機動戦士ガンダムF91 パン屋の俺が宇宙海賊になって、最推しのヒロインを処刑台から奪い去る話 作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
「……本当に、いいんだな? シーブック」
公式記録 U.C.0133年、初夏。Mother Vanguard(マザー・バンガード)の甲板に立つ僕に、誰かがそう問いかけたような気がした。だが、振り返ってもそこには誰もいない。ただ、かつてCrossbone Vanguard(クロスボーン・バンガード)の象徴であった優美な艦体が、役目を終えた安堵感に包まれているように見えただけだった。
僕、Kinkedo Now(キンケドゥ・ナウ)――いや、Seabook Arno(シーブック・アノー)の手には、今はもう操縦桿(コントロール・スティック)はない。あるのは、長年使い古した航海日誌と、大切に抱えてきたパンのレシピが書かれたノートだけだ。
「ああ。……いや、はい。もう決めたんです」
僕は虚空に向かって頷いた。木星総統Crux Dogatie(クラックス・ドゥガチ)の野望を打ち砕き、Zabine Chareux(ザビーネ・シャル)との宿命に決着をつけた今、僕の中に残っているのは、戦士としての高揚感ではなく、ひどく穏やかな空腹感だった。
「お兄ちゃん、準備できたよ」
声をかけてきたのは、Reece Arno(リズ・アノー)だ。彼女はメカニックとしてのツナギを脱ぎ、年相応の少女らしい格好をしている。その手には、母Monica Arno(モニカ・アノー)から譲り受けたという、Bio-Computer(バイオ・コンピュータ)の予備チップではなく、小さな旅行カバンが握られていた。
「母さんは、月へ戻るって。……最後、笑ってたよ。『あなたの焼いたパン、いつかSNRI(サナリィ)の食堂に卸してちょうだい』なんて冗談まで言って」
リズの言葉に、僕は苦笑した。母モニカとの間にあった、あの冷たく鋭い回路は、ようやく家族としての温かな記憶へと書き換えられたのかもしれない。
「……セシリーは?」
「先に行ってるわよ。私たちの、新しい『拠点』にね」
リズが指差した先、シャトルの中には、かつてBerah Rona(ベラ・ロナ)と呼ばれた少女――Cecily Fairchild(セシリー・フェアチャイルド)が待っているはずだ。彼女は一足先に、海辺の街にある古い空き家を、パン屋として再生させるための準備に向かっていた。
僕は最後にもう一度だけ、宇宙を見上げた。かつて質量を持った残像として駆け抜けた、あの漆黒の闇。多くの仲間が散り、多くの魂が加速していった場所。
「さよなら、キンケドゥ・ナウ」
僕は心の中で、10年間守り続けてきた偽名を捨てた。
F97のバイオ・コンピュータが提示した「戦闘」という最適解を拒絶し、僕は僕自身の意思で、不確かな、けれど温かい日常という名の回路を選んだんだ。
「行こう、リズ。みんなが待ってる」
潮風が、僕の頬を撫でる。まだ見ぬ海辺の街には、きっと素晴らしい小麦粉と、穏やかな朝が待っているはずだ。
宇宙世紀0133年。戦士としての幕を引き、一人の職人としてのプレリュードが始まる。
次にオーブンを開ける時、そこに広がるのは戦火の匂いではなく、誰かを笑顔にするための、香ばしいパンの香りなのだから。