コンキリエ枢機卿の優雅な生活   作:琥珀堂

5 / 24
ロマリアから来た良心と、ロマリアに棲む悪意

 存分に再会を喜び合ったのち、我と兄様は同じテーブルで朝食を摂ることにした。

 王宮のメイドたちが、テーブルの上に皿を並べて準備をしてくれる。白パンの盛られたバスケット、小牛のポワレ、生ハムの盛り合わせ、チキンのロースト、キャビアの添えられた半熟卵、きのこのポタージュスープ、鴨肉とピスタチオのパテ、白身魚と海老のミルフィーユ仕立て、鱒のマリネ、野菜のテリーヌ、ハシバミ草とムラサキヨモギのサラダ、ズッキーニのフリット、デザートには桃のシャーベットにコーヒークリームのタルト、焼プリンにクレープシュゼットにクックベリーパイ……って多い多い多い。

 こういう量は魔法学院とかで、食べ盛りの学生どもに出してやらんかい。こんまいふたりにこんなにもの朝メシて。無駄の宝庫かトリステイン。

 ……まあ、出された以上は食うが。

 やらかい白パンをちぎって、ポワレのソースをつけて、口の中に放り込む。

 よう染み込んだ旨味を楽しみながら、我は兄様に話しかけた。

「しかし……またちょいと痩せましたかの、ミスタ?」

 フォークとナイフを握る彼の手は、骨に、潤いのない皮をかぶせただけのような……見ているだけで、なんとも心配になる細さをしておった。

 頬もひどくこけていて、口に入れた食べ物を咀嚼する様子が、頬肉を透かして見えるのではないかとすら思ってしまう。

「以前、ミスにお目にかかってから、もう五年近く経っておりますからな。あの頃に比べれば、確かに少し痩せましたか。

 なに、長い年月のもたらす変化としては、微々たるものです」

 兄様は、何でもないことのように言うが……嘘じゃ。

 あなたの変化は、年月だけがもたらしたものと言うには、あまりにも激しい。

 我と、二十近くも年の違う兄様。しかしそれでも、実年齢はせいぜい四十四、五歳のはずじゃ。なのに、その外見は、あまりにも老け過ぎておった。

 髪もヒゲも白くなり、顔中にシワが刻まれた。目は落ち窪み、下まぶたには青黒い隈もできておるな。あなたを知らない人に、あなたの姿を見せてみるがよろしい。きっと七、八十歳くらいであろうと言うてくれるわ。

「王宮でのお仕事は、やはり大変ですかえ」

 この問いへの返事は、我も見慣れておる苦笑じゃった。ただし、疲れを隠しきれない、少しだけ悲しくなる苦笑。

「ええ。国政という大事に、わずかとはいえ関わらせて頂いておりますからな。その名誉に釣り合うだけの責任は、やはりついてくるものです」

 これも嘘じゃ。

 トリステインの現王家が、それを支えているとされる宮廷貴族たちが、お飾り程度の価値しかない無能じゃということは、遠いロマリアにおった我にさえ聞こえておることじゃぞ?

 前王崩御後、王妃は喪に服し続けることを選び、冠を戴かんかった。王女は幼く、国を継げるほど完成しておらぬ。結局、王位が空位のままで続いておるこの国を、潰れぬように支えておるのは……あなたじゃろう、兄様……宰相、マザリーニ。

 そう、この兄様は、ほとんど独りで一国家を支えておられる。トリステインという国を心から愛し、そこに住む人々のために尽力しておられる。

 それこそ、命を削る覚悟で――いや、これはたとえとは言えんな。実際に兄様は、命を削っておる。その結果が、年齢に似合わず年老いたその肉体じゃ。

 兄様の周りに……トリステインに、ちょいと忠義のある奴や、ちょいと有能な奴がおったらば、彼もこんなにはならなんだろう。

 しかし、悲しいまでにろくなのがおらんのが現状らしい。宮廷貴族どもの忠誠は、利権を確保するためだけのおべっかに過ぎぬようじゃし(これ自体は、何も問題はない。むしろ、利権を手に入れようと考える奴の方が、金をかき集められるし、他者とのパイプも上手く作れるから、国のためには役に立つ。いかんのは、利権を持ってそうな奴についていくだけで、利権の一部を自分の口に放り込んでくれんかとボーッとしとる奴じゃ。つまりこの国の宮廷貴族どもじゃな)、わずかな使える連中は、外国人の兄様を快く思うとらんから、あまり協力してくれん。

 ヴァリエール公爵などが、その例じゃ。彼の政治手腕は、その領地の栄えっぷりと、彼自身の資産を調べりゃようわかる。公爵という地位に、おんぶに抱っこというだけでは、まず有り得ん金持ちじゃ。

 だがこやつときたら、基本的に自分の領地にこもりっきりじゃし、ものっすごいわかりやすいアンチ・マザリーニ派らしい。アホな姫様をそそのかして、トリステインを乗っ取ろうとしとるんじゃないかとか、半分くらい本気で考えとるフシがある。

 ……まあ、最近の政策で、王家の血を引く唯一の後継ぎ、アンリエッタ姫をゲルマニアに嫁がせる作戦を立てて実行したのが、兄様らしいから……兄様への嫌悪感と敵意は、トリステインへのマジモンの忠義と評価することもできるんじゃが、それでもつくづくもったいない公爵よ。

 王宮内では四面楚歌。しかし有能で、彼無しでは国が回らんから、とにかくこき使われはする。それが兄様の立場じゃ。

 そこに、責任はあれど、名誉なんてものはない。

 兄様のいうことは、嘘っぱちじゃ。

「疲れておるようじゃが、ちゃんと休んでおられるか? 仕事から離れて、ゆっくりする時間などは……?」

「もうすぐ、アンリエッタ姫様と、ゲルマニアのアルブレヒト三世閣下との結婚が成ります。そうすれば、神聖アルビオン共和国を名乗る逆賊どもに対し、強力な牽制となるでしょう。

 今は、トリステインにとって、非常に大切な時なのですよ、ミス。それまでは、寝る間すら惜しいと言わざるを得ませんな。

 なに、ご心配には及びませぬ。ことがうまく片付けば、一月ほど休暇を取って、ゆっくりするつもりです。さすがの私も、健康は大事と思っておりますのでね」

 その言葉も嘘じゃな兄様。もうとっくに、寝る間なんぞ犠牲にしとるんじゃろうが。

 目が軽くしぱしぱしとるし、体の中の水の循環もよろしくない。水メイジ舐めんなや。昨日何時間寝たか言うてみい。……なんて、口に出しては聞けないのが寂しい。

 あ、でも、そんな忙しい時なのに、我との食事の時間を作ってくれたのは、素直に嬉しいのぅ。えへへ。

「……休暇の時は、ぜひ帰省なされ。今度は我が、あなたを食事に招待したいので、の」

 今、このテーブルに乗っているより美味く、多く、高価な料理を。

 メシの美味さなら、ロマリアはトリステインに負けんぞ。子羊背肉のソテー・りんごソースかけをメインにしたコースを振る舞おう。

 前菜はトマトとモッツァレラチーズのサラダ。肩コリが治って、シワだらけの肌にハリが戻るぞ。次に、唐辛子をきかせた、ついついクセになる旨さのスパゲティーニ。骨とか丈夫になって、虫歯も完治するぞ。メインの子羊背肉は、内臓の疲れた人にオススメじゃ。ハラワタが爆発するかのような美味さのおかげで、便秘も腹痛も笑ってサヨナラできるんじゃ!

(※注……すべての効能は、シェフの水メイジの使う魔法によるものです。通常のロマリア料理に、そんな作用はありません)

「ええ、ぜひに……楽しみにさせて頂きますよ、ミス・コンキリエ」

 わーい。兄様と、また一緒にお食事フラグが立ったのじゃー。

 こんな約束が取り決められた以上は、さっさとアンリエッタ姫とアルブレヒト三世には結婚してもらわねば。

 ふたりのあからさまな政略結婚的な仲を、ロマリア聖マリオ教会枢機卿ヴァイオラ・マリアは応援しています! 結婚する若人どもを、ここまで祝福したのは、聖職について以来初めてかも知れん(普段は行き遅れ代表として、リア充死ねと叫んでおる)。

「それで、あなたの近況はいかがですか、ミス?」

 食い終わった生ハムの皿を下げさせていると、今度は兄様が聞いてきた。

「ん? 我の近況……ですかや」

「ええ。私がロマリアを去った後、先生の……お父上の事業を引き継ぎなさったのでしょう。会社自体が順調なことは、市場の動きを見て知っておりますが、何かご不便はありませんかな」

「にしし、大丈夫、うまくやっとりますわぃ。目を離しさえしなければ、『セブン・シスターズ』は、実に親孝行な子供達ですゆえにな」

 ニカリと笑って、爽やかな酸味のタルブワインで喉を潤す。

 我がコンキリエ家は、その資産のほとんどを、『セブン・シスターズ』と呼ばれる七つの会社の利益から得ておる。

 これが何の会社かっつーと、全部、風石の採掘、流通を扱う、グローバルカンパニー……つまりは、風石メジャーと呼ばれるものなのじゃ。

 ハルケギニアにおいて、最も生活に役立っている天然資源は何かと言われたら、おそらく多くの人が、風石と答えるじゃろう。

 風石。それは風の精霊の力を秘めた、なんかプカプカ浮かぶ石。これをフネに積め込めば、フネを浮かせることもできる。乗っている荷物や人も、一緒にじゃ。

 その利便性は計り知れぬ。風竜でも運び切れぬ大量のモノ・ヒトを空輸可能で、しかも誰が使おうとその性能は変わらん。流通において、そのことがどれだけ有利に働くかは、説明するまでもないじゃろう。

 また、軍用としても大いに需要がある。現代の軍艦は、そのほぼ全てが空を飛ぶ仕様じゃ。ガリアの両用艦隊などは見事なアイデアじゃが、あれとて風石なしでは、海でしか活躍できぬ。つまり、風石は国力そのものを支える、重要なファクターであるのじゃ。

 我がコンキリエ家は、その風石を扱うことで財を成した。

 その歴史は、それほど長くはない。七十年ほど前、我が祖父にあたるアントウニオ・コンキリエという人物が、アウソーニャ半島の西に位置する、サルディニアっつう島に土地を買うたことが始まりじゃったそうな。

 彼は土のスクウェアメイジじゃったが、とにかく土を掘ることが好きじゃった。サルディニアでも、「この土地で金鉱を掘り当てて、一儲けしてやる!」とかアホなこと言うて、とにかく朝から晩まで、掘りに掘って掘りまくっとったそうじゃ。

 で、結果として、一儲けでは済まんものを掘り当ててもうた。

 地下七百メイルという超深度に埋蔵されていた、巨大な風石鉱脈。それは、今までハルケギニアで見つかっとった、あらゆる鉱脈を凌ぐ大きさじゃった。

 土のスクウェアで、しかも土を掘ることばかりに情熱を傾けた変態でもなければ、まず発見できなかったシロモノじゃったそうな(実際、深度七百メイルというのは、人類の掘削深度記録ナンバーワンらしい)。

 その鉱脈は、アントウニオに莫大な財産をもたらした。その金で、彼はシチリア島という場所に土地を買い……そこでまた穴を掘り、金鉱探しを始めた。

本人曰く、「風石鉱脈はいい資金源になってくれた。だが風石は黄金じゃねえ。俺が求めるのはあくまで金鉱! 金鉱探しこそ男の浪漫!」だそうじゃ。アホス。

 で、シチリア島での穴掘りの結果、地下六百五十メイルから、またクソでかい風石鉱脈が出てきた。

 アントウニオはさらに資産を増やし、その金で今度はカプリ島というところに土地を買い以下略。まあ、なんつーか、祖父は凄まじいまでに風石に好かれていた男であったらしくての、七つの土地で同じように穴掘って、そのたびにどでかい風石鉱脈を掘り当てまくったのじゃ。

 そのあまりの当たりっぷりに、アントウニオは「もしかしてこの鉱脈、ハルケギニアの地下全体に広がってるんじゃね?」とのたまったそうじゃが、ま、さすがにそれはあるまい。

 結局、力衰えて引退するまで、金鉱は見つけられなかったが、それでも、十代ぐらい先の子孫まで遊んで暮らせるだけの金を作ることには成功した。

 さて、アントウニオの掘り出した資源は、確かに莫大な財産を産んだが、彼は残念ながら、それを増やすことを考えるほど、オツムはよくなかった。

ただ穴を掘って、金鉱を探せればいいという人だったので、放っとけば鉱脈の採掘権を適当な誰かに売っぱらって、二代か三代を食わせる程度の財産だけを持って満足してしまう可能性すらあった。

 それを阻止したのが、アントウニオの息子であり、我の父様である、セバスティアンじゃった。

 父様は、土と水の二系統を操ることができる多才なメイジじゃったが、ランクはラインどまりで、圧倒的なパワーが必要な、アントウニオの穴掘り仕事を手伝うことはできなんだ。

 その代わり、彼はすでにある風石鉱脈の経営に着手した。算術と経営学を学び、それに則って明確な経営方針を打ち立て、適当に風石を採って売るだけのザル商売を改革した。

 まず、親戚や友人の中から、使える奴らをかき集めた。人の動かし方を心得ている奴を、金を扱い慣れている奴を、そして何より、信用できる奴を。

 集めた者たちに部下をつけ、仕事を割り振り、それだけで会社の体裁は整った。父様が作ろうとしたのは、風石の採掘、保管、売買、輸送まで、全てをこなす多機能企業じゃった。それはいともあっさり出来上がり、完璧に機能してみせた。

 ひとつの風石鉱脈につき、ひとつの会社を設立。サルディニアには、スタンダード・ウインドストーン・オブ・サルディニア社を、シチリアには、ロイヤル・ダッチ・シシリー社を。カプリにはモーガン社、レッツェにはソーシャル社、ボロニアにはブリティッシュ風石社、モデナにはテキスト社、パエストゥムにはエクソニア社を置いた。それらは全て、別々の社長によって運営されており、企業国籍もバラバラではあったが……七人の社長が、全員セバスティアンの傀儡であり、利益を全てセバスティアンのもとに捧げていた、という点で、完全に一致しておった。

 ロマリア風石を独占する七つの会社は、やがてセブン・シスターズ(七人の魔女)と呼ばれるようになり、この名はすぐに、国際風石資本の代名詞として使われるようになった。

 現在、全世界の風石シェアの八十パーセントを、セブン・シスターズが獲得しておる。アルビオンは自身の国土から、ガリアはサハラから、風石を独自に採掘しておるようじゃが、供給量ではロマリア七大鉱脈の足元にも及ばん。軍隊のために自国産の風石を使ってしまえば、民間に売り出せるのは雀の涙じゃろう。

 結局、世界の風石のほぼ全てを、セブン・シスターズが……その背後のコンキリエ家が握っている、と言って、過言ではないわけじゃ。

 我が生まれた頃には、セバスティアンの操作する風石マネーによって、我が家の銀行口座は偉いことになっとった。百代先の子孫まで遊ばせられる資産というのは、正直ピンと来ぬものじゃ。

 我はものごころついた頃から、父様の薫陶を受けて育ったが、ある日いきなり七大会社全ての経営を任せる、とか言われても、やっぱりピンと来んかった。

 ……あんのクソ親父め……何が「ロバ・アル・カリイエがどんな土地なのか見てみたい」じゃ。そんな、適当な一言だけ残されて旅立たれた娘の気持ちも考えんか。しかも母上まで連れていきくさって……やっぱあれか。アントウニオの血を継ぐ父様も、やっぱアホスな人じゃったんか。

 ともかく、我はやった。金を操る力の強大さは、父様から耳にタコができるほど聞かされておった。その力の使い方も、力のさらなる増やし方も。アホスパパンの教えを参考に、動かせるだけ動かしてみたのじゃ。

 聖職につき、顔が広がると、金を集める方法も広がった。出世のためにたくさんの賄賂も贈ったが、それに見合う結果が常に返ってきた。

 我は現在、セブン・シスターズの他に、世界中に五十以上の会社を持っておる。出資しておる会社はその十倍。どれもが黒字じゃ。

 コンキリエ家の資産額も、父様が去っていった頃よりはじんわり増えておる。動産だけで、約六十億エキュー。採掘可能な風石の規模を考えると、この数万倍は固い。クルデンホルフとも協力関係を結んでおり、ハルケギニア金融界の裏側を、ちょちょいと掻き混ぜるくらいは朝飯前じゃ。

 兄様ひとりの力で保っとるような、死にかけのトリステインとは、比べるのも馬鹿馬鹿しい。輝きが違う輝きが。

 将来、我を射止める殿方は、世界屈指の大金持ち決定じゃ。どの国の王より贅沢な暮らしのできる、途方もない幸せ者になれようぞ。

 ――だからのう、兄様。

 こんな弱くてボロボロのトリステインなんかにかまうのはやめて。我を見てはくれぬじゃろうか?

 

 

 ……なあんて、のう。口に出して言えたらば、どれだけ楽か。

 言葉にこそせんが、我はずっと、兄様をトリステインから引き離したい、と思い続けてきた。

 十年かそこら前には、髪の毛にも普通に色があって、肉付きもよくて、精力的な若者であったはずの兄様。それが、この国に来てから劇的にビフォーアフターしてしもうた。

 たとえ老けようと兄様は兄様、我が嫌いになることは有り得んが……それでもこの変わり様、嘆かわしくはある。この国におることが、兄様のためになるとは、ケシツブひとつ分たりとも思えん。

 できることなら、無理矢理にでも引きずって帰りたい。今日ここでお会いして、その気持ちがいっそう高まった。

 やろうと思えば、兄様の強制送還は不可能ではなかろう。ブリミル教会として圧力をかけて、ロマリアへの帰還を要請ではなく、命令すればよい。何人かの枢機卿に賄賂を送れば、これは容易に実現するじゃろう。

 しかし、できぬ。やるわけにはいかぬ。

 兄様は、トリステインに恋をしておる。彼の目に映っとるのは、このしょっぽい王ナシ王国だけじゃ。

 無理に引き離して、ロマリアに戻しても、遥か彼方のこの地を思い続けるだけじゃろう。我のことを、その目に映してはくれん。

 はあ、惚れた相手がどっかの女なら、いくらでもやりようがあるのにの。何だって兄様は、こんな国が好きなんじゃか。

 ……前にちらりと、兄様はマリアンヌ王妃を恋慕しておるから、トリステインに尽くしているのだ……みたいな噂を聞いたことがあるが、まさかそんなことはあるまいな?

 もし、あるんなら躊躇せんぞ。問題の原因が明らかなら排除すべし、というセオリー・オブ・エブリシングに基づき、トリステイン王妃様に全力で暗殺者差し向けたる。『白炎』のメンヌヴィルとか、元素の兄弟とか、地下水とか、『公爵』トウゴウとかの名うての殺し屋どもを、大隊規模で送り込んでくれるぞ。大丈夫、依頼主が我じゃとバレないように雇うから!

「……ミス? ミス・コンキリエ、いかがなさいました?」

「彼の者への連絡方法は、確か賛美歌十三番を……ふえ? な、何ですと?」

「いや、マリネを非常に細かくしておられるようですので。もしかして、鱒はお気に召しませんでしたかな」

「へ?」

 って、うおお!? 言われて気付いた!

 マリアンヌ王妃への(特に確証もない)殺意で、どうも手元への注意が疎かになっておったらしく、我はたった一切れの鱒のマリネを、ナイフで切ってはまたナイフで切り、それをまたナイフで切りを繰り返しまくっておったようじゃ。

 鱒の肉はもう、なんというか、切り刻まれたカケラというよりは、挽き肉とかすりおろしとか、ペースト的なそんな感じになっとった。うん、こいつはもうフォークでなく、スプーンで食いたいシロモノじゃのぅ。

「やや、や、し、失礼を致しましたのじゃ。ちょいと考えごとをしとりましてな」

 慌てて取り繕うが、取り繕い切れない程度に動揺がすごい。

 うあああ、我のスカポンタン。兄様の前でなんちゅう行儀の悪いことをー!

 ふがいなさと恥ずかしさで、顔がぽかぽかしてしまう。待て、首から上の皮膚に集結するでない我が血液! 殿方との食事の席で赤面なぞ、さらに行儀が悪いこっちゃぞ!?

 適当にごまかして、普通に食事を続ければいいだけなのに、兄様が目の前にいるというだけで、そんな簡単なこともできなくなる。

 フォークとナイフを持つ手が震え出す。目に涙が溜まり、視界がぼやける。何かしゃべろうにも、舌が上手いこと動いてくれん。

 あーもう、ほら、見れ! 兄様がじーっとこっちゃ見とる! まなじりのシワが増えて、目が細うなっとる! 我のあまりのぶざまっぷりに呆れとるのじゃ! 大好きな兄様に呆れられてもた! うわあああん駄目じゃああぁぁ我のこと嫌いにならないで兄様あああぁぁぁ!

 心の中で大瀑布さながらに泣きながら、許しを請うように涙の浮かんだ目で兄様を見つめる。そのまま、何も動かない時間が過ぎる……おそらく数秒程度じゃったろうが、おたおたしておった我には数時間にも感じた。

 そんな居心地の悪い時間は、兄様が動いたことで終わりを告げた。

 彼はまず、口元を優しく綻ばせて、なぜか、自分の前にあった手付かずのマリネの皿を、こちらに差し出したのじゃ。

「ミス・コンキリエ、プレートを取り替えて頂けませぬか。その鱒の方が、その――少々――私には食べやすそうに見受けられますのでね」

 はい、すごいわかりやすい気遣いが来たのじゃ!

この兄様らしい優しさ、嫌われたわけでないことがわかって嬉しいんじゃけど、情けなさが身にズガンとしみて、つらさは三割増じゃぞ!?

 し、しかしせっかくのフォロー、無駄にするわけには……我は力の入らん手で、かろうじて皿の交換を行い、食事を再開した。

 うえーん、我のマジ大馬鹿野郎〜。せっかく兄様と会えたその時に、何故わざわざかっちょ悪い姿を見せるんじゃ〜!

 普段のカリスマと知性に満ちあふれた、セレブな才媛そのものの我を見せつけられれば、きっと兄様もメロメロになって、トリステインなんぞおっぽり出して、ロマリアに帰りつつゴールインしてくれるじゃろなーうへへへ、とか、考えとったのにー。これじゃトリステインから、兄様の心を引っぺがすことすら、夢のまた夢じゃー。

 ちくしょう、どちくしょー……鱒のマリネ美味いぃー……。

 

 

 私は――トリステイン王国宰相マザリーニは、久方ぶりの心の平穏を感じていた。

 生き馬の目を抜くようなトリステイン政界で、宮廷貴族たちとの政治闘争に明け暮れる毎日。最近は、アンリエッタ姫のお越し入れという大事に携わり、ほとんど眠れぬ日々が続いていた。

 辛くない、とは言わない。だが、私のしていることは、トリステインのために絶対に必要なことなのだ。政務を滞らせては国が維持できぬ。姫殿下の婚姻も、成されなくては国の安全が確保できない。どんなに苦しくても、どれだけ敵を作ろうとも、やらなくてはならない。仕事というよりは、むしろ使命であると考えて、ただひたすらに取り組んでいた。

 これは孤独な戦いだ。この国において、私が本当に信頼できる仲間には、いまだ出会えていない。一時期はワルド子爵という、非常に優れた若者を見いだしたと思ったが、結局彼はあんなことになってしまった。アンリエッタ姫殿下は、私のことを信用して下さっている。私も、殿下には絶対の忠誠を誓っているつもりだ。しかし……あのお方は、こちらが頼るにはまだ未成熟。私がゲルマニア皇帝との縁談を取り纏めて以来、私への反感も育っているようだ。望まぬ結婚を強制したのだ、私を恨むのも当然だと思うし、申し訳ないとも思う。だが、政治に携わる者として、情に流されることは禁物だ。

 そう、政界というのは無情の世界。善も悪も、暖かみも冷たさもない。ただただ、理に適うことだけをせねばならない。国全体のバランスを鑑み、時には冷酷な決断も下さねばならないのだ。

 そんな、鋼ゴーレムのような無機質な精神でもってしか立ち向かえない戦場に、ずっと立ち続けていた私の心は、いつしかそれに慣れ、凝り固まっていたのかも知れない。

 この子と……コンキリエ枢機卿ヴァイオラ・マリアと再会して、本当に私は疲れていたのだな、と実感した。

 彼女は、私がロマリアにいた頃に師事していた、経済学者セバスティアン・コンキリエ殿のご息女で、当時から私を兄様と呼び、たいそう懐いてくれたものだ。

 私がロマリアを去って以来、会うのは数年ぶりのことだったが、今でも彼女は私を兄様と呼んでくれる。

 昔から思っていたが、彼女はあまり変化しない。十歳頃で成長が止まってしまったかのように小柄で、顔立ちも幼い。

 そしてなにより、人間が変わらない。セブン・シスターズの頂点に立ち、世界経済に大きな影響力を持っており、なおかつブリミル教会の枢機卿という地位をも得ている、まさに怪物とでも呼ぶべき才媛であるにも関わらず……性格は昔の、純粋無垢なヴァイオラのままだ。

 よく笑い、よく動き、ダイレクトに好意を示してくれる。時には頬を膨らまし、無作法をして怒られそうな気配を察すると、不安に震えて赤面し、涙目になる。

 昔と変わらぬ彼女と一緒に食事をし、話していると、ロマリアにいた過去に戻ったような気がしてしまう。私がまだ若く、何の悩みもなかったあの頃に。

 それは、心が若返るような、不思議な感覚だった。安心感に自然と頬が緩み、気持ちが穏やかになった。ほんのわずかな時間とはいえ、国も仕事も忘れ、ただくつろぐことの、なんと心地よいことか!

 癒されるとは、まさにこういうことだろう。人は疲れている時、肉体に漠然とした不快感しか感じぬものだ。しかし、肩を回し、首筋を揉み、凝っている部分をほぐした時に、その気持ち良さ、疲れが取れた瞬間の爽快さで、自分がどれだけ疲れを溜めていたのかを推し量る。

 今の私が感じている開放感からすると、やはりそれなりのストレスを溜め込んでいたのだろう。仕事をしている最中は、まだやれる、もう少しいける、と、自分に言い聞かせていたのだが……やれやれ、確かにこれではシワも増えような。

 ヴァイオラと交換した鱒のマリネを口に運びながら(まさかマリネをスプーンで食べる日が来るとは思わなかった)、自分の生活を反省する。これは社交辞令ではなく、本当に近いうちに休暇を取って、心も体もしっかり休めた方がいいかも知れない。

 やがて食事を終え、食後のコーヒーが運ばれてくると、このくつろぎの時間も残りわずかだと気付き、寂しい気持ちになる。

 私が、ロマリアから訪ねてきたヴァイオラのために確保できた時間は、たったの一時間、この朝食の間だけだった。あとには、すぐに会議の予定が入っている。その会議が終われば、溜まっている書類を片付け、財務卿と打ち合わせをして、それからゲルマニアに使者を送り――。

 ……いかんいかん。また仕事のことを考えている。せっかくの落ち着ける時間なのだ、そういうものは、考えから追い出しておかねば。

 ひとたび仕事のことを思い出すと、急にまた、疲れが肩にのしかかってきたような気がしてきた。

できれば彼女には、責任の重い仕事も平気でこなせる、元気で力強い兄だと思っていてもらいたい。だから、疲れを帯びた表情は、なるべく見せたくないものだ。

 不快感のある肩の筋を伸ばそうと、軽く首を傾げる。人との会食中につき、礼を失さない程度に、さりげなく。

 しかし、意に反して、ゴキゴキゴキッ、という、ものすごい音をさせてしまった。

 ヴァイオラが、目を丸くして私を見ている。

 今度はこちらが、赤面をしなければならないようだ……まったく、自分の体のことなど、自分ではわからぬものなのだなぁ……。

 

 

 まさか兄様が、この細い体で、あの大量の朝食をお残しナシに食べ切るとは思わなんだ。

 我なんぞ、半分くらいでお腹ぽんぽんになってしもうたというに……やっぱワーカホリックは体が資本、しっかり栄養摂らんとやってられん、っちゅうことじゃろか。

 見た目はかなり干からび気味じゃけど……中身は案外健康だったりするんかのう?

 ――そんなことを思いながら、食後のコーヒーを楽しんでいた時、事件は起きた。

 矢を三本束ねて、一気にへし折ったような音がしたんじゃ。

 音源は、隠しようもなく兄様。首を傾げかけたような、不自然な姿勢で硬直しとるゆえ、言い逃れの余地はゼロじゃ。

「ミスタ。今の音は」

「……寝過ぎで、少々肩の筋が固まってしまっていたようですな」

 異議あり! ならばなぜ、じんわり視線を逸らすのじゃ?

 くっくっく、やってもうたのう兄様……。

 さんざん余裕ぶってみせたようじゃが、化けの皮が剥がれるとはこのことよ。やはり、お疲れちゃんの肩凝りさんなのじゃな〜?

 となると、兄の身をいたわる妹としては、やることはひとつよ。

「ふ、ふ、ふ。ミスタ、あなたも迂闊な人よのう。自分が疲れてない、元気いっぱいじゃと、我に思い込ませたかったのかや?」

 椅子からぴょんと飛び降り、とことこと兄様に近付く。

「残念ながら、そりゃあ無理というものじゃよ〜。我は顔だけ見て、人の内面を読み取れるほど観察力に優れてはおらぬが……さすがにまともに寝とらん奴と、たっぷり寝た奴の見分けぐらいはつくとも」

 ニヤニヤ笑いを浮かべながら、兄様の後ろに回り込む。こちらを振り向こうとして、また首筋をゴキゴキ言わせる彼は、もう語るに落ち過ぎて可愛いにもほどがある。

「どうせあれじゃろ。ミスタ……ああもうめんどい、兄様のことじゃから、トリステイン王国の宰相として、他国人に弱みは見せられんとか、そーゆー理由で強がっとったんじゃろ?

 いかんなぁそれはいかん。確かに我はロマリア人で、ブリミル教会の枢機卿じゃから、トリステインとしちゃあ、ちょっとした賓客扱いせにゃならんのじゃろが……兄様とふたりだけの時は、私は兄様の妹に過ぎぬ。

 変な気を使わず、素の兄様のままでよろしいのじゃぞ?」

 兄様の背後に立ち、その両肩に手を乗せる。うん、うっすい肩じゃー。肉より骨が目立ちまくりじゃの。

「じゃからな、兄様や。今から我が、あなたの妹として、ちょいと労ってくれようぞ。

 なぁに、昔はようしてやっとったことをするだけじゃ、大人しくされるがままになっておくがいいわ」

「昔、よくしていた……? ま、まさかっ、あれをするつもりかね、ヴァイオ……ミス・コンキリエ!?

 ま、待て、どうか考え直してくれ! ここは王宮、もし誰かに見られたら!」

「にははは、かまうものかい。兄様、ご存知ないのですかや? 年上からのスキンシップを、年下は拒めるが……年下からのスキンシップを拒む権利など、年上にはありませんのじゃ〜♪」

 慌てる兄様をからかうように囁きながら、我は兄様の肩に置いた手に、そっと力を込めたのじゃ……。

 

 

「とん、たん、とん、たん、とん、たん、たん〜っじゃ〜」

 私の後ろで、ヴァイオラが妙な調子で楽しげに歌っている。

 そして、その調子に合わせて、私の肩の上で上下する小さな握りこぶし。

 肩たたきである。

 小さいお子さんでもできる、最も一般的な親孝行の代名詞。ロマリアにいた時、ヴァイオラがご両親にしてあげていたのを、私はよく目にしていた。

 長い時間勉強をして、ちょっと疲れた気分になっていると、どこからともなく彼女が現れ、『肩たたきはいらんかえ〜』などと言って、いかにもやりたそうに目を輝かせてこちらを見るので、私も何度かお願いしたことがある。

 懐かしいし、微笑ましいが……今、この場でやるには、少々場違いな気がしてしまう。

 お互いに、別々の国の要人と言っていい立場なのだ。彼女に肩たたきなどさせている姿を人に見られたら、国際問題になりかねない。一国の王が、もう一国の王のズボンについていた泥汚れを払ってやっただけで、それが両国間の力関係を表していると見なされるのが、政治の世界なのだ。

……いや、正直、肩たたきされるのは気持ち良い。小さな手で、強過ぎない力で叩かれているので、加減もちょうどいい。もうしばらく、この幸せに浸っていたいが、万一のことを考えると、もうそろそろやめさせなくてはなるまい。

「ば、ヴァイオラ、ありがとう、もういいから……」

 ガチャ

「食事中にごめんなさいマザリーニ! 結婚式の詔のことで、どうしても相談したいことが……あら?」

 って、姫様ああぁぁ――っ!?

「あら。あらあら。ごめんなさいマザリーニ。せっかくの団欒を邪魔してしまったわね?」

「い、いえ姫様、これは」

「いいのいいの。何も言わないでちょうだい。全部わかってるから。……可愛いお嬢様、私はアンリエッタよ。あなたのお名前は?」

「ヴァイオラと申しますです、姫殿下。お会いできて光栄ですのじゃ」

「まあ! ちゃんと挨拶もできて、えらいわね〜。

 ね、ミス・ヴァイオラ。こちらの紳士は、いつもお仕事を頑張ってくれているから、とてもお疲れなの。しっかりお肩を叩いて、いたわってあげてね」

「はっ! 承りましたですじゃ!」

「ひ、姫様、」

「みなまで言わないで、マザリーニ。ええ、わかっていますから。プライベートな時間に、これ以上割り込むつもりはないわ。

 詔についての話は、また今度聞いてちょうだいね。それじゃ、失礼しますわ」

 微笑ませた口元を指先で軽く隠して、アンリエッタ様は優雅に退室なされた。

 大いに勘違いされていた気配だったが(あの方が「わかっている」と言った場合は、大抵間違っておられるのだ)、あの様子ならば、今の私とヴァイオラの持つ政治的意味合いなど理解しておられないだろう。とりあえず、目撃したのが政治に疎いあの方で助かった、といったところか。

 さあ、これ以上ややこしくなる前に、ヴァイオラに肩たたきをやめさせて……。

 バタンッ!

「失礼するぞ、マザリーニ殿! 会議の前に、お前にひとつ文句を言っておきたいことが……む?」

 ヴァリエール公爵うううぅぅぅ――っ!?

 ま、まずい、彼はアンリエッタ様とは違い、超一流の政治家! この光景の持つ重要性も、すぐさま看破されるに違いない!

「ま、マザリーニ、お前……この子はいったい……?」

「い、いやこれは」

 言い訳を必死に考えていると、ヴァイオラがさっと前に出て、公爵に綺麗なお辞儀をしてみせた。

「ヴァリエール公爵様ですな? 私、ロマリアから参りました、ヴァイオラと申しますですじゃ。どうぞお見知り置きを」

「ロマリア……? そうか、なるほど。マザリーニ殿が故郷に残してきたご家族ということかな」

「さすが公爵様、完全無欠に正解ですじゃ」

 いや、確かに広い意味では間違っていないが。両者に何か食い違いがあるような気がする。

「初めて知ったぞマザリーニ殿。しかし考えてみれば、お前も家庭を持っていてもおかしくない歳だしな……」

「い、いや、それは誤解ですぞ公しゃ、」

「お前は孤独な仕事人間かと思っていたが、いやはや、こんな風に肩たたきをしてくれる、思いやりのある家族がいるとは、なかなかの果報者ではないか。

 ミス・ヴァイオラといったかな? お父上が遠い国(トリステイン)に行ったまま帰ってこないというのは、さぞ寂しかろう」

「? はあ、確かに父は(ロバ・アル・カリイエに行ったきり)ちっとも帰ってきませぬが……(なぜこのお人が、それをご存知なのじゃろ?)。

 しかし、父はご自分の夢と目標のために旅立たれたのです。それを立派に思いこそすれ、責めることはできませぬ(あくまで対外向けのセリフであって、本心ではあのアホバカ親父のことは常にファッキンじゃがなあぁ!)」

「ぬう! なんとよく出来た娘さんだ。この男……ゲフンゲフン、ミスタ・マザリーニのことを、尊敬しておるのだね」

「(あれ? 何でいきなり兄様のことに話が飛ぶのじゃ? まあ、その問いに対する答えは決まっとる)

 はい、世界で一番、だーい好きですじゃ!」

 無邪気な笑顔でそんなことを言われると、年甲斐もなく照れてしまう。

 まったく、妹分に懐かれるのは嬉しいものだが、ヴァイオラもいい歳なのだし、家族としての親愛の情に過ぎないものを、あまりに大袈裟に言う癖は直した方がいいと思う。

 しかし、ヴァリエール公爵は、ヴァイオラの言葉に大いに感銘を……というか衝撃を受けたようで、はらはらと涙をこぼしていた。

「何といういい子だ……まるで、我が娘たちの小さい頃を見ているようだ。『おとうさまだいすきー』と言って、朝と寝る前とに必ず頬に接吻をくれた、あの無邪気な頃……あれはいい時代だった……」

 いやいや、公爵。ヴァイオラはそんな子供ではありませんから。おたくのエレオノール嬢やカトレア嬢と、ほとんど変わらん歳ですぞ?

「マザリーニ!」

 私の内心の注意など知るよしもなく、公爵は感動に赤らんだ顔で、私にそっと耳打ちした。

「私はお前のことを誤解していたようだ。娘にこんなに愛される父親が、いい奴でないわけがない。

 今度、晩餐に招待させてくれ。お前となら、美味い酒が飲めそうだ」

「は、はあ」

 ……行間を読むかぎり、ヴァイオラと公爵の話がズレにズレまくっているのは明らかだったが、私にそれを指摘する勇気はなかった。

公爵は、結局そのまま、私とヴァイオラを親子と思い込んだまま去っていった。アンリエッタ様も、きっと同じような勘違いをなさっておられるのだろう。この間違い、正すべきか正さざるべきか……。王宮内での立場を考えるなら、正さぬ方が有利だが、しかし……。

「ほれ、邪魔者は去ったぞ兄様。肩たたきの続きじゃ〜。たんとん、たんとん」

 ……何だか、もうどうでもよくなってきた。

 今はこのささやかな癒しに浸っていよう……そうしよう……。

 

 

 やがて、兄様の部下らしい文官が会議の時間の迫ったことを知らせに来て、我と兄様の密会……もとい会談の時間は終わりを告げた。

 楽しい時間はあっちゅう間に過ぎ去るもんじゃが、過ぎ去ったあとの残念っぷりは長く尾を引くものじゃ。それがわかっとるから、どーしても別れを引き延ばしたくなってしまう。

「兄様、休みが取れたら、絶対に一度は帰ってきて下さいませな。ヴァイオラはずっと、お待ちしております」

 そう言うて、我は兄様のかさかさとした頬に接吻した。

 せいぜい、二秒か三秒程度の、別れの挨拶。本当ならもっと長くくっつけていたかったが、淑女としてのマナーが、かろうじて四秒が経過する前に、我を兄様から引きはがした。

「ええ、約束しますとも。久しぶりの本格ロマリア料理を、楽しみにしておりますよ」

兄様もお返しに、我の頬に口付けて下さった。我がしたのとは違って、ほんの一瞬の、短い接吻じゃった。

 兄様が部屋を出ていく。手を振り、別れる。我と兄様の間の扉が、ぱたんと閉じられる……それでおしまい。

それから数分ほど、誰もいない応接室の中で、ぼうっとしていた。兄様の唇が触れた頬が、兄様の頬に触れた唇が、ほんのりと熱を持っていて、それが落ち着くまでに時間がかかった。

 さて…………帰ろう。

 この国での用事は、すべて済ませた。ロマリアに、我が故郷に帰って、ゆっくりしたい。

 ベルを鳴らして、使用人を呼ぶ。二件のお使いを頼んだ。まず、竜籠の手配。そしてもうひとつ、我の宿泊していたホテルに連絡して、荷物を竜籠に積み込ませるように指示した。

 本当は城の中庭に竜を呼んで、そのまま籠に乗り込みたかったが、現在城の上空は飛行禁止になっているそうで、仕方なく城門前に来てもらうことにした。

 使いを送り出して、やっと応接室を出る。あとはさっき来た道を逆に辿って、城の外に出るだけじゃ。

 途中、ふと、廊下の窓から、トリスタニアの町並みを見下ろしてみた。

 高い階層から見下ろすその街は、おもちゃの街のようじゃった。小さい積み木のような建物たち、小枝を並べたような、道や川。そしてその中で、何千という人々がうごめいている。

 兄様が愛し、より良い生活をくれてやろうと頑張っている対象――トリステイン国民たちが。

 だが、そんだけ愛されていると気付いている者が、この中にどれだけおるのじゃろうか?

 ……おらんじゃろうな、たぶん。

 兄様のことを、鳥の骨などと呼んでからかう囃し歌が流行るくらいじゃ。

 自分たちを支配する貴族階級の中で、誰が身を削るほど頑張っていて、誰が役立たずなのか。それをわかっておる奴など、きっと、いない。

 自分たちが虐げられているのか、それとも最悪から保護されているのか。それを理解しておる奴も、いない。

 民衆というのは、いつの時代も無知じゃ。

 それでいて、声ばかりでかい。愚痴を言い、文句を言う。自分らの暮らしが良くならないのは、政治家が無能だからだ、力を持った奴らが、弱い者を食い物にしているのが今の社会だ……みたいな。

 間抜けじゃ。

 政治を利用できぬ無能ほど、そういう阿呆たれたことを言う。どんな愚昧な王の下でも、どんな残酷な暴君の下でも、常に新しい富豪は生まれてきた。有能な奴はどんな環境でも適応して繁栄できるが、無能な奴は環境に振り回される。そのあげく、雨や日の光を降らす天に向かって唾を吐くのじゃ。

 平民っつうのは、そういう馬鹿がほとんどじゃ。だから我は……平民を好かん。

 貧乏で無能で、世の中を憂いておるような、頭空っぽの平民は、特に好かん。

 もちろん、貴族と平民とでは住む世界が違うし、政治というのが具体的に何をすることなのか、下々の者どもに懇切丁寧に教えてやるような仕組みも、ハルケギニアにはない。知的環境のアドバンテージに差があることも、我は否定せん。

 だが、それでものし上がってくる平民もおるのじゃから(前に使ってやった銀行屋は、平民出身の貴族じゃった)、やはり大抵の平民が、脳みそを使っておらんだけなのじゃろう。

 知れる立場におるはずの、貴族も同様……協力してあたれば、簡単に片付きそうな問題を、足を引っ張り合って難しくしとる。

 リッシュモンのように、利益で派閥の方針を操れるような、頭のいい奴がなかなかおらん(あの狸は、けっこう平気で人や国を売るが、使える使えんで言うと、文句なしに使える)。

 奴のような非凡な男が、兄様の味方をしてくれたら心強いんじゃが……いざ汚職がバレた時、兄様まで巻き添え食いそうじゃから、イマイチ薦められんのじゃよなー。

 ヴァリエール公爵やアンリエッタ姫なんぞは、噂で聞いていたより、兄様に好意的な態度をとっておったから、少しだけ安心したが、兄様の心労を消し去るには、あの二人だけの味方では足りん。

 不器用で頑固な兄様が、少ない味方とともに背負うには、この国は重過ぎる。

 何か、よほどのことがないかぎり……兄様が安心して去れるくらい、この国が急成長するみたいなことがないかぎり……兄様は、これからも己を削って、この国のために尽くし続けるじゃろう。

「……ふう」

 ため息がもれる。

 待つのは嫌いではないが、賭けをするのは嫌いじゃ。

 我は今まで、欲しいものは必ず手に入れてきた。時に買い、時に奪い、時には転がり込んでくるのを待ったりもした。

 諦めたものはない。そういう性分なのじゃ。

 教皇の地位も、ハルケギニアを統べる頂点の権力も、いつか必ず手に入れる。

 そして、それと同じくらい、兄様のことも諦めない。

 あの人も、いずれは我のパートナーとして、我の隣に立たせてみせる。

 じゃから。

 じゃからな。

 我の手の中におさまる前に、兄様を使い潰すようならば――お人よしの彼をこき使い、摩耗させ、その命を使い切らせるようなことがあったら――。

「……我が貴様を殺すぞ、トリステイン……」

 我がその名を呼んだ、目の前に広がる国は、我の手のひらでも握り潰せそうなほどに、小さく見えた。

 

 

 おまけ。

 

 

 竜籠がヴァイオラと荷物を乗せて、ロマリアへ向けて飛び立ってから数時間後。

 トリステイン王宮には、妙な噂が流れていた。

 曰く、マザリーニ枢機卿は実は子持ちであり、しかもたいそう子供に懐かれている良き父親であるらしい、と。

 その噂は、厳格で融通のきかない鼻つまみ者、と認識されていたマザリーニのイメージを、ちょっとだけ親しみやすいものに変えるという効果を発揮していたが……当のマザリーニはというと、頭を抱えていた。

(姫様か、それとも公爵のしわざか……あるいは、その両方か)

 目撃者はその二人だから、容疑者もその二人だ(給仕たちは含まない。噂はもっぱら、貴族たちの間で流れていたから)。

 どちらでも有り得た。二人とも会議の時、普段よりマザリーニに優しかったから。

 おかげで、かねてより煮詰めていた案件を通すことができたのだが……彼としては、結婚もしていないのに子供がいるという評判は、あまり歓迎できなかった。

 広がる噂をどう収束させるか。それを考えながら歩いていると、後ろからポンと肩を叩かれた。

「やあ宰相殿、聞きましたよ。幸せな家庭をお持ちのようで、羨ましいかぎりです」

 財務卿のデムリだった。ヴァイオラが無能ばかりとしたトリステイン王宮に出入りする貴族の中では、比較的仕事能力が高く、人への気遣いもできる人物で、マザリーニも彼のことは高く買っていた。

 そんなデムリですら、噂を信じていると知り、マザリーニは深いため息をついた。

「あなたもお聞きになったのですか。私に子供がいるという、あの噂を」

 そうこぼすと、デムリは魚の小骨でも喉に刺さったかのような顔をして、聞き返した。

「いや、噂というか、アンリエッタ姫殿下が、直接目撃したとおっしゃってましてね。

 子供ではなく、お孫さんと戯れていたと……違うのですか?」

「姫殿下アアアアァァァァ――――ッ!?」

 マザリーニの怒りの叫びが、王宮に響き渡った……。

 ――のちに、怒られたアンリエッタ姫は語る――「だって、見た目からして、おじいちゃんと孫以外の何者でもなかったんだもの!」

 半泣きの姫におじいちゃんと言われて……マザリーニは、深く静かに……泣いた……。

 

 

 おまけ2。

 

 

「ヴァイオラ様、こちら、火竜山脈産の極楽鳥の卵でございます。茹でて燻製にしておりますので、ワインとともにお召し上がり下さい」

「……………………」

「こちらは、ガリア産ライカ檜で作られた孫の手です。背中がかゆくて、しかしそばに誰もいない時にどうぞ」

「…………その、シザーリア」

「そうそう、土産話もたくさんございます。ガリアの山中の館に泊まった時、密室殺人事件に遭遇しましてね。その顛末など、お聞きになりたくはありませんか?」

「そ、その、あのな、シザーリア、」

 底冷えするような笑顔を浮かべたまま喋り続けるシザーリアを、なんとか遮る。

「いかがなさいました? ヴァイオラ様」

 問い返してくる彼女は、笑顔のまま目を細める。笑顔、笑顔……友情や好意の証であるはずの、笑顔……それをここまで威圧感たっぷりに作れるのじゃから、やはりこやつはただ者ではない。

「えーと、えーと、あの、そのな、」

 我は、震える舌を必死に動かして、何とかその言葉を吐き出した。

「……置いてきてゴメン、シザーリア……」

 我が、トリステイン王宮で待機させたまま、うっかり忘れて放置してきたシザーリアが帰ってきたのは……我の帰宅から、二週間後のことじゃった……。

「いいえ、お気になさらないで下さいませヴァイオラ様。おかげで貴重な体験ができましたから。

 道中、いろんな人に出会い、いろんなものを食べて、いろんな文化に触れ……オーク鬼の群れや、火竜と戦ったりして、火のスクウェアにも開眼しましたし……これも全て、ヴァイオラ様が置き去りにして下さったおかげです。むしろ私は、お礼を言いたいくらいですわ」

「し、シザーリア? セリフとは裏腹に、目が笑っとらんのじゃけど?」

「あら、そうですか? だとしたら、それはヴァイオラ様のお優しい心が、責任を感じておられるせいかも知れませんね。

 となると、形だけでも罰を受けなければ、きっと罪悪感はヴァイオラ様を苛み続けるでしょう。ああ、なんということ。メイドの身でありながら、主人に罰を下さねばならないという不敬……しかしそうしなければ、ヴァイオラ様の異常が治らないというのなら……私、あえて鬼となりましょう」

「い、いいいいや待て待て! そのりくつはおかしい!」

 芝居気たっぷりのシザーリアを止めようとするが、基本的に奴は我が制御しきれる相手ではない。少なくとも、わずかな時間しかない状況では……。

「というわけですので、ヴァイオラ様。食後のデザート、三時のおやつなど、スイーツ全般を向こう一ヶ月間、禁止させて頂きます」

「の、のじゃああああぁぁぁぁ――――っ!?」

 にっこりと、天使の笑顔で宣告するシザーリアを前に、我はマジ泣きした。スイーツ(涙)。


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。