きたく……などと、格式張ったことを言っていたが。結局のところ、奴は我々をいつまで待たせるつもりなのだろうな」

「きっと、永遠に面会するつもりがないのでしょう。彼らも、自分たちがひどく不利な状況に陥っていることはわかっているでしょうから」

 言いながらカップを持ち上げ、ルビーのように赤いローズヒップ・ティーで、舌を湿らせます。ピリッと強い酸味と、爽やかな薔薇の香り。アルブレヒト様のお好きなこのお茶は、頭をすっきりさせる効能もありそうです。飲んでいると、普段よりもちょっとお話が弾むような、そんな気がしました。

「一度でも話し合いの機会を持てば、なし崩し的に説得を受け入れざるを得なくなって、地位を追われることになる……クロムウェルはそれを恐れているのです。風前の灯の権力でも、一秒でも長く、維持していたいのではないでしょうか」

「ふむ、なるほど。そういう考え方もあるかも知れない。

 だが、それなら、そもそも我々を迎え入れる必要がない、とも思うのだがね。面会する意思を見せず、門前払いを食らわせればいい。敵国の王に対する仕打ちとしては、まったく不自然ではない。

 なのに、彼らはそうしていない。一応だが、もてなそうという意思も見せている。交渉に応じる気もないのに、礼儀を示してみせるのは、いささか奇妙だ」

「交渉自体を断れば、その時点で総攻撃が行われるのでは、と危惧している可能性は?」

「それはないだろう。我々の包囲戦術によって、この国は飢え、衰え、滅びつつある。彼らはむしろ、こちらが包囲戦術を切り上げて、密集した軍隊で侵攻を始めることを望んでいるはずだ。そうなれば、彼らはホームグラウンドでそれを迎え撃つことができるからね。

 それが、アルビオン側にとっての、おそらく唯一の勝機だ。軍略に慣れていないであろうクロムウェルだけならともかく、経験豊富な軍人がそれに気付かないはずがない。

 交渉を受け入れて、少ない犠牲で降伏するか。はっきり拒絶して、総力戦という賭けに出るか。多少なりとも情勢が読める者なら、このどちらかしか選択肢がない、ということはわかるはずだ。――なのに、今のところ、選択がなされた様子はない。クロムウェルが状況を悲観して、決断を下すことを放棄したとしても、議会や軍はそれを許すまい。必ず、何らかの動きを求められるはずなんだ」

「それさえない、ということは……いったい……?」

「わからない。謎だよ、アンリエッタ。真相を見い出すには、情報が足りなさ過ぎる。今は、クロムウェルが動きを見せるのを待つしかないだろうな。

 まあ、こちらとしても、最初の予定が大幅に狂ってしまっているから、待つ分には特に問題はないがね。

 ……ファーザー・マザリーニの様子はどうだね? 彼は、少しは落ち着いただろうか」

 その問いかけに、私は――つい数時間前に見た、我が国の屋台骨である老いた枢機卿の姿を、脳裏に浮かべました。

「いえ。お世辞にも、本調子とは言えません。トリステイン王宮で、身を粉にして働いていた時よりも、さらに鬼気迫る様子で……忙しく手紙を書いたり、馬を駆って出掛けていったり、人と会ったりして、常に動き続けています。

 かなり大勢の人を雇って、いなくなったマザー・コンキリエを探しているようですわ」

「そうか……噂によると、彼とマザー・コンキリエは、兄妹のように仲が良いらしいからな。妹分が事故で行方不明になっては、さすがに平静ではいられまい。

 ガリアのイザベラ女王やシャルロット副王も、捜索を続けているようだ。彼女らには、クロムウェルとの交渉の場に同席して頂きたいと思っていたのだが……さすがにそれどころではない、だろうな」

 アルブレヒト様は、途方に暮れるように、首を左右に振りました。

「まったく、まさかアルビオンに入国する前に、『スルスク』号がテロリストに襲われるとは! しかも、あの巨大な船が轟沈するほどの大被害を被るとは、思いもしなかった。アルビオンへの渡航計画は、完全に秘することができていたはずなのだが……いったい、どの線から差し向けられた刺客であったのやら。

 ファーザーやミス・ヴァリエールたち、それにガリア王族たちが命を落とさずに済んだのは喜ばしいが、マザー・コンキリエという大物が行方不明になったのは痛い。あまりにも痛過ぎる」

「ええ、本当に。……ファーザー・マザリーニやガリアの方々のご様子から察するに、マザーというお方は、多くの人々の精神的支柱であったようですね。

 私は、マザリーニがあんなにも取り乱した姿を、かつて見たことがありません。あれでは、クロムウェルとの交渉に臨んだとして、本来の鋭い弁舌を振るえるかどうか……」

「彼は外交団のリーダーであり、我々の主力だ。交渉のキモはミス・ヴァリエールの虚無だが、その切り札もファーザーの巧みな話術があってこそ生きるものだ。

 彼が実力を発揮できないのでは、むしろ不利にさえ陥る危険性がある。クロムウェルは虚無としてはニセモノだが、論客としてはなかなかのものであるらしいからな。

 ……となると、クロムウェルが姿を現さず、交渉が延び延びになっている今の状況は、むしろ幸運と言えるかも知れん。

 交渉が始まるまでにマザー・コンキリエが見つかれば、ファーザーも常態に復するであろう。彼女の発見は、今や我々の命運も握っている……」

「しかし、アルブレヒト様。マザーは、本当に生きておられるのでしょうか。

 墜落した船に取り残されていたと仮定して――それはほぼ確実ですが――その残骸は、引き上げることもできない深い海の底に沈んでしまいました。そんな状態から生還するなど、果たしてあり得ることなのでしょうか?」

「常識的に考えれば、あまりにも厳しいであろうな。余ならば、捜索の手間そのものを無駄と判断するだろう。

 だが、ファーザーも、ガリアの女王たちも、マザーの生存を信じているようだ。その根拠が何なのかはわからないが、彼らの行動には信念というか、確信めいたものがあるように感じる」

「ならば……私たちは、ただ祈るしかありませんわね。彼ら、彼女らの信念が報われますようにと……」

 私がそう言って、始祖のおわす青い空に視線を移すと、自然と穏やかな沈黙が場に降りました。

 祈りの時間だけは、私たちにもたっぷりとあったのです。

 

 

「……で? シザーリア。間違いないんだろうね。お前のご主人様は、今もどこかで、あのアホ面もそのままに生きているんだね?」

「はい。確実です。ヴァイオラ様は、今、この時も、この世界のどこかで生きておられます」

 あたしの問いかけに、金髪のメイド――シザーリアは、一片の疑いも混じらない、完璧な確信のこもった返事をしてきた。

『スルスク』号の墜落から、七日。ヴァイオラの行方不明が判明してから、六日。あたしたちがハヴィラント宮殿に入城してから、五日が経過している。

 あてがわれた貴賓用客室で、クロムウェルとの面会の日を待ちながら――あたしたちは、やるべきことを必死こいてやっていた。

 交渉の準備? そんな、結果の決まってるもんに備える必要なんてありゃしない。あくまであたしたちが追求しなくちゃいけないのは、いなくなったヴァイオラの行方についてだ。

 シャルロットもシザーリアも、この問題を何より重要視していた。

 状況があまりにも絶望的だったにも関わらず、みんな必死になって希望を探した。

 あのチビでのじゃのじゃうるさい友人のことを、あたしもそれなりに気に入っている。船の沈没に巻き込まれて死んだ、なんて、信じたくなかった。

 冷静に考えれば、現実逃避でしかないのだろうけれど、知ったこっちゃない。

 ――だけど、あたしたちの現実逃避は、意外なことに実を結んだ。そのきっかけとなったものこそ、シザーリアの持ってきてくれた、この知らせだったのだ。

「ロマリアに風竜便で手紙を送り、確認を取りました。

 アクイレイアのコンキリエ邸には、ヴァイオラ様の使い魔が残されております。ダゴンという名前の、ちっちゃいメダカですが――このダゴンの体を調べさせましたところ、今もなお契約のルーンが存在している、ということがわかったのです。

 コントラクト・サーヴァントの魔法で刻まれるそれは、ただの入れ墨とはまったく違うものです。もし、ヴァイオラ様が亡くなっているとしたら、使い魔との契約は解除され、ルーンは消滅しているでしょう。それが無事に残っているということは、つまり――」

「オーケイ、よくわかった。確かにこれ以上ない、生存の証拠だ」

 安堵と嬉しさに、あたしは少しだけ口の端をつり上げる。まったく、悪魔的な豪運の持ち主だよ、ヴァイオラって奴は。普通、あんな派手な事故に巻き込まれたら、生き残れる可能性なんてゼロだろうに。

「じゃああとは、あいつを見つけて連れ帰れば、問題は全部解決するってわけだ。

 でも、実際のところさ、あいつ、どうやって助かって、どこへ行ったんだろうね? 救命ボートには乗っていなかった。『スルスク』号は完全に崩壊して、海の底に沈んだ。行き場所なんて、どこにもなかったように思えるんだけどねぇ……?」

「それに関しては、ひとつ仮説がある」

 そばに控えていたシャルロットが、テーブルの上にアルビオンの地図を広げながら、話に入ってきた。

「『スルスク』号が落ちる瞬間を目撃していた人たち……サイトや船員たちから、こんな証言を得た。壊れた船の残骸は、大部分が海へと落下していったが、何割かは空へと昇っていった、と」

「……? どういうことさ。物体は普通、下に落ちるもんだろう。上に行くってのは、自然の法則に反してないかい?」

「どうやら、風石の力が関わっている現象らしい。風石室で風のエネルギーを取り出されている最中だった風石は、それ自体が浮力を持っている。船が壊れた際に、外に飛散したそれらが飛んでいく様を、彼らは目撃したと思われる」

「ははあ、なるほど。そういうこともあるかもね。……って待ちなよ。だとしたら、まさか、ヴァイオラは……?」

 あたしの反問に、シャルロットは眼鏡をきらりと輝かせて、頷いた。

「『スルスク』号には五つの風石室があったけれど、それらは『極紫』というテロリストの魔法攻撃によって、連続して破壊された。

 しかし、最後まで攻撃を受けなかった風石室もある……船尾の第五風石室などがそう。『スルスク』がまっぷたつになって崩壊した瞬間も、ここは無傷だった可能性がある。

 もしもヴァイオラが、避難中にこの風石室に迷い込んでいたとしたら……」

「そうかっ! きっとそれだよ、シャルロット!

 あいつが第五風石室に入った時に、『スルスク』号は最後の大崩壊を起こして、バラバラになった! でも、風石室の周りは特別、頑丈な造りになってる! 鋼鉄製のシールドや、樫材の壁で、がっちがちに固められてるんだ。もしかしたら、船の他の部分が壊れても、そこだけは独立して形を保っていたのかも知れない!」

 そうだ、それしか、ヴァイオラが生き延びる方法はない。

 無事だった風石室が、即席の救命ボートの役割を果たしたのだ。強固な部屋のフレームが、船体の代わりになった。浮力となる風石も、その力を取り出す風石炉とセットで備え付けられている。その部屋は、粉々になって落下する『スルスク』号から分離し、風石と一緒に空へ昇っていったんだ――ヴァイオラを中に秘めたまま!

「と、言うことはだ。あいつは今も、風石室にこもったまま、お空をプカプカ浮いてるのかい?」

「それは違う……風石には限界があるから。ある程度上昇したら、エネルギーが尽きて、今度は徐々に高度を落としていく。

『スルスク』号の壊れた場所を起点とした、大きな放物線を描いて……最終的には、どこかへゆっくりと着陸する」

「どこかっ……ていうと?」

「わからない。ヴァイオラの乗り込んだ風石室に、どの程度の風石が残されていたのかがわからないから、正確な計算ができない」

 シャルロットは、広げた地図の上に、ややこしい数式や矢印をいくつも書き込み始めた。

「あの日のアルビオン周辺の風向き、風力だけを手がかりにするのでは、ヴァイオラがどの方向に、どれくらい流されていったかを予測することしかできない。あと、アルビオンの大地そのものが動いている点も、計算に入れる必要がある。

 変数が多過ぎる――だから、出てくる答えの幅も、大きい。

 間違いないのは、このアルビオンのどこかに落ちた、ということだけ。マンチェスターかも知れないし、エディンバラかも知れない。プリマスかも知れないし、ヨークかも知れないし、グロスターかも知れないし、カンタベリーかも知れない」

 それは――いくらなんでも、範囲が広過ぎる。

 アルビオンはちっぽけな島だけど、それでもひとつの国なのだ。無数の村、街、都市の集まりなのだ。人だって、平民も貴族も引っくるめれば、何十万人もいる。その中で、あのちっちゃなヴァイオラを見つけ出すのは、草原に落とした縫い針を探すようなもんじゃないか?

「……深い森林か、高山地帯ではないかと思います」

 しばらく無言でいたシザーリアが、シャルロットの後ろ姿に意見を投げた。

「大きな船の残骸が空から降ってきましたらば、普通は噂になるものです。それに、人が乗り込んでいたとすれば、なおさら。

 しかし、今日の今日まで、そのような報告はどこからも入っておりません。となると、ヴァイオラ様を乗せた風石室は、人目につかない場所に落ちたのでしょう。街中でも街道でも、田畑でもあり得ません。誰も人が入り込まず、目撃も発見もされないような土地……即ち、未開の原生林や、踏破困難な険しい山の上などが、可能性が高いのではありませんか」

「うまいっ! シザーリアの言う通りだよ、シャルロット。そういう条件で捜索範囲を絞れば、案外簡単にあいつを見つけられるかも!」

 シャルロットは振り向き、小さく頷く。その表情には、微かにだが、希望の赤みが差していた。

「わかった。その方針で、候補地をピックアップする。イザベラ、あなたは人を集めて。できるだけたくさん。人探しなら、手数は多いに越したことはない」

「ああ、わかってるよ。ガリアから探索専門の人員を呼んで……いや、このアルビオンで現地調達した方が、早くて良さそうだね」

 トリステインとゲルマニアに包囲されているこの国は、食糧が少なく、働き手は余っている状態だ。アルバイトの募集をかければ、応じてくれる人はいくらでもいるだろう。

「イザベラ様、シャルロット様。トリステインのファーザー・マザリーニにも、今のお話をお伝えしてもよろしいでしょうか?

 あちらからも人を出してもらえれば、探索はさらに容易になります」

「ん、いい考えだ。ぜひ教えてやんな。

 あの爺さんも、ヴァイオラのことはすごく心配してたし……生きてるって言ってやれば、気合いも入るだろうよ」

「かしこまりました」

 深く一礼し、部屋を出ていくシザーリア。その足は、いつもより少しだけ、早足に見えた。

「……フン、あの鉄面皮のメイドも、爺さんに負けず劣らず取り乱してるみたいだね。迷子になった犬みたいに、必死にご主人様の影を探してら。

 んじゃ、シャルロット。あたしはバイト募集の手続きをしてくるから、ここは任せたよ」

「わかった。行ってきて」

 このちっちゃい従妹も、必死な犬ころの一匹だ。

 振り向きもせず、抜き身の刃みたいに鋭い眼差しで、地図とにらめっこしてやがる。

 シャルロット北花壇騎士モード、とでもいうか――こいつがこんな真剣味を出すのは、母親を助けようと無茶な仕事をしていた、あの頃以来じゃないだろうか。

「ずいぶんなつかれたもんだよ、ヴァイオラの奴」

 部屋を出ながら、小さくため息をつく。――まあ、あたしも、人のこと言えた義理じゃないけどさ。

 まったく、みんなをこんなに心配させて。いったいどこをほっつき歩いてんだろうね、あのチビのお姫様は?

 

 

 アンリエッタたちが待ち、イザベラたちが行動している時。

 同じハヴィラント宮殿の別の部屋では、アルビオンの人々が、彼らなりの問題に取り組んでいた。

「ドンカスターの小麦の備蓄は、底をつきかけているようだな」

「ああ、トーキーも少し危ないようだ。やはり、あのトリステイン=ゲルマニアの包囲戦術が痛い。去年までであれば、輸入で充分に補えたのだが……我が国の生産分だけでは、とても需要に追いつかない」

 話し合っているのは、アルビオン議会に席を持つ数名の貴族だ。

 いや、それだけではない。軍部のトップ、白髪のホーキンス将軍もいる。彼だけは議論のテーブルから一歩離れたところに立ち、政治家たちの顔を見渡していた。どうやら、オブザーバーとして同席しているらしい。

「密輸入は? 金ならあるんだ。ガリアあたりの業者に鼻薬を嗅がせれば……」

「すでに試したよ。だが、港を押さえられている現状では、どうにもならない。大型の貨物船を停泊させられる設備がないと、国民を養える量の食糧は持ち込めないのだ。

 小型船で、包囲を掻い潜りながらちびちびと運んできても、焼け石に水だ。往復に必要な風石の代金も計算に入れると、大赤字になる。外から補給するという選択肢は、この際捨てた方がいい」

「だが、かといって国内の生産量を増やすのは無理があるぞ。先の内戦で、多くの田畑が焼け、農民が死んだ。この傷を癒すだけでも、五年から十年はかかる」

「いっそ、周りを囲んでいるあの連中が、大攻勢でも仕掛けてきてくれればいいのに。大軍を集中して乗り込んできてくれれば、我が国土の奥深くまで引き込んだ上で、殲滅することもできよう。そうすれば大量の戦略物資を鹵獲できるし、捕虜を得られれば、身代金として穀物を要求することもできる」

「いや、無傷でこちらを締め上げる戦略を取っている奴らが、大怪我する危険をおかしてまで、攻めてきたりはすまい」

「ええい。現実的な方策など、ひとつもありはしないというのか」

 言葉は活発に飛び交うが、それぞれの表情は暗い。

 戦争中の国を統治する者の責任が、彼らの肩にのしかかっており、その重みは日に日に増していた。貴族という地位にある以上、それはけっして逃れられないものであったが、だとしても現状のアルビオンを治めることは、他のどの国を治めるより、遥かに過酷だった。遠からず、重責に負けて肉体が潰れてしまうのではないか、と、全員が予感してしまうほどに。

「……なあ。もう素直に、トリステインに白旗を上げた方が、いいんじゃないのか」

 ふと、ひとりの議員が、そんなことを呟いた。

「そうすれば、問題は全部解決するぞ。包囲は解けるし、食糧の輸入も再開してもらえる。国民に餓死者が出る前に、決断しなくちゃいかんのじゃないか」

「ううむ……確かに、いつまでも戦争を続けていても、国が衰えるだけだしな……」

「降伏するとなると、我々は連中の法に従って、裁きを受けねばなるまいが……」

「それも仕方があるまい。我々は、自分で思っていたほどは、上手くやることができなかったのだ。これ以上己の無能をさらし続けるよりは、潔く散った方が見栄えもするというものだ」

 肉体はともかく、彼らの心はすでに折れていた。それでいて、自暴自棄になるには、理性が残り過ぎていた。

 全員の意見は、『降伏』でほぼ一致した。それに踏み出せない者も、現状を打破する方法を提案することができず、最終的には同調せざるを得なかった。

「将軍。あなたはどう思われますかな」

 最後に、ずっと沈黙していたホーキンスに、意見が求められた。

「……私個人としては、降伏には賛成です。国民のことを第一に思うなら、そうするしかありますまい。

 軍人としての力を発揮する機会がないまま、破れ去るというのは、残念ではありますが……戦略での敗北は、戦術では覆せません」

「詰み(スティール・メイト)ということですな」

「いかにも。――しかし」

 頷きながら、しかしホーキンスは、まだ問題があるとばかりに、表情を苦々しげに歪めてみせた。

「我々だけの決断では、それはできない。ここにいるのは議会の過半数ですが、どれだけ優勢な意見も、承認されなければ実行力を持てません。降伏するには、最終決定権を持つ人物……即ち、皇帝陛下にイエスと言わせなければならないのです」

 その言葉に、場が静まり返る。

 まるで、実行不可能なことを要求されたかのように。石像、あるいは死体から、許しを得よと言われたかのように。

「……ホーキンス将軍。トリステインとゲルマニアからの客人はどうしている?」

「今のところ、大人しくしておられます。少なくとも、我々が隠していることには、まだ気付いていないでしょうな。ですが、かなり不審には思っているはずです。

 こちらとしても、彼らとクロムウェル陛下には、なるべく早く話し合いをしてもらいたいのですが……クロムウェル陛下の現状では、とても……」

 ため息を漏らしながら、白髪の将軍はゆっくりと首を左右に振った。

「部下たちを四方に走らせていますが、いまだに手掛かりは掴めません。だが、必ず結果は出してみせます。

 あなた方には、今日の会議の結果だけを、しっかり胸に留めておいて頂きたい。クロムウェル陛下に、我々の結論の承認を迫る時に、思い直したりすることのないように。

 また、当然のことですが……陛下の秘密が表沙汰にならないよう、口をつぐんでおくこともお忘れなく。あのことが明らかになってしまうと、この国全体が混乱に巻き込まれることになりますから……ことによると、戦争に負けて降伏するよりも、ずっとひどく、大きな混乱に……」

 貴族たちは無言で頷き、そのままひとりずつ、席を立って退室していった。秘密会議の、静かな結末であった。薄暗い会議室に残されたのは、ただひとり、ホーキンス将軍のみ――。

「秘密を持つというのは、面倒なものだ」

 彼は虚空を見つめて、独り言を言う。

「だが、この秘密だけは守らねばならん。国民を動揺させることも、外国に弱みを見せることも、するわけにはいかんからな。

 我々にできることといえば、事実を覆い隠して、何も問題がないかのように振る舞うことだけだ。まったく、とんでもない面倒を押しつけよってからに……クロムウェル皇帝陛下め。

 こんな忙しい時に、いったいどこへ行ってしまわれたのだ?」

 問いかけは虚しく宙に響き、誰にも聞かれることなく、消えた。

 ――そう。彼のその言葉こそ、アンリエッタ姫やアルブレヒト三世が、会談の申し込みを受け入れられも、断られもせず、長々と待たされている理由だった。

 ヴァイオラ・マリア・コンキリエ枢機卿が、遭難して行方不明になったのと、時を同じくして――。

 なぜかオリヴァー・クロムウェルも、前触れひとつなく、ハヴィラント宮殿から姿を消していたのだ。

 

 

 

 

 ――健康状態:イエロー。頭蓋骨骨折。脳挫傷。呼吸停止。脳死まで十一秒――五、四、三、二、一。

 ――健康状態:レッド。修復パッチ起動。――頭蓋骨再生完了まで、残り七秒。――完了。脳細胞再生完了まで、残り十九秒――完了。

 オートセーブ・データ、リロード開始。残り三十三秒――残り二十一秒――残り五秒、四、三、二、――error――不明な問題が発生――作業を一時中断。

 ――セルフ・チェック開始。残り八秒――セルフ・チェック完了。ハードウェアに重大な損傷を発見。風石バッテリー使用不能――外力により破壊されたものと思われる――活動可能時間、残り十一秒。中断していた作業を再開する。

 データ、リロード。――error――。

 データ、リロード。――error――。

 データ、リロード。――error――。

 データ、リロード。――error……。

 ……………………。

 …………。

 

 

 

 

 ――じゃぼん、と。みずにおちたおとで、めをさました。

 もうろうとした、いしきのなか、ほおがぬれ、まつげにしずくがしたたるのをかんじた。

 おどろき、とびおきる。あとすこし、かおをあげるのがおそければ、われはみずにかおをおおわれ、おぼれておったであろう。

 うすぐらい、せまくるしいへやに、われはいた――でいりぐちは、こわれてかたむいたとびらがひとつ。そのすきまから、なんたることか、ざあざあとくろいみずが、ながれこんできておる。

 あしくびが、ひざが、あっというまにすいちゅうにしずむ。こしが、むねが、あたまのさきまでがしずんでしまうには、どれほどかかるものか。

 われはあわてて、にげだした。ながれをかきわけて、とびらのそとへ。

 

 

 どうやらわれは、かわのなかにおったようじゃ。

 さっきまでいたしかくいへやが、ずぶずぶとすいちゅうにぼっしていくのを、ぼうぜんとながめた。かんいっぱつであった。かわぞこでおさかなたちのごきんじょさんになるのは、さすがにごめんこうむる。

 かわぎしをめざして、いっしょうけんめいおよいだ。ふくがみずをすって、はだにはりつくわおもくなるわ、とにかくめちゃくちゃたいへんじゃった。なんども、みずがくちやはなにはいってくる。じゃまになるそでやすそをちぎりとりながら、ひっしにみずをかいた。

 なんとかきしへはいあがり、みどりのくさゆたかなどてにからだをよこたえたときには、そりゃもうひろうこんぱいであった。

 こんなところで、ぐったりねそべるというのは、ちょいとばかりはしたないようじゃけれど、ざんねんむねん、もういっぽもうごけやせぬ。

 ぼーっとみひらいたままのりょうめが、どてのむこうのけしきをうつしている。そこにあったのは、あおあおとおいしげるき、き、き。どうやら、そこはもりのようじゃ。かなりひろそうで、なおかつ、ふかそうにみえる。へびとかおおかみとかちかづいてきたらいやじゃな、と、ふとおもう。

 あんぜんでは、ないかもしれん。やっぱり、すこしむりをしてでも、いどうしたほうが――ああ、だめじゃ、つかれた。

 もう、まぶたもあけておれぬ。かんがえることもおっくうじゃ。

 いしきが、うすれる。めのまえがくらくなり、おとがとおざかる。

 ねておる、ばあいでは、ないのに。

 われには、せねば、ならんことが。

 ぴんくわかめを――たおして――。

 せいじょになって――ええと――。

 あにさまと――いちゃいちゃ――。

 それから――ぷりんたべたい――。

 ――――――――。

 ――――――。

 ――――。

 ――。

 

 

「テファお姉ちゃん、こっち来て、こっち! 人が倒れてるー!」

「ええっ!? た、大変……村まで運ばなくちゃ! エマ、悪いけど、先に行ってベッドを整えておいて!」

 んー?

 なんじゃ、このこえ? うるさいぞー。ぐう。

 

 

 再び目を覚ました時。

 我は、柔らかいおふとんの中におった。

「…………おー?」

 上半身を起こして、まぶたをしぱしぱさせる。周りが、少しぼんやりして見える。

 寝過ぎたのか、頭への血の巡りが悪くなっているようじゃ。ひとつずつはっきりさせよう――ここは?

 外ではない。そこは、なんつーか、粗雑で狭い、田舎臭い部屋じゃった。

 天井の梁はむき出し。壁も床も、木目がそのままあらわになっていて、壁紙も絨毯もない。木こりとか猟師とか、美意識のない奴が住んでそうな部屋じゃ。窓に若草色のカーテンがかかっておる点にのみ、文明を感じられる。

「あ、起きた?」

 のんびりと周りを見回しておったら、意外と近くから声をかけられて、思わず我はビクッとしてしもうた。

 反射的に、声のした方に目をやって、――我はそこで、とんでもないものを目撃してしまい、再びビクッと肩を震わせた。

 声の主は、まだ若い少女であった。

 絹のように滑らかな金髪を持つ、まあはっきり言って並外れた美少女。顔立ちは幼い、というより穏やかで、微笑みがえらく似合っておる。背中に羽根でも生えておれば、まんま神話とかに出てくる天使のイメージじゃ。

 室内だというのに、耳まで隠す大きな帽子を目深にかぶっているのが、異様な感じではあるが――正直、そんなことは細かいことじゃ。

「あ、あんた、は」

 我は震える声で尋ねる。喉が乾き、言葉が引っ掛かる。いかん、平静でいられん。美しく、しかしあまりにも奇妙な姿のその少女を前にして、混乱とともに恐怖を覚えておる。

「あ、私? 私はティファニア。家族のみんなからは、テファって呼ばれてるわ。よろしくね?」

「あ、こりゃどうもご丁寧に……い、いや、そうでのうて……」

 少女――ティファニアは、我が初対面の人間に対して警戒しておるのじゃと考えたらしいが、それは違う。

 我の意識は、ティファニアのパーソナリティーや危険性になど興味はない。というか、そういう事柄に注目するだけの余裕がなかったというべきか。

 目の前に突きつけられた、恐るべきもの。常識では考えられぬ、大質量の凶器。

 ――ティファニアの――。

 ちょっとあり得んサイズの、どてかいおっぱいに、我の目は釘付けになっておった。

 な、なんぞこれ。マジで人類のおっぱいかこれ。

 メロンじゃろ。リンゴとか桃どころじゃない、大ぶりなメロンが、ダブルで服の中に入っとる感じじゃ。

 我なんぞぺったんのフルフラットじゃのに、いったい何をどうしたらこんなに差がつく? こ、これは我がみじめなのではない、このティファニアがケタ違いの規格外なのじゃ。我の周りにもおっぱいでかい女はいたが、こいつほどのへヴィーオブジェクトを装備しておった奴はおらんぞ。あの――――アだって、こいつよりは小さ、

 ――――ん?

 ふと、妙な違和感を覚えて、我は顔を上げる。

 なんか、途中で、つまずいたような。

 走るでも歩くでもなく、考えが途中でつまずくというあり得ない感覚。

 今、我は、心の中に何を浮かべようとしておった?

「あ、ここがどこか気になるの? ここはね、ウエストウッドの森の中にある、ウエストウッド村よ。

 あなたが川岸で倒れているのを、水汲みに来てたエマが見つけて……あ、エマっていうのは、私の家族でね、まだ小さいのにすごくしっかりしてる子で……」

 ティファニアが何か言うておる。我が考えを巡らせるために、中空に視線をさ迷わせたのを、「ここってどこじゃろ?」って疑問に思っておるものと考えたらしい。

 正直的外れなわけじゃが、少し気になる言葉も聞こえた。我が川岸に倒れておった? なにゆえ、そんなことに? 必死に泳いだのは、おぼろげながら覚えておるが、なぜ泳ぐはめになったのか、心当たりがない。

 ウエストウッドの森とか、ウエストウッド村とかいう地名にも、聞き覚えがない。我、どうして、名も聞いたことのない土地におる? 人間、普通は名前を知っておる場所にしか行かんものじゃ。我がホームグラウンドであるア――――アの街でも、散歩コースはいつも決まって、

 ん? んん?

 また違和感。これは何じゃ。

 おかしい、あまりにもおかしい。

 めまいがする、寒気がする。自分がとんでもないことになっておる気がする。我は、いったい、我は、我は、我は。

「怪我はないみたいだったけど、さすがにびしょ濡れで倒れてる人を、そのままにしておくわけにもいかなくて。こうして私の家まで背負ってきたんだけど……。

 あ、ごめんね、私ばかりしゃべっちゃって。ずいぶん久しぶりな女の子のお客様だから、ついはしゃいじゃった。

 そういえば、まだ、お名前を聞いてなかったわよね。よかったら、教えてもらえないかしら」

「名前? 我の、名前……」

 その問いを。

 頭の中で噛み締めて。

 意味をしっかり、理解して。

 答えを、無造作に引き出そうとして――。

 我は、脳天に焼けた鉄串をぶちこまれたような、どぎつい衝撃を受けた。

 ティファニアのたわわなメロンなぞ、どうでもよくなるほどの大打撃じゃった。歯が、カチカチと鳴る。背中にじっとりと、嫌な汗が浮かぶ。頬がひきつり、泣き笑いのような不自然な表情で、ティファニアの方に向き直る。

「名前……えと。

 我の名前って、何じゃったっけ……?」

 思い出すべきものが、何もない。

 我は、自分がどこの誰なのか――きれいさっぱり、忘れ去ってしまっていた。

 

 

 どうしよう。

 私――ティファニア・ウエストウッドは、目の前で頭を抱える女の子と同じように、途方に暮れました。

 森の中で気を失って倒れていた、小さな女の子。紫色の髪がふわふわしてて、肌が白くて、お人形さんみたいにきれいな女の子。

 歳は、エマと同じくらいかしら。普通はこの歳で、森の奥までひとりで入ってくるようなことはないから、きっとお父さんやお母さんからはぐれて、迷子になったんだと思います。体がびしょ濡れだったから、川に落ちて流されてきたのかも。

 どちらにせよ、運良く怪我ひとつなかったので、しばらくベッドで休ませて、元気になったらおうちまで送ってあげようと思っていました。

 ――でも。肝心の彼女が記憶をなくしてしまっているのでは、どこに送っていけばいいのか、まったく、全然、見当もつきません。

 少し問答を重ねてみましたが、彼女は、住んでいたところはもちろん、自分の名前や両親、家族のこと、どんな生活をしてきたのかさえも、全部まるごと忘れてしまっているようでした。

 覚えているのは、一般的な言葉とか、服の着替え方、フォークやナイフの使い方ぐらい。

「あ、あと、お金の単位とか、算術の公式とかもわりと覚えとるみたいじゃ」

 でも、それをどこで教わったのかとか、どんな風に役立てていたのかまでは、思い出せないとのこと。

 つまり、生活に必要な知識や、身につけた技術なんかは残っているけれど、個人を構成する思い出だけが、すっぽり抜け落ちてしまっているみたいなんです。

 ――本当に、どうしよう。

「うーん、いつもなら――森の中で迷子になった人を見つけたら、って場合だけれど――街道へ出られる道を教えてあげて、自力でおうちまで帰ってもらうようにしてるんだけど……」

 彼女は小さいから、安全のためにも最寄りの街まで送ってあげることになるかな、なんて思ってたんですけれど。明らかに、それどころじゃありません。

「も、森の外に案内されても、そこからどうすりゃええんか、まったくわからん……帰る家が最寄りの街になかったら、それこそ立ち往生するしかないではないか……」

 伏せられた彼女の目から、じわ、と涙があふれ出します。

 記憶を失った不安と恐怖が、その苦しそうな表情から痛いほどに伝わってきます。過去がないということは、未来を想像することもできないということです。先行きが見えないという試練は、彼女の小さな両肩に乗せられるには、あまりに重過ぎるもののように思えました。

「……大丈夫。私が、あなたのことを守ってあげる」

 私は心を決めて、彼女の手をそっと握りました。

「前にどこかで聞いたことがあるの。記憶喪失って、頭を打ったりしたショックでなるものらしいんだけど、長続きはしないんだって。しばらく心を休めて、ショックがおさまれば、徐々に回復していくんだって」

「そ、そうなんか? 初耳じゃ」

「けっこう有名な話よ。きっと、あなたも聞いたことはあっても、忘れてるだけじゃないかしら」

 私がそう言ってあげると、彼女はだいぶ気が楽になったのでしょう、こわばっていた表情が、ホッ、とほぐれていきました。

 ――実際のところ。記憶喪失が長続きしないというのは、まったくのでたらめです。

 彼女に少しでも希望を持ってもらうためについた、真っ赤な嘘。本当はどうなのか、私は少しも知識を持っていません。

 ちゃんとしたお医者様なら、わかるのかも知れません。そう、真に彼女のためを思うなら、根拠のないその場しのぎの安心を与えるより、街に連れていって、お医者様に診てもらうのが、正しい選択なのでしょう。

 でも、私には、それができないのです。

 とある事情を抱えているせいで、私自身はめったに村の外に出ることができないのです。彼女がもし、記憶喪失になってなかったとして。普通に街まで送っていくことになっていたとしても――私は街の入り口まで送るだけで、街の中へはひとりで入ってもらうことにしたでしょう。

 衛兵さんとかお医者様とかに、身元を訪ねられたり、顔を見られたりするのは、とてもとても、困るのです。

 病気の子供を差し置いて、自分の都合を優先させるということに、嫌な気分がしないわけではありません。というかむしろ、最悪に近いです。額を床にこすりつけて、目の前の彼女に謝りたいぐらい。

 でも、それもできません。彼女を明かりのない絶望の中に、放っておくわけにはいきませんから。私はあくまで、「すぐに治るから不安にならないでいいのよ」という顔で、何も問題がないかのように構えていなければならないのです。

 とりあえずは、何日かうちで世話をしてあげるとして、様子を見ることにしようと思います。もしかしたら嘘からまことが出て、日にちを過ごすことで記憶が戻ってくれるかも知れませんし。

 もし、時間が経っても状況が改善しないようなら――マチルダ姉さんが帰ってきた時に、お願いして街まで連れていってもらいましょう。私や、村のみんなの面倒を見てくれている、優しくて便りになるマチルダ姉さん。今は、トリステイン王国でお仕事をしているって、送られてきた手紙には書いてありました。ウエストウッド村の外で暮らしている姉さんならば、この子をお医者様のところに連れていくのに不都合はありません。

 結論は出ました。この子には、姉さんの次の里帰りまで、この村で過ごしてもらいましょう。まだ見ぬこの子のお父様、お母様。お子様のことでしばらく不安にさせてしまいますが、どうかお許し下さい。時期が来れば、必ず無事にお返ししますから。

 私はそう心の中で祈ってから、当人に、記憶喪失が治るまで、一緒に暮らそうと持ちかけました。彼女は少し考えていたようですが、やがて、うんと頷いてくれました。

「知らない人のおうちに厄介になるのは、ちと抵抗があるが……記憶がないのでは、実際に何の行動も取れぬしな。申し訳ないが、しばらくの間、軒を貸してもらえるか」

「うん、任せて。きっと不自由はさせないわ。

 ……それで、ええと……まず、あなたの仮の名前を決めてもいいかしら。やっぱり名前がないと、いろいろ不便だと思うし」

「ふむん、確かにそうじゃ。どんな名前がええじゃろうのぅ? できれば、女らしいきれいな名前をつけて欲しいところじゃな。可愛い系よりは大人っぽい方が良い」

「え、可愛いのもいいと思うけど?」

「いやいや、なんか我の奥底に潜む何者かが、子供っぽさを拒絶しとる。そう、社会に出てバリバリ働いとるような、強くかっこいい二十代女性のイメージでネーミングをお願いしたい。この条件はちと譲れんのう、うむ」

「う、うーん、具体性が増したのはいいけど、難易度も上がっちゃったような……どうしよう」

 それから三十分ほど話し合った結果、最終的に彼女の新しい名前は、スミレを意味する『ヴァイオレット(Violet)』に決定しました。彼女の髪の色も、美しい紫(violet)なので、とてもよく似合っていると思います。

 ヴァイオレットも、この名付けには満足してくれたようです。「なんか、すごくしっくりくるわい。もしかしたら、忘れておる本名と、意味か音かで重なる部分があるのかも知れぬ」と言って、うんうんと頷いていました。

「それじゃあ、ヴァイオレット。今日からよろしくね」

「うむ、ミス・ティファニア。こちらこそ、よろしく頼む」

 この日、ウエストウッド村にひとり、新しい仲間が増えたのでした。

 

 

 こうして、ティファニア・ウエストウッドの庇護のもと、ウエストウッド村で仮初めの生活を始めたヴァイオレット。

 もともと、肉体的な怪我は(不自然なまでに)していなかった彼女は、翌日には病床を出ることができた。

 ヴァイオレットの当面の住まいとして、ティファニアは自分の住む家の一室を貸すことにした。東向きの窓がある小さな部屋だ。もともとは物置に使われていた場所だが、ティファニアが頑張って掃除をして、ベッドや机を備え付けたことで、過ごしやすそうな子供部屋に生まれ変わった。

 ヴァイオレットがその部屋に移り住むと、すぐに村の子供たちが様子を見にやってきた。その数は、ざっと十数人にも及ぶだろうか。幼い子供たちが、遠慮も何もなく好奇心だけで詰めかけてくるのだから、まるでお祭りのような騒ぎになる。

「その子が新しいおともだちー?」

「うわー、ちっちぇー」

「かわいいー」

「もう大丈夫なのー?」

「俺より年下?」

「ももりんご採ってきたから、食えー」

「こういう時は、搾りたてのはしばみ草ジュースよ!」

「ばっか、レーナ! デタラメ言ったらテファ姉ちゃんに怒られるぞー」

「うさぎさんの気持ちになるですよ」

「わ、わ、わ、なんじゃお前らー! よくわからんが、とりあえず散れー!」

 群がってくる子供たちのやかましさに、部屋中を逃げ回るヴァイオレット。しかし相手は、怯みもせずヴァイオレットを追いかけ、取り囲み、撫でたりつまんだりくすぐってみたり揉んでみたり、やりたい放題だ。ヴァイオレットの実年齢こそ不明だが、見た目は自分たちとたいして変わらないようなので、子供たちもまったく人見知りしない。

「はい、みんなそこまで! ヴァイオレットはまだ病み上がりだから、あんまりうるさくしちゃダメよ。もうちょっとして、しっかり元気になったら、一緒にお外で遊びましょうね」

「はーい」

「またねー、ヴァイオレットちゃん」

 暴走する幼い好奇心たちを、ティファニアが手際よくまとめて追い出した。

「ごめんね、ヴァイオレット。ベッドから出たばかりなのに、いきなりうるさくしちゃって」

「お、おお、まあ、ちと驚いたな。子供とは案外、迫力のあるものじゃ……敵に回したら絶対勝てんぞ。怖過ぎる」

「ふふ、大丈夫よ。みんな、新しいお友だちに興味津々なだけだから。元気があり余ってるだけで、心根はいい子たちばかりよ。

 だから、あんまり苦手意識は持たないで、仲良くしてあげて。しばらく一緒に過ごしていたら、あなたもきっとみんなのことが好きになるわ」

「ふむ……そういうもんか?」

 記憶を持たず、他人との関わり方も知らないヴァイオレットは、ティファニアのその助言を、素直に心にとどめた。

「しかし、子供ばかりで大人は顔を見せなんだな」

「あ……うーん、ちょっと言いにくいんだけど。このウエストウッド村は、家族のいない子供たちが集まってできた村なのよ。だから、今のあの子たちが、村の住人のほとんど全部だったりするの」

「なぬ? じゃあつまり、ここは村というよりは、孤児院に近いのか」

「そうね。大人は私と、外に出稼ぎに行ってくれている、マチルダ姉さんって人だけ」

「そりゃ……ちと大変なのではないか? 実質、ミス・ティファニアひとりで、あのわんぱくどもの世話をしとるってことじゃろ?」

「うん。確かに大変だけど、やりがいもあるし、楽しいわ。さっきも言ったけど、みんないい子たちだから。私がどうにもならない壁にぶつかったら、必ず助けてくれる。

 そうやって協力し合って暮らしてるから、つらいとか苦しいとか思うことは……ほとんど、ないかも」

 えへへ、と、はにかみながら言うティファニアに。ヴァイオレットは、ほうほうと頷く。

「なるほどのう。なかなか、いい環境であるらしい。我も、ミス・ティファニアのように、楽しく過ごしていけるじゃろうか」

「大丈夫! 子供たちも、ヴァイオレットのことを気に入ったみたいだし。

 それでも何か問題が起きたら、いつでも相談して。困った時はお互い様って言うし、みんなで支え合えば、きっとどんな困難でも乗り越えられるわ」

「そうか……うん、そうかも知れぬ。では、気楽にくつろがせてもらうとしようか」

「それが一番いいわ。……今日の夕食、何か食べたいものはある?」

「そうじゃなー、ぜひともプリンが食いたい。プリン」

「それはデザートでしょ、もう」

 あんまりなリクエストに、苦笑するティファニア。彼女から見たヴァイオレットは、比較的のびのびとしていて、新しい環境にそれほど萎縮していないようだった。

 ――それもそのはず。ヴァイオレットは、多くの会話を欲していた。

 記憶を失い、不安定になった精神が、立つべき土台を新規に築こうと、無意識の情報収集活動を行なっていたのだ。記憶を持たないがゆえに、目の前の状況、耳から入ってくる言葉を、素直に飲み込む。ティファニアの話は、特に参考になっていた。

 生まれたての子供のように、ヴァイオレットは、ゼロから世界を学習し始めていた。自分はどういう立ち位置にいるのか、他人とどう付き合えばいいのか。いわゆる世界の常識を、得られた情報をもとに組み立てていく。

 それは子供が大人になっていく間に、誰もが経るプロセスである。記憶喪失になる前のヴァイオレットも、自分の育った環境から学び、自分なりの常識を得ていた。

 ただ――今現在、ヴァイオレットがいるウエストウッド村という場所は――かつて彼女がいた場所とは、真逆と言っていいほどに、性質の異なる環境であった。

 どんな家庭で、どんな親に、どんな教育を受けるか。それは子供の人格が形成される上で、非常に大きなファクターとなる。

 となると、まったく違う環境で、まっさらな状態から知識を収集すれば。出来上がる常識の土台も、かつての彼女の常識とは似ても似つかぬものになる。記憶を失う前と同じ人格に成長することは、絶対にあり得ない。

 しかしその歪みに、誰も気付くことはない。ヴァイオレットの過去を知らぬティファニアも。当のヴァイオレット自身すらも――。

 

 

 ウエストウッド村で暮らし始めたばかりのヴァイオレットは、さっそく暇を持て余していた。

 記憶はないが、体は健康。体力も、二晩もゆっくり休めば充実する。

 もうとっくに病み上がりとは言えない。そろそろ何かして遊びたい。しかし、自分がどういう遊びを好むのか? 暇な時、何をして時間を潰していたのか? それを思い出せないので、どうしていいかわからない。

「……そういや、この村にはガキどもがいっぱいおるんじゃったな。あーゆー騒がしい連中なら、日の高いうちは寄り集まって遊びまくっておろう。ひとつ、仲間に入れてもらいにいくか」

 遊び方がわからないなら教わればいい。実にシンプルな論理に従って、ヴァイオレットは行動を始めた。

 ティファニアの家を出て、子供たちを探す。すると、木桶を手に下げた男の子が、森の方に歩いていくのを見つけた。

「おーい、そこのちびっ子ー。我は暇じゃ、何かして遊ばぬかー」

「あ、ヴァイオレットだー。もう外出て大丈夫なの?」

「体は全然平気じゃよー。というわけで遊ぼうぞ。木桶を持っとるが、虫でも捕りに行くんかや?」

「んーん、違うよー。川に水汲みに行くんだー。水瓶が空っぽになりかけてたから、補充しないといけないの。そのあとでいいなら、遊ぼうねー」

「ふむん、となると、今すぐは無理じゃな。わかった、帰ってきてから何かしようぞ」

 手を振って少年を送り出し、ヴァイオレットは当てが外れたことにため息をつく。

「水汲みか。我よりちびっこいのに、お手伝いとは感心な奴じゃ。あれか、ティファニアの言うておった、支え合いっちゅうやつか。

 我も悪いタイミングで声をかけたものよ。……ま、しゃあない。別の遊び相手を探すのじゃー」

 気分を切り替え、とてとてと村の中を巡り始める。

 次は女の子たちを見つけた。三人ほどおり、連れ立ってどこかへ向かっている。その背中に呼び掛ける。

「おーい、お前らー。暇なら一緒に遊ばんかー」

「あー。ヴァイオレット!」

「やっほー」

「ごめんねー。これから、畑の世話をしに行かないといけないの。雑草抜いたり、お水撒いたり……またあとで誘って欲しいなー」

「そうか、なら仕方ないのう……また今度じゃー」

 やはり、手を振って見送る。少し嫌な予感がしてくる。

「のうのう、そこな小僧。我の暇潰しに付き合って……」

「悪い! 俺、雨漏りの修理しなくちゃいけないんだよ! またな!」

「そっちの小娘よ、一緒に遊ぼうではないか」

「残念ながら、自家製石鹸の練り込み中でごぜーますよ。あとにしてくだせー」

「あ、遊び、」

「あたしたちね、森にももりんご採りに行くの! いっぱい採ってくるから、待っててね!」

 あの子も、この子も、どの子もその子も。

 ウエストウッドの子供たちは、みんな何かしらの仕事を、忙しそうにこなしていた。

 ――なるほど、と、ヴァイオレットは理解する。

 これがこの村での、子供たちの過ごし方なのだ。

 大人がいない村。何もかもをティファニアに任せ、一方的に世話をしてもらうだけでは、回らない。

 自分でも手伝えることがあれば手伝い、ティファニアや他の子たちのために貢献する。それが普通。それが、人間らしい生き方。

 ヴァイオレットは学習し、得た知識に自分の思考を適応させる。

 ――あれ?

 となると、もうすっかり元気なのに、何もお仕事してなくて、遊ぶことばかり考えてる自分って、いったい。

 途端に襲い来る居心地の悪さ。何だか、他の人たちの努力の上にどっかりと座り込んで、ひとりだけいい目を見ているような気になってくる。

 ――ちょ、ちょいとこれはよろしくないのでは。今のままでいることは、言わば『非常識』なんではないか。

 そう考えたヴァイオレットは、きびすを返して、ティファニアの家に戻った。

 保護者であり、家の主であるティファニアを探す。その立派なおっぱいは目立つので、すぐに見つかった。ブリキのバケツを横に置いて、廊下の掃除をしている――彼女が雑巾をぎゅっとしぼると、たわわな乳房も両腕に挟まれて、むにゅっと形を変えた。

「お、おーい! ティファニア! ミス・ティファニアや!」

「あ、どうしたのヴァイオレット? お昼ごはんはもう少し待ってね。ここの掃除をしてから、お洗濯して、薪を割って……そのあとでお料理、始めるから」

「い、いやいやいや、そういう催促ではなくてな。

 今ちょっと外に出て、ガキどもと話をしてみたらな。何かみんながみんな、忙しそうに仕事をしておってな」

「あー……うん。やっぱり人手が足りなくて。私ひとりで全部できれば、一番いいんだけど、ね」

「いや、それは別にええと思うぞ。お前さん、自分で助け合い上等みたいなこと言うとったし、連中も喜んでやっとるみたいじゃったしな。

 で、それで、じゃ。この村で今、何の仕事もないのって、どうも我だけみたいなんよ。ひとりだけ遊んどるのって、どーにも落ち着かんで……つ、つまり、そのー……な? 我にもできる仕事があったら、ひとつ回してくれるとありがたいんじゃけど」

「あら。……ふふ、嬉しいわ、ヴァイオレット。

 それじゃ、ええと。向こうの部屋に、取り込んだ洗濯物が置いてあるの。ほとんど、コットンのタオルなんだけど。それを四つ折りにたたんで、重ねておいてくれると、助かるわ」

「洗濯物たたみじゃな?わかった、任されたぞ!」

 与えられた任務を速やかに果たすべく、ぴゅーんと飛んでいくヴァイオレット。

 駆けていくその小さな背中を、ティファニアは微笑ましく眺めていた。

 

 

 環境と教育によって、子供の人格は大きく変化する。

 仕事を人にやらせて、自分だけ遊んでいることに居心地の悪さを覚える。すすんで人の手伝いをする。

 そんなありふれた思考が、かつての――記憶を失う前のヴァイオレットにしてみれば――天地がひっくり返ってもあり得ないものだと、気付く者は誰もいない。

 

 

 ――ヴァイオレットがウエストウッド村の仲間になってから、十日が経った。

 記憶のない彼女は、何をやるにも最初はおっかなびっくりだった。タオルを四つ折りにたたむくらいは何とかなったが、洗濯、掃除、畑の世話、水汲みなどは、根本的にやり方を知らず、仲間たちの教導が必要だった。

 不器用なタイプ、というわけではない。あくまで知識と経験が足りていないだけだったので、二、三回も手本を見せられれば、大体の仕事は問題なくこなせるようになった。

 飲み込みが早く、学習意欲も高い。もともと優れた頭脳を持っていたところに、ウエストウッド村流の助け合い精神が植え付けられたため、さりげない気使いもできるようになり、よく仲間を手伝った。

 なりは小さな子供である。しかし、その知性、立ち振舞い、気のききようは、どうも見た目通りのものではない。村で何か問題が起きると、「テファお姉ちゃんかヴァイオレットに相談しよう!」が合い言葉のように交わされるようになった。

 いつの間にか、ヴァイオレットはみんなに世話をされ、教えられる立場から、世話をし、教える立場になりつつあったのだ。

 

 

「ふんふんふふーん、ふんふふーん。今日の晩飯は〜、みんな大好きシチューなのじゃ〜♪」

 即興の歌を口ずさみながら、我は大鍋を木べらで掻き回す。

 もちろん鍋底は空っぽではない。大振りに切った鶏肉、玉ねぎにんじんじゃがいもさんを、バターでいい感じに炒めておるのじゃ。完成まではほど遠いが、この時点ですでに香りが素晴らしい。これはよいダシが出るぞー、うえへへへー。

「ただいまー、ヴァイオレット。はー疲れたー」

「今帰ったでごぜーますよー。今日の晩ごはんは何でやがりますか?」

 気持ちよく料理に熱中しておると、仕事帰りのガキどもが、泥だらけで厨房に入ってきおった。土のにおいというか、労働のにおいがぷんぷんする。今日も一日、手を抜かずに頑張ってきたのが、鼻で嗅ぐだけでわかってしまう。ええ子たちじゃ。

「おう、おかえりじゃー。畑の草むしりお疲れさん!

 今夜はシチューとパンなのじゃよー。行商さんが新鮮なミルクを持ってきてくれたでな、コクのある美味いのができるぞー。

 テファが風呂を沸かしておるから、まずは汗を流してさっぱりしてこい。出来上がったら呼んでくれよう」

「りょうかーい」

「楽しみでごぜーますよー!」

 トテテトトテと走り去っていく彼女らを見送って、我は再び鍋に視線を戻す。炒まり具合は――頃合いか。ここに水を放り込んで、コトコト煮込んでやるのじゃよ。

 しかし、この料理というやつはずいぶんと楽しいのう。テファに野菜を洗うところから教わり始めたから、まだレパートリーは少ないが、自分の手で美味いものを作り出すという行為には、なんつーか奇跡じみたものを感じる。原材料→完成品の差がものすごいもん。絵の具とカンバスから荘厳な絵画を、岩の塊から神聖な始祖像をこしらえるような、芸術活動に通じるものがある気がする。

 同じような意味で、掃除や洗濯も非常に興味深い。やることは要するに、自分の身の周りを清潔に保つというだけじゃ。ホウキで塵を払い、雑巾で磨く。水を溜めたタライの中で、汚れた衣服をゴシゴシ揉み洗う。頭を空っぽにして、それらの行為に没頭していると、何でかわからんが、いつの間にやら己の心の内まで、スッキリ爽やかになっておるような気がする。

 我はあまり多くの記憶を持っておらぬが、なぜかブリミル教についての知識はある。教典の文句はある程度暗唱できるし、特殊な儀式の手順も把握しておる。

 それらのディープな知識の中には、始祖像に向かって三日三晩黙祷を捧げることで、精神を清めるという秘法があったが、ある意味それに近い効果が、ごく単純な家事作業によっても得られるように思えるのじゃ。

 掃除や洗濯を通じて魂を浄化できるとしたら、この村の子供たちがええ子揃いなのも納得できる。連中、みんな自分の寝床周りは、自分でお片付けしとるからな。それを物心ついた時から続けとるとしたら、彼ら彼女らの心は、もはや高僧の域に達しとるのではなかろうか。

 ならば、それを見習って、この世の生きとし生けるものがみんな、掃除と洗濯を己の手でこなすようになったなら。きっと、全人類がここの子供たちのように、無邪気になれるはずじゃ。

 誰もが彼らのように、余裕と優しさを持ち、お互いに助け合えるようになるなら。貧富の差や暴力、国境による軋轢といった、人々を不幸にするあらゆるものが退治されるのではないか? うむ、この考えは真理かも知れん。我は断然、世の中がそうであることを推奨するぞ。

「お疲れ様、ヴァイオレット。とってもいい匂いね」

「おう、テファ。お疲れさん。今夜のメシは期待するがいいぞー。ぬっふっふっふ」

 気がつくと、後ろにテファが立っていた。風呂の準備をしていた彼女は、半袖のコットンのシャツに、ショートパンツというラフな格好であった。シャツの生地が湿気を吸い、肌にぴったりと張りついて、胸のばかでかい膨らみの形をくっきりと浮かび上がらせておる。なんとなく、ヴァルハラにおわす始祖が、目の前のものをもげと我に囁いておるような気がした。

 そんな我の内心など知りもしない彼女は、頭にかぶっていた白い三角巾を取りながら、我のかき混ぜる鍋をのぞき込んでくる。スープの中でごろごろと回転する肉や野菜を見て、目を輝かせるその様子は、先ほどのガキどもといくらも変わらん。

「おい、あんまり鍋に近付くでないぞ。三角巾で頭を覆っているならええが、今のお前は下ろし髪ではないか。髪の毛がスープに落ちたらどうしてくれる」

「あ、ごめんね。ついうっかり」

 我のすぐ横で、テファの柔らかい金髪が揺れた。

 ――ここに来てから、五日ぐらい経った頃じゃったろうか。どんなタイミングでのことじゃったかは忘れたが、我はテファの『顔』にまつわる秘密を明かされた。

 それは、ハルケギニアに住んでおる人間にとっては禁忌と言えるもので――彼女がこんな森深いところに、人目を避けるようにしてひっそり暮らしておる理由であった。

 我は、自分がどこの誰だかわからぬ。しかし、前述した通り、ブリミル教についての知識は持っておる。

 じゃから、本来ならば、テファの秘密を知った時点で、彼女を恐れるべきだったのじゃろう。きっと、記憶喪失になっていなければ、それまで積み重ねてきた学習と経験に従って、彼女を忌み嫌っておったと思う。

 しかし、今の我には、それができぬ。

 記憶がないゆえに、かつての人生を失っておるがゆえに。頭の中に残っておる知識を、自分の人格の一部と見なせぬ。無条件で従うべき、当たり前の常識であると感じられぬ。

 この十日間を一緒に過ごしたせいで、こいつが怖くもなんともない、ただのか弱くて好感の持てる娘に過ぎぬとわかっておるがゆえに。頭の中の不完全な知識を、信用することができぬ。

 ――もし将来、我がちゃんと、すべてを思い出すことができたなら。

 その時は、テファに対して、今感じている印象を優先させるのじゃろうか。それとも、本来の我が持っておった常識の方を優先させるのじゃろうか。

 どっちになるんじゃろうかなぁ。

 とりとめのないことを考えながら、鍋をかき混ぜ続ける。

 充分に煮込めたら、別に作っておいた牛乳と小麦粉のソースを流し込み、よーくなじませて。ドロリと濃厚な、うまうまホワイトシチューが完成する。

「よっしゃ、こんなもんでよかろ! テファ、ちびっこどもを食堂に集めろー。あっつあつのうちに、頂きますに持ち込むのじゃー」

「了解! みんなー、ご飯の時間よー!」

 よく通るテファのひと声で、わらわらわらわらとガキどもが集まってくる。連中は基本的に、てんでばらばらに行動しているが、メシの時だけは一糸乱れぬという表現がぴったりな動きをしよる。食事というものがどれだけ大切か、よくわかるな。

 それぞれ自分用の木の皿を持って、鍋の前に並んでくるので、一杯一杯シチューをよそってやる。順番は基本的に、ちっちゃい子からじゃ。――あ、おいボビー、ニンジンさんが入っているのを見て露骨に嫌な顔をするな! 好き嫌いしておると、大きくなれんぞ。――ベス、お前はお前で、露骨にニンジンさんばかりリクエストするんじゃない。好き嫌いしておると大きくなれんとは言ったが、ニンジンさん食ったからって、確実に大きくなれるわけではないのじゃ。そう、テファのおっぱいと、ニンジンさんは無関係なのじゃよ――。

 全員にパンとシチューが行き渡ったら、その日の糧が得られたことに感謝してから、頂きますをする。

 こいつら、列に並んどる時は大人しいのに、いざ食事が始まるとやたらうるさい。水をこぼしたりする奴がおったり、鶏肉の皮のついてる部分を奪い合っとる奴らがおったり、やっぱりボビーがニンジンさんを食うのをためらっておったり。

 ほれほれ、ニーナ。慌ててないで、この布巾でこぼした水を拭き取るのじゃ。濡れたのはテーブルの上だけで、服は大丈夫じゃな? よしよし、もう大丈夫じゃぞー。――ほれ、パウルとシモンは喧嘩するでない。ちょうど我の皿にも、皮付きの肉が入っておったでな、これをくれてやる。そうすれば争う必要もなくなるであろう? さ、わかったら仲直りじゃ。――ボビー、案ずるでない。ニンジンさんを食うのは、そんなにきついことではない。口入れて、何度かモグモグして、ゴックンすりゃいいだけじゃ。気づいておるか? さっきから、テファもお前のことを心配しておるぞ。お前の代わりにニンジンさんを食べてあげようか、どうしようかと、そわそわしておる。じゃが、お前は男じゃから、テファお姉ちゃんに助けてもらわんでも、自分でなんとかできるわな? ここはひとつ、勇気のあるところを見せてみい。ほれ、ほれ、ほれ――よし、食うたな! ようやったぞ! 立派なもんじゃ。褒美に頭を撫でてくれよう。

「ふふっ、ヴァイオレットは本当に、面倒見がいいわね」

「んー? そうかのう」

 ボビーの髪を、五本の指でもってワッシャワッシャと撹拌しておると、テファにそんなことを言われたので、我は首を傾げる。

「どーもこいつらろくなことせんから、つい放っておけずに口を出しちまうだけなんじゃがな。面倒見の良さで言うたら、ずっとこいつらをまとめておったテファの方が上じゃろうに」

「ううん。こういうのには、上とか下とかはないと思うわ。私はただ、あなたが他のみんなのために、いろいろしてくれるのが嬉しいだけ。

『つい放っておけずに』なんて言ってるけど、みんなのしていることを不愉快に思って、しぶしぶ世話を焼いてる、とかじゃなくて……みんなのことが本当に大好きで、手助けすること自体を楽しんでくれてるでしょう?」

「あん? おいおい、テファよ、何を言うとるんじゃ。そんなん、当たり前のことではないか」

 言わずもがなのことを言う彼女に、我はちとあきれてもうた。

 元気いっぱいで無邪気な子供たちに、好意を持たない人間なんぞ、この世にいるわけがない。

 そして、そんな可愛い奴らのために、何かをしてやるというのは――なんつーか、極めて自然なことというか。呼吸をすることのように、生きていく上でやらずにいられないものだと思うのじゃ。

「誰かの役に立てると嬉しい。困ってる奴を見たら、手を差しのべたくなる。人の幸せそうに笑っておるのを見れば、自分も幸せな気持ちになれる。

 そんなことは、人としてフツーにわきまえておるべき常識じゃ。だからこそ、目の前で面倒ごとが起きていたら対処するんじゃろうに。ことさらに注目するようなことではないぞ」

「うん……そうよね、ヴァイオレット。私、わかりきったことを言っちゃったかも。

 私も、まだまだ子供なのかも知れないわ。ヴァイオレットのこと、なんだかお母さんみたいに感じられるんだから」

 慈しみたっぷりの笑顔とともにそんなことをほざくテファに、我は可能な限りの渋面を作ってやる。こんな天然セクシーな娘なんぞ、いてたまるか。我は自分の年齢も覚えておらんが、この巨乳より年上である自信はないぞ。

「お母さん……じゃないとしても、学校の先生とか、伝道師さんとか、そういう雰囲気を感じるのよね。人の上に立つというか、人を導くタイプっていうか……もしかしたら、過去にそういう職業と縁があったんじゃないかなって、さっき思ったの」

「ふむ……」

 教師や、伝道師か。

 我自身が、いっぱしに仕事をしておったとは思えぬが、身近にそういう職業の人間がいたということはあるかも知れん。

 ブリミル教についての知識が豊かなことからも、かつての我が、聖職者の影響を強く受ける環境に生きておったことは、まず間違いない。たとえば、親とか兄弟がブリミル教の神官であったらば、就学時にその方向性の教育を受けることは必然じゃろう。

 家族から始祖の教えを学び、人としての生き方を教わったとしたら――なるほど、しっくりくる。

 我は記憶喪失という病気には詳しくないが、その症状はあくまで過去の出来事を思い出せなくなるというもので、性格を変えるものではないはずじゃ。

 となると、記憶を失う前の我も、今と大して変わらんものの考え方、価値観を持っておったと考えられる。

 働くことが好きで、子供が好きで、自分ひとりが得するよりも、みんなで得を分け合うことを望む。

 そういう性格の人間だった可能性が、非常に高い。

「確かに、説得力がある仮説じゃ。我の前身は、親を教師に持つ幼年学校の生徒か……あるいは、教会に入ったばかりの見習いシスターかも知れん」

「たぶん、確率が高いのはシスターじゃないかしら。最初に川べりで見つけた時、あなたが着ていた服も、かなりボロボロになってはいたけど、修道服に似てたような気がするし」

 ふむん。

 ならば、その方向で考えていけば、案外手がかりを思い出せるかも、な。

 普通の物忘れだって、忘れた内容と近しい情報を見聞きすることで、ポンと思い出せたりするし。ついこないだも、テファに頼まれた仕事をド忘れして、さて何やるんじゃったかなーと頭を悩ませておった時に、地面に落ちておった枯れ枝を見て、薪を取ってきてと言われたことを思い出した経験があった。

 我がシスターだったのなら、ブリミル教についての知識を反芻することで、それにまつわる記憶を取り戻せるかも!

「あ、でも、算術についても、わりといろいろ覚えとるんじゃよなー。シスターって、数の勉強とかするんじゃろか?」

「うーん。そこは私にもわからないわ。ブリミル教のことにも、算術のことにも詳しくないから……」

 ブリミル教と算術。そのふたつが、我の頭の中にかろうじて残っておる、過去への手掛かりであった。そのふたつを同時に学ぶ環境というのが、ちと想像できんが、実際に知識を持っておる以上は、かつての我はそれらを必要とする生き方をしておったのじゃろう。

 何はともあれ、まずはその手掛かりを手繰ってみること、じゃな。

「テファや、どっかに要らん紙とか、あるいは書き物に使えそうな大きめの板きれとかあるじゃろか? まずは、覚えておる教典の文句とかを書き出してみることから始めたいのじゃよ。

 算術の方も、同じように書いて復習していきたい。そうしとるうちに、思い出せることもあるかも知れん」

「それなら、物置部屋の奥に、古い黒板と白墨があったと思うわ。明日にでも、ヴァイオレットのお部屋に運んでおくわね」

「うむ、よろしく頼む。……っと、いかんいかん、食事中だというのに、ずいぶん話し込んでしもうた。せっかくのシチューが冷めてしまってはことじゃ。テファ、ガツガツとかき込もうぞ!」

「ああっ、ヴァイオレット! それは駄目よ、さすがに行儀が悪いわ! もう、やっぱり見た目相応なところもあるのね!」

 その注意については、我はわざと聞かぬふりをした。熱々の状態が美味しい料理は、熱々のうちに食う。それ以上に大切なマナーなぞ、あるはずがないからじゃ。

 

 

 それから、さらに三日が経った。

「よーしよしよし。お前ら、もう足し算引き算は完璧じゃな。んじゃ、次はかけ算とわり算についての話をしよう。この計算は、いくつかでワン・セットになっとる商品を買う時とかに役立つでな、耳をかっぽじって聞くと良い」

 我の言葉に、はーい、という元気のいい返事が返ってくる。

 壁に立て掛けた大きな黒板に背を向けて、我は学校の先生よろしく、算術の講義をしておった。

 生徒は、目の前におるウエストウッド村の子供たち。十二、三人ほどが床に三角座りをして、我と黒板とを見上げておる。連中の眼差しはなかなかに真剣で、こちらとしても教えがいがあった。

 ――なぜ、こんな教室を、我が開いておるのかというと。

 娯楽の少ないこの村において、我の記憶を取り戻すための作業が面白がられてしもうたため――ということになるじゃろうか。

 最初は我ひとりで、黒板に黙々と教典や数式を書き並べておった。初歩的なものから難しいものへと、段階を踏んで準々に。

 その光景を、好奇心旺盛なちびどもに目撃されたのが運の尽き。これ何書いてあるのー、どういう意味なのー、何のために使うものなのー、と、質問の大攻勢を受けるはめになった。あんまりしつこいんで、質問ひとつひとつに対して、二度聞き返されることのないように、懇切丁寧に説明をしてやったら――面白ーい、もっともっとお話聞かせてー! ということになって――ええいならば仕方ない、いっそちゃんとした講座を開いて、我が叡知をお前らに伝授してくれるわー、と大見得を切って――現在に至る。

 脳みそってのは基本的に、幼ければ幼いほど、知識の吸収効率が良い。それはイコール、子供ほど学習に飢えている、ということでもある。

 この閉鎖的な村では、遊びと言えば体を使うスポーツ系ばっかりで、頭を使う知的遊戯は発達しておらなんだ。そんなところに、我が体系的な知識を引っ提げてやって来たわけじゃから、連中にしてみれば物珍しくて、首を突っ込まずにいられんかったじゃろう。

 我が教えられるのは、ブリミル教の教義と算術じゃが、より人気があったのは算術の方じゃった。問題を解くことに、少なからぬゲーム性があるからじゃろう。足し算、引き算を教えた時は、誰が一番早く二桁の計算ができるか、全員で競争しておった。やる気があるのは実に良い。

「――てなわけで、みんなの皿にデザートのイチゴを三つずつ行き渡らせるためには、全部でいくつのイチゴを用意すればいいか、テファは自然に計算しとったわけじゃ。お前らが料理の手伝いをする時には、この計算を思い出すといいぞ。

 さて、このかけ算をスムーズにこなすためには、九九というものを覚えておくと非常に便利なんじゃが、これはちと量が多いので、何日かに分けて覚えることになるじゃろうな。とりあえず、全部ここに書き出してやるが、はて、お前らは今日中に、どこまで覚えられるかのー? くっくっく」

 白墨を黒板の上で踊らせる。ガキどもは集中して、記されていく九九の一覧表を読んでおった。こんな風に一生懸命勉強してくれると、教える方もやりがいがあるというものじゃ。

 ――最初は、我の記憶を回復させるために、頭の中の知識を復習するだけのはずじゃった。

 それが、ごく自然な流れで、子供たちにその知識を分け与えることになり。今では、むしろ教えることの方を目的にしているような気がする。

 なーんか本末転倒な気もするが、まあいい。これはこれで、充実した時間の使い方じゃ。

 いつかはすべてを思い出して、本当の自分に戻らねばなるまいが、急ぐ必要はない。まだしばらく、この村で、穏やかな暮らしを続けてもいいじゃろう。いまだに顔も思い出せぬ両親は心配しておるじゃろうが、我の親ならば、きっと穏やかで懐の深い人たちのはずじゃ。ここでの暮らしを話して聞かせれば、「良い経験をしたね」と、笑って許してくれるに違いない。

 

 

 ヴァイオレットの、ウエストウッド村での幸せな生活。

 彼女は、それがまだしばらく、いや、かなり長く続くものと信じている。

 しかし、あらゆるものはあらゆる瞬間に変化し続けている。

 同じ時間が、ずっと続くということは、まずない。

 変化の種は、いつどこからやって来るかわからないのだ。

 そして、そのうちのひとつが、わずか数十分後に、ウエストウッド村に舞い込んでくることになる。

 

 

「ヴァイオレット! ヴァイオレット! 大変、大変!」

 授業がちょうど終わった時じゃった。外から、テファの慌てた声が呼び掛けてきたのは。

 なんじゃなんじゃと、我は慌てて飛び出していった。ただ事でない雰囲気を察した、他の子供たちも一緒じゃ。

 果たして、我らが目にしたのは――なんかわからんボロボロの塊を背負った、テファの姿じゃった。

「おい、どうしたんじゃテファ、その塊は? たしかお前はキノコ採りに行っていたはずじゃが、シイタケやシメジにしては、そいつはやたらでかくないか」

「き、キノコじゃないの。人なのよ……森の中で、倒れてたのを見つけたの。かなり大きな怪我をしてるみたいで、放っておけなくて……」

 そういわれてよく見ると、確かにそれはヒトじゃった。いたるところにかぎ裂きをこしらえた、ぼろ切れのような服をまとった、いまいちパッとしない中年男。顔は血まみれで、目は虚ろで、口からは「ううん、ううん」と、苦しそうな呻き声を漏らしておる。

 こりゃ確かに、早く手当てしてやらんとまずい。

「エマ、ベッドの用意じゃ! ヘンリーは湯を沸かしてくれ。レーナは救急箱を! ……テファ、他に必要なものは?」

「ありがとう、とりあえず、それだけあればなんとかなると思うわ。……さあ、もう安心ですよ。気をしっかり持って……!」

 背中で呻いている男に、テファは優しい言葉をかけて励ましておった。我も、遭難したところを彼女に救われた時には、同じように声をかけてもらっていたのじゃろうか。

「しかし、この人は何者じゃ? 木こりとか猟師にしては、貧弱な体つきじゃが……かといって、野盗にも見えんし。道に迷った旅行者かのう?」

 我は、男を子細に観察しながら首を傾げる。髪やヒゲがきれいに整えられておるので、わりと上流層の人間であることは間違いなさそうじゃが、それ以外に身元を確かめられそうなデータが一切ない。服がちゃんとしておれば、その仕立てから、貴族なのか裕福な平民なのかの区別ができそうじゃったが、こうもボロボロではそれもかなわぬ。

「身分とか、職業とかはわからないけど……名前はわかるわ。私が見つけた時、この人、まだ意識があったから、名前を尋ねておいたの」

「ほう、それはよかった。この人が我のように記憶を失ったとしても、名前は自分のを使えるわけじゃな。

 で、何ていう人なんじゃ? このおっさん」

 ぐったりした男の頬を指でつつきながらの、我のといかけに。テファは素直に答えてくれた。

「オリヴァー、って言っていたわ。オリヴァー、なんとかさん。

 家名も持っていたみたいだけど、それをはっきり言う前に、気を失っちゃってたの……」


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