機動戦士ガンダムF91 パン屋の俺が宇宙海賊になって、最推しのヒロインを処刑台から奪い去る話 作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
「……お兄ちゃん。そんなに強く握ったら、チケットがぐしゃぐしゃになっちゃうよ」
Reece Arno(リズ・アノー)の、どこか不安げな声で我に返った。宇宙世紀0123年8月。僕たちは、月面都市Von Braun(フォン・ブラウン)へと向かう定期シャトルの中にいた。手の中にあるのは、Strategic Naval Institute(サナリィ)から届いた新型MSお披露目式の招待状。けれど、僕がさっきから握りしめているのは、それと一緒に同封されていた、母、Monica Arno(モニカ・アノー)からの「本音」が綴られた暗号通信のメモだ。
「……悪い。少し、考えごとをしてただけだよ」
僕は無理に口角を上げて笑ってみせた。隣のシートでは、Cecily Fairchild(セシリー・フェアチャイルド)が静かに眠っている。淡いブルーのワンピースに身を包んだ彼女の寝顔は、戦場の硝煙を忘れさせるほどに穏やかだ。けれど、このシャトルが月の重力圏に入った瞬間、僕たちの日常は音を立てて崩れ去る予感があった。
宇宙世紀0123年8月。歴史の歯車は、僕たちがフロンティア4でパンを焼いている間も残酷に回り続けていた。地球連邦軍の再編と、Cosmo Babylonia(コスモ・バビロニア)の内部抗争。その火種が、今、月面という巨大な火薬庫に集まろうとしている。
フォン・ブラウンの宇宙港に降り立った僕たちを待っていたのは、母さんの迎えではなかった。
「——シーブック・アノー。そして、ベラ・ロナ様」
冷徹な声とともに現れたのは、連邦軍の制服を着た、けれどその瞳に狂信的な光を宿した男たち。セシリーが弾かれたように目を覚ます。
「……あなたたちは? 私は、セシリー・フェアチャイルドです。その名で呼ぶのはやめて」
「そうはいきません。Buch Junk Inc.(ブッホ・ジャンク社)の最高幹部たちが、あなたをお待ちです。コスモ・バビロニアの象徴は、このような場所で腐らせるには惜しすぎる」
男たちの背後から、漆黒の塗装を施されたXM-05(ベルガ・ギロス)が現れた。
ベルガ・ギロスは、出力3660kW、推力合計84440kgを誇る指揮官用高機動MSだ。背部のシェルフ・ノズルによる旋回性能は、この港湾部のような狭隘な空間でこそ真価を発揮する。連邦はサナリィの式典を隠れ蓑にして、最初からセシリーを——Berah Rona(ベラ・ロナ)を連れ戻す手引きをしていたんだ。
「——逃げて、セシリー! リズ!」
僕はセシリーの手を掴んで走り出した。背後で響くリズの悲鳴。逃げ込んだのは、サナリィの極秘ハンガー。そこには、母さんが言っていた「新しいおもちゃ」が鎮座していた。
Gundam F91(ガンダムF91)・量産先行試作型。
あの時、僕を光へと導いた白い翼の、さらに洗練された姿。全高15.2m、出力4890kW。MCA(マルチ・カセット・アクチュエーター)によって極限まで無駄を削ぎ落としたそのシルエットは、僕を再び死と殺戮の世界へ引き戻す底なしの沼に見えた。
「……シーブック! 行って!」
セシリーが僕の背中を押した。彼女の瞳には決意の光が宿っていた。
「私が残れば、彼らは追ってこない。私は、ベラ・ロナとして時間を稼ぐわ。だからあなたは、その機体でリズを連れて、月を離れて。……そして、死ぬの」
「……何を、言ってるんだ、セシリー!」
「シーブック・アノーは、この港の爆発で死んだことにする。そうしなければ、彼らは一生あなたを追い続ける。あなたは自由になって。そして、いつか私を、本当の暗闇から救い出しにきて」
セシリーの唇が、僕の耳元で微かに触れた。それは、どんなBio-Computer(バイオ・コンピュータ)のノイズよりも鮮明に、僕の脳細胞に覚悟を焼き付けた。爆発音がハンガーを揺らす。母さんから託された言葉が脳裏をよぎる。
『シーブック、技術は嘘をつかないわ。でも、人は嘘をつくことでしか生きられない時がある。あんたが本当の愛を守りたいなら、あんた自身を捨てなさい』
僕はリズを無理やりコクピットに押し込み、F91のハッチを閉めた。起動するバイオ・コンピュータ。視界を埋め尽くす青い光。けれど、そこに映し出された僕の顔は、もうパン屋を手伝う学生の顔ではなかった。
「……わかったよ、セシリー。僕は、死ぬ。今日、この場所で、シーブック・アノーという少年は、宇宙の塵になる」
僕の手が、冷たいレバーを握りしめる。加速するGの中で、僕は自分自身に新しい名前を刻みつけた。
Kinkedo Now(キンケドゥ・ナウ)。
それが、僕が愛を守るために自分自身にかけた呪いであり、唯一の希望だ。
さらば、フロンティア4。さらば、セシリー・フェアチャイルド。僕は今、暗黒の宇宙へと、白い残像を残して飛び立つ。