若葉睦の多重身体   作:水里露草

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下/偏在(Unique)

 初めは母の謂れなき恐れであった。己の芸歴は娘に食われると役者本能が叫んでいた。根拠無き妄想であった。しかした(・)だ(・)の(・)演技の天才であった女優・森みなみは、才を受け継いだ娘を疎み、しかし世間体のために全く遠ざけることは叶わず、結果として己という素材を深く学ばせてしまった。

 若葉睦は『若葉睦』という役を体得しながら育った。

 自我という役であった。

 善意に心安らぐように、敵意に身が竦むように、己へ向けられる感情は瞳から感じ取れる──それは決して一方通行ではなかった。

 母の瞳に浮かぶ恐怖を学び取ってゆき、自我の成長を経てからは周囲の人間の瞳から常識を写し取ってゆき、そして幼き日の些細な気づきによって箱は開かれた。ショーケースの外を知った空想躯体の人形達は『若葉睦』の真似をした。彼女へ向かう望みは糸となって人形の手足に絡みつき、その先はオーディエンス達に結びついた。

 本体、或いは実体の若葉睦が周囲の都合を自在に操るたび、その振る舞いから生成されたイメージが周囲に伝播してゆく──都合よく動くお人形のような少女というイメージが。

 人形劇が始まった。

 客席と舞台の区別もない奇劇であった。

 演目は続く。記憶として観客の心の中へ形作られた劇場に巣喰った『若葉睦』たちは、宿主達の求めるままに演じ始めた。時に流行り物を共に楽しむ友人であった。時に劣情をぶつける恋人であった。時に八つ当たりの標的であった。時に将来を語り合う同胞であった。時に趣味を競い合う同士であった。時に、時に、時に────

 

『若葉睦』は遍在していた。

 しかしある時、狂いが生じた。

 音楽劇であった。人になれない人形達の織りなす恐怖劇(グランギニョル)。仮面を被り重低音を奏でるその演目にて、彼女は文字通りの覆面役者であった。

 いつも通りに己の分け身を振り撒いていた。演じることを──若葉睦の見せたいものを押し付けることを当然とするあまり、今の己が『若葉睦』でないことを失念していた。

 ハプニングが起きた。演者のアドリブによって仮面の下が暴かれた。

 仮面役者のイマジナリーフレンドは強固な設定を持っていた。同じものを多くが共有していた。『若葉睦』の全てに仮面の名前が結びついていった。

 ミームの爆発であった。

 情報の汚染であった。 

『若葉睦(■■■■■■)』は初めから『若葉睦(モーティス)』であった────と(・)い(・)う(・)こ(・)と(・)に(・)な(・)っ(・)た(・)。

 

 

 

 

 

「祥ちゃん、大丈夫?」

「大丈夫ですわ、初華(ういか)……」

 

 友人にして家主──初音(はつね)が額に手を添えてくるのを祥子は大人しく受け入れた。

 そ(・)の(・)隣(・)を(・)見(・)遣(・)る(・)。

 

「まったくもー、あんまり身体強くないんだからしっかりしてよね」

「ええ……モ(・)ー(・)テ(・)ィ(・)ス(・)にも、心配を掛けて申し訳ありませんわね」

「ほんとだよ」

 

 レースの仮面、赤いベレー帽、舞台衣装──モーティスをあくまでも役名で呼び、内心で思考を巡らせる。体調不良は事実である。旧友の長崎そよ、そして椎名立希それぞれから届いたメッセージに記されていた内容が反芻され続けていた。

 モーティスが──己の生み出した役名(キャラクター)が、幼馴染の存在を食い尽くさんとしている。 

 荒唐無稽であった。

 事実無根であった。

 モーティスとはもう十年以上の付き合いになる。皮肉っぽく意地の悪い物言いこそするが、根の優しい自慢の幼馴染であった。月ノ森で先輩のバンドに憧れて組んだ最初のバンドにもついてきてくれて、今もAve Mujicaでギタリストとして重厚なサウンドの要として支えてくれている──何度思い返しても、記憶に矛盾は無い。

 かつての盟友達だとて信じるに値しないフィクションであった。

 故に。

 

「今日のレコーディングは初華の主導した曲ですもの。わたくしが立ち会えないのは残念ですが……初華、任せましたわよ」

「祥ちゃん……うん、頑張ってくる」

「モーティスも、初華の言うことをよくお聞きになってね」

「子供じゃないんですけど!」

「ふふ……ええ、そうですわね」

 

 祥子は。

 かつての友からの荒唐無稽で事実無根な現実と矛盾したメッセージを、一(・)切(・)の(・)逡(・)巡(・)な(・)く(・)即(・)座(・)に(・)信(・)じ(・)た(・)。

 己には能力があるという自認があった。地位あるものとして相応の教育を課せられたという自覚があった。主観的客観的事実に裏打ちされた判断力は眼前の現実に正と返した───しかし。

 迷いなく信じられない者を友としたつもりなど、彼女には無かった。

 

「ほら、時間でしょう? 行ってらっしゃい」

「うん……何かあったら呼んでね? すぐ駆けつけるから」

「初華ちゃん、却って心配させちゃうって。じゃ行ってきまーす」

 

 初華の背を押しながらモーティスが出てゆく。ドアが閉まり話し声も消えてゆく。耳の奥で静けさが鳴る──熱(・)が(・)引(・)い(・)て(・)ゆ(・)く(・)。

 場(・)面(・)転(・)換(・)が(・)始(・)ま(・)っ(・)た(・)。

 

「は────」

 

 薄く溜息を吐いた。

 祥子はモーティスの作者であるために即座には本来の記憶を思い出せないほど強く侵食を受けながらも、しかし完全な書き換えを免れていた。モーティスが離れれば蓋も外れる。直ちにベッドから体を起こし身支度を整える──時刻は放課後であった。

 一張羅の私服と迷い制服を選んだ。学生鞄に幾らかの手荷物を放り込んでゆく。楽譜、スケジュール帳、議事録に使うつもりで入れた小学生向けの自由帳──Ave Mujicaのオブリビオニスではなく、ただの豊川祥子の装いであった。

 CRYCHICだった──モーティスでない若葉睦とバンドを組んだ己の姿による、荒唐無稽で事実無根な超常現象への抵抗であった。

 家を出て電話をかける。

 椎名立希へ。

 

「────立希、状況は?」

「ひとまず、モーティスはどこにもいない」

 

 藪から棒の問いに立希は即座に答えた。

 羽丘を離れてまず月ノ森へ向かった立希は、長崎そよと既に合流していた。

 最後に睦と接触したそよは当初錯乱しかけていたが、CRYCHICの記憶を共有する立希の存在により持ち直していた──冷静さを取り戻し他者からの視点も補えたなら、そよもまた名門女子校に通う才女である。非現実的事態であろうとそれなりの整理は済んでいた。

 

「……これ、そのまま受け取っていいんだよね。モーティスが突然現れて全部聞いてました、ってなったら困るけど……」

「ええ。いないのであれば今(・)は(・)そ(・)う(・)い(・)う(・)シ(・)ー(・)ン(・)だと受け取ってよいでしょう」

「……わかった。じゃあ言われた通り、改めて確認してくよ」

 

 集合場所へと向かいながら、立希は事前に送ったメッセージとほぼ同じ内容を口にする。居るのかも分からない恐怖劇(グランギニョル)の観客に向けた、前提条件について合意させるメタ・フィクショナルな所作であった。モーティスという役の干渉を一時的に弾くための、祥子が言うところのそ(・)う(・)い(・)う(・)シ(・)ー(・)ン(・)らしさの強調であった。

 

「モーティスはドッペルゲンガーみたいな奴。睦に関する記憶を塗り替えて成り代わろうとしてるっぽい。で、そよが聞いた限り、睦は相手がそういうものだって気づいてて……一人で解決しようとしてる」

「……多重身体」

「は?」

「睦が仰っていたアイデアですわ。Ave Mujicaの演目の一つとして提案された脚本(シナリオ)で……演技をしすぎた天才の身を、これまで演じてきた役そのものが奪いに来るという。そう、事実でしたのね」

 

 祥子はローファーの足音を速めながら歯噛みする──幼馴染の訴えを見過ごしたことは、Ave Mujicaの「神」として腸が煮えくり返らんばかりの不覚であった。

 一方、電話口の向こうで立希は淡々としていた。

 

「……概ね掴んでんのね。じゃあ話は早いな」

「と、言いますと?」

「あのね、祥ちゃん」

 

 大股で速歩きする立希の隣を小走りで追っていたそよが話題を継いだ。

 

「睦ちゃん、最初は向こうから私に声を掛けてくれたの。モーティスちゃん達を、その……消すために、私達の手を借りようとしてくれてたみたい」

「オカルトじみた──いえ、そのものの事態ですわよね。睦にはどうにかする宛がありましたの?」

「そこは考え無しだったみたいだけど……でも、敗北条件にね。元CRYCHICの私達がモーティスちゃんに接触されることを挙げてた。『Ave Mujicaのモーティス』じゃない、ただの睦ちゃんを知っているのが私達だけだから。まずそれを防ぎたかったみたい」

「そこをモーティスにおちょくられて、今は一人でどっか行ったらしい」

 

 立希が締め括ると電話口の向こうは沈黙した──それを長考と解釈した。立希の知る限り感性の極みにいるのが燈であるならば、祥子は知の極致であった。

 そして。

 

「祥ちゃん」

「……」

「そよ、立希……久闊を叙している暇はありませんわね」

「今度でいいでしょ」

 

 立希とそよ、そして祥子は集合場所に辿り着いた。

 奇しくも同時であった。そこは羽沢珈琲店であった。

 CRYCHICの始まった場所であった。

 

「それで、なんとか出来るの」

 

 物言いが幾らか素直なのは友人の一大事である故にと察していたが、ぶっきらぼうな物言いの懐かしさに祥子は破顔した。

 

「勿論。Ave Mujicaの全てを監督(プロデュース)しているのはわたくしでしてよ────ですが、今回ばかりはわたくしの独り善がりでは成りませんわ」

 

 木製のドアを開けて入店する。穏やかな空気の店内を少し巡らせればそこに幼馴染の姿があった────赤いベレー帽も、レースの仮面も無い。人形めいた幽玄の美貌。そしてその隣には、かつて最も祥子の心を動かした詩世界の少女もあった。

 

「燈!」

「あ、ごめんなさい五人で……はい、あそこの」

「立希、声が大きいですわよ。睦、燈、お待たせ致しましたわ」

 

 懐かしい、まるで時が戻ったかのような顔触れであった。祥子にとってはかつて捨てざるを得なかった景色であった。過酷な運命に翻弄されゆく前の、穏やかな幸福の象徴──窓から春日影の差す温かな場所であった。

 

「祥ちゃん、久しぶり……同じ学校なのに、不思議」

「う……今度また、ゆっくりお茶に致しましょうね」

 

 燈の無邪気な笑みに胸を抉られて祥子は咳払いした。誤魔化すように鞄からノートを広げ、睦に改めて向かい合う。

 

「睦」

「……」

「大まかな事情は把握していますわ。それから、理屈は分かりませんがルールも読み取れていますわ。対抗するための手立ても思いついてはいる……」

「……私は」

「睦。貴女は、この舞台をどうしたいの。教えて頂けますこと……?」

 

 睦は。

 果たして、口を開いた。

 

 

 

 

 

 Ave Mujicaというバンドの内部は激動であった。

 しかし世間的には、幾らかの波乱はあれど順風満帆の航路であった。

 主宰・豊川祥子が実家である大財閥豊川家の事情で父と共に放逐──厳密にはそうなった父を見捨てられずついてゆき、友人達と組んでいたバンドを捨てざるを得なくなるところから始まっている。生活のために音楽の才を生かさんと音楽劇を着想しメンバー集めに奔走、瞬く間に武道館まで辿り着いて見せるも、野心で集めたメンバーにはやはり野心があった。舞台の上でアドリブにより仮面が剥がれ、当初の予定を大きく前倒ししキャストの素顔を暴かれてしまう────だが。

 見目麗しい少女達の背景、財閥令嬢の肩書きやアイドルの第二の顔、何より『森みなみの娘』というセンセーショナルな餌に群がった世間を。

 幼(・)い(・)頃(・)か(・)ら(・)慣(・)れ(・)て(・)い(・)る(・)と(・)言(・)わ(・)ん(・)ば(・)か(・)り(・)に(・)、モ(・)ー(・)テ(・)ィ(・)ス(・)が(・)捌(・)き(・)切(・)っ(・)て(・)し(・)ま(・)っ(・)た(・)。

 

「ふーん……結局、みーんなそっち側」

 

 暗転した劇場であった。客席すら伺い知れない無間の闇が広がる舞台であった。その中央やや上手側、照明が無いにも関わらず茫洋と浮かび上がるかの如くモーティスは佇んでいた。赤いベレー帽、黒いレースの仮面、黒とワインレッドを基調にした豪奢な衣装──Ave Mujicaのモーティスとして待ち受けていた。

 対して現れた下手側────睦もまた照明の無いまま夜の月のように浮かんでいた。月ノ森の濃紺のセーラー服を纏う彼女の装いは簡素であった。極普通の日常を過ごす姿であった────どんな肩書きもない、ただの若葉睦として現れていた。

 同じものは二つ。

 相貌──そして、手に刃物。

 片や短剣、片や包丁であった。

 

「CRYCHICだった皆はこの際いいや。オトモダチだもんね? 何の責任も果たさない、向けられた気持ちをなーんにも返す気の無い睦ちゃんを助けてくれる優しい人達。良かったね、持ち主に恵まれて────でも」

 

 項垂れて神経質そうに額を押さえ、モーティスは震えるほど握り締めた短剣を振るった。

 

「Ave Mujicaの神様なんか気取ってるクセして、祥子ちゃんまでそっちに行くの!? ズルいよ、ズルいズルいズルいズルいズルい────! 私、私は、なんかオカシイことしてる!? なんで全部睦ちゃんが持ってくの、この、泥棒!」

 

 酷い癇癪であった。しかし正当な糾弾でもあった。

 睦は目を伏せ何も言わない。何一つ反論するところの無い文句であった。それが却ってモーティスの癪に障った。

 

「あぁ……ぁあアアアアアッ! 嫌い、キライ、だいっきらい! 人と上手く話せない睦ちゃん、顔色見たって何も分からない睦ちゃん────ギターを弾くしか能の無い睦ちゃん!」

 

 彼我の距離はまだ遠い──だがそれ以上近付くなとばかりに短剣を振り回し、ふらふらと千鳥足で声を荒げた。

 

「ねえ、私達は役者だよ? 演技してって言われてるんだよ? 望(・)み(・)通(・)り(・)に(・)演(・)技(・)す(・)る(・)か(・)ら(・)生(・)き(・)て(・)て(・)良(・)い(・)んだよ? なのにさあ、何を一人だけ人間になろうとしてんの?」

「……モーティス、私は」

「うるさい! ……ふ、ひ、ひひひ……ねえ、睦ちゃん。ここは劇場だよ。外(・)では、ねえ、Ave Mujicaの舞台が始まるよ」

 

 不気味に笑いながらモーティスは仮面を外した。右半分は子供がクレヨンで塗り潰したようなノイズの塊であった。目だけが白く煌々と輝いている。しかし左半分は睦のそれと全く同じであった────否。

 一つだけ違った。

 右の眼窩に埋まった光よりずっと強い、狂気に彩られた瞳。

 

「オーディションしようよ」

 

 スポットライト。背景が広がってゆく。滅茶苦茶に歪んだゴシックな街並みが展開されてゆく。紫の空が輝きだす。

 ばきばきばきばきばき────と破砕音を立て、黒いノイズが月を描いた。

 歯車を模した月であった。

 

「お客さん達がAve Mujicaのライブを、祥子ちゃんが睦ちゃん贔屓して誂えた三文芝居を観終えた瞬間に、この舞台に立っていた方が『若葉睦』になる────簡単でしょう?」

 

 睦は。

 小さく深呼吸した。

 伏せていた目をまっすぐに、モーティスへ向けた。

 

「……私は、もう逃げたくない。周りの人からも。みなみちゃんからも。好意からも。好奇からも──」

 

 スポットライト。背景が広がってゆく。遠近と縮尺の狂った大都会の街並みが展開されてゆく。緑の空が輝きだす。

 それは新宿と、池袋と、花咲川の街であった。僅かひと月ほど友とバンドを組んだ日々を過ごした街であった。今もAve Mujicaの練習で向かう街であった。

 若葉睦が生きる街であった。

 

「──自分からも」

「お人形が、意思(じぶん)なんか語らないで──ッ!」

 

 天地が捻れてゆく。西洋ゴシック風の街並みと東京の摩天楼がせめぎ合う。球状に歪んでゆく劇場は最早目測で数キロ四方に広がっている。

 毒々しい色の混じり合う空に、モーティスは飛翔した。

 

「我が名はモーティス──汝、死を恐れることなかれ!」

「私の名前は若葉睦──それ以外の、何者でもない」

 

 空へ向かって睦も身をかがめ走り出す──この空間において、実際の身体能力は意味を持たない。心の劇場である。全ての『若葉睦』が繋がる深層領域である。求められるのはただ演技執行の意思のみであった。

 横断歩道は青信号──斜めに倒れたそれを駆け上がり中空へ踏み出しながら、睦は想起する。

 

『いいですこと、睦』

 

 羽沢珈琲店で、祥子は言った。

 

『モ(・)ー(・)テ(・)ィ(・)ス(・)す(・)ら(・)認(・)め(・)て(・)飲(・)み(・)干(・)す(・)……そう仰るならば、描くべきは克己の物語になりますわ。敵を打ち倒すのではなく、心の闇を打ち倒すのではなく、受け入れて赦す物語ですわ』

 

 広げたノートに要素が散りばめられてゆくのを眺めながら、睦は首を傾げた。

 

『……違う?』

『違うものですわよ。貴女は荒れ狂う魂を鎮め、しかし討ち滅ぼしてはならない。そうですわね……乱暴に言えば、格付けをせねばならないのです。妖魔を調伏する僧侶のように』

『すごい喩えを出すね……』

 

 作戦はこうだ。

 祥子が描く、人形・モーティスの物語をAve Mujicaで展開する──そこに織り込んだ無数の睦の要素、そしてCRYCHICとして睦を認知する少女達の洗脳耐性でもって、観客、及び世界に対するモーティスの侵食を一時的に食い止める。

 劇の内容自体も睦の「多重身体」を物語としたものだ。増殖した空想の己を、自らの滅びでもって滅しようとする物語────順当に終われば、モーティスが睦をミームの爆発で書き換えたのと同じ仕組みで、ひとまず『Ave Mujicaのモーティス』と『ただの若葉睦』以外を消し去ることができるだろう。

 その終幕までに──己の肉体、『若葉睦』という存在の主導権を奪い取る。

 全ての観客に主体がどちらかを認めさせる。

 正しく決闘(オーディション)であった。

 

「ふ──ッ」

 

 振り下ろした包丁がモーティスの短剣と競り合って火花(エフェクト)を散らす。刃を押し込み合いながら空中を流れてゆく。鍔迫り合い、押し退けて距離が空く──欠け崩れた時計塔の瓦礫が離れる睦を追い、しかし雑居ビルが伸びてそれを吹き飛ばした。

 今度は睦が宙に浮かぶ。横断歩道の白の上であった。

 邪魔な雑居ビルを切り裂いたモーティスが哄笑する。

 

「あっはははっ、はは──なにそれ、なんで包丁なの? 伝奇小説の殺人鬼キャラにでもなったつもり!? それとも、私(・)をいっぱい殺したからかなぁ?」

「そっちは……ファンタジーのキャラみたい。現実を生きたいなら、中二病っぽいのは駄目だと思う」

「キャラデザの文句は祥子ちゃんに言ってよね!」

 

 再びの交錯。三度。四度。モーティスが振り回す短剣を睦は必死に避け、睦が隙を見て突き出す包丁をモーティスはサーカスのように軽々あしらう。乱立して奔る信号機をアンティークな電灯が堰き止めた。左右から押し潰さんとするアパルトメントを急行が撥ねて砕いた。

 街の姿は趨勢を示していた。小手先では何の進展もあり得ないだろう互角の状況であった。

 睦は役に則って生み出した包丁を手放した。

 

「モーティス……貴女は、なんで演技をしてくれたの」

「愚問でしょ?」

 

 ばきりと宙にまで口端を伸ばし、黒いノイズでモーティスは嘲笑した。

 

「睦ちゃんがそういう風に生み出したんじゃない。貴女が人と接する苦悩を押し付けるために。存在意義を押し付けといてさあ、なんでも何も無くない?」

「でも、あの時────」

「睦ちゃんの方こそさぁ。どうして生きたいの?」

 

 それは。

 生命への根本的問いだった。

 

「別に、ずっとお人形だったじゃない。『若葉睦(わたしたち)』はずっと言われるがまま動くだけだったじゃない。そうやって生まれてきて、そうやって生きろって言われてきたじゃない。それじゃダメだったの? 皆のために演技する自分(わたし)じゃ不満だったの?」

 

 モーティスは首を傾げた。傾げて、傾げて傾げて傾げて、ばきりと音を立てて時計のように一周する。

 勢い余ってくるくると回転した首はノイズを振り撒いている。顔の半分もまたそうであった。明らかに人外のそれであった。

 しかし。

 

「皆に喜んでもらって嬉しいじゃない。それじゃダメなの?」

 

 その顔は。

 無垢な童女の困惑であった。

 

「モーティス……私は」

「睦ちゃんってばワガママなんだから──私はそれで良かった。求められて応えるのが嬉しかった。それ以上なんか要らない、要らないのよ。だって、そうじゃないと居(・)場(・)所(・)が(・)貰(・)え(・)な(・)い(・)じ(・)ゃ(・)な(・)い(・)」

 

 それは。

 母から写し取った恐れであった。

 睦は口を開こうとした。回答があった。投げ掛けられる言葉があった──だが。

 重低音が掻き消した。

 

「演技のチェックはもう十分。ねえ、Ave Mujicaのモーティスなんだから──今度はこっちでしょ?」

 

 手放した短剣がノイズとなり姿を変える。

 白いボディにスパンコールピンクのピックガード──睦の使うそれの色を入れ替えたようなデザインをした、七弦ギターであった。

 睦も応えて構える。手に馴染んだ重み、感覚を想起すればそこに現れる。こちらは見慣れたカラーリングであった。軽くストロークすれば自動でチューニングされてゆく──互いの背後に従える街もまた。

 

「あれ? 色がおかしいや」

「……ギターなら、負けない」

「ふーん? そう。でもね、睦ちゃん──」

 

 バックトラックはヘヴィメタル。

 

「──ギタリストの演(・)技(・)なら、私も負けないんだから!」

 

 地(・)が(・)砕(・)け(・)た(・)。

 互いの街が崩壊し、瓦礫となった摩天楼を飛翔する。モーティスがパワーコードを崩したリフを鳴らすと時計塔が乱立しては爆散し、無数の歯車や文字盤、巨大な時針が睦へ向かってゆく。それはビルを砕いた。駅を砕いた。しかし睦を捉えるには至らなかった。

 睦が十六分音符のリズムを高速で刻む。細かな瓦礫は一つ一つ弾かれ、巨大な障害は線路が龍の如くうねり上げて伸び吹き飛ばしてゆく──その先に、モーティス。

 

「ふんっ、これくらいへっちゃら────!?」

 

 コードストロークにより生じた衝撃で線路を受け止めた彼女の表情が驚愕に染まった。

 止めてはならなかった。回避せねばならなかった。

 タッピングを織り交ぜたテクニカルなソロを背に、通勤快速が飛び込んでくる────!

 

「……なんちゃって」

 

 奏でるはオクターブで重ねるリードパート。

 溢れた黒い衝撃波が線路と電車をロンドン鉄道に塗り替えた。

 

「なっ……」

「電車が参りまぁーす!」

 

 方向転換すらしない文字通りの上書きであった。のみならず屋根とホーム、ネオゴシック様式の駅が出現して更に線路を吐き出してゆく。睦に向けて三本の蒸気機関車が突進した。

 高速で飛行するが、先の仕返しのように宙を走り出す線路に囲われつつあった。

 

「掻き消す──」

「させない!」

 

 重低音の衝撃によるバリア──しかしモーティスの掻き鳴らすディストーションサウンドに削られ、迫り来る蒸気機関車に押し切られつつあった。心象世界とはいえ──否、だからこそ、轢かれればひとたまりもない!

 

「う、っぐう、ぁあああ────!」

 

 蒸気機関車達に崩壊する池袋の瓦礫が殺到した。雪崩に巻き込んで軌道を逸らし車線から逃れるも、セーラー服は擦り切れ所々に血が滲んでいる。

 互角の状況から一転、満身創痍であった。

 巨大な交差点の中央に落下した睦の前にモーティスも降り立つ。ギターを背中に回して再び短剣を掴んだ。

 

「……こうなると呆気ないね。私の勝ちだよ睦ちゃん────貴女の存在(からだ)で、私は生きてく」

「モー、ティス……」

 

 肩を押さえ膝をつき、しかしギターは手放さない睦をモーティスは冷たく睥睨する。

 

「……なあに? 遺言くらい、聞いたげるけど」

「モーティス……居場所は、もらうものじゃない」

 

 短剣を握る手が震えた。

 

「好きなことくらい……あっていい。少しくらい、ワガママを言ったって、いい。言うこと聞いて、都合よく使われて、それで貰う立場なんか、居場所じゃない」

「──貴女が言うの!? 一(・)番(・)最(・)後(・)に(・)生(・)ま(・)れ(・)て(・)き(・)て(・)、C(・)R(・)Y(・)C(・)H(・)I(・)C(・)に(・)入(・)れ(・)て(・)も(・)ら(・)っ(・)て(・)居(・)場(・)所(・)を(・)得(・)た(・)貴女が!」

 

 モーティスは──一番最初に母の恐れから生まれ、Ave Mujicaによって『若葉睦(モーティス)』になった『若葉睦(■■■■■■)』は、ギターとの出会いで生まれた末妹(じぶん)の妄言に絶叫した。

 

「都合よく祥子ちゃんにありのままで赦されて、都合よく優しい人達に囲まれて、そのくせ壊れていくCRYCHICを繋ぎ止めることもまともにできなかった貴女が──居場所を守るために仮面一つ被れなかった貴女が、そんなことを言うの!?」

「つッ……」

 

 平手打ちをした。その刃物を振り下ろせば決着がついたものを、モーティスは衝動的に動いていた。

 睦の腹を蹴る。頭を踏み付ける。己の心を痛めつける。

 

「人間になるための人格(わたし)のクセに人の役に立てない貴女が、よりによって!」

「ぐっ、ごほっ……」

「何とか言いなよ、居場所が欲しくて頑張ってた私から、ぽっと出で横から全部掠め取った睦ちゃん! 温かい場所を、優しい場所を、楽しいと思ったことないなんて嘘で叩き壊した睦ちゃん! 私の────」

 

 モーティスの背中に回されていたギターがノイズに変わる。ギターだけではない。マスクも衣装もベレー帽も、彼女を飾り立てる全てが黒く塗り潰されてゆく。

 モーティスは──その手足の末端すら、ノイズとなって崩れかけていた。

 

「私の欲しいもの全部持ってて、なのに全部、全部ぜんぶぜんぶ失くした、役立たずの睦ちゃん! なんとか言ってよ、ねえ!」

 

 睦は。

 CRYCHICの終末に、酷い暴言を吐いたことを悔いていた。

 祥子がバンドを離れざるを得ないと知り、全てを自分の責任としようとする彼女へ向かう憎しみを少しでも肩代わりしようと発した言葉であった。

 

『……バンド、楽しいと思ったこと、ない』

 

 それは、呪いになってしまった。

 事情によって壊れるのなら仕方のないことであったのだ。それを、自らの言葉によって欺瞞に満ちたものへすり替えてしまった。

 CRYCHICでの、唯一の演技であった。

 同胞の少女達が睦を認識できるのは何のことはない。『口下手で不器用な若葉睦』と『演技の天才』が結びつかないからであった。

 最悪の、逃げの一手であった。

 向き合わねばならなかったのだ。幼馴染の窮状に対して何もできない無力さに。それでも居場所を壊したくないという思いに。

 そう在れない弱さが今の睦を作っていた。

 重い後悔であった。

 

「……演技は……お話のなかで、するもの」

「……」

「私は……若葉睦。今、何の脚本にも従ってない、この心は、若葉睦。そうでなゃ、ダメ」

「……若葉睦が求められなかったら? 若葉睦じゃどうにも出来ないなら? みなみちゃんは私を怖がったでしょ? 皆は『森みなみの娘』を求めたでしょ? ……CRYCHICは、睦ちゃんじゃダメだったんでしょ?」

「それでも……お人形じゃなくて、生きてるから。私は、私として頑張らなきゃいけなかった」

 

 睦は震える手で身を起こし、ギターを構え──止めた。速いパッセージは弾けそうにない、どころかコードを押さえることすら難しいだろう。今、これは武器にならない。

 ──否。

 ずっと、武器ではなかった。

 ただの好きなものであった。

 

「居場所は、誰かと一緒に作るもの、らしいから」

「……睦ちゃん」

「……」

「私は……私は、どうすればよかったの。何に、なれば、いいの」

「……わかんない、けど……」

 

 モーティスが頽れた。無傷であった筈なのに全身が黒く解れて消えゆこうとしていた。

 ここは、心の中の劇場である。イマジナリーフレンドと己が実体の交差するヘッドルームである。

 

「モーティス──Ave Mujicaが、仮面の下を暴かれたとき」

「……何。いつも通り流したよ。皆の、求めるまま」

「本当は、演じなくてもよかった。それこそ、私を表に出して、弱ったところを乗っ取ればよかった。なのに、そうしなかった」

「……それが、何よ」

 

 恐ろしい怪物の筈であった。現実を書き換え世界を侵食する悍ましき幻想の筈であった。

 力無く凭れ掛かる──互いに寄り掛かり合う、華奢な矮躯。

 か弱い少女であった。

 

「────ありがとう。助けてくれて」

 

 気づけば、そこはただの舞台であった。小道具は無く、背景は片付けられ、モーティスは──睦と同じ、月ノ森の制服であった。

 少し背伸びした赤いベレー帽だけが違いであった。怪物的な異容も超常的な力も見る影もない、鏡の中に見慣れた姿。同じ身体であるはずなのに、相手の方が体温の高いように感じる。

 

「……あーあ」

 

 呟いた。

 ふてくされたように──どこか、戯けたように。

 

「私、安いオンナじゃないのになぁ」

 

 睦の背に腕が回される。

 恐るべき死は最早遠く。

 孤独の恐怖を飲み下して、二人の『若葉睦』は固く、重ならんばかりに抱き締め合っていた。

 

 

 

 

 

「おたえ、バイトいこ!」

「うん」

 

 演技の才とはつまるところ、異なる世界を視て溶け込む才である。耳目を引き我は此処にありと全身体で主張し、自らの内に広げた世界を観るものの目に押し付ける才である。己を違う己に、世界を違う世界に書き換える才である。在らざるものを在り得らせる才である。

 

「おたえは今日リペアの方だっけ?」

「うん。色んな人のギター道を見れるから楽しいよ」

「ぎ、ギター道……?」

 

 或いは、己を見つめ直す才である。

 他者の姿を取ることは己の姿を俯瞰することである。

 他者の人生を通し己の人生を理解する才である。

 

「香澄は今日ギター教室の方なんでしょ? どう?」

「すっごい楽しみ! 初心者の頃に困ったこととか、楽しかったこととか! 全部教えてあげられたらいいなー」

「香澄、いろんなこと試したもんね。良い先生になるよ」

「えへへ〜そうかな──あっ!」

 

 校門までやってきた二人は人影を見つけた。

 上品な紺色のセーラー服に身を包んだ、繊細なビスクドールの少女。色素は春を迎えた若芽のように淡く、長い髪は風を食んでさらめいている。無骨なギターケースの不釣合、西日に睫毛の翳ることすら美しい、幽玄な容貌だった。

 

「睦ちゃーん!」

 

 手を振って近づいていく。待ち人──若葉睦は有名人であった。気鋭のガールズバンド・Ave Mujicaのギタリストであり、人形の如き容姿と演技の才で人気を博す少女であり──

 

「ほんとにお人形さんみたい……あ、あの、写真いいですか?」

「は、はい……どうぞ」

「ありがとうございます!」

「…………ピースとか、しますか」

「あっ可愛い! そ、それで! そのままで!」

 

 ──このところは不器用なファンサービスと、と(・)あ(・)る(・)パ(・)フ(・)ォ(・)ー(・)マ(・)ン(・)ス(・)が評判であった。

 ぷるぷると震えながらぎこちなく写真を取った睦は、耐えかねたように鞄から赤いベレー帽を取り出して被った──途端、表情が変わる。

 

「はーいはい、待ってる人来たんでそろそろね! もう一枚なら撮れますけどどうします? ポーズ何がいい?」

「いいんですか? じゃ、じゃあ」

「おぉー……二重人格!」

 

 最終的に。

 全ての『若葉睦』は無事、劇の終幕と共に消滅した。しかし取り分け強い影響力を持っていたモーティスだけはAve Mujicaのステージネームでもあることから消え去りはせず、人格のみを睦の中に残すこととなった。

 

「それじゃあねー! ……お待たせしました」

「ううん、お疲れ様睦ちゃん!」

「いえ。……あの、疲れて、なくて。レッスン、楽しみです」

「……うぅーん可愛いなぁ睦ちゃん! ありがと! 好き!」

「んぎゅぅ……はーまったくもー、お触り禁止でーす」

「あ、ごめんねモーティスちゃん」

 

 肉体が統合されてからはCRYCHICの面々との和解やAve Mujicaのメンバーとの改めての自己紹介を経て、何くれと生意気な物言いをするが根の優しい少女として受け入れられている──しかし。

 

「睦ちゃんもしっかりしてよね! 私(・)は(・)そ(・)の(・)う(・)ち(・)消(・)え(・)ち(・)ゃ(・)う(・)ん(・)だ(・)か(・)ら(・)。いつまでも頼んないでね! ……うん」

「さ、寂しそう!」

「寂しい……──ぐ、そ、そんな顔したってしょうがないでしょもう!」

 

 肉体が一つに人格が二つ──所謂二重人格者の宿命として、将来的には統合されると見込まれていた。

 消滅ではなく融合である。だが、別れは別れであった。

 

「汝、死を恐れることなかれ! でしょ? ……うん……ほら! それより今日はレッスンでしょうが!」

「あはは……ごめんねモーティスちゃん」

「香澄センパイも気にしないでいいの! それよりほら、今日は何やるの?」

 

 強引な話題変更に香澄もたえも苦笑いした。睦のレッスンなのに一番気にしているモーティスはお節介な姉であった。

 

「今日はね、例題にポピパの曲いっぱい持ってきたんだー。送ったやつ聴いてくれた?」

「……はい。全部」

「えっ、やったー! ありがとう! 今日はねえ、『キズナミュージック♪』をやろうと思ってて──」

 

 賑やかな会話は続く。

 睦は、目の前の先輩達のことをよく知ろうと思っていた。

 Poppin'Partyというバンドを組んでいること。香澄がギターボーカルでたえがリードギターであること。香澄の抱き締めてくれる温度が温かいこと。たえの頭を撫でる手が優しいこと。

 他者に興味を抱いてこなかった。それは、世界に背を向けることと道義であった────だから。

 

 ねえ、睦ちゃん。

 勇気出してみなよ。

 

「……あの、お二人、とも」

「うん? なあにー?」

「どうかした? 睦」

 

 振り向く二人に、睦は。

 聴かせてもらった曲たちを思い出しながら、精一杯、目を見て言った。

 

「曲の、思い出……聴かせてほしいです」

 

 先輩達は目を見開いて、顔を合わせて。

 

「──いいよ! あのねあのね、どれからがいいかなぁ」

「やっぱり『STAR BEAT!』とか、『走り始めたばかりのキミに』とか──」

 

 勢い良く、それでいて嬉しそうに話してくれる先輩達に押されながらも、睦はおずおずと話を聞き続けた。ときにAve MujicaやかつてのCRYCHICのことを尋ねられては、はにかんで答えた。

 それを──かつて、同級生と放課後に遊びたかった『若葉睦』が、母と他愛ない話をしたかった『若葉睦』が、人見知りの末妹が心配な長女の『若葉睦』が、心の中から見つめていた。

 イマジナリーフレンド達は肉体を失い、一つの器に統合された。多重人格はいずれ融合し消える宿命である。

 しかし、今は。

 

 若葉睦(わかばむつみ)は────まだ、偏在している。

 

 

 

 了

 

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