見るは夢か、絶望か   作:この世で一番素敵なものとはなんだろうか

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歓声の檻、異常の兆し

 

 

 時刻は、朝の九時を少し回った頃。

 わいわいと、今にも踊り出しそうな声々が、大通りに溢れていた。

 本来なら、多くの冒険者がダンジョンへ潜り、地上の通りから人の波が少しずつ引いていく時間帯だ。

 だが、今日に限っては違った。

 

 ここ、東のメインストリートは、普段の迷宮都市とはまるで別物の顔をしていた。

 通りの中央にも、端にも、数え切れないほどの出店が並んでいる。

 串に刺された肉が炭火の上で脂を弾かせ、じゅうじゅうと食欲を誘う音を立てていた。

 甘く焼けた菓子の香り、香辛料の混じった異国めいた匂い、湯気を上げるスープの温かさ。

 そうしたものが人々の笑い声と混ざり合い、朝の空気を一層濃くしている。

 

 通りそのものも、いつもより遥かに華やかだった。

 建物の軒先には色鮮やかな布が垂らされ、窓辺には花が飾られている。

 道の上には紐に通された小旗がいくつも渡され、風に揺れるたび、ぱたぱたと軽やかな音を鳴らした。

 

 旗に描かれているのは二種類。

 一つは、怪物を象徴する凶悪な獅子の影。

 もう一つは、【ガネーシャ・ファミリア】の紋章である象頭。

 獣人の子供が頬を赤らめ、母親の手を頻りに引いている。

 露店の前では小人族の男が値切り交渉をし、その隣では人族の若い娘たちが怪物祭にちなんだ飾りを手に取って笑っていた。

 

 人の足音までもが、普段より弾んで聞こえる。

 空の陽光は、今日という日を祝福するように明るく眩しい。

 石畳に反射した光が、通りを行き交う人々の足元を白く照らしていた。

 今や、東のメインストリートは祭り一色に染まっている。

 

「すごいね、ヘイレル……!」

 

 隣を歩くベルが、目を輝かせながら辺りを見回していた。

 

「昨日までとは別の街のようだ」

「うん! オラリオって、やっぱりすごいんだね。ダンジョンだけじゃなくて、こういうお祭りまであるなんて」

「怪物を見世物にする祭り、だがな」

 

 そう返すと、ベルは少しだけ苦笑した。

 

「それを言われると、ちょっと怖いけど……でも、みんな楽しそうだよ」

「だからこそ、妙だ」

「え?」

 

 ベルがこちらを見る。

 私は人波の先へ視線を向けた。

 通りを進む人の流れは、都市の東端にある巨大な円形闘技場へ向かっている。

 笑顔。歓声。期待。好奇心。

 その全てが、同じ方向へ吸い寄せられているように見えた。

 

 怪物とは、本来、人を襲うものだ。

 恐れられ、避けられ、討たれるべき存在。

 それを人々は、今日だけは楽しみに見に行く。

 奇妙な反転だと思った。

 

「恐怖を、楽しむ。人間とは不思議なものだな」

「ヘイレルも人間だよね……?」

「ああ……そうだったな」

「そうだったな、って……」

 

 ベルが困ったように笑う。

 その声を聞きながら、胸の奥が微かに疼いた。

 昨夜、魔石を喰らった時の熱。

 喉を焼き、腹の底へ落ち、血の中を暴れ回ったあの感覚。

 

 まだ、消えていない。

 

 人々の笑い声に混じって、遠くから獣の唸りのようなものが聞こえた気がした。

 もちろん、実際に聞こえたわけではないのだろう。

 闘技場はまだ遠い。

 だが、胸の奥のどこかが、確かにそれを拾った。

 

 祭りの熱気。人の興奮。怪物の気配。

 それらが絡み合い、見えないところで何かを孕んでいるように思えた。

 

「ヘイレル?」

「……何でもない」

「本当に?」

「ああ。まずはシルを探すぞ。財布がなければ、彼女も困っているだろう」

「あ、うん。そうだった」

 

 ベルは慌てたように頷き、手にした小さな財布を握り直す。

 その時だった。

 

「おーいっ、ベールくーんっ、ヘイレルくーんっ!」

 

 喧騒の向こうから、聞き慣れた声が飛んできた。

 

「え?」

 

 ベルが足を止める。

 私も声のした方へ視線を向けた。

 

 人波をかき分けるように、小柄な影がこちらへ駆けてくる。

 黒髪を揺らし、白い肌を朝日に照らし、やけに上機嫌な笑みを浮かべて。

 所在の分からなかった主神。

 ヘスティアが、そこにいた。

 

「神様!?」

 

 ベルの声が、驚きで裏返る。

 

「どうしてここに!?」

「おいおい、馬鹿言うなよ、ベル君」

 

 私たちの前でぴたりと立ち止まったヘスティアは、何故か誇らしげに胸を張った。

 

「君に会いたかったからに決まってるじゃないか!」

「いえ、僕も会いたかったですけど、そういうことじゃなくて……!」

 

 ベルが額に汗を浮かべる。

 まったく答えになっていない。

 だが、ヘスティアはそんなベルの困惑など露ほども気にしていないようだった。

 

「いやぁ、それにしても素晴らしいね! 会おうと思ったら本当に出くわしちゃうなんて! やっぱりボクたちは、ただならない絆で結ばれているんじゃないかなぁ。ふふふっ」

「神様、話を聞いてください!」

「聞いているとも。ベル君がボクに会えて嬉しいという話だろう?」

「かなり違います!」

 

 ベルの声が届いていない。

 いや、届いてはいるのだろう。

 ただ、ヘスティアの中で都合のいい形に変換されているだけだ。

 私は短く息を吐き、一歩前に出た。

 

「主神」

「ん? どうしたんだい、ヘイレル君」

「三日間、どこにいたんだ」

 

 私の問いに、ヘスティアはぱちりと瞬きをした。

 その表情から笑みは消えない。

 むしろ、何かを含むように、少しだけ目を細めた。

 

「おや。ヘイレル君までボクのことを心配してくれていたのかい?」

「質問に答えてはくれないのか?」

「ふふっ、つれないなぁ」

「ベルが気にしていた。ホームも静かだった。説明は必要だろう」

 

 そう言うと、ベルが小さく頷いた。

 

「はい……神様がいないと、やっぱり寂しかったですし」

「ベル君……!」

 

 ヘスティアの顔がぱあっと輝く。

 感極まったように両手を胸の前で組み、今にもベルへ飛びつきそうな勢いだった。

 

「やはり君は最高の眷族だ! ボクは今、心の底から報われた気分だよ!」

「それはいいですからっ、どこにいたんですか!?」

「へへっ……知りたいかい?」

 

 ヘスティアが悪戯っぽく笑う。

 ベルは少し身を乗り出した。

 

「はい」

「ヘイレル君も?」

「聞く権利はあると思っている」

「うんうん、いいね。二人とも、ボクを気にかけてくれている。実に家族らしいじゃないか」

 

 そう言いながら、ヘスティアは背中へ手を回した。

 何かをごそごそと弄っている。

 ベルは軽く首を傾げ、私はその仕草を静かに観察した。

 

 何かを隠している。

 それは明らかだった。

 そして、ヘスティアのこの上機嫌さ。

 ただ遊んでいただけ、というわけではないのだろう。

 

「実はね……」

 

 そう言いかけたところで、ヘスティアはぴたりと動きを止めた。

 祭りで賑わう大通りを、軽く見渡す。

 次いで、待てよ、とでも言うように空を仰ぐ。

 何事かを考える沈黙が、ほんの一拍だけ落ちた。

 そして。

 

「……うん。せっかくだ」

 

 ヘスティアはにんまりと笑った。

 

「やっぱり今は、教えなーい」

「ええっ!?」

 

 ベルが素っ頓狂な声を上げる。

 私は目を細めた。

 

「理由は」

「楽しみは後で取っておく方が、より大きな喜びになるからさ」

「説明になっていないが」

「神様の言葉というのは、時に説明を超越するものなんだよ、ヘイレル君」

「便利な言葉だな」

「ふふっ、褒め言葉として受け取っておこう」

 

 悪びれない。

 この様子では、今問い詰めても無駄だろう。

 ベルはまさかのお預けに、しょんぼりと肩を落としていた。

 

「そんな……」

「落ち込むことはないさ、ベル君」

 

 ヘスティアはその小さな手を伸ばし、ベルの右手を取った。

 突然包み込まれた感触に、ベルの肩がぴくりと跳ねる。

 

「か、神様?」

 

 ヘスティアはベルの手をぎゅっと握ったまま、柔らかく微笑んだ。

 

「デートしようぜ、ベル君」

「……で、デート!?」

 

 ベルの声が裏返る。

 私は思わず眉を動かした。

 

「主神」

「なんだい?」

「唐突すぎる」

「恋と祭りは唐突に始まるものだよ」

「そういうものなのか?」

「そういうものさ」

 

 胸を張って言い切られた。

 ベルは顔を真っ赤にして、口をぱくぱくと開閉している。

 

「いや、でもっ、デートって……!?」

「ああ、そうさ。こんなに街は盛り上がっているんだ。ボクたちも楽しまない手はないだろ?」

「そ、それはそうかもしれませんけど……!」

「それに、三日も会えなかったんだよ? 少しぐらいボクに付き合ってくれてもいいじゃないか」

 

 それは主神の方じゃないのか、とは言えなかった。

 その言葉に、ベルが僅かに黙る。

 弱いところを突かれた顔だった。

 ヘスティアはそれを見逃さず、小さく笑う。

 

「さぁ、行くぞベル君!」

「わ、わわっ!?」

 

 小さくて柔らかい指がベルの手を絡め取り、賑々しい雑踏の中へ誘っていく。

 ベルは引かれるまま、数歩進んだところで我に返った。

 

「ま、待ってください神様! 僕、実はお使いを頼まれているんです!」

「ん、そうなのかい?」

「はいっ。だから今も、ある人を探している最中で……!」

「んー、誰を?」

「シルさんです。財布を忘れたみたいで、リューさんとアーニャさんに届けてほしいって頼まれていて」

「シル?」

 

 ヘスティアの目が、ほんの一瞬だけ細まった。

 その変化は小さい。

 だが、見逃すほどではなかった。

 

「……なるほど。女の子か」

「神様?」

「いや、何でもないよ」

 

 ヘスティアはすぐに笑みを戻す。

 

「よし、じゃあデートしながら人探しをしようじゃないか。楽しみながら仕事もこなせて一石二鳥だ」

「そ、そんな簡単に……!」

「簡単さ。祭りを歩きながら探せばいい。ねぇ、ヘイレル君?」

 

 急に話を振られ、私は少し考えた。

 

「……方法としては間違っていない」

「ヘイレル!?」

「闘技場へ向かう人の流れは東へ集中している。シルが怪物祭を見に向かったのなら、この通りを通っている可能性は高い。歩きながら探すのは合理的だ」

「で、でもデートしながらっていう部分は!?」

「そこは私の管轄ではない」

「助けてよ!?」

 

 ベルが情けない声を上げる。

 ヘスティアは勝ち誇ったように笑った。

 

「ほら、ヘイレル君もこう言っている。つまり問題なしだ」

「問題しかない気がするんですけど!?」

「おじさーん、そのクレープ二つ……いや、三つくださーい!」

「神様ぁー!?」

 

 言い分をあっさり流され、ベルはほとほと困り果てた顔でこちらを見る。

 その目は、明らかに助けを求めていた。

 

 ──このままでは、シルさんに財布を届けるよう頼んできた店員たちに合わせる顔がない。

 ──お使いをすっぽかして神様とデートしていたなんて知られたら、恨まれるかもしれない。

 

 言葉にせずとも、表情がそう語っている。

 

 だが。

 

「…………」

 

 私はヘスティアを見る。

 歳相応、という言い方は正しくないのかもしれない。

 そもそも神に年齢を当てはめること自体、無意味なのだろう。

 それでも、今のヘスティアは、その幼い容姿通りの振る舞いを見せていた。

 

 屋台の品物を見て瞳を輝かせる。

 甘い匂いに鼻をひくつかせる。

 ベルの手を握ったまま、嬉しそうに笑う。

 

 いつもホームで私たちを出迎える時の、どこか大人びた主神とは雰囲気が違う。

 無邪気で、あどけなくて、楽しげで。

 端的に言えば、とても可愛らしい。

 神々という存在は、やはり皆、美しいのだろう。

 美少女という形を取っていても、その内側には人を惹きつける何かがある。

 そう改めて思わされる。

 だが、それ以上に。

 

(……嬉しいのか)

 

 三日ぶりにベルと会えたことが。

 こうして祭りの中を歩けることが。

 ただ、それだけのことが。

 

 ヘスティアは心底楽しそうだった。

 それを邪魔するのは、少し違う気がした。

 

「ベル君、ベル君」

「あ、はい。何ですか?」

「あーん」

「……へあっ!?」

 

 考え込むベルへ畳みかけるように、ヘスティアは買ったばかりのクレープを差し出した。

 白いクリーム。赤い果実。薄く焼かれた生地。

 甘い香りが、ふわりとこちらまで届き、ベルの顔が一気に赤くなる。

 

「か、神様!? ここ、外ですし、人も見てますし……!」

「だからこそだよ。祭りなんだから、少しくらい浮かれてもいいじゃないか」

「よ、よくないです!」

「ヘイレル君はどう思う?」

 

 またこちらに振られる。

 私はクレープとベル、そしてヘスティアを順に見た。

 

「食べればいいだろう」

「ヘイレル!?」

「毒ではない。むしろ冷める前に食べた方がいい」

「そういうことじゃないよ!」

「それに、主神が望んでいる」

「ヘイレル君、よく分かっているじゃないか!」

 

 ヘスティアが満足げに頷く。

 ベルはもはや泣きそうな顔だった。

 

「ヘ、ヘイレル……助けて……」

「……ベル」

「うん!!」

 

 希望を見出したように、ベルがこちらを見る。

 私は静かに告げた。

 

「ここは二手に分かれて、シルを探すことにしよう」

「えっ……」

「私は会場内を確認する。お前は主神と共に通りを探せ」

「今、見捨てた!? 見捨てたよね!?」

「適材適所だ」

「絶対違うと思う!」

「ベル君、ヘイレル君もこう言っている」

「神様まで!?」

 

 ヘスティアが楽しそうにベルの腕へ擦り寄る。

 私はその光景を見て、静かに踵を返した。

 

 邪魔になる。

 

 この二人の相性は、どうにも良い。

 ベルは振り回されながらも、嫌がり切れていない。

 ヘスティアもまた、ベルを困らせること自体を楽しんでいる節がある。

 ならば、私が横にいる必要はない。

 それに、シルを探すという目的もある。

 会場内を探す者が一人いてもいい。

 

「では、後で合流する」

「ヘイレルー!?」

 

 ベルの悲鳴じみた声が背後から響く。

 それを聞き流し、私は雑踏の中へ足を踏み入れた。

 祝祭の喧騒が、再び私を包み込む。

 

 笑い声。

 屋台の呼び込み。

 遠くで弾ける花火の音。

 人の熱。

 怪物祭へ向かう、浮ついた群衆の流れ。

 その中を進みながら、私は一度だけ振り返った。

 

 人波の向こうで、ヘスティアがクレープを差し出し、ベルが慌てふためいている。

 その光景は、どうしようもなく日常的で、微笑ましいものだった。

 

 けれど。

 

 胸の奥で、昨夜の熱がまた疼いた。

 

 人の笑い声の下に。

 祭りの音の奥に。

 何か別のものが、静かに息を潜めている。

 

 そんな気がした。

 

「……気のせいならいいが」

 

 小さく呟き、私は闘技場へ向かう人の流れに身を乗せた。

 白兎の少年と、小さな主神を背にして。

 祝祭の街の奥へ。

 

 そして、まだ見えない違和の鼓動へ向かって。

 

 

 

 

 

 ▶▼◀▲▶▼◀▲▶▼◀▲

 

 

 

 

 

『うおおおおおっっ!』

『そこだああああああっ!!』

『やったれえええぇっ!』

『すげええええええぇぇっっ!!』

 

 闘技場に足を踏み入れた瞬間、音が身体を殴った。

 

 歓声。怒号。拍手。足踏み。

 魔石製品の拡声器を通して響く司会者の声。

 それら全てが混ざり合い、巨大な熱の塊となって観客席を包み込んでいる。

 五万もの人間を収容できるという円形闘技場。

 その中腹付近の席から見下ろす中央アリーナでは、すでに怪物祭の演目が始まっていた。

 

 ぶわり、と土煙が舞う。

 鎖から解き放たれた一匹のモンスターが、地を蹴った。

 巨大な猪型の怪物──バトルボア。

 二メドルにも届こうかという巨体が、鼻先から湯気を吐き、牙を剥き、一直線に駆ける。

 正面から受ければ、人間の骨など容易く砕けるだろう。

 だが、その突進を待ち構えていた女は、逃げなかった。

 

 派手な衣装を纏った【ガネーシャ・ファミリア】の調教師。

 短く切り揃えられた髪が風に揺れ、手にした鞭と鮮やかな布が陽光を受けて閃く。

 

 バトルボアが迫る。

 あと一歩。

 

 衝突する。

 そう思った瞬間、女の身体がふわりと横へ流れた。

 

 紙一重。

 だが、偶然ではない。

 巨体が通り過ぎた直後、女は鞭を鳴らし、モンスターの注意を再び己へ引きつける。

 

『『『うおおおおおっっ!!!?』』』

 

 歓声が爆ぜる。

 

「……これが、怪物祭か」

 

 思わず呟いた。

 単なる見世物ではない。

 だが、純粋な戦闘でもない。

 

 殺すのではなく、制する。

 勝つのではなく、屈服させる。

 その過程を、人々へ魅せる。

 

 命懸けの危険を、娯楽へ変えている。

 奇妙な光景だった。

 フィールド中央では、バトルボアが再び突進する。

 地面を抉り、土煙を巻き上げ、獰猛な唸りを響かせる。

 それを調教師は躱す。誘導する。

 見せつけるように、観客席へ向かって腕を広げる。

 

 人々は沸く。

 恐怖するものを見ているはずなのに、誰も本気で怯えてはいない。

 むしろ、怪物が暴れれば暴れるほど、歓声は大きくなる。

 

(……檻の中だから、か)

 

 怪物は怖い。

 だが、檻の中にいる限り、人はそれを楽しめる。

 

 安全な場所から眺める危険。

 手の届かない死。

 だからこそ、人は笑い、叫び、興奮する。

 

 私は観客席の縁に手を置いた。

 石造りの座席は、熱を帯びている。

 人の体温と陽光、そして場内に渦巻く興奮が、建物そのものを温めているようだった。

 

 ……シルの姿は、今のところ見当たらない。

 ベルと二手に分かれた後、会場内へ入るための料金を払い、私は闘技場へ足を運んだ。

 だが、入場してから気づく。

 

 そもそもシルは財布を忘れている。

 ならば、この会場内に入れるはずがない。

 そう考えるのが自然だった。

 だが、財布を持っていないことと、ここにいないことは必ずしも同義ではない。

 誰かと一緒に入った可能性もある。

 祭りの混雑に紛れて、どこかで困っている可能性もある。

 確率は低い。だが、ゼロではない。

 ベルは今頃、ヘスティアに連れ回されながら外を探しているのだろう。

 ならば、私がこちらを確認することにも意味はある。

 そう自分に言い聞かせる。

 

 視線をアリーナへ戻した。

 

 バトルボアの突進。

 調教師の回避。

 鞭の音。

 観客の歓声。

 

 その全てを眺めながら、私はふと、エイナの言葉を思い出していた。

 

 怪物祭は、神々の単なる酔狂から始まった催しではない。

 主催こそ【ガネーシャ・ファミリア】だが、企画の発端にはギルド上層部の意向がある。

 そう聞いている。

 だが、どうにも腑に落ちない。

 

 迷宮都市オラリオにおいて、モンスターとは本来、地下に封じ込められるべき存在だ。

 ダンジョンから吐き出され、人を襲い、冒険者に討たれるもの。

 それをわざわざ地上へ上げ、一般市民の前に晒す。

 危険を管理できているから問題ない。

 腕利きの調教師がいるから大丈夫。

 警備も厳重だから心配ない。

 そういう理屈なのだろう。

 

 だが。

 

(危険は、危険だ)

 

 いくら飾っても、本質は変わらない。

 檻の中にいても、鎖に繋がれていても、モンスターはモンスターだ。

 ひとたび制御を外れれば、牙は人を裂き、爪は肉を抉る。

 それを、ここにいる観衆の何割が本当に理解しているのだろう。

 まさか、人間と怪物の友愛を目指している訳でもあるまいに。

 

「…………」

 

 この祭りは、都市に溜まる不満を和らげるためのものでもあるのかもしれない。

 冒険者という荒くれ者たちを抱え、ダンジョンという巨大な危険と利益を内包する都市。

 ギルドは魔石を必要とし、魔石を得るには冒険者を必要とする。

 だが、市民から見れば、冒険者は必ずしも好ましい存在ばかりではない。

 

 粗暴。無法。

 傲慢。騒動。

 

 先日、バベルの中で耳にした誹謗も、その一端なのだろう。

 だからこそ、ギルドは見せる。

 モンスターを制御する力を。

 冒険者やファミリアが都市を守る側であるという構図を。

 危険すら娯楽に変えられるだけの支配力を。

 

 都市の平穏は保たれている。

 怪物すら、人の管理下にある。

 そう、市民へ示すために。

 

「……随分と、危うい均衡だな」

 

 誰に聞かせるでもなく呟いた時だった。

 

『『『うおおおおおおおおおおおっっ!!』』』

 

 三度、大観衆の歓声が轟く。

 アリーナでは、調教師がついにバトルボアを屈服させたところだった。

 先ほどまで暴れ狂っていた巨体が、低く喉を鳴らしながら前脚を折る。

 調教師がその鼻先に手を置くと、観客席は割れんばかりの拍手に包まれた。

 

「やっぱりガネーシャのとこ、すごいなー。調教を簡単に成功させちゃって。あんなの真似できないや」

「そうですね。ただでさえ成功率は低いのに、こんな大舞台で……」

「華もあるわよね、一々。ただ調教するんじゃなくて、観客を魅せる動きをしてる。お金も取れるわ、これなら」

 

 その時。

 隣から、聞き覚えのある声がした。

 視線を向ける。

 

 山吹色の髪を後ろでまとめたエルフの少女。

 健康的な小麦色の肌を惜しげもなく晒した、アマゾネスの姉妹。

 

 【ロキ・ファミリア】だ。

 

 【千の妖精(サウザンド・エルフ)】レフィーヤ・ウィリディス。

 【怒蛇(ヨルムガンド)】ティオネ・ヒリュテ。

 【大切断(アマゾン)】ティオナ・ヒリュテ。

 

 直接言葉を交わしたことはない。

 だが、あの酒場で姿は見ている。

 向こうも同じだったのだろう。

 私の視線に気づいたレフィーヤが、こちらを見た。

 

「…………」

「…………」

 

 視線が交錯する。

 数拍の沈黙。

 私は、無言で顔を戻した。

 面倒ごとの気配がしたから。

 

「あーっ! 貴方はあの時の!」

 

 しかし、遅かった。

 レフィーヤの声は、周囲の歓声に負けないほどよく通った。

 ティオナとティオネも、つられてこちらを見る。

 

「おー? ベートに勝った子じゃーん」

「本当じゃない、あんたもコレ見に来たわけ?」

 

 完全に捕捉された。

 会場内に入ったのは失敗だったか、と思わず小さく息を吐く。

 

「人を探している。では、また会おう」

「ちょっと待ちなさいよ」

「そうだよー。せっかく会ったんだから、少しくらい話そうよ」

 

 逃げようとした瞬間、左右を塞がれた。

 【怒蛇(ヨルムガンド)】と【大切断(アマゾン)】。

 つい先ほどまで座席に座っていたはずなのに、一瞬で私の行く手を塞いでいる。

 

 速い。

 

 動き出しを見たつもりだった。

 だが、視認した時にはすでに位置を取られていた。

 

(これが第一級冒険者か)

 

 レフィーヤでさえ、二人の移動に一瞬遅れて目を丸くしている。

 

「逃げようったって、そうはいかないわよ」

「ねぇねぇ、あの剣どうやって出したの? 『魔剣』? それとも【スキル】?」

 

 ティオナが好奇心そのものの顔で身を乗り出してくる。

 ティオネは腕を組み、獲物を観察するような目でこちらを見ていた。

 私は諦めて問い返す。

 

「何を言えば解放される?」

「そりゃ聞きたいことは山ほどあるわよ」

 

 ティオネが口端を吊り上げる。

 

「舐め腐ってた上に泥酔状態だったとはいえ、あのバカ犬を倒したんだから。興味が湧かないわけないでしょ」

「勝ったというより、向こうが自滅しただけだ」

「あら、謙遜?」

「事実だ」

「でも最後に喉元へ刃を突きつけたのは、あんたでしょ?」

「届いたのは偶然だ」

「偶然で第一級冒険者の喉に刃は届かないわよ」

「…………」

 

 厄介だ。

 この女は、言葉の軽さに反して観察が鋭い。

 

「じゃあじゃあ、あれって『魔剣』じゃないの? どこに隠してたの? ねぇ、今出してみてよー」

「断る」

「えー」

「冒険者は情報こそが命だ。自分の手札を人前で晒す理由はない」

「おっ、言うねー」

 

 ティオナが楽しげに笑う。

 

「じゃあさ、私の【スキル】教えたら、君のも教えてくれる?」

「何……?」

「私の【スキル】は【狂化招乱(バーサーク)】って言ってねー、効果は──」

「あんたは黙ってなさい」

「──むぐっ!?」

 

 ティオネが即座に妹の口を塞いだ。

 ティオナは「むぐむぐ」と抗議しているが、姉の手はびくともしない。

 私はその光景を見て、少しだけ目を細めた。

 

「……本気で言うつもりだったのか?」

「この子、たまに何も考えてないのよ」

「ひどいよティオネ!」

「事実でしょうが」

 

 ティオナ・ヒリュテ。

 

 第一級冒険者。

 実力は間違いない。

 だが、少なくとも情報管理には向いていないらしい。

 

「ちょ、ちょっとお二人とも!」

 

 レフィーヤが慌てて割って入る。

 

「確かに私も、この子の剣に関しては気になりますけど……でも、こんなに人が多い場所で聞くことじゃありません!」

「お前も気になるのか」

「お、お前って……年下なのにぃ……まぁ、それはいいです……貴方の言う通り、確かに気になりますよ。だって、あんな出し方、普通じゃありませんでしたし……」

「普通でないものを、普通に聞き出そうとするのもどうかと思うが」

「うっ……」

 

 レフィーヤが言葉に詰まる。

 その反応に、ティオナがけらけら笑った。

 

「レフィーヤ、負けてるー」

「負けてません!」

 

 騒がしい。

 

 ベルやヘスティアとは違う種類の賑やかさ。

 強者特有の余裕と、遠慮のなさ。

 彼女たちはこちらを警戒している。

 同時に、面白がってもいる。

 私もまた、彼女たちを観察していた。

 

 動き。重心。

 間合い。視線。

 

 隙がない。

 軽口を叩きながらも、私が何かすれば即座に対応できる位置を取っている。

 これが【ロキ・ファミリア】の幹部級。

 ベート・ローガと戦った時には、泥酔や慢心があった。

 だが、今目の前にいる彼女たちは違う。

 

 純粋に、強い。

 

『『『うおおおおおっっ!』』』

 

 その時、再び歓声が上がった。

 

「あ、終わったみたいですね」

「あちゃー、見逃しちゃった」

「どうせ次がすぐ来るわよ」

 

 アリーナへ視線を戻すと、華美な衣装を纏った調教師が観客席へ手を振っていた。

 その隣では、すっかり大人しくなった虎型のモンスターが、低く頭を垂れている。

 やがて調教師とモンスターは退場し、東西のゲートが開いた。

 現れたのは、屈強な男性の調教師。

 そして、尾まで含めれば七メドルにも及ぼうかという大型の竜種だった。

 観客席にどよめきが走る。

 

 凶悪な牙。硬質な鱗。長い首。

 地面を踏み締めるたびに響く重い足音。

 私の知らない怪物だ。

 

「あんな大きいのも、ダンジョンから引っ張ってきたの?」

 

 ティオナが目を丸くする。

 

「そんなわけないでしょ」

 

 ティオネが即答した。

 

「都市外から連れてきたんじゃない? 竜種なら、ダンジョン産じゃなくても力はそこまで見劣りしないだろうし」

 

 戦いの火蓋が切って落とされる。

 直後、歓声が津波のように押し寄せた。

 

 大気が震える。

 耳が痛む。

 隣ではティオナが「うひゃー」と喜びの表情を浮かべ、レフィーヤが尖った耳を押さえながら声を張った。

 

「でもっ、ちょっとおかしくないですかっ!?」

「何が?」

「あのモンスター、たぶん今日の目玉だったと思うんです! 普通なら最後の演目にするんじゃ……!」

 

 言われて、私もアリーナを見下ろす。

 

 確かに。

 あの大きさと迫力なら、今日一番の見せ場に相応しい。

 観客の反応も明らかに大きい。

 それを、この段階で出す理由は何だ。

 

 予定の変更。演目の繰り上げ。

 出すはずだった別のモンスターが、出せなくなった。

 思考がそこへ至った瞬間、視界の端に妙な動きが映った。

 

 【ガネーシャ・ファミリア】の団員たち。

 象の仮面を付けた者たちが、慌ただしく動いている。

 

 賓客席へ走る者。観客席へ降りてくる者。

 神々らしき者に耳打ちする者。冒険者へ何かを頼み込む者。

 

 表情は仮面で見えない。

 だが、身体の動きは隠せない。

 

 余裕がない。

 

「……おかしいな」

 

 私は呟いた。

 ティオネがこちらを見る。

 

「あんたも気づいた?」

「ああ。裏が騒がしい」

「やっぱりそう思う?」

 

 ティオナも視線を細める。

 

「えっ? ……えっ?」

 

 この中で唯一気付いていないのか、レフィーヤはこちらの会話を理解できていない様子だった。

 だが、アマゾネスの姉妹が気付いているのなら問題ないだろう。

 

「でも、お客さんには知らせてないっぽいね」

「混乱を避けたいのだろうな」

 

 私は立ち上がった。

 レフィーヤがこちらを見る。

 

「……どこへ行くんですか?」

「外だ」

「外?」

「ここで起きている異常が、観客席の中だけで完結しているとは限らない」

 

 ベルとヘスティア。

 脳裏に二人の姿が浮かぶ。

 あの二人は今、会場の外にいる。

 もし何かが起きているのなら、真っ先に巻き込まれる可能性がある。

 

 胸の奥で、熱が小さく脈打った。

 焦りか。

 それとも、別の何かか。

 判別する時間はない。

 

「私は先に行く」

「あ、ちょっと──」

「止めるな」

 

 短く告げると、レフィーヤは言葉を呑んだ。

 ティオネが肩を竦める。

 

「いいんじゃない? 私たちも確認した方が良さそうだし」

「だねー。何か面白くなってきたし」

「ティオナさん、不謹慎です……」

「でも気になるでしょ?」

「……それは、まあ」

 

 背後のやり取りを聞き流し、私は観客席の階段を駆け上がった。

 

 歓声は、まだ続いている。

 人々は知らない。

 

 この熱狂の裏側で、何かが確かに歪み始めていることを。

 

 

 

 

 

 ▶▼◀▲▶▼◀▲▶▼◀▲

 

 

 

 

 

「ガネーシャ様、ガネーシャ様っ! 大変です、一大事です!」

 

 闘技場最上部の観覧席。

 アリーナ全体を一望できるその場所に、象の仮面をつけた一人の団員が駆け込んできた。

 眼下では、怪物祭が何事もなかったかのように続いている。

 長い首を振り回す小竜の背に調教師が飛び乗り、観客席は割れんばかりの歓声に包まれていた。

 

 熱気。

 興奮。

 歓喜。

 

 そのすべてを見下ろしながら、主神ガネーシャはゆっくりと振り返る。

 

「──何を隠そう、俺がガネーシャだ!」

「知ってますよ!? 今それどころじゃありません!」

 

 構成員は半泣きだった。

 普段なら主神の奇行にも慣れている。

 だが、今はそんな余裕すらない。

 

「捕えていたモンスターが脱走しました! 地下の檻が、空になっています!」

「……えっ、それはまずいだろう」

「だから言ってるじゃないですか!」

 

 ガネーシャの動きが、ぴたりと止まる。

 次の瞬間、ふざけた空気が消えた。

 

「状況を報告しろ」

 

 低い声音。

 それだけで、構成員の背筋が伸びた。

 

「は、はい! 地下室の見張りが何者かに襲撃され、再起不能にされています! ギルド側にも被害が出ています! 状況から見て、外部犯による妨害工作と判断されます!」

「脱走した、いや──放たれたモンスターの数は?」

「九匹です! 中には、腕利きの冒険者でなければ対処困難な個体も……!」

 

 ガネーシャは仮面の奥で沈黙した。

 眼下では、ちょうど調教師が小竜を制御したところだった。

 竜が頭を垂れ、調教師の手を舐める。

 

『わああああああああああっ!!』

 

 歓声が爆発する。

 観客たちは何も知らない。

 地下で何が起きたのかも。

 都市の通りに危険が放たれたことも。

 

 だから笑っている。

 だから叫んでいる。

 だからこそ、ガネーシャは即断した。

 

「よし、大至急モンスター達を追わせろ! それと他の【ファミリア】とも連携を取る! この場に来ている神に協力を要請してこい!」

「ま、待ってください!? 成り行きはどうであれモンスターを逃がしたのは私達の失態ですっ、他勢力の手を借りてはこちらの面目はもとより、相手に付けこまれる隙を……」

「俺は、【群衆の主】だ! 庇護すべき市民を傷付けさせてなるものか! 我等の至福は子供達の笑顔、地位と名誉など捨て置け!」

「は、はいっ!? 申し訳ありません!」

「祭りはこのまま続ける! 今闘技場にいる観衆は外に出すな、モンスターが脱走したことを悟られてもいかん! 混乱を招くような真似はしてくれるなよ!」

「わ、わかりました。それと、モンスターを放した犯人の捜索は……」

「いい、構うな。捕えていたモンスターを全て放さなかったことから、悪戯に被害を広めるつもりはそやつにもないのだろう。他に狙いがあると見た。陽動か、撹乱か……癪だが相手の思惑に乗ってやる。我々は市民の安全を最・優・先!」

「承知しました!」

「行け!」

「はっ!!」

 

 号令を受け、構成員は弾かれたように駆け出した。

 モンスターの集団脱走が確認されてから僅か五分。

 【ガネーシャ・ファミリア】は、主神の指揮の下、迅速に対応へ移り始めていた。

 

 だが。

 

 歓声は、まだ止まらない。

 観客は知らない。

 

 祝祭の檻の外で、すでに異常が牙を剥き始めていることを。

 

 

 

 

 

 ▶▼◀▲▶▼◀▲▶▼◀▲

 

 

 

 

 

「モンスターが、逃げた……!?」

 

 闘技場を出て、正門付近へ足を運んだ直後だった。

 聞き覚えのある声が、祭りの喧騒を裂いて耳に届いた。

 振り向く。

 

 そこにいたのは、ギルド職員のエイナ・チュール。

 そして、今にも泣き出しそうな顔で彼女へ縋る同僚の女性職員だった。

 

「う、うんっ。闘技場から抜け出したところを西部班が見たんだって……! 【ガネーシャ・ファミリア】も慌てて動き回ってるって……どうしよぉ、エイナぁ……!」

 

 その言葉だけで、十分だった。

 胸の奥で、冷たいものが弾ける。

 やはり、起きていた。

 あの闘技場の裏で、何かが。

 だが、驚愕に足を止めたのは一瞬だけだった。

 

 エイナはすぐに表情を引き締める。

 柔和な顔立ちから甘さが消え、ギルド職員としての毅然とした色が宿った。

 

「……どこでもいい。手当たり次第、近辺にいる【ファミリア】に連絡を取るべき……冒険者たちにも協力を要請すれば、被害を最小に出来る……!」

「そ、そんな勝手なことしちゃっていいの……? 後で上に何て言われるか──」

「今すぐ情報を渡せ」

 

 自分でも驚くほど、低い声が出た。

 

「へ、ヘイレル君!?」

 

 エイナが振り向く。

 周囲にいた職員たちも、一斉にこちらを見た。

 皆、顔色が悪い。

 この場にいるのは、エイナを含めて下部の職員ばかりなのだろう。独断で他ファミリアや冒険者へ協力要請を出すことに、強い躊躇があるのが見て取れた。

 

 だが。

 

「誰かが傷つくより、ずっといいだろう」

「で、でも……! 今の君が対処できるようなモンスターじゃない可能性もあるの……!」

「そんなことを言っている場合か、エイナ・チュール」

「っ……!」

 

 エイナが息を呑む。

 彼女が私を案じていることは分かる。

 それは、ありがたい。

 だが、今だけは邪魔だった。

 

 ベルとヘスティアが外にいる。

 その事実だけが、頭の中で何度も反響していた。

 

「神ガネーシャは、市民を楽しませるためにこの祭りを開いているのだろう」

「え……?」

「なら、市民の命を後回しにするはずがない。他派閥に救援を求めても、少なくとも人命優先の判断を責めることはしない」

 

 言いながら、私は周囲の職員たちへ視線を巡らせた。

 

「面子か。手続きか。上司への報告か。そんなものは、後でどうにでもなる」

 

 自分の声が、思った以上に鋭く響く。

 

「判断を誤るな」

 

 沈黙。

 だが、その沈黙は長く続かなかった。

 エイナが唇を噛み、すぐに顔を上げる。

 

「……ミーシャ、お願い!」

「わ、分かった! 取り返しのつかないことになったら、嫌だもんね!」

 

 その一言を皮切りに、周囲の職員たちも動き出した。

 

 情報の伝達。冒険者への呼びかけ。近辺の避難誘導。

 手早く役割分担が組まれていく。

 

 エイナは一瞬だけこちらを見た。

 怒っているような、心配しているような、悔しそうな顔だった。

 

「ヘイレル君」

「何だ」

「無茶は、しないで」

「約束はできない」

「……でしょうね」

 

 諦めたように、それでも苦く笑う。

 その時だった。

 

「……すいません。何か、あったんですか?」

 

 柔らかい声がした。

 その場にいた全員が、声の方へ振り向く。

 そして、動きを止めた。

 

 金。

 

 まず目に入ったのは、陽光を受けて輝く金の髪だった。

 腰まで届く長い髪。しなやかな肢体。

 防具こそ纏っていないが、剣帯には細剣が吊られている。

 

 アイズ・ヴァレンシュタイン。

 

 オラリオでも最上位に位置する冒険者。

 ベルが憧れた相手。

 そして、私が一度は見たいと思っていた“本物の強さ”。

 その後ろには、目を細めて事態を眺める神ロキの姿もあった。

 

「ア、アイズ・ヴァレンシュタイン……」

 

 誰かが、呆然と呟く。

 だが、職員の一人がすぐに我に返り、飛びつくように事情を説明し始めた。

 

 アイズは黙って聞いていた。

 表情は大きく変わらない。

 だが、状況を理解するにつれて、その金色の瞳が静かに鋭さを帯びていくのが分かった。

 話を聞き終えると、彼女は背後の神を振り返る。

 

「ロキ」

「ん、聞いとった」

 

 ロキは肩を竦める。

 

「もうデートどころやないみたいやしな。ええよ。この際、ガネーシャに貸し作っとこか」

 

 その軽い口調に、周囲の職員たちが安堵の声を漏らす。

 だが、私は逆に眉を寄せた。

 

 これで救援は来た。

 強者もいる。

 状況は大きく好転した。

 それでも、胸の奥のざらつきは消えない。

 

「で、モンスターはどの辺をうろついとるか、分かるか?」

「は、はいっ。ほとんどのモンスターが、東のメインストリートの方角へ向かったそうです!」

「…………」

 

 呼吸が、一瞬止まった。

 東のメインストリート。

 分かれる前まで、ベルとヘスティアがいた場所。

 よりにもよって、この混乱の中心に、あの二人がいるかもしれない。

 

 足が前に出そうになる。

 だが、私は歯を食いしばって踏み止まった。

 闇雲に走っても意味がない。

 まず情報を掴め。

 

「逃げたモンスターの種類は?」

 

 私は問う。

 ミーシャと呼ばれた女性職員は、慌てて手元のメモを確認した。

 

「えっと……確か、ソードスタッグ、トロール、それからシルバーバック……だったかな」

 

 頭の中で、ギルド本部で見た資料が捲られる。

 

 シルバーバック。

 出現階層は十一階層。

 

 ソードスタッグ。

 トロール。

 出現階層は二十階層よりも下。

 

 いずれも、今の私が正面から相手取るべき怪物ではない。

 

 分かっている。

 分かっているが──

 

(だから何だ)

 

 足を止める理由にはならない。

 ベルとヘスティアが危ない。

 なら、行く。

 

 たとえ私では勝てないとしても。

 たとえ、辿り着いたところで何もできないとしても。

 

 それでも、何もしないという選択肢だけはなかった。

 

 

 

 

 

 ▶▼◀▲▶▼◀▲▶▼◀▲

 

 

 

 

 

 風の音が、耳を裂いていた。

 

 闘技場の外周部。

 本来なら立ち入ることなど許されない、高所の縁。

 そこに、アイズ・ヴァレンシュタインは立っていた。

 

 背後には、今も続く怪物祭の歓声。

 足元には、東のメインストリートへと連なる街路。

 人の流れ。逃げ惑う影。職員の誘導。

 そして、その隙間を縫うように動く異物。

 

 モンスター。

 

 闇雲に走り回っても遅い。

 神ロキが何か耳打ちしたのだろう。アイズは高所から街を俯瞰し、敵の位置を把握しようとしていた。

 

「……見つけた」

 

 風に乗って、その声が届く。

 

 どうやって認識しているのかは分からない。

 だが、アイズの視線は迷っていなかった。

 彼女は腰に佩いた細剣を抜く。

 その瞬間、空気が変わった。

 

「【目覚めよ】」

 

 囁くような詠唱。

 次の瞬間、彼女の周囲に風が巻いた。

 

 ただの風ではない。

 意思を持つように、彼女の肢体へ絡みつき、金の髪を大きく揺らし、足元の砂塵を巻き上げる。

 美しい。

 そう思った直後、私は己の感想を愚かだと感じた。

 

 これは美しさではない。

 力だ。

 圧倒的な、戦うための力。

 

 アイズが縁へ足をかける。

 背後から打ち寄せる観衆の大音声に押されるように、その身体が前へ倒れた。

 人工の断崖から、彼女は身を躍らせる。

 

 落下ではない。

 射出だった。

 

「────」

 

 何かを口遊む。

 壁を蹴る。

 石が爆ぜる。

 次の瞬間、アイズ・ヴァレンシュタインは金色の弾丸となって街へ飛んだ。

 

「……っ!」

 

 速い。

 理解するより先に、音が遅れて届いた。

 

 街路の中心を突進していたトロール。

 その背に、金の疾風が突き刺さる。

 

 轟音。

 

 巨体が砲撃を受けたように爆ぜた。

 

 灰が舞う。

 石畳が砕ける。

 逃げ遅れていた市民たちが悲鳴を上げて身を竦ませる。

 だが、アイズは止まらない。

 

 着地。

 反転。

 加速。

 

 十字路を突風のように駆け抜け、道の先にいた別のモンスターへ斬撃を叩き込む。

 

『ガッ──!?』

 

 一閃。

 それだけで終わる。

 

 三階建ての屋根へ跳ぶ。

 屋根から屋根へ、まるで重力を忘れたかのように駆け抜ける。

 壁を蹴り、空中で軌道を変え、次の獲物へ落ちる。

 

 正確無比。

 無駄がない。

 

 闘技場から得た俯瞰情報と、自身の速度。

 その二つを組み合わせ、アイズは街全体を狩場に変えていた。

 高速で街路を駆ける鹿型の怪物──ソードスタッグ。

 その四肢は強靭で、並の冒険者なら追うことすら難しいだろう。

 

 だが、アイズは追わない。

 先回りする。

 建物の壁面を走り抜け、屋根の端から身を翻し、逃走経路そのものを斬るように降下する。

 

 剣閃。

 怪物の首が、宙を舞った。

 

「…………」

 

 呼吸を忘れていた。

 

 これが、都市最強の剣士。

 これが、第一級冒険者。

 これが、アイズ・ヴァレンシュタイン。

 

 強い。

 ただ、その一言では足りない。

 

 速さ。判断。

 技量。魔法。

 地形把握。

 恐怖の欠如。

 

 全てが違う。

 

 同じ剣を持つ者。

 同じ冒険者。

 同じ人の形。

 

 それなのに、届く気がしない。

 ベルが憧れた理由が、少しだけ分かった。

 そして同時に、胸の奥が灼けた。

 

(……遠い)

 

 悔しさか。

 憧憬か。

 焦燥か。

 

 あるいは、喰らいたいという渇きか。

 自分でも判別できない感情が、腹の底でぐずぐずと煮えていた。

 

 金の疾風が、また一匹を斬り伏せる。

 私は拳を握り、強く息を吐いた。

 

「止まっている場合じゃない」

 

 見惚れている暇はない。

 ベルとヘスティアを探さなければならない。

 

 私はアイズの軌跡を横目に、まだ生き残っている怪物の気配を探して走り出した。

 

 

 

 

 

 ▶▼◀▲▶▼◀▲▶▼◀▲

 

 

 

 

 

「職員の指示に従って避難してください! この近辺にモンスターはいません! どうか冷静に!」

「娘がっ、娘がいないんです! この騒ぎではぐれてしまって……!」

「落ち着いてください。ご息女の特徴を教えてもらえますか?」

 

 東のメインストリート周辺は、混乱の只中にあった。

 

 悲鳴。怒号。

 泣き声。走る足音。

 

 それでも、最悪の混乱には至っていない。

 ギルド職員たちが必死に声を張り上げ、【ガネーシャ・ファミリア】の団員たちが避難経路を確保し、近辺の冒険者たちも誘導に協力している。

 そして何より、アイズ・ヴァレンシュタインがいた。

 金の疾風が街を駆けるたび、モンスターの断末魔が一つ消える。

 

「ティオナたちには悪いけど、アイズ一人で片が付きそうやなぁ……」

 

 高くそびえる鐘楼の上。

 ロキは街を見下ろしながら、ぽつりと呟いた。

 細められた朱色の瞳の先では、金髪の少女が広大な街区を縦横無尽に動き回っている。

 今もまた、捕捉したモンスターを一撃で切り伏せたところだった。

 その少し離れた場所には、白銀の髪を持つ少年も見える。

 

「あの子の動きも悪ないなぁ。本当に駆け出しかいな、アレ」

 

 ヘイレル。

 先日の酒場でベートを打ち負かした少年。

 ロキは、あの一件以来、どうにも彼のことが気になっていた。

 知人の伝手を使い、少し調べもした。

 結果、分かったのは一つ。

 あの白銀の少年は、【ヘスティア・ファミリア】の眷族であるということ。

 

「はぁ……クソチビんとこの眷属やなかったら、勧誘しとったんやがなぁ……」

 

 ロキは肩を竦める。

 だが、すぐに表情を変えた。

 

「にしても……うっさん臭いなぁ、この騒ぎ」

 

 モンスターは逃げた。

 市街地へ放たれた。

 にもかかわらず、死者はおろか、重傷者も出ていない。

 

 もちろん、ギルドと【ガネーシャ・ファミリア】の対応は早かった。

 アイズの討伐速度も異常なほど高い。

 だが、それだけでは説明しきれない。

 

(人を襲わんモンスターが、どこにおんねん)

 

 ロキの視線の先。

 街角を突き進むモンスターは、悲鳴を上げる亜人たちを見向きもしなかった。

 まるで何かを探すように、左右へ視線を振っている。

 興奮し、暴れ、障害物を破壊しながらも、人を食い殺すことを目的にはしていない。

 明らかに不自然だった。

 

「陽動か。誘導か。それとも……」

 

 脳裏を過ぎるのは、一つの影。

 

 フードに隠れた蠱惑的な微笑。

 きらめきをこぼす銀の髪。

 何かを愉しむような、底の見えない気配。

 

 ロキは舌打ちするように笑った。

 

「ほんま、面倒な匂いがするわ」

 

 その時だった。

 

「──あン?」

 

 足元が、ぐらりと揺れた。

 よろめくほどではない。

 だが、高い鐘楼を一瞬だけ震わせるには十分だった。

 ロキは身を乗り出し、街を見回す。

 

「地震、か……?」

 

 しかし、その声には確信がなかった。

 この揺れは、自然のものではない。

 

 もっと下から。

 地面の奥から。

 何かが這い上がってくるような──

 

 

 

 

 

 ▶▼◀▲▶▼◀▲▶▼◀▲

 

 

 

 

 

「……何だ」

 

 足元が揺れた。

 ほんの僅か。

 だが、確かに。

 

 アイズ・ヴァレンシュタインの圧倒的な蹂躙を横目に、私はまだ生き残っている怪物を探して走っていた。

 その最中に訪れた、小さな震動。

 地震、というには弱い。

 だが、ただの揺れと切り捨てるには不吉すぎる。

 

 足を止める。

 呼吸を潜める。

 

 祭りの喧騒。

 逃げ惑う人々の声。

 遠くで響くモンスターの断末魔。

 石畳を駆ける足音。

 その全ての下に、別の音が混じっていた。

 

 低い。

 地の底を這うような音。

 私は自然と腰の剣へ手をかけていた。

 

 ダンジョンで培われた感覚が、警鐘を鳴らしている。

 些細な違和。僅かな前触れ。

 命を奪うものは、いつだってその直後に現れる。

 

 次の瞬間。

 轟音。

 石畳が爆ぜた。

 

「──ッ!」

 

 土煙が噴き上がる。

 人々の悲鳴が重なる。

 

『きゃああああああああああああああああああっ!?』

 

 視線を飛ばす。

 

 街路の中央。

 そこに、地面を押し割って現れた影があった。

 

 蛇。

 いや、違う。

 蛇に酷似しているだけの、長大なモンスター。

 

 石畳をめくり上げ、地中から這い出るようにして、その巨体が姿を現す。

 黄緑色の鱗。

 目や口など存在しない歪な頭部。

 

 空気が、一瞬で変わった。

 祭りの熱が凍る。

 歓声は悲鳴に変わり、浮かれていた人々の顔から血の気が引いていく。

 

 だが。

 その光景を前にして、私の胸の奥では別のものが動いていた。

 

 熱。

 

 昨夜、魔石を喰らった時の感覚。

 腹の底で燻っていた火種が、ゆっくりと息を吹き返す。

 

(……あれは)

 

 明らかに、先ほどまでの脱走個体とは違う。

 地中から現れた。

 しかも、今このタイミングで。

 

 偶然ではない。

 だが、理屈よりも先に、身体が反応していた。

 

 強い。

 おそらく、今の私では勝てない。

 それでも。

 

 喉が乾く。

 指先が熱を帯びる。

 剣の柄を握る手に力が入る。

 

 逃げろという理性があった。

 市民を避難させろという判断もあった。

 アイズを呼ぶべきだという冷静な考えもあった。

 

 なのに。

 胸の奥の何かが、囁く。

 

 狩れ。

 砕け。

 喰らえ。

 

「……黙れ」

 

 小さく呟く。

 自分に向けた言葉だった。

 それでも、視線は逸らせない。

 

 長大な蛇型の怪物が、ゆっくりと鎌首をもたげる。

 その瞳の無い頭部が、こちらを見た。

 

 いや。

 私を見たのか。

 それとも、別の何かを見ているのか。

 

 分からない。

 ただ一つ、確かなことがある。

 

 災禍は、今ここに顕現した。

 そして私は、その前に立っている。

 

 剣を抜く音が、やけに澄んで響いて。

 

 次の瞬間、怪物の咆哮が街を震わせた。

 

 

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