青春を求めて実力主義の教室へ   作:リリリリら

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六十八話

三月六日、金曜日。

一年生に初めての退学者を生み出した特別試験『クラス内投票』が終わった、その日の夕方。

 

俺――呉 刃叉羅の男子寮の部屋には、温かく、そしてどこか切ない匂いが漂っていた。

 

「……美味しいです。刃叉羅くんのシチュー、心の中まで温かくなります」

 

リビングのテーブルで、俺がじっくりと時間をかけて煮込んだ特製のビーフシチューをスプーンで掬いながら、椎名ひよりが、少しだけ潤んだ瞳で儚く微笑んだ。

 

「そうか。お代わりはいくらでもあるから、ゆっくり食えよ」

 

俺は、向かいの席で頬杖をつきながら、愛する天使の顔を静かに見守っていた。

 

今日の試験結果。ひより自身は、プロテクトポイントを獲得した。だが、同じクラスの真鍋志保が批判票一位で退学になったことで、平和を愛する彼女の心には『誰かが切り捨てられるシステム』への寂しさが、見えない棘のようにチクリと刺さっている。

 

図書室から俺の部屋に連れてきた後も、ひよりはどこか少しだけ物思いに沈んだ様子だった。

 

俺にできるのは、こうして温かくて美味い飯を食わせ、彼女の心が少しでも上向くのを待つことだけだ。

 

「……刃叉羅くん」

 

ひよりが、スプーンを置き、静かに口を開いた。

 

「私、プロテクトポイントを頂いて、刃叉羅くんとこれからも一緒にいられることは本当に嬉しいんです。でも……」

 

彼女の美しい銀色の睫毛が、微かに伏せられる。

 

「真鍋さんが教室からいなくなる時……やっぱり少しだけ、胸が痛みました。……この学校のルールは、本当に残酷ですね」

 

過剰な罪悪感やパニックに陥っているわけではない。ただ、純粋に争いを好まない彼女だからこそ感じる、当たり前の「寂しさ」と「痛み」。

 

「……ひより」

 

俺は、席を立ち、ひよりの隣へと移動した。

そして、彼女の小さな頭を胸に引き寄せ、その柔らかな銀髪をゆっくりと、優しく撫でた。

 

「ひよりはそのままでいい。……誰かがいなくなるのを寂しいと思える、お前のその優しさを無理に捨てる必要はどこにもない」

 

俺の手に、ひよりの温もりが伝わってくる。

 

「この学校のルールは確かに厳しいものだ。だが、お前は自分の力で、クラスの奴らから信頼されて今の居場所を勝ち取ったんだ。だから、何も引け目を感じることはない。……それでも、どうしようもなく寂しくなった時は、こうして俺が美味い飯を作って、いくらでも話を聞いてやるからよ」

 

「……刃叉羅くん……っ」

 

ひよりは、俺のシャツの胸元にそっと顔を埋め、ギュッと抱きしめ返してきた。

 

号泣するわけではない。ただ、冷えかけた心を温め直すように、俺の体温を静かに確かめている。

 

暗殺者の家系に生まれ、血と暴力の世界を生きてきた俺。

そんな俺の手が、今、たった一人の少女の心を癒やすためだけに動いている。それがどれほど奇跡的で、俺にとって救いであるか、ひよりは一生気づかないだろう。

 

やがて、すっかり穏やかな表情を取り戻したひよりを、俺は女子寮の部屋の前まで送り届けた。

 

「今日は、美味しいご飯と……優しい時間を、ありがとうございました。もう、大丈夫です」

 

「ああ。夜は冷えるから、暖かくして寝ろよ。……明日、また図書室でな」

 

「はいっ。おやすみなさい、刃叉羅くん」

 

天使のいつもの明るい笑顔を見届けたことに安堵し、俺は自分の部屋へと帰還した。

 

ガチャリ。

自室のドアを開け、上着をハンガーに掛けようとした、その時だった。

 

『ピンポーン』

 

「…………」

 

俺は、もはやため息をつく気力すら湧かなかった。

ドアを開けると、そこには案の定、無表情のまま突っ立っている男の姿があった。

 

「夕飯は、もう終わったか?」

 

「お前、マジで俺の部屋に発信機か何か仕掛けてないか? なんで俺が帰ってきた数秒後にピンポイントで現れるんだよ」

 

俺は呆れながらも、道を開けて綾小路清隆を部屋に招き入れた。

 

「飯は終わったが、シチューの残りとバゲットくらいならあるぞ。食うか?」

 

「助かる。実は少し小腹が空いていたんだ」

 

もはや完全な俺の部屋の常連と化した影の支配者に、俺は温め直したビーフシチューとカリカリに焼いたバゲットを出してやった。

 

綾小路は、相変わらず行儀よく、そして見事なペースでシチューを平らげていく。

 

食後のコーヒーを二つのマグカップに注ぎ、テーブルに向かい合って座る。

 

「……で?」

 

俺は、コーヒーの湯気を吹き飛ばしながら、今日の試験について口火を切った。

 

「見事だったな、綾小路。……あの馬鹿を見事に地獄の底に突き落として、自分は賞賛票一位でプロテクトポイントを獲得するとはな」

 

綾小路はコーヒーを一口啜り、静かに首を横に振った。

 

「いや。今回の盤面を操作したのは、俺じゃない」

 

俺は思わず眉をひそめた。

 

「山内を退学に追い込み、俺にプロテクトポイントを与えたのは……Aクラスの、坂柳だ」

 

綾小路は、淡々と、しかし事の顛末を正確に語り始めた。

 

「混合合宿の時、山内が不注意で坂柳にぶつかり、彼女を転倒させた一件があっただろう。……あの時、山内は謝るどころか彼女を侮辱した。坂柳は、その時の『怒り』を晴らすために動いたんだ」

 

「なるほどな」

 

俺の脳裏に、合宿の夜、坂柳の瞳に宿っていた純度100パーセントの殺意が蘇った。

 

あのお嬢さんなら、自分をコケにした愚者を絶対に許さないだろう。

 

「坂柳は、山内に『俺を退学にすれば、Aクラスの賞賛票を与えて守ってやるし、付き合ってあげる』と甘い嘘を吐き、山内を完全に手駒として踊らせた。……そして、一番高いところまで有頂天にさせてから梯子を外し、クラス全員からのヘイトと絶望の中で退学させる。……『上げて落とす』という、最も残酷な復讐だ」

 

「えげつねえ……」

 

俺は、その完璧で冷酷な心理戦に、思わず感嘆の息を漏らした。

 

「まさに魔女のやり方だな。あのお嬢さん、見た目は儚げな美少女だが、中身は筋金入りのサディストだぜ」

 

「同感だ」

 

綾小路が、珍しく俺の意見に同意した。

 

「だが、それだけじゃない」

 

綾小路の無機質な瞳が、僅かに鋭さを増す。

 

「坂柳の最大の目的は、山内への復讐じゃない。……『俺と戦うため』だ」

 

「お前と?」

 

「ああ。彼女は俺の過去を少し知っているらしくてな。俺の実力を直接測り、打ち負かすことを望んでいるようだ」

 

綾小路は、深い事情には踏み込まずに、マグカップの縁を指でなぞりながら続けた。

 

「だが、今回のクラス内投票のような『他人の悪意による理不尽な退学』で俺が消えてしまっては、彼女の目的は果たせない。……だから、俺にプロテクトポイントを与えたんだ。今後の特別試験で、退学のリスクを恐れることなく、俺と正面から戦うために」

 

「――――」

 

俺は、しばらく言葉を失った。

 

(……すげえな)

 

自分を侮辱した馬鹿を完璧に社会的に殺しつつ、綾小路に『決闘の招待状』を叩きつける。

 

たった一つの盤面操作で、一石二鳥、いや三鳥もの結果をもたらす完璧な知略。

 

「ははっ……! すげぇな!あのお嬢さん、お前並みに頭が回るじゃねえか」

 

「否定はしない。非常に厄介な相手だ」

 

綾小路も、小さく息を吐いた。

 

「まあ、俺に言わせりゃ、どっちもどっちの頂上決戦だがな。……お前らが今後どう戦おうが勝手だが、俺の平穏な日常とひよりだけは巻き込むなよ」

 

「分かっている。お前と戦うメリットは俺には一つもないからな」

 

互いに深くは踏み込まない、絶妙な距離感の不可侵条約。

試験の総括も済み、俺がマグカップを片付けようと立ち上がりかけた、その時だった。

 

「……呉。一つ、相談があるんだが」

 

「あ? なんだ、シチューのお代わりならもう無いぞ」

 

「いや、そうじゃない」

 

綾小路は、少しだけ言い淀むような、彼にしては珍しい間を置いた後、極めて真面目な顔で問いかけてきた。

 

「……女性へ『誕生日プレゼント』を贈るなら、何を贈るべきだ?」

 

「――――ぶっ」

 

俺は、口に含みかけていたコーヒーを危うく吹き出しそうになった。

 

「げほっ、ごほっ……! お前、いきなり何言い出してんだ!?」

 

俺が咳き込みながら振り向くと、綾小路は全く表情を変えずに俺を見つめている。

 

「一般論でいい。女性が喜ぶプレゼントの傾向を知りたい」

 

「お前なぁ……俺を恋愛マスターか何かと勘違いしてないか?」

 

俺は呆れて溜息をついたが、俺の脳内スーパーコンピューターが、瞬時に一つの『データ』を弾き出した。

 

(……待てよ。女性への誕生日プレゼント?)

 

今の時期。三月。

俺のクラスの女子の誕生日のリストを脳内で検索する。

 

(……確か、明後日の三月八日って。軽井沢の誕生日じゃなかったか?)

 

「――――ふっ」

 

俺は、全てを察し、口角をニヤリと吊り上げた。

なるほど。自分が裏で支配している女子の誕生日を祝い、彼女の心をさらに強固にしようと画策しているのか。

 

「おやおや? ついに『彼氏』の真似事でも始める気になったのか? 相手は……まあ、言わなくても大体想像はつくがな」

 

俺が意地悪くニヤケ顔でからかうと、綾小路は微かに目を伏せた。

 

「……彼氏の真似事じゃない。盤面を円滑に回すための、必要な投資だ。彼女には色々と動いてもらっているからな」

 

「へえへえ、そういうことにしておいてやるよ」

 

俺は、少しだけ面白がりつつも、ふっと真面目な顔になって彼に向き直った。

 

「いいか。投資だの盤面だの理屈をつけるのは勝手だがな……プレゼントってのは、『一般論でウケがいいもの』を渡せば正解ってわけじゃないぞ」

 

「……どういうことだ?」

 

「プレゼントってのは、『何をあげるか』じゃなく、『誰が、どんな気持ちで選んだか』が一番重要なんだよ」

 

俺は腕を組み、静かに諭すように語った。

 

「相手の好みを想像して、似合うかどうか悩んで、自分の足で探して決める。その『相手のために頭と時間を使った』っていうプロセスそのものが、一番の『誠意』なんだ」

 

俺は、自分の愛する天使の顔を思い浮かべながら、少しだけ表情を緩めた。

 

「俺だって、ひよりに贈り物をするときは一般論なんか当てにしない。ひよりの喜ぶ顔を想像して、俺自身が『これだ』って心から思えるものを選ぶ。……お前も、俺に正解を求めるんじゃなくて、自分の目で見て、自分の頭で考えて選んでやれ。それが、お前にとっての唯一の正解だ」

 

「…………」

 

綾小路は、真面目な顔で深く頷き、その『非合理的だが人間的なロジック』を脳内にインプットしているようだった。

 

「……俺自身の目で見て、選ぶ、か。なるほど。参考になった。礼を言う」

 

綾小路は、少しだけ思考がクリアになったような、あるいは新たな課題を見つけたような顔で立ち上がった。

 

「じゃあ、俺はこれで失礼する。シチュー、美味かった」

 

「おう。しっかり悩んで、いいもん見つけてこいよ」

 

俺は、去っていく影の支配者の背中を見送りながら、数日後の軽井沢のリアクションと、こいつが一体どんな顔で店の中を歩き回るのかを想像して、一人でクスクスと笑い声を漏らした。

 

綾小路が帰った後、部屋には再び静寂が訪れた。

時計の針は、夜の十時を回ろうとしている。

俺はソファに寝転がり、スマホを手に取った。

 

今日、どうしても伝えておかなければならないことが、あと一つだけ残っていた。

 

連絡先から『Cクラスの暴君』の番号をタップする。

数回のコールの後、相変わらず不機嫌そうな声が響いた。

 

『……あぁ? こんな夜更けに何の用だ、呉』

 

「寝てたか? まあ、いい」

 

俺は、天井を見上げながら、フラットな声で言った。

 

「今日の結果、見たぜ。……約束を守ってくれた上に、俺の天使に『プロテクトポイント』まで付与してくれるとはな」

 

そう。Cクラスの結果は、真鍋が退学となり、ひよりが見事プロテクトポイントを獲得した。龍園がクラスの票を完全にコントロールし、ひよりを盤石の安全圏に置いたのだ。

 

「少しは見直したぜ、ドラゴンボーイ」

 

俺が、最高に茶化したトーンでそのあだ名を口にすると。

 

『……てめえ、ぶっ殺されてえのか。二度とその名前で呼ぶんじゃねえ』

 

電話の向こうから、地鳴りのような、純度100パーセントのキレ声が返ってきた。

 

「ははっ、すまんすまん。でも、素直に感謝してるぜ。これでひよりは、一度だけ退学を免れる絶対の盾を手に入れた。……俺にとっちゃ、最高のプレゼントをもらった気分だ」

 

俺が笑いながら言うと、龍園はチッと舌打ちをした。

 

『勘違いすんじゃねえぞ。てめえのために椎名にポイントをやったわけじゃねえ。……あれは、俺のクラスが今後Aクラスに勝つための『作戦』だ』

 

龍園の言い分は、いかにも彼らしい傲慢なものだった。

 

『石崎やアルベルトの馬鹿どもに盾を持たせても宝の持ち腐れだが、椎名なら、いざという時にその盾を使って、盤面を大きく動かせる手駒になるからな。……ただの合理的な判断だ』

 

「そういうことにしておいてやるよ」

 

俺は、ニヤリと笑った。

冷酷な暴君に見えて、意外とクラスメイトの能力を正当に評価し、義理堅いところもある。それが龍園翔という男の面白さだ。

 

「とにかく、借りは一つだ。……なんかあったら、ひよりに免じて一回くらいは相談に乗ってやるよ。じゃあな」

 

『……誰がてめえなんかに頼るか。消えろ』

 

ツーツー、と通話が切れた。

 

俺はスマホをサイドテーブルに置き、目を閉じた。

 

波乱に満ちた特別試験『クラス内投票』は、こうして幕を閉じた。

愚者は己の過ちで首を絞め、魔女は盤面をかき乱し、影の支配者は絶対の安全圏からそれを傍観した。

 

だが、俺にとって最も重要だったのは、愛する天使が、この理不尽な箱庭を生き残り、そして、俺の隣で微笑んでくれる明日が確約されたことだけだ。

 

「……さて。明日は、ひよりに何か美味いデザートでも作ってやるか」

 

暗殺者の少年は、激動の一日の終わりに、ただひたすらに甘く、平和な日常の続きだけを思い描きながら、深い眠りへと落ちていくのだった。

 

 

 

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