コンキリエ枢機卿の優雅な生活   作:琥珀堂

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死よりも恐ろしい苦痛をやろう。

「えーと、拝啓、リッシュモン様。ラグドリアン湖の水位が上がりまくっている今日このごろ、いかがお過ごしでしょうか……と」

 教会の奥にある、誰にも邪魔されぬ枢機卿専用の執務室で、我はマジック・ランプの青白い光のみを浴びながら、私信を書いておった。

この部屋は、我が機密情報を扱うために用意した特別な場所じゃ。窓はなく、壁と床と天井は、土スクウェア十人に重ね掛けさせた固定化に守られておる。扉も同じように固定化してあるが、さらにアンロック防止魔法を付与し、特殊なマジックアイテム・キーによってしか開けられんようにしてある。まさに難攻不落の小要塞なのじゃ。

 掃除係のシスターたちも、この部屋には立ち入らせん。重要な情報を扱うのだから、当然なのじゃ。

 さて、そんな部屋で書いとるこの手紙も、もちろん重要で極秘なものじゃ。

 宛先は、トリステインの高等法院長をしておる、リッシュモンというジジイ。

 古くからトリステインに仕え、私心なき公正な人柄の男と評判じゃが、実態は賄賂を贈ればかなり融通をきかせてくれる、使い勝手のいい悪党じゃ。

 我も、トリステイン関係の儲け話がある時は、よくお世話になっておる。

「……それで、かねてより進行中の、女神の杵亭買収の件ですが、先方の提示した条件は――」

 今回は、トリステインのラ・ロシェールという港町にある旅館、女神の杵亭の買収を、彼に裏から手伝ってもらうのじゃ。

 女神の杵亭は、貴族ご用達の高級旅館で、部屋や料理の素晴らしさはもちろん、サービスの上質さでも名が知られておる。

 買い取れば、年間五千エキュー程度の利益は期待できる優良企業じゃ。

 しかも、今はアルビオンで、レコン・キスタとかいう連中がもにょもにょしておる。

 王党派の旗色は悪いと聞くし、もしレコン・キスタが勝利してアルビオンを支配すれば、ハルケギニア統一をうたう奴らは、次にトリステインに攻め込むじゃろう。

 アルビオンとトリステインが戦争になれば、勝負の要となるのは、両国をつなぐ港町……トリステインでは、ラ・ロシェールじゃ。

 敵に港を取られんよう、トリステインはラ・ロシェールに、大軍を駐留させるじゃろう。

 そしたら、兵士たちの生活の場が必要になるから……旅館はまっさきに接収されるはずじゃ。

 その旅館がトリステイン企業であれば、王権で安く――もしかしたらタダで、ぶん取られてしまうかも知れん。

 しかし、ロマリア……外国企業ならば、トリステインの王権は通らん。向こうは、適正な値段で、ロマリアのオーナーから旅館を買い取らねばならん。

 しかも、そのオーナーが我であれば。女神の杵亭を手放すのを渋るそぶりを見せてやれば。物件の値段を、こちらでいかようにもつり上げられるようになる。

 トリステインとしては、どうしても買わねばならん物件ゆえ、多少お高い値段を提示されても、黙って金を吐き出すしかなくなるっちゅうわけじゃ。

 つまり! 女神の杵亭は今がアツい! 買っとけば確実に儲かる、金のなる旅館なのじゃー!

「……つきましては、売買交渉の始まる来月までに、必要な情報を――ささやかではありますが、お骨折り代として千エキューをお包みしておきますので、お受け取り下さい――なお、この書簡は、開封後十二時間で自動的に消滅しますのでお気をつけを――ヴァイオラ・マリア・コンキリエ、と……」

 書き終えると、吸い取り粉でインクがにじまぬように乾かし、丁寧に畳んでから、蝋涙で封印をほどこす。

 この封印は特別なもので、どっかの火メイジが開発した機密保持用のマジックアイテムになっておる。

 開封のためにはパスワードが必要で、しかも一度開封すると、十二時間後に自動的に発火し、手紙自体を消滅させてくれる。

 もし昼間に開封して、そのまま机の上とかに放置しといたら、夜中に思い出したように火災が発生しちゃうのじゃが……まあそれも愛嬌という奴よ。

 小間使いに言って、手紙を風竜便で送らせる。これなら向こうに届くのに一日もかからん。

 大きな仕事を成し遂げるためのコツは、慌てず、慎重に……しかし情報のやり取りは素早く、じゃ。

 情報の足の早さは、生魚にも勝るからな。腐る前に活用せねば、の!

 

 

「ヴァイオラ様。トリステインのド・ラエモン氏から、お手紙が届いております」

 二日後、仕事を終えて帰宅すると、シザーリアが銀盆に手紙を乗せて持ってきてくれた。

 ド・ラエモンというのは、リッシュモンじいさんの通信用の偽名じゃ。もちろん外書きだけで、中の本文には本名を添えてくれておるが……ド・ラエモン……なんか知らんが、ものすごい頼りになる感じがする、いい偽名じゃと思う。

 ちなみに我も、外書きには偽名を使っておる。ロマリア風に、ごくありふれた名前をと考えて、ノビータという名を採用した。

 全く違和感がないし、いい名じゃとも思うのじゃが……何故じゃろ、無駄にヘタレっぽい雰囲気を醸し出す名前にも思える……。

 ま、そんなことはどうでもよい。ド・ラエモンから返事が来たということは、女神の杵亭に関する取引の情報が手に入ったということじゃ。さっそく読んでみよう。

 ……ふむふむ。ラ・ロシェールのそばの、タルブ一帯を治めるアストン伯爵が、資金集めを始めておると……所有のワイナリーや乗合馬車組合の株を売って、まとまった金を作っておるのか。

 伯も女神の杵亭を狙っておるのなら、競売の時、強力なライバルになるじゃろう。

 もちろん、田舎伯爵ごときに負けるつもりはないが……ライバルができるっちゅうことは、買値が釣り上がるということじゃ。より安く、女神の杵亭を手に入れたい我としては、伯には勝負の前に退いてもらいたいもんじゃのう……。

 そう悩みながら手紙を読み進めると、さすがは老練なるリッシュモン、その問題への対策案も、ちゃんと提示してくれておった。

 ふむ、トリステインの株式市場を操作? アストン伯の資金源である持ち株会社の株価を落としてやれば、株を売っても充分に金が集まらず、伯は競売参加を断念する可能性が高い、とな?

 そのために、トリステインの金融界に詳しい男をロマリアに送るから、彼と相談して市場操作を行い、アストン伯対策をしてはどうか……か。なるほどなるほど。

 馬車でやって来るから、ロマリア着は次の虚無の曜日になる予定か。ふむ、来てもらってすぐに仕事を始めてもらえば、競売には間に合うか。

 よしよし、さすがは古狸、いい仕事じゃ。その金融屋が来るまでに、こちらも必要な資料をまとめておくか。

 ……ん? 手紙の文章に、まだ続きがあるぞ。なになに……「なお、この手紙は開封後二分で、自動的に消滅する」……って危なうわぢゃぢゃぢゃー!

 お、おのれ、マジックアイテムの術式を変更して、発火までの時間を短くしてくるとは。年寄りのお茶目としては度が過ぎとるぞ。

 まさか、半年前に我が送った手紙の不始末が原因で、高等法院が半焼したのを、まだ根に持っとるのか? 大人げのない奴め。

 次に我が手紙を送る時を覚悟しとれよ。恨みつらみ書き連ねてやるからな。

 具体的には、そうじゃな。「死ね! 不正がバレて追い詰められて、劇場の隠し扉から下水道に逃げ込んだはいいけど、そこで待ち構えていた復讐の鬼に刺されて死ね!」とか書いてやる。

 まー、いくらなんでも、こんな劇的な死に方はせんじゃろうが、こちらの怒りのほどを思い知ってくれれば、それでいいのじゃ。恐れおののけヌハハハハー。

 ……ふう、バカ笑いも終えたところで、さっさと燃えカス片付けて資料を用意するか。

 時間は常に、貴重じゃからのう。

 

 

 そして、虚無の曜日がやってきた。

 資料の準備も万端、あとはリッシュモン推薦の金融屋が到着するのを待つのみじゃ。

 朝の到着という話じゃったから、ちょいと太っ腹なところを見せようと、金融屋の分の朝食も用意させておいたのじゃが……。

 もう昼前なのに、誰もやってくる気配がない。

 どうなっとんじゃトリステインの人間は? 商用じゃろうに、待ち合わせに遅れていいと思うとるんかい。

 これから大きな仕事をしてもらうというに、これでは先が思いやられるわい……あ、シザーリア、朝食のデザートのプリン、客の分がひとつ余っとるじゃろ? もう朝食の時間ではないし、捨てるのももったいないゆえ、我が食べてやろう。持ってきてくれ。……え、もうすぐお昼ごはんだからダメ? そ、そんなこと言わずに……。

 そんな感じで、頑固なシザーリアと一進一退の(向こうが一進すると、我が一退するの意)メンタルファイトを繰り広げていると、来客を知らせる玄関のベルが鳴った。

 シザーリアは我との勝負を放棄し(ぶっちゃけホッとした)、来客を迎えるため下がっていった。……が、すぐに戻ってきた。

 客を案内してきた様子はないので、妙に思っていると、我の耳元に口を寄せて、こう囁いた。

「――トリステインからのお客様について、衛士の方がお知らせに上がりました。半壊状態の馬車が、アクレイリア北の駅に到着したとのこと。御者、護衛の兵士が重傷、乗客の男性は重態だそうです。

 なんでも、オーク鬼に襲われたとか」

 ほう? なるほど。遅いと思ったら、そんなことになっとったんか。

 オーク鬼ねー。しかも重態とか。そりゃ予定時刻に来れんでもしゃあないなー。はっはっはー。

 ……………………。

 って、ええええええ――――――――ッ!?!?

 

 

 僕は――トリスタニア王立銀行主任会計士、ルイ・デキスギイルは、灰色の雲の中にいた。

 何も見えない。何も聞こえない。ただ、妙な息苦しさと、腹の底から響いてくるような鈍痛があるだけだ。なぜ、僕はこんなところにいる――いや、こんなことになっているのだ?

 自分の中に問い掛ける。すると、ほんの少し前の鮮明な記憶が、まるでその瞬間に舞い戻ったかのように蘇ってきた。

 ああ、そうだ。オーク鬼が襲われたんだ……アクレイリアに至る、森の中の街道で――。

 敵は、一匹だけだった。群れで生活するオーク鬼には珍しい、はぐれ者だったらしい。

 しかし、護衛が一名しか乗っていない馬車にとっては、一匹でも充分な脅威であった。

 三メイルはあろうかという巨体。醜悪な豚の頭の下には、太った人間のような肉体がついているが、その腕や足は丸太のようだ。手にはこん棒を持っており、それには赤茶けた血の痕跡があった。

 亜人退治のセオリーとしては、オーク鬼一匹に対して、戦士五人で挑まねばならないとされている。いくら凄腕でも、護衛の兵士ひとりで当たるには部が悪い。

 だから、逃げようと馬に鞭を入れた御者の判断は、最善だったのだろうと思う。

 しかし、オーク鬼は素早く馬車の前に回り込み、馬の動きを止め、御者の足を掴んで引きずり下ろそうとした。

 それを助けようと、護衛の兵士が馬車から飛び出していく。

 剣が抜き放たれ、御者の足を掴むオーク鬼の腕に切り付ける。一撃での切断は叶わなかったが、手傷を負った怪物は、御者を放して、標的を兵士の方に変えた。

 死闘が始まった。オーク鬼の振り回すこん棒を、兵士は必死に避けながら、剣を相手に叩きつけていく。

 オーク鬼相手に、一対一で拮抗しているあたり、この兵士の腕は相当なものだったのだろう。

 だが、一瞬の隙を突かれ、敵のこん棒に剣を弾き飛ばされてしまう。

 絶体絶命! こうなると、僕も見ていられない。加勢すべく、携帯していたレイピアを抜き放つと、馬車から飛び出した。

 ……その直後だ。オーク鬼の投げたこん棒が、僕の腹を直撃したのは。

 ばん、と、体の中で何かが破裂する感覚があった。口の中に、血の味があふれ返った。

 そして、意識がじんわりと闇に沈んで――その直前に、獲物を拾い上げた兵士が、オーク鬼の喉に剣を深々と突き刺したのを見た――そして、今に至るのだ。

 ……そうだ、こういうことがあったのだ。

 しかし、そうなると今の僕は、死んでしまったか、それに近い状態にあるのか?

 オーク鬼から受けた一撃は、間違いなく致命的なものだった。だから目覚められず、この混沌とした意識の雲の中をさ迷っている……おそらく、遠からずこの雲も闇に変わり、完全な死が訪れるのだろう。

 ふと、目の前に、立派な身なりをした、威厳のある老人の姿が浮かんだ。

 ――申し訳ありません、リッシュモン様……あなたに頂いた第二の人生も、ここまでのようです……。

 僕はすでに、一度死を体験していた。それは社会的な死だったが、気分的には今と似たようなものだった。

 平民の出である僕は、もともとはトリスタニアの乗合馬車組合で、金庫番をしていた。

 そこで事務の基本を学び、金の運用方法、そしてその応用を知り、やがて、不正な運用のやり方も覚えてしまった。

 自分では上手くやっていたつもりなのだが――僕の犯罪は徴税官にあっさりと見破られてしまい、気付けば僕の手には、縄がかけられていた。

 貯めた財産は没収され、裁判では懲役八十年を求刑された。真っ暗な監獄の中で八十年――間違いなく僕は、外の世界の空気を吸えずに、そのまま檻の中で朽ちていくことになっただろう。

 そんな僕を、絶望から救ってくれたのが、高等法院長のリッシュモン様だった。

 彼は、裁判の過程で僕のしたことを知り、僕の持つ卓越した計算能力と、資金運用のセンスを看破なさった。

 そして、その才能を埋もれさせるのは惜しいと、取引を持ち掛けてきて――結果、僕は監獄行きを免れ、金融屋として一からやり直すことになったのだ。

 リッシュモン様の口利きで、トリスタニア王立銀行で働き始めた僕は、一生懸命働き、順調に出世していった。

 主任会計士にまで上り詰め、去年の暮れには、結婚も果たした――爵位こそない家だが、貴族の娘さんの婿になり、デキスギイルという家名も手に入れた。

 何もかも順調だった。未来は明るいものに見えた。なのに――こんなところで――。

 ……いや、やはりこれが天命というものなのだろう。罪を犯した僕が、普通の幸せを掴めるはずがなかったのだ。

 幸せになれると思った瞬間に、目の前の道を奪い去られる。これ以上の罰がどこにあろう。これが、始祖ブリミルの課した定めなのか……。

徐々に闇の色が濃くなっていく雲の中で、最後に浮かんだのは、妻の笑顔だった。

 許してくれ、テレーズ――僕は、君のところに帰れそうにない……。

 

 

 俺は――アクレイリアの医師、タッカーズ・アーヴェッサンは焦っていた。

 オーク鬼に馬車を襲われ、怪我をしたトリステイン人がいるという通報を受け、俺は助手を連れて駅に駆け付けた。

 駅舎の一室に、患者たちは横たえられていた。その数は三人――この内、御者と護衛の兵士に関しては、特に問題はなかった。御者は足を、兵士は右腕と鎖骨、左足を骨折していたが、命に別状はなかった。添え木をあて、ヒーリングを強めにかけてやるだけで、折れていた骨はくっついた――あとは二、三日安静にしていれば、元通りの生活に戻ることができるだろう。

 だが、三人目の男(御者が言うには、トリステインの銀行屋らしい)は、きわめて危険な状態にあった。

 骨折や、目に見える怪我はない。しかし、オーク鬼の投げたこん棒に腹を直撃されたらしく、内臓にひどい損傷を受けていた。

 ディティクト・マジックをかけて、体内を調べる。――右肺に穴が空き、胃袋が破裂している。腹腔内に血が溜まっていて、放っておけば他の臓器まで血で圧迫され、機能を失ってしまうだろう。

 俺は、先ほど御者と兵士にかけたのより、遥かに強い精神力を込めてヒーリングをかけた。

 自慢じゃないが、俺は水のトライアングルメイジだ。水を三つ重ねたフルパワーのヒーリングを使えば、ちぎれた手足だってつなげることができる。

 だが、今回はうまくいかなかった。傷口が露出している場合なら、癒しの波動を直接照射できるため、ヒーリングは非常に有効なのだが、体内の患部を治す場合は勝手が違ってくる。健康な皮膚と筋肉に遮られて、力が中まで届かないのだ。

 この銀行屋も、そのパターンだった。打撃により、内臓のみが傷ついた状態。俺のかけたヒーリングは、腹の筋肉まで浸透する程度で、それ以上は通らなかった。

「水の秘薬を出せ! 患者に飲ませてやるんだ!」

 もちろん、内臓疾患を治療する方法も知られている。水の力の塊である水の秘薬を飲ませ、それを媒介として、ヒーリングの波動を体内に浸透させるのだ。

 ひどい怪我ではあるが、これで治すことができる……俺は、そう考えていたんだ。

 しかし、患者の口に秘薬を注いでいた助手の叫び声が、俺の自信を打ち砕いた。

「駄目です、秘薬を飲み込んでくれません! 吐かせても吐かせても、喉の奥から血があふれてきて……胃にまで秘薬が入っていかないんです!」

「何だと!?」

 ディティクト・マジックで再度調べる。……なんてこった。胃が血でパンパンになってやがる。しかも、肺にも少しずつだが、血溜まりができて……。

 血を全部吐かせないと、秘薬は飲ませられない。かといって、出てくる血を全部吐かせてたら、患者は失血死しちまう。

 どうすればいい? どうすれば?

 考えている間にも、患者の顔色はどんどん青白くなっていき、呼吸も衰えていく。

 ヒーリングをあらためて体外からかけても、効果はやはり薄い。むしろ、血の巡りがよくなったせいで、吐き出す血の量が増えた気さえする。

 もう、どうしようもない。

 可能な治療手段が、一切通じなかった。この銀行屋は、ここで死ぬように、始祖に運命づけられていたとしか思えない。

 俺には、この哀れな患者が、じわじわ死んでいくのを、悔しさとともに見ていることしかできなかった。

 水のトライアングルともあろう者が――なんてざまだ……!

 無駄だったヒーリングを止め、杖を懐にしまう。黒光りする美しい黒檀のワンドも、今は煤けて見える。

 俺はせめて、銀行屋が安らかに天に召されるよう、膝をつき、始祖に祈った……。

「……怪我したトリステイン人はここか――――ッ!」

 と、その厳かな雰囲気をぶち壊すような大音声が、部屋に響き渡った。

 振り向くと、きらびやかな法衣をまとった女神官が、部屋の入口に仁王立ちに立っていた。まるで、死者をさらいにきた悪鬼のごとき形相で……。

 

 

 事件の知らせを聞いた我は急いで馬車を呼ぶと、駅へ駆け付けた。駅舎内の、怪我人たちの治療をしておる部屋に飛び込んでみると……中の空気が完全にお葬式じゃった。マジかい。

「医者はお前か?」

 手近いにおった、マントを羽織った短髪の美丈夫(なんとなく、マントより馬車修理工の作業着を着て、ベンチに座っとるのが似合いそうな男じゃった)に尋ねる。

「ああ、そうだ……」

 力のない声じゃった。ものごっつい無力感が、オーラになって全身から立ち昇っておるようで、安易に近付くのもはばかられたくらいじゃ。

 その様子ですでに、結果も察せようものじゃが……諦めの悪い我は、一応聞かずにはいられぬ。

「患者の具合はどうじゃ? 回復しそうか」

 その問いに、医者は首を軽く横に振って答えた。

「胃がひどく傷ついている。水魔法も、秘薬も、これを完治させるにはやや力が足りないらしい。

 ……いや、こういう言い方は卑怯か……神官様、俺みたいな役立たずが言うのもなんだが、この人が安らかに始祖の御下へ行けるよう、祈ってやってくれないか」

「い、祈りって、お前……そこまで、なのか」

 仮眠用と思しき、粗末なベッドに横たわる若者――金融業者ルイ・デキスギイル――に目をやり、その土気色の顔、血まみれの口まわりを見て、我は医師の言葉に誇張のないことを悟った。

 ま、ま、ままままずいぞ、この状況はまずい……我にとって、ひっじょーにまずい。

ここでこの軟弱バンキーナ野郎に死なれたら、女神の杵亭買収計画に支障をきたす。

 すでに我は、デキスギイルの助言ありきで、スケジュールを立てておるのじゃ。トリステイン金融界に詳しい助言者抜きで立ち回れるほど、今回の取引は甘くない。

 かといって、今から代役を派遣してもらうのもいかん。リッシュモンがいかに顔の広い奴でも、急に代わりなど見つけられんじゃろうし、見つけられたとしても、こっちにやってくるまでに時間がかかる。

 新たなパートナーと協議して、全ての準備が完璧にととのいました、ただし競売終了済みです……みたいなことになってはいかんのじゃー!

「医者よ、治療費なら我が出す! もし、最高級の秘薬が必要というなら取り寄せる! じゃから、何とかせい! こやつは死にかけじゃが、まだ生きとるのじゃろう? 助けてやってくれ!」

 我は必死に、医者に詰め寄った。死にかけとるのが他の奴なら、たとえば御者や兵士なら、我もこんなことは言わん。いくらでも死ぬがいい。

 じゃが、この金融屋は駄目じゃ。なにしろ、確実に数万エキューが動く取引で、我の味方をする男なのじゃぞ!? 千エキューする秘薬を二、三本使ってでも、生かさねばならん!

 しかし、医者の反応は無情なものじゃった。

「無駄だ。水の秘薬を飲むこと自体が、できない状態になっているんだ。この患者のために、身銭を切ろうっていうあんたの優しさには感服するが……」

 やかましい! 今、否定語を使うでないわ! 命を操る医者が、そんな簡単に諦めるでない! 諦めたらそこで試合終了だよって、アン・ザィイー先生(4503〜4578、ガリアの女流詩人、劇作家。代表作に『アゴの下の肉をタプタプする者、死すべし』がある)も言うとるじゃろ!

 くそ、イライラし過ぎて頭が痛くなってきたわい。部屋の空気も、重過ぎる上に澱んでおって、気分も悪いし!

 本当にどうにかならんのか。ほんの三日程度でええんじゃ。デキスギイルの助言をもとに、市場を数日間だけ操作できれば。

 そのあとであれば、こんな外国の平民銀行員など、いくら死んでもかまわんのじゃ。

 健康体に戻せたぁ言わん。極端な話、我に何をすればいいかアドバイスできるようにしてくれればええんじゃ。考えるための脳みそと、助言をする口さえ正常に動けば――。

 …………あれ? これ、もしかして――イケるんじゃないかのう?

 前に、人づてでこんな話を聞いたことがある。不治の病に冒された水メイジが、自分の脳をミノタウロスに移植して、病から逃れたのだそうじゃ。

 その半人半ミノタウロス野郎は、結局死んだらしいが、移植せずにいた場合よりは長く生きることができたという。

 つまり、人間やろうと思えば、体のパーツを取っ払って代用品と交換しても、何とか生きていけるのではないか?

 胃が悪いんなら、胃を取っ払えば――人間の脳をミノタウロスの体に乗っけても平気なら、人間の胃の代わりに牛とか豚とかの胃袋をチョイス☆インしても、わりとなじむんでないか?

「なじむ! この体にこの新しい胃袋、実によくなじむぞ! WRYYYYYYYYY!」とか言って、むしろより高次元な生物にランクアップするかも知れんし……なじまんで死ぬにしても、二、三日生き延びてくれれば、我はそれでいいんじゃから……。

 このまま手をこまねいているよりは――やってみた方がいい、かの?

 我は決断し、杖を構えて、デキスギイルに近付く。

「おい、医者。我の補助をせい。この男を助けるぞ」

 ニヤリと笑って、能無し医者に宣言する。

 フハハ。奴め、驚いてマヌケ面を晒しておるわ。そんなだから、治せる患者も治せんのじゃ阿呆。

 対して我は、何か知らんが全身を昂揚感が駆け巡っとる。今なら何でもできそうな気分じゃ。うふふのふ。

「ま、待て! 神官様、あんたの系統とランクは!?」

 あん? そんなこと聞いてどうする気じゃ? まあ一応答えてやるが。

「水のラインじゃ。人の怪我治すには、充分じゃろて」

 野良犬に足噛まれた時も、自分で治したんじゃぞ。すごかろ!

 おっと、いつまでも能無しの相手はしておられん。さっさと死にぞこないを、半死にぞこないくらいにするべく、処置を始めねば。

 悪い胃袋を取り除くのは後回しとして……とりあえず、まずは絶対損傷させてはならぬ部位の保護じゃ!

 最低限必要なのは、考えるための脳としゃべるためのノド。これは外せん。よって……こうじゃ!

「ちぇすとおおおぉぉぉ!」

 我は、精神力を込めたワンドを高らかに振り上げ――振り下ろして、デキスギイルの血まみれの口に、ズボッと突き刺した。

 

 

 俺は、神官ってのは神に祈る仕事だと思っていた。神に祈り、世の中をよくしてもらおうと願う仕事――基本的に他力本願な連中だと。そう思っていた。

 しかし、この女神官は違っていた。いきなり治療の場に現れたかと思うと、患者の容態を我が身のように心配し、治療のために最高級の秘薬まで用意すると言ってのけた。

 こんな、神に頼らない、能動的に人を救おうとする神官に会うのは、初めてだった。

 しかし、彼女の積極性は、この程度にとどまりはしなかった。

 俺が治せないとさじを投げると、なんと彼女は、自ら杖を出して、治療を試みようとしたのだ。

 自信ありげな表情――もしや、治療経験豊富な水スクウェアなのかと思い、系統とランクを尋ねると、水系統ではあるが、ランクはラインであるという。

 無理だ。

 俺は、そう確信した。トライアングルの俺でも不可能な治療が、ラインの彼女にできるはずがない。

しかし俺は、彼女を止められなかった。自信を打ち砕かれた無力感から、動く気にもなれなかったのか……それとも、彼女なら、状況を打破してくれるかも、と期待していたのか……できれば、後者であってほしいものだ。

 とにかく、彼女は患者の前に立った。そして、何を思ったのか――いや、何をとち狂ったのか――持っていたワンドの先を、患者の口に押し込んだのだ!

「お、おいあんた! いったい何をやってんだっ!?」

 俺が止めるのも聞かず、彼女はぐっ、ぐっと、ノドの奥に押し込むように、ワンドをねじ込んでいく。

 するともちろん、患者の肉体はノドへの異物の侵入に対して、反射的な防御行動をとった。意識がなくても、それは自動的に起こる。体を丸めて、異物を吐き出そうとしたのだ。

 閉じていた患者の目が、カッと開いた。「ぐ、ごっ」と、くぐもった呻き声も聞こえる。突然の苦痛に、意識が覚醒したのか!?

 なんて残酷なことを! 意識を失ったまま、なんの苦痛もなく、ひっそりと息を引き取らせてやりたかったのに……死の淵にいる人間に鞭打つような真似をするなんて、どういうつもりなんだ!

 俺はこの無神経な女神官の行動に、心が沸騰するのを感じた。女に手を上げるのは、俺のポリシーに反する。だが、こいつのしていることだけは、多少乱暴なことをしてでも止めなくてはならないと思った。

 実際、手はすでに動いていた。女神官の襟首を掴み、後ろに引っ張り倒すくらいのことはするつもりだった。

 しかし、それは結局実行されなかった。彼女が、患者のノドに杖を差し込んだまま、こう唱えるのが聞こえたから――。

「……ヒーリングッ!」

 

 

 ヒーリングを唱え、精神力を癒しの波動に変えて、杖の先から放出する。

 我にとって必要なのは、デキスギイルの頭とノドじゃ。そのふたつを、完全な健康状態に保たねばならん。医者の話によると、悪いのは胃袋で、頭は問題ないらしい。

 ならば、優先的に保護すべきはノドじゃ。こんなに血を吐きまくっとる以上、口の中つながりでノドにも傷がついとるかも知れん。怪我がないとしても、水の流れをととのえて、より生命力を高めておけば、のちのち胃袋を取っ替える時にも危険を減らせるじゃろう。

 デキスギイルの口から、ヒーリングの青白い光が漏れる。口だけでなく、ノドも内側からぼんやりと光って、癒しの力がノドに充分浸透していることを確信できた。

 我って、水のラインではあるんじゃが、治療魔法の練習はサボり気味でのー。治療する場所に、力の放出口である杖の先を当てないと、いまいち効果が薄いのじゃ。

 熟練の水メイジなら、怪我した人を一列に並ばせといて、ヒーリングを唱えるだけで、広範囲に癒しの波動をばらまいて、人々を回復させたりできるらしいのじゃが……ま、我はあんまり人助けなどせんし、そこまでのレベルアップは求めるまい。

 とにかく、我は誰かを癒す時、杖の先を患部に当てなければならぬゆえ、このような乱暴な方法をとったが、あくまで必要に迫られてのことじゃ。だから、こりゃ、暴れるな! 治療してやっとんのじゃから、息苦しいのぐらい我慢せんかい! 男の子じゃろが!

 意識が戻りよったのか、デキスギイルは手足をバタバタ振り回し始めた。こんちくしょ、杖が抜けそうじゃ! だが、そうはいくか! さらに深く差し込んでくれる! ぐーっとな!

ほれほれほれー! 我の太くて固いモノを、ノドの奥まで咥え込むんじゃよおおぉぉ〜ッ!

「ぐっ、ぶっ、うげ……ごばあっ!」

 のじゃああぁっ!? このバカ、血ぃ吐きよったっ!

 思わず、デキスギイルのノドから杖を引き抜いて、後ろに飛び退く。そして、自分の身の惨状に、気の遠くなる思いをした……我の清潔な法衣がっ! リュティスの仕立屋でオーダーメイドした、三千五百エキューもする法衣に、赤い汚いシミがべったりとおぉっ!?

 くそ、こんなことになったのも、我が補助しろと言ったのにボーッとつっ立っとる、この無能医者のせいじゃ!

「何をしとるか! 早う自分の仕事をせい!」

 我がそう激を飛ばすと、医者はハッとしたようになって、懐から杖を取り出し、デキスギイルにディティクト・マジックをかけた。

 ん? あれれ? なんでディティクト・マジック?

 我は、暴れるデキスギイルを押さえ付けてくれることを期待したんじゃが。

 なして?

 

 

 女神官の叫びに、俺は反射的に杖を振るい、ディティクト・マジックで患者の体を調べていた。

 そして、驚いた。あれほど血であふれていた胃が、今では空っぽになっている。

 しかも、傷口から新たな血が滲み出てくる様子もない……胃の傷が治っている、というわけではない。しかし、止血することに成功している!

 俺は、驚きと感動に打ち震えた。今のこの状態なら、水の秘薬を飲ませることができる!

「今だ、水の秘薬をありったけ飲ませろ! 神官様の御技を、無駄にするな!」

 助手の反応も早かった。血と杖を吐き出して、苦しげに呼吸をしている患者の口に秘薬のビンをあて、そっと秘薬を流し込んでいく。

 ゴク、ゴクとノドが動き、秘薬を嚥下しているのを確かめると、俺はヒーリングを唱え、胃に入った秘薬を媒介に、患者の体内に癒しの波動を浸透させていく。

 うまくいった! 胃の傷が、みるみるうちに治っていく。肺の穴も、よし、これも塞がりつつある。

「もう、大丈夫だ。胃は無事に修復された……彼は、死の淵から生還したぞ!」

 俺が、泣き出したくなるような喜びとともに宣言すると、助手も、ことのなりゆきを部屋の隅で見守っていた御者と兵士も、割れんばかりの大歓声をあげた。

 ひとりだけ、血まみれになった女神官だけが、きょとんとしていたが、どうやら患者が死なずに済んだのだと悟ると、花の咲いたような笑顔を浮かべて、こう言った。

「そうか、助かったか。なんじゃ医者、もう駄目みたいなことを言うとったが、やればできるではないか。

 褒めてつかわすが、次からはもう、患者が生きているうちに諦めるようなマネはするでないぞ……わかったな!」

 そして彼女は、自分の仕事は終わったとばかりに、踵を返して部屋を出ていった。

 俺は、黙ってそれを見送っていた。深い感謝を込めて、その後ろ姿に頭を下げたが、向こうは気付かなかったかもしれない。

「しかし、あの神官様、いったい何をしたんでしょう? トライアングルの魔法でもどうにもならなかった胃の傷を、ラインの魔法でどうやって……?」

 彼女が出ていくと、助手が不思議そうに聞いてきた。

「俺達は普段、内臓を治療する時は、患者に水の秘薬を飲ませる。そうすれば、秘薬を媒介に、体内に魔法を通せるからだ。

 今回の患者の場合は、秘薬を飲めない状態にあった。これだと、対外から体内への力のルートが確保できないから、俺は患者を治せなかった。

 しかし、あの神官様は、自分の杖を患者の体内深くに差し込むことで、魔法を直接患部に送り込んだのさ。

 俺らの魔法は、杖の先から力を放出するから、杖の先を体内に入れてやれば、媒介無しで内臓を癒すことができる……まったく、内臓治療の概念を根底から覆すような、意外な方法だったよ」

「な、なんですって!? あの神官様は、それを計算ずくで、あんな乱暴なことを……?」

「間違いない、な。神官でありながら、あんな新しい治療法を発明するとは……日頃から、他人の治療に献身的に取り組んでいるお方なのだろう。

 水のトライアングルが、知恵と工夫を凝らしたラインに遅れをとる、か……フフ、メイジのすごさは、系統やランクによって左右されないと誰かが言っていたが、本当のようだな。

 いや、俺が彼女に負けているのは、それ以前の問題――医者として、何が何でも患者を治してやろうという情熱だな。

 患者が生きているうちは、けっして諦めるな、か。その言葉、心の奥深くに刻み込んでおくとしよう」

 

 

 彼、タッカーズ・アーヴェッサンは、このあと医者としての修業を一からやり直し、その過程で水スクウェアに開眼。内臓疾患治療のエキスパートとして、ハルケギニア中に名を轟かせる名医となる。

 トリステインの大貴族、ヴァリエール家にも招かれ、病に苦しむ次女を見事完治させたことで、その名声は不動のものとなるのだが――それは、もう少し先の話である。

 

 

「せ、先生! アーヴェッサン先生、急患です!

 アルビオンから亡命してきたばかりの、ロードアンダー伯爵マサーキー様が! 突然の腹痛に苦しんでおられます!」

「何? どれどれ、見せてみろ……ははあ、こりゃ盲腸だな。

 水の秘薬で治療するには、時間がかかる難病だが……こないだ神官様から教わった治療法なら、案外早く片付くかも知れん。

 口は、盲腸のある下腹部までは遠すぎる……下腹部に近くて、杖の先を突っ込める穴はというと……。

 ロードアンダー伯爵! 何も聞かずに、俺を信じてくれないか。

 俺を信じて、あんたの尻を、俺に差し出してくれないか!?」

「( ゜Д ゜) !?」

 

 

 ……少々くそみそなことになったりもするが、彼は間違いなく名医への道を歩んでいた……。

 

 

 僕の意識を覆う灰色の雲が消え去った時、目の前に現れたのはあの世の景色ではなく、すさまじい形相の女神官だった。

 ノドに感じる圧迫感。堪え難い異物感。あまりの苦痛に、思わず手足を振り回して、僕の頭上に覆いかぶさるようにしている女神官を跳ね退けようとした。だが相手は、さらに強い力で、僕のノドに固い棒をねじ込んできて……反射的に咳き込んだ僕は、空気と一緒に血を吐きだした。

 僕の血を浴びた女神官は、まるで死者の国からの迎えのようだった。

 このような恐ろしいものを見せられて、このような苦痛の中で死んでいかねばならないなんて! 妻の優しい幻を見ながら、安らかに眠りにつくことも、僕には許されないのか?

 しかし、そのあとすぐに医者らしきメイジの方が、秘薬や回復魔法で僕の苦痛を和らげてくれて……その心地良さから、再び意識を失って……次に目覚めた時には、恐ろしい女神官はおらず、体の不快感、激痛も、一緒に消え去っていた。

「おっ、目が覚めたかい銀行屋さん。あの世に行きかけて、引き返してきた気分はどうだい」

 目覚めた時にそばにいたお医者様は、爽やかに僕が完治したことを教えてくれた。

 危うく死にそうだったが、ある神官様が機転をきかせて、棺桶に入りかけていた僕を救い出してくれた、ということも……。

「その神官様というのは、もしや、紫色の髪の、女性の方では……?」

「ああ、そうさ。ひどく乱暴な治療だったが……あんたを救いたい、という強い気持ちが、行動に表れた結果だろう。

 俺みたいな本職の医者でも、あそこまでがむしゃらに取り組むのは難しい。あんな激しい優しさがこの世にあるとは、俺も驚いたよ」

 僕は恥じ入った。あの悪魔のように思えた女神官が、逆に死の手から僕を守ろうと奮闘してくれた天使だったなんて。

 彼女のおかげで、僕はまだ人生を続けられるんだ……妻にも、テレーズにも、また会える……。

 僕の人生を救ってくれたのは、リッシュモン様に続いて二人目だ。もし、あの血まみれの女神官様(今なら、あのお姿も、民衆を守るために戦う英雄のように思える)に出会えることがあったら、何とかして礼をしよう。僕のような銀行員が、神官様にどのような礼ができるのかはわからないが……。

 翌日、完全に復調した僕は、予定よりやや遅ればせながら、聖マリオ教会のコンキリエ枢機卿を訪ねた。

 そこで、運命が僕を待っていた。笑顔で僕を迎えてくれた、小柄な紫色の髪の女枢機卿様……。

 これこそが、始祖ブリミルの真のお導きなのだろう。ここで恩を返せと――お前の持つ金融のノウハウを、彼女のためにフルに使えと……。

 体中に、やる気がみなぎるのを感じた。

 最高の仕事をしてみせる――心の中でそんな誓いを立てながら、僕はコンキリエ枢機卿様に導かれ、教会に足を踏み入れた。

 

 

 やーれやれ、一時はどうなることかと思うたが、何とか無事にことを終えることができたわい。

 デキスギイルの奴がえらい張り切ってくれたのが、すごいよかった。方々に手紙や使いを出しまくった結果、アストン伯の資金ルートは完全にブロックされ、彼は買収を断念。競売は我の一人舞台と相成った。

 その結果、むふふ、二万二千エキューという安値で、見事女神の杵亭をゲットすることに成功したのじゃー!

 いやはや、あの平民バンキーナが、あそこまで使えるとは思いもせなんだ。医者の奴が本気出して、奴を治してくれてマジで助かった。

 我の胃袋移植計画は――まあ、実践までいかなくてよかったわい。あんときゃノリで、ついやる気になってしまったが、やってたら間違いなく死んでたじゃろな。

 例の脳移植の逸話だって、やらかしたのは水スクウェアだったそうじゃし、ラインの我じゃ無理無駄無謀。あの場の空気の重さと、苛立ちが産んだ気の迷いじゃ。いや、ホントに人間、とち狂うと怖いわい。

 とにかく、万事無事に終わった――デキスギイルは帰ったし、女神の杵亭の株は金庫の中。あとは、オーナーとして利益が上がってくるのを待つもよし、戦争を前にしたトリステイン王国に、適正価格――五万エキューくらいかの――で、売り払うもよし。

 どちらにせよ、大儲け確定じゃー。のじゃはははー!

……と、ワインを飲みながら馬鹿笑いしていると、シザーリアが無表情で近づいてきた。

「ヴァイオラ様。トリステインから、早馬で伝言が届きました。発信者は、女神の杵亭支配人、リチャード・ラミィ様です」

「ふむ? どしたんじゃ、つい先週、奴とは挨拶を済ませたばかりじゃろ。利益報告にしても、早過ぎるし……」

「はい、なんでも、女神の杵亭が全焼したそうです」

 ……ぱーどぅん?

「女神の杵亭、全焼です。なんでも昨日、いきなり傭兵の集団が表玄関からなだれ込んできて、客を襲い始めたのだそうです。

 しかも土メイジも襲撃に関わっていたらしく、三十メイル級の大ゴーレムが、壁面を激しく殴打し、柱が折れ、ベランダが粉砕。

 その後、厨房の油を一階にばらまかれて火がつけられ……ゴーレム自体も、油をかぶったように燃え始め……火をまとったゴーレムが、ふらつきながら建物に抱き着いて、そのまま一緒に倒壊。今では、女神の杵亭があった場所には、瓦礫しか残っていないそうです。運よく、死人は出なかったそうですが」

「……………………」

「再建するとなると、見積では、三万エキューが必要だと……」

「…………ベッドの用意を」

 我はそうとだけ命じると、テーブルに突っ伏した。

 今ぐらいは我……ふて寝してもええよな……?

 


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