青春を求めて実力主義の教室へ   作:リリリリら

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七十話

三月二十二日。

長かった一年生としての集大成、そして、負ければ『司令塔の退学』という重すぎるペナルティが課せられた、学年末特別試験『選抜種目試験』の当日がやってきた。

 

決戦の朝。

俺たちの教室には、これまでのどの試験とも違う、ヒリヒリとした焦燥感と緊張感が充満していた。

 

無理もない。相手は最強のAクラス。しかも、こちらの司令塔を務めるのは普段は全く目立たない綾小路清隆だ。彼がプロテクトポイントを持っているとはいえ、クラスの勝敗は、彼の手腕に完全に委ねられているのだから。

 

だが、そんな重苦しい決戦前の空気を、一つの『力強い声』が打ち破った。

ガタッと席から立ち上がり、一人の男子生徒が教壇の前に立ったのだ。

 

「……みんな、少しだけ聞いてほしい」

 

その声に、クラス全員の視線が集中する。

 

そこに立っていたのは、このクラスの絶対的なまとめ役――平田洋介だった。

彼の瞳には、山内を切り捨てざるを得なかった過去の痛みと向き合い、それを背負って前に進むことを決めた、研ぎ澄まされた強い光が宿っていた。

 

平田は、クラス全員を見渡し、真っ直ぐな声で語りかけた。

 

「今日はいよいよ、最強のAクラスとの総力戦だ。不安に思っている人も多いと思う。……でも、僕たちはこの一年間で、いくつもの困難を乗り越えてきた。退学者を出してしまった悲しみも、痛みも……全部ひっくるめて、今の僕たちの強さになっているはずだ」

 

平田の、誠実で熱を帯びた言葉。

 

「僕はもう、迷わないし逃げない。……今日の大切な試験、僕も持てる力の全てを懸けて戦う。だから、みんなの力を僕に貸してほしい。……勝とう。みんなで一緒に」

 

その力強い宣言に、教室は一瞬の静寂に包まれ――直後、割れんばかりの歓声に沸いた。

 

「当たり前だろ、平田! やってやろうぜ!」

 

「絶対勝つわよ! Aクラスなんかに負けないんだから!」

 

池や軽井沢たちが気合を入れるように声を上げ、恐怖でバラバラになりかけていたクラスの空気が、確かな熱を持って一つにまとまっていく。

 

やがてチャイムが鳴り、茶柱が教室に入ってきたことで、空気は再び『試験』のそれへと引き締まる。

 

試験開始前、茶柱が教壇に立ち、現在の全クラスの『クラスポイント』を黒板のモニターに表示した。

 

【試験前 クラスポイント】

• 坂柳クラス(A) :1001 cp

• 一之瀬クラス(B): 640 cp

• 堀北クラス(C) : 377 cp

• 龍園クラス(D) : 318 cp

 

「これがお前たちの現在の立ち位置だ」

 

茶柱が、冷徹な声で告げる。

 

「三学期、お前たちはようやく底辺を脱し、Cクラスへと昇格を果たした。……今回の試験で勝ち越せば100ポイントの加算。さらに、種目の勝敗ごとに30ポイントが移動する。Aクラスに勝てば、Bクラスの背中が完全に見えてくる。だが、惨敗すれば再び最底辺のDクラスへと逆戻りだ。心してかかれ」

 

生徒たちがゴクリと息を呑む中。

 

(……相変わらず、Aクラスのポイントは頭一つ抜けてるな) 

 

俺は、自分の席で欠伸を噛み殺しながら、モニターの数字を眺めていた。

Aクラスの圧倒的なポイント。一之瀬クラスの安定感。そして、降格こそしたが僅差の龍園のDクラス。

 

(ひよりのクラスは、今回Bクラス相手だ。あの暴君が指揮を執るなら、容赦なくえげつない作戦を組んでるだろうな。……まあ、ひよりが勝って喜んでくれるなら、それが一番だ)

 

やがて、運命のランダム抽選が行われ、選ばれた7つの種目で順次、Aクラスとの直接対決が火蓋を切った。

 

俺が出場を命じられたのは、堀北クラスの提案種目――『弓道』だった。

 

指定された弓道場。

ピンと張り詰めた静寂の中、俺は道着に着替え、木製の弓を手に指定された立ち位置へと向かった。

 

参加人数は各クラス2名。

俺のペアとして選出されたのは、うちのクラスで唯一の弓道経験者である三宅明人だった。

 

「……よろしく頼むぞ、呉。お前、弓道なんてやったことあるのか?」

 

三宅が、少し不安そうに声をかけてくる。

彼は俺が体育祭で圧倒的な身体能力を見せたことは知っているが、弓道は純粋な腕力や足の速さではなく、静かな集中力と技術が問われる競技だからだ。

 

「まあな。実家で昔、身内の連中に少し教わったことがある程度だ」

 

俺は、適当な嘘を吐きながら、弦の張りを確かめた。

 

弓道。

それは確かに、表のスポーツとしては経験がない。

 

だが、『暗殺術』という観点から見れば、弓矢は最も原始的であり、最もポピュラーな遠距離狙撃武器の一つだ。呼吸を整え、的の急所を射抜く。それは、俺が物心つく前から実家で叩き込まれてきた、基礎中の基礎だった。

 

(……的の真ん中を、人間の眉間だと思えばいいだけだ)

 

「Aクラスの選出は……あの二人か」

 

三宅が視線を向ける先には、Aクラスの男子生徒が二人、無駄のない動きで準備を整えていた。あちらも経験者をぶつけてきたらしい。

 

別室にいる司令塔の綾小路からは、インカムを通じて「呉、三宅。ここは確実に取っておきたい。相手も経験者だが、普段通りの力を出せば勝てる」という、感情の読めない冷静な指示が飛んできた。

 

「了解だ」

 

俺は短く返し、的の前に立った。

 

静寂。

道場に、弦を引き絞るギリギリという音だけが響く。

 

俺は、目を細めた。

足幅を決め、重心を丹田に落とす。肩の力を完全に抜き、呼吸を『無』にする。

 

(……射殺す)

 

俺の周囲の空気が、一瞬にして『暗殺者』のそれへと変貌した。

物理的な殺気は放たない。ただ、純度100パーセントの集中力だけを、28メートル先の的の中心へと収束させる。

 

シュッ!!

放たれた矢は、空気を切り裂き、美しい直線を描いて――。

 

パァンッ!!

寸分の狂いもなく、的のど真ん中を貫いた。

 

「――――おぉっ」

 

隣で見ていた三宅が、思わず感嘆の声を漏らした。

 

「すげえな、呉。完璧な射形じゃないか。……しかも、今の矢飛び、尋常じゃない速さだったぞ」

 

「まあ、昔取った杵柄ってやつだ」

 

俺は、弓を下ろし、平静を装って肩をすくめた。

内心では少し威力を乗せすぎたかと反省していたが、結果オーライだ。

 

その後も、俺と三宅は安定して的を射抜き続けた。

 

Aクラスの経験者たちも健闘したが、一矢のブレも許さない俺の異常な命中精度の前に、プレッシャーに耐えきれず徐々にスコアを落としていった。

 

結果は、堀北クラスの圧勝。

インカム越しに、「よくやった。これで一勝だ」という綾小路の淡々とした声が聞こえる。

 

俺は三宅と軽く拳を合わせ、自分の『事なかれ主義の範囲内』での仕事を無事に終えたのだった。

 

だが。

俺たちがいくら局地戦で勝利を収めようとも、最強のAクラスとの全体的な能力差は、如何ともし難いものがあった。

 

試験が全て終了し、全クラスが指定された教室へと戻ってきた放課後。

教壇のモニターに、残酷な最終結果が映し出された。

 

【学年末特別試験 クラス対決結果】

• 坂柳クラス(A) vs 堀北クラス(C)

• 結果:坂柳クラス 4勝 - 堀北クラス 3勝

• 勝者:坂柳クラス

 

• 一之瀬クラス(B) vs 龍園クラス(D)

• 結果:一之瀬クラス 2勝 - 龍園クラス 5勝

• 勝者:龍園クラス

 

「……負け、た」

 

平田が、力なく呟いた。

 

「クソッ……! あと一勝だったのに……!」

 

須藤が机を強く叩く。

 

結果として、俺たちは3勝4敗でAクラスに敗北した。

 

俺や三宅が出た弓道をはじめ、いくつか得意とする種目で勝利をもぎ取ったものの、最後は地力の差、そして司令塔である坂柳の容赦のない手札の切り方に押し切られた形だ。

 

だが、事前の絶望的な予想からすれば、3勝をもぎ取り、あのAクラスをギリギリまで追い詰めた綾小路の采配は、見事と言うほかなかった。

 

そして、もう一つの対戦カード。

ひよりのいる龍園クラスが、一之瀬クラスを5勝2敗で圧倒していた。

 

これで龍園のクラスは、ポイントを大きく伸ばすことになる。ひよりが笑顔で喜んでいる姿が目に浮かび、俺の心はクラスの敗北の鬱憤など吹き飛び、早くもデートの準備へと切り替わっていた。

 

茶柱が、無機質な声で最終的なポイントの変動を発表する。

 

「選抜種目試験における、クラスポイントの増減は以下の通りだ」

 

【クラスポイントの増減】

• 坂柳クラス :プラス 130 cp

• 一之瀬クラス:マイナス 90 cp

• 龍園クラス :プラス 190 cp

• 堀北クラス :マイナス 30 cp

 

「これを踏まえ、現在の最新クラスポイントはこうなる」

モニターの数字が、音を立てて切り替わった。

 

【最新 クラスポイント】

• Aクラス(坂柳) :1131 cp

• Bクラス(一之瀬): 550 cp

• Cクラス(龍園) : 508 cp

• Dクラス(堀北) : 347 cp

 

その結果を見た瞬間、教室に重苦しい絶望の空気が広がった。

 

「嘘だろ……」

 

池が、頭を抱えて呻き声を上げた。

 

「せっかく三学期になって、やっとの思いでCクラスに昇格できたのに……! 一年最後の最後で、またDクラスに降格かよ……っ!」

 

「また一番下からやり直しなんて……あんまりじゃない……」

 

篠原たち女子生徒も、泣きそうな顔で肩を落としている。

無理もない。一度手にした『昇格』という果実を、最後の最後で奪い取られたのだ。

 

「Dクラスは敗北したが、3勝をもぎ取ったことでポイントのマイナスは最小限の30に抑えられた。司令塔の綾小路はプロテクトポイントを消費したため、退学者はなしだ」

 

茶柱は、最後に少しだけ口角を上げたように見えた。

 

「……今回の試験、よくあのAクラス相手に食い下がった。今日くらいはゆっくり休め。解散だ」

 

ホームルームが終わり、生徒たちがどんよりと沈んだ顔で帰り支度を始める。

 

俺は、端末を取り出し、最後に選ばれた第七種目――司令塔同士の一騎打ちとなった『チェス』の結果を確認した。

 

あの種目に出たのは、うちからは堀北、Aクラスからは橋本だったが、途中から司令塔である綾小路と坂柳が直接介入し、事実上の『司令塔対決』になったと聞いている。

 

結果は、坂柳の勝利。

 

(……綾小路が、あのお嬢さんにチェスで負けたのか?)

 

俺は、少しだけ眉をひそめた。

 

俺はチェスのルールくらいしか知らないが、あの底知れない男が、純粋な頭脳戦で後れを取るという状況が、どうにも想像しにくかったのだ。

 

(まあ、俺はいつも通りそれなりに仕事はしたし、何よりひよりのクラスが大勝して、Cクラスに昇格したんだ。これは盛大にお祝いしてあげないとな)

 

俺は、綾小路の敗北への疑問を秒で放り投げ、ウキウキとした足取りで教室を後にした。

 

俺は、下駄箱でひよりにメッセージを送った。

 

『お疲れ様、ひより。Cクラスへの昇格、本当におめでとう! 今日は奮発して、お祝いの豪華なディナーを作ってやるよ。準備して待ってるから、終わったら連絡してくれ』

 

送信ボタンを押し、よし、と気合を入れる。

頭の中では、すでに高級フレンチも顔負けのフルコースのレシピが組み立てられていた。

 

数分後。

 

『ピコン』と、スマホが鳴った。

 

俺は満面の笑みで画面を開いた。

 

『ごめんなさい刃叉羅くん! 今日は龍園くんの奢りで、クラスの皆さんとCクラス昇格の大々的な打ち上げを行うことになってしまって……。抜けられそうにないので、先に帰っていてくださいね!(>人<;)』

 

「――――」

 

俺は、スマホの画面を見つめたまま。

まるで、急所を撃ち抜かれた暗殺者のように、完全にフリーズした。

 

「……oh」

 

口から、情けない声が漏れた。

 

ひよりが、いない。

俺の、天使との甘い祝勝会ディナーが。

 

龍園とかいう暴君の開催する、むさ苦しいクラスの打ち上げによって、完全に消滅してしまった。

 

「……あのアホドラゴン、余計なことを……っ」

 

俺は、下駄箱のロッカーに頭をゴツンと打ち付けた。

 

ひよりがクラスメイトたちと親睦を深めるのは良いことだ。彼らは今回の勝利でBクラスの背中を完全に射程圏内に捉えたのだから、打ち上げで士気を高めるのは当然の流れだろう。それは頭では理解している。

 

だが、俺の心は、そんな正論を求めてはいない。

 

「はあ……」

 

俺は、一気に何十歳も老け込んだような、信じられないほど重い足取りで、男子寮への帰り道を歩き始めた。

 

今日の夕飯、どうしよう。一人で高級ステーキを焼いたって、砂を噛んでるような味しかしないに決まっている。

 

とぼとぼと、夕陽に照らされた遊歩道を歩いていると。

 

「……呉」 

 

前方から、同じように覇気のない足取りで歩いてくる男の姿があった。

 

「……よお、綾小路」

 

俺は、力なく手を上げた。

彼は、司令塔としての重圧から解放されたからか、いつも以上に平坦な顔で立ち止まった。

 

「どうした。この世の終わりみたいな顔をしているな」

 

綾小路が、珍しく俺の顔色を指摘してきた。

 

「この世の終わりなんだよ。俺の天使が、クラスの打ち上げに拉致されて、今日のデートが消滅した」

 

「……そうか。ご愁傷様だな」

 

一切の感情がこもっていない慰めの言葉。

俺は、自暴自棄な気分を切り替えるように、彼に話題を振った。

 

「お前も、お疲れさん。……なあ、あのお嬢さんに負けたのか?」

 

「……チェスのことか?」

 

綾小路が、微かに目を伏せる。

 

「まあな。他の種目は、単純にクラスの総合力の差がありすぎて、お前の采配だけで覆せるほど甘くないのは俺も分かってる。キツイもんがあっただろう」

 

俺は、正直な評価を口にした。

 

「だが、あの『チェス』に関しては、お前なら勝てたんじゃないのかと思ってな」

 

俺の言葉に、綾小路は少しだけ間を置き、静かに息を吐いた。

 

「坂柳のチェスの腕は、見事だった。……今まで対戦した誰よりもな」

 

綾小路は、素直に相手の実力を称賛した。それは、彼が坂柳有栖という存在を、強敵として認めている証拠でもあった。

 

「へえ、お前がそこまで言うとはな」

 

「ああ。だが……オレが負けたのは、純粋な彼女との実力差だけが理由じゃない」

 

綾小路の無機質な瞳の奥に、極めて冷たく、暗い光が宿った。

 

「……『盤外』からの介入があった」

 

「盤外?」

 

俺は、眉をひそめた。

 

「オレが司令塔として入力した指示が、システム上で意図的に改ざんされたんだ。……月城理事長代理の仕業だ」

 

「月城……あの、新しく来た胡散臭いオッサンか」

 

俺も、学年集会などで見かけたことのある、常に薄ら笑いを浮かべたスーツの男の顔を思い出した。

 

「オレを退学させるための、父からの『刺客』だからだ」

 

綾小路は、淡々と、自分のバックボーンに関わる事実を口にした。

 

「……は?」

 

俺は、一瞬きょとんとした後、記憶の糸を繋ぎ合わせた。

 

「あぁ、なるほど。わざわざ学校までお前を退学させに来たっていう、あのイカれた親父さんのことか」

 

俺は、堪えきれず「ははっ」と声を上げて笑った。

 

「相変わらずスゲェ『モンスターペアレント』だな。息子に実家に帰ってきて欲しくて、ついに学校のトップまで刺客として送り込んで、試験のシステムをハッキングしてくるのかよ。……俺の実家も大概だが、お前の親父さんのイカれ具合には負けるぜ」

 

俺の笑い声に、綾小路は全く悪びれる様子もなく、ただ黙って受け流していた。

 

「笑い事じゃないんだがな。……これでプロテクトポイントは失った。今後、あの男がどんな手を使ってオレを退学に追い込んでくるか、さらに厄介になりそうだ」

 

「まあ、そうだろうな。お前も大変だ」

 

俺は、少しだけ彼に同情した。

強敵との熱い頭脳戦に水を差され、理不尽に敗北の烙印を押されたのだ。いくら感情が欠落しているように見えても、胸糞が悪い気分だろう。

 

俺は、夕陽に染まる男子寮の建物を指差した。

 

「……なあ、綾小路」

 

「ん?」

 

「今日は、ひよりが打ち上げに行ってて、俺の部屋の夕飯の枠が一つ空いてるんだ。……どうだ? 俺の部屋に来るか?」

 

俺からの、唐突な誘い。

綾小路は、少しだけ意外そうな顔をした。

 

「お前に、理不尽な負け戦の『慰労の飯』を作ってやるよ。俺も一人でメシ食うのは味気ないからな。……もちろん、食材費はタダだぜ?」

 

「……遠慮なく行かせてもらおう」

 

綾小路は、即答した。相変わらず、こいつの図太さには呆れる。

 

「よし、決まりだ。今日はガッツリ系だぞ。……試験に負けた腹いせに、極上の『カツ丼』を食わせてやる。次に勝つための縁起物だからな」

 

「それは楽しみだ」

 

俺たちは並んで、夕暮れの帰り道を寮へと向かった。

 

俺の部屋のキッチンには、出汁と醤油の甘辛い、食欲をそそる匂いが充満していた。

 

「ほら、お前はこっちに座ってろ」

 

俺は、綾小路をリビングのテーブルに座らせ、キッチンで手際よく調理を進めた。

 

分厚く切った国産の豚ロース肉の筋を切り、塩胡椒で下味をつける。小麦粉、卵、生パン粉の順に衣をつけ、170度の油で黄金色になるまでカラッと揚げる。

 

包丁でサクッ、サクッと小気味良い音を立てて切り分けたカツを、特製の出汁と玉ねぎを煮立たせた専用の鍋に入れる。

 

そこに、軽く溶いた卵を二回に分けて回し入れ、半熟のトロトロの状態で火を止める。

 

炊きたての銀シャリを深めのどんぶりによそい、その上に、出汁を吸った極上のカツ煮を滑り込ませた。

 

最後に三つ葉を乗せれば、呉刃叉羅特製・極厚カツ丼の完成だ。

豆腐とワカメの味噌汁、そしてさっぱりとした浅漬けを添えて、テーブルに運ぶ。

 

「待たせたな。食えよ」

 

「……見事な手際だ。いただきます」

 

綾小路は割り箸を割り、まずはカツを一口かじった。

サクッ、という衣の音と共に、分厚い豚肉から肉汁が溢れ出し、出汁の旨味と半熟卵の甘みが口の中で爆発する。

 

綾小路の無機質な目が、一瞬だけ見開かれたのが分かった。

 

「……美味い」

 

「だろ? 肉の叩き方と、卵への火の通し加減が命だからな。今日の俺の出来は完璧だ」

 

俺も自分のどんぶりを抱え、カツ丼をガツガツと掻き込んだ。

 

ひよりがいないのは寂しいが、こうして誰かが俺の飯を美味そうに食ってくれるのを見るのは、俺にとっても悪くない時間だ。

 

静かな部屋で、男二人が無言でカツ丼を掻き込む音が響く。

やがて、どんぶりの半分ほどを平らげたところで、綾小路がふと箸を止めた。

 

「……呉」

 

綾小路が、温かいお茶の入った湯呑みを手に取り、俺の目を真っ直ぐに見据えた。

 

「お前は……『外からの力』に、自分の日常を壊されそうになったら、どうする?」

 

父親という巨大な権力、月城という理不尽な刺客によって、自らの平穏を脅かされている綾小路からの、同じく深い闇を抱える俺に対する、静かで、しかし確かな問いかけだった。

 

俺は、箸をどんぶりに置き。

ゆっくりと、口の中に残ったカツを飲み込んだ。

 

そして、俺の顔から事勿れ主義の高校生の仮面が外れ、暗殺者の冷たい笑みが浮かび上がる。

 

「――――」

 

極上のカツ丼の匂いが漂う、平和な学生寮の一室で。

二人の『バケモノ』による、盤面外の悪意に対する深夜の対話が、静かに幕を開けようとしていた。

 

 

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