コンキリエ枢機卿の優雅な生活   作:琥珀堂

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 これは、死と恐怖と別れに彩られた、悲劇の物語じゃ。悪霊と怨霊が跳梁跋扈し、死人が道化役としてさ迷い歩く。
 つまり、いわゆるシリアス回なのじゃ! ギャグを期待しておる軟弱者は、がっかりする準備をするがいいぞ!


幕間劇/夢

 夢。夢を見ている。

 

 

 我は、夢を見ておった。

 我の背丈が、今より二十サントほど低かった頃の夢。

 五、六歳といった年頃じゃろうか。法衣ではない、リボンやフリルのいっぱいついた、可愛らしい子供服を纏った我が、ポニーテールに結った紫色の髪をたなびかせながら、屋敷の廊下を駆け抜けていく。

 曲がり角の向こうから、使用人たちの近付いてくる気配を感じれば、柱の影に隠れてやり過ごし、また人の気配のない場所を求め、走り始める。

 そう。この「昔の我」は、逃げておったのだ。

「難儀だねえ、ヴァイオラ様は……いくら子供だからとはいえ……」

 やり過ごした使用人たちの囁きが、耳に入る。

「さすがに、もういい加減しっかりお灸をすえてさしあげないと、将来のためになりませんよ。

 もう五回目ですよ、厨房に忍び込んで、プリンを盗んでいったのは。いくらトニオさんの作るプリンが絶品だからって、ねぇ?」

「ああ、だから屋敷の者総出で、お嬢様を探しているのさ。命令を出した奥様自身も、捜索に加わっておられるからな、しっかり言って聞かせなさるおつもりだろう。

 しかし、俺にはそれより心配なことがある。お嬢様が持ってったプリン、三日前の古いやつだったんだ……。お腹を壊してなければいいんだが」

 ちょ、おま、なんでそんなの置いといたんじゃ、と小一時間問い詰めたくなったが、見つかってしまっては本末転倒なので、ぐっと言葉を飲み込んで、逃走に戻る。

 屋敷の中を右に左に、東に西に。誰にも見つかってはならぬ。使用人は何十人もおるから、とても気が抜けんし、母様はメイジじゃから、ディティクト・マジックが使える。その探知に引っ掛からぬように、神経を研ぎ澄まさねばならんかった。

 なんとなくスニーキングなスキルがめきめきレベルアップしそうな感じで、正直全然貴族的なふるまいではないが、我はそれを仕方なしと考えるくらい、母様に怒られるのが嫌じゃった。

 人間誰しも、幼い頃は母親というものを恐れるらしいが、我は特にそれが顕著じゃった。母様が怖くて怖くて、仕方がなかった。

 ――とは言っても、ガミガミとヒステリックに怒鳴り散らされるとか、しつけと称して暴力を振るわれるとか、そういったことは一切ない。抱きしめてくれるし、笑いかけてくれるし、ご本も読んでくれるし、いいことした時は褒めてくれるし、叱る時だって、我の何が悪いのかキチンと説明してくれるし……つまり、我のことを心から愛してくれている、とてもいい母様なのじゃが……それでも、我は恐怖を感じておった。

 なぜかって? それは……。

 ――ずるっ。ずるっ。

 おっと、向こうから人の気配。

 ――ずるっ。ずるっ。ぴちゃ、ぴちゃっ。

 それも、この感じは使用人なんかじゃなく……た、退避! とりあえず、窓から庭に逃げ出すのじゃ!

 ――ずるっ。ずるっ。ぴちゃ、ぴちゃっ。ひた、ひた、ひた……。

 我が窓の外に身を躍らせるのと、ほぼ同時に、その人は我のいた廊下に、姿を現した。

「ヴァ、ヴァイオラあああぁぁぁ……どどど、どこに、い、行ったのかしらあああああぁぁぁぁぁ?

 お、お説教は、まだ、お、終わってないの、よ? で、出てきて? ね? 今なら痛くしないから、優しくするから。たぶん、きっと、もしかしたら。だから、ね? ね? ね? お顔見せて? 見せてよおおおいい子だからああああ」

 自分の背丈よりも長い、波打つ暗紅色の髪を、ずるずると引きずって歩きながら、その人は調子外れの言葉をつぶやいておった。

 目は、紅い瞳が滲み出したかのように血走り、爛々と輝いておる。顔色は青白く、目の下に濃い隈ができ、まるで何日も眠っていないようじゃ。唇は、きゅっと左右の端が吊り上がり、紅い三日月を思わせる。そしてそこから、だらだらとよだれをこぼしており、それが顎を伝って床へと落ちていた。

 歳の頃は、二十半ばほど。小柄で線の細い、たいそう美しい女性なのじゃが、ヘタに美しいからこそ、異様な部分が際立ってしまっておる。

 ……コレが、その。我の母様で、名をオリヴィアと言う。

 水のスクウェアで、『怨霊』の二つ名を持つ、もと傭兵メイジ。かつては父様の護衛として勤めており、日々を一緒に過ごしておるうちに気が合い、結ばれたそうな。

 父様とは、周りが砂糖を吐きたくなるようなおしどり夫婦で、子である我に向ける愛情にも、まったく偽りがないのじゃが――とにかく、その、――見た目が、なんか、怖い。

「どこ、どこにいるの? ヴァイオラ、ヴァイオラ、ヴァイオラ? で、出てきてくれないの? 私が、こんなに頼んでるのに?

 お母さん、すっごく悲しいわ。悲しくて寂しくて指先がぶるぶる震えるの。ね、ね、見て? ね、知ってるでしょ? 私が嫌ぁな気分になるとこうなるの。こ、こ、こんなに指が震えてたら……なんだか、その、いろいろと手元が狂っちゃいそう。大変だわ大変だわぁ。ヴァイオラが出てきてくれないばっかりに……うひ、いひ、うふえへいひひひひひ」

 母様はケタケタ笑いながら、手の中で杖をもてあそんでおった……その杖というのが、鋭い刃のついたごっつい手斧ときとるから、なんというか、アレじゃ。

「ヴァイオラ、ヴァイオラあぁ〜……ここかしらぁ?」

 がちゃ、と、手近な扉を開いて、中を覗き込んでおる。

「いないわねぇ……じゃあ、こっち?」

 がちゃ。

「こっちかなぁ〜?」

 がちゃ。

 そこらへんの扉を片っ端から開いて、我を探す母様。

 我は安全なところから見てるだけなのに、緊張感がものすごい。

 ――がちゃ。がちゃがちゃっ。

 やがて、母様は鍵がかかっていて、中を確かめられない扉に行き当たった。

 それは鍵孔のない扉で――つまり、中に誰かがいるということを意味した。そこに気付いた母様は、三日月型の唇を少し開き、白い歯を見せて笑うと、早速その扉をこじ開けにかかった。

 手斧型の杖を振り上げ……振り下ろす。

 ――ガッ。

 刃を扉に食い込ませ、引き抜き、また振り上げて……。

 ――ガッ。ガツッ。ドカッ! バキッ! バキバキッ!

 刃を扉に叩きつけ、叩きつけ、叩きつける。「アンロック」を使えば一発じゃのに、あえて破壊行為を選んじゃう辺りが母様クオリティじゃ。

 木屑を飛び散らせながら、笑みを浮かべて斧を振るうその姿は、凄惨の一言に尽きた。

 やがて、ぶ厚い木の扉に、人の頭ほどの大きな穴が空けられた。――ははあん、さてはこの穴から手を突っ込んで、中のロックを外すんじゃな? ――そう思ったお前は、母様に対する理解が少々足りん。

 母様がその穴に突っ込んだのは、手ではなく――顔。

 おそらく、部屋の中に誰がいるのか、血走った目をギョロギョロさせながら見回しておるのじゃろう。

 そして、怯える獲物を見いだせば、顔いっぱいに喜色を浮かべて、こう快哉をあげるのじゃ……。

「(*´∀`)<しゃああぁぁ〜いにいぃ〜んぐ」

 部屋ん中から、ぎゃああああああ、と、ものすごい悲鳴が聞こえた。

 ああ、あれはついこないだ勤め始めたばかりの、新人メイドの声じゃ……かわいそうに、トラウマにならなければよいが。

 尊い犠牲が生じてしまったが、おかげで母様の注意はそちらに向いておる。我はなるべく音を立てないように、そっとその場を離れた。

 どこへ逃げるべきか悩んだ我は、まず裏庭にある大きな池へ向かった。

 ここの岸には、一人乗りの小船がつないであった。我は、ひとりになりたい時や、何か憂鬱な気分になった時は、よくこいつに乗りに来ていたものじゃ。

 この時も、その小船に乗り込んで、ほとぼりがさめるまでじっと隠れていようと考えて……って、いかんいかん。

 よく考えたら、池には母様の使い魔であるクーがおるんじゃった。あのまま池に行っとったら、感覚共有ですぐに居場所がばれてしまうところじゃった。危ない危ない。

 クーは灰色のタコで、体長五メイルぐらいある、そりゃもうでっかい奴じゃ。

 召喚した時はもっと小さく、母様の手の平に乗ってくーくーと鳴く可愛い生き物だったそうで、「クー・リトル・リトル」と名付けたらしいんじゃけど、予想外に育ちに育って、もうまったく小さくないんで、この頃じゃ単に「クー」とだけ呼んどる。

 ……なんか、ただ成長するだけじゃのうて、人間みたいな胴体ができ、カギ爪のある手足が生え、さらに背中には、コウモリみたいな羽も生えてきとるけど……クーよ、お前ホントにタコじゃろな?

 とにかく、我は池に向かっていた足をUターンさせ、その反対にある森に向かった。

 ここも池の小船同様、我にとっての癒しスポットじゃ。オーク鬼の胴回りよりぶっとい杉や楠がたくさんあり、空気がしっとり爽やかで気持ち良い。木漏れ日の中を歩いて深呼吸をすると、とても気分が落ち着くものじゃ。

 ……そういやここは、アントウニオ爺様の使い魔であるナイア(ナイアルラトホテップという生き物だそうじゃが、そんな生き物を我は聞いたことがないし、ナイアに似た外見の生き物もまったく知らぬ。見るたびになんか形の違っとる、筆舌に尽くし難いあの生き物は、どこから召喚されたんじゃろか)のテリトリーで、我が入り込むと、嬉しそうにずりずり這い寄ってくるのじゃが……まあ、爺様なら我のことを、母様に告げ口したりはせんじゃろうし、別に良いか。

 森の入り口からちょっと入ったところに、直径二メイルほどの太さを持つ楠があり、その根本には、我がなんとか入れるぐらいの大きさのウロが、ぽっかりと口を開けておる。

 その中に潜り込んでしまえば、母様といえど、そうそう見つけることはできまいて。

 ウロの中には、楠の枯れ葉がたっぷり敷いてあるので、横になればふんわりふかふか、ひじょーに心地よい。陽の光もほとんど入ってこんし、耳に入る音といえば、枝葉が風にそよぐ音ぐらい。小さな我は自然とうとうと、眠気を誘われ、日が暮れるころまでのお昼寝を始めてしまう。

 その頃までには、母様の怒りもおさまっとるとよいのじゃが。むにゃりむにゃり。

 ……………………。

 ………………。

 …………。

「……――ィオラ。ヴァイオラ……眠っているのかい、ヴァイオラ?」

 優しい声に、我は起こされた。

 目を開ければ、辺りは血を浴びたかのように真っ赤じゃった。どうやら夕焼けの時間を迎えたらしく、傾いた赤い光がウロの入り口から差し込んで、我が寝床になっておった落ち葉も、我自身の衣服も、手も脚も、一日の終わりの色に染められておった。

 真っ赤な世界の中で、ただひとりその人だけは、別の色の中におった……我を起こしたその人は、逆光でほとんど真っ黒なシルエットにしか見えなんだが、その微笑みだけは、なぜかしっかり見ることができた。

 豊かな髪、上品な口髭。シワもシミもない、若く、力強い顔立ちの青年。その瞳は、他者を思いやる優しさと、どんな問題でも自分で解決できる知性とエネルギーとを備えているように見えた。

 父様の下で修行をしておる、才能豊かな政治家のたまご。我よりも二十近く年上の、我とよう遊んでくれる、兄様のような人。

 小さな、小さな我が、はじめて憧れを感じた、男の人。

「マザリーニ様、どうしてここに?」

「ヴァイオラの姿が見えないと、お母様が探しておられたからね。僕も手伝わせてもらったのさ。

 いろいろな場所を探して回ったが、僕もまさか、こんなところで見つかるとは思わなかったよ」

 苦笑する兄様に、我は頬を熱くした。確かに、貴族の娘が隠れるには、木のウロは少々やんちゃに過ぎるかも知れぬ。

「恥ずかしいですわ、こんな……こんなはしたない姿を、マザリーニ様に見られてしまうなんて……」

「はしたなくなんてないさ。外に出て遊ぶのは、健康的でいいことだと思うよ。

 でも、あまり遅くなるのだけはよくないからね。お母様もお待ちだし、一緒に屋敷に戻ろう?」

 お母様、という言葉を聞いて、我はちと尻込みした。

 兄様まで使って我を探しとるということは、たぶんまだほとぼりがさめとらんっちゅうこっちゃろう。このまま帰ったら、お説教プラスデザート抜きというお仕置きコースメニューが待っておるはずじゃ。

 それを思うと、少なからぬ怯えの気持ちが、ここから我を動かすまいと働きよる。

「どうしたんだい、ヴァイオラ? お母様のところに帰るのが、嫌なのかな?」

 相変わらずの穏やかな笑顔で、兄様はずばり聞いてきた。

 我はしばしためらったのち、小さく頷いた。

「き、きっとお母様は、まだお怒りのはずですわ。悪いことをしたのはわかっていますが、叱られるのが怖いのです。

 だって、あのお母様ですよ? 『怒り狂った「烈風」カリンと、恨めしそうに睨んでくる「怨霊」オリヴィア、どっちと戦いたい?』なんて、究極の選択問題のネタになってしまうようなお母様が、お怒りになっているのですよ? 今出ていったら、どんなにじめじめねっとり心の闇を突いてくるような叱り方をされるか、想像もできなくて、怖くて、怖くて……」

 目に涙を溜めて、肩を震わせる幼い我に、兄様はただ、その手を差し延べた。

「大丈夫、怖がることはないよ。僕からお母様にとりなしてあげよう。

 だから、涙を拭いて、こちらにおいで……小さなヴァイオラ」

 我にとって、兄様の言葉はいつだって信頼に足るものじゃったし、その微笑みは心を暖かくし、勇気をくれるものじゃった。

 こんな頃から、すでに我の中に、兄様への思いは芽吹いておったようで、我は怯えた顔を、恥じらいつつも嬉しそうな、たんぽぽを思わせる愛らしい笑顔に変えると(我が美しいのは昔からのことなので、この手の自己賛美表現を控えるつもりはないのじゃ)、差し出された兄様の手を握り、ウロの中から這い出そうとした。

 ……あれ? 兄様の手……なんか、手触りがおかしいぞ?

 男の人の手といえば、ごつごつしとって、肌の感じもザラついとるというか、荒いイメージがある。

 なのにこの手は、指が細く、肌がしっとり柔らかい。いい石鹸で体を洗っとる、貴族の婦人のようななめらかな手じゃ。

 妙な違和感に、顔を上げると――目を見開かずにはおられぬ怪奇現象が、ごく間近で起きておった。

「……究極の選択問題のネタになっている、ねぇ……」

 ぐじゃり、ぐじゃりと、兄様の顔が歪み、紫色に変色し、崩れ始めていた。

「心の闇を突いてくるような叱り方をする、ねえ……そんな風に、思ってたんだ……?」

 まるで腐った死体の肉が、骨から剥がれるように、顔そのものがズルリとはげ落ちる。

 我は、言葉ひとつなくその様子を見つめておった。いや、言葉など、あっても口にできなんだじゃろう。恐怖に全身が硬直し、ただ脚だけが、ガクガクブルブルと震えておった。

 兄様の顔が崩れて落ちた、その内側から現れたのは――血走った赤い目と、三日月のような弧を描いた唇。そして、ばさりと広がる、血を浴びたような暗紅色の髪。

 母様の、猟奇的な笑顔。

「マザリーニ君だと思ったあぁ?

 ざんねええぇぇん! 『フェイス・チェンジ』でしたああああぁぁぁぁ」

 の、の、のぎゃああああああぁぁぁぁぁぁ――ッ!!??

 

 

 夢。夢を見ていた。

 

 

 ――私は――アンリエッタ・ド・トリステインは、夢を見ていました。

 それは眠る時に見る夢ではなく、起きている時に見る夢。私は今までずっと、夢を見ていたのです。

 トリステインの王女として生まれ、それに相応しく育つように言い聞かされ、世間の少女たちが過ごすような、青春の日々からは遠ざけられて――自由のほとんど許されない、そんな私はまるで、鳥かごの中のカナリアのよう。

 国民の前では、笑顔で手を振り、国家トリステインの象徴として、権威の頂点についているけれど、実際に国を動かしているのは、マザリーニや宮廷貴族の皆さん。会議に出席していても、これまでお勉強を嫌々していたからか、実際的な政務のレベルが高すぎるせいか、口を挟むことすらできず、ただ座って話を聞いているだけ。本当に私はただの象徴であり、お飾りの王族。見た目と血筋のみしか価値のない、中身の有無はどうでもよい幻の女でした。

 悲劇的でしょう? 滑稽で、情けなくて、それ以上にかわいそうでしょう?

 そう、きっと私は、悲劇の悪霊に魅入られた女なのです。

 確かにこれまでの人生においても、本物の幸せを感じたことはありました。おともだちであるルイズ・フランソワーズと過ごした、無邪気な日々。ウェールズ様との出会い、そして言葉と気持ちを交わし合った、短い時間……それらはすべて、私の心の宝石であり、けっして手放すことのないもの。

 しかし、その宝石をくれた人たちを、悲劇の悪霊は奪い去っていきました。

 ルイズ・フランソワーズはまだ手元にいてくれます。でも、それは臣下として。無邪気にケンカをしたりして、対等に付き合うことは、もうできません。

 ウェールズ様は――もっと直接的に連れ去られました。『レコン・キスタ』によるアルビオンの内戦で、彼は命を落としたのです。

 私の初恋。あの甘く、華やいだ気持ちをくれたあの人は、もういません。

 それだけでも悲劇であるのに、さらなる悲劇が私を襲います。

『レコン・キスタ』の脅威からトリステインを守るため、私は同盟の材料として、野蛮なゲルマニア皇帝のもとへ嫁がねばならなくなったのです。

 時期的には、ウェールズ様を失うより、この結婚話を強制された日の方が先でした。つまり、ウェールズ様が亡くなっても生き延びても、私たちは引き裂かれる運命にあったということ。やはり、私から大事なものをことごとく奪っていこうとする、邪悪な大怪魔の存在を感じずにはいられません。

 私には、自分がこの世に生きていてよかったと感じられるだけの幸福がないのです。あったとしても、それは常に目の前で失われてきました。

 私は悲劇のヒロイン。何も知らされず、舞台に立たされ、他の役者たちの演技に驚き、恐れ、涙するだけの、道化役者。あるいは先ほど使った、鳥かごの中のカナリアというたとえでもいいでしょう。餌をもらい、生かされてはいるけれど、その運命は抗えぬ上位者の心次第。

 どうやっても運命の大渦から抜け出せない、哀れな哀れな独りの女。

 ――でも、本当にそうなの?

 私が自分の運命に疑問を感じたのは、この間のアルビオン空軍奇襲事件の時。

 あの時、トリステインは圧倒的に不利でした。敵は装備も練度も数も上回る、強力な軍隊。不意を突かれたこともあって、奇跡でも起きなければ引き分けにすら持って行けない状況でした。

 戦場に飛び出した私も、国民が蹂躙されるのを、黙って見ているのが我慢できなかっただけで、勝算があったわけではありませんでした。普通ならば、私はタルブで戦死し、トリステインは滅亡していたでしょう。

 でも、奇跡は起きました。

 最初の奇跡は、ゲルマニア空軍が意外な速さで救援に来てくれたこと。彼らの奮闘のおかげで、多くのトリステインの民が救われました。

 そして、もうひとつの奇跡。『不死鳥』を操る少年と、『虚無』に目覚めた少女。彼らのおかげで、アルビオン軍は壊滅し、トリステインは勝利を収めたのです。

 ……ルイズ・フランソワーズ。私のおともだち。疎遠になっていたこともあったけど、それでもあなたは、私のためを思って行動してくれました。

 アルビオンへの潜入任務の時も、今回も……。ただの忠誠心ではなく、本当におともだちと呼べる絆が、私たちの間にはあるのかもしれません。

 だとしたら――とても、嬉しい。

 ……ゲルマニアの人々。新興国で、始祖の血を引かない、お金さえ積めば平民でも貴族になれる、お金に汚い野蛮な連中――だと、思っていました。

 実際はどうだったでしょう? 彼らは、我々の危機に、速やかに駆け付けて、その身を呈して守ってくれました。

 操船技術、フネ同士の連携、砲撃の精度。全てアルビオン空軍に劣らず、素人の私から見ても、厳しい訓練を積んできた精鋭であることがわかりました。

 彼らは、自分の仕事に誇りを持ち、自己を高めるために日々の努力を怠らない、立派な人たちだったのです。

 そして、昨日。私はゲルマニア皇帝、アルブレヒト三世閣下を、ディナーにお招きしました。タルブ戦での協力に感謝し、その礼としての招待でした。

 これまでにも、アルブレヒト三世閣下とは、顔を合わせたことはあります。しかしそれは、外交としての婚姻をまとめるための顔合わせに過ぎず、もっぱら話をしていたのは、同席していたマザリーニでした。

 だから、それまでの閣下の印象は、鋭い目と立派な髭をお持ちの、ちょっと怖いおじ様といったところで、特にいいイメージではありません。むしろ、無理矢理結婚させられる相手、それもライバルを蹴落として王座についたという、冷酷非情な人物という評判を聞いていたので、思いっきり嫌っていたと言って差し支えないでしょうね。

 しかし、しかし――昨日、夕食の席で、初めて言葉を交わした時――閣下の印象は、どうだったでしょう。

 閣下は笑顔を見せてくれました。鉄でできているかのような、厳しい表情を崩し、王としてでなく、ひとりの人間として、私に接してくれました。

 会話は知性に溢れており、政治、経済、芸術、歴史などの幅広い分野にわたって、私のような勉強嫌いの王女では及びもつかないほどの、奥深いお話を聞かせてくれました。しかもただペダントリー豊かなだけではなく、気の利いたジョークを織り交ぜてくる洒落っけもあったのです。

 食事のマナーも完璧。逆に私の方が緊張して、ナイフを取り落としたりする失態も犯しましたが、閣下は笑って流してくれました。

 ……野蛮な連中だと、ゲルマニアの人たちを見下していた自分が恥ずかしい。彼らはいざとなれば、かのごとく紳士的にふるまえるというのに。始祖の血? トリステインの王女? そんな私自身が努力して手に入れたわけでもないステイタスでは、とても彼らには太刀打ちできそうにありません。

 閣下のことを、好きになることはまだできません。しかし、この夕食での交流で、彼への軽蔑や嫌悪の気持ちは吹き飛び、敬意がそれに取って代わりました。

 ……距離を感じていた幼なじみは、今でも私の親友でした。蔑んでいた憎らしい王様は、尊敬できる人生の先輩でした。

 敵だらけだと思っていた私の周囲には、頼れる味方がちゃんといたのです。

 よく考えれば、マザリーニやトリステイン貴族たちも、役に立たない私を陰日向に支えてくれていたのです。私は鳥かごの中に押し込められていたけれど、その外ではみんな必死に働いていました。私がもし自由であり、あれこれと政治に口を出していたら、今頃トリステインはどうなっていたかしら? ……残念だけれど、あまり愉快な想像はできなさそうね。

 結局のところ、誰もが私に不幸を押し付ける悲劇の存在自体を、私は疑い始めています。こんなにたくさん味方がいるのに、私はどうして周りが敵だらけだなどと思っていたのかしら? ただのお飾りとして扱われ、何にもさせてもらえないことを嘆いていたけど、そもそも私に何が出来るの?

 私を陥れていた、悲劇の悪霊はどこにいるの?

 ――お前の頭の中さ、アンリエッタ――。

 そんな声が、すぐそばで聞こえた気がしました。

「はあ……」

 私は、寝室の中でベッドに腰掛け、深いため息をつきました。

 寝酒にワインを口にしていたので、やや熱く感じる吐息でした。頬も火照っていますが、こちらはあながち、酒精のみのせいとは決めつけられません。

 昨日の夕食後の、アルブレヒト三世閣下との会談が、まだ尾を引いていたのです。

「プロポーズ、されてしまったのね……私」

 そう。閣下はあの時――食後の紅茶を頂いている時に、私とマザリーニとの三人だけで、内密な話がしたいと申し出てきました。

 そして、私が食堂にいた人たちを下がらせ、閣下の要望通りの、私、閣下、マザリーニの三人きりになると、彼は私の手を取り、真剣な眼差しで結婚を申し込んできたのです。

「すでに、国と国との間で婚姻の話は進められておりますが。余は公人としてではなく、ひとりの男として、直接あなたを求めたい。ぜひ、我が伴侶になって下さい」

 この言葉に、動揺しなかったといえば嘘になります。

 なぜなら、アルブレヒト三世閣下の表情が、冗談のように真剣だったから。まるで、初めて恋というものを知ったうぶな青年のように、緊張した面持ちだったのです。

 前にルイズから、ゲルマニア人は呼吸するように気楽に愛をささやく、って話を聞いたけど、閣下に関してはそれは当て嵌まらないようね。

 私はこの告白を、政治的なパフォーマンスとは受け取りませんでした。すでに私たちの結婚は、中止できないところまで話が進んでいたから、今さら私の同意を得る必要なんてまったくないし、もし政治的な意図があるなら、たくさんの人に見られた方が効果的なはずだから、人払いをする意味がないのです。

 単に、お互いの国の利益のためだけに結ばれる、誰の気持ちも関わらない、とても無機的な結婚だと思っていたのに……なぜ、皇帝閣下からは、冷静さよりも情熱を感じるのかしら?

 私は言葉に詰まり、頬を熱くしていました。まるで、閣下に握られた手から、熱が私の体に注ぎ込まれて、それが頬っぺたと心臓とに溜まってしまったみたいに。

 そう、心臓も熱く、早鐘のようにドキドキと動いて……ああ、なんてこと、こんなにも困った気持ちになったのは、生まれて初めてかも知れないわ。

 私も、閣下と同じように、恋をする子供のように――。

 ……そこで私の心に浮かんだのは、今は亡きウェールズ様のおもかげ。

 私の、本当の初恋の人の姿――もう、二度と手の届かない、愛しいあの方の笑顔――。

 ……ああ、私は、わたしは。

 私は――情のない女です。はしたない、女の風上にも置けない、口先だけしか愛を知らぬ――女です。

 ウェールズ様のことを忘れられないのに、アルブレヒト三世閣下の告白に――その情熱に、ときめいてしまうだなんて。

 私は――ウェールズ様を愛しているという資格も――アルブレヒト三世閣下に愛される価値も――どちらも持たぬ、悪い女です……。

 私がそんなことを思っていると、閣下は少し悲しそうな目をして、手を離されました。私の内心の陰りが、顔に出ていたのかも知れません。

「……もちろん、すぐにお返事が聞きたいとは申しませぬ。今までの我々の関係は、いささか事務的に過ぎましたからな。急にこんなことを言われては、さぞ戸惑われたことでしょう」

「いえ、違うのです、閣下。私は――」

「しかし、今申し上げた気持ちに、偽りはありません。これからは、どうか公と公としての交流を越えて、私と私としてのお付き合いをさせて下さい。余はあなたのことを知りたいと思っていますし、あなたにも同様に、余のことを知って頂きたいのです」

 動揺と、自己嫌悪とに心を乗っ取られた私に、頷く以外の何ができたでしょう。

 閣下は、自分の心の奥底を私に打ち明けてくれました。なのに私は、自分の心の内を、彼にさらけ出す勇気が、結局持てなかったのです。

「ああ、私は……本当に、駄目な女だわ」

 独り呟きながら、グラスにワインを注ぎ、それを一気にあおります。すでに消費した量は、ボトルの半分ほど。寝酒としては、少し多過ぎるかも知れません。

 でも、飲まずにはいられませんでした。お酒の力で、頭の中をぼやかさなければ、とても耐えられそうになかったのです。

 絡み合い、捻れ合い、互いに拮抗する二つの気持ち。

 ウェールズ様を忘れられないという気持ちと、アルブレヒト三世閣下と、未来を築いていきたいという気持ち。それらの相反する想いが、私の中で、同じ力で剣を打ち鳴らし合っているのです。

 そして、それらが戦い続けて、未だ決着が着かないという事実は、私の内心が二人の男性を天秤にかけているということを意味していて――自分の卑しい部分を自覚するのは、辛くて、情けなくて――私は、またお酒を口に入れて、何も考えなくていい状態になろうとします。

 いつか、答えは出さなくてはいけないのに。問題に向き合おうともせず、逃げ続ける――。

「悩み、苦しまなくてはならない私は、やっぱり悲劇の主人公なのかしら」

 自嘲気味にそうつぶやくと、またもグラスにワインを注ぎ……。

 ――こん、こん。

 気のせいでしょうか。窓の外から、誰かがノックをしているような音がしました。

 顔を上げ、カーテンのかかったままの窓を見やると、再び――こん、こん――と。

 やはり気のせいではありません。誰かが外にいるのです。

 私は反射的に杖を構え、その先端を窓に向けて叫びます。

「誰です!? ここが王女の寝室と知ってのことですか!?」

 夜中に、窓から訪ねてくる人間が、まっとうであるはずがありません。ノックをして、その存在をこちらに知らせている以上、害意があるのかどうかは判断に苦しむところではありますが、少なくとも王族に対する敬意と、世間一般の常識については欠如しているようです。この客を迎え入れて、もてなして差し上げる道理はありません。

 そう、受け入れてはならない、はずだったのです。

 なのに、なのに――。

「僕だよ、アンリエッタ。窓の鍵を開けておくれ」

 ――ああ、その声を聞いた途端。私の思考は、真っ白に凍りついてしまったのです。

 この声。懐かしいこの声。二度と耳にすることは叶わないと思っていた、この声。

「そんな、そんな……嘘です。あなたは――生きていないはず」

 驚愕に打ち震えながら、私は窓に近づきます。窓の外の声は、そんな私とは対称的に、落ち着いた様子で言葉を返してきました。

「アルビオンで死んだのは、僕の影武者さ。本物である僕は、あの地獄から生還したんだ。

 でも、君が信じられないのも無理はない。だから、僕が君の知る僕であるという証明をしようと思う。

 この言葉に覚えはあるかい? ――『風吹く夜に』」

「――『水の誓いを』……」

 かつて、ラグドリアン湖のほとりで語らった時に作った、私たちだけしか知らない合言葉。それを口にできるということは――。

 私は、すがるようにしてカーテンを開けました。その向こうに見えたのは、窓を挟んでバルコニーに立つ、あの懐かしい笑顔。

 永久に私の腕の中からいなくなったはずの、ウェールズ様。

 私が窓の鍵を外すと、彼は自ら窓を押し開き、部屋の中へと入ってきました。

「久しぶりだね、アンリエッタ」

 思い出と全く変わらぬ微笑みをたたえて、思い出と全く変わらぬ声で、彼は言います。

 何も変わっていない。一見、そう、見えました。

 ええ、あくまで『一見』です。水メイジである私の目は、ウェールズ様の体の中の、異常なまでに滞った水の流れに、気付いてしまったのです。

 まるで、すでに心臓の止まった肉体の中の水を、生命以外の力で無理矢理に動かしているような、ものすごく気持ちの悪い、流れ。

 正常な、というか、生きている人間には、ついぞ見たことのない流れ方です。

 これが意味していることは、即ち――。

(この方は、間違いなくウェールズ様。でも、生きているということだけは、嘘)

 そのことに気付くと、途端に悲しくなりました。そして、少しだけ嬉しくなり、更に怒りの気持ちまでもが湧いてきたのです。

 悲しみは、慕っていたウェールズ様が、やはり死んでいたと確実にわかってしまったから。嬉しさは、どんな状態であれ、再びウェールズ様と出会うことができたから。そして怒りは――今のウェールズ様が、道具として利用されているから。

 死人が、自分ひとりの力で動き回るなんて、ありえないことです。ウェールズ様を蘇らせた人が間違いなく存在しており、その人のために、ウェールズ様は行動しているのでしょう。

 死人を、まるで生きているかのように動かすなど、荒唐無稽に思えますが、ありえないではありません。死人を操る邪法は、一般的でこそありませんが実在しています。そういう記録を、どこかで見た覚えがあるのです。

 今のウェールズ様は、その邪法の主の操り人形。合言葉を知っていた以上、生前の記憶は持っているのでしょうが、心までは持っているのでしょうか。

 案の定、その生きていないウェールズ様は、私にアルビオンまで一緒に来て欲しいなどと言ってきました。普通に考えれば、まず頷けない求めです。トリステインの王女として、この国を離れることなど、できるはずがありません。

 ……でも、王女としてではなく、ひとりの女としてのアンリエッタならば、どうでしょう。

 本当に生きていなくても、このウェールズ様は、こうして私に笑いかけてくれる。お話もできるし、手を握ることも、抱擁することも、きっと、できる。

 私にしてくれることが、生きている時の彼と全く変わらないのならば、真の生命の有無など、こだわらなくてもいいのではないでしょうか?

 少なくとも『ウェールズ様を忘れられない私』は、王族としてのしがらみをすべて投げ捨てて、ただのアンリエッタとして、愛する人と逃避行をするという未来に、強烈な魅力を感じてしまっています。

 それが、ウェールズ様の死体を操る何者かの手の上で踊ることに他ならないとしても。せっかく戻ってきた愛を、再び失う恐怖を思えば、真実に目をつぶり続けるくらいは、きっとできるでしょう。

 その結果、何が起ころうとも、耐えられるはず。ゲルマニアとの同盟が破棄され、トリステインがアルビオンに滅ぼされたとしても、すべてを捨てた私には、何の関係もないと思えるでしょう。私には、悲劇の悪霊がまとわりついているんですもの、それくらいのことは起きかねないから、覚悟ができます。

 ウェールズ様が隣にいて、笑いかけてくれる。その夢を、できるだけ長く、見続けていたい。

 それが、夢見る乙女としての、私の願い。

 右手に杖を持ち、左手をこちらに差し出すウェールズ様。

「この手を取ってくれ。そして、ともにアルビオンに行こう。叛徒どもの手から、あの国を取り戻すために、君の力が必要なんだ。

 君のことは、僕が必ず守る。僕と君との間に愛がある限り、僕は君の手を離しはしない。さあ……」

 決断を迫るウェールズ様を前に、私は小さく息を飲みました。

(これは分岐点よ、アンリエッタ)

 ――ずっと思い続けてきた愛しい人の手を取り、愛以外のすべてを捨てるか。

 ――この愛を終わったものと断じて、未来を生きるか。

 どちらを選んでも、辛い決断になるでしょう……故に私は悩みます。決めかねます。どうすればいいの? 女としての自分、王女としての自分、どちらに従えばいいの?

 究極の難問に、私の思考は硬直してしまいます。

「悩むことはないよ、アンリエッタ」

 立ち尽くす私に、ウェールズ様が優しく声をかけて下さいます。

 煮え切らぬ私の気持ちに、決断を下させたのは――意外にも、操られているはずの彼の言葉だったのです。

「君がそうしたいと思うことをすればいい。君の望むことをだ。

 きっと君なら、正しい道を判断して選ぶことが出来るだろう。君はもう――子供ではないのだから」

 その言葉を発する瞬間だけ、ウェールズ様の体の中を流れる淀んだ水が、わずかに澄んだ気がしました。

 肉体は死して、心を失い、その行動の全てを操られて。しかし、それでもなお、魂の一欠けらが、彼の中に生き残っていたのだと、そう信じることは、非現実的に過ぎるでしょうか。

 でも、私にはそう思えてなりません。迷う私に、ウェールズ様が最後の力を振り絞って、道を示してくれたのだと、私は心から信じます。

 私は――私は、弱くて情けなくて、頭もけっしていいとは言えない娘だけれど――それでも、彼の気持ちに応えねばならないと、そのくらいのことは理解することができました。

「………………っ」

「ん? 何と言ったんだい、アンリエッタ?」

 ややうつむき加減に呟いた言葉を、ウェールズ様は聞き取れなかったらしく、一歩こちらに近付きます。

 私としては、聞こえなくてもよかったのです。それは、ある言葉の羅列の一部だったのですから。その文章を言い終えるまでは、聞こえなかった方がいいくらい。

 しかし、最後の一言は。こればかりは、力強く口にせねばなりません。それこそ、ウェールズ様の耳の奥にしっかり染み込んで消えないくらいに――。

 杖の先をさりげなくウェールズ様に向け、私はこう叫びました。

「ウォーター・カッター!」

 テーブルの上のワイングラスが、ぱん、と音を立ててはじけました。私の魔法で刃物に変えられたワインは、真っ赤な弧を描いてウェールズ様に迫り、彼の白い喉を、深々と切り裂いたのです。

 ウェールズ様のお体は、首に衝撃を受けた勢いそのままに吹き飛び、対面の壁に叩きつけられました。

「これが……これが、私の答えです……ウェールズ様」

 そう。私は、もう子供ではありません。

 女としてでも、王女としてでもなく。大人として、恥ずかしくない人間になりたい。

 ウェールズ様。私は、間違いなくあなたを愛していました。だから、だからこそ。

「私は、あなたを倒さねばならないのです。ここであなたへの思いに、決着をつけなければ……私は永遠に、成長できない」

 夢を見るのは、もうおしまい。

 これからは、もっと周りを見て生きていく。間違った道を拒み、正しい道を見つけて、そこを歩んでいける人間になる。

 そのために、私がまずすべきことは――私をアルビオンに拉致しようという、この茶番じみた陰謀を潰すことでしょう。

 そして、それと同時に。ウェールズ様の魂を、お救いして差し上げなければ。ええ、放っておくものですか。私の初恋をこんな風に侮辱するなど、けっして許してはおけません。

「げぼっ……がふっ、あ、んり、えったあぁ……ごほ、い、いけない、子だな、君はっ……」

 喉笛を、相当深いところまで切り裂かれたというのに、ウェールズ様は平気な顔で立ち上がりました。

 傷口から、血が流れ出ている様子はありません。ただ、真っ赤な裂け目だけが喉に走っていて、それすらも、まるで糊を塗って継ぎ合わせたかのように、みるみるうちに皮膚と皮膚とがつながって、元通りのきれいな状態に戻っていくのです。

 やはり、水メイジとしての私の目は正しかったのです。このウェールズ様は、もはや人では有り得ません。

「げふ、げっ……こうなったら、もう……君を眠らせて、連れて行くしか、ないぃ……ようだ……。

 少し痛いかも知れないが――げぼっ――恨まないでおくれよ、あ、アンリ、エッタ?」

 ウェールズ様が、杖を持った腕を振り上げます。私も急いで、杖の照準を彼に合わせました。

 まともな戦闘では、軍人としての経験があるはずのウェールズ様に、私が敵うわけがありません。幸い、彼の喉の傷は、まだ塞がりきっていない――彼がスペルを普通に唱えられるようになる前に、押し切らなければ!

「ウォーター……」

「がふっ、――エア……」

「「カッター!」」

 ほぼ同時に詠唱が完成し。それに応えた風と水が無数の刃となり、私たちしかいない部屋の中で荒れ狂ったのです――。

 ……………………。

 ………………。

 …………。

「強くなったね、アンリエッタ。君は――本当に強くなった」

 ウェールズ様の優しい声が、遠いもののように、ぼんやりと聞こえます。

 私はその声を聞きながら、がくりと膝をつきました。寝巻きは何十ヵ所もボロボロに切り裂かれ、その内側にのぞく肌には、血がにじんでいます。

 筋肉や太い血管、内臓などを傷つける大きな怪我のないことが、奇跡のような有様です。

 これもひとえに、ウェールズ様が私を殺そうとしなかったおかげでしょう。もし彼が殺すつもりで私を攻めていたなら、私など一撃で首を落とされていたはずです。

 死体を操る邪法を操る術者がアルビオンにいるのなら、私を殺して死体を持ち帰るだけでも、利用価値は充分だったでしょうに……それをしなかったのは、やはりまだ、邪法の戒めの中で、ウェールズ様のご意思が生き残っているためではないでしょうか。

 そして――そのウェールズ様のご意思があったからこそ――私は、戦いに勝つことができたのでしょう。

 痛みをこらえながら、顔を上げてウェールズ様を見ます。彼は今、部屋の壁に造り付けられた化粧台に、全身をめり込ませていました。

 全身――という言葉は、正確でないかも知れません。なぜなら、彼の下半身は上半身と別れて、ベッドの向こう側に倒れているはずですし、杖を握る右腕も切断されて、私のそばに落ちています。化粧台に叩きつけられて、動くこともできなくなっているのは、それ以外のウェールズ様の部分です。

「まさか、僕が負けるなんて思わなかったよ。それなりに鍛えていたつもりなんだが……はは、情けないな」

 彼の声からは、活力がほとんど失われていました。顔色も悪くなり、さらには、先ほど見せたおぞましいまでの回復を、もう行っていません。

 傷は傷のままで、ぽたぽたと赤黒い体液を滴らせています。そして、そこから同時に、水魔法に共通して含まれるエネルギーが、流れ出しているように感じました。

 このエネルギーこそが、ウェールズ様を自動的に回復させていた魔法のタネであり、ウェールズ様を操る邪法使いの糸であり、本来死んでいるはずのウェールズ様を動かしていた、生命線だったのでしょう。

 それが全て流れ出してしまったとしたら……ウェールズ様は――。

「アンリエッタ。僕は、もうすぐ動けなくなる。君の水魔法を受け続けたことで、『アンドバリの指輪』の死体を動かす力が、洗い流されてしまったようだ……。

 この先に待っているのは、真の死だが……僕は、助かったと思っている……死んでから敵のために働かされるなんてことは、屈辱以外のなにものでもないから、ね」

 ウェールズ様は、死にどんどん近付いていましたが、残っている生命力に反比例して、その表情には人間味が戻ってきているような気がしました。

 ウェールズ様の言っていることが事実なら、彼の魂が、邪法から解放されつつあるということなのでしょう。

 それは、とても喜ばしいこと。彼の、人としての誇りを、取り戻してあげられた。

 なのに、なぜ……私の目からは、涙が溢れているのでしょうか?

「今度こそ、お別れだね。アンリエッタ」

 ウェールズ様が、私の涙の理由を言葉にしました。

「最後まで、君には迷惑をかけ続けてしまったようだ……君を幸せにしてあげたかったのに……何もできないどころか、このていたらくだよ。

 許しておくれ、アンリエッタ……僕は、最初からいなかった方が……君のためには、よかったかも……知れない」

「そんな風に、おっしゃらないで……ウェールズ様」

 私は呼吸を整え、痛む手足をかばいながら立ち上がると、ウェールズ様の頬に触れました。

 かさかさとした、冷たい頬。どんよりとしたその目は、確かに半分死人です。

 でも、でも。残りの半分は、私の愛したウェールズ様なのです。

「ウェールズ様。私、ゲルマニア皇帝と……アルブレヒト三世様と、結婚します」

 私は、ウェールズ様の目を見て、はっきりとそう告げました。

 彼の最期に――けっして、後悔しないように。

「私は、彼を愛することができると、思います。あなたへの未練を残したまま、嫌々嫁ぐのでは、ありません。

 でも――でも、私に初めて、恋を教えてくれたのは、あなた。

 人を愛する幸せを、人生の素晴らしさを教えてくれたのは、ウェールズ様、あなたです。

 これでお別れですけれど、私、けっして、あなたのことは忘れません。それだけは、申し上げておきます」

 私の言葉に、ウェールズ様の目が、大きく見開かれました。

 そして、心底愉快そうな笑みを浮かべて、こう囁きました。

「ここに来て、よかった……そんな――立派になった、君の姿を見られたんだから。

 ああ……僕にはもう、思い残すことも、すべきこともない……。

 ただ――そうだな――あえて、言い残すなら――。

 ……幸せになってくれ、アンリエッタ……それが僕の、ゆい、ご……ん……」

 かすれ、細く消え去るように、言葉が途切れ。それきり、ウェールズ様は動かなくなりました。

 彼の体内の水は、流れることを完全にやめており、水のエネルギーもすべて失われていました。彼は、今度こそ、行ってしまったのです。私の手の届かない場所に。

 私はそれを確かめると、そっと彼の目を閉じさせ、自分も目を閉じました。

 彼の最期を看取った者として、その死を悼むために――静かに、祈りを……(ドタドタドタ)……?

 ――ガラッ!

「姫様、ご無事ですか!? 先ほど、トリスタニアで、操られていると思われるウェールズ様が目撃されたとの情報が、」

 ――ぴしゃっ。

 ……ふう、いきなり扉が開いたから、驚いて思わず閉め直してしまいました。

 一瞬、外に私のおともだちがいたような気がしましたが……きっと気のせいね。たぶんピンク色のケルプか何かでしょう。

 さ、もう少しだけ、ウェールズ様のためにお祈りを……。

 ――ガラッ!

「ちょ、どうして無言で閉めるんですか姫様!? 緊急事態なのに――っていうか、どうして姫様の寝室の扉が引き戸、」

 ――ぴしゃっ。

 はい、閉めたついでに魔法でローック。

 トライアングルがフルパワーでかけたロック、そうそう解除することはできないはずよ、ルイズ。

 最後のお別れなんだから、もうちょっとぐらい名残を惜しませてちょうだい。

 なんだかドンドンガンガンと扉が叩かれていますが、今は無視。

 ウェールズ様のためのお祈りの言葉は、百八まであるのです。せめてそれを心の中で唱えるくらいの時間は、もらってもいいじゃないですか。

 外からの呼びかけや、乱暴なノックの音を意識から外し、ただただウェールズ様の冥福を祈ります。

 やがて、祈りの言葉を三十ほど唱えた頃、ノックの音がやみました。

 急な沈黙に、不思議に思って振り向くと……扉の隙間から、不思議な光が室内に差し込んでいることに気付きました。

 そして、その直後。ルイズの、ややキレ気味の叫び声が轟いて――。

「ディスペエェ――――ルッ!!!」

 扉を外から内へ貫くような、圧倒的な魔法の光が視界に満ちて。

 その光の効果でしょうか、ロックの魔法によって維持されていた扉の留め金が弾け飛ぶのを目の当たりにしながら――私は、しみじみと思いました。

 ねえ、私のおともだち……ちょっとぐらい空気を読んでくれても、バチは当たらないんじゃないかしら?

 

 

 ――とにかく、こうして私の夢は終わりました。

 お花畑のようにふわふわとして、曖昧だった幼い夢は覚め。私は一歩、大人になったのです。

 よりよい大人になるためには、もっと勉強を頑張らなくてはいけませんが……。

 でも、もう自分の境遇をウジウジと呪ったり、くじけて立ち上がれなくなったりはしないだろうという、確たる自信は持っています。

 なぜなら私には、未来を共に歩いてくれる人がいて。さらに、忘れられない人が示してくれた、人生の喜びが胸の中にあるのですから。

 それらが私を支えてくれる限り、私がくだらない悲劇の悪霊に惑わされることはないでしょう。

 もちろん、大切なおともだちであるあなたも、私の支えのひとつですよ、ルイズ。

 だから、だからね、そんな怖い顔で私を見ないで? ね? ね?

 え、何でこっちに杖を向けるの? 私たち、おともだちでしょう? ね?

 それに私、一応トリステインの姫……ちょ、やめ、るい……アッ――!

 

 

 夢。夢を見ていなかった。

 

 

 どうも、おはようございます。ヴァイオラ様の忠実なメイドにして、皆様のそれなりに誠実な友たるシザーリア・パッケリでございます。

 今日もまたスッキリと日の出前に目覚め、ヴァイオラ様の身の回りのお世話を一から十まで過保護にこなす一日が始まります。

 メイド服を一筋の乱れもなく身につけ、自慢の髪も品よく結い上げて、仕事人としての自分を作ると、まずは本日のヴァイオラ様のお召し物を、私の独断と偏見で選びます。金糸とシルクで編まれた美しい法衣は、変にたたむとシワが取れなくなるので、お召しになる直前までクローゼットから出しません。今はまだ、選んでおくだけです。

 それから、厨房に朝食の準備ができているか確かめに行きます。今朝の献立は、トマトのパスタに白身魚のソテー、ムラサキヨモギとチーズのサラダ、あとは季節の果物のようです。サラダについては、ヴァイオラ様がお残ししないよう、しっかり見張っておく必要がありそうです。

 次に、井戸から冷たい水を汲んで、桶に溜めておきます。これはヴァイオラ様が起きてから、お顔を洗うためのものです。ふわふわのコットンタオルも、当然用意してあります。

 さて、ここまで終われば、ようやく主のご尊顔を拝見する栄誉を頂けます。陽が出てきた頃を見計らい、ヴァイオラ様を起こすため、寝室へ向かいます。

 寝室の大きな扉に、コン、コンと、社交辞令的なノックを二回。

 大抵ヴァイオラ様はまだ寝ておられるので、あまり意味はありません。返事がなくとも、平気で中にお邪魔します。

「ヴァイオラ様、おはようございます。起床のお時間で……あら」

 今日は珍しく、ベッドの上にヴァイオラ様のお姿は見られませんでした。

 すでに目覚めていた、とかではなく。この時、ヴァイオラ様は床におられたのです。

 ベッドからずり落ちたのでしょう、フカフカ羽毛の掛け布団を抱きしめて、絨毯の上に転がっておられました。右足だけをベッドに引っかけて、大層不自然で不格好なお姿です。

「うぐぐぐ〜……ぐにに、ぎぎぎ〜」

 近付いて様子をうかがいますと、眉をしかめて、歯ぎしりをして、何やら苦しんでおられるようですね。

 悪い夢でも見ているのでしょうか?

「だ、だめなのですじゃあぁ〜、かあさま〜……。

 クーの触手を、そんな風に使ってはぁ〜……うごごごごご」

 なるほど。オリヴィア奥様の夢でしたか。

 あの方は確かに、ちょっと印象に残るお方ですからね。悪い意味で。より正確にはトラウマ的な意味で。時々突発的に夢に見たとしても、何の不思議もありません。

 ……しかし、ご様子からして悪夢とはいえ。オリヴィア様の夢を見ておいでのところを、わざわざ起こすというのも、いささか情に欠ける行いではないでしょうか。

 普段お会いになれない分、夢の中でくらい甘えるのも、悪くないと思うのです。――甘えるどころか、逃げ惑っているやも知れませんが。

 とまあ、そういうわけで、私はヴァイオラ様をお起こしする仕事を中止いたしました。あくまで前述の理由によるもので、うなされるヴァイオラ様が愛らしいからという身勝手な理由ではございません。

 ヴァイオラ様の小さな体を抱え上げ、ベッドに戻して、布団をかけ直します。そして、気持ち良くお休みになられるよう、オリヴィア様から直接お聞きした、人の心を安らかにする魔法の言葉を、主の耳元でそっと囁きました。

「いあ いあ くとぅるふ」

「ひぃ!?」びくぅっ

 ……なぜか、ベッドの隅でガタガタ震えて、命乞いを始めそうな状態になってしまわれました。眠りながら。

 でもまあ、目覚める気配もありませんので、特にフォローもせず放っておくことにしましょう。

 どうぞ良い夢を、ヴァイオラ様――。

 生まれたての小鹿のように、ベッドの上でぷるぷるしている主をそのままに、私は音もなく退室します。

 さあ、厨房に、朝食を出すのを、一時間ほど遅らせるよう伝えに行きましょうか。




――その頃の、お城の外で待機していたアルビオンゾンビの皆さん――

ウェールズ様、遅いねー(´・ω・)(・ω・`)ねー。
(´・ω・)(´・ω・)?    でぃすぺーる>
(*´ω`*)(*´ω`*)ほっこり。

……こんな感じで、成仏したそうじゃ。

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