機動戦士ガンダムF91 パン屋の俺が宇宙海賊になって、最推しのヒロインを処刑台から奪い去る話   作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった

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潮風のキッチン、あるいは安息のレシピ

「……お兄ちゃん。あ、もうキンケドゥじゃないんだから、普通に呼んでもいいんだよね?」

 

Reece Arno(リズ・アノー)の、少しだけからかうような声が店内に響く。宇宙世紀0133年、秋。僕たちがたどり着いたのは、地球の片隅にある、どこまでも空が広くて、潮の香りが微かに混じった風が吹き抜ける、名もなき海辺の街だった。

 

公式記録 U.C.0133年。木星戦役という名の地獄を生き延びた僕——Seabook Arno(シーブック・アノー)は、今、軍服でもパイロットスーツでもなく、粉のついた白いエプロンを身に纏っている。

 

「ああ。変な感じだよな。10年間も、自分じゃない誰かの名前で呼ばれ続けてきたから」

 

僕は、予熱の終わった大きなオーブンの扉を開けた。中から溢れ出したのは、香ばしくて、甘くて、胸の奥が熱くなるような、あのパンの匂いだ。それは、Frontier Ⅳ(フロンティア4)の崩壊とともに一度は失われ、戦場という名の暗黒の中で何度も夢に見た、僕にとっての真の聖域の香りだった。

 

「——お待たせしました、シーブック君。焼きたてのクロワッサン、表の棚に並べておいたわよ」

 

店の奥から、トレイを抱えて現れた少女——Cecily Fairchild(セシリー・フェアチャイルド)。彼女もまた、Berah Rona(ベラ・ロナ)という銀河を揺るがした重い名を脱ぎ捨て、今は僕の隣で笑っている。髪を後ろでラフにまとめ、少しだけ頬に小麦粉をつけた彼女の姿を見た瞬間、僕の鼓動はかつての加速Gにも負けないほど高鳴った。僕が最強のモビルスーツを捨ててまで手に入れたかったのは、この穏やかな光景だったんだ。

 

「……どうしたの? 私の顔に、何か付いてる?」

セシリーが首を傾げる。

「いや……なんでもない。ただ、平和だなって思って」

 

僕は照れ隠しに、新しい生地を捏ね始めた。公式設定において、Kinkedo Now(キンケドゥ・ナウ)は戦死し、ベラ・ロナは行方不明。今の僕たちは、この街の人たちにとっては、ただの若い夫婦と働き者の妹でしかない。

 

木星総統Crux Dogatie(クラックス・ドゥガチ)が執着した地球の重力も、Zabine Chareux(ザビーネ・シャル)が求めた貴族の誇りも、ここには届かない。

 

「ねえ、シーブック君。さっき、リズちゃんから聞いたんだけど。今度、サナリィに勤めているモニカさんから、月の珍しいジャムが届くんですって?」

「ああ。母さん、相変わらず仕事人間だけど……最近は、こういう贈り物を送ってくるくらいには、人間味が出てきたみたいだ」

 

母、Monica Arno(モニカ・アノー)。かつて僕を機械のパーツとしてしか見ていなかった彼女も、今ではパン屋の息子に月面の特産品を送る、一人の母親になろうとしている。

 

「——よし! 今日は開店1周年だし、特製サンドイッチをリズに作ってやるか」

「やった! お兄ちゃん大好き! ……あ、でも、セシリーさんの分は、お兄ちゃんが直接食べさせてあげたりするのかなー?」

 

リズの冷やかしに、セシリーが顔を真っ赤にする。僕も苦笑いしながら、レタスを洗う手を早めた。こんな騒がしくて、恥ずかしくて、なんてことのないやり取り。これを退屈と呼ぶ人がいるかもしれない。でも、僕にとっては、これこそが宇宙で一番守る価値のある場所なんだ。

 

窓の外には、穏やかな海が広がっている。かつて質量を持った残像として宇宙を駆け抜けた僕は、今、この地面にしっかりと足をつけて生きている。Bio-Computer(バイオ・コンピュータ)の演算に邪魔されることなく、自分の心臓の音を聞き、大切な人の呼吸を感じる。

 

宇宙世紀0133年。パンを焼く。ただそれだけのことが、こんなにも誇らしくて、美しい。僕はもう、空を見上げても怯えることはない。この手の温もりこそが、僕が選んだ真実なのだから。

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