青春を求めて実力主義の教室へ   作:リリリリら

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六十六話

特別試験『クラス内投票』の投票日を明日に控えた、三月五日。木曜日。

一年Dクラスの教室は、朝からずっと、胃がねじ切れるような最悪の空気に包まれていた。

 

表面上はいつも通りに談笑しているように見えても、誰もが互いの腹の底を探り合い、視線を泳がせている。

 

(……誰が、誰に批判票を入れるのか)

 

匿名でクラスメイトを一人、確実に退学へと追いやる魔女狩りの儀式。自分が生贄になるかもしれないという恐怖と、自分が誰かを殺さなければならないという罪悪感。その二つの重圧が、教室の空気をドロドロとした泥水のように濁らせていた。

 

俺――呉 刃叉羅は、そんな教室の喧騒から完全に意識を切り離し、自分の席でただひたすらに窓の外の雲の形を眺めていた。

 

先日の夜、綾小路からすでに『山内が裏で動いている』という愚かな目論見を聞かされている俺からすれば、このヒリついた空気も、結末の出ている退屈な茶番に過ぎなかった。

 

六時間目の授業が終わり、帰りのホームルーム。

担任の茶柱が、明日の投票についての最終確認を行い、教室を去っていった直後のことだった。

 

「――待って。みんな、聞いてちょうだい」

 

静寂を切り裂くように、堀北鈴音が席を立った。

彼女は迷いのない足取りで教壇へと向かい、クラス全員を見渡せるその場所に立つと、鋭い一喝を放った。

 

「明日の投票、このままの状態で行うわけにはいかないわ」

 

堀北の凛とした声が、ざわついていた教室を瞬時に静まり返らせる。

 

彼女は教壇の縁を強く握りしめ、ほんの一瞬だけ、苦しげに目を伏せた。同級生を自らの手で切り捨てざるを得ないことへの、拭いきれない負い目。だが、彼女はすぐに顔を上げ、Aクラスへ上がるための冷徹なまでの合理性をその瞳に宿した。

 

「……この特別試験は、クラスからどうしても生徒を一人切り捨てなければならない、残酷な試験よ。けれど、私たちが本気で上のクラスを目指す以上、感情論や誰かへの忖度で優秀な生徒を失うわけにはいかないわ」

 

クラスメイトたちが固唾を呑んで見守る中、堀北は一切のブレがない声で断言する。

 

「だからこそ、客観的に見て『最もクラスに貢献していない生徒』を選ぶ必要があるの」

 

そして、彼女の氷のように鋭い視線が、ある一点を真っ直ぐに射抜いた。

 

「私がこの試験で退学に指名するのは……あなたよ、山内春樹くん」

 

「……は、はぁ!? な、なんで俺なんだよ!」

 

教壇から名指しされた山内春樹が、椅子を鳴らして飛び上がった。

 

堀北は冷ややかな瞳のまま、彼の逃げ道を塞ぐように告げる。

 

「あなたが裏で、特定の生徒に批判票を集めようと画策していることは分かっているわ。あなたのターゲットは、綾小路くんね。確かに彼は普段からパッとしないし、目立たない存在よ。でも、少なくともあなたのように、クラスの足を引っ張るような真似は一度もしていないわ」

 

「な、何を……! 足を引っ張ってる奴なら、俺以外にもいるだろ! 寛治や本堂たちだってそうじゃねえか!!」

 

追い詰められた山内が、無様な責任転嫁を始める。

 

「て、てめぇ……!」

 

突然名前を出された池や本堂が、信じられないものを見るような目で激しい怒りを露わにした。

 

四面楚歌になりかけた山内は、さらに縋るように叫んだ。

 

「く、櫛田ちゃん! 櫛田ちゃんが協力してくれたんだ! 櫛田ちゃんがみんなに声をかけて……!」

 

「そんな……ひどいよっ、山内くんっ!」

 

突然名前を出された櫛田は、ひどく傷ついたような悲痛な声を上げた。

 

「私は、山内くんが『どうしても退学したくないから助けてほしい』って泣きついてきたから……助けようとしたのに……っ」

 

そのまま、櫛田は泣き崩れるように机に顔を伏せてしまった。

 

「……櫛田さん。あなたのクラスでの影響力を考えなさい」

 

堀北が、顔を伏せた櫛田に向かって厳しく注意する。

 

「一歩間違えれば、クラスに必要な生徒が退学する可能性があったのよ。いくら泣きつかれたからといって、軽率な行動は慎むべきだわ」

 

「な、なんだよそれ……!」

 

喚き散らそうとする山内を、堀北が冷徹な声で切り捨てる。

 

「見苦しい言い訳はやめなさい。私があなたを指名した最たる理由があるわ。……あなたは、クラスを裏切ったわね」

 

「う、裏切った……!?」

 

「ええ。あなたはAクラスの坂柳さんと裏で通じて、彼女の指示通りに綾小路くんをターゲットにした。……どうせ『綾小路くんを退学させたら付き合ってあげる』とでも言われて、本気にして尻尾を振ったのかしら?」

 

「――――ッ!!」

 

図星を突かれたのか、山内はカクカクと口を動かすだけで、完全に言葉に詰まってしまった。

 

「……マジかよ、あいつ」

 

「他クラスの女のために、俺たちを売ったのか……?」

 

周囲の生徒たちから、ドン引きしたような、軽蔑と嫌悪の入り混じった声が漏れ始める。

 

その空気の重さと、完全に逃げ場を失ったパニックから、山内は狂ったように教室の後ろにいる俺を指差した。

 

「ち、違う! 俺は裏切ってねえ! むしろ裏切り者なのは呉の方だろ!! あいつ、龍園のクラスの女と付き合ってるんだぞ! 体育祭の時だって、今回だって、いつCクラスに俺たちの情報を売るか分かったもんじゃねえ! 退学になるべきなのは俺じゃなくて呉だ!!」

 

完全に俺への八つ当たりであり、スパイ行為だと決めつける苦し紛れの責任転嫁。

 

だが、その見苦しい叫びを、堀北は鼻で笑い飛ばした。

 

「……愚かすぎて、話にならないわね」

 

堀北は教壇を叩き、クラス全体に向かって強い口調で言い放った。

 

「呉くんは、体育祭で圧倒的な結果を残し、普段の勉強会でも講師としてこのクラスに多大な貢献をしているわ。クラスに実益をもたらしている彼と、他クラスの生徒に唆されて身勝手に同級生を売ろうとしたあなた。比べることすらおこがましいわね」

 

ぐうの音も出ない正論。

山内は口をパクパクとさせるだけで、もはや有効な反論を一つも紡ぐことができなかった。

 

「以上の理由から、私は山内くんがこのクラスで最も退学に相応しい生徒だと判断するわ。……みんなも、明日、誰に票を投じるべきか、クラスの未来のために『よく考えて』ちょうだい」

 

堀北の宣告は、事実上の死刑宣告だった。

教室のあちこちから、山内に対する軽蔑と怒りの視線が向けられる。

 

(……チェックメイトだな)

 

俺は、膝から崩れ落ちた道化の姿を、冷めた目で見守っていた。

 

「ひ、平田! 助けてくれよ! お前、誰も退学にさせないって言ったじゃねえか!!」

 

山内は、涙と鼻水で顔をグシャグシャにしながら、平田の足にすがりついた。

 

「うっ……あぁっ……」

 

平田は山内を助けたいという思いと、クラス全体を救うためには誰かを犠牲にしなければならないという現実の板挟みになり、頭を抱えてその場にうずくまってしまった。誰も切り捨てられないという彼の優しさが、完全に彼自身の精神を壊しかけている。

 

俺は、その痛々しい姿を見て、微かに眉をひそめた。

 

(……平田の奴、完全にキャパオーバーを起こしてるな)

 

裏の世界で生きてきた俺とは違い、あいつは底抜けのお人好しで、真っ当な善人だ。この学校に来てから、気さくに話しかけてくれた数少ない『気のいい友人』でもある。

 

(……今の平田を放ってはおけないな……)

 

俺は小さくため息をつき、ポケットからスマホを取り出した。

 

『ごめん、ひより。少し急用ができた。放課後のデート、少し遅れる。最悪、今日は会えなくなるかもしれない』

 

送信して数秒。すぐに既読がつき、『大丈夫ですよ。何かあったんですか? 無理しないでくださいね』と、天使からの優しすぎる返信が届く。

 

その気遣いに胸の奥を温めながら、俺はスマホをしまい、席を立った。

絶叫する山内を冷ややかに見下ろす綾小路を一瞥した後、俺は、床にうずくまって頭を抱えている平田の元へと歩み寄った。

 

「……平田。立てるか」

 

「呉、くん……? でも、僕は、山内くんを……クラスの、みんなを……っ」

 

虚ろな目でうわ言のように呟く平田の腕を掴み、俺は半ば強引に彼を立たせた。

 

「ここは空気が悪すぎる。俺の部屋に来い。少し、話をしよう」

 

俺は、周囲のざわめきや山内の喚き声を意に介さず、放心状態の平田を連れて教室を後にした。

 

 

 

男子寮、俺の部屋。

ソファに力なく座り込む平田の前に、温かいコーヒーを入れたマグカップをコトンと置いた。

 

「飲め。少しは落ち着く」

 

「……ありがとう」

 

 声にならない嗚咽を漏らしながら、平田はどれくらいの時間、涙を流し続けていただろうか。

 

俺は何も言わず、ただ冷めていくコーヒーを口に運びながら、彼の肩の震えが少しずつ収まっていくのを待っていた。

 

やがて。

 

「……ごめん、みっともないところを、見せたね……」

 

赤く腫らした目で、平田がようやく顔を上げた。

 

「気にするな。溜め込んでぶっ壊れるくらいなら、いくらでも吐き出せばいい」

 

俺が静かに返すと、平田は自嘲するような、ひどく歪んだ笑みを浮かべた。

 

「……呉くんは、いつも僕のことを、真っ当な善人だって言ってくれたね。……でも、違うんだ」

 

平田の声は、ひどく暗く、重かった。

 

「僕は、善人なんかじゃない。ただ……過去のトラウマに怯えて、二度と同じ過ちを繰り返さないように必死に取り繕っているだけの、最低な偽善者なんだよ」

 

その瞳の奥に宿る、決して消えることのない昏い後悔。

 

俺は急かすことなく、彼が自らの口で過去の鎖を解き放つのを待った。

平田は、両手で空になったマグカップを強く握りしめ、ポツリ、ポツリと語り始めた。

 

「……僕には、小学校からずっと仲の良かった親友がいたんだ。でも、中学に上がって別のクラスになってからは、お互い少しずつ遊ぶ機会も減っていってね。……そんな時、彼が自分のクラスで、酷いいじめに遭っているのを知ったんだ」

 

平田の握る手に力が入り、指の関節が白く浮き出る。

 

「最初は些細なからかいだったらしいんだけど、それは日に日にエスカレートしていって……暴力や、精神的な虐待へと変わっていった。……廊下ですれ違った時、彼が僕に助けを求めるような視線を向けてきたことがあったんだ。でも、僕は……目を逸らした」

 

平田の声が震え始める。

 

「自分が彼を庇えば、今度は自分が次の標的になるかもしれない。それが怖くて、保身のために、僕は親友を見捨てたんだ」

 

「…………」

 

「そして……彼は限界を迎えた。ある日、学校の屋上から……飛び降りたんだ」

 

平田の言葉が、部屋の空気を重く沈ませる。

飛び降りた友人は、命こそ取り留めたものの、重い障害を負い、昏睡状態に陥ったという。

 

自分に向けられたSOSを無視し続けた結果、友人が自ら命を絶とうとした。その事実が、当時の平田の精神を完全に破壊したのだ。

 

「彼が飛び降りた後、僕の中で何かが完全に壊れた」

 

平田の目が、当時の狂気を思い出すように暗く濁る。

 

「『こんなことは二度と起こさせない』……そう思った僕は、いじめをなくすために、力を行使した。……僕自身が、トップに立ち、恐怖で全員を支配したんだ」

 

「恐怖で……」

 

「……ああ。逆らう者は徹底的に暴力でねじ伏せ、少しでも争いが起きそうになれば僕が介入して罰を与えた。全員が僕を恐れ、僕の顔色を窺うようになった。……いじめはなくなったよ。でも、クラスからは笑顔も、会話も、自由も、全てが消え失せた。ただ息の詰まるような、死んだ空間が出来上がったんだ」

 

それが、平田洋介がひた隠しにしてきた過去の真実。

 

誰も見捨てたくないという異常なまでの執着は、見捨てたことで親友を失いかけた後悔から。

 

争いを極端に避けるのは、自らの手でクラスを恐怖で支配し、崩壊させてしまった己の罪悪感から。

 

「……だから、僕は誓ったんだ。この高校では、絶対に誰も見捨てない。みんなが笑って過ごせるクラスを作るって。それが、僕の犯した罪への贖罪のはずだった」

 

平田は、再び両手で顔を覆い、震える声で絞り出した。

 

「でも、ダメだった。山内くんが切り捨てられようとしているのに、僕は何もできない。また……また僕は、クラスメイトが消えていくのを、ただ見ていることしかできないんだ……! 僕は、結局あの頃から何も変わってない、ただの臆病者なんだよ……ッ!」

 

悲痛な叫びが、部屋に響き渡る。

自分の無力さに絶望し、過去の亡霊に押し潰されそうになっている少年。

 

俺は、ソファの背もたれに深く寄りかかり、小さく息を吐いた。俺に出来ることは、ただの『友人』として、こいつの背負いすぎた荷物を軽くしてやるだけだ。

 

「……なるほどな。大体分かった」

 

俺は、できる限り穏やかな、しかし芯のある声で口を開いた。

 

「平田。お前は、自分のことを臆病で偽善者だっていうけどな。……全員を無傷で救うなんて、神様でもなきゃ無理な話なんだよ」

 

「え……?」

 

顔を上げた平田に向かって、俺は優しく言葉を紡いだ。

 

「生きるってのは、常に取捨選択の連続だ。今回みたいに、誰かを切り捨てなきゃクラス全体が沈むような最悪の状況だってある。そこで全員を救おうとして共倒れになるのは、優しさじゃなくてただの思考放棄だ」

 

「でも……僕は、また見捨てることになる……っ」

 

「山内を切り捨てるのは、お前が見捨てるからじゃない。あいつ自身がクラスを裏切って、自業自得で招いた結果だ。お前が責任を感じる必要はどこにもない」

 

俺は身を乗り出し、平田の濁った目を真っ直ぐに見つめた。

 

「お前は過去の過ちを悔やんで、この一年間、誰よりもクラスのために汗をかいてきただろ。不器用な連中をまとめて、赤点になりそうな奴に勉強を教えて、クラスがバラバラにならないように必死に走り回ってた。……俺は、そんなお前の姿をずっと見てきたぞ」

 

俺の言葉に、平田の目が僅かに見開かれる。

 

「お前がみんなを思ってやってきた努力は、偽善なんかじゃない。間違いなく本物の『優しさ』だ。山内一人を救えないからって、お前が積み上げてきたその本物まで全否定するな」

 

「呉、くん……」

 

「誰も切り捨てたくないって泣けるのは、お前が真っ当に心優しい人間だからだ」

 

俺は、少しだけ口角を上げて笑いかけた。

 

「その痛みを、無理に消そうとするな。誰かを救えなかった痛みも、過去の罪悪感も、全部ひっくるめてお前自身の背中に背負って生きていけ。……それが、お前がその親友に対してできる、一番の贖罪なんじゃないか?」

 

痛みを消すのではなく、背負って生きろ。

俺なりの不器用な励ましに、平田は唇を強く噛み締め……やがて、ポロポロと大粒の涙を零し始めた。

 

「うっ……ううっ……!」

 

声を殺して泣く平田。

だが、その涙は先ほどの教室で見せていたような「壊れかけた絶望」ではなく、前に進むための「痛みの吐露」のように見えた。

 

俺は何も言わず、ただ静かに見守りながら、友人の背中から重い荷物が少しでも降りるのを待っていた。

 

やがて、涙を拭った平田は、俺の顔を見て、どこか憑き物が落ちたような、本来の穏やかな笑顔を見せた。

 

「……ありがとう、呉くん。君の言う通りだね。僕は、ずっと過去から逃げていただけだったのかもしれない」

 

平田は、しっかりと俺の目を見返してきた。

 

「山内くんを救えない現実は、変わらない。……でも、残されたクラスのみんなが明日へ進めるように……僕は、僕自身の意志で、この痛みから逃げずに立ち向かうよ」

 

「ああ。それでいい」

 

俺は満足して頷いた。

 

「肩の荷が重くなったら、いつでも言え。愚痴くらいならいつでも聞いてやるからよ」

 

「ふふっ……呉くんは、本当に大人だね。僕なんかよりずっと、真っ直ぐで優しいよ」

 

「…………そんなことはないさ。……さてと。俺は今から、愛しの天使様に遅刻の謝罪と埋め合わせをしに行かなきゃならねえ」

 

「あはは、そうだね。椎名さんを待たせちゃダメだ。……引き留めて、本当にごめん。そして……ありがとう、刃叉羅くん」

 

初めて下の名前で呼ばれたことに少しだけ驚きつつも、俺は背を向けて手を軽く振った。

 

「じゃあな、洋介。……明日はただ、胸を張って前を向いてりゃいい」

 

こうして、俺の短いカウンセリングは終わった。

教室を覆っていたドロドロとした空気も、友人の過去の呪縛も、すべては明日、一つの結末を迎える。

 

俺は、冷たい夜風にあたりながら、ひよりの待つ場所へと足取りを早めたのだった。

 

 

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