青春を求めて実力主義の教室へ   作:リリリリら

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六十五話

三月二日に突如として突きつけられた、特別試験『クラス内投票』。

誰か一人に批判票を集め、強制的に退学者を選び出さなければならないという、悪魔のゲーム。

 

その通達があった翌日の、三月三日。

俺――呉 刃叉羅は、自室のベッドで寝転がりながら、天井を見つめていた。

 

俺の脳内スーパーコンピューターは、現在のDクラスにおける『俺自身の立ち位置』を、極めて冷静に再計算していた。

 

俺のクラスでの認識は、以前までは至ってシンプルだった。

「体育祭や勉強会で活躍するそこそこ有能な奴」であり、そして「他クラスの超絶美少女と付き合っていて、普段は平田や軽井沢たちのグループとばかりつるんでいる、気に食わない野郎」。

 

だが、先日の山内に対する一件で、その認識に決定的な『畏怖』が加わってしまった。

 

事なかれ主義を貫きたかった俺だが、今やクラスの半数以上から「底知れない危険な奴」として恐れられている。

 

特に、俺の殺気を真正面から浴びて腰を抜かし、女子たちからもボロカスに糾弾される羽目になった山内春樹や、それに同調するクラスの底辺層からは、純度100パーセントの『嫉妬と逆恨み』を買っている。

 

あいつらからすれば、他クラスの美少女と交際し、自分たちを見下し、さらには本能的な命の危険すら感じさせる俺の存在は、なんとしても排除したい目障りなバケモノなのだろう。

 

(恐怖と嫉妬、そして逆恨みってのは、一番厄介で醜く、そして行動原理として恐ろしい感情だからな。誰が誰に入れたか分からないこの匿名投票において、あの底辺の馬鹿どもが、俺を『危険分子』に仕立て上げて批判票を集めようと画策する可能性は、十分にある)

 

だがとりあえず問題は、俺の命よりも大切な、愛しの彼女の安全だ。

 

俺はベッドから身を起こし、スマホの連絡先から『Cクラスの独裁者』の番号をタップした。

 

数回のコールの後、不機嫌そうな声が通話口から響いた。

 

『……あぁ? 誰かと思えば、バカップル男じゃねえか。何の用だ、呉』

 

「挨拶もなしか、相変わらず態度がデカいな、龍園」

 

俺は、窓の外の景色を眺めながら、極めてフラットな声で本題を切り出した。

 

「単刀直入に聞く。……お前らのクラスでも、今回のふざけた投票試験が始まったよな。一応確認しとくが、ひよりが退学になるようなことはないよな?」

 

相手は、勝つためならクラスメイトすら平気で切り捨てる冷酷な暴君だ。俺が釘を刺しておくに越したことはない。

 

俺の問いに対して。

電話の向こうの龍園翔は、喉の奥で嗤うような、特有の笑い声を漏らした。

 

『……ククク。なんだ、てめえの女が心配でたまらねえか』

 

「当たり前だ。俺の人生の全てだからな」

 

『言ってろ。……まあ、椎名を退学させれば、それに絶望しててめえも勝手にこの学校から消えるだろうからな。少しは考えたぜ』

 

龍園のその挑発的な言葉に、俺の瞳の奥がスッと冷たくなる。

 

『だがな』

 

龍園は、すぐに声のトーンを落とし、忌々しそうに、しかし確かな『警戒』を含んだ声で続けた。

 

『てめえが暴走すれば、俺たちは終わるからな。……そんな割に合わねえ馬鹿な真似はしねえさ』

 

一学期。俺がひよりを守るため、Cクラスの不良グループを相手に立ち回ったあの事件。

 

石崎やアルベルトといった手駒たちが全員気絶して床に転がった後、最後に立っていた龍園翔だけが、俺が呉一族の秘伝「外し」を解放した姿を、その目で直接見ているのだ。

 

龍園は、あの『絶対的な暴力と死の淵』を、ただ一人、身をもって体験している。

 

どれほど狂った暴君であろうと、自ら進んであの『禁忌』のスイッチを押すほど愚かではない。

 

『それに、椎名はこの馬鹿の多いCクラスにおいて、希少な頭の回るやつだからな。あいつを失うのは盤面において純粋なマイナスだ』

 

「……それを聞いて、安心したよ」

 

俺は、フッと口角を上げた。

 

「俺も、ひよりに立てた『不殺の誓い』を、いきなり破るわけにはいかないからな」

 

冗談めかしたように言うと。

 

『……てめえが言うと、冗談に聞こえねえんだよ。せいぜい、てめえ自身のクラスで足元をすくわれないように気をつけるこったな。じゃあな』

 

ツーツー、という電子音と共に、通話が切れた。

 

「……とりあえず、ひよりの安全は確保されたか」

 

俺はスマホを放り投げ、再びベッドに寝転がった。

ひよりの安全さえ確認できれば、あとはどうとでもなる。

 

俺自身の足元――いくらあいつらが裏でコソコソと策を練ろうが、軽井沢や平田たちからの支持と、これまでの客観的な貢献度を天秤にかければ、俺が最下位になる確率は限りなく低いだろう。

 

俺は早々に分析を打ち切り、明日の昼休みにひよりと一緒に食べるお弁当のおかず――彼女が好きな甘い卵焼きをどうアレンジするかという、最高に平和で有意義な思考へと頭を切り替えることにした。

 

 

――一方

最もこの試験のシステムによって心を削り取られていたのは、間違いなくBクラスのリーダーである一之瀬帆波だった。

 

放課後の人気のない中庭。

枯れ葉が風に舞うベンチに、一之瀬は一人、力なく座り込んでいた。

 

普段の彼女が纏っている、太陽のような明るさも、誰もを惹きつける絶対的なカリスマ性も、今の彼女からは完全に失われていた。その背中はあまりにも小さく、今にも押し潰されてしまいそうなほどの絶望を背負っているように見えた。

 

「……こんなところで、何をしている」

 

俺――綾小路清隆が静かに声をかけると、一之瀬はビクッと肩を震わせ、ゆっくりと顔を上げた。

 

「綾小路、くん……」

 

彼女の瞳には、色濃い疲労の色が浮かんでいた。目の下には薄く隈ができている。おそらく、この試験が発表されてからまともに眠れていないのだろう。

 

「顔色が悪いな。この試験のせいか」

 

俺が隣に腰を下ろすと、一之瀬は自嘲するように力なく笑った。

 

「……情けないよね。Bクラスのリーダーなんて言っておきながら、私は……何もできない。このままじゃ、私のクラスから……大切な仲間が、退学になっちゃう」

 

一之瀬帆波のクラス運営は、『絶対的な善』と『信頼』によって成り立っている。

 

誰も見捨てない。誰一人欠けることなく、全員でAクラスを目指す。

それが彼女の掲げる理想であり、Bクラスの結束の象徴だった。だが、今回の試験はシステム上、強制的にクラスから一人を切り捨てなければならない。それを防ぐ唯一の手段は、莫大な『プライベートポイント』の支払いのみだ。

 

「……一之瀬。単刀直入に聞く」

 

俺は、震える彼女の肩を見つめながら、冷徹な計算の元に口を開いた。

 

「クラスメイトを救うためのポイントは、いくら足りない?」

 

一之瀬は、ビクッと体を震わせ、そして、諦念に満ちた瞳で俺を見た。 

 

「……450万、ポイント」

 

彼女の声は、消え入りそうに細かった。

 

「みんなの持っているポイントを全部かき集めても、どうしてもそれだけ足りないの。……2000万ポイントなんて、今の私たちには……」

 

「そうか。……なら、その足りない450万ポイントは、どうやって工面するつもりだ?」

 

俺が尋ねると、一之瀬はギュッとスカートの裾を握りしめ、顔を伏せた。

 

「……生徒会長の、南雲先輩に……頼むつもり」

 

「……」

 

「先輩は、私にポイントを貸すと言ってくれた。でも、その代わり……」

 

一之瀬の言葉が詰まる。その唇は血の気が引いていた。

 

南雲雅。現生徒会長であり、この学校のルールすらも自らの力で改変しようとする男。

 

彼が一之瀬に対して抱いている執着は、誰の目にも明らかだ。彼がタダでポイントを貸すはずがない。その『対価』は、一之瀬帆波という少女の尊厳を完全に叩き潰し、自らの所有物とすることに他ならない。

 

「……先輩と交際することを条件に、ポイントをいただくの。それしか……もう、私のクラスの仲間を救う方法はないから」

 

それは、一之瀬帆波という一人の少女の『死』と同義だった。

南雲の毒牙にかかれば、彼女がこれまで保ってきた気高い精神は確実に壊れる。彼女が壊れれば、彼女への絶対的な信頼で成り立っているBクラスも、必然的に崩壊する。

 

(それは……少し困るな)

 

俺は、無表情のまま、頭の中の盤面を動かした。

一之瀬帆波には、そして彼女が率いるBクラスには、俺にとってまだ『利用価値』がある。

 

ここで一之瀬が壊れ、南雲のおもちゃになり下がることは、俺の計算において純粋なマイナスでしかない。

 

「一之瀬」

 

俺は、静かに、しかし絶対的な強さを持った声で、彼女の言葉を遮った。

 

「南雲生徒会長からポイントを借りるのは……少し、待て」

 

「え……?」

 

一之瀬が、涙を浮かべた目で俺を見上げる。

 

「どういう、こと……? 待つって……他に方法なんて……」

 

「俺がなんとかする。……だから、それまで軽はずみな契約は結ぶな。これは、お前のためじゃない。俺自身の都合だ」

 

それだけ言い残し、俺はベンチから立ち上がった。

 

「あ、綾小路くん……!」

 

背後から一之瀬の縋るような声が聞こえたが、俺は振り返ることなく歩き出した。

 

時間はあまりない。

不足している450万という莫大なポイントを、即座に、かつ一括で用意できる人間。

 

龍園翔もそれだけの財力を持っているだろうが、あいつが一之瀬の救済などという盤面で素直に首を縦に振るはずがない。となれば、この状況下で確実に『交渉』を成立させられる相手は、この学年に一人しかいない。

   

放課後の特別棟。

普段は生徒が立ち入らない旧理科室に、夕陽が赤く差し込んでいた。

 

俺が指定したその場所に、カツン、カツンという規則正しい杖の音を響かせて、小柄な少女が現れた。

 

「ふふふ。ごきげんよう、綾小路くん。貴方から私をこのような人気のない場所へ呼び出すなんて、明日は雪でも降るのでしょうか?」

 

Aクラスのリーダー、坂柳有栖。

彼女は銀色の髪を揺らし、杖を両手で持ちながら、俺の前に立って蠱惑的な笑みを浮かべた。

 

「単刀直入に言う。坂柳」

 

俺は、無駄な駆け引きを省き、最初から本題を切り出した。

 

「俺と取引をしてくれ。次の『学年末試験』で……俺は、お前と本気で戦う。手加減も、一切の出し惜しみもしない」

 

俺の言葉を聞いた瞬間。

坂柳の瞳の奥で、強烈な歓喜の炎が燃え上がった。

 

体育祭で俺の存在を認識して以来、ホワイトルームの最高傑作であるこの俺を自らの手で打ち負かすことこそが、彼女にとって最大の執着となっていた。

 

俺が自ら『本気で戦う』というカードを切ったことは、彼女にとってこの上ない極上の餌だ。

 

「……それはそれは。とても魅力的な提案ですね」

 

坂柳は、嬉しそうに目を細め、ゆっくりと杖をつきながら俺との距離を詰めた。

 

「ホワイトルームの最高傑作である貴方が、ようやく私の前にその真の姿を見せてくれる。……ええ、私はその言葉をずっと待っていました。ですが……」

 

坂柳は、ピタリと立ち止まり、小首を傾げた。

 

「等価交換の原則。貴方が自らそのカードを切るということは、私に対してそれ相応の『対価』を求めるということ。……いったい、貴方は私に何を要求するのでしょうか?」

 

「一之瀬のクラスに、450万プライベートポイントを貸し付けてほしい」

 

俺が要求を口にすると、坂柳は一瞬だけきょとんとし、すぐに「くすくす」と可笑しそうに笑い声を上げた。

 

「ふふふ、あははは……っ。これは驚きました。貴方と戦うために、何故私が一之瀬さんのクラスから退学者を出さないように、しかも莫大なポイントを融通して協力する必要があるのですか? Aクラスである私にとって、Bクラスが自滅してくれるのは願ったり叶ったりなのですが」

 

坂柳の言葉は、至極当然の疑問だ。

Aクラスにとって、Bクラスから退学者が出て、一之瀬の求心力が崩れていくのは純粋な利益だ。それをわざわざ自分たちの資金で救済するなど、常軌を逸している。

 

だが、俺は表情一つ変えずに答えた。

 

「ここで、一之瀬に潰れてもらっては困る」

 

「……ほう?」

 

「あいつには、俺の描く盤面においてまだ利用価値がある。南雲の介入を許し、あいつが壊れれば、俺の計算に狂いが生じる。……俺が本気を出すための『環境整備』として、あいつにはまだ、あの位置で機能してもらわなければならない」

 

俺の極めて利己的で、冷徹な理由を聞いて、坂柳は満足そうに深く頷いた。

 

「なるほど。誰かを救うというような甘い感傷ではなく、純粋な『手駒の保護』。……ええ、貴方らしくて大変素晴らしい理由です。一之瀬さんを南雲先輩のおもちゃにさせず、貴方の盤面に縛り付けておく。……ふふふ、面白いですね」

 

坂柳は、ステッキを床にコツンと鳴らした。

 

「綾小路くんからの、他でもない『本気で戦う』という極上の条件。これを無下にするのは、私の矜持に反します。……いいでしょう。一之瀬さんのクラスに、450万ポイントを融通することに同意します」

 

「恩に着る」

 

「ただし」

 

坂柳は、冷酷な勝負師の目をして俺を真っ直ぐに射抜いた。

 

「タダで貸すわけにはいきません。私の一存とはいえ、Aクラスの莫大な資産を動かすのです。私のクラスメイトを納得させるための『大義名分』と、それ相応の『利子』を付けさせていただきます」

 

「条件はなんだ」

 

「450万ポイントを貸す代わりに、『500万ポイント』にして返済すること。……それくらいのリスクを背負わせなければ、さすがに私のクラスメイトも納得しませんからね」

 

50万ポイントの利子。

高校生同士の貸し借りとしては暴利だが、退学を免れるための命綱と考えれば、決して呑めない条件ではない。

 

「……ああ。それで構わない」

 

俺が即答すると、坂柳は口角を深く釣り上げた。

 

「交渉成立ですね。……クラスメイトには、『一之瀬さんのクラスのプライベートポイントを枯渇させ、今後しばらく身動きを取れなくさせるための戦略』だとでも説明しておきましょう。これで文句は出ません」

 

「手回しが早くて助かる。……では、本人を呼ぼう」

   

数分後。

俺からのメッセージを受け取り、息を切らして旧理科室へと駆け込んできた一之瀬は、そこにいる人物を見て絶句した。

 

「さ、坂柳さん……!? どうして、あなたがここに……」

 

一之瀬は、俺と坂柳を交互に見比べ、激しく動揺している。

 

「ごきげんよう、一之瀬さん。綾小路くんから、貴方が大変お困りだと伺いまして。……私でよければ、力になりましょう」

 

「えっ……? 力に、なるって……」

 

「貴方のクラスに足りない、450万ポイント。Aクラスから貸し付けます」

 

坂柳の口から出た信じられない言葉に、一之瀬は大きく目を見開いた。

 

「ほ、本当……? でも、どうして……。Aクラスのあなたが、私たちBクラスを助けるメリットなんて……」

 

「勘違いしないでくださいね、一之瀬さん。これはボランティアではありません。『ビジネス』です」

 

坂柳は、懐から一枚の契約書を取り出し、一之瀬の前に差し出した。

そこには、学生証の端末を通じた正式なポイントの貸借に関する規約が明記されていた。

 

「450万ポイントを融通する代わりに、3ヶ月以内に『500万ポイント』にして返済すること。これが条件です。もし期日までに返済できなければ、Bクラスは今後得る全てのプライベートポイントの半分を、Aクラスに自動的に徴収されることになります」

 

それは、悪魔の契約だった。

退学者は防げるが、Bクラスの生徒たちは今後3ヶ月間、血を吐くような節約とポイントの捻出を強いられることになる。

 

だが。

 

「……南雲生徒会長に自分を売り渡し、心ごと壊れるか。それとも、クラス全員でこの重い負債を背負い、歯を食いしばって生き残るか。……選べ、一之瀬」

 

俺が横から静かに告げると、一之瀬はハッとして俺を見た。

 

彼女は、俺がなぜ坂柳を動かせたのか、その裏にある思惑など知る由もない。

ただ、俺が彼女の『尊厳』を守るために、別の道――極めて険しいが、それでも希望のある道を用意してくれたのだと、そう受け取ったのだろう。

 

一之瀬の瞳から、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。

だが、その瞳に宿る光は、先ほどベンチで見せた絶望のそれではなく、確かな『決意』の炎へと変わっていた。

 

「……ありがとう、綾小路くん。坂柳さん」

 

一之瀬は、制服の袖で乱暴に涙を拭い、契約書に自らの端末をかざした。

 

「この条件で、お願いします。……私たちBクラスは、絶対に誰一人欠けることなく、この500万ポイントを返済してみせます!」

 

『ピロンッ』

 

無機質な電子音と共に、坂柳の端末から一之瀬の端末へと、450万という莫大なポイントが移動した。

 

「ふふ。その意気です。せいぜい、足掻いてみせてくださいね」

 

坂柳は満足そうに微笑み、俺に流し目を送った。

 

「それでは綾小路くん。……『学年末試験』、楽しみにしていますよ。どうか、私を退屈させないでくださいね」

 

坂柳は、旧理科室を後にした。

残された一之瀬は、端末の画面に表示された莫大な数字を見つめ、安堵と重圧が入り混じったような深いため息を吐いた。

 

「……綾小路くん。本当に、何てお礼を言ったらいいか……。綾小路くんが坂柳さんを説得してくれたんだよね? 私のために……」

 

「勘違いするな。俺は俺の都合で動いただけだ」

 

俺は一之瀬の感謝の言葉を淡々と切り捨てた。

 

「それに、喜んでばかりはいられないぞ。3ヶ月で500万ポイントだ。これからのBクラスは、地獄のような節約生活が待っている」

 

「うん、分かってる。……でも、退学者が出ることに比べたら、そんなの全然平気だよ。みんなで頑張れば、絶対に乗り越えられる」

 

一之瀬は、ようやく本来の彼女らしい、力強く、そして美しい笑顔を取り戻していた。

 

(……これでいい)

 

俺は、夕陽に照らされる一之瀬を見つめながら、内心で冷徹に計算を終える。

南雲の介入を防ぎ、一之瀬帆波という手駒の精神を保護した。

 

同時に、Aクラスの坂柳有栖との『直接対決』という舞台も整った。

そして何より。この裏の取引により、俺自身の身の安全と、Dクラスの今後の盤面への影響は最小限に抑えられた。

 

「……帰るぞ、一之瀬。あまり遅くなると、クラスの奴らが心配する」

 

「あ、うん! 一緒に帰ろっか、綾小路くん!」

 

俺は、再び回り始めた自らの盤面を俯瞰しながら、静かに旧理科室を後にした。

 

こうして、影の支配者と女王の取引により、一つの退学の危機は回避された。

 

 

翌日の、三月四日。

放課後、俺はひよりと図書館でデートをした後、彼女を女子寮の部屋の前まで送り届けた。

 

「おやすみ、ひより。夜は冷えるから暖かくして寝ろよ」

 

「はいっ。刃叉羅くんも、おやすみなさい」

 

天使の笑顔に見送られ、俺はホクホクとした足取りで自分の男子寮の部屋へと戻ってきた。

 

ガチャリ、とドアを開け、部屋に入って上着を脱ごうとした、その時だった。

 

『ピンポーン』

 

部屋のチャイムが、無機質に鳴り響いた。

 

「ん?」

 

俺が再び玄関に戻り、ドアを開けると。

そこには、予想通りというか何というか、無表情のまま突っ立っている男がいた。

 

「……また来たのかよ、綾小路」

 

「夕飯時だったからな」

 

綾小路は、一切悪びれる様子もなく、俺が道を開けるのを待っていた。

どうやら俺の部屋を、完全に無料の定食屋か何かと勘違いしているらしい。

 

「はぁ、上がりな。……今日は少し冷えるから、温かい『うどん』でも作ってやる。冷凍の讃岐うどんはいい出汁を吸うからな」

 

「助かる。ネギは多めで頼む」

 

俺は手際よくキッチンに立ち、出汁を引き、鶏肉と油揚げ、たっぷりのネギを入れた特製のうどんを作り上げた。

 

「ほら、食え」

 

「……いただきます」

 

二人でテーブルに向かい合い、ズルズルと麺を啜る。

綾小路は相変わらず見事な食べっぷりで、俺の作ったうどんを平らげていく。

半分ほど食べたところで、俺はふと手を止め、目の前で黙々と麺を啜る男に問いかけた。

 

「……なあ、綾小路。今回の『クラス内投票』お前はどう見てる?」

 

俺の問いかけに、綾小路もゆっくりと箸を止めた。

 

「誰か一人が必ず退学になる、悪趣味極まりないルールだ。平田は露骨に参ってるし、クラス全体が疑心暗鬼になってる。……お前のことだ、すでに誰を切り捨てるか、盤面の整理は終わってるんじゃないのか?」

 

俺が水を向けると、綾小路はどんぶりを見つめたまま、静かな声で口を開いた。

 

「……俺が誰かを切り捨てる前に、俺自身が切り捨てられそうになっている」

 

「――――は?」

 

予想外の言葉に、俺の持っていた箸がピタリと止まった。

綾小路は、俺の目を真っ直ぐに射抜いて言った。

 

「俺を退学させようと、山内が裏で動いているみたいだ」

 

「……山内が? お前をターゲットにしてるってことか?」

 

俺は、本気で意味が分からず聞き返した。

 

「なんでお前なんだ? お前、目立たないようにずっと息を潜めてただろ。俺みたいにあいつらから嫌われてるってわけでもないだろうに……」

 

「……俺に批判票を集めようとしているのは、Aクラスの坂柳が裏で山内にそう指示したからだ」

 

綾小路は、淡々と事実だけを並べた。

 

「情報の出所は言えないが、これは確かな情報だ。……今、山内は本堂たちと結託して、男子の多くと一部の女子に対し、俺を退学させるように扇動して回っている」

 

「……はあ」

 

俺は、深すぎるため息を吐き出し、うどんのどんぶりをテーブルに置いた。

 

「なるほどな。Aクラスのお嬢さんに『こいつを退学にすれば付き合ってあげる』とでも言われて、鼻の下を伸ばしながら必死に票集めをしてるってわけだ。救いようのない馬鹿だな」

 

俺は呆れ果てて肩をすくめた後、鋭い視線を彼に向けた。

 

「……で? 普段は自分の手の内を明かさないお前が、わざわざ俺にそんな裏事情を教えるってことは……俺の協力が必要ってことか?」

 

この男が、自らの危機を自分から口にするなど普通じゃない。何か、俺の立ち回りやクラスへの影響力を利用したい盤面でもあるのだろうか。

 

だが。

俺の推測に反して、綾小路は静かに首を横に振った。

 

「いや。……問題ない」

 

「あ?」

 

「俺が直接手を下すまでもなく、事態は『収まるべきところ』に収まる。……そういうことだ」

 

綾小路は、うどんの最後の一本を啜り終え、手を合わせた。

 

「ごちそうさま」

 

その一切の焦りも感情のブレもない態度を見て、俺は全てを悟った。

 

こいつに対する退学の危機など、すでにこいつ自身の計算によって、完全に無力化されているのだと。

 

俺は、腕を組み、目の前の影の支配者を見てニヤリと笑った。

 

「……なるほどな。わざわざ俺の手を借りるまでもなく、すでに『山内の墓穴』は掘り終わってるってわけか」

 

「俺は何もしていない。あいつが自滅するだけだ」

 

「へえへえ、そういうことにしておいてやるよ」

 

俺は、ふっと息を抜き、自分のうどんを再び啜り始めた。

 

「まあ、お前が自力で対処できるなら、俺がしゃしゃり出る幕じゃねえな。俺は大人しく、ひよりとカフェでケーキでも食いながら、その『収まるべきところ』ってやつを見物させてもらうとするよ」

 

「……ああ。そうしてくれ」

 

春の足音が近づく夜。

出汁の香りが漂う部屋の中で、暗殺者と影の支配者は、愚かなクラスメイトの『死刑判決』を、静かに、そして確実なものとして共有したのだった。

 

 

 

 

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